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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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今探索している地区を、芭蕉は、とばしてしまうのだが、今のところ、司馬遼太郎の「街道をゆく」でヒントを得ていると思っている。郡山から、黒塚にとび、一気に信夫の里にとんでしまうのは、芭蕉は、平安朝の詞華史につらなる教養人の末裔の人として、連想の展開を大切にしたからだとの思いである。
そのことについては、先に「上方の風の人から陸奥のみちについての平安の詩的気分を学ぶ」として書きとめておいた。 

 とばされた地区は、スポットライトに照らされないので、くっきりと輪郭が見えるものがないのだが、逆に、影になって隠れてしまうものもない。その時代の日常が見えやすいともいえる。
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長谷寺を福岡宿の象徴と自分で勝手に思っているのだが、この長谷寺、独特の雰囲気がある。街道からわずか数百メートルしか入らないのだが、山の精とでもいったらいいのだろうか、得もいわれぬ感慨が起きる。後で、高橋富雄「大和長谷寺と東北長谷寺」に、「佐渡長谷寺と安達郡福岡長谷寺の二つについては、玉石集も、本山長谷寺の景状をそのまま移したもの」と言っているのをみつけ、本山の雰囲気を感じたのだと勝手に思う。

長谷寺信心の概略
by shingen1948 | 2007-07-15 07:31 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
a0087378_1271975.jpg 芭蕉は、黒塚に渡った後、供中の渡しの船着場から細道を伝って村に入り、福岡村というところから、二本松の方によった辺りから奥州街道に出たようだ。二本松から八丁目へは二里程度だが、黒塚へかかると三里程度になるというのだから、曽良は、黒塚への寄り道に一里かかったと思っているようだ。

奥の細道では、須賀川から黒塚に寄り、そのまま福島の宿に向かっていることになっている。しかも、日が暮れるまで、花かつみを探している。それから、黒塚に立ち寄っているのだ。
 それは、実際には不可能で、ここにフィクションが入っていることは明らかだ。

時間だけがフィクションで、実際は朝のうちに郡山を通過したとしても、もう一泊必要だ。本宮宿・杉田宿・二本松宿・福岡宿・日本柳宿・八丁目宿等のどこかに宿泊し、それから、福島の宿で一泊するというのが自然ではないかと思う。
奥の細道の文学としては、ここは、時間的にも空間的にもとばされているが、少なくとも、芭蕉はこの道を通過はしているはずである。
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芭蕉が黒塚から出た福岡村の目印は、長谷寺であろうか。
この寺は、文治5年源頼朝奥州征伐の時に功績のあった小野田籐九郎盛長に西安達郡の地を賜り領主となり、小野田姓を改め安達姓としたという由緒の寺だ。油井村長谷堂に寺を建て、十一面観音像を納めたという。

 その後、二本松の丹羽氏が現在地に移築し、丹羽家の祈願所として栄えていたという。芭蕉が立ち寄ったかどうかは分からないが、ここを通った時は、この寺は、福岡の宿で栄えていたはずである。

曽良随行日記
二本松の町、奥の方のはづれに亀谷という町有り。それより右の方へ曲がると、右は田で、左には、山際を通って一里程行くと、供中の渡という阿武隈川を越す舟渡しが有る。その向こうに黒塚有り。小さな塚に杉が植えて有る。又、近所に観音堂有り。観音堂は大岩石を畳み上げた所の後に有る。古の黒塚はこれだろう。右の杉を植えた所は鬼を埋めた所だろうと別当坊が言う。天台宗也。それより又、右の渡しをあとにして阿武隈川を越え、舟着きの岸より細道を伝って、村の内ヘかゝり、福岡村という所より二本松の方ヘ奥州街道ヘ出る。二本松より八町の目ヘは二里余り。黒塚ヘかゝると三里余り。

by shingen1948 | 2007-07-14 12:11 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)