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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:芭蕉の足跡 ( 119 ) タグの人気記事

 前回まで、福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見え方とのかかわりで、近くの寺々の移動情報を確認してみた。すると、その寺院の移動再建には上杉氏の家臣団のかかわりが強く感じられるようになった。
 実際の黒岩虚空蔵堂・満願寺散策では、たくさんの上杉氏の家臣団がかかわることを沢山目にしていたのだが、強く意識することはなかった。それが、これらの情報と接することで深く意識できるようになってきているように思える。

 福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見え方で、もう一つ気になるのは、「芭蕉の足跡」として整理している「奥の細道」とのかかわりだ。
 仙台市の満願寺は、以下のように元々奥州白河郡関山の満願寺と案内された。

 「傳云奮在本州白河関。聖務帝。天平中為東夷静謐祈願建寺。安置光明皇后護持佛閲浮檀金聖観音。行基菩薩開山也。當家先君世崇敬之寄附神馬黄金等」

 この白河関山満願寺が、福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見え方を経由して、仙台市の満願寺に繋がるということだ。その白河の関山満願寺には、芭蕉一行も訪れているということでのつながりだ。

 東北に住む者にはよく分からないが、都の人間にとっては陸奥という言葉には特有の感覚があるらしい。それで、外から東北に入る方々にとっては、「白河の関」にはその都から連続する世界との境界というシンボリックな特別なイメージを持つようなのだ。
 「奥の細道」では、そのテーマの出発点という意味もあって、芭蕉一行は旅心としてこの特別な「白河の関」を超えたとの実感が欲しかったようなのだ。
 しかし、芭蕉が白河を訪れた元禄2年(1689)の頃には、関跡とされるところがいくつかあって、この「白河の関」の所在地が曖昧だったようなのだ。
 それで、「関明神」にたどりついた芭蕉一行は、現在「古関跡」と比定される地も訪ねることになるようだが、そこには実体はなく曖昧さが残ったままだったようなのだ。というのは、旗宿の西の小高い丘にある「叢祠」があるところが、その「古関跡」だと定信公が断定するのは100年後の寛政12年(1800)とのことなのだ。

 芭蕉一行は、その「古関跡」を訪ねた後、霧雨の中関山に登って満願寺を訪ねてから矢吹に向かうのだが、その間のどこかで、ようやく旅心が定まったということなのだろうと思う。

 「白河観光協会ガイドマップ」では、この事について「源義経が参詣したと伝えられ、その面影を求めて芭蕉も立ち寄っています」と案内される。また、「奥の細道」にかかわる案内には、この寺が古刹故に芭蕉一行が訪れたというのも見る。
 しかし、ただの散策人には、芭蕉一行がここを訪ねた主目的は、旅心としてこの特別な「白河の関」を超えたとの実感を求めて関山の満願寺を訪ねたということなのだろうと思えるのだ。ただ、 結果的には、その古刹満願寺を訪ねているという事なのだろう思う。

 「白河観光協会ガイドマップ」では、その満願寺は次のように案内される。
 「満願寺(真言宗智山派)
 標高619mの関山の山頂にある山岳寺院で、聖武天皇が天平勝宝7年(755)、光明皇后の追善と万民のため、行基菩薩を開山として建てた寺院で、本尊の聖観音は天皇の持仏と伝えられています。また、聖武天皇御願所という勅額も伝来しています」

 「白河市のホームページ」では、その「聖武天皇御願所という勅額」について説明する中で、「満願寺の縁起」についてふれ、以下のように説明する。

 「『満願寺の縁起』には『行基東国より南部に帰り当山の霊場なることを奏上し、天平年間に開基し、光明皇后御宇三国伝来閻浮檀金の正観世音像を安置し皇室の祈願所とし、成就山満願寺といい、光明皇后の御親筆の額字を賜りたるを以て光明院という』と記されている」

