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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:飯坂 ( 132 ) タグの人気記事

 神霊の学者である石塚直太郎氏を受容的に理解したいのは、井野目堰とのかかわりだ。
 井野目村(現福島市飯坂町平野字井野目)では、井野目堰開発にあたって、その成功のために今ある井戸以外の井戸を掘らないという願掛けをしていた。
 「三角山の散歩⑤―井野目の三井戸③」でも整理したように、村ではその井野目堰の願掛けの為に280年に渡って井戸を掘らないことを守り通していたということだ。
 このことは、その熱意として肯定的に美談として捉えられる。確かにそうだろうとは思うのだが、この「願掛け」は村人の生活にとって負の遺産でもあるとも見るべきなのだろうと思うのだ。
 平野小学校が作成したの「ちかいをたててー井戸をほらない村」では、この村に嫁いできた方が生活用水のために毎日遠くの井戸まで水汲みさせられ辛さと苦労が描写される。
 https://kazenoshin.exblog.jp/20332368/

 石塚氏は、紺野氏から願外しの依頼を受けるわけだが、この事はこの水汲みの旧習から解放するという側面を持っていたということだ。そのための儀式でもあるわけだ。
 その視点で紺野氏の願外しの依頼を見ると、井野目堰開発のための真摯な願かけと村の生活維持に係る旧習からの解放との見事な調整だったように見えたのだ。
 もし、紺野伴右エ門宅で行われた村の旧習からの解放儀式がなければ、この地区が近代化から大きく取り残される事になったであろうことは想像できる。そこには合理性さえ感じるのだ。

 この旧習からの解放と真摯な願かけの調整には、村人がこの儀式を執り行う神霊の学者石塚直太郎氏に絶対的な信頼を寄せていることが絶対条件のはずなのだ。
 しかし、神霊の学者が「山口庄右エ門重久の霊魂を呼び出し聞き伝ふところ霊魂の曰く」とある部分は、自分の感性ではどこか怪しげさを感じていたのだ。
 今回の整理で、感性を変える事は出来ないが、自分の感性と違う見え方によって構築された世界観が少し分かったような気がしているところだ。
by shingen1948 | 2020-03-14 10:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 以下は、「心霊科学研究会」機関紙に掲載される石塚直太郎氏の論と思われる情報を拾ったものだ。

 1923(大正13)年5月1日心霊界第4号「父の死を遠隔予知す」石塚直太郎
 1924(大正14)年2月11日心霊界第2.3合冊号「霊媒に就いて」石塚直太郎
 1924(大正14)年6月1日心霊界第6号「幽霊の報恩」石塚直太郎
 1924(大正14)年11月1日心霊と人生第11号「疾病に就ての卑見」 福島県会員石塚直太郎(寄)
 1925(大正15)年7月1日心霊と人生第7号「生ける地蔵」石塚直太郎
 1931(昭和6)年11月1日心霊と人生第11号「疾病に就ての卑見」石塚直太郎

 仙台に東北心霊科学研究会が設立された時に東京には日本心霊科学協会が設立されるが、どちらもその前身は、浅野和三郎氏が設立した「心霊科学研究会」と「東京心霊科学協会」とのことだ。(「心霊科学研究会」は関東大震災後、本部は東京を離れ、大阪→京都→横浜市の自宅と移るよう。そして、東京での活動のために「東京心霊科学協会」も設立されていたという経緯のようだ。)
 その「心霊科学研究会」の機関紙は、当初「心霊研究」が創刊される。これが3号まで続くが、事務所が関東大震災で罹災して廃刊になるようだ。この機関誌の性格は「純学術的報告機関」ということだったようだ。
 石塚氏が投稿する「心霊界」はその後継誌ではあるが、その役割は大衆化されていたようだ。扱う内容も「宗教、政治其の他百般の人生問題、思想問題」と大きく変容していたという。その後半は「心霊と人生」と改題されているが、雑誌の性格はそのままだったとのこと。 
 これが昭和53年(1978年)12月号まで発行されたとのことだ。

