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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:猪苗代 ( 29 ) タグの人気記事

 緑の村に立ち寄ったのは、ここに日本硫黄沼尻鉄道の車両が保存されているということからだ。
 今年の夏に沼尻駅跡へ立ち寄って、以下の3回に分けて整理したその延長線上の立ち寄りだ。
 「2012夏の頃~沼尻駅跡へ立ち寄る」
 http://kazenoshin.exblog.jp/15958481/
 ―2012夏の頃~「高原列車は行く」と沼尻鉄道
 http://kazenoshin.exblog.jp/15964135/
 ―2012夏の頃~鉱山鉄道のイメージと「高原列車は行く」のイメージ
 http://kazenoshin.exblog.jp/15969755/
 それで、タグに「沼尻」を入れた。
 会津へ出かける時には、115号線を使う事が多く、沼尻鉄道もこの道筋付近に沿って走る区間があるのだが、そのことを家族に講釈を語ったこともあるらしい。
a0087378_538462.jpg
 その日本硫黄沼尻鉄道の車両は、旧翁島駅舎の後ろに展示されていた。特に詳しく見てみたいということではなく、115号線の沼尻鉄道の走っていた区間と重なる道筋を走る時にイメージできれば楽しいかなと思っただけだ。思っていたより結構しっかりとした車両だなという印象。
 この沼尻鉄道については先にも整理したが、猪苗代町の名所旧跡では、以下のように案内される。
a0087378_5403368.jpg 村内には旧沼尻鉄道の貴重な車両が、原型のまま保存されています。
 この鉄道は、大正2年(1913)から昭和43年(1968)までの55年間、沼尻鉱山の硫黄を運ぶため、川桁駅と沼尻駅の間約16㎞を走りました。
 地元住民や観光客の足としても活躍し、丘灯志夫氏作曲の愛唱歌「高原列車は行く」のモデルともなりました。
 猪苗代町
 この緑の村に保存される前の中ノ沢温泉に残存していた当時の車両の写真が見られる「思い出車両アルバム」というページをみつけた。
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~imaita/rnumajiri81_0.htm
 
 昔、子供が小さかった頃、福島駅発ミステリー号という行き先の分からない列車が運行されたことがある。それに乗った子供の話に、淡水魚館や魚のつかみ獲りの話、塩焼きの魚を食べた話などがあった。その話から、ここだったのではないかなと思っていたことも思い出した。平成元年(1989)年開業らしいので、もしそうなら、あれは開業して間もない頃だったのかな。
 案内板は、旧沼尻鉄道車両の説明の前に、緑の村について「町営緑の村には、淡水魚館、釣り堀、蕎麦処、駅舎亭などファミリー向けのレジャー基地となっています。」と紹介している。
by shingen1948 | 2012-11-25 05:44 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 地元の方が自慢に想う翁島駅は、緑の村で案内される「明治41年(1908)翁島駅舎建設」という、その年に完成した天鏡閣の最寄り駅として相応しい駅舎。
 明治32年(1899)岩越鉄道により開業されてそれ以降明治41年までの駅舎と、昨日整理の昭和58年(1983)に建替えられて現在に至る駅舎は、その範疇にはなさそうだ。
a0087378_4285810.jpg
 緑の村に移築された旧駅舎は、地元自慢の駅舎の3代目とのことで、大正11年5月に建設され、大正13年改修された貴賓室も設置された駅舎とか。外観は屋根がスレートから銅板葺きになったほかはほとんど手を加えられていないとか。「福島の建築」として整理してもいいかなとも思うが、躊躇するところがあるのは、地元自慢はその立派さで、訪れる者が感じるのは懐かしい駅舎という感覚のずれのようなものも感じること。

