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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 「西地区史跡文化財」の案内図に紹介される4人の和算家について、その系譜にこだわった見え方で整理してみた。
 その碑文から、佐藤刻治氏、鈴木梅次郎氏、阿部太七氏は、最上流佐久間派と伺えた。ただ、佐藤刻治氏は佐藤元竜氏を師とした経緯が分かる。
 その佐藤元竜氏は、二本松藩内で渡辺氏にあるいはその系に繋がる方から学んだようにも伺えた。 佐藤元竜氏―佐藤刻治氏の系は、形式的な算法印可があったかどうかは分からないが、実質的には宗統派の系譜に近い経緯を辿りながら最上流佐久間派と結びついたという推測をした。

 鈴木梅次郎氏と阿部太七氏については、その経緯を鈴木梅次郎氏―阿部太七氏と繋がると推測したが、その鈴木梅次郎氏の師である下村の須田信崇氏の系が分からない。とりあえず他の流派から最上流佐久間派に繋がったとの仮説で推測してみたところだった。
a0087378_10353813.jpg この碑は、「下村物語(二瓶俊郎)」を参考にして下村付近を散策していた時に撮った「二瓶子碑」だ。撮影は2009年4月だが、この時の興味は建物が中心でこの碑についての整理はしていない。
 「二瓶子碑銘」の篆額部分が読める。
 「福島のいしぶ」に「(和算家) 二瓶子碑」と紹介される方の碑のようだ。碑文を確かめ、鈴木梅次郎氏の師である下村の和算家と繋がらないかなという興味だ。

 この碑の最初に「二本松渡辺担識」とある。手持ち資料では、どなたかという確認はできなかったが、碑文に「聞吾藩有東獄者為天下之選 輙来学焉……」とある「聞吾藩有東獄者」の「吾藩」は二本松藩である事が分かる。
 そして、今までの確認から、ここに「東獄者」とあるのは、今回の整理で渡辺東獄こと二本松藩士渡辺治右衛門氏とした方であり、和算家渡辺一氏とした方であろう事が分かる。

 この碑文は、その「聞吾藩有東獄者為天下之選 輙来学焉……」との紹介に続いて「信常甞著最信算法記」とある。この信常は、この二瓶千之助氏の諱のようだ。
 それらの情報をつなぎ合わせて考えると、この二瓶氏は少なくとも二本松藩内の最上流を学んでいた方であることが伺える。

 この碑建立が嘉永3年(1850)であり、鈴木梅次郎氏の師となる須田信崇氏よりも古い方であることまでしか想像できないわけだが、この地に二本松藩内の最上流とかかわる和算家がいらっしゃったということではある。
 荒井村辺りの散策時点では、下村の須田信崇氏―鈴木梅次郎氏―阿部太七氏と繋がる系は他の流派から最上流佐久間派に繋がったとの仮説だったが、こちらも二本松藩内の最上流から派生している可能性も否定できないということになるようでもあるということのようだ。
by shingen1948 | 2018-10-11 10:42 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「西地区史跡文化財」の案内図に和算にかかわる史跡が4か所プロットされている。
a0087378_239388.jpg 今回「最上流宗統派の系譜」で整理した方々とのかかわりでふれたのが、このうちの「佐藤刻治碑」と「佐藤元竜碑」だ。
 ただ、「佐藤元竜碑」の碑文は確認できていない。また、ここで「佐藤刻治碑」とする碑を確認したとするのは、「福島のいしぶみ」では「佐藤刻治翁寿蔵碑」として紹介されている碑の碑文だ。

 佐藤刻治氏は、結局は田村郡佐久間佐久間纉の塾門人ということになり、最上流佐久間派ということになるのだろうと思う。しかし、それは佐藤元竜田氏が修天元術及天生法の修得を認められた上での話だ。その佐藤元竜田氏に認められた時点で、形式的にも算法印可を受けたかどうかは不明なのだが、その時点では最上流宗統派の系譜に近い認められ方という事になるのだろうと思うのだ。
 和算愛好にかかわる情報を探ると、佐藤元竜田氏の門人が明治35年(1902)2月に飯坂の八幡神社に奉納した算額が現存するとのこと。また、佐藤刻治氏が昭和5年(1930)に地元白山寺に奉納した算額も現存するとの情報も見る。どちらも確認はしていない。