 この後に仙台に東北大学金属材料研究所白川勇記教授を所長として福来友吉の業績を記念する「福来心理学研究所」が開設されるようだ。
 その「財団法人福来心理学研究所」付属の啓蒙団体「福心会」の機関機関誌が「福心会報」のようだが、その1961(昭和36)の№1号に石塚直太郎氏肖像が掲げられ、「石巻史蹟崖に関する実験(石塚直太郎)が掲載されているようだ。
 その内容までは確認できていない。
 なお、1924(大正14)年11月1日発行の「心霊と人生(第11号)」には、石塚氏は福島県会員の寄稿と表記されることから、この時点では鳴子から飯坂に転居されていたのだろうと想像する。
by shingen1948 | 2020-03-12 09:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「神霊の学者」というのも懐疑的な見え方の一つだろうと思っていた。
 しかし、当時の宮城県を文化圏とする範囲では、この神霊という概念が受容されていたのではないかという情報を見つけた。
 これも散策人にとっては、新たな見え方だ。

 昭和21年8月に福来友吉博士のまわりに集まった人たちが中心となって「東北心霊科学研究会」が仙台に設立されている。
 昭和15年に高野山大学教授を退職した福来氏が、20年3月に大阪箕面から妻の郷里仙台(青葉区宮町)に疎開して来られたこととかかわるようだ。
 その会長が、後に東北大学金属材料研究所所長となられる物理学者の東北大学助教授白川勇記氏とのことだ。そして、その顧問には福来氏と共に土井晩翠氏、志賀潔氏が名を連ねているようなのだ。

 神霊の学者石塚直太郎氏が「天皇御陵の発見者」となるのは大正12年、鳴子温泉遊覧案内を著わすのが大正12年、飯坂湯野温泉遊覧案内を著わすのが昭和2年だ。
 そして、井野目村人紺野伴右エ門に依頼されて、井野目堰にかかわる願外しが「録し伝説に遺す」ことになるのだが昭和28年だ。
 この依頼には、この仙台での心霊科学に関する大きな動きがあったことともかかわるのではないかと想像するのだ。

 「神霊の学者」を懐疑的に見てしまう見え方を否定的に整理してみると、以下のような見え方になるのだろうか。

 近代西洋科学で説明がつかない現象は「迷信」として処理することになる。
 したがって、学者は既成科学の枠内に収まらない心霊現象を目の当たりにすると、まずは現象が詐術ではないかと疑い、次に現象を既存の科学知識の延長線上で説明しようともする。
 しかし、心霊現象は既成科学の枠内に収まることはないので、胡散臭く見られて排除されることになる。
 こうして、日本人が長い間慣れ親しんできた物的実体以外に霊的な実体が存在するという実体二元論的な思考法が、近代西洋科学の思考法からはじき出されてしまった。
 この思考法は、明治政府の近代化政策の一つでもある「迷信撲滅の方針」とも相まって、既成科学の枠外に置かれていった。
by shingen1948 | 2020-03-10 11:51 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 結局、医王寺の建設工事と小笠原國太郎氏とのかかわりは確認できなかった。
亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎⑧:福島の建築(12の2)_a0087378_644086.jpg ただ、その確認の中で自分の視点が薬師堂に向けられた時、医王寺についての自分の偏った見え方に気づいた。それは、「奥の院薬師堂」についての思い入れを感じながら、理解できていないこととかかわる。
 (手持ちの写真は家族が写りこんでいるので、この「奥の院薬師堂」の写真は、福島市の観光のページからお借りした)

 医王寺と言えば、中世初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺だとか、境内には佐藤基治とその子佐藤継信と佐藤忠信の墓とされる板碑が残るとか、後年、奥の細道の松尾芭蕉が訪れたというイメージしか持ち合わせていないということにかかわる見え方しかなかった。
 多分、解説する人にとっては常識的な見え方なのであえて説明しなかった知識を、自分には持ち合わせていなかったということなのだと思う。

 そもそも医王寺の「医王」というのは、辞書的には、医師が病人を救うように、仏法を説いて人の悩みをいやすところから、仏・菩薩のことを意味するとのこと。薬師如来の異称という意味もあるようだ。(デジタル大辞泉)