 案内される内容からその関連を推測する。
 大正11年建設は、猪苗代湖畔に有栖川宮・高松宮の翁島別邸(天鏡閣・迎賓館)が設けられ、その最寄駅が翁島駅であったことに由来するらしい。大正13年改修は、現陛下が御成婚後初めてのご旅行でおいでになり天鏡閣に25日間ご滞在の際にご利用になられたこととかかわるのかな。
 現況は、「駅舎亭」というそば店らしい。開いていないのは、朝早いせいか、季節外れのせいかは分からない。貴賓室部分は、食事のスペースとなっているとか。こちらは、家人と来た時に立ち寄ってもいいかなとも思う。

 ここに立ち寄ったのは、ここに日本硫黄沼尻鉄道の車両が保存されているということから。こちらは磐越西線川桁駅から出ているので、翁島駅とは直接的にはかかわらない。
by shingen1948 | 2012-11-24 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

翁島駅

a0087378_12301215.jpg
 翁島駅に立ち寄ったのは、深い意味はない。ただ、旧沼尻鉄道の車両が緑の村にあるというので立ち寄ったら、そこに旧翁島駅舎が移築されていた事で、その旧地を確認しておこうと思っただけ。
 ここに、「野口英世が郷里に凱旋し歓迎を受けた翁島駅」の案内板が建つ。
 野口英世博士の想いで
 「野口英世が郷里に凱旋し歓迎を受けた翁島駅」
a0087378_12351729.jpg 大正4年(1915)9月8日、15年ぶりで帰国した英世が初めて郷里の土を踏んだところです。駅前にはアーチと国旗が掲げられノロシもあがり、歓迎のため沿道には800名程の村人が集まりました。医師試験受験のために上京した明治29年(1896)9月、19歳の時には、単身で故郷を離れ東北線の本宮駅まで歩いて行った英世にとって、この歓迎ぶりにはたいへん驚き、万感の想いをいだきました。
 野口英世博士生誕のふるさとづくり推進委員会
 英世は、明治29年(1896)9月に上京するのに本宮駅まで歩くのは、この時には鉄道が走っていなかったからで、ここに駅ができるのは、3年後の明治32年(1899)に、岩越鉄道によって開業されてから。これが、明治39年(1906)に国有化される。
 ただ、この時の駅舎は、緑の村で案内される貴賓室のある立派な建物になる以前の建物のはずで、緑の村で案内される「猪苗代湖畔には、有栖川宮・高松宮の翁島別邸(天鏡閣・迎賓館)が設けられたその最寄駅」以前のできごとということで、扱い的には現在の駅舎の扱いに近いかな。
 ということで、写真は、掲げられている凱旋写真の構図に近い位置から撮ってみたもの。

 今回、野口英世博士の郷里凱旋とかかわる中田観音にも立ち寄ってきている。そのつながりのようなものも感じる。
 なお、駅の沿革にある「昭和59年(1984)にお召列車が運転され、昭和天皇夫婦が下車された」とあるのも、旧駅舎が緑の村に移築された次の年のということなので、この駅舎が新築されて間もない頃ということかな。
by shingen1948 | 2012-11-23 12:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_415220.jpg 途中でキリシタン殉難の地入り口の案内を見たが、今回の寄り道はここまでにした。
 キリシタンという言葉から頭に浮かぶのは、会津の殿様にキリシタン大名に蒲生氏郷がいたなといった程度。家に戻って、猪苗代町史等を確認したら、猪苗代の領民がことごとくキリシタンになった時代があったという。その視点で、磐椅神社や土津神社を眺めれば、別な見え方になるらしいことが分かる。

 今回の磐椅神社の散策や迷い込みをした見袮山のどこかに、その時代にセミナリヨ(神学校)があったらしいということでもあるらしい。
 隣り合わせの位置にあったと磐椅神社は、その影響が大きかったこと推測されるが、あおりを受けた神社仏閣の経営が破綻してしまいそうな困窮ぶりが紹介されているのも見た。
 宝永3年(1706)の「磐椅明神旧記」には、「社人等は切支丹のために苦しめられ離れ散りて奉仕の途も無之様と相成候、されば元和の前後二十年か程は神官も絶えて社殿は損じ御物も多く紛失し、鐘楼、回廊を始め社人の社宅等、皆切支丹宗徒のため焼き尽くされ候由」との記載とか。

