地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 算額情報を拾うことで確かめようとしたことは、空振りが多かった。しかし、思いもかけない情報に出会う事もある。

 例えば、「大阪天満宮 文化元年3月奉納者最上流渡辺一門人二本松住完戸政つね」とあるのをみつけた。問題の類別にかかわる資料だったと思うが、定かではない。
 「最上流渡辺一門人二本松住」とのことなので、今回整理の「最上流三伝宍戸佐左衛門政彝氏」であることはほぼ確実だ。
 この方は「和算『最上流宗統派の系譜』から⑪」で「二本松市史」と散歩資料をもとに整理しているが、この情報はみかけていなかった。
 ここで、この方は没年が元治元年(1864) 2月で、享年84歳だと確認しているので、その逆算で生誕安永9年(1780)を推定すれば、文化元年(1804)は24歳頃の話ということになるようだ。
 「古今名人算者鑑」で西幕下14枚目に位置されるのは、文政9年(1827)なので、20数年前の話ということになるようだ。最上流二伝渡辺一氏の情報とも重ねると、山崩の岳温泉の引湯工事が1824で、完成が1825なので、その20年前の話ということだ。

 今回は最上流宗統派の系譜の確認なので、得られた情報からできるだけ佐久間派の情報を削除して整理するようにしてきた。算額情報でも同じようにしてきたのだが、その事によってかえって佐久間派の存在を意識するようになったこともある。

 例えば、「田村郡三春町龍穏院 明治26年(1893)2月 佐久間派算法(佐久間派20名)奉納」の三人目に、「岩代国信夫郡荒井村佐藤刻治撰」をみつけているが、省略している。
 この方は、「和算『最上流宗統派の系譜』から③」で整理した方だと思う。
 その師は、「佐久間文庫 由来」に和算の最後の花を咲かせた一人として紹介された佐藤元竜田氏と想像した方だ。碑文によると、この方は、その後、田村郡佐久間佐久間纉の塾に5年間入門し最上流の奥義を極めて、村に戻って小沢軒と号して私塾を開いたとのことなので、矛盾しない。
 「田村郡三春町龍穏院 明治26年(1893)2月 佐久間派算法(佐久間派20名)奉納」には、他にもう一人の荒井村の方の名が見える。
 その九人目に「岩代国信夫郡荒井村佐藤菊太郎撰」とあるのだ。ただ、この方を荒井村の散歩資料からは拾えない。
 「磐城三春太神宮奉納略図」でも、岩代信夫郡・伊達郡・安達郡の方々の名が確認できる。

 近隣の算額情報に「斎藤利七」という名はよくお見掛けしたが、こちらも省略している。
 この方は、川俣町の散策資料で確認できる。大綱木町の佐藤正二郎氏の子で、嘉永五年に同じ村の弥吉氏の許へ妻子共に養子相続して、斎藤利七と改名したとのことだ。元治元年に佐久間纉氏に入門し、明治13年に許されたという指南許状も資料として確認できる。
 川俣町の散策資料には、その弟子の菅野豊蔵氏も紹介される。
 明治13年に斎藤利七門人として佐久間纉氏に入門、後年自ら「庸軒派算法菅野社中」を結成したとのことだ。

 幕末から明治にかけての福島近郊では、川俣、立子山村、金沢村、松川村、杉妻村、荒井村、土湯といった二本松藩領との境付近を中心に、最上流宗統派の和算家は勿論、佐久間派の和算家も同様に、あるいはそれ以上に活発に活動していたらしいということになるようだ。
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by shingen1948 | 2018-11-10 10:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回、明治24年4月(1891福島県福島市立子山目細内110 篠葉沢稲荷神社に奉納された算額(丹治重治他)に掲げられた方々を確認した。
 その整理の中で、名古屋で2015年に開催された「庶民の算術展」に出品されたとしたところだが、開催時期が違っていた。展覧会情報を確認すると2005年のようだ。訂正する。