 ここからは、和算「最上流宗統派の系譜」からということからは余談になる。
 「西地区史跡文化財」の案内図にプロットされる「阿部太七寿蔵碑」については、荒井村の散策時にふれている。
 この碑は、「土湯会津道を歩いてみる⑭~和算家と学校を意識する」で張り付けた写真に写る碑だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/21884427/
 この方の碑は「福島のいしぶみ」では「阿部(長安)翁寿蔵碑」として紹介されている。
 この時にもふれたが、この方は、数術を鈴木某氏に学んだ後、岳谷佐久間先生門でも数年学んでその奥を極め、家に戻って余暇に村の子弟を教育した方であることが、「福島のいしぶみ」で紹介される碑文からも確認できる。
 この方も結局は最上流佐久間派ということになるのだろう。ここでも、その研鑽途中の師が気になる所だ。
 この案内板で「鈴木梅次郎寿蔵碑」とされる方が、その鈴木某氏でないのかなと思うが、どうだろうか。この方の碑は、「福島のいしぶみ」では「深見(鈴木甚右衛門)翁碑」と紹介されている方だと思う。
 この方の碑が建つのが明治15年で、阿部太七寿蔵碑建碑が明治31年なので、矛盾はなさそうにも思う。

 この「深見(鈴木甚右衛門)翁碑」の碑文を確かめると、この方は文政5年生まれで、下村の須田信崇氏を師とするらしいことが分かる。
 その後、岩瀬郡吉田東光氏の門弟となるが、途中師が亡くなられたので、田邑郡の佐久間纉の門で学ばれるということだ。この方も、結局は佐久間派ということになるようだ。
 研鑽途中の師とされる下村の須田信崇氏が、最上流かどうかは分からない。

 地域情報で紹介される和算家はここまでだが、伊達地方の和算家情報中にこの地域近くの別の和算家が紹介されている。
 寛永6年に、信夫郡山田村の奈良輪甚内氏と土湯村の二階堂藤蔵氏が、伊達郡塚原村の三品丈之進常祐氏とともに渡辺一の門人とのことで、二本松の亀谷の坂町観音堂に師渡辺の追善供養の算額を奉納しているとの情報だ。
 この地域の和算文化の底辺の広さにかかわる情報として受け止めてよさそうに思う。
by shingen1948 | 2018-10-09 10:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回、「土湯会津道を歩いてみる⑭~和算家と学校を意識する」でふれた荒井小校長格佐藤元竜氏が、「佐久間文庫 由来」に和算の最後の花を咲かせた一人として紹介された佐藤元竜田氏なのではないかと想像してみた。
 「福島のいしぶみ」を眺めていて、この想像とかかわるかもしれない箇所をみつけた。
 「佐藤刻治翁寿蔵碑」だ。
 寿蔵碑というのは、生前に建てられた碑をいうのだそうだ。「土湯会津道を歩いてみる」として散策した時に撮った写真があった筈だが、今のところ見つからない。
 この碑文によると、この方は、田村郡佐久間佐久間纉の塾に5年間入門し最上流の奥義を極めて村に戻って小沢軒と号して私塾を開いた方のようだ。
 今回注目したのは、そこに辿り着く前の研鑽部分の碑文だ。

 次のように刻まれているらしい。
 特徴于数理 入同邨数学家佐藤田之門 修天元術及天生法 
 天元術及天生法を修めたのは同じ荒井村の数学家佐藤田の門だと解釈する。

 これを、今までの想像と結び付けてみる。
 まずは、「佐久間文庫 由来」で「最上流宗統派の系譜」で整理した方々の外に「佐藤元竜田」と表記される方がいらっしゃったことを確認した。
 次に、その方を半沢氏の「歴史地図」に和算家で医師であったと紹介される荒井小校長格の「佐藤元竜」氏ではないかと想像した。
 今回は、この荒井村に天元術及天生法が学べる佐藤田の門という数学塾の存在が確認できたという事だ。
 この「佐藤田の門」と称している数学塾が半沢氏の「歴史地図」に紹介される荒井小校長格の「佐藤元竜」氏の私塾と想像してよさそうに思ったのだ。その事で、想像の確からしさが高まったようにも思えるのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2018-10-07 10:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