 満願寺と聖武天皇と光明皇后とのかかわりが微妙に違うように説明されるが、同じページの「銅鐘」の解説では、「白河観光協会ガイドマップ」の解説に近い関係性で説明される。
by shingen1948 | 2019-02-18 12:17 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 手持ちの信夫の里散策資料では、一具氏が文政2年(1819)から4年間西裏の大円寺住僧だったという情報しかない。
 だからといって、全く手掛かりがないという事でもない。というのは、この方が浄土宗名越派奥州総本山專称寺で修行された方ということが分かっているからだ。

 信達地方には、この浄土宗名越派の庵が相当存在し、地域の人々の心に浸透していたという話を整理している。その概要を「蓮光寺への立ち寄り~地域の人々が伝える祈る心にかかわて」で整理している。
 最後に辿り着いた無能上人は熾烈過ぎるだろうが、「地域の人々が伝える祈る心」として整理した庵の住僧の方々のような過ごされ方ではないかと想像する。
 https://kazenoshin.exblog.jp/21283723/

 その中で、少なくとも俳諧の師でもあり、4年前に須賀川の市原たよ女を訪ねてて三人で歌仙を巻いた白石の修験「千手院」権大僧都岩間清雄法印の動向情報は持ち合わせていたはずだと思うのだ。
白石市広報誌「彼の生涯は旅に始まり旅に終わった【漂白(さすらい)の俳人 松窓乙二】」から、その時代の情報を拾ってみる。

 文政元年(1818年)に、63歳の法印は、函館の斧の柄社中からの要請にこたえて、3月下旬再び箱館にむかう。白石から七ヶ宿街道を、金山峠から上山、新庄、秋田、碇が関を通過し、弘前青森を経て8月15日に函館入港。門弟布席の家に着く。
 そして、翌年乙二氏を慕って素月尼が函館にきた素月尼が9月に客死する。乙二氏はその素月尼の遺骨を携えて松前に渡り、12月には松前を出て津軽の三厩に着く。
この出来事の年に、一具氏が西裏の大円寺住僧となっている。

 乙二氏は、翌年津軽の三厩を出て、弘前青森を経由して5月に白石に戻る。
 そして、この夏には北海道を経て中国地方への旅を計画して、越後に出る。しかし、水原で発病してしまい、迎えに来た息子の十竹に介護されて白石に戻る。
 それ以来、病床に就くことが多くなり、文政6年(1823)7月9日には、68歳で入滅する。

 一具氏が、大円寺の住職を後輩の坊さんに譲り江戸に登るのが、この年なのだ。
 この情報がかかるわっているのかどうか気になる所だが、行動が重なったということでしかないのかもしれない。


 一具氏が江戸に出た後、大坂の鼎左と共に「芭蕉翁奥の細道松島の文碑」建立の嘉永4年(1851年)までの乙二氏情報も確認しておく。

 先に、須賀川の多代女氏が江戸に出て、一具氏宅に3か月滞在して江戸から鎌倉江の島まで歩き、俳句仲間や学者と交流したことについてふれた。女氏にとっては、天保期(1830~44)の俳諧番付で前頭筆頭となるきっかけになる交流だったようだが、これが文政6年(1823)だ。それから続く乙二氏かかわりの情報。

 文政 8年(1825年)乙二の三回忌追善集「わすれす山」(きよ女編)
 文政10年(1827年)乙二の五回忌追善集「五とせ集」(太橘編)刊
 天保 6年(1835年)「乙二七部集」(一具道人・布席編)
by shingen1948 | 2018-12-24 10:17 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 文政2年(1819)から4年間西裏の大円寺住僧一具氏は、磐城山崎村の専称寺で修行を重ね、天明の大飢餓(1781~1788)の時期に村山市楯岡の儀徳山本覚寺で得度をしているという。