 「和算『最上流宗統派の系譜』から⑬」でもふれたように、「最上流宗統派の系譜」としたのは「金谷川のあゆみ」の情報を元にしている。しかし、「金谷川のあゆみ」以外に「最上流宗統派」としてその系譜を表現する散歩資料に出会っていなかった。
 まずは、それがこの葉沢稲荷神社に奉納された算額で確認できたということがある。

 その題が、「最上流宗統四世 明齋 丹治重治撰」。
 ここで、最上流宗統四世明齋 丹治重治氏が確認できる。
 更に奉納者の方々の氏名の中に「信夫郡浅川 曠齋 尾形英悦」に角印と丸印が押されていることが確認できる。そして、その直ぐ後ろに「最上流五伝曠齋尾形英悦門人」とあって、「信夫郡浅川 長沢忠兵衛」が紹介されている。
 このことから、最上流宗統五伝が曠齋尾形英悦氏であることが読み取れる。更に、ここで最上流五伝曠齋尾形英悦門人信夫郡浅川長沢忠兵衛と紹介されるのは、「金谷川のあゆみ」の情報で最上流宗統六伝とされる方だ。

 次に気になるのは、「明齋丹治子通 信夫郡金沢 思齋丹治重満」と紹介される御子息。丹治重治氏が信夫郡金沢村在住である事から気になるのは「信夫郡金沢 丹治次郎蔵」だが、その関係性は曖昧。

 更に曖昧な想像を続けると、気になるのが「安達郡下川崎野地勘之助」氏と「安達郡沼袋 野地伊三郎」氏だ。
 というのは、明齋丹治重治氏は、幼少時には安達郡人の野地豊成氏の門人だったと碑文にある。その野地豊成氏が安達郡下川崎在住のはずだからだ。その方とのかかわりかなとの想像だが、こちらも曖昧。

 今回、奉納者名を丁寧に拾ってみている。これは明齋丹治重治碑の撰文者が田嶋寛氏であったこととかかわる。
 「和算『最上流宗統派の系譜』から~明斎先生(丹治庄作)碑④」でもふれたように、この方は幕末から明治にかけて八丁目宿の学校創設や文化人サロンに中心的にかかわった元二本松藩士だ。その人材バンクから八丁目宿小学校指導者が人選されているとすれば、そこに重なる方がいらっしゃるのではないかと思ったのだ。それで、手持ち資料と照らし合わせて眺めてみたのだが、結果的には空振りだった。
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by shingen1948 | 2018-11-06 16:54 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、法道寺善氏の福島来遊についての情報を確認した。
 法道寺善氏は、初め広島で梅園立介に数学を学び、後に江戸へ出て内田五観の塾でさらに数学を学んだ後、日本全国を遊歴して各地で数学を教授しているとのことだった。
 その長崎来訪の事例をもとに論じるのが「法道寺善の「観新考算変法」と九圓變換術矩合集について(米光 丁)」。
 その本論は専門的内容なので歯が立たないので、その結びから捉えるべきことを推測する。

 法道寺善の長崎滞在は、嘉永5年(1852)前から数年間したとのことだが、この事と嘉永5年(1852)に「算法円理括襄」を完成させた長崎の加悦俊興著(法導善が書いた旨を川上朝隣に語ったとされる)ことが関連的であるということらしい。
 また、法道寺氏の「観新考算変法」(土屋本)は万延元年(1860)であり、この「算法三十七問起源」は安政7年(1860)2月であるが、長崎でも当時長谷川寛の極数術と法道寺善の算変法の教え考え方が門人たちに受け継がれていたということだ。

 これは、前回整理の法道寺善氏福島来遊の補強情報としての受け止めのつもりだが、記述の中に直接的に福島にかかわる情報も含んでいる。
 例えば、明治24年4月に福島市立子山の稲荷神社に奉納された算額は、法善寺善の門人によるものだという表現がある。
 この「明治24年4月に福島市立子山の稲荷神社に奉納された算額」というのは、「丹治重治他が、明治24年4月(1891福島県福島市立子山目細内110 篠葉沢稲荷神社に奉納した算額(現存)」という県内の情報と重なるものだろうと思う。

