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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 「野田村郷士誌」が付録として掲げる「福島沿革誌」の「福島城之事」で掲げる「密語橋」から、その経緯部分を抽出してみる。
 福島城外曲輪密語橋の由来
 始め袖焼橋と云ふ 重次福島城普請の頃 笹木野邑字小針と云ひし処に杉杉の大木あり 枝木繁茂して耕作の障りに成りけれは村民訴へて伐木成しけるに切屑夜々大木の根元に集まり元の如く更に切りたる験も見へす
 「重次福島城普請の頃」の重次氏は、蒲生氏の客臣木村氏だ。この方が福島城普請の頃ということなので、つまりは蒲生氏の客臣木村氏が福島城下整備の頃ということだ。
a0087378_5122570.jpg この木は、元々は「笹木野邑字小針と云ひし処の杉の大木」とのことだが、その地とされるのは福島市吾妻公民館西側で、ここに、「王老杉稲荷神社」の鳥居がたち、松ノ木の下に「王老杉稲荷」の石宮が建っている。(この写真は、2009年6月のもの)。
 地元「野田村郷士誌」が紹介する王老杉伝説は、次のようなものだ。
 大昔、この地に幾千年も経った大杉があった。この精霊が若侍になって、近郷で一番の美女とよばれた「おろす」という娘のところへ、毎晩熱心に通い続けた。おろすは不思議に思ってある晩、侍の袴の裾に小針に糸をつけてその後を辿って行ったところ、この大杉の枝に小針が止まっていたのであった。この話を聞いて村中は大騒ぎとなり化け杉を切り倒そうとしたが、伐った木端が翌朝になると全部元のように木についてしまうという不思議な霊杉であった。この杉と中の悪かった「よもぎ」の霊の知らせで木端を火で焼いてしまえばよいと教えられついに倒すことが出来たのであった。
 ここから、地名にかかわる伝説が続く。
 「福島城外曲輪密語橋の由来」では、この木のすさまじい再生能力に、木の精のようなものを感じることが表現されるのは「王老杉伝説」とのかかわりであることはすぐに分かる。
 要は、この木は本来切ったりしてはいけない御神木だろうということだ。
 それを切っちゃったということだが、注目は伝説では、これが村人の願い出で伐木してやったとある。つまり、話者は蒲生公の家臣木村氏に近い立場で情報を流しているということだ。この情報操作は何を意味するのかな。
by shingen1948 | 2016-01-09 09:07 | Comments(0)
 愛宕山泉福寺は現存しない。先に記したように、「野田村郷土史」では、愛宕山泉福寺のその後について、「笹木野町の大火に焼失したので福島市真淨院に合寺してしまった」と紹介する。
 その位置想像は何度か変わったが、現時点では現愛宕神社を含む笹木野宿並みの範囲と想像している。
a0087378_5504257.jpg これは、笹木野宿から現愛宕神社の追分を右折して直ぐの地点から現愛宕神社の後ろを見ている。赤い屋根がその現愛宕神社だが、この辺りが愛宕山泉福寺との想像だ。

 先に「小字笹木野町」内にこだわったのは、「野田村郷土史」の「万治2年下野寺村が分村した際に、この寺を笹木野町の愛宕山に移し、愛宕山泉福寺と改めた」の「笹木野町の愛宕山に移し」の部分だ。ただ、確認していくと、「野田村郷土史」の地区の概念は小字にこだわっていないように思われてきた。その文化圏というアバウトな範囲を指すことが多いように思えた。ならば、「小字町続」も含めた範囲でもよさそうに思ったところに、「福島市史」では、「小字町続」と紹介しているのを見たということだ。
 市史では、笹木野宿北端「小字町尻」の仏母寺が、笹木野宿開設より古い事を紹介した後、次のように紹介する。
 南端にも泉学院・泉福寺があった。この寺はもと下野寺の薬師堂(または鶴巻)にあった古寺で、万治2年に町続きに移されたといわれる。愛宕堂もこれと並んで建てられてあった。
  「愛宕堂もこれと並んで建てられてあった」とあるが、「幕末頃の両上野寺・下野寺(本郷・分郷)・両笹木野(御領・私領)・八島田要図」を眺めれば、現愛宕神社の位置に「泉福寺」がプロットされる。「愛宕神社御縁起」にも「当社(愛宕神社)と隣接した福島真淨院○泉福寺」とあった。
 これらを考慮すれば、現愛宕神社を含む笹木野宿並みの範囲の中に泉福寺があったと推定しているのだろうと想像されたということだ。
 「愛宕神社御縁起」からも、愛宕山泉福寺と愛宕権現堂の関係性の強さも読み取れる。愛宕山泉福寺が、愛宕権現堂の別当寺という関係性なのかもしれないとも思う。

