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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 県内各報道は、文化審が19日に以下の5か所18件の建造物が新たに登録有形文化財(建造物)に登録するよう文部科学相に答申したと報じていた。(2019/7/20報道)
 〇 会津若松市の福西本店七件、竹藤(たけとう)四件、仙峡閣一件
 〇 伊達市の旧熊倉家住宅二件、
 〇 大熊町の石田家住宅四件

 信夫の里を中心に散策している者としては、この中の近隣の伊達市の旧熊倉家住宅も気になるところだが、仙峡閣も気になった。
 仙峡閣は会津若松市の芦ノ牧温泉にあり、入母屋造りの大屋根に千鳥破風を飾り、正面には社寺建築の細かな意匠が残る建物とのことだ。注目したのは、この建物が福島市の板倉神社にあった演武場「武徳殿」を移築・復元し温泉旅館に転用したということだ。

 福島市にあった武徳殿という事を頭において「武徳殿」を確認すると、明治28年(1895)に設立された大日本武徳会の支部道場ということであったろう事が想像される。また、戦前までは、地方の武徳殿は、現在の武道館に相当する機能を果たしていたとのことだ。
 その変質について整理したことがある。
 信夫山を散策して「信夫山の神々の変質」として整理した時に、「歴史地図(半沢氏)」の「戦争と信夫山」に福島市の板倉神社にあった「武徳殿」について以下のように紹介されている事にふれていた。

 「板倉神社近くの武徳殿は昭和13年に黒沼社の裏手に東郷山乃木庵修養道場として移築さ
れ、軍国主義の一翼を担った。」
 https://kazenoshin.exblog.jp/4749112/

 更に、「信夫三山~松川と競馬場の情報⑤」で、この「東郷山乃木庵修養道場」とかかわると思われる「乃木庵跡」を散策したことについて整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/10657318/

 この時にふれた石碑は、乃木庵維持会が、昭和14年に二本松藩士の方の敷地寄付に対する感謝碑だ。
 乃木神社由緒に、中央乃木会についての以下のような説明がある。

 「時の東京市市長阪谷芳郎男爵は先頭に立って広く同志を集め、中央乃木会を組織し、乃木邸内の小社に御夫婦の御霊をお祀りしました。また、毎年9月13日にはその御前に祭儀を斎行するとともに青少年への研修会を開催するなど、御夫婦の精神を永世に伝えようという活動が活発に続けられていきました」

 半沢氏の歴史地図の「軍国主義の一翼を担った修養道場」との解説と重なると想像したところだった。
 この散策時には、昭和21年のGHQによる強制解散と日本政府による財産没収により消滅と勝手に想像していたのだが、実際には芦ノ牧温泉旅館として移築・復元されていたということなのだろうと思う。
 その価値は、現存する古い道場建築が少なくなっているため、文化財としての価値が高まっているという事なのだろうと思う。
by shingen1948 | 2019-07-22 11:47 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 黒岩虚空蔵堂に「福島の算額」の探索で来た時には、「黒岩虚空蔵の算額」のみに着目して確認していた。ここは、既に記事として整理しているものと勘違いしていたのだ。
 というのは、若い頃にこの近所に住んだこともあり、それとは別の時期に勤務地が近かったということもあって、ここにはよく来ていたのだ。
a0087378_126640.jpg その勘違いに気づいて、「黒岩虚空蔵の算額」探索余談として、黒岩虚空蔵堂・満願寺にかかわる地域散策情報を整理してきた。
 これは、最近その情報をもとに自分なりの散策をしてみようと思って訪ねた時に撮った黒岩虚空蔵だ。

 その散策を整理する前に、ドナルド・キーン氏の「福島しのぶ紀行」で、この黒岩虚空蔵堂にふれていることを確認しておきたい。
 氏については、親日家であるといった程度しか知らなかった。それが、家族の中で話題になったのが、東日本大震災発生に伴って日本永住を決意されたというニュースだった。
 89歳というご高齢でニューヨークの自宅を引き払い、日本国籍を取得して、日本永住を決意されたというのだ。この決断を、単に親日家という範疇でとらえきれなくなったのだ。
 それで、氏に係る情報を目にすると確認するようにしていたのだ。