 その「薬師如来」を確認すると、その正式名は「薬師瑠璃光如来」といい、また「医王善逝」・「大医王仏」とも呼ばれ、きわめて現世的な病気を治す功徳のある仏としているようだ。

 これらの予備知識を頭において、改めて「医王寺」を確認すると、「真言宗の寺院で、山号は瑠璃光山。中世初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺」とある。
 その山号までも瑠璃光山ということで、薬師如来にかかわっているということだ。
 つまり、この「瑠璃光山」という山号と、「大鳥城記」がいう「奥の院薬師堂」、「平野の伝承とくらし」がいう「鯖野薬師堂」の薬師瑠璃光如来が鎮座する地とかかわるということなのではないのだろうか。

 医王寺本堂には本尊として大日如来が祀られているそうだが、確認していくと、この「薬師瑠璃光如来」が重要な仏様らしいということだ。
 そういう視点を加えることで、明治37年(1904)に焼失した「奥の院薬師堂」を、大正4年(1915)12月に竜和和尚が大勧進となり再建されるという事業が、本来的な意味を持つ見え方で眺められるようになったのだと思ってる。
 次の機会には、この「奥の院薬師堂」をよく見てきたいなと思っている。
by shingen1948 | 2016-12-05 09:43 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 飯坂温泉の「なかむらや旅館」「旧花水館奥御殿」が、小笠原國太郎氏の仕事らしいという事で整理してきた。
 他に「医王寺本堂」の建築も氏の仕事との紹介がある。しかし、手持ちの散歩資料からは本堂の明治時代改修が読み取れないでいる。
亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎⑦:福島の建築(12の2)_a0087378_851511.jpg 「大鳥城記」では、確かにこの寺は何度も火災に遭っているようで、そのたびに再建を繰り返していることは読み取れる。元禄7年、享和3年、文化2年等の本堂や客殿の建立は、古文書で確認できるという。これらは、火災による焼失だろうと想像されるようだ。
 ただ、現在の本堂や庫裏は、文化2年に建てられたものと推定されているようだ。この建物の改修が明治時代に行われたということなのだろうか。

 この寺の明治から大正にかけての気になる改修がある。
 大正4年(1915)に行われたといわれる薬師堂の改修だ。
 明治37年(1904)に「奥の院薬師堂」が焼失し、大正4年(1915)12月に再建されたことが記される。しかも、「竜和和尚が大勧進となり再建した」との表現で、大きな仕事であったことが想像される。
 こちらなら、年代的にはあいそうに思う。

「平野の伝承とくらし」では、「大鳥城記」で「奥の院薬師堂」と紹介される薬師堂を「鯖野薬師堂」と称して、次のように解説される。
 この薬師堂は、佐藤基治がいたく薬師仏を信仰して、弘法大師の御作といわれる薬師仏の尊像と、玄心僧都の献上した薬師仏の尊像とを鯖野の里に御堂を建て併安し、これを鯖野薬師と称したのである。医王寺の門を入ると老杉が立ち並ぶ古い参道をまっすぐに進むと、杉森の中にこの御堂がある。 基治が建てた御堂は結構の贅美をつくした実に立派な御堂であったが、明治36年火災に罹り、さしも壮麗な御堂が烏有に帰してしまったのである。それから久しく再建できないでいたが、大正4年12月竜譲和尚が大勧進となり、非常な苦心努力を払って再建したのが今の御堂である。
 
 今のところ、福島側からの散歩情報では曖昧なままで、確認がとれていない。
by shingen1948 | 2016-12-04 08:52 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 街づくりの変革のスタートの方が、明治21年(1888)「飯坂大火」より早いのが分かるのは、花水館の屋号変更や「なかむらや旅館」への売却委譲、それに飯坂大火の時間経過だ。その事については、先の「ふくしまの建築42~花水館②「不易と流行」」の後半に記している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11420930/
 中村屋が土湯から飯坂に移るのは明治22年だが、「花菱館」の屋号を「花水館」に改めたのは、明治20年だ。
 花水館は、明治20年に土湯から移転する計画のあった中村屋に旧建物を売却する見通しで、現在地に移転しているのだ。この時に、再出発するという意味で「花水館」と屋号を変えたということだ。
 そして、飯坂大火が起きるのは明治21年だが、この時、幸い売却予定の建物が残っていて、鯖湖湯再建も順調に進んでいたということだ。
 この大火の時には、計画通りに事が進んでいて、その滝の湯が発展したという経緯のようなのだ。