 猪苗代町史等によれば、特にキリシタンが全盛だったのは、岡越後が猪苗代城城代だった慶長14(1609)年から元和8(1622)年の14年間だったとする(会津藩主蒲生秀行の時代)。セミナリオ(神学校)を建て、亀ヶ城の外堀の内側に「天主の宮」を建てたのは、この岡越後らしい。
 情報をつなげれば、江戸初期に磐椅神社社領を全て没収されたという情報と、この岡越後が猪苗代城城代だったこととが重なるのかな。この時に神官は逃れた右近山から磐椅神社を見守ったという情報も見たような気がする。
 元和8年(1622)には、岡越後は城代を罷免され、岡左衛門佐が城代になるのだが、今度は、猪苗代の大殉教が起こる(会津藩主蒲生忠郷の時代)。

 先に確認した磐椅(いわはし)神社の沿革の以下の部分をこんなふうに修正すればいいのかな。
 天正17年1589摺上原の戦いの後は、衰退し、江戸初期、会津藩主蒲生秀行で猪苗代城城代が岡越後のとき(慶長14(1609)年~元和8(1622)年)に、社領を全て没収され神官らも離散した。
 元和8年(1622)頃には、その勢いは収まるが、万治2年(1659)会津藩祖保科正之が当社に参詣して社殿を復興する。

 詮議が成就院で行われたということにかかわって、今回の散策と迷い込みとのかかわりで気になるのは、六地蔵の情報かな。
 「猪苗代の野仏(猪苗代地方史研究会)」の「調査を終えて」という項でこの院とのかかわりで、以下の地元の方の恐れおののく表現が気になった事を記した。
 見祢「成就院」:吾妻山の研修洗礼の場所と聞く不動尊
 ―カメラにおさめると目がつぶれるという……
 ―御神体を出そうとしたが手が震えてどうしても出せなかった……。

 これを修験に対する恐れおののきの表現と見ていたが、これに詮議を受ける切支丹の怨念も加わるのかな。表現をよく見れば、「研修洗礼」という表現も見える。
by shingen1948 | 2012-11-21 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_5514686.jpg  磐椅神社への立ち寄りの興味をもう一度確認すれば、昨年保科正之を祀った土津神社に立ち寄ったこととのかかわりだ。保科正之公が、自らが神になる地を定めるのに、実際にこの磐椅神社参詣をしたのだが、その折に、田中正玄公の墓にも立ち寄られたらしい。
 今回の立ち寄りは、用事があって来たついでで、しかも、迷い込んだりしたこともあって、ちょっと遅くなっていたのだが、ここにも立ち寄ることにした。