 今回、黒岩虚空蔵堂・満願寺散策情報を確認していて、「独りよがりのつぶやき」のブログの「黒岩虚空蔵堂 その8」に、氏が満願寺を訪れているという情報をみつけた。
 http://dajaro.blog40.fc2.com/blog-entry-658.html
 さっそく、「日本細見(ドナルド・キーン)【中央公論社】」を借り、その「福島しのぶ紀行」を家族間で回し読みしたのだ。

 前回の整理で、都の人々が陸奥という言葉には特有の感覚を抱くらしいことについてふれた。その感覚を追体験的しようと東北に入る方々にとっては、「白河の関」には、その陸奥と都から連続する世界との境界というシンボリックな意味を持つようなのだ。
 その白河の関を散策した歴史好きな方々は、次の散策地には会津を選ぶことになるようだ。
 「街道をゆく(司馬廉太郎)」も、その33で「白河・会津のみち」という構成にしている。このシリーズでは、白河から仙台までの間は実際の散策ではなく、念頭で奥の細道訪ねた風な整理になっている。

 「福島しのぶ紀行」によると、ドナルド・キーン氏も「白河の関」の次の散策地として会津を目指したようだ。
 それでも、福島に立ち寄ることになったのは、岩瀬書店の岩瀬太一氏に会津若松見学の前に福島市にも立ち寄ることを勧められ、案内されたからとのことだ。
 「白河の関」を散策したのが昭和30年で、それから23年後の7月の散策とのことなので、昭和53年7月ということだろうか。

 福島市に入って、「奥の細道」にかかわる史跡である信夫文知摺と医王寺訪れたようで、結果的に「紅毛奥の細道」で抜けた散策を補うことになったということのようだ。
 他に、大蔵寺とここ黒岩虚空蔵堂も散策したようなのだが、その中で一番気に入ったのは、黒岩虚空蔵の景色だったとして以下のように記される。

 「福島で一番気に入ったのは、黒岩虚空蔵の景色だった。虚空蔵は、どれも特に景色のきれいな場所に建てられているという話を聞いて、京都嵐山の虚空蔵に思いあたった。黒岩虚空蔵は、阿武隈川の渓谷を見下す崖の上にあり、その眺望たるや最高だ。寺院の裏へ回ると山の斜面に十六羅漢の石像がある。いずれもその自然の環境の中で、まったく実物かと見まごうばかりに配置されている。まるで石像にとって、そこで黙想することほどふさわしい行為はないかのようだ。たとえ石と化することを望まないにしても、ここは瞑想の場としてすばらしいところとなるだろう」
by shingen1948 | 2019-02-23 12:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

「黒岩虚空蔵の算額」④

 これは、「森谷岩松翁功績の碑」だ。
a0087378_11593115.jpg 案内柱の説明によると、この方は、明治4年に黒岩村長兼大蔵寺村長となり、後に大森村外18ケ村の村長となり、この地域発展に大きな功績があった方とのことだ。
 この碑は氏の7回忌に合わせて造立されたものとのことだ。
 その前面には、その功績が記され、その裏面にはその造立にかかわった大島要三氏ら17名の発起人とその賛同者 計170名の参加者名が記される。

 「黒岩虚空蔵の算額」が扱っている問題は、和算の最高峰に位する転距軌跡と、それに伴う重心問題を解く豁術の研究成果と位置付けられるとのことだが、ここに記される方々はこの地に平凡に暮らす方々だ。
 だとするならば、明治26年頃学びの年頃だった方々は、この碑が建立された明治45年6月頃には、地域の社会人として活動する年代になっているだろうと思えたのだ。
 それで、この碑の裏面に掲げられる「発起人」と「賛同者」の方々と照らし合わせてみた。
 すると、「賛同者」として、長澤政吉氏・赤間和市氏・長澤辰蔵氏・長澤常治郎氏が確認できた。 また、17名の「発起人」の中に、赤間彦四郎氏、中村熊治郎氏の二人が確認できた。

 17名の「発起人」の中には、信夫地域の時の実力者であった鈴木周三郎氏、内池三十郎氏、大島要三氏、青木金治氏が中心となっている。
 次の小杉善助氏・丹治清五郎氏、花輪利八氏は確認できないが、その次の阿部末之助氏が自由民権運動関係者だ。
 その後に記される大隈實岩氏・大隈宗演氏が満願寺の御住職のようで、その2名後に赤間彦四郎氏が、更にその2名後に仲村熊治郎氏が記される。
 この地域の代表として「発起人」に名を連ねたということだろうと思う。