義民太郎右衛門霊堂⑦

 年を越してしまったが、区切れのいいところまで話を進める。
a0087378_472329.jpg 散歩中は勘違いしたままだったが、「地蔵原堰堤」で荒川を渡った後、ここ義民太郎右衛門霊堂まで散策しながら歩いた道筋は、「義民太郎右衛門霊堂の誌」の前段にあった「佐原堰」の風景そのものだった。
a0087378_3544198.jpg この荒川を渡った「地蔵原堰堤」は、他の14基の堰堤とともに暴れ川を制する治山治水の最初に建設された基幹的役割を担う砂防堰堤施設として、平成20年(2008)3月19日国の登録有形文化財(建造物)に登録されたとの案内板が建つ。ここは、荒川の下流に広がる扇状地の扇頂部に位置するとのこと。
 暴れ川を制する治山治水の施設としてのみ案内されるが、佐原堰の取水口でもあるということだ。

 「福島発水のあした 第2部 共生の知恵【6】 荒川【福島民友(2010/4/14)】」では、暴れ川の荒川を制することについての紹介に多くを割いている。
 http://www.minyu-net.com/serial/mizunoasita/20100414/mizunoasita.html 注目は、ごくわずかではあるが以下のような恵みをもたらす側面についても紹介されていることだ。
 水林自然林の上流にある大正から昭和にかけて造られた「地蔵原堰堤」の左岸にある佐原堰。同市佐原の会社社長尾形一郎さん(62)は堰から引いた水を利用し、先祖から受け継いだ水田で「ひとめぼれ」を生産している。「荒川の水はきれいなのでおいしい米ができる。首都圏でも人気がある」と尾形さんは誇る。
 今回の散歩では、荒川の川筋の堰として佐原堰とともに、荒井堰、名倉堰についてふれたが、荒川には現在9つの堰があって、福島市西部の約1780haの農地を潤しているという。その他、住民の生活用水としても利用されているとのことだ。
 勿論、「昔から、大雨で河川が決壊するたびに治水や砂防の改修工事が行われてきた。大正、昭和期は地元の農家の人たちが従事した」と、手ごわい暴れ川との付き合いについてもふれるが、その姿勢は共存だ。
a0087378_44281.jpg 義民太郎右衛門霊堂の丘の南側から見える「荒川発電所」。
 情報がなかなか見つからないが、「3,100kW 東北電力(株) 電気事業用」とのこと。この上流に流れ込む塩ノ川から取水する「土湯発電所」は、「2,380kW東北電力(株) 電気事業用」とのことだ。
 こちらも、荒川が恵みをもたらしている風景に見える。
a0087378_4124840.jpg 「地蔵原堰堤」の施設は、堤長74.4m堤高8.7m、石積粗石コンクリート造の堰堤で、その下流に副堰堤を付けた暴れ川を制する砂防ダムだが、これを目にするときにはその役割を意識しない。水のある豊かな自然に溶け込んだ風景として眺めている。
 これも荒川がもたらす恵みの側面と見えなくもないとも思うが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2016-01-01 08:34 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

荒井用水取水口

 今回の荒井村の散歩での大きな見え方の変化の一つが、石田川(荒川用水)の灌漑を意識したことだ。a0087378_7194817.jpg
 水林公園から「地蔵原堰堤」へ向かう途中に、その荒井堰取水口に出会っている。ただ、この散歩の時点では、荒井用水が灌漑する荒井地域を意識していない。四季の里を流れる奔流と水林自然林の中を佐倉堰の方に流れていくあたりをイメージしているだけだった。

