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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 大概の散策は、行き当たりばったりで、偶然出会った風景をもとに散歩する。しかし、今回は計画的に龍興寺に立ち寄っている。
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 ここの蓮池はよく整備されているという情報。その蓮池は、駐車場の側あることを確かめておく。
 今はその季節ではないが、国宝の「一字蓮台法華経」が納められていることに由来して、蓮池が整備されたとのことだ。大賀蓮や中尊寺蓮、黄玉杯が咲くという。見頃は、7月初旬から半ばあたりらしい。
 この大賀蓮は、平成8年に東京大学農学部付属緑地植物実験所よりもらい受けたとのこと。昔、霊山の小国でこの大賀蓮の栽培を試みている植物愛好家の方の苦労話を聞いたことがあった。それが、ここでは次の年には咲き始めたと聞く。
 中尊寺蓮は、中尊寺の蓮の池のものを株分けされたものと聞く。
 黄玉杯は、日本の白蓮とアメリカの「黄蓮」を掛け合わせたクリーム色の蓮とのこと。

 その季節にまた用事ができれば、立ち寄ってみたいと思う。ただ、手入れをされている方は、相当な思い入れであると思うが、自分にそこまで感じとれる自信は無い。
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 六地蔵の前に、「会津五色不動巡り」の立て看板が建っていたが、これは先に確認していなかった。
後で確認したら、ここは赤色の離脳不動とか。それとかかわるのが本堂の前に建つ蔵造りの建物だったようだ。

※五色不動とは、五行思想の五色(白・黒・赤・青・黄)の色にまつわる名称や伝説を持つ不動尊を指し示す総称とか。有名なのが、「東京の五色不動」で、家光が天海僧正の建言で、5箇所の不動尊を選んで、天下太平を祈願したことに由来する等の伝説とか。ここにも天海僧正が登場する。
 ただ、『五色不動』という名称が登場するのは明治末から大正始めとのことだ。伝説自体は江戸時代からの都市伝説だとか。恥ずかしながら、この確認で目白だとか目黒とかの地名が、これらと絡むことを知る。
by shingen1948 | 2010-12-07 06:04 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 昔から、天海僧正の名も知っていたし、この辺りにもよく来ていた。天海僧正の名をつけたお菓子を食べたこともある。それでも、この龍興寺に立ち寄ったことは無かった。

 興味を持つようになったのは、霊山寺とのかかわりだ。
 先月27日に、宮脇遺跡発掘調査現地説明会に出かけたのだが、この霊山寺は天台宗の寺である。当然、江戸期にはこの天海の影響を受けることになるらしいのだ。知っていた方が興味が深まると思ったのだ。

 天海僧正について「うつくしま電子事典」では、次のように紹介している。
 天海は、徳川幕府の基礎をつくった家康、2代将軍秀忠、3代将軍家光につかえた僧侶です。
 僧侶といっても日本全国の政治や宗教のあり方を決める相談役でした。織田信長に焼かれた比叡山を元に戻したり、日光に家康を東照大権現としてまつったりしました。現在も全国各地に置かれている東照宮は、天海の理想をあらわしたものです。
 また、上野の寛永寺を建てたことでも知られています。一方で幕府により罪に問われた沢庵や東源などを救っています。

 矢張り、純粋に宗教家としての魅力というのではない。持っている知識を武器に、時の権力者と結びついて、影響力を行使した方ということのようだ。
 「会津美里町ポータルサイト」によると、会津の葦名氏と深い関わりを持っていたが、その葦名氏が伊達政宗に敗れると、会津から離れ関東方面で活躍したという。
 天正18年には、天海と名を改めて関東の天台宗の中心僧となり、その後、徳川家康に仕えることになったという。
 家康の死後は東照大権現という贈号と日光山への改葬などを主導したり、寛永寺の創建などに携わったりして、江戸初期に幕府に大きな影響力を持った僧だったということだ。
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 この寺の観音堂には、会津33観音巡禮札所番外「浮身観音」の案内板が建つ。
 天海僧正の幼少時の修行と由緒地「浮身」の観音とが結び付き、その僧正の母が留めおかれた観音という結び付きを説明する。
 浮身観音は、本尊である十一面観世音菩薩の別称で、天海が幼少の頃、漆原と永井野の村境で感得したものだというのだ。