 幸いなことに、この算額は名古屋で2015年に開催された「庶民の算術展」に出品されたこととのかかわりで「篠葉沢稲荷神社」のホームページで確認できる。

 その算額の題は「最上流宗統四世 明齋 丹治重治撰」
 その上段に以下の方々の名が見える。
 安達郡沼袋 熊坂甚太・安達郡沼袋 國嶋彦八・信夫郡金沢 須田松五郎・伊達郡飯野 高橋藤吉・安達郡沼袋 野地伊三郎・安達郡下川崎 渡辺庄八・信夫郡金沢 菅野又治郎・信夫郡金沢 渡辺又七・信夫郡金沢 斎藤与惣右衛門・信夫郡松川 鈴木佐太郎

 その下段に以下の方々の名が見える。
 信夫郡金沢 半澤子之吉・安達郡下川崎 野地勘之助・信夫郡金沢 丹治次郎蔵・信夫郡金沢 須田吉六・信夫郡金沢 渡辺勘之丞・伊達郡立子山 高橋千代吉・明齋丹治子通 信夫郡金沢 思齋丹治重満・信夫郡浅川 曠齋 尾形英悦 □印〇印・最上流五伝曠齋尾形英悦門人 信夫郡浅川 長沢忠兵衛

 信夫郡浅川 菅野徳衛門 謹写
 安達郡沼袋 菅野 与市 謹書
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by shingen1948 | 2018-11-05 10:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、七伝の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏の情報確認のために算額情報を拾ってきたその過程を記し始めたところだ。
 「黒岩虚空蔵の算額」についてのやや詳しく情報を拾ったところで思い出すのは、「佐久間文庫の由来」での以下の解説。

 時たまたま慶応2年、広島の法道寺善の来遊があり、和算の最高峰に位する転距軌跡、およびそれに伴う重心問題が、丹治庄作、尾形貞蔵らによって研究された。その成果は、福島市の近郊の(例えば黒岩虚空蔵の)算額に今日も見ることができる。

 慶応2年に来遊したという広島の法道寺善氏について当方は知らないのだが、誰でもが知っている方という前提で案内されているので確認する。
 ウィキペディアの「和算」の項に「和算の発展に関わった人物」の一人として以下のように紹介される。

 文政3年(1820)―明治元年(1868)
 幕末に活躍する。当時、互いに接する多数の円の半径の関係を求める問題が広く扱われた。これを簡単化するため、算変法を導入し、円の一つを直線に変換することで計算を簡略化した。これは現在の反転に相当する。他に、図形の重心問題・サイクロイドに関係した問題を扱う。

 この方が、慶応2年に福島に来遊されるということとかかわりそうなのが、「平凡社世界大百科事典」解説の以下の部分だ。

 幕末の数学者。算変法の創始者として名高い。通称和十郎、字は通達、観山と号した。初め広島で梅園立介に数学を学び、後に江戸へ出て内田五観の塾でさらに数学を学ぶ。内田の塾を出て、日本全国を遊歴し、各地で数学を教授した。

 「福島の和算(平山諦)」では、その法道寺善氏の福島来遊についてやや詳しく紹介される。
 その概略を以下のように読み取る。

 法道寺善氏が福島に来たのは慶応2年とのこと。
 氏は、三春の佐久間家と松川の丹治家で教えたとのことだが、その2年後には法道寺氏は広島に帰って没しているという。ということは、この福島の地で福島の和算家達に教えていた頃が、この法道寺氏の円熟に達した時期に当たるとのことだ。

 転距軌跡の問題とそれに伴う重心の問題を解くための豁術の種は、この時にまかれたのだということだ。そして、慶応2年から佐久間・丹治・尾形貞蔵らの研究が終わる明治20年までの20年の研究実績は目覚ましいものだという。
 素晴らしいのは、純然たる和算の方法で転距軌跡の問題を解いている事なそうで、「佐久間文庫」解説で「和算の最後の花」と表現するのは、この事を指しているようなのだ。