 その水林自然林の散策の時には、荒井用水の流れよりは「かすみ提」の方に興味が向いていた。荒井用水の流れは、どちらかというと脇役だった。
a0087378_721154.jpg 水林公園から「地蔵原堰堤」へ向かうのに、人工的な堤防を歩いている時にも、気になっていたのは、荒井用水よりも東側の古い土手の堤防の方で、地蔵原の低地部分を荒川の氾濫から守る施設ということの方に意識は向いていたように思う。

a0087378_7221148.png 四季の里を流れるのが荒井用水の奔流だが、こちらの見え方も、水を取り込んだ公園ということで周りの施設への興味の方が強くて、荒井用水の流れそのものを意識していなかったかもしれない。
 それが、今回の荒井散歩の中で、この地域を潤す主役の川である石田川(荒川用水)を強く意識した。特に強く印象に残ったのは、「鷺」地域あたりの風景だ。ここで、川は大きく南に蛇行するのだが、そこから川石田灌漑地域が大きく広がる風景には強く印象付けられた。
 〇 土湯会津道を歩いてみる⑨~信夫の浦と信夫が原
 http://kazenoshin.exblog.jp/21872419/ 
 四季の里から流れ出た石田川(荒川用水)は、一直線にその「鷺」地域に向かい、荒井散歩とつながる。
 その後、梅後館辺りでは堀の役目も意識してみたりしたものだから、更に強く荒川用水)を意識するようになったように思う。
 土湯会津道を歩いてみる⑩~梅後
 http://kazenoshin.exblog.jp/21873905/
 その見え方が、それ以前に整理した「歴史地図」の次の解説とつながる。
 地名に、○○内とつくのは、中世以降に開拓、集落が形成されてきたところかと思われる(在家)。石田川(荒川用水)灌漑地域にあり、開田が可能なところである。
 その反対に用水路が引けない山麓には○○原という地名が多い。

by shingen1948 | 2015-12-25 08:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

名馬タマツバキ号

 道筋を確認するのに「荒川散策Map」をお借りしたら、そこに「名馬タマツバキ号の墓」がプロットされていた。気になって確認したら、昭和23年~26年にかけて活躍したアラブ系の競走馬らしい。
 「ふくしま散歩」によれば、自衛隊演習場の舌状の高地の西側に広がる「地蔵原」では、酪農とかかわりながら開けていった経緯があるらしい。散歩中に見つけたわけでもなが、今回の散歩と結び付けて整理しておいてもよさそうに感じてきた。

 福島の地の人方にとっては、競馬は身近で愛着を持つ方が多いようで、地元ではこの名馬タマツバキ号はよく知られているようなのだが、自分は知らない。ここで整理するのは、ネット情報からの自分なりの読み取りの範囲だ。

 名馬タマツバキ号のデビューは昭和23年で、昭和26年末に引対するまでの戦績自体は75戦35勝で、それ程目立ったものではないようだ。
 競馬には「斤量」というハンデ戦があるそうで、そちらとのかかわりでの名馬ということらしい。

 タマツバキ号は、5歳時からその能力を発揮して勝ち鞍をあげていき、その負担重量がどんどん増していったということだ。これが、並外れたタフネスぶりだったということのようだ。
 7歳時には、とうとう83キロの極量を背負って走るハメになるのだが、この重量を背負っても阪神競馬場で4連闘したとのとこと。
 その戦績が、80キロ以上の斤量を背負って21戦6勝だったそうで、これが驚異的な成績とのことだ。
 この馬は、引退後種馬となって36歳まで生きたという。これも、競走馬としての長寿のレコードを作ったのだとか。

 この名馬物語の裏には、サラブレッドとアラブという系統とのかかわりで敗者の影も見える。それがあるから興味を引くということもある。
 かつて、日本ではサラブレッド競馬とアングロアラブの競馬との馬種による競走体系が組まれていたとのことだ。ところが、時の流れの中で、中央競馬で生き残りを果たしたのはサラブレッド系のみとのことだ。だが、この名馬タマツバキ号は、アラブ系だったとのことなのだ。
 それに伴い、競馬ファンの中でも、アングロアラブの神馬たちは忘れ去られていくという運命をたどったというのだ。