 「笹木野町の大火に焼失したので福島市真淨院に合寺してしまった」と紹介されるその消滅だが、その立場上、愛宕権現の愛宕神社改変にともなう選択の影響の可能性もありそうにも思えてくる。
 「笹木野宿愛宕堂」で記したように、西の国々の方々の確立した宗教観に基づく慶応4年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈で、修験道に基づく愛宕権現が廃される。明治3年(1870年)には、大元である白雲寺も廃寺に追い込まれて愛宕神社に強制的に改組されるとのことだ。当然、笹木野宿の愛宕権現もまた、強制的に愛宕神社に改組されたとのことなのだろうと想像した。
 このことと関連付ければ、愛宕権現が廃されて愛宕神社に改組された結果として、愛宕山泉福寺は別当寺としての機能を失ったことも影響したとの想像もできる。
 ただ、寺本来の機能として必要な部分が残るわけで、それが真淨院に引き継がれているという見え方もできそうに思うのだが、これは他所者の邪推的な読み取りかもしれないな。
by shingen1948 | 2014-05-30 05:55 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 史実は、資料に基づいて実証的に考察するということであれば、笹木野宿愛宕神社は、「愛宕神社御縁起」がいう「神仏焚書の神社」であるらしいことが災いする。
 「野田村郷土史」によれば、愛宕山泉福寺もまた、笹木野町の大火に焼失した上に、福島市真淨院に合寺してしまったということから、その資料は心細いということのようだ。
 勝手な言い分だが、実証的な考察からでは、どちらも捉えにくい状況なのだろうと思っている。多少、想像の翼を広げてもよさそうに思う。
a0087378_944467.jpg ここは、笹木野宿の愛宕堂追分道標から旧米沢街道を西にすすんだ古碑群のある地点からの眺め。右手の赤い屋根がみえるのが愛宕堂で、ここはその裏手という位置関係でもある。
 ここに写る辺りから、北は稲荷社の西手の墓地付近の範囲辺りまでのどこかに、愛宕山泉福寺をイメージしてみている。
 「のりしろ散歩~米沢街道 町続と野寺情報」では、泉福寺の位置を「小字笹木野町南端近く」と推定していた。それを上野寺の散歩で得た情報と感性的なイメージで、その範囲を広げた。
 具体的な情報としては、吾妻公民館前の「吾妻地区史跡文化財案内」で「愛宕神社」裏手に「泉福寺」がプロットされることと、「福島市史」の「幕末頃の両上野寺・下野寺(本郷め分郷)・両笹木野(御領め私領)・八島田要図」では、「愛宕堂」の地点に「泉福寺」がプロットされていた。
 散歩の中では、稲荷社の西手の墓地に沿うようにその西側に消えた道筋があって、その道筋をたどってくるとこの旧米沢街道の古碑群の地点にたどり着くという事。それに、上野寺の散歩で、大林寺の旧地のイメージが「武隈稲荷」と「釈迦堂」が「元大林寺」とセットになっているという感性的なこともある。
 ここでは、「愛宕神社」と「稲荷社」、それに「笹木野宿開基者の眠る墓」を愛宕山泉福寺とセットにしたイメージにしてみたということ。