 法道寺善氏の福島来遊でまかれた種が、見事に芽生え成長したということを、この地の和算の特色の一つと考えてよさそうだという事でもあるようだ。
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by shingen1948 | 2018-11-04 11:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 七伝の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏の情報確認のために、浅川村と杉妻村周辺の奉納された算額情報を拾ってみたが、拾えた情報は先に記した通りで大きな収穫はない。
 ただ、この確認作業の過程で、最上流宗統派の系譜の特徴ともかかわるかもしれないと感じたものがあった。
 その中には、先に山形の「佐久間文庫」でみた情報である「慶応2年当時和算の最高峰に位する転距軌跡、およびそれに伴う重心問題」の概要とも重なるのかなと思えることも含まれる。
 それで、算額情報を拾った過程をも記しておこうと思った。

 まず、明治25年、松川町黒沼神社に尾形貞蔵他が奉納したという算額を確かめた。
 古い方の「黒沼神社ホームページ」の算額紹介の写真では、長澤忠兵衛、赤間忠作、大槻重作、渡邉猪??、尾形助太郎の奉納者が確認できる。
 全体では16の門題数があるようなので、それに対応した奉納者がいらっしゃるという事だろうと思う。
 その題にあたる所には「最上流五傳曠齋尾形貞蔵閲」とあるので、最上流五伝尾形貞蔵氏が、門弟たちの作問を検閲したものという感じだろうか。

 尾形喜代松は尾形英悦の孫にあたる方との情報を元に、算額全体が写る写真を眺めると、最後に記された方がそれに当たる方だろうということがおぼろげながら分かる。
 ここで尾形英悦氏とされる方は、先の確認で最上流五傳曠齋尾形貞蔵氏であることが分かっている。
 https://sites.google.com/site/kuronumajinjaasagawa/home/sangaku 

 次に、「数学史研究」の中から、算額の類題を分類する情報の中から黒沼神社算額の問題を確認すると、上記の方の他に齊藤卯之助氏が確認できた。更に、明治26年、黒岩虚空蔵に曠斎門人が奉納したという算額からの問題が紹介されていることが確認できた。
 そこで、森谷染吉、赤間和市、赤間捨吉、赤間彦四郎の奉納者と共に、曠斎門人長沢辰蔵氏が確認できたということだ。

 ここに「街角の算額」のページの「折々の算額」情報も加えると、杉妻村 中村熊治郎、杉妻村長沢富蔵もその奉納者の一人だったのではないのかなとの推定ができる。
 http://streetwasan.web.fc2.com/oriori.html

 これらの情報から、明治26年、黒岩虚空蔵に曠斎門人が奉納したという算額も、松川町黒沼神社に尾形貞蔵他が奉納したという算額同様に、最上流五伝尾形貞蔵氏が、門弟たちの作問を検閲したものという感じのものだろうとの推定ができるのだと思うのだ。

 この算額情報からも、すでに洋算が着目される時代になっているのに、最上流宗統派の塾では算数教育現場として相当に活気づいていたことが想像できると思うのだ。
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by shingen1948 | 2018-11-01 12:28 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「金谷川のあゆみ」が「最上流宗統派の系譜」について、今のところ確認できたのは、次のような事だ。

 まずは、「最上流宗統派の系譜」の繋がりそのもの。
 元祖会田安明氏<延享4年(1747)~文化14年(1817)>から土湯の渡辺治右衛門一氏(二伝)に継がれた最上流の和算が二本松の宍戸佐左衛門氏(三伝)に継がれる。
 ここから、安政4年(1857)に金沢村丹治重治氏(四伝)に継がれて、明治17年(1884)に浅川村舩橋の尾形曠斎氏(五伝)に継がれる。そして、明治38年(1905)に浅川村下中沢の長沢保斎氏(六伝)に継がれたものだ。
 ここまでが幕末の二本松藩領内での話だが、その後隣村の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏(七伝)に継がれたが、ここで後継者がなくなり、最上流は途絶えたとのことだった。

