ジャケット写真は笠井紀美子氏がモデル。篠山紀信氏が撮影したもので、歌詞カードのページと合わせると、彼女の6ポーズだ。
しかし、見え方によっては「ZUZU」アルバムとも捉えられるようだ。全曲、安井かずみ氏の作詞によるアルバムだ。
確認を進めると、結構手が込んでいることが分かる。
レコードでの音楽聴取をこのLP【TOKYO SPECIAL】で確認することになったのは偶然だ。しかし、このレコードでの確認で、今の音楽の楽しみ方とは違っていたことを思い出すことができた。
それは、音楽を聴くときはもっと真剣だったという事だ。少なくとも、何かをしながら音楽を聴くということではなかった。
僅かな振動でも音がぶれるという不安定さとかかわっていたと思う。レコードの埃や静電気に気を配り、わずかな振動にも細心の注意を払って聴く必要があったのだ。
それとかかわることだが、今聴こえてくる音が最善の音なのかどうかを常にチェックしていたということもある。
音楽を聴くというのは受動的な行為ではなく、能動的な行為だったという事だったということだ。これが、音楽の楽しみ方ともかかわってくる。
よい音で聴こうとすればそれなりに良い音になって聴こえてくるようになるし、手を抜いて聴けばそれなりの音になるという事だ。これがレコード聴取の面白さだったということだ。
機器に凝る事でよい音で聴こうとする方法もある。しかし、自分には経済的に無理。それで、自分に似合うのは、耳を澄ませて製作者の思いまで丸ごと受けとめようとする態度で音楽を聴くということなのだと思っていたのだ。
このことはCDを聴くようになって忘れてしまっていたように思う。
レコードとCDの音を比べて、レコードの方が深みのあるよい音だったという評価を聞くことがある。しかし、自分の手持ちの安物のレコードプレーヤーとCDの音ではそうはならない。CDの方がよい音に聞こえる。しかも、CDの聴取は、ターンテーブルに比べたら振動への気遣いもそれ程苦にならない。だから、何かをしながら音楽を聴くということができるようになったともいえる。
それに甘んじていたということだ。
気軽に音楽を聴くことができるようになったということだが、その事で失ったものもあったようなのだ。それが、能動的に音楽を聴くという楽しみ方だ。結果として、制作者の思い入れを見逃しているということだ。
今回のLP【TOKYO SPECIAL】の聴取で、その事を思い出した。
前回確認したように、そのプロデューサーがRichard Rudolph氏のようだ。
この方と結婚することになるようだが、この方は、元「Lovin You」のMinnie Riperton 氏の夫であり、この曲の共作者だったということのようだ。
その関係で、1979年に他界したMinnie Ripertonの「Lovin You」を確認しておく。
この曲は全米No.1ヒットとなった曲で、彼女の作品の中でも最も広く知られている作品だという。
自分は知らないと思っていたのだが、実際に確認してみると何処かで聴いているらしいことが分かる。そのことが記憶にないだけのようだ。
日本でも多くの方がカバーしているらしいので、その関係かもしれない。
あらためて確認し直す。
まず、途中のかなり高い音域の歌声が耳に残るが、これが彼女の5オクターヴ半の音域を披露した作品との解説と結びつくことなのだろうと思う。
次に耳に残るのが、イントロから聞こえる小鳥のさえずりだ。
これは、マイアミの自宅でこの曲を作っている時に、この曲を聞かせると子供がすやすやと寝ると、子守唄としてもこの曲をテープに録音したのだそうだ。その時に、窓の外の小鳥の声も入っていたのだという。
そのテープを聞いたプロデューサーが、この窓の外の小鳥の声が大変気に入り、これもレコードに入れたいと思ったのだそうだ。
公園で、Minnie氏が歌い始めると囀りだした小鳥の声を、プロデューサーが自ら持参したテープレコーダーに録音して使った効果音なそうだ。
更に、この曲が当時1歳だったマーヤ・ルドルフと兄のマークのために作った子守唄てもあるという事とのかかわりで、LPヴァージョンでは、「マーヤ、マーヤ」と歌っているとの情報を元に聴いてみると、これも確認できた。
この曲のリリースが1974年だが、Minnie Ripertonはその2年後の76年に乳癌を手術する。そして、78年に再発してしまい、他への転移などによって1979年に31歳という若さで亡くなったのだそうだ。