 田中正玄公の墓については、猪苗代観光協会のページでは、以下のように紹介される。
 http://www.bandaisan.or.jp/enjoy/site/
 田中正玄は保科正之公の重臣であり、会津藩の家老を34年間、猪苗代城代を5年間務め藩の基礎を固めた人です。慶長18年(1613)6月17日佐渡に生まれ、16歳で信州高遠で正之公に仕えた後、累進して家老となりました。正之公が江戸で4代将軍家綱の補佐にあたられたので、その留守の間会津藩の執政を預かって大きな功績を挙げました。寛文12年(1672)5月28日に病で没した時には正之公はじめ城下の諸氏庶民は親を失った如く嘆き悲しんだといいます。
 現地に建つ案内板の記載から補足する。
 その一つは、田中公の政務心得が、以下三点とか。
 一つ、君の心を正すこと
 一つ、士を愛すること
 一つ、庶民をあわれむこと
 二つ目は、経歴にかかわる事。
 「正玄の父は、佐渡銀山奉行であったこと」と、寛文12年(1672)5月28日病没だが、「享年は、62歳であり、この年の6月2日に磐梯山の南麓に葬られた」とのこと。
 そして三つ目だが、保科正之公が立ち寄られた事について、以下のように紹介されていた。
 この年の8月21日正之公は、自らの墓地を見祢山に定め帰途正玄の墓に立ち寄られ「正玄ここにあるか、我も近く参るぞ」と仰せられた。供の者皆流涕して仰ぎ見ることが出来なかった。
 ここに立ち寄ったのが、この三つ目の事とのかかわり。昨日整理した「寛文12年(1672)の8月に会津藩主保科正之の(磐椅神社)参詣し、この時に没後未社としてこの地に葬ることを遺言した」ことと重なる部分だ。
 なお、地図に「御廟」とあるのが、この田中正玄公の墓のことらしい。磐椅神社参詣からこちらに向かわれるルート、或いは、南側からこちらに向かうルートは分からない。
by shingen1948 | 2012-11-20 05:53 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_558376.jpg 地元では、大鹿桜が有名で、会津5桜の一つらしいという事を知ったのは、家に戻ってからというお粗末。
 これは、メモ代わりに案内板を撮ったのだが、大鹿桜がその後方に写り込んでいたもの。
 この見逃しも、無計画な立ち寄りのせいだと思う。
 
町指定天然記念物
 大鹿桜
 昭和44年8月1日指定
 別名「翁桜」とも称され会津の五桜の一つに数えられている名木で、花の色が白からしだいに鹿の毛の色に変化するところから、この名前がつけられた。
社伝によると、今より約一千年前天歴年中(947~957)村上天皇の勅使が参拝の時に京都から持ってきて植えたとなっている。現在はその子孫である。
樹の種類はサトザクラの一品種である。花の中心からおしべが緑化したものが出ているので、ちょうど花の中から葉が出ているように見える珍しいものである。
福島県緑の文化財第一号である。
 猪苗代町教育委員会
 (平成4年11月1日設置)
 なお、昨日整理の鳥居杉にかかわって、「えんむすび桜」の案内には気づいたが、気に留めていなかっただけだが、付け加えておく。
 鳥居杉は、昭和33(1958)の台風で倒壊し、昭和61(1986)年には完全に倒壊するのだが、この幹の途中から、桜の木が育っていることから、杉と桜が縁を結んだということにちなんでいるとのこと。

 ここまでに得た情報と、案内板にある神社の由緒を関連付けて整理すれば、以下のようになるかな。
 
 天平元年(西暦729)8月25日に、磐梯山頂から見祢山南麓の大鹿桜のかたわらの位置に、磐椅(いわはし)神社が遷座する。そして、天暦年代(947~957)に、磐椅神社に参拝した村上天皇の勅使が、京都から苗木を持ってきて植えた。
 元久2年(1205)に、猪苗代城主三浦経連が、磐椅神社に社領を寄進し、その2年後の承元元年(1207)夏に、磐椅神社が現在の地に遷座し、その時に、この鳥居の杉として社前に植樹される。
 天正年中の伊達政宗による摺上原の合戦後、磐椅(いわはし)神社は一時衰微するが、会津藩主保科正之公が、寛文年中に社殿を造営する経緯とつながる。
 万治2年(1659)には、正之公が当社に参詣して、没後は土津神社をこの末社とすることを告げて神事を行う。