 專称寺はそのころ、浄土宗の奥州総本山、そして同宗名越(なごえ)派の檀林(大学)だった。東北各地からやって来た修行僧が、寮舎で寝起きしながら勉強したという。
 名越派の特徴としては一念業成を説くことであり、いわば一念の念仏で、往生が決まるという教えだったということだ。
 白旗派の良暁はこれを異議だとし、江戸幕府を味方に付けて統合してしまうが、一時は非常に強い教線を張り、多くの傑僧と呼んで良い逸材を輩出ししたということだ。

 笹谷の熊野神社で「来迎山称名庵」が気になり、確認していったことを「地域の人々が伝える祈る心」として整理して行ったら、無能上人が称名念仏の中入寂された塞耳庵に辿り着いた。
 これが、專称寺が浄土宗の奥州総本山として非常に強い教線を張り、多くの傑僧と呼んで良い逸材を輩出していた頃の痕跡を辿る散策だったらしいということだ。

 文政2年(1819)から4年間西裏の大円寺住僧だった一具氏もまた、文化年間初期からおよそ20年その系統の修業をしていた僧らしいということだ。
 その修行僧時代の時期に、白石の修験「千手院」権大僧都岩間清雄法印と出会ったらしいということだ。

 「更にもう一つの奥の細道⑤」で、文化12年(1815)に、一具は乙二と連れ立った俳諧の旅に出て、須賀川の市原たよ女を訪ねて三人で歌仙を巻いたことにふれた。
 これが、西裏の大円寺住僧となる4年前だ。
 修行を終えて楯岡の本覚寺に戻る時期に重なる頃だろうか。
 この時、白石の修験「千手院」権大僧都岩間清雄法印である乙二氏は60歳。
 その乙二氏の前書きは「無南法師とともに石住といふ奥山家に宿りて」とのことで、一具氏を「無南法師」と呼称している。
by shingen1948 | 2018-12-21 09:29 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 一具氏が強い影響を受けたという松窓乙二氏がどんな方かを確認している。その方がお住まいだったという白石の修験「千手院」は、現在存在しない。
 一具氏も出入りしていたであろう、その「千手院」のあった位置位は確認したいところだ。

 いろいろ探り初めの頃は、ヒントの情報として「白石城の鬼門である北東に位置」とあることと、その街道筋に亘理医院があったので、こちらかなと思っていた。
 しかし、確認を進めていくと、現亘理歯科医院あたりとする情報が最も確からしいということが分かった。
 その情報源が白石市の広報誌「しろいし(1992・5月号)」だ。ここに乙二 氏を特集する記事があり、そこに安政3年の白石城下地図をもとにした情報だった。

 今回の乙二氏の確認を通して印象が強くなったのが、乙二氏の本性は亘理氏であるということだ。この事はいろいろな解説で知っていたが、それ程印象深い事ではなかった。
 それが、確認を通してその印象が強くなったのだ。

 「千手院」は、亘理郡の城主片倉小十郎景綱が慶長7年に白石城に移った事とかかわって白石に移ったが、元々は亘理郡にあって、四十余りの修験場の頭としてはぶりを聞かせていたというだった。これは、前回整理した事だが、これも亘理かかわりだ。
 それだけではなく、安政3年の白石城下地図に描かれる「千手院」と現況を照らし合わせると、おおよそ「現亘理町」の範囲と重なっているようなのだ。
 更には、ご子息は現在亘理姓のようなのだ。

 広報誌の特集題は、「彼の生涯は旅に始まり旅に終わった【漂白(さすらい)の俳人 松窓乙二】」ということで、その旅の行程まで詳しく記される。
 漂白(さすらい)の俳人という生き方も、一具氏に影響を与えていたのだろうなと思うがどうだろうか。
by shingen1948 | 2018-12-18 11:32 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 「更にもう一つの奥の細道⑦」で、「子規手製俳句カルタ」に乙二氏の句も「乙二 凍るぞといふ声わびし草履の緒」として紹介されていることについてふれた。
a0087378_1145147.jpg これは、「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められる「子規手製俳句カルタ」の乙二氏のその句の札だ。