 賛成者も、その上位には、角田林兵衛氏、内池三十郎氏、河野広中氏などの信夫地域の時の実力者が名を連ねる。長澤政吉氏・赤間和市氏・長澤辰蔵氏・長澤常治郎氏も、この地域の代表として名を連ねたということだろうと思う。

 なお、「黒岩虚空蔵の算額」で中村熊治郎とされる方と「森谷岩松翁功績の碑」で仲村熊治郎とされる方が同じ方だろうとの想像だ。「森谷岩松翁功績の碑」では「中村」氏は存在しない。すべてが「仲村」だ。

 自分の中には、時代と共に教養が高まってきたという思い込みの文化認識がある。しかし、今の時代の自分には、この地に平凡に暮らしていた方々の数学力に対応できる力を持ち合わせていないことが分かる。
by shingen1948 | 2019-01-06 12:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

「黒岩虚空蔵の算額」③

 前回は、「佐久間文庫」解説にある「和算の最後の花」とある「最後の花」について、「花」の方に重点をかけた解釈の場合として整理した。
 しかし、「黒岩虚空蔵の算額」には、「最後」の方に重点をかけた意味合いの見え方もある。
 この算額では、「最上流宗統派の系譜」の5伝曠齋氏の門人として6伝の長沢保斎氏である長澤忠兵衛氏の算法が記され、更にその保斎氏の門人として7伝の長澤辰蔵氏の算法が記される。
 「最上流宗統派の系譜」は、この7伝の長澤辰蔵氏で途切れるということだ。つまり、この方が「最上流宗統派の系譜」の最後ということだ。
a0087378_7272375.jpg この手振れの写真は、そのこととかかわる。ちらりと、「寄付  長沢〇蔵」と見えたような気がしたのだ。本当は家に戻って、写真で確認するつもりだったのだが、御覧のあり様。
 またの機会に確認するという課題メモになってしまった。

 さて、尾形貞蔵悦氏は、この最後の花である「黒岩虚空蔵の算額」を奉納する前年に、松川町黒沼神社にも同じような算額を奉納していることは「最上流宗統派の系譜」で整理している。
 その算額情報とも照らし合わせておく。

 「黒沼神社ホームページ」の算額紹介の写真で、長澤忠兵衛、赤間忠作、大槻重作、渡邉猪𠮷、尾形助太郎の奉納者を確認している。
 「黒岩虚空蔵の算額」には、その中の「長澤忠兵衛氏、赤間忠作氏、大槻重作氏」が確認できる。
 「黒沼神社の算額」にある尾形喜代松氏は尾形英悦氏の孫にあたる方との情報も得ている。その尾形英悦氏のお孫さんである尾形喜代松氏は、ここでは赤間忠作氏の門人として扱われている。

 ここからは勝手な想像だが、これは曠齋塾の組織だてがかかわっているのではないかなと思っている。直接的な指導者を〇〇門人としているのだろうと思うのだ。
 つまり、曠齋氏から直接手ほどきを受けるのが、長澤忠兵衛氏、菊池桝吉氏、大槻重作氏、赤間忠作氏であり、長澤忠兵衛氏から直接手ほどきを受けるのが、長澤辰蔵氏、長澤常治郎氏、赤間和市氏、中村熊治郎氏、丹治〇次郎氏ということだ。
 その見え方で見ると、尾形喜代松氏は曠齋氏のお孫さんではあるが、直接指導は森谷染吉氏、長澤政吉氏、赤間彦四郎氏、加藤亀次郎氏、長澤富蔵氏、森谷友太郎氏、赤間捨吉氏と共に赤間忠作氏から受けるということではなかろうか。
 年代別だろうか。
by shingen1948 | 2019-01-02 07:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

「黒岩虚空蔵の算額」②

 「黒岩虚空蔵の算額」は、先に整理した「最上流宗統派の系譜」とのかかわり眺めている。

 その初代は渡辺一氏で、最上流としては2伝。それが完戸政彝(まさつね)氏に継がれる。最上流としては3伝だ。
 それが、信夫地区の金沢村の丹治重治氏に受け継がれる。最上流としては、安政4年(1857) 4伝の算法印可を受ける。
 明治17年(1884)には、その門弟だった浅川村舩橋の尾形曠斎氏が5伝の算法印可を受ける。
 明治38年(1905)には浅川村下中沢の長沢保斎が6伝の算法印可を受ける。
 それを杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏が7伝となって引き継ぐのだが、ここで後継者なく、最上流が途絶える。