 「文徳実録」巻7に、斉衡2年(855)正月28日に陸奥国磐椅神に従4位下を加えるとあるらしい。確からしさも考慮すれば、おおよそこんなことかなと思うが、案内板の神社の由緒では、磐椅神社が磐椅山(磐梯山)の峯へ鎭座する以下の神社の起こりまで遡って説明される。
 応神天皇の御代、神功皇后摂政の時、武内大臣の巡視の折に勅命を奉じ、国土開発の神なる大山祇神・埴山姫命を磐椅山(磐梯山)の峯に鎭座されたとか。応神天皇の御代は弥生時代かな。神功皇后摂政の時は西暦250?かな。
 「磐椅王国」でいう「この神社は、古くから会津嶺の神として最も崇拝され、その格式も高く、往時は社殿も壮麗で、神興の御渡や流鏑馬などの神事もおこなわれた郡内-の大社であったといわれていた」ことかな。
 なお、ここでは、会津藩主保科正之の参詣は、寛文12年(1672)の8月で、この時に没後未社としてこの地に葬ることを遺言したとある。
by shingen1948 | 2012-11-19 06:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_5395849.jpg 鳥居杉の大きさには、圧倒される。その脇に案内板が建つ。
 その案内によれば、元久2年(1205)に、猪苗代城主三浦経連が、磐椅神社に社領を寄進したとのこと。この方は、初代猪苗代氏で、鎌倉時代初期に猪苗代城を築城されたとか。それ以来猪苗代の地を支配される。
 その2年後の承元元年(1207)夏に、磐椅神社を現在の地に遷座して、その時に、この鳥居の杉として社前に植樹されたということらしい。
 今回の立ち寄りとのかかわりでいえば、この後、天正年中の伊達政宗による摺上原の合戦後、一時衰微するが、会津藩主保科正之公が、寛文年中に社殿を造営する経緯とつながるらしい。万治2年(1659)には、正之公が当社に参詣して、没後は土津神社をこの末社とすることを告げて神事を行ったとか。
 これが、鎌倉時代以降の話。

 案内板には、鎌倉時代以前のそれまでの神社の位置が、土田堰の南の大鹿桜のかたわらにあったとの情報も記される。それ以前の由緒を刻んだ位置という意味で気になるところ。
 神社の由緒にある「見祢山南麓の現在地に遷座し、相殿として品陀和氣命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)を祭った」とあるが、これが聖武天皇の御代(奈良時代)の天平元年(西暦729)8月25日とか。それ以来、承元元年(1207)まで土田堰の南の大鹿桜のかたわらでその由緒を刻んだということかな。
 これが、マホロンの遺跡検索で、土田堰用水路の南側に古墳時代「見祢遺跡」が紹介されるが、古墳と重ねても、神社と重ねても検索にかからないこととも重なるのか、そうでないのかは分からない。
 天然記念物
 鳥居杉
 元久二年甲子年 猪苗代城主三浦経連 磐椅神社に社領を寄進し、二年後の承元元年夏 大鹿桜の傍 元土田堰の南に在った神社を現在の地に遷座して、其の時鳥居の杉として社前に植樹されたのが此の杉で樹令約七百七十年である。
 左西側の杉は、幾度かの落雷で半月空洞状態と成り、昭和丗三年八月の猛烈な台風で地上約十五米を残して倒潰し、現在の姿となったとは言い、磐椅神社の神木 鳥居の杉として古い歴史を語り 信仰の中心の御社の尊厳を保っている。
 猪苗代町教育委員会

by shingen1948 | 2012-11-18 05:48 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 ここには、土津神社の方から来たのだが、神社前を通る道筋が表参道かなと思えたので、そちらを進めば抜けそうかなとの勝手な思い込みで山麓まで進んでみたら、大きな墓地と大山祇社のあるところで、車が通れる程度の道筋は消えてしまう。そこから戻ったというお粗末。
a0087378_4322921.jpg
 表参道らしい道筋の神社近くに「植物学者:長尾景巌先生生家」という石碑があって、その脇に一軒の民家がある。その敷地の出入り口らしい付近に「西峯遺跡」の案内板が建っている。読めば、縄文遺跡らしい。
 町指定遺跡
 西峯遺跡
 昭和52年3月31日指定