 寺にかかわる散歩では、福島の地であっても、無視できないぐらい強い影響力を持つ方らしい。
by shingen1948 | 2010-12-06 05:32 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 天海僧正への興味で、「天海僧正両親の墓」がある龍興寺に立ち寄った。「龍興寺」を確かめるのに、高田町のホームページを開く。
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 そこには、天海大僧正が出家した天台宗の名刹ということと、次のような縁起が解説されていた。
 嘉祥元年(848)慈覚大師によって開山され、本尊を阿弥陀如来とされています。
建物の跡の土中から千体観音が掘り出され、寺内に奉安されていますが、この仏体の基礎供養として建立され、当時の人々の崇敬の深さと隆盛を極めた寺院であったと史実書籍等にも記されています。

 案内板にあった国宝(昭和27年3月29日再指定)「一字蓮台法華経開結共【9巻】」とあった「一字蓮台法華経(いちじれんだいほけきょう)」については、「福島県内に3つしかない国宝の1つで、書き終えるまで280年を要したといわれています。」と解説する。
 案内板では、「一字ずつを美しく彩色した蓮華座に乗せたもので、「一字三礼」といい、如法写経のこころからゆきついた最高の荘厳経といえる。蓮台は緑・藍・淡黄・朱・白描と彩りを変え、和洋書体との美しい調和を見せている。平安時代藤原期の作で、県内にある国宝2つの内の一つである。」と解説する。
 会津美里町ポータルサイトによると、もともともは10巻あって、法華経と開経・結経とを書写したものだが、第6巻の部分が欠けて9巻が保管されているとのことだ。
 
 県指定重要文化財(昭和47年4月7日指定)「絹本著色両界曼荼羅【2幅】」は、「2幅とも縦2.13m、横1.42mあり、仕立は図描表具掛軸である。これは大日経による胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅からなり、真言密教の根本をなすものである。裏書きに文亀3(1503)癸亥9月27日とあり、室町期の文化財である。」とのことだ。
 多分、この寺の宝物からも、天台宗と真言宗との教団のかかわり、そして、天海ということを整理する必要性を示唆しているということだろう。

 教団のかかわりについては、分からないから避けていたところだが、そういってもいられないことが出てきている。
by shingen1948 | 2010-12-05 18:56 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 会津に出かけることがあったら、天海僧正ゆかりの地を確認したいと思っていた。今回は、それ程時間的なゆとりが無かったので、とりあえず「龍興寺」に立ち寄った。
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 寺前に建つ会津美里教育委員会の案内板には、この寺にかかわって、国宝(昭和27年3月29日再指定)「一字蓮台法華経開結共【9巻】」・県指定重要文化財(昭和47年4月7日指定)「絹本著色両界曼荼羅【2幅】」、そして、町指定史跡(昭和43年2月22日指定)「天海僧正両親の墓」について説明される。
 「天海僧正両親の墓」では、次のように説明する。
 
墓地内に五輪塔2基がある。大正4年に黒板、辻両博士の調査で発見確認された。当寺は天海縁の寺であり、また天海誕生地と伝えられる場所も近くにある。

 全国には、天海僧正生誕地とされる処が10ヶ所以上あるらしい。
 歴史学者の黒板勝美氏と辻善之助氏の両博士が、それら天海の生誕地確認調査をしている中で、大正4年にこの地を訪れたらしい。その調査中に、龍興寺墓地内から父親の名である「景光」の刻印のある五輪塔2基を発見したという。
 この両親の墓が有るという事から、天海の生地は高田であることが有力になったという事だ。ただ、天海と龍興寺、そして、天海或いは龍興寺と当時の会津領主葦名氏を結び付ける資料がないことから、まだ確定的ではないという話も聞く。
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 とりあえず、「天海僧正両親の墓」らしきものを確認する。
 ヒントは、1対の五輪塔で、台座にはかすかに「景光」の名が見えるということと、ポータルサイト等にある写真だ。 多分、この五輪塔だろうと思う。


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 ここで、目印にしたのは、1対の五輪塔とこの二本の石柱の感じ。

 天海大僧正の両親とされる方は、舟木兵部少輔景光夫妻とか。
 景光夫妻は長い間、子が授からなかったが、神仏への信心によって天海が授かったとか。
 天海11歳の時に、この寺で得度し諸国に修行に出たが、23歳で母の病気のため会津に帰ったとか、母は領主芦名盛安の娘であったとか。
 天海は、芦名盛氏の懇請により会津稲荷堂の別当に迎えられたとか、母親が芦名に縁のあったことから伊達政宗に滅ぼされた芦名の最後の領主、義広を護って常陸まで送ったとか等々……。
 これらのことが、資料がなくまだ伝説的な話ということと結びつくのだろうか。
by shingen1948 | 2010-12-03 06:00 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)