 「黒岩虚空蔵の算額」は、その「最上流五伝曠齋尾形貞蔵悦」の算額ということだ。ここで気になるのは、6伝の長沢保斎氏と7伝の長沢辰蔵氏がどうかかわるかということだ。
 前回確認した「曠齋門人として長澤忠兵衛氏」と「長澤忠兵衛門人として長澤辰蔵氏」とあるのが、これを意味している。

 先に整理した事だが、長沢保斎氏の碑文は次のように始まっていた。

 長澤保齊翁碑
 保齊翁通稱忠兵衛長澤氏信夫郡金谷川村淺川字中澤人也以
 嘉永元年四月生其家為考諱孫𠮷妣同氏翁生而穎悟特徴数理

 「長澤忠兵衛」は6伝の長沢保斎氏の通称ということだ。つまり、「曠齋門人として長澤忠兵衛氏」とあるのは、「5伝の尾形曠斎氏の門人である6伝の長沢保斎氏」と読めるし、「長澤忠兵衛門人として長澤辰蔵氏」とあるのは、「6伝の長沢保斎氏の門人である7伝の長沢辰蔵氏」と読めるという事だ。

 地域を散策するものとしては、ここまでの興味でしかなかったのだが、「最上流宗統派の系譜」を整理する中で、新たな見え方がある事を知った。
 この算額が扱っているのは、和算の最高峰に位するといわれる転距軌跡、それに伴う重心問題を解く豁術の研究成果と位置付けられるとのことだ。

 幕末の数学者で算変法の創始者として名高い法道寺善という方が、慶応2年に福島にやってきたそうだ。
 氏は、三春の佐久間家と松川の丹治家でその門人たちに2年間直接教授したとのことだ。そこから明治20年まで純然たる和算の方法で転距軌跡の問題を解くというその研究実績が目覚ましいものとのことだ。
 「佐久間文庫」解説で、「和算の最後の花」と表現するのは、この事を指しているらしいのだ。

 この算額は、その松川の丹治家にかかわる門人たちの研究成果の具現化されたものという見方ができるらしいのだ。
 なお、「和算『最上流宗統派の系譜』から⑯」で整理した明治24年4月に福島市立子山の稲荷神社に奉納された算額は、全国的には、法善寺善の門人達の算額という見え方があるようだ。
 その算額の題は「最上流宗統四世 明齋 丹治重治撰」。
 その算額にかかわる方を再掲する。
 上段に以下の方々の名が見える。
 安達郡沼袋 熊坂甚太・安達郡沼袋 國嶋彦八・信夫郡金沢 須田松五郎・伊達郡飯野 高橋藤吉・安達郡沼袋 野地伊三郎・安達郡下川崎 渡辺庄八・信夫郡金沢 菅野又治郎・信夫郡金沢 渡辺又七・信夫郡金沢 斎藤与惣右衛門・信夫郡松川 鈴木佐太郎
 その下段には、以下の方々の名が見える。
 信夫郡金沢 半澤子之吉・安達郡下川崎 野地勘之助・信夫郡金沢 丹治次郎蔵・信夫郡金沢 須田吉六・信夫郡金沢 渡辺勘之丞・伊達郡立子山 高橋千代吉・明齋丹治子通 信夫郡金沢 思齋丹治重満・信夫郡浅川 曠齋 尾形英悦 □印〇印・最上流五伝曠齋尾形英悦門人 信夫郡浅川 長沢忠兵衛

 信夫郡浅川 菅野徳衛門 謹写
 安達郡沼袋 菅野 与市 謹書

 「黒岩虚空蔵の算額」と重なるのは、「信夫郡浅川 曠齋 尾形英悦」氏と「信夫郡浅川 長沢忠兵衛」氏だ。
by shingen1948 | 2018-12-30 12:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

「黒岩虚空蔵の算額」

a0087378_126559.jpg これは黒岩虚空蔵様の正面左手に掲げられた算額だ。「最上流五伝曠齋尾形貞蔵悦」とある。最後に、「明治26年7月23日 菊池〇𠮷画、大槻童作書」とあり、「昭和41年3月3日復元奉納」とある。
 明治26年7月23日に尾形貞蔵悦氏が奉納したものを、昭和41年3月3日に復元したものであることが分かる。
 実際にはそこまで確認できるのだが、この写真はピンが甘く手振れを起こしてしまっている。実際に出かけて確認してきたということを示すだけになってしまっているのは残念だ。