 一具氏は松窓乙二氏の門人という関係性がある。それで、今回は、その松窓乙二氏について少し確認しておこうかなと思う。

 松窓乙二氏は、蕉風俳句を受け継ぐ「奥州四雄」 のひとりということで、その関係性は語られる。しかし、氏には別の顔もあるようだ。
 その一つが、氏は白石の亘理町にあったという「千手院」という修験の住職だったということだ。
 修験の家については何度か整理しているが、自宅に祈祷所をつくり、戦勝や防災・家内安全など様々な祈祷を仕事としていたということだ。
 修験は、修業のために他の地域に移動する事も多いので、城主からスパイのような情報収集を命じられることも多かったともいう。

 この「千手院」だが、元々は亘理郡にあって、四十余りの修験場の頭としてはぶりを聞かせていたということだ。
 その「千手院」が白石に移るのは、亘理郡の城主片倉小十郎景綱が慶長7年に白石城に移った事とかかわるとのことだ。
 この時に、「千手院」初代清昭氏が乞われて白石城下の鬼門の方角に千手院を移したとのことだ。

 乙二氏は、宝暦5年(1755年)に、その「千手院」六代清聲氏の長男として誕生する。(情報によっては、清聲氏は千手院第九代とするものもある)。その父清馨(隣々舎麦蘿)氏に俳諧を学んだという事だ。
 整理すると、松窓乙二氏は、俳諧師の顔の他に、千手院第七代?あるいは十代?の修験で、権大僧都岩間清雄法印という顔があるということだ。
 これとかかわって、更にもう一つの顔が、白石城主第10代 片倉小十郎景貞(俳号 鬼孫)の俳句の師匠であり、よき知恵袋だったということだ。
by shingen1948 | 2018-12-16 11:48 | Comments(0)
 後に正岡子規氏は、蕉風俳諧を月並み俳諧文学的と攻撃されることになる。
 「はて知らずの記」の子規氏が郡山あたりで、その前兆的な兆しをみせている。正岡子規氏が瑞巌寺を訪れるのは、その後の流れだ。
 それで、正岡子規氏の一具氏評を確認しているところだ。

 前回は、「子規手製俳句カルタ」で正岡子規氏の一具氏評価を推定した。
 他に正岡子規氏の一具氏評価の推定ができそうなのが、「獺祭書屋俳話」かかわりだ。
 獺祭書屋主人こと正岡子規氏が、新聞「日本」に掲載された俳話のようだ。その「鉢叩(はちたたき)」の項で、一具氏の「はちたたき雪はしまくに西へゆく」が取り上げられていることだ。
 
 他の方の一具氏評価に然程興味はないのだが、俳句についての素養を持ち合わせていないので、一具氏像を描くのにそれらの評価に頼らざるを得ないところがある。

 嘉永期に板行された「正風俳人鑑」で最高位の大関に番付されているとの情報がある。
 江戸時代には、さまざまなものにランク付けが行われ、その番付として公表されたという。
 俳人の番付も、文化文政期頃から各種出されて、幅広い交流をもとうとする俳人たちの情報源になっていたとのことだ。この「正風俳人鑑」もその中の一つのようだ。

 正風というのは本来的には必ずしも蕉風の独占的用語ではないそうだが、芭蕉ゆかりの俳人は、自分たちの俳風を正風と称したのだそうだ。これは自己の風を天下の正風と誇示しているということのようだ。