 磐梯山麓の南側斜面、標高570m前後緩傾斜地に立地し、磐椅神社の表参道を中心とした推定東西200m、南北300mに広がる縄文時代の遺跡である。
 過去数十年にわたり土の表面から土器片や石器が多数採取されていたが、昭和44年(1969)から4回にわたる発掘調査によって、縄文時代中期の複式炉をもつ竪穴住居跡や中・後期の縄文土器、石器(石槍、石斧、石匙、石錐、石箆、石錘、磨石、たたき石、石皿ほか)、土偶、土板、石偶などの貴重な考古資料が発見されている。
この遺跡は会津延喜式内社の磐椅神社境内でもある。

 猪苗代町教育委員会
 家に戻ってマホロンの遺跡検索で確認すれば、今回迷い込んでしまった範囲が、その「西峯遺跡」ということらしい。(マホロンの遺跡紹介では、未調査とされる)
 その迷い込んだ辺りを思い出してみれば、高まりの峰にあたる部分の道筋で、地図と照らし合わせてみると、引き返した地点が愛宕後の二つの墓地あたりらしい。ここが表参道だったらしいことも間違いなさそうだ。
 抜け道がなくてつい慌ててしまったが、もし落ち着いて、南側を眺めれば表参道の鳥居が見えたはずらしい。情報として、表参道に石畳もあったらしいが、これも見逃している。
 これも行きあたりばったりおもいつきの散策のせいかな。

 「猪苗代の野仏(猪苗代地方史研究会)」に、引き返した辺りの墓地にあったらしい「六地蔵」の情報を見つけた。
 六地蔵
 小舘(西飯坂)の墓地の中ほど、西側に建っている。
お盆のお墓参りには持参の団子を自分の願をかける頭や脚などに張り付ける。
銘文に「吾妻山行法寺為2世安楽也宝永7年(1716)康寅6月15日」とある。
2世安楽は、成就院の修行僧であり、成就院で還化した行法寺金生人の建立である。上人の墓も側にある。
 六地蔵それ自体の形状は伊達で見たものと変わりない。
 気になったのは、「成就院の修行僧」というあたり。「調査を終えて」という項には、以下のようなこの院とのかかわりで地元の方の恐れおののく表現が、……。
 「見祢「成就院」:吾妻山の研修洗礼の場所と聞く不動尊」
 「―カメラにおさめると目がつぶれるという……」
 「―御神体を出そうとしたが手が震えてどうしても出せなかった……。」
by shingen1948 | 2012-11-16 05:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

磐椅(いわはし)神社

 供養塔を入れて撮ろうとこだわった名号塔は、「猪苗代の野仏(猪苗代地方史研究会)」によると、大正6年10月27日浅井吉五郎正道建立、その脇に享保12年未丁(1723)と刻まれているらしい。
 この時に左側に写り込んだ林の直ぐ西側が磐椅神社あたりらしい。本当は、磐椅神社に立ち寄ったのは、用事が済んで戻る際だったのだが、こちらを先に整理する。
a0087378_5576100.jpg
 興味は、昨年保科正之を祀った土津神社に立ち寄ったこととのかかわり。この土津神社は、磐椅神社の末社とのことだったので、その本社に立ち寄ってみようかなということ。更には、保科正之は自らが神になる地を定める時に、この磐椅神社に立ち寄って、この地を選んだと思われる解説をみたことがあるので、感覚的にそれを感じてみようかなと思ったことも。
 石田明夫の「会津の歴史」のページでは、磐椅神社は以下のように紹介される。
 http://aizuishida.de-blog.jp/aizu/2006/12/post_a5c0.html
 会津最古で磐梯山を御神体とする「磐椅神社」 猪苗代町
 福島県耶麻郡猪苗代町 猪苗代ICから15分
 会津を代表する磐梯山を御神体とする神社。土津神社の東にあり、字のとおり、神様が棲むところまで梯子のように続く山を意味する磐梯山を祀る神社。延喜式内社で会津最古、当初は伊佐須美神社より位が上でした。
 土津神社は、磐椅神社を分社し、保科正之を祀ったものです。会津若松市郡山や門田町、北会津町、喜多方市に分社があり、奈良・平安時代の役所や拠点となる集落近くに分社があります。
境内には、会津五桜の一つ大鹿桜があります。
 磐椅(いわはし)は、磐梯山の古名である「磐椅山(いわはしやま)」に由来するという話を聞いたことがあるが、これと「磐梯山を御神体とする神社」、「神様が棲むところまで梯子のように続く山を意味する磐梯山を祀る神社」という解説がつながるのかな。
 延喜式内社にかかわって「陸奥国磐椅神に従四位下を贈る」記載の史料があるとも聞く。(「福島県の歴史散歩」)
by shingen1948 | 2012-11-15 05:52 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 見祢の集落から磐梯山を眺めればよかったなぁと思いがあって、磐梯山を意識させる。