 この黒岩の虚空蔵様には、何度も訪れているが、「黒岩虚空蔵の算額」を意識したことはなかった。その意義を知ったのは、「和算『最上流宗統派の系譜』から」を整理する中でだった。
 「和算『最上流宗統派の系譜』から」で整理したように、各種情報から奉納者を以下のように想像していた。

 「数学史研究」の中から、算額の類題を分類する情報の中に「黒沼神社の算額」の問題が確認できた。そこで確認できた長澤忠兵衛氏、赤間忠作氏、大槻重作氏、渡邉猪𠮷氏、尾形助太郎氏、齊藤卯之助氏の奉納者が確認できた。
 更に、明治26年、黒岩虚空蔵に曠斎門人が奉納したという算額からの問題も紹介されていることが確認できた。
 そこには、森谷染吉氏、赤間和市氏、赤間捨吉氏、赤間彦四郎氏、そして、曠斎門人長沢辰蔵氏の奉納者が確認できた。更に、「街角の算額」のページの「折々の算額」情報も加えると、杉妻村 中村熊治郎、杉妻村長沢富蔵もその奉納者の一人だったのではないのかなとの推定だった。
 http://streetwasan.web.fc2.com/oriori.html

 今回、直接奉納された算額を見て、奉納者について以下のように確認できた。

 曠齋門人として長澤忠兵衛氏、菊池桝吉氏、大槻重作氏、赤間忠作氏。
 長澤忠兵衛門人として長澤辰蔵氏、長澤常治郎氏、赤間和市氏、中村熊治郎氏、丹治〇次郎氏。
 赤間忠作門人として森谷染吉氏、長澤政吉氏、赤間彦四郎氏、加藤亀次郎氏、長澤富蔵氏、森谷友太郎氏、赤間捨吉氏、尾形喜代松氏。

 先に、この算額も松川町黒沼神社に尾形貞蔵他が奉納したという算額同様に、最上流五伝尾形貞蔵氏が、門弟たちの作問を検閲したものという感じのものだろうとの推定したところだが、その思いは変わらない。
 この算額も、最上流五伝尾形貞蔵氏が、門弟たちの作問を検閲したものという感じだろうか。
by shingen1948 | 2018-12-27 12:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 手持ちの信夫の里散策資料では、一具氏が文政2年(1819)から4年間西裏の大円寺住僧だったという情報しかない。
 だからといって、全く手掛かりがないという事でもない。というのは、この方が浄土宗名越派奥州総本山專称寺で修行された方ということが分かっているからだ。

 信達地方には、この浄土宗名越派の庵が相当存在し、地域の人々の心に浸透していたという話を整理している。その概要を「蓮光寺への立ち寄り~地域の人々が伝える祈る心にかかわて」で整理している。
 最後に辿り着いた無能上人は熾烈過ぎるだろうが、「地域の人々が伝える祈る心」として整理した庵の住僧の方々のような過ごされ方ではないかと想像する。
 https://kazenoshin.exblog.jp/21283723/

 その中で、少なくとも俳諧の師でもあり、4年前に須賀川の市原たよ女を訪ねてて三人で歌仙を巻いた白石の修験「千手院」権大僧都岩間清雄法印の動向情報は持ち合わせていたはずだと思うのだ。
白石市広報誌「彼の生涯は旅に始まり旅に終わった【漂白(さすらい)の俳人 松窓乙二】」から、その時代の情報を拾ってみる。

 文政元年(1818年)に、63歳の法印は、函館の斧の柄社中からの要請にこたえて、3月下旬再び箱館にむかう。白石から七ヶ宿街道を、金山峠から上山、新庄、秋田、碇が関を通過し、弘前青森を経て8月15日に函館入港。門弟布席の家に着く。
 そして、翌年乙二氏を慕って素月尼が函館にきた素月尼が9月に客死する。乙二氏はその素月尼の遺骨を携えて松前に渡り、12月には松前を出て津軽の三厩に着く。
この出来事の年に、一具氏が西裏の大円寺住僧となっている。