 先に泉福寺の位置を小字笹木野町南端近くと推定しているのだが、上野寺散歩を元にすると、もっと「愛宕神社」と近いのではないのかなという印象が強くなったということがある。
 先の推定は、「野田村郷土史」に泉福寺が笹木野宿に移動することについて「万治2年下野寺村が分村した際に、この寺を笹木野町の愛宕山に移し、愛宕山泉福寺と改めた」としていることを元にしている。「笹木野町の」にこだわれば「小字笹木野町」の範囲であり、「愛宕山」にこだわれば愛宕堂に近いということで、その南端近くと推定したところだ。ただ、「笹木野町の」=「小字笹木野町」としたことだが、「野田村郷土史」では「笹木野町の」をもっとアバウトにその文化圏ともいうべき広い範囲を指しているようにも思える。それなら、愛宕堂のある「小字町続」も含めてもよさそうにも思えてきたという事もある。
 愛宕山の概念だが、近くに山はないのでその方向的概念とみれば、下野寺北西のイメージということかな。
by shingen1948 | 2014-05-28 09:07 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 笹木野宿愛宕堂を語るのを見受けないのは、この風景がごくありふれた風景だからなのだろうと思う。しかし、当方は、笹木野宿愛宕堂が勝軍地蔵が祀られた愛宕権現堂だったのだろうという想像が固まって、ようやく気分的に落ち着くことができた。
a0087378_10104924.jpg 笹木野宿愛宕堂のこのお地蔵様や古碑群が建ち並ぶ宇堂の建物に鳥居が建つこの風景の左手にはお地蔵様の道標が建つのだが、これをごくありふれた風景とみることができるようになったということだ。

 その鳥居が最近改修されたようで、鳥居の脇にはその記念碑が建つ。その鳥居への思い入れが「愛宕神社御縁起」から部分的に以下のように読み取れたと思っている。これをもとに、その鳥居への思い入れを重ねてみる。
 当社の鳥居は南部○といわれるものであった。柱の○後ろに控柱を設け、本柱と陀柱の隣に貫を通したもので敦賀の○○神社や宮島の厳島神社などの神仏焚書の神社に建てられたというから、当社もその例によったものと思う。
 「敦賀○○神社 宮島 厳島神社」の「神仏焚書の神社」の鳥居と当社の鳥居という関係性を述べている事が分かる。これを確認して行くと、「日本三大木造鳥居」という概念にたどりつく。
 それが、春日大社の「一の鳥居」、安芸(広島)の厳島神社(宮島)の鳥居、若狭(敦賀市)の気比神宮の鳥居のようだ。
 ここから「敦賀○○神社」は気比神宮を指すことが想像でき、「敦賀の○○神社や宮島の厳島神社などの神仏焚書の神社に建てられた」は、「敦賀の気比神宮や宮島の厳島神社などの神仏焚書の神社に建てられた」ということになるのだろうと思う。
 その構造的な記述は読み取れていないが、これらの神社と笹木野宿愛宕神社の共通項である「神仏焚書の神社」ということの誇りとその鳥居の改修という事が結びついたという思い入れが読み取れる。
a0087378_10124431.jpg
 地蔵尊道標の道標部分だが、「北・西・南」は先に読み取れていたが、その先が読み取れていなかった。今回読み取れたのは、どなたかが汚れをふき取ったらしいからだ。
 「北ふくしま 西よねざわ 南たかゆ」だった。写真では「ゆ」がちょっと切れちゃった。
by shingen1948 | 2014-05-27 10:14 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 旧沢街道福島道は、笹木野宿の愛宕神社を右折して西に向かって進むようになる。そこを「のりしろ散歩」ということで、南進して上野寺付近を歩き回った。
 そこで得た感覚的な事と情報を元に、旧沢街道福島道歩きに戻ってくると、今まで見ていた風景と少し違って見える。
 その一つが「110.6mの三角点のある丘」の風景で、三回に分けて整理した。
 もう一つ気になっていた風景が、この笹木野宿の愛宕神社の風景だ。「野田村郷土誌」がいう「愛宕山泉福寺」と笹木野宿の風景から感じる事を統合できそうな気がする。