藤田宿

 かつて、藤田集落は、藤田城の西側の丘陵地帯にあったという。それが、現在地に移されたのは、江戸時代に越後街道が整備され、そこに宿場としての形を整えた時点で、現在の藤田村に移転してきたと考えられているらしい。
 ただ、明治の火災で、寺と共に詳細を証明する文献等も消失してしまっているという。
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 「会津高田町郷土歴史読本」では、日光街道の間道として重要な地で、この藤田宿ができたのは、慶安元年で、伝馬や伝馬人足の宿所も、制札所も置かれたという。
 高田駅については、越後国と会津藩や南山お蔵入りの間の物資の中継点と説明する(板下駅―高田駅―市野駅―大内駅―楢原駅)。これらの関わりからは、越後街道の間道ともとれる。この地区について詳しい方によれば、文献的には、この宿に関する記載は1件しかないとか。
 
 今でこそ周りの道路が広がって目立たないが、昔はここの道だけが広くて真っ直ぐな道だった。交通量が少ない時代は、この路上で、味噌作りをしているのを見かけたものだ。その位広いと思った道だった。
 最近、この村の「おやかっさま」にかかわる資料がみつかったとか。なじみ深い風景だと思っているが、まだまだ知らない事実が見つかるということに、人の営みの歴史の奥深さを感じてしまう。
by shingen1948 | 2010-05-13 05:09 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)

藤田城跡(高田)

 この城の時代は、室町時代後半で、平場・堀切・土塁の遺構が残る。
 大きさは、先に記したように、東西29間 南北19間で、言伝えによると、文治年中藤田式部忠重が築いたとされる。
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 その構造について、「高田町町史」に説明される。その概要を理解するのには、古墳との重なりを知る必要がある。地図に表されている藤田城付近図を借りて、そこに古墳の番号を加えておく。

 説明と合わせると7~10号墳ということで、10の古墳が存在するように思うが、地元の方は南に7つの円墳が連なるという。なお、町史には、藤田城の詳細な図が提示されている。
 藤田城では、そのうちの4つの古墳を、物見台として転用いていると説明される。(主曲輪は、8号墳あたり)


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 これが、北の10号墳あたりだ。この山頂は、現在は村の共同墓地になっている。ここでは、太鼓を叩いて集号や連絡に利用されたのではないかといわれているらしい。通称「太鼓山」と称されているらしい。


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 これは、日光街道側から、藤田城を眺めたところだ。主曲輪からこちら側にかけて、高さ約50㎝の土塁が南北に認められるという。更にその手前の斜面に平場が連続して認められるという。ここからは、その様子は確認できない。
 この城跡の南側には、丘陵が連なっているが、その間には幅5mの堀切があって、区画されているという。


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 これは、北側から藤田城へ近づけそうな道だ。ここを進んだ所に墓がある。そこから主曲輪に登れるそうだった。

 「高田町町史」に沿って、稲荷神社は藤田舘、藤田城跡は藤田柵として整理したが、「会津高田町郷土歴史読本」では、藤田水地入口にある古木根元の山神の祠から西方約100mの平地が藤田柵とも、現在の稲荷神社が藤田柵とも表記している。
by shingen1948 | 2010-05-12 05:43 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)

藤田舘(高田)

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 藤田大光寺板碑で供養されているのは、藤田式部忠重夫人だが、その藤田式部忠重は、藤原氏の支族とされる。
 「会津高田町史」によると、その居舘は、藤田の稲荷神社境内とされる。


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 「会津高田町郷土歴史読本」では、文治5年(1189)藤原氏の滅亡後、この藤田氏が、この地に逃避して柵を築いたとする。藤田氏にかかわって、この村の呼称が藤田村となったと「温故捨要抄」にあると説明する。


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 これは、藤田舘跡とされる稲荷神社から、その南側を見ている。この左手高台が藤田村柵である藤田城跡で、この右手に旧藤田村落があったとされる。
 この藤田城跡は、「高田町町史」によると、「会津古塁記」に「藤田村柵 東西29間 南北19間 文治年中藤田式部忠重これを築き住す。村名も家名以て名にす。佐藤秀衡の婿伊達より逃来る。」とあるという。
 素人との発想では、「佐藤秀衡の婿伊達より逃来る」からは、大鳥城の佐藤氏と藤田氏のかかわりを想像し、その佐藤氏と藤原氏の深いかかわりと想像してしまうところがある。
 内容的に「奥州侵略の路」のカテゴリーに入れるが、藤田城が、二つ重なる。先に整理したのは、国見町の藤田城だ。それで、こちらには(高田)と旧町名を付け加えて表示する。どちらも藤田氏がかかわるので、気になるところではあるが、今のところ、この二つの城にかかわりはなさそうだと思っている。 