 乙二氏は、翌年津軽の三厩を出て、弘前青森を経由して5月に白石に戻る。
 そして、この夏には北海道を経て中国地方への旅を計画して、越後に出る。しかし、水原で発病してしまい、迎えに来た息子の十竹に介護されて白石に戻る。
 それ以来、病床に就くことが多くなり、文政6年(1823)7月9日には、68歳で入滅する。

 一具氏が、大円寺の住職を後輩の坊さんに譲り江戸に登るのが、この年なのだ。
 この情報がかかるわっているのかどうか気になる所だが、行動が重なったということでしかないのかもしれない。


 一具氏が江戸に出た後、大坂の鼎左と共に「芭蕉翁奥の細道松島の文碑」建立の嘉永4年(1851年)までの乙二氏情報も確認しておく。

 先に、須賀川の多代女氏が江戸に出て、一具氏宅に3か月滞在して江戸から鎌倉江の島まで歩き、俳句仲間や学者と交流したことについてふれた。女氏にとっては、天保期(1830~44)の俳諧番付で前頭筆頭となるきっかけになる交流だったようだが、これが文政6年(1823)だ。それから続く乙二氏かかわりの情報。

 文政 8年(1825年)乙二の三回忌追善集「わすれす山」(きよ女編)
 文政10年(1827年)乙二の五回忌追善集「五とせ集」(太橘編)刊
 天保 6年(1835年)「乙二七部集」(一具道人・布席編)
by shingen1948 | 2018-12-24 10:17 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 文政2年(1819)から4年間西裏の大円寺住僧一具氏は、磐城山崎村の専称寺で修行を重ね、天明の大飢餓(1781~1788)の時期に村山市楯岡の儀徳山本覚寺で得度をしているという。

 專称寺はそのころ、浄土宗の奥州総本山、そして同宗名越(なごえ)派の檀林(大学)だった。東北各地からやって来た修行僧が、寮舎で寝起きしながら勉強したという。
 名越派の特徴としては一念業成を説くことであり、いわば一念の念仏で、往生が決まるという教えだったということだ。
 白旗派の良暁はこれを異議だとし、江戸幕府を味方に付けて統合してしまうが、一時は非常に強い教線を張り、多くの傑僧と呼んで良い逸材を輩出ししたということだ。

 笹谷の熊野神社で「来迎山称名庵」が気になり、確認していったことを「地域の人々が伝える祈る心」として整理して行ったら、無能上人が称名念仏の中入寂された塞耳庵に辿り着いた。
 これが、專称寺が浄土宗の奥州総本山として非常に強い教線を張り、多くの傑僧と呼んで良い逸材を輩出していた頃の痕跡を辿る散策だったらしいということだ。

 文政2年(1819)から4年間西裏の大円寺住僧だった一具氏もまた、文化年間初期からおよそ20年その系統の修業をしていた僧らしいということだ。
 その修行僧時代の時期に、白石の修験「千手院」権大僧都岩間清雄法印と出会ったらしいということだ。

 「更にもう一つの奥の細道⑤」で、文化12年(1815)に、一具は乙二と連れ立った俳諧の旅に出て、須賀川の市原たよ女を訪ねて三人で歌仙を巻いたことにふれた。
 これが、西裏の大円寺住僧となる4年前だ。
 修行を終えて楯岡の本覚寺に戻る時期に重なる頃だろうか。
 この時、白石の修験「千手院」権大僧都岩間清雄法印である乙二氏は60歳。
 その乙二氏の前書きは「無南法師とともに石住といふ奥山家に宿りて」とのことで、一具氏を「無南法師」と呼称している。
by shingen1948 | 2018-12-21 09:29 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 後に正岡子規氏は、蕉風俳諧を月並み俳諧文学的と攻撃されることになる。
 「はて知らずの記」の子規氏が郡山あたりで、その前兆的な兆しをみせている。正岡子規氏が瑞巌寺を訪れるのは、その後の流れだ。
 それで、正岡子規氏の一具氏評を確認しているところだ。

 前回は、「子規手製俳句カルタ」で正岡子規氏の一具氏評価を推定した。
 他に正岡子規氏の一具氏評価の推定ができそうなのが、「獺祭書屋俳話」かかわりだ。
 獺祭書屋主人こと正岡子規氏が、新聞「日本」に掲載された俳話のようだ。その「鉢叩(はちたたき)」の項で、一具氏の「はちたたき雪はしまくに西へゆく」が取り上げられていることだ。
 