 その手始めに、笹木野宿の愛宕神社の風景。
a0087378_1675534.jpg 「野田村郷土誌」では、「愛宕堂」としている。確かに、鳥居はあるが建物は宇堂である。そこに違和感を持つのは神仏習合の風景に慣れていないからなのだろう。
 神仏習合時代の「愛宕信仰」についてウィキペディアで確かめると、その愛宕の神については、次のように解説されていた。

 愛宕の神とされるイザナミは神仏習合時代には勝軍地蔵を本地仏とし、軻遇突智(火産霊尊とも)も共に祀った。現在でも、愛宕の縁日は地蔵と同じ毎月24日である。また、現在でも火産霊命が祭神とされる。
 「愛宕権現」の項では、「愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とし、愛宕山白雲寺から勧請されて全国の愛宕社で祀られた」との解説。
 神仏習合時代の愛宕信仰は、現代風の感覚でとらえれば、火伏せ神+地蔵信仰かな。

 のりしろ散歩の撮りためた写真を眺めていたら、愛宕神社宇堂内に掲げられていたらしい「愛宕神社御縁起」の張り紙が写っているのをみつけた。
 そこでは、御祭神は、加具上命(火産霊神―火を司る神)と神社としての体裁を整えている。
 その本文だが、読み取れる部分を拾い読みしてみると、「勝軍地蔵を本地仏とし」とある地蔵信仰とかかわるらしい事も記載されているようだ。
 「愛宕権現の本地仏を勝軍?地蔵尊とし」が読める。当社の御神体のお姿に関わっては、「武人の信仰も厚かったらしい。当社の御神体もたしか馬上の○○お姿であったことを想いだす」という部分が拾い読みできる。
 「勝軍地蔵尊」の姿を確認すると、「甲冑を着け、白馬にまたがり法旗と宝剣を持ち、隆昌安住の三味を往する神像」との事。それに近いお姿らしいことが書かれているらしい雰囲気が想像できる。
 戦国時代には、愛宕権現は勝軍地蔵が垂迹した軍神として武士からの信仰を集めるということで思い出すのが、大河ドラマ「天地人」の直江兼続が兜。
 その前立に「愛」をまとっていた理由の説の1つとして、愛宕信仰説があったということ。適時性ということでは、ちょっと遅いかな。

 西の国々の方々の確立した宗教観に基づく慶応4年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈で、修験道に基づく愛宕権現が廃される。明治3年(1870年)には、大元である白雲寺も廃寺に追い込まれて愛宕神社に強制的に改組されるとのことだ。当然、笹木野宿の愛宕権現もまた、強制的に愛宕神社に改組されたとのことなのだろうと想像する。
 とりあえず、この愛宕堂は、勝軍地蔵が祀られた愛宕権現堂だったのだろうという想像が固まる。

 「愛宕神社御縁起」で、もう一つ興味深いのが、愛宕権現と泉福寺との関係性が強調されているということだ。
 愛宕権現堂の創建年代を万治2年からあまり隔たることはないとするその理由が、泉福寺が下野寺村から当地に移転した年が万治2年だからだとある。そして、その泉福寺の位置も「当社と隣接した福島真淨院〇泉福寺」と表現されている。
by shingen1948 | 2014-05-26 16:12 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「のりしろ散歩~米沢街道の一里塚情報」との絡みでみたこの丘は、先に別の視点でも眺めていた。
 それが「標高110.6mの三角点のある丘」だ。