 次に、確認の方法。
 二伝の渡辺治右衛門一氏については、土湯の散策資料と二本松市史を中心に確認し、三伝宍戸佐左衛門氏については二本松市史を中心に確認をしてきた。
 四伝の丹治重治氏から六伝の長沢保斎氏までは、「福島のいしぶみ」とも照らし合わせながら石碑の碑文をもとに確認をした。
 まだ確認はしていないが、六伝の長沢保斎氏については「長沢清家和算資料」が福島県歴史資料館収蔵されているという情報も見つけている。「福島県歴史資料館収蔵資料目録38(平成18年度刊)」

 残ったのが七伝の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏の情報確認。
 六伝までは石碑を資料として確認してきたが、考えてみれば石碑は受け継いだ次の代の方が建てるものだ。最後の代である七伝の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏のものはない。
 それで、思いつく資料は奉納された算額だ。
 浅川村と杉妻村周辺の奉納された算額情報を拾ってみた。
 今のところ、七伝は長沢保斎氏から継いだものだろうと思うが、五伝の尾形曠斎氏からも直接学んでいたらしいという程度の確認でしかない。
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by shingen1948 | 2018-10-30 10:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回、宍戸佐左衛門政彝氏の算数の実力を示すのに、紹介されるままに「文政9年版『古今名人算者鑑』では西幕下14枚目に位置される」とした。しかし、これでは素人の散策人としては、どんな実力なのかが分からない。
 それで、ここに次の情報を付け加える。

 このランキングで、最上流二伝渡辺治右衛門一氏は、東前頭三枚目とされているとのことだ。その中で、弟子である宍戸佐左衛門政彝氏が西幕下14枚目にランキングされたということだ。
 ここにランキングされるという事がその位名誉な事なのだと読み取るべきだということが分かる。

 この辺りまで、二本松の資料で確認したことだが、ちょっと気になったことがある。
 それが、次のような渡辺東岳氏の門弟紹介だ。
 「二本松藩領の宍戸佐左衛門、鈴木〇〇〇、福島の丹治重治、三春の佐久間庸軒等々……」とある「福島の丹治重治」という表現だ。
 今回の整理の和算の系譜を「金谷川の今昔」に紹介される「最上流宗統派の系譜」というのをそのまま使わせていただいている。それとのかかわりだ。
 
 確かに、丹治重治氏が住した金沢村は、現在は福島の行政区だ。
 しかし、ここは幕末には二本松藩領であったはずなのだ。明治に入って、二本松から一時期川俣の管轄になり、それから福島の行政区になったという経緯のはずなのだ。
 二本松藩領の宍戸佐左衛門氏の門人である丹治重治氏は幕末から明治にかけての方であり、二本松藩領の金沢村だったとみてよいのだと思う。
 「宍戸佐左衛門、鈴木〇〇〇、丹治重治」が、二本松藩領との範疇で捉えたい。

 次の五伝尾形氏、六伝長沢氏の浅川村も幕末は二本松藩領であったが、その活躍期には行政区が福島に変化しているので、福島としてもよいのだとは思うが、その系統としては、少なくとも六伝の長沢保斎氏までは二本松領の系譜とみてよいのだと思う。
 七伝の長沢辰蔵氏は杉妻村黒岩なので、確かに元々の福島ではある。これだって「最上流宗統派の系譜」のままで支障はなさそうに思う。

 さて、二本松地域の資料の中に、最上流五伝丹治重治氏の幼少時のお師匠さんである野地弥源太豊成氏についてやや詳しく紹介されているのも見つけた。
 この方が安達町の下川崎に住し、野地観音堂に算額を奉納していることまでは知っていた。この資料は、その算額が二本松市指定文化財になったことを広報するもので、次のように紹介される。