 他の方の一具氏評価に然程興味はないのだが、俳句についての素養を持ち合わせていないので、一具氏像を描くのにそれらの評価に頼らざるを得ないところがある。

 嘉永期に板行された「正風俳人鑑」で最高位の大関に番付されているとの情報がある。
 江戸時代には、さまざまなものにランク付けが行われ、その番付として公表されたという。
 俳人の番付も、文化文政期頃から各種出されて、幅広い交流をもとうとする俳人たちの情報源になっていたとのことだ。この「正風俳人鑑」もその中の一つのようだ。

 正風というのは本来的には必ずしも蕉風の独占的用語ではないそうだが、芭蕉ゆかりの俳人は、自分たちの俳風を正風と称したのだそうだ。これは自己の風を天下の正風と誇示しているということのようだ。

 「早稲田大学図書館」ホームページ「古典籍データベース」で、今まで確認した方々を視点に、その番付を見てみる。ここでは、いろいろな俳人の番付表が確認できる。

 「大日本誹諧高名竸 (嘉永3年<1850>)」で一具氏が最高位の西大関に番付されていることが確認できる。
 「正風俳人高名鏡」では、「大阪鼎左」が三番目にランク、「陸奥多代女」が十八番目にランクされるのが確認できる。
 「俳諧正風競」では、勧進元に一具氏の名があり、西の大関に多代女氏がランクされている。
 年代不明の「正風俳人鑑」で、八番目に大阪鼎左氏が、十六番目に江戸一具氏が確認できる。
 慶応2年「俳諧名家鑑」最上段十八番目に、江戸一具庵愚春が確認できる。
 「現今東京俳家有名一覧(明治20年)」に、本郷区駒込西斤町十番地小川一具庵尋香が見えるが、この方は一具氏の門弟の方のようだ。

 「俳諧諸大家短冊現今価格表(明治40年8月改正)」なるものもある。
 その上位に河合曽良4円・謝蕪村3円・正岡子規2円・俳諧寺一茶2円等がみえるのだが、ここに松窓乙二氏が貳拾銭、鼎左氏が拾五銭、一具庵一具氏が八銭と値踏みされている。
by shingen1948 | 2018-12-14 10:47 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 正岡子規氏が瑞巌寺を詣でた際には、乙二氏の句を「独り卓然たるを覚ゆ」として、一具氏についてはふれていない。しかし、「俳句歌留多」などの情報と照らし合わせると、乙二氏同様俳人として高く評価しているらしいことが分かる。

 「『子規居士真筆俳句歌留多帖』考(復本一郎)」をガイダンスにして、を確認する。
a0087378_11132054.jpg 「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められる「子規手製俳句カルタ」の原本は10月18日~12月22日に、開館70周年記念展示として公開されているという。
 これは、その90番目に紹介される札だが、これが一具氏の句のようだ。
 その制作年代は、「国立国会図書館デジタルコレクション」では明治年間とするが、「『子規居士真筆俳句歌留多帖』考」では、明治27年(1894)ないし明治28年(1895)に成立しているとみているという。
 ここでは、55番目に「一具 町うらに夕日のこりてしぐれけり」として紹介されている。
 なお、乙二氏の句は39番目に「乙二 凍るぞといふ声わびし草履の緒」として紹介されている。

 また、ここでは、明治31年(1898)12月10日「ホトトギス」掲載の「俳諧かるた」も紹介されている。
 一具氏の句は、その95番目に「一具 町裏に夕日残りてしぐれけり」として紹介されている。子規手製俳句カルタと同一句だが、漢字かな表記が違っている。
 乙二氏の句は47番目に「乙二 凍るぞといふ声わびし草履の緒」として紹介されている。こちらは子規手製俳句カルタと同一句で表記法も変わらない。

 「子規手製俳句カルタ」と「ホトトギス」掲載の「俳諧かるた」の大部分は重なっていることだが、5人の作者の作品に異同がみられる事の確認ができるとのことだ。「ホトトギス」掲載の「俳諧かるた」の時期、子規氏は無村への傾倒が著しい時点とのことだ。
 復本一郎氏は、結果的には、「子規手製俳句カルタ」と「ホトトギス」掲載の「俳諧かるた」の大部分は重なっているのだが、俳句観の変化に伴って選び直しが行われたとみているようだ。

 散策人としては、「俳諧かるた」を見る限りでは、一具氏は子規氏に評価されているとみる。

 
by shingen1948 | 2018-12-12 11:17 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)