ここに、前回整理の笠井氏とRichard Rudolph氏とのかかわりを加える。
1982年に、Richard Rudolph氏が「KIMIKO」のプロデュースをする。
1990年に、笠井氏がRichardと再婚し、サンタモニカで暮らしている。
笠井紀美子氏についても確認しておきたい。
「レイトショー・ナイト 笠井紀美子 (1991)」の字幕で、彼女は、次のように紹介される。
「京都出身、1964年ジャズクラブを中心に活動を始め、1976年に「フォールインラブ」をヒットさせる。その後アメリカに本拠地を移したジャズフュージョンブォーカルの第一人者である」
この「TOKYO SPECIAL」のアルバムリリースが1977年なので、この前年に「フォールインラブ」をヒットさせているということだ。しかし、それを意識してこのレコードを購入したという記憶はない。
とりあえず「Kimiko Kasai - We Can Fall In Love」を確認する。
日清食品のカップヌードルの初代CMソングを彼女が歌っているという情報にも出会った。
確認すると、1971年の「カップヌードル ハッピーじゃないか」というコマーシャルソングのようだ。作詞 阿久悠氏 作曲・編曲 小林亜星氏 歌 笠井紀美子氏& デューク・エイセスで、これが最初のカップヌードルCMとのことだが、記憶と結びつかない。考えてみたら、この時代、自分はテレビを見ていなかったということを思い出した。
紹介の中に「その後アメリカに本拠地を移した」とあるのだが、インタビュー記事などと照らし合わせると、移り住んだのは1978年のようなので、このアルバムのリリースの翌年ということのようだ。
彼女が最も輝きを放っていたのは、このアメリカ生活時代のようだ。
インタビュー記事等では、この時代に出会った演奏家の大御所について語っているが、82年リリースの「KIMIKO」のプロデューサーであるRichard Rudolph氏については語っていない。
この方が、その後結婚して夫になる方のようだ。この方は、Minnie Riperton 氏の 「Lovin You」 の共作者であり、そのミニー・リパートン氏が若くして亡くなるまで夫であった方でもあるのだとか。こちらも有名らしいし興味深いのだが知らない。
次回にMinnie Riperton 氏の「Lovin You」の確認もしておきたい。
なお、笠井紀美子氏は、現在は音楽から身を引いてジュエリー・デザイナーをしていらっしゃるとのことだ。
19770代の後半に、YMOの一員としても有名だという細野晴臣氏が海外の女性アーティストをプロデュースしてデビューさせようという計画したという。この時にアメリカのオーディションで選ばれた女性アーティスト がLINDA CARRIERE(リンダ・キャリエール) なのだとか。
このデビューにあたって、細野氏が4曲、吉田達郎氏が2曲、吉田美奈子氏が2曲、佐藤博氏・矢野顕子氏が1曲ずつ楽曲を提供したのだそうだ。そして、その作詞については全曲ともニューヨーク・タイムスの記者であるJAMES RAGAN が担当したのだという。
この時の演奏memberの情報をいろいろ確認して重ねてみると、以下のような豪華なメンバーが浮かび上がるようだ。
pianoが坂本隆一氏、drumsが林立夫氏、bassが細野晴臣氏、keyboardsが佐藤博氏、guitar、percussion、Solina Vibeが山下達郎氏、saxが村岡健氏、guitarが鈴木茂氏、dramsが村上秀一氏、bassが高水健二氏、guitarがこのアルバムのColgenBand memberでもある松木恒秀氏、Percussionもこのアルバムのmemberの一人浜口茂外氏、chorusが山下達郎&吉田美奈子氏。
そして、曲提供の一人として、今回整理している「Laid Back Mad or Mellow」の矢野顕子氏がかかわっているという事。
ところが、1977年にこの企画自体がボツになり、リンダさんのデビュー取りやめになるとともに、楽曲もお蔵入りとなってしまったのだとか。
そのお蔵入りになったLINDA CARRIERE(リンダ・キャリエール)氏が歌う両方の曲とも、確認することができる。
そのお蔵入りになった事情についてだが、専門家と称する方々やかかわった方々がいろいろと説明する情報を見る。ただ、素人目には、よい企画と売れる企画は別物と見た方が分かりやすい。