 今回の散策では、伊達氏によって信夫の里の支配から追いやられた二階堂氏を感じたのだが、今回の散策範囲で、支配から追いやられたこととかかわるのは、それだけではない。最近、再評価されつつある田沼氏の下村藩も、今回散策した地域の話だ。この辺りは、蒲生氏によって中心地から周辺地に追いやられた西在の地域でもある。
 名馬タマツバキ号の中央から追いやられる敗者の影と、これらが重なって見えてしまったのだ。
by shingen1948 | 2015-12-24 08:29 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 ここが昔の土湯街道沿いならば、その街道筋に似合う風景の痕跡を探してイメージを膨らませたいと思った。a0087378_4515865.jpg その痕跡の一つに祭り上げてみたいのがこちら。
 この御不動様。道筋の左手の崖下に建っている。よくは分からないが湧き水がかかわる風景のようにも見える。
a0087378_45386.jpg もう一つ祭り上げてみたい痕跡が、この「地蔵原湧水とそこから流れ出た水筋」。
 現在は堰提の構造体の一部に取り込まれてしまっているが、この構造物ができる大正時代以前には、街道の右手にこの湧き水があって、その向こうに荒川の奔流が流れていたとの風景の想像もよさそうに思ったのだ。

a0087378_4542823.jpg この湧き水、今回の散策にかかわってもう一つの見えた方もある。
 自衛隊演習場の舌状の高地の西側に広がる地蔵原の湧き水という風な見え方もありそうに思う。「ふくしま散歩」の情報では、自衛隊演習場の舌状の高地の西側に広がる「地蔵原」は酪農とかかわりながら開けていった経緯があるらしい。その中の湧き水の想像だ。
 そんな想像とかかわりそうな情報も、お借りした「荒川散策Map」にプロットされている。「名馬タマツバキ号の墓」とある。残念ながら見逃したが、ネットで確認すると、昭和23年~26年にかけて活躍したアラブ系の競走馬らしい。
by shingen1948 | 2015-12-23 08:50 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_6433716.jpg 昔の土湯街道と案内されるのは「地蔵原堰堤」前を通る道筋だ。これは、その昔の土湯街道と案内される道筋を、「地蔵原堰堤」の案内板が建つあたりから、歩いてきた方向(北側)にカメラを向けて撮ったものだ。
 この道筋に入るまでは人工的な荒川の堤防の上を歩いてきていた。
 実際に歩いている時には気づいていなかったのだが、この人工的な堤防は東側の地蔵原の低地部分を荒川の氾濫から守るためのものということだ。今思えば、だからこそ荒川用水の取水口があり、左手に古い土手の堤防を見ながら進んできたということのようなのだ。
 昔の土湯街道と案内される自然の道筋と今回の散歩で確認した古い街道の道筋とのつながりということを意識すれば、古い街道の道筋は、この低地と微高地形との間を昔の土湯街道と案内される道筋に向かって等高線に近い自然な勾配で進んできたのではないかと想像される。
a0087378_645519.jpg こちらが、道筋の堰堤から先を眺めた風景だ。
 少し行った先から上り坂は急になるが、荒川沿いの道筋だ。右手に写りこんでいるのは、その荒川の「地蔵原堰堤」の構造体とつながる部分だ。

 その先の「荒川散歩Map」が、「大暗渠砂防堰提」と案内される構造体辺りまで進んでみる。
a0087378_647222.jpg
a0087378_6481063.jpg

 ここが、その「大暗渠砂防堰提」であろうと思うのは、近くに建つ「荒川散歩Map」の案内板が示す現在地の表示とのかかわりだ。
a0087378_649142.jpg
a0087378_6492590.jpg

by shingen1948 | 2015-12-22 08:41 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

地蔵原付近の主要な道筋

 震災当時、ずっと家にこもっていて息が詰まりそうだったので、家族を連れて四季の里に行き、思い切り深呼吸してほっとしたものだった。ただ、今思えば、その時の四季の里は放射線量が0.4μSv/hあったのでそれ程低いわけではなかった。しかし、当時明確な表示もなければ情報もなかったので漠然とではあるが、福島市西部は比較的放射線量が低いだろうと推定し、息が詰まりそうになるととりあえずこの辺りを中心に散歩していた。
 それで、「地蔵原堰堤」付近を散策したのはその頃だろうと思っていた。