 直接的には、岩代清水の泉と池をめぐったとき、その風景とのかかわりでこの辺りの標高が気になったこととのかかわりだ。この散歩で眺める風景が、土地の微妙な高低差とかかわっているのだ。この辺りの風景は、標高110m~90mの範囲の高低差なのだが、これを散歩の中で実感しながら歩くために、正確な標高と散歩での実感を連動するのに、三角点にこだわったことがあったのだ。この丘を意識したのは、案内図にある中江渠筋の川筋を追っている時だ。
a0087378_18253322.jpg
 この丘の上に標高110.6mの三角点があるという推定からここに立ち寄っていたが、その三角点は確認しないままになっていた。その時の様子を「岩代清水の泉と池をめぐる⑮」でふれている。2011年 02月 15日だから、2011年3月11日の震災の少し前のことだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/12116842/
 今回は、手前の畑地風の土地での耕作はしていないようなので、ちょっとお邪魔してその三角点を確認したということ。

 2011年3月11日の震災では、おおきく揺すられたことで表面的になだらかに繕った地形はもろくも破壊されて、元々のその地の地形が表出した。
 その揺すりだされたその地の本来的な地形を確認して歩いたのは、「今からおもえば」として整理した続きで、震災から2か月後から「揺すり出された風景」を確認するのにもこの高低差の実感が役だった。
by shingen1948 | 2014-05-24 18:29 | ◎ 水 | Comments(0)
 米沢街道と呼称される街道はいろいろあるようだが、のりしろ散歩で米沢街道と表現しているのは福島での呼称で、別称は板谷街道。その道筋も、大森道と福島道の二つの道筋がある。ただ、旧道として意識して歩いていたのは大森道の方で、福島道の方は、明治になって開発された道筋を意識して歩くことが多かった。
 今回は、こちらも旧道の方を意識して歩いてみている。

 その米沢街道の大森道でも一里塚情報に接したことはなかった。それが、「天保国絵図」の中に一里塚位置情報が入っていることに気付いたということ。
 この事について「のりしろ散歩~上野寺散策の散策に米沢街道(大森道)の散策を重ねる②一里塚」でこの大森道の米沢街道の一里塚についてふれた。
 ここは、米沢街道(大森道)と二子塚が分かれる直ぐの地点ということで、比較的その位置が特定しやすかった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/19776408/
 「のりしろ散歩~請(清)合内附近の米沢街道情報④」の中では、福島道の米沢街道の一里塚についてふれた。ただ、この付近の米沢街道福島道の道筋自体が曖昧だ。その上に、位置情報としても飯坂古道と米沢街道の分岐点から笹木野宿の間のほぼ中心付近という曖昧なものでしかなかった。それで、ここはおおよそこの辺りでないかなぁという程度の想像でしかない。
 http://kazenoshin.exblog.jp/19564998/
 「天保国絵図」には、もう一カ所の一里塚位置情報がある。
 その位置情報として読み取れたのは、福島道の庭坂宿と笹木野宿の間という程度だった。この道筋は比較的読み取り易いのだが、距離感がつかめなかった。
a0087378_556792.jpg
 それで、当初はこの塚を自分なりにその候補地の一つではないかと仮定していたところがあったのだが、結果的には違っていた。
 その違うなと思ったのは、今回大森道の米沢街道の一里塚を確認したこととかかわる。
 大森道の一里塚付近から庭坂宿までの街道はほぼ直線に近いのだが、福島道の方も、笹木野宿から庭坂宿の間も直線に近いのだ。
  それに、「天保国絵図」の絵図もアバウトな描き方のように見えて、比較的距離が正確らしいということがあって、その絵図に描かれる一里塚の位置情報が、庭坂宿からの距離がほぼ同じ辺りと読みとれたのだ。
 その事を考慮して地図と見比べると、山神神社よりもやや庭坂宿に寄った付近と読みとれる。この辺りの米沢街道福島路は、奥羽本線に分断されるのだが、その位置は、その奥羽本線を越えたあたりなのではないかなと想像している。
 したがって、ここが一里塚の候補地の一つとの仮定は崩れ去ったという事。
by shingen1948 | 2014-05-23 06:10 | ◎ 米沢街道 | Comments(0)
 笹木野宿の小字を確認すると、野田小附近が小字「町尻」、門屋附近が小字「町」で、愛宕社の附近が小字「町続」。
a0087378_5262190.jpg
 ここが、その小字「町続」の愛宕神社だが、鳥居はあるものの古碑群の並びや建物からは、宇堂の雰囲気が醸し出される。
 「歴史地図」では、神社のマークが記されるのみで、メモ表記はない。その前に並ぶ「青麻神などの古碑群」と「追分道標」が表記される。
 「野田郷土誌」では、この愛宕社を寺院に分類し、「愛宕堂」として以下のように解説される。
 愛宕堂
 笹木野町続にあり元愛宕山泉福寺と並んで当地の名刹であった。昔から生糸の市場が開かれたので、毎年その季節には大変賑やかであったと伝えられる。
 ここに「泉福寺」が紹介されるのだが、地域では、上野寺村と下野寺村が分離された時に、この寺が下野寺村の菩提寺となったとされている寺だ。その寺に「元愛宕山」の冠がついて、所在地が小字「町」であるように紹介される事が気になった。
 それで、同誌の中で、泉福寺についての紹介を確認する。
 薬師山泉福寺(真言宗)
 昔下野寺の菩提寺であって、字薬師堂の浄土の辺りにあったと伝えられる。又一説には字鶴巻にあったとする説もあるが今浄土に残っている古碑は鎌倉時代頃のものと推定される古いものであるのと、地名が寺に縁の深い点から見て前者(字薬師堂の浄土の辺り)の方と察せられる。
 気になることとつながるのが、次の解説だ。
 「万治2年下野寺村が分村した際に、この寺を笹木野町の愛宕山に移し、愛宕山泉福寺と改めた」とあり、「この後、笹木野町の大火に焼失したので福島市真淨院に合寺してしまった」とある。