 「早稲田大学図書館」ホームページ「古典籍データベース」で、今まで確認した方々を視点に、その番付を見てみる。ここでは、いろいろな俳人の番付表が確認できる。

 「大日本誹諧高名竸 (嘉永3年<1850>)」で一具氏が最高位の西大関に番付されていることが確認できる。
 「正風俳人高名鏡」では、「大阪鼎左」が三番目にランク、「陸奥多代女」が十八番目にランクされるのが確認できる。
 「俳諧正風競」では、勧進元に一具氏の名があり、西の大関に多代女氏がランクされている。
 年代不明の「正風俳人鑑」で、八番目に大阪鼎左氏が、十六番目に江戸一具氏が確認できる。
 慶応2年「俳諧名家鑑」最上段十八番目に、江戸一具庵愚春が確認できる。
 「現今東京俳家有名一覧(明治20年)」に、本郷区駒込西斤町十番地小川一具庵尋香が見えるが、この方は一具氏の門弟の方のようだ。

 「俳諧諸大家短冊現今価格表(明治40年8月改正)」なるものもある。
 その上位に河合曽良4円・謝蕪村3円・正岡子規2円・俳諧寺一茶2円等がみえるのだが、ここに松窓乙二氏が貳拾銭、鼎左氏が拾五銭、一具庵一具氏が八銭と値踏みされている。
by shingen1948 | 2018-12-14 10:47 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 正岡子規氏が瑞巌寺を詣でた際には、乙二氏の句を「独り卓然たるを覚ゆ」として、一具氏についてはふれていない。しかし、「俳句歌留多」などの情報と照らし合わせると、乙二氏同様俳人として高く評価しているらしいことが分かる。

 「『子規居士真筆俳句歌留多帖』考(復本一郎)」をガイダンスにして、を確認する。
a0087378_11132054.jpg 「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められる「子規手製俳句カルタ」の原本は10月18日~12月22日に、開館70周年記念展示として公開されているという。
 これは、その90番目に紹介される札だが、これが一具氏の句のようだ。
 その制作年代は、「国立国会図書館デジタルコレクション」では明治年間とするが、「『子規居士真筆俳句歌留多帖』考」では、明治27年(1894)ないし明治28年(1895)に成立しているとみているという。
 ここでは、55番目に「一具 町うらに夕日のこりてしぐれけり」として紹介されている。
 なお、乙二氏の句は39番目に「乙二 凍るぞといふ声わびし草履の緒」として紹介されている。

 また、ここでは、明治31年(1898)12月10日「ホトトギス」掲載の「俳諧かるた」も紹介されている。
 一具氏の句は、その95番目に「一具 町裏に夕日残りてしぐれけり」として紹介されている。子規手製俳句カルタと同一句だが、漢字かな表記が違っている。
 乙二氏の句は47番目に「乙二 凍るぞといふ声わびし草履の緒」として紹介されている。こちらは子規手製俳句カルタと同一句で表記法も変わらない。

 「子規手製俳句カルタ」と「ホトトギス」掲載の「俳諧かるた」の大部分は重なっていることだが、5人の作者の作品に異同がみられる事の確認ができるとのことだ。「ホトトギス」掲載の「俳諧かるた」の時期、子規氏は無村への傾倒が著しい時点とのことだ。
 復本一郎氏は、結果的には、「子規手製俳句カルタ」と「ホトトギス」掲載の「俳諧かるた」の大部分は重なっているのだが、俳句観の変化に伴って選び直しが行われたとみているようだ。

 散策人としては、「俳諧かるた」を見る限りでは、一具氏は子規氏に評価されているとみる。

 
by shingen1948 | 2018-12-12 11:17 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 「奥の細道」の芭蕉を追う「はて知らずの記」の正岡子規も仙台にやってきた事については先の「仙台散歩」でふれている。