日本のいろいろな分野の優れた楽曲を翻訳に長けたアメリカの方が作詞し、それに合う歌い手を発掘して製作されたものが、当時の英語圏の中でスムーズに受け入れられるものかどうかということでの挫折ではなかったかと思うが、どうだろうか。
このアルバムの最初の「バイブレーション(love celebration)」と、最後の「待っててティク・ミー(Laid Back Mad or Mellow)」は、その時の優れた楽曲ということでの採用なのだろうと思う。
この見え方で出来事を眺めてみると、優れた企画楽曲であるのに日本で受け入れがたいハードルとなるのは全曲が英語翻訳ということになる。それで、このアルバムは、全曲が安井かずみ氏による日本語の作詞でないのかなという素人の見え方はどうだろうか。
なお、矢野顕子氏はこの曲を「ト・キ・メ・キ」に「TWO ON THE STAGE」として収録しているようで、これも確認できる。
英語にも疎いので題も確認しておく。
Laid Backは、直訳では「後ろによりかかった」という意らしいが、くつろぎに近い意味でカジュアルな表現として使われるらしい。
Mad or Mellowの意とあわせると、その姿勢でいるのは、怒っているの、それとも、リラックスしているのという位の直訳の意だろうか。
確認を進めていくと、それまでの聴取は制作者側の思い入れを感受していなかったことが分かる。
特にB面についてはその傾向が顕著だ。
さて、そのB面の三番目の曲を確認する。
この(B―3)「ティク・ミー」の曲も、鈴木宏昌氏が率いるColgen Bandが演奏している。
氏はこのアルバム全体の編曲者であり、全曲Colgen Bandが演奏を担当しているのだから、当然といえば当然なのだが、見方によっては特別のようにも見える。
というのは、この曲は鈴木宏昌氏の作曲なのだ。
自らの曲を自らが率いるBandで演奏し、笠井紀美子氏がボーカルで参加しているというふうに捉えて聴くこともできると思うのだ。
他の曲の演奏は、このアルバムの笠井紀美子氏の歌を支えるための演奏だが、ここでは鈴木宏昌氏率いるColgen Bandが主役になっているという捉え方だ。
そうすると、Colgen Band演奏の中のボーカルを聴くという聴き方になる。
鈴木宏昌氏率いるColgen Bandのmemberを確認する。
Keyboard : 鈴木宏昌
Guitar : 松木恒秀
Bass : 岡沢章
Dram : 市原康
Tenor&sopranosax: 山口真文
Parcussions: 穴井忠臣
この後、Bandは、The・Playersになるようだが、そのmemberを確認すると、Dram市原康氏が渡嘉敷 雄一氏に代わるだけで、大きく変化はなさそうだ。
あえてその大きな違いを探すと、Colgen Bandが吉田美奈子・山下達郎・坂本龍一・日野皓正・渡辺貞夫らのサポートであるback・bandであるのに対して、The・Playersはインスト(install mental band)であるという事らしいのだ。
この曲は、そのThe・Playersを聴くという聴き方で聴いてもよさそうに思うが、どうだろうか。
なお、ここで岡沢章氏のBassがよく分からないので確認したら、エレキベースギターのバリエーションの一つである5弦baseを使用しているという事らしい。
そのSequoia ForestのSequoiaはセコイアという高さ100mにもなる大高木のようだ。そして、Forestが、鳥獣が住む自然界の広い森を意味するようだ。つまり、人工的な林ではなく自然林ということで、原生林を意味するらしい。
確認してみて分かった事だが、アメリカに詳しければ、セコイアは西海岸の海岸山脈に自生し、そういった森は公園になっていることは常識らしい。その中の一つ、世界で一番大きな木があるという「セコイア国立公園」の旅行記を眺めて、その雰囲気を想像した。
その上で、またもや中村照夫氏の以下の演奏情報を介して、森士郎氏のSequoia Forestという曲を確認する。
「Teruo Nakamura Quartet :"Sequoia Forrest(Original Number)"」
丸の内でのライブで、森士郎氏の作曲で中村照夫とThe Rising Sun Bandのオリジナルナンバーと解説される。森士郎氏もguitar奏者として参加しているようだ。
前曲同様、安井かずみ氏(けめこさん)が作詞することにともない、これを「木もれ陽」としたのだろうと推測できる。