 明治時代の飯坂大火は、大概この明治21年(1888)の飯坂大火とするが、鯖湖地区では明治13年(1880)にも大きな火災があった事は、「堀切邸」のパンフレットの「堀切家年表」で分かる。
亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎⑦:福島の建築(12の2)_a0087378_10304233.jpg その火災で「堀切邸」の母屋が焼失し、翌年に再建しているということだ。
 その年表の明治16年(1883)に、堀切良平上飯坂村ほか5村の任命戸長になるとある。これが、先に「この時期の飯坂の変革とも取れるうねりに堀切良平氏がかかわり、大火の焼け跡整備に私財を投げうって奔走したようだ」としたこととかかわるのだろうと想像する。
 その変革に伴う建築に、小笠原國太郎氏がかかわっていたという関係性だろうと思われる。

 なお、この堀切邸については、「飯坂散歩② ~ 堀切邸」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11853378/
by shingen1948 | 2016-12-03 10:28 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 「旧花水館奥御殿」は、現在「ホテル聚楽」の管理下にあるようだが、そうなる経緯については「ふくしまの建築42~花水館」の整理で記した。
亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎⑥:福島の建築(12の2)_a0087378_5465852.jpg この時点では、まだ老舗名門旅館「花水館」の取り壊された昭和和37年以降に建てられた旅館部分の建物もあった。古い絵ハガキなどから、ここに花水館が新築移転してきた当時からの面影を残していた思われる門のアーチの部分が残ればいいなという期待があったが、こちらも取り除かれようだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11416155/

 元禄元年(1688)創業の老舗旅館「花菱屋」だった花水館の建物を買い取った現「なかむらや旅館」が、新たに建てた三階建ての「明治館」とその花水館「奥御殿」の両方のが、亀岡邸の大工棟梁小笠原國太郎氏の仕事であることを頭におくと、妻子を呼寄せ、福島市飯坂町に居を構える略歴部分に納得がいく。
 この時代、飯坂町が誕生するための町づくりの大きなうねりがあって、多くの建物建設がなされたこととのかかわりが想像できるからだ。
 街の整備にかかわる出来事を再掲する。

 明治21年(1888)4月5日「飯坂大火」
 湯町から出火した火災は西風にあおられて、湯沢、十綱町に延焼し、178戸が灰になる。この時、鯖湖湯も焼失する。
 明治22年(1889)鯖湖湯が再建される。飯坂町が誕生する。
 明治24年(1891)鯖湖神社が建立される。
 
 この時期の飯坂の変革のうねりには、堀切良平氏もかかわり、大火の焼け跡整備に私財を投げうって奔走したようだ。
 焼け跡の旧道を広げ、土地の高低をならし、古戸、東滝ノ町、湯沢の畑に新しい道を造り、新町(しんちょう)(錦町、古戸町、旭町、鯖湖町、若葉町)を設置し、摺上川沿いの若葉町に遊郭を移転したという。
 この時に新たに整備される「滝の湯」を中心とする旅館群のかかわりの中に、花水館の移転があったのだろうと想像する。
 そして、その変革に伴う建築に、小笠原國太郎氏がかかわっていたのだろうと思われる。
 
 そう考えると、今回頂いた資料で、正元氏の姉と娘が堀切家に嫁いでいて、その堀切家を媒介に、亀岡邸の大工棟梁に小笠原國太郎氏を依頼したという想像に合点がいく。そのモデルハウスの役割を担ったのが「なかむらや旅館明治館」だったというイメージだ。
 なお、先の整理では「飯坂の歴史」を元に、明治21年(1888)「飯坂大火」を街づくりの変革のきっかけに想像したが、街づくりの変革のスタートの方がそれより早いようなので、訂正したい。
by shingen1948 | 2016-12-02 08:45 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 頂いた資料の亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎氏の紹介によると、「旧花水館奥御殿」も手掛けているとのことだった。
 「なかむらや旅館新館」は、「洋風農家かめおか」のエピソードからその確からしさの確率が高いように感じるが、こちらはその根拠は示されていない。ただ、「伊達市ホームページ」の「旧亀岡住宅」を紹介するページの「設計と施工」の項でも以下のように紹介されているところを見ると、ほぼ定説なのかもしれないとも思う。
 亀岡正元家文書によると、施工は飯坂町の大工小笠原国太郎が行ったとみられる。国太郎が手掛けた建物には、他に福島市飯坂町の「なかむらや旅館」と「花水館奥の間(御殿)」(ともに登録有形文化財)がある。

亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎⑤:福島の建築(12の2)_a0087378_646345.jpg
 先にも記したように、「旧花水館奥御殿」については、何度か整理を試みていたが、建物が花水館の奥にあることで、全体の姿がとらえ切れていなかった。
それが、花水館の廃業によって姿を現したことを機に「節目よりは、継続を意識すべき正月②:福島の建築42~花水館⑤<奥の間御殿>」として整理し直している。
http://kazenoshin.exblog.jp/14415214/ 
 この中に、「中庭にある貴賓室・御殿の間は、明治30年に新潟の宮大工によって建てられた木造平屋建、銅板葺の純和風建築である。内装の造作に見るべきものがあり、往時の佇まいを今に伝える」とある。多分、「花水館」のホームページから拾った情報だと思う。
 自分としては、この「明治30年に新潟の宮大工によって建てられた」という情報があって、今回の以下の大工棟梁小笠原國太郎氏の略歴と接しているので、自然に受け入れてはいる。
 万延元年(1860)4月8日新潟県長岡市寺泊町生まれ。大工修業の後、福島県飯坂町に赴き、飯坂温泉の「なかむらや旅館」「旧花水館奥御殿」「医王寺本堂」の建築を行いました。
後に、妻子を呼寄せ、福島市飯坂町に居を構えました。墓地は、新潟県長岡市寺泊町にあります。子孫の方は大工を継承しなかったため、記録・道具類などは残っていません。
昭和3年(1928)1月19日逝去。享年69歳。

by shingen1948 | 2016-12-01 09:44 | Comments(0)
 今回、「なかむらや旅館」を確認していて気付いたのが、先の整理では、視点の大部分が本館に向けられているということ。
 この旅館は、本館も新館も国指定の重要文化財なのだが、本館が江戸時代創業時の旅館で、新館は明治期の建物。そうなると、素人は、つい本館の方に目が向いてしまう。
 それが、今回、亀岡邸との比較を意識したことで、明治の新館に視点を移して眺めることになった結果、こちら側の整理がおろそかになっていることに気が付いた。
 あらためて、新館を中心に整理し直す。
 「文化遺産オンライン」サイトの「なかむらや旅館新館」に基本的なデータが示される。
 http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/165822

 「信夫の里の旧家を訪ねて(島貫 倫)【歴史春秋出版】」の「なかむらや旅館」の解説から、明治館にかかわる部分を拾う。
 「明治館は、総ケヤキ造りで、部屋ごとにそれぞれ特色があり、床の間、書院、そして建具や床に至るまで、職人の技が見受けられます」とある。
 「棟梁の目~ココがみどころ」として、専門家から見た具体的な職人の技が解説される。

 その一つに、明治館の廻り階段を支える丸柱が上から吊っていることを挙げている。
 一階のスペースを確保するための工夫なそうだ。
 2階と3階の間にある丸柱の造作についての解説のようだ。
 材質と手すりの構造に旧亀岡邸との共通点をみたが、差異点はなかむらや明治館では、ここを踊り場として折り返す構造になっているようだ。
 旧亀岡邸ではアール状の構造だ。素人考えでは、これも一階のスペース確保とかかわっているような気がする。踊り場分の空間と共に、階段の底辺もアールになっていることで、一階客間の天井の工夫分を確保しているのではないのかなと勝手に想像する。
 