 「仙台散歩⑭~「芭蕉の辻」⑤~「もう一つの奥の細道」とかかわって」と「仙台散歩⑯~「芭蕉の辻」⑦~「もう一つの奥の細道」とかかわって③」では、「奥の細道」の芭蕉を追う正岡子規について確認した。
 〇 「仙台散歩⑭~『芭蕉の辻』⑤~『もう一つの奥の細道』とかかわって」
 http://kazenoshin.exblog.jp/20986339/
 〇 「仙台散歩⑯~『芭蕉の辻』⑦~『もう一つの奥の細道』とかかわって③」
 http://kazenoshin.exblog.jp/20998316/
 そして、「仙台散歩⑰~『芭蕉の辻』⑧~『もう一つの奥の細道』とかかわって④」では、その子規が追う松尾芭蕉が元禄2年(1689)5月(新暦6月)に仙台にやってきたことについて整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/21001866/

 その後、榴ヶ岡周辺を散策した事については「再び仙台散歩」として整理しているが、ここでも子規の足取りと重ねて「『もう一つの奥の細道』とかかわって」として次のように整理している。
 〇「再び仙台散歩32~『もう一つの奥の細道』とかかわって」
 https://kazenoshin.exblog.jp/21169340/
 〇 「再び仙台散歩33~『もう一つの奥の細道』とかかわって②」
 https://kazenoshin.exblog.jp/21173959/
 〇 「再び仙台散歩34~『もう一つの奥の細道』とかかわって③」
 https://kazenoshin.exblog.jp/21176286/

 その正岡子規氏が、明治26年(1893年)7月29日、瑞巌寺を訪れている。
 「はてしらずの記」に次のように記しているという。

 「瑞巌寺に詣づ。兩側の杉林一町許り奥まりて山門あり。苔蒸し蟲蝕して猶舊觀を存す。古雅幽靜太(はなは)だ愛すべき招堤なり。門側俳句の碑林立すれども殆んど見るべきなし。唯
      春の夜の爪あがりなり瑞岩寺    乙二
の一句は古今を圧して独り卓然たるを覚ゆ」

 瑞巌寺の案内板に記された「(松島の文)碑の側面の句中、乙二の句には「古今を壓(あっ)して独り卓然」の子規評がある」というのは、この事を指していることが分かる。
 この時点では、子規氏は一具氏についてはふれていないが、「俳句歌留多」などの情報と照らし合わせると、乙二氏同様高い評価をしていることが分かる。
by shingen1948 | 2018-12-10 09:49 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 文政2年(1819)から4年間大円寺住僧の一具氏にかかわる情報を確認していくと、瑞巌寺の「芭蕉翁奧の細道松島の文」の碑もかかわりある事が分かる。
 瑞巌寺には何度も出かけているし、境内に巌窟や石仏、それに多くの碑が並んでいることは知ってる。ただ、これらを今まで意識的な見方をしたことはなかった。

 瑞巌寺の案内板の最後に、この碑について以下のようにふれている。
 「瑞巌寺境内の嘉永4年(1851)建立の「松島の文碑」は、芭蕉碑中でも屈指の物であろう。碑の側面の句中、乙二の句には「古今を壓(あっ)して独り卓然」の子規評がある」

 この碑は「抑ことふりにたれと松島は……」から始まる「芭蕉翁奥の細道松島の文」を刻したもののようだ。
 この碑を中心となって建立したのが大阪の鼎左と江戸の一具らしい。
 この碑の脇と裏には、12人の俳句が刻まれているという。
 その中に、江戸一具とあるのが、大円寺住僧高橋一具氏のようなのだ。
 松島や 水無月もはや 下りやみ 江戸一具

 催主大阪鼎左とあるのが、共に建立の中心となった藤井鼎左氏のようで、「寝れは水のうちにありけり千松島」が刻まれる。

 案内板でふれられていた乙二氏の句は「はるの夜の爪あかりなり瑞巖寺」
 この方は、一具氏にとっては俳句の師にあたる方のようだ。一具氏の経歴を確認すると、浄土宗名越派の奥州総本山「専称寺」で修業していた時期に、この松窓乙二氏の門下だったことが確認できる。

 その松窓乙二氏は、「日本国語大辞典」では「岩間乙二」として、以下のように紹介される。
 「江戸後期の俳人。別号松窓。奥州白石の千手院住職。夏目成美らとともに当時の四大家といわれた」