 野地豊成は、文化元年(1804)古城内に生まれる。
 後、二本松城下の松岡で蚕物を扱う商家「柏屋」を営むかたわら、最上流和算家でもあった宍戸佐左衛門の門人となり、和算の普及に尽くした。
 
 野地観音堂に算額を奉納したのは、嘉永3年(1850)3月で、その額面には、円と楕円との接触の問題二問が彫り刻まれ、以前は図形の部分に白色と緑色の顔料で彩色されていたが、現在は剥落しているとのこと。
 その形状は、ケヤキ材一枚板の周囲を額装してあるものなそうだ。その額寸法は、縦40.5㎝、横56.1㎝、実寸法 縦32.3㎝、横48.4㎝ とのことだ。 
 これが旧安達町に残る算額としては最も古いという事で、昭和53年(1978)に有形文化財歴史資料として指定されたとのことだ。
 その安達町が二本松市に合併した事に伴い、二本松市指定に変更されたということの後方のようだ。
 なお、氏は慶応2年(1866)に没し、その戒名は「楽算院鉄山淨堅居士」だと紹介される。
 
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by shingen1948 | 2018-10-27 15:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
「和算「最上流宗統派の系譜」から⑤」で確認したように、福島地区の散策資料では最上流三伝宍戸政政彝氏についての情報は少ない。それで、それを挟んだ最上流二伝渡辺一氏と最上流四伝丹治重治氏の情報から宍戸政政彝氏についての情報を拾っていたところだった。
しかし、二本松地区の散策資料を確認していたら、以下のような最上流三伝宍戸佐左衛門政彝氏そのものの詳細情報もあることが分かった。

 二本松に生を受け、松岡町に住し、柏屋と称して米穀商を営む。
 渡辺東岳の高弟として名をはせ、多くの門人を輩出している。文政9年版「古今名人算者鑑」では西幕下14枚目に位置される。
 また、苗字帯刀御免、町検断補佐役に任じられ、仁慈・公共心に厚く、困窮者には米・塩・衣を与えて救助し、両社祭礼には町内若連に揃いの衣服を新調して贈るなど篤志の行いが多かった。さらに同町の纏に分銅型を用いたのは江戸消防6番組の纏を擬して製作し寄付したのが始まりとされ、「松岡の殿様」として尊敬された。
 元治1年2月24日没享年84歳、墓所顕法寺  

 宍戸佐左衛門政彝氏は、二本松では商人としても著名なようで、そちらからの視点では次のような情報になる。

 佐左衛門(政彜、元治2年没)は算学者として著名だが、嫡男金四郎(明治15年没)と共に商人としても成功している。
 当初は米穀店を開き、のち蚕物商を営み繁栄し、貧窮者に対する施し等は勿論、御両社祭礼の際の字分若連お揃いや消防組の纏の寄付は今でも語り伝えられ、「松岡の殿様」と称された。
 明治9年天皇御巡行の時には、岩倉具視の宿舎、大久保利通の休憩所にあてられた。

 なお、山形大学佐久間文庫をもとに昭和57年3月に復元されたというこの方が白河市明神 境明神に奉納した算額が白河歴史民俗資料館にあるようだ。写真での確認。

 まず、「所懸千奥州・野州境明神社者一條」との題。
 次に、算数の問いと答えがあって、その後ろに次のような奉納者名がある。

 奥州二本松家士最上流〇伝渡辺治右衛門一門人
        同所松岡町住 宍戸佐左衛門政彜 
 文化元年甲子三月
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by shingen1948 | 2018-10-24 14:29 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「日本古典作者事典」に「息子未文は砲術家、孫の孫市は武衛流砲術師範」とあったことの情報確認の続きだ。
 「孫の孫市は武衛流砲術師範」の部分だが、この孫市氏は、嫡男渡辺貫氏を指しているようだ。
 この方も武衛流砲術師範とのことだが、二男の木村貫治氏も家禄65石の武衛流砲術師範のようだ。この方は木村左司馬次章氏の養子とのことだ。
 「二本松市史」では、「郡山市大槻町『安斎家文書』」を元に「幕末の二本松藩砲術の実態」を記述するのだが、天保14年(1843)5月17日に実施されたこの方が22歳の時に行われた砲術披露の様子が記されている。