 しかし、「地蔵原堰堤」付近の散策時の写真データを確認したらは、2011/2/24になっている。震災前のようだ。
 この時に歩いたのは、荒川資料室を出発し、水林公園から土手道を通って、「地蔵原堰堤」に行き、その上部まで散策した後、「地蔵原堰堤」の道で荒川を横断して佐原村に出て、そちらの散策をして家に戻るというコースだった。

 その「地蔵原堰堤」付近の散策と今回の荒井村の散歩と関連するのが、堰堤の前の道筋が昔の土湯街道との案内があったことだ。
 その時には、荒井村側の主要な道筋の経緯と道筋が明確に分かっていなかったので、道筋としてのイメージにまで広げることができなかった。それが、今回の荒井村散策を通して、地蔵原までの主要な道筋の変遷が確認できたので、その道筋とのつながりが当時よりは少し明確になったように思う。 今の段階でのイメージを整理しておく。

 今回も「荒川散策Map」の案内地図を使わせていただいて、地蔵原付近の主要な道筋を想像も交えて整理する。
a0087378_531431.jpg 赤い線の道筋の一つが、「地蔵原までの主要な道筋」で整理した現国道115号線のうち、明治39年開設当時に存在した道筋だ。明治45年に新たな道筋が加わるが、この辺りの道筋としてはほぼ変わりなく現国道115号線となったと思われる。それで「明治39年に開設現国道115号線」と表記した。
 「歴史地図」によれば、この道筋は当時ここ地蔵原までだったとあることを参考にした。この時点で当然「江戸時代の土湯街道」は、すでにあった道筋でこれも「江戸時代の土湯街道」として赤い線の道筋として示した。明治44年の改修では土湯街道としてはこの道筋が案内され、現115号線の道筋の赤い線の部分は、地蔵原までの道筋で案内されたらしいことは、先に荒井村役場前の道標の案内として整理した。
 水色で示した現国道115号線の地蔵原から先の道筋は、昭和4~7年にかけての開通とのことだ。確証はないが、この時点で現国道115号線の道筋が新たな土湯街道になったのだと思う。
 これらを考慮して、もう一つの赤い線で示した「昔の土湯街道」と案内される道筋とのつながりをイメージすれば、「江戸時代の土湯街道」との関係性が高いのだろうと想像した。それで、今回は、その部分を黄色い点線で示してみた。
 ただ、堰堤を造るための道筋であった可能性も考えれば、「明治39年に開設現国道115号線」とのつながりの可能性もなくはないとも思う。
by shingen1948 | 2015-12-21 08:29 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「歴史地図」には、叺内地区の道路を挟んだ南の中島地区に大わらじと足尾山がプロットされている。解説メモはないが「大わらじ」が気になった。
a0087378_9173550.jpg これが、その大わらじ。
 大きさにそれほど感動しないのは、見慣れた信夫山の大わらじと比べてしまうからだ。ただ、地区内の集落で継続していくには手頃かなという感じがする。

 信夫山の大わらじは、その巨大化で目を引き、奉納も客寄せのパフォーマンスになっている。
 しかし、これだって、当初からそうだったのではなかったとの解説も見る。羽黒神社にあった仁王門に安置された仁王様の大きさにあった大わらじを作って奉納したのがはじまりだと言われているのだとか。
 それが、明治政府の政策で仏教的な要素の仁王門が撤去されたことに伴って、羽黒神社境内の足尾権現に奉納するように変化したようだ。この時点でも、足尾権現に伊勢参拝などの長旅に出かける人々から健脚、旅の安全などを祈っての奉納だろうから、わらじを奉納するという行事は由来と乖離していない。
 客寄せのパフォーマンス性が強まるのは、羽黒神社に五穀豊穣、家内安全、身体強健などを願って奉納するようになってからなのだろうと思う。その結果として、わらじが巨大化したのだと思う。
a0087378_9232337.jpg 案内の標柱に「中島の足尾様と大わらじ」とある。
 その説明は消えていて読めないが、この大わらじが奉納される「中島の足尾様」は右手の祠で、「中島」はこの集落名らしいことは分かる。地区の集落の正月行事かなと思う。左手に写る川は、荒井用水。
by shingen1948 | 2015-12-20 09:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)