この確認後は、このSequoia Forestのイメージも重ねて「木もれ陽」を聴いているが、それまでは単に「木もれ陽」ということからのイメージだけで聴いていたわけだ。
しかし、安井氏をはじめこの曲にかかわっている制作側の方々は、このSequoia Forestは常識としていらっしゃるはずだ。その意味で、この曲に少しは近づけたという事かなと思う。
なお、森士郎氏の経歴で、鈴木良雄氏ともかかわりあったことが記されていたが、その鈴木氏との以下の演奏活動も確認できた。
「Blues For Edith from "VA DA DU?" by Yoshio "Chin" Suzuki & Shiro Mori」
鈴木良雄氏bass、森士郎氏guitarのミルト・ジャクソンとの事。
A面の5曲のから続いて6曲目の曲とみれば、真ん中ということになるのかな。その見え方だと、この2曲前に日野皓正氏のtrumpetをspecial guest soloistに向かえ、1曲挟んで再び日野皓正氏の演奏になるということでもある。
A面のスタートを「バイブレーション(love celebration)」でスタートし、B面の最初をこの「TOKYO SPECIAL」で飾るという見え方もできそうだが、その真意は分からない。
この作曲者は森士郎氏とあるが、この曲を「TOKYO SPECIAL」として探すと、このアルバムの情報しか確認できない。一度「MANHATTAN SPECIAL」と置き換えて探ることで、その関連性が見えてくる。
森士郎氏のホームぺージで、その経歴を探ると、次のような紹介になっている。
19歳でアメリカに渡り、ボストンのバークリー音楽大学を卒業。その後、1975年から1979年にかけて中村照夫&ザ・ライジングサンにギタリスト・作曲家として参加する。「RISING SUN」「MANHATTAN SPECIAL」の2枚のアルバムを発表しニューヨークでプロとして活躍を開始する」とある。
ここにある「MANHATTAN SPECIAL」が、「TOKYO SPECIAL」なのだろうと思う。
氏が所属していたというTeruo Nakamura Rising Sun Bandの「Manhattan Special(1978)」が確認できる。それを聴くと、この曲で間違いないことが分かる。
安井かずみ氏(けめこさん)が作詞することにともない「TOKYO SPECIAL」としたのだろうと推測できる。
MANHATTANという都会的なイメージのモダンさの雰囲気を、TOKYOに置き換えるという和訳なのだろうと思うが、どうだろうか。
ここでは、森士郎氏はギタリスト・作曲家として紹介されているが、「70年代熱い時代にボストン・バークリーにいた方」が紹介される映像ではpianistとしての演奏活動が確認できる。
次の(A―4)「ベリー・スペシャル・モーメント」の曲にかかわる情報を確認する。
作曲者の横倉裕氏は、次の(A―5)「ひとはそれぞれ」の作曲者でもある。この方の情報を確認すると、元novoのリーダーで、キーボーディスト・琴奏者・コンポーザー・アレンジャー・プロデューサー等々の肩書がみられる。その経歴と見比べると、この時点ではまだ駆け出しのような気がするが、どうだろうか。
この曲とのかかわりで確認しておきたいと思ったのは、この曲のspecial guest soloistであるtrumpetの日野皓正氏だ。
このアルバム【TOKYO SPECIAL(笠井紀美子)】の演奏は、このレコードのアレンジャーである鈴木宏昌氏が率いるcolgen bandが担当している。そのかかわりで、「今夜は最高」のテレビ番組について確認していた。その中に、高橋洋子氏と日野皓正氏が1982/11/27にguest出演しているものが確認できた。なお、この時に鈴木宏昌氏が率いるバンドはザ・プレーヤーズだ。
日野皓正氏の演奏は、他でもいろいろと確認できる。
その中でも印象的だったのは「日野ファミリーコンサート ~日野皓正・元彦・賢二~(1999/3月)」だ。弟の元彦氏(Tokoさん)が亡くなる直前の演奏だ。
もう一つ、「新鮮!サッチモ節 ~ダニエル・ルイ・ア-ムストロング 日野皓正 宮川 泰」で、 氏がルイ・ア-ムストロング氏について語っている表情も印象的だった。