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 何故か、稲荷神社脇の大切にされる石が気になる。
by shingen1948 | 2010-05-11 05:04 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)

藤田大光寺板碑群

 藤田大光寺跡にある板碑は、全国的に見ても古く、北関東や東北諸県の同種の板碑の祖型とて貴重で、県の文化財として指定されている。
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 現在、この板碑群は、1号板碑(県指定文化財)を中心に、12基が取り囲むようにまとめられていて、その板碑群を鞘堂が覆っている。ここが、藤田大光寺跡とのことだ。
かつては、これら板碑は、藤田集落の南側の山麓の丘陵地帯にあったという。現在地に移されたのは、江戸時代に越後街道が整備され、藤田村が宿場としての形を整えた時点と考えられているらしい。
 この時点には、各民家も寺と共に現在地に移転してきたと考えられているようだ。ただ、明治の火災で、寺と共に詳細を証明する文献等も消失してしまっているという。
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 案内板では、板碑の形状の特色について説明し、全国的に見ても古く、北関東や東北諸県の同種の板碑の祖型であるという価値について説明する。
 「高田町町史」では、そのことから平安時代の郡衛の推論との関わりについて説明する。
 この周辺や竹原、西勝、富岡辺りに平安時代の郡衛があったと推定されていることだが、そのこととかかわるらしい。

 この板碑の由来は、奥州平泉の藤原氏の側室の女(娘)が、この地に嫁いできたという村の伝承にかかわって説明される。その娘が亡くなって、その供養のためにこの板碑が建てたとされるようだ。
 その由来とも関わって、代表的な推論は次の三点のようだ。
 その一つは、この大口大領の伝説は、大口という姓名と大領という郡衛の一等官の職名を指すものであり、この付近に郡衛があったという可能性が最も高いとするもの。
 その二が、平安末には、律令制度は崩壊し、在地の豪族が力を持っていて、役所の機能は役人の居宅に移るはずと考える。そうすると、藤原氏の娘は、大沼郡を統括する役人か豪族に嫁いだはずだとするもの。
 その三が、藤田の豪族は、かつては関東地方にあって、平泉の藤原氏と親しく藤原氏の娘が嫁いでくるという姻戚関係にあったが、戦いに敗れて藤田に落ちのびてきたとするもの。

 「会津高田町郷土歴史読本」では、村の伝承との関わりについて説明する。
 この藤原氏の娘が嫁いだのは、藤田式部忠重とのことだ。その藤田式部忠重は、藤原氏の支族とされる。
 この夫人は、藤原秀衡の娘であり、延応2年(1240)に亡くなられたという。
 また、この板碑について、全国で9番目に古いと説明する。
 板碑は、関東の武蔵野地方に発生されたとされるという。それからわずか十数年後に、この大光寺の板碑が造られたという意義と、この板碑群の文化が、会津地方周辺へ波及していったという意義も強調する。
 ただ、文献が無いので、その訳や経緯は分からないようで、いろいろな状況が想像されるが、この時代に関東地方との文化交流が親密であったことは明らかなようだ。
by shingen1948 | 2010-05-10 11:17 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)

伊佐須美神社④~智鏡塚

 今となっては、確かめることができないが、あやめ苑について、個人的な記憶とかかわって気になっている事がある。
 幼いころの文殊様に参拝した記憶だ。その場所が、なぜか現在松平氏の銅像がある付近だったと思っているのだ。粗末な建物だったが、ここが一番いい文殊様だと案内の人がこだわっていたという記憶だ。何が一番だったのかも分からない。
 その記憶が蘇ったのは、伊佐須美神社西手にある「高田文殊院」を見たからだ。
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 この境内に、智鏡上人を追慕して五輪塔を建てたという「智鏡塚」がある。
 経智鏡上人は、この地方に疫病が流行したに時に、生身往生の法を説いて、自らがいけにえになって、人々を病気から救おうとしたという。
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 天文22年(1553)8月8日から8月29日の21日間、智鏡上人は、墓穴のお棺の中で読経し続けたという。「吾が鉦のならざる時は往生なり」ということで、命日が8月29日とのことだ。
 「智鏡塚」の案内板では、生身往生の他に、伊佐須美神社の再興についてふれている。
 そのことについて、「会津高田町郷土歴史読本」で確認する。当時は、神仏混淆の時代である事を念頭におくように促して、次のように説明する。
 上人は、京都の公家の子として生まれ、若くして仏道に入ったという。会津には、天文の初め下り、高田法幢寺の住職になり、その後伊佐須美神社奥の院清龍寺の住職になったとのこと。
 伊佐須美神社は格式の高い神社だったが、たびたびの火災等で荒れ果て、文亀3年(1503)の火災では、宣命位記も灰になったという。
 そこで、智鏡は、当時の黒川城主葦名盛舜と相談して京都に行き、天文20年(1551)12月14日に後奈良天皇に「宣命」と「奥州二ノ宮正一位伊佐須美大明神」の額を頂いて会津に戻ったとのことだ。
 この五輪塔には、生身往生と共に、伊佐須美神社再興の功績への讃辞と感謝の意も込められているということのようだ。
 地域の言い伝えの範疇なのかもしれないとも思う。

