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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 亀張水路を確かめるに、羽州街道から「栗和田」が案内される半田山に向かう道筋に入った。「明治43年新沼決壊被害地略図」を確認すると、直線で一気に半田山に向かうこの道筋は記載されていない。新道なのかもしれない。

その道筋を進むと、左手の民家が切れる辺りに、池があって、案内の石碑が建っているのを見つけた。
a0087378_4153878.jpg  記念碑
 此の水道は、昭和32年生活改善の一環として水道の重要性の認識に依り、当時阿部巖司氏ほか34名の総意に基づき昭和33年4月完成給水を始め以来組合各位の協力のもと現在に至っており創立25周年を迎えこれを建立する。
 昭和58年3月 栗和田御免町簡易水道組合建立
 栗和田御免町とのことだが、御免町は、羽州街道の早田邸付近から益子神社にかけての集落だろうか。そこから益子神社の南側の道筋に沿った集落を含めた集落の集合体の簡易水道組合ということだろうか。
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 ここからやや進んだ地点に「林道半田山線北口起点」の標柱が建つ。
 想像するに、明治43年新沼決壊被害地略図でいうその御免町から真っ直ぐ西に進んでいた道筋が一度北に向かって、更に西を目ざして進むその道筋との交点付近だろうと想像する。
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 道筋は真っすぐ西に向かうが、ここから少し登った左手に飲み水設備がある。ここは、銀山水道組合が管理する飲み水専用設備との表示。農作業の合間や山仕事の通り道にここで水分補給するのだろうか。
 ここまで、急な坂道をママチャリを押しながら登ってきて疲れたので、その水を頂き少し休ませていただいた。
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 北側の高まりを眺めていると、白い案内柱が見えたので、そちらに向かってみたら、「鉱山工夫墓群」ということだった。


 道筋に戻ってしばらく進むと、小屋が建っていて、そこに「顕頌碑」の案内板が建つ。これも水道施設のようだ。
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 顕頌碑
 銀山水道は、昭和34年生活改善の一環として、水道の必要性の認識に依って発起人武田喜市氏、横山周之助氏、佐藤栄寿氏、鈴木清蔵氏、紺野市夫氏、外10名の総意により武田氏を代表並びに、組合長とし、責任を果たされ銀山水道組合として完成、給水を始め現在に至っており、ここに創立30年を迎え、これを建立する。
昭和63年5月吉日
 銀山水道組合
 先に水分補給させていただいた飲み水専用設備は、こちらの水道組合とのかかわりらしい。栗和田御免町簡易水道組合より2年遅れてスタートしたようだ。今も、栗和田御免町簡易水道組合が、銀山水道組合と独立して、先の水源を使っているのかどうかは分からないが、二つの水道組合の水源地帯になっている。

 この道筋に入ってきたのは、灌漑用水としての亀張水路を確かめるためだったが、歩いてみると、この道筋に沿って豊かな湧水地帯の風景であることを感じたということだ。これも、えっちらおっちらとママチャリを押して苦労して登ってきた事で気づかされた風景だと思う。
by shingen1948 | 2012-07-03 05:20 | 半田銀山 | Comments(0)
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 この石碑と出会ったのは、湧水の里の風景を散策する中での出来事ではない。今年の3月になって、国道13号線を何の目的も無く歩いていて、偶然見つけたものだ。
 出あった方に訊ねると、明治天皇のお休み処だとか。万世大路の散策とのかねあいで訪ねる方が多いとのこと。
 分かっていて立ち寄ったのではなく、ここで先に瀧清水とのかかわりで整理した明治天皇御休憩所となった大笹生村菅野六郎兵衛宅の前の小休憩された処ということでつながったということ。
 「栗子峠にみる道づくの歴史」に紹介された明治天皇の行程を再掲する。
 明治天皇は、明治14年7月から東北、北海道までのご巡幸の後、10月3日に栗子山隧道を通られることになって、三島山形県令は、この日に合わせて竣工式を挙行したとのこと。
 明治天皇は、米沢側からこの竣工式に御出席なされ、12時に板籠に召されて御出発されたという。隧道を抜けて福島県側に入り、二つ小屋隧道福島口にあった県土木出張所で御休息され、中野村大滝の渡辺要七宅、円部の渡辺勇吉宅、大笹生村菅野六郎兵衛宅に小休憩され、午後7時に福島医学校着同所にお泊りになり、翌4日午前七時に御出発し、皇居には11日着とある。
 供奉員は、二品能久親王、太政官左大臣熾仁親王、参議大隈重信他1名、内閣、内務・大蔵省、近衛局、近衛諸隊、宮内省外侍医等以上325名、馬300余頭の行列だったとか。

 最初の文字が欠けているが、家に戻って「「山さ行がねが」のページで、元々は「鳳駕駐蹕之蹟(ほうがちゅうひつのせき)」であったということを知る。
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 側面は、日付は明瞭だが、その後が読みづらかったが、「明治十四年十月三日 御通輦」と刻まれているとのことだ。


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 左側面は、建立月日かな?