 途中で、とりあえず写真におさめる。
a0087378_4582653.jpg いつも見る磐梯山の東陵に、磐梯山噴火のイメージも重なる。
 噴火活動と火山灰が降り注ぐイメージ、そして、爆発に伴う疾風(爆風、ブラスト、水蒸気爆発サージ)が山麓を下って、多数の木がなぎ倒されたり、家屋が破壊されたりする被害があったというイメージ。そして、山体崩壊による岩くずれにのって見祢の大石が運ばれ、その山裾では、その後、火砕泥流による被害があったというイメージが結びつく。
 裏磐梯の風景から、磐梯山噴火による北側の造型をイメージする力はないが、磐梯山噴火による磐梯山の東陵の被害はイメージできる。
 これは、当方に今回の大震災を通して、圧倒的な自然の威力を感じる力が備わったという事もあるのではないかなと思う。今ならば、東北人には、見祢の大石から磐梯山噴火によるその東陵における被害がイメージ出来るはずで、3.11以降、見祢の大石にはその意義がもう一つ加わったのではないかなと勝手な思いも。

 確かに、磐梯山噴火のイメージが重なってはいるのだが、気になるのはむしろ冠雪の方。
 初冠雪かなと思ったのは、「2日吾妻山では初冠雪」の記事をみたため。家に戻って確認すると、初冠雪らしきものは10月24日にあったらしい。ということで、今回は2回目の冠雪、あるいはその前後らしい。
 会津では、磐梯山の3回目の冠雪頃から平地でも雪が降り出すとの言い伝えがあるようにも聞く。平地の雪も、そろそろかな。
 なお、昨年の磐梯山の初冠雪らしきものは、11月13日だったような記憶。言い伝えらしきものに従えば、今年は早めに平地で雪が降りだすのだろうか。
 「らしきもの」と表現するのは、会津若松市の若松測候所が平成22年10月1日から無人化されたため、正式に初冠雪が福島地方気象台から発表されないため。それで、各報道では、初冠雪という表現を使わずに、冠雪らしき風景を伝えるらしい。
 吾妻山については初冠雪が11月2日と発表されたが、こちらは昨年より30日遅く、平年より10日遅いということだった。こちらを基準にすれば、遅めの冬の到来を予想することになるのかな。

 〇 「吾妻山に白いじゅうたん 初冠雪【福島民報(2012/11/3)】」
  2日の磐梯吾妻スカイラインは雪が舞い、福島市の吾妻山では初冠雪が観測された。
 http://www.minpo.jp/news/detail/201211034621
 〇 「紅葉に映える白 磐梯山頂うっすら雪化粧【福島民報(2012/10/25)】」
 各地で冷え込んだ朝となった24日、磐梯山山頂がうっすらと雪化粧しているのが、磐梯町方面などから確認できた。
 http://www.minpo.jp/news/detail/201210254431
by shingen1948 | 2012-11-14 05:20 | ★ 季節便り | Comments(0)