 後半の寺の行方とかかわる火災は、先に整理した「仏母寺」移動や門屋資料焼失の火災と同じかなと想像する。
 「仏母寺」は、この火災で、小学校附近から現在地に移動したとのことで、門屋資料焼失も火災によるものとの情報だった。今のところその時期情報は得られないが、この大火で、こちらの寺は福島市真淨院に合寺する運命をたどるということだろうか。
 前半にかかわる小字笹木野町の愛宕山の正確な位置情報は得てはいないが、「仏母寺」が小字町尻だった事や、小字町続にあるこの愛宕堂の位置などから、小字笹木野町南端近くかなと勝手な推定をしている。
 そんな想像で遊んでいると、愛宕堂が宇堂であるという風景ともかかわるものなのかということも気になってくる。
by shingen1948 | 2014-04-20 05:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「信達ニ郡村誌」では、米沢街道は「清合内より下野寺に入り、3町7間にして復び本村台に入り、西に赴」いた後、「笹木野村の経界を為し16町6間にして桃木町、上台畑の間より西隣より笹木野村に入る」とする。その「地勢」の項に、「(村の)東部に米沢街道を受く」に続いて、「街道渠(渠道に循がって流るを以て名とす)、道に循がって東流す」とある。
 その西南部は「街道渠を以て笹木野村及び下野寺村と界し」とある風景として、「街道渠」も米沢街道の道筋を確かめる視野に入っていた。
a0087378_5201420.jpg
 「街道渠」というイメージで捉えていた水路は、八島田陣屋跡付近の散策に入る手前から街道から外れて、南に回り込むようになる。その「渠」筋は、野田小学校のプール附近で一度見失う。
 その「街道渠」が、野田小学校の正面付近から笹木野宿の道筋を越えて再び現れる。
 見失ったプール附近からこの地点まで校舎と校庭の間を流れるというのが自然な渠筋だと思うが、現況は小学校の北側を流すように改変しているようだ。
a0087378_5212996.jpg 笹木野宿の道筋を横切った「街道渠」は、この地点で分流されている。ここに写る道筋は、仏母寺の五叉路を西に進んだ道筋だが、自分が「街道渠」とイメージした流れは、この道筋を横切って南側に展開する。
 もう一つの流れの方は、この道筋に沿って東流する。こちらの流れの方は、八島田陣屋跡付近から、米沢街道の北側にその流れを展開していくことになる。
 下八島田村附近の「歴史地図」に「野田堰(街道渠)」と記されるのは、こちらの水路筋の本流のようである。本来的には街道の北側の下八島田村や森合村を潤すための堰であり、こちらを本流とするのが正しいのかもしれない。
 街道に沿った堰筋を「街道渠」と勝手にイメージしているのだが、本来の目的からすれば、こちらはその支流ということなのかもしれない。