 一具氏とのかかわりで、少し確認できているのは、ここで須賀川多与女とある市原多代女氏だ。
 この碑では「こゝろやゝ まとめて月の 千松島」が確認できる。
 この方と一具氏との関りは、「専称寺」のあるいわき市の散歩資料で見かけている。
 文化12年(1815)に、一具は乙二と連れ立った俳諧の旅に出て、須賀川の市原たよ女を訪ねて三人で歌仙を巻いたとある。

 この方は須賀川では有名な俳人のようで、須賀川市のホームぺージ「須賀川人物伝市原たよ女」でも、福島県の「うつくしま電子事典」でも確認できる。
 「須賀川市人物読本 先人のあしあと」という資料では、48歳で実現した江戸登り記録「すががさ日記」が紹介される。
 そこに江戸に出た一具氏とかかわる記載が確認できる。
 1月25日に須賀川を出たたよ女氏は、9日目の2月3日に江戸に着く。そこで、江戸に出ていた一具氏宅に3か月滞在しているようなのだ。(資料では「俳句の仲間の一具庵夢南(いちぐあんむなん)という人」となっている。)この間に江戸から鎌倉江の島まで歩き、俳句仲間や学者と交流したことが記されるということだ。
by shingen1948 | 2018-12-08 10:05 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 奥州街道の西側の通りが、寺町通りで寺々が並んでいる。その寺町通りの別名が西裡通りだ。一具氏が住僧だったという幕末の大円寺を、案内では「西裏時代」と表現しているが、その「西裏」は、その西裡通りを指している。
 この通りには、現在も南から常光寺、真浄寺、誓願寺・安善寺・東安寺が並んでいる。その時代には、安善寺と東安寺の間に大円寺と常福寺があったということだ。
 この二つの寺は、明治14年(1881)の甚兵衛火災で焼失して以降再建されなかったということだ。

 以前「旧日本銀行福島支店役宅」に立ち寄った時に頂いた「福島城下町探訪」という散歩資料に、現況の地図と福島城や街道、それ西裡通りの寺々の様子を重ねた図があった。
 それを見ると、大円寺と常福寺の寺跡以外は、現況に当時の痕跡が色濃く残って居る事が分かる。寺だけでなく、寺前通りも現況とほぼ重なっているようだ。ただ、東安寺前の通りだけは、東邦銀行の建設に伴って南側に移動になったとのことだ。

 ということは、この二つの寺跡の様子を詳細に確認すれば、その時代の西裡通りがより豊かに想像できるという事だ。
a0087378_11431923.png ちなみに、「ふれあい歴史館まちあるき」資料によれば、福島城の防御の薄かった西側と北側の城下町の外郭に寺院を配置して強固な守りを実現したものとのことだ。西裡通りはその西の外郭にあたるということだ。
 なお、この西裡通りの常光寺については別の散策の機会に、以下でふれている。
 〇 「信夫橋8」
 https://kazenoshin.exblog.jp/8595428/

 〇 奥州街道、西裏通り
 https://kazenoshin.exblog.jp/6050181/

 〇 信夫の里の狐達21~信夫の里の独国和尚⑦
 https://kazenoshin.exblog.jp/17489069/

 また、西裡通りの康善寺についても以下でふれている。
 〇 無為山「康善寺」
 https://kazenoshin.exblog.jp/7797008/

 甚兵衛大火については、以下でふれている。
 〇 信夫橋9~甚兵衛大火
 https://kazenoshin.exblog.jp/8602747/

 〇 福島の歴史的風景リセット:甚兵衛火事
 https://kazenoshin.exblog.jp/6094603/

 なお、真浄寺については、寂光院とのかかわりで何度かふれているが、西裡通りの寺としては整理していなかったようだ。
by shingen1948 | 2018-12-03 11:47 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)