 改めて、伊佐須美神社御由緒を神社前にあった案内板で確認する。
 伊佐須美神社御由緒

 伊佐須美神社の創祀起源は悠久二千有余年の昔第十代崇神天皇十年四道将軍派遣の時に始まり古事記には『東の方より遣けつる建沼河別、其の父大毘古と共に相津に往き遇ひ給ふき故れ其地を相津と謂ふ』と記録されている如く会津地名発生の伝承社であります。即ち往き合い給うた時国家鎮護の為、国土開拓の祖神(諾・冉二神)を会津高嶺の聖地天津嶽(新潟県境)に鎮斎されたのが始まりと伝えております。その後博士山、明神岳を経て欽明天皇13年(552)当地に御鎮座されたのであります。
 その時大毘古命、建沼河別命二神も合祀奉斎されて以来1400有余年、歴朝はもとより歴代藩候、別けても会津松平藩祖保科公以来格別の崇敬と庶民の崇敬殊のほか篤く、延喜式内『名神大社』光格天皇宣下『伊佐須美大神宮』として崇められ、又戦前は国幣中社として官祭に預り御社殿の奉修、改築、社領、宝物等の寄進が相次ぎ会津開拓の祖神を祀る大社にふさわしく、今尚広くあらゆる殖産興業を守護したもう御神威のもと衆民の崇敬は深く厚いものであります。


 五輪塔の脇には、「芭蕉翁袖塚」碑がある。
 案内板の説明によると、芭蕉が「奥の細道」の旅に出た時、右の袖は筆のすさびには邪魔になるといって切り取って弟子に与えた。それを高田の俳人田中東昌がもらい受けたのをここに埋め、その上に碑を建てて芭蕉翁を偲んだという。
by shingen1948 | 2010-05-09 05:01 | ★ 季節便り | Comments(0)
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 伊佐須美神社境内の南側には、東北一の広さに、約150種、10万株のあやめを誇る「あやめ苑」がある。
 6月15日から約20日間、「あやめ祭り」が開かれ、10万人以上の客が訪れるという。
 今は、桜が満開だ。


 伊佐須美神社は、四季を通して数多くの神事、祭典があるようだ。
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 7月12日に開かれる「御田植祭り」も、日本3田植えのひとつという。多彩な行事の中心が伊佐須美神社になっているのは、古い歴史や最高の社格が、文化的・精神的な誇りになっているからだろう。
 年間を通して、100万人以上の観光客が訪れると聞く。
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 ここに、「神代桜」と表記のあるエドヒガンザクラがある。かなりの大木だが、樹勢が落ちて、樹木医にかけたと案内板にある。

 宮川の両岸1キロにわたるソメイヨシノの桜並木で、宮川の千本桜というそうだが、実際に数えたら700余本だったとは、地元の方の話。
 ここも満開だった。

 「薄墨桜」の案内にあった会津五桜というのが気になった。
 家に戻って確かめると、石部桜(会津若松市一箕町)・杉の糸桜(会津坂下町杉村薬師堂)・虎の尾桜(会津高田町法用寺)・大鹿桜(猪苗代町磐椅神社)、そして、「薄墨桜」とのことだ。その他に、「千歳桜」とこのあやめ苑にある「神代桜」の古木などが有名らしい。最近、新聞で、磐椅神社の「えんむすび桜」の話題も見た。これは、杉の木に桜が根付いたものらしい。
 今回、写真は撮らなかったが、移動中に満開の「千歳桜」も見えた。「虎の尾桜」は見ることができなかったが、その桜のある法用寺の三重塔が見えた。

 確認してみると、知らないことが多いなと思う。次の機会の楽しみが増えた。
by shingen1948 | 2010-05-08 05:06 | ★ 季節便り | Comments(0)