 二つ小屋隧道福島側坑口の前も同じ石碑とか。大滝の渡辺要七宅前にも石碑があるようなので、この石碑が無いのは大笹生村菅野六郎兵衛宅だけらしい。


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 出会った方の旧道は切れているから行かないようにとの忠告に従って、国道13号線に戻ったが、これがその旧高平隧道につながる旧道の痕跡なのだろうと思う。

 この時の散歩は、何の目的も無かったので、山神橋まで行って引き返したのだが、帰りの道筋を万世大路沿いにした。
by shingen1948 | 2012-04-02 06:13 | ◎ 水 | Comments(0)
a0087378_526745.jpg 今年3月の散歩時には、小川橋は完成していた。

 震災を挟んで「湧水の里の風景」を整理したことで、少し違った見え方になっているところがある。


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 小川橋は、国道13号線を跨いで沖根山トンネルと直接つながっている。それまで感じていなかった道筋が大地を走らないことへの違和感だ。
 道路のイメージとして、大地との折り合いをつけて大地に道筋を描いて進むことが中心であり、その折り合いがつかなくなったところで、橋を架け、トンネルを掘るというこだわりだ。
 それまでも、湧水という自然の力をねじ伏せた大笹生トンネルの技術とは見えていたが、この風景はそのまま受け取っていた。
 そのこだわりで東北中央道をみると、この沖根山トンネルを過ぎた東北中央道は、国道13号線に沿って走るが、大地に道筋を描くことが少ないように見える。
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 これは、多分沖根山トンネルと新高平トンネルの間にあった名もなき橋だと思う。僅かに、このあたりは大地に道筋を描いているのだが、ここを過ぎると、中野トンネルまで大地と折り合いをつけることもないようなのだ。
 新高平トンネルと杉ノ沢トンネルの間は、直接杉ノ沢橋で結ばれ、杉ノ沢トンネルと中野トンネルの間は、中野第一橋で直接結ばれ、中野トンネルを過ぎると、中野第二橋が、……ということで、天中の廻廊のような道筋になるようだ。
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 これは、そのうちの中野第一橋だろうか。
湧水という自然の力をねじ伏せた大笹生トンネルから続く東北中央道は、大地に折り合いをつけることも、祈ることもなく、技術で自然を制圧してつきすすんでいるようにみえる。


a0087378_5443644.jpg地方紙が、その人間の技術力を誇り高く報じる姿勢は変わらない。ただ、その読み手である自分の中に、本当に大丈夫かと不安を感じる感覚もある。
by shingen1948 | 2012-04-01 05:46 | ◎ 水 | Comments(0)
 大笹生トンネルは、東北中央自動車道の福島市と米沢市間の福島側最初のトンネルという。その東北中央自動車道は、福島県相馬市を起点として、福島市、米沢市等を経由して、 秋田県横手市に至る幹線道路とのことだ。
 この道路は、福島県、山形県、秋田県の主要都市を結ぶとともに、 常磐自動車道、東北縦貫自動車道、山形自動車道、秋田自動車道と接続することから、山形県内陸部と北東北や南東北地域を結び、緊急時の代替・迂回等の機能の強化をも担う路線という。
 そういう視点でみれば、期待される道路の福島市側最初のトンネルと見える。
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 しかし、湧水の里の風景という視点で見れば、別の見え方になる。
 このトンネルは、おだやかな傾斜を持つ台地形状の通称台山(最高高さ462m)を貫く延長2090mトンネルだが、この台山こそ、十六沼脇の山神がその対象とする山である。
 台山は、山の幸を与えてくれる山神の籠る聖地であるということである。その山神が籠る聖地の山に横穴を空け、事実として認めてはいないが、瀧清水の水脈をぶった切って、枯渇させてしまった可能性があるということだ。
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 これは、2009年7月に、国道13号線側から見た大笹生トンネル側を見たてところで、小川橋が沖根山トンネルへ延びてきている様子だ。
 この大笹生トンネル工事の経緯を確かめると、2007年からnatom工法で福島側から掘削が始まったのだが、約600m付近でトラブルが発生しているようだ。
 掘削に伴う地山の変形が計画値を超え、吹きつけたコンクリートにひびが入り、地山を補強するロックボルトが切断する事態に遭遇したとある。
 工事関係資料では、その難局を乗り切った自慢の対応として語られる。
 この原因は、予想を越える湧水で地山の粘性土が膨らんで、トンネルにかかる土圧が増したためで、トンネル断面の変形は20㎝以上だったとのことだ。責任のない素人の散歩人の立場では、これが、瀧清水の水脈とみる。山神の抵抗とも見える。
 工事関係者は、直ちに吹きつけコンクリート厚を増すなどの再施行施してこの難局が乗り切れたという視点だ。
 事前の計画とともに経験とノウハウを生かしての対応が自慢される。
 一見すると、山神を人間の技術が征服したというふうにもみえるが、……。

 今回はその逆の視点で、湧水の里の風景を一変させたトンネルとして眺めている。
 「瀧清水」の水量が激減し、東北中央道の大笹生トンネル工事との因果関係が指摘されているということで、山神を無視した開発という視点での眺めだ。
by shingen1948 | 2012-03-31 17:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_59094.jpg 「県北農林事務所」のwページによると、十六沼は明治以前に築造され、現在も利用される農業用ため池とのことだ。
 現在、ため池復旧作業中ということで、水が抜かれている状態だ。
 飯坂温泉観光のページには、十六沼の伝説が紹介される。
 この沼の名は、伝説によると、昔この沼の近くに、十六歳になる娘が住んでいて、この村の男と契りを結んだが、男は非情にも別の女と出奔してしまいました。娘は嘆き悲しみこの沼に身を沈めてします。村人はこのことを知りこの娘を惜しみ、それから十六沼と呼ぶようになったと言います。
 