(A―4)「ベリー・スペシャル・モーメント」では、氏が間奏をするわけだが、あっという間に終わる。全体が3分という短さだ。そうしないと、氏のtrumpetのインパクトが強くなりすぎてしまうのかなと勝手に思う。ただ、物足りなさは感じる。
なお、後日、アメリカの黒人女性7人が歌う「ベリー・スペシャル・モーメント」も確認できた。
また、鈴木宏昌氏編曲で日野皓正氏と共演する「エターナル・アドベンチャー(1990)」も、これまた後日確認できた。
まずは、その鈴木勲氏について確認する。
氏は86歳の現在も現役のベーシストとしてバリバリ活躍しているようだ。
最初にその活躍の様子を確認できたのが「八ヶ岳ジャズフェス(2017/8/6)」での「鈴木勲カルテット」の演奏活動だ。
ベーシストなので、なかなかメインの演奏を捉えにくかったが、「Isao Suzuki Ave Maria(2014)」と「Isao Suzuki Love Is Over(2014)」というレコードでのメインのbase演奏を確認することができた。
ただ、LP【TOKYO SPECIAL(笠井紀美子)】―(A―2)「やりかけの人生」の案内では、special guest soloistとしてChelloとある。それで、これにかかわる情報がないかと確認を進めると、氏のインタビュー記事(Rban)の中に、以下のような発言を見つけた。
氏のbaseは特注なそうで、そのbaseの玄をCelloの玄にするとCelloになるのだそうだ。そうすると、キューという音が出せるという風に答えていた。
なお、アメリカのバンド時代に使っていたCelloは、Celloにダブル玄を付けて、全部で7本玄にしていたものとのこと。これとbaseの両方を使っていたとある。
さて、TOKYO SPECIAL(笠井紀美子)のChelloは、どちらかということだが、baseの玄をCelloの玄にした方なのだろうと勝手に想像してみた。
次に、別の方が歌う「やりかけの人生」を確認した。
「宮本典子 with 鈴木勲「やりかけの人生MY LIFE(1978)」が確認できるが、ネット上では、むしろこちらが本家として扱われている感じがする。
先にも記したように、昭和52年(1977)リリースのはずなので、2つ目の勤務地3年目頃に手にしたものだと思う。
思い出してきたのは、この頃和製ジャズを探ってみようかなという思いでレコード店を回っていた時期があったということだ。ただ、探ってみようという思いだけで、実際に探ったという事ではない。その頃から仕事を家に持ち帰るような生活になって、ゆとりを失っていたのだ。
今回、このレコードを聴取したことをきっかけにして、今風に探ってみようかなと思う。
リアルタイムで楽しめる年代だったのにそうできなかったのは残念という思いはある。しかし、今は簡単に豊かな情報を集められる時代。その時代にあった探り方で、若い頃に出来なかった音楽情報を感受してみたいという思いもある。
いろんな探り方をしているが、まずは楽曲提供者とのかかわりで楽しんでみる。
どの曲も作詞は安井かずみ氏だが、作曲者は多様だ。
A面の最初の曲(A―1)の「バイブレーション(love celebration)」は、山下達郎氏の曲だ。
まずは、1980.5.3中野サンプラザ「RIDE ON TIME CONCERT '80」での山下達郎氏の歌い方を確認する。
次に、1978のアルバムの歌い方を確認すると微妙な違いはある。それでも山下達郎氏らしさの歌い方が感受できた気がする。
この曲についての情報を確認していくと、元々はリンダ・キャリエールという女性シンガーに提供されたものだったらしい。ところが、その出来がよくなかったので中止になってしまったとのことだ。
今確認している【TOKYO SPECIAL(笠井紀美子)】の最初に収録されているこの曲は、その曲に安井かずみによる「バイブレーション」という日本語の歌詞をつけ、鈴木宏昌が編曲し笠井紀美子の歌でシングルカットされたものを収録したということのようだ。
山下達郎氏の歌い方を確認した中の1978のアルバムというのが、氏の通算3作目のスタジオアルバム「go ahead」で、この歌はその2曲目に収録されているとのことだ。
多分、山下氏がこの曲を自らが歌って収録するのは、笠井紀美子の日本語で歌った後ということなのだろうと思われる。
確認の区切れのいいところで、また笠井紀美子のレコードをかける。
最初の曲から順に整理しているが、確認は別の曲についても進めている。したがって、聴くときにはA面全部をかけて聴く。