 もう一つ、床の間の紫檀・黒檀・鉄刀木の三銘木配置と欅の床板に埋め込まれた黒柿の亀の埋木が紹介される。欅の年輪を波紋に見立てているという。
亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎④:福島の建築(12の2)_a0087378_552726.jpg 旧亀岡家住宅にも、様々な彫り物が随所にあるようだが、撮った写真に写りこんでいたのは、3階へと続く階段の傷の部分。
 ここに柿が彫られていて、その傷が背景として生かされる見事さに通じるのかな。
by shingen1948 | 2016-11-30 09:46 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 「亀岡邸」と「なかむらや旅館」建築にかかわるつながりの象徴を、階段部の欅材を削った部材手すり子細工と勝手な見方をしている。
 これもまた素人の勝手な見方だが、その手すり子細工に木地師の技術を感じている。
 直ぐに「なかむらや旅館」と「飯坂こけし」のかかわりを感じてしまったのは、先に土湯から飯坂に進出した「なかむらや旅館」と土湯系飯坂こけしのかかわりについてふれたことがあったからだ。こけしの地域散策資料を元に土湯散策をしたその延長に飯坂を散策する中で整理したものだ。
 まずは、その「飯坂こけし」について再整理する。

 地域散策資料としては、つい最近まで「木人子室」というこけしにかかわるホームページが開かれていたのだが、そこに紹介されていたことを元にした散策だった。今回そのページを確認したら、運営会社の都合で消えていた。
 覚えている範囲での整理とする。

 「飯坂こけし」については、二つの系統が紹介されていた。
 その一つは、「木地屋八幡屋」で、八幡神社付近にあった弥治郎系のこけしなそうだ。
 明治23年(1890)に、弥治郎出身の毛利栄治氏が、八幡神社門前の佐藤応助氏の三女クラさんに婿養子に入って「木地屋八幡屋」を開業したということだった。
 佐藤応助氏という人は、義太夫に長じ、踊りの師匠までやった人だとの情報も……。
 この事にかかわる散策については、「飯坂温泉:飯坂こけし②」でふれているが、結局は散策の中では何の手掛かりも得ていない。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6227840/

 もう一つが、「木地業山根屋」で、鯖湖付近にあった土湯系のこけしなそうだ。
 明治32年(1899)に、土湯の工人である渡辺作蔵氏の二男角治氏(明治10年~大正11年)が飯坂に移ってきて、キンさん(明治14年~昭和16年)と結婚し、明治37年(1904)頃から「木地業山根屋」を開業したということだ。
 この土湯温泉から飯坂温泉に移るのに、「なかむらや旅館」の主人阿部与右衛門氏の口利きがあったということだった。これには、この「なかむらや旅館」も土湯温泉から移ってきたということが絡んでいる。
亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎③:福島の建築(12の2)_a0087378_6191227.jpg この事にかかわる散策については、「飯坂温泉と土湯温泉:飯坂こけし」でふれているが、この時には、この飯坂こけしは探し当てられなかった。というか、この時は、まだこちらのこけしは休止状態だった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6222693/
 ここでの後半に、なかむらや旅館が、飯坂に進出することになった事情も、当時の旅館のホームページに掲げられていた沿革を引いて整理していた。
 初代阿部與右衛門は、明治のはじめ現在の福島市外土湯温泉からこの地飯坂に出て参りました。当時土湯村において旅籠を営んでおりましたが、たび重なる洪水に悩まされ、このまま土湯に留まっては家運が衰えると判断し、飯坂に進出することを考え、当時の花菱屋、(現在の花水館の前身)を買受け営業したのであります。その後旧館(江戸館)に新館(明治館)を増築し、100年が過ぎました。

 更に、「飯坂こけし③」で、この「木地業山根屋」の弟子と思われる原の町こけし工人の高橋忠蔵氏について整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6235113/
 今回の震災と原発事故でどうなったのか、現在の消息は分からない。

 「なかむらや旅館」は、これらの散策も含めた視点で、「福島の建築 30」として整理したが、その内部について見学する機会はなかった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/10112983/

 それから4年後だった。
 堀切邸の見学で、偶然「飯坂鯖湖こけし」に出会ったのだ。そのことを整理したのが、
飯坂散歩③ ~ 「飯坂鯖湖こけし」」だった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11860596/
by shingen1948 | 2016-11-29 09:15 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)