 ここまでたどると、先に整理した「二本松少年隊の悲劇」の話と繋がるようだ。
 この「二本松少年隊の悲劇」の話では木村銃太郎さんが有名だが、この方の父親が木村左司馬次章氏の養子になられた最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)の孫である貫治氏という事だ。

 先に「大河ドラマ視聴「八重の桜」~第24話「二本松少年隊の悲劇」で、それまでに整理した二本松の戊辰戦争関係の記事を概観している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/17970618/
 その中の「大壇口古戦場を訪ねる」が、木村銃太郎さんかかわりだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/5755201/
 
 他の戦いの記述にも「武衛流砲術」が登場する。これも、最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)の子未分氏の流れをくむ二本松藩砲術ということで繋がるということだ。
 また、「大河ドラマ視聴「八重の桜」~第24話「二本松少年隊の悲劇」②」で、木村門下生とあるのは、木村貫治氏の門弟ということになる。
 https://kazenoshin.exblog.jp/17976158/
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by shingen1948 | 2018-10-19 10:05 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、「十文字岳温泉」引湯工事の引き湯設計が、二本松藩士最上流二伝渡辺一氏の仕事であることの情報確認をした。
 今度は、「日本古典作者事典」に「息子未文は砲術家、孫の孫市は武衛流砲術師範」とあったことの情報を確認する。

 「二本松市史」の「幕末の二本松藩砲術の実態」の前項で、他の武芸よりも砲術が足軽芸として一段低く見られていた風潮が解説される。更に、その本項に入って、二本松藩の伝統的な砲術について解説された後、幕末に新たな流派が加わったとして次のように解説される。
 「二本松砲術師範として、さらに文政年間「武衛流」が加わることになる。文政2年(1819)、二本松藩は最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)を召抱える。治右衛門の子未分は江戸に登り、武衛流砲術の渡辺次左衛門の門に入り、奥義を極め師範代となり、帰藩後は砲術方として教授を始めたと見てよい」

 「息子未文は砲術家」であることの確認としてこちらの解説を引いたが、興味深いのは、和算と砲術の関係についての紹介だ。
 この時代、一流の和算家の多くはすでに弾道学や爆圧力の計算をてがけていたといわれているそうだ。渡辺治右衛門氏も、砲術修業の功をなした息子に算法書各所から必要事項を抜抄して「砲器製作算法」と名付けて与えたとある。
 未分氏の深い砲術力学の知識は、砲術の師から未分氏に砲筒の割合、筒圧、筒玉などを相談する書簡が残っているという事などで確認できるとのことだ。この知見の深まりには、和算家渡辺治右衛門氏のおかげもあっただろうことが伺える。

 ここまででは分かりづらいのは、家系的な繋がりだ。結論的には、「治右衛門の子未分」とされる未分氏は、治右衛門氏の二男のようだ。
 それが分かるのは、次のような事情説明だ。
 
 砲術の師から未分氏への相談の書簡など二本松藩の幕末の砲術に関する資料が残るのは、「郡山市大槻町『安斎家文書』」とのことだ。
 何故この安斎家にそれが残るのかということだが、大槻下町名主となる安斎太郎右衛門氏は、安斎家に婿入りした未分氏の兄の子なのだそうだ。
 つまり、文政2年(1819)に最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)が二本松藩に召抱えられ時に、嫡男を土湯に残し、二男未分氏を連れて着任したということだ。その二男未分氏が家禄を継いだ二本松藩武衛流砲術家ということのようだ。
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by shingen1948 | 2018-10-18 10:39 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)