 この「街道渠」につながる水路の上流だが、これが先に南沢又村の水路を追ってたどり着いた堰筋と重なる。この流れのもう一つの分流筋ということだ。その上流が阿部邸の南側を流れている堰だ。
 また、この散策の時に道標を見つけたのだが、その「ふくしま道」が、仏母寺の五叉路を西に進んだこの道筋と重なり、ここから米沢街道(福島道)につながるということのようだ。
by shingen1948 | 2014-04-18 05:25 | ◎ 水 | Comments(0)
 笹木野宿を起点とする飯坂古道の一つの道筋が、仏母寺の西側の道筋だが、その道筋がここまでで切れるのではない。
a0087378_5262392.jpg 飯坂古道につながる道筋は、西に延びる道筋を越えて、更に新道を越えて南に延びている。
 笹木野宿の街道筋を意識すれば、その裡道にあたる道筋で、現況では小字界の道筋になっている。この細い道筋の痕跡は、稲荷神社までたどる事ができる。笹木野宿の街道筋との距離は、イメージ的には二軒分の幅だが、所によっては一軒分の境にも細い道筋が走る。

a0087378_527161.jpg 「野田村郷土史」によれば、この稲荷神社は、万治年間(1658~1660)大阪方の重臣茂木一族が笹木野宿場を開いてから、当地の鎮守とされたのだとか。祭神は宇迦之御魂大神で、農業の神という。

 現況は開けているが、稲荷神社の周りや裏側に大きな切り株が見える。
 この辺りは、街道沿いの街並みの西側に相当する。屋敷林(いぐね?)だったのだろうと想像する。ならば、街道裡道に相当する小字界の細道の東側は、この屋敷林群が広がる風景だったのだろうか。

a0087378_5331289.jpg 米沢街道側からこの稲荷神社へ向かう右手の民家に「米沢街道(福島道)笹木野宿検断・門屋跡」の標柱が建つ。
 「野田村郷土史」の「笹木野宿」の項に、「笹木野宿場は、大阪落城の後、豊臣の重臣、茂木某一族と共に当地に下り、原野であった笹木野に宿場(駅)を開いたのが初めてで、今尚問屋と呼ばれる本家が残っている」とある。そのこととのかかわりだろう。
 その茂木某一族については、以下のように解説する。
 笹木野町の名付け親である。
代々米沢家から信任篤く数々の賜り物や、系図書もあったが火災で焼け落ちた。
 清光院殿夏山淨雪大禅定門(承応3甲午年4月29日卒)当町開基
 福島城下とイメージを重ねれば、福島城代本庄重長氏の時代かな。亡くなっている年が重なっている。
 福島城代本庄重長氏は、本庄繁長氏の六男で、父の跡を継いだ兄の充長氏が嗣子無きまま没したので、寛永2年(1625年)禄高3333石で福島城代となり、寛永5年に侍頭となり、同じ承応3年10月2日に享年53歳で亡くなっている。

 「野田村郷土史」は、笹木野宿の成り立ちにかかわっては、次のように解説する。
 昔の駄賃は米一俵を1里運んで15文が相場、物価高騰後も殿様の指定荷物駄賃は上げられず、渡世の馬子は追々減り、仕方なく村の石高に応じて割り当て人夫を出させられるようになる。
 宿場から遠い方部の人々は何時も割り損な荷物しか当たらないので物議が絶えず、遂に万治元年宿場に近い方部のみを笹木野村として分村してしまった。
 この宿場が明治維新まで続き笹木野町として栄えた。
 
by shingen1948 | 2014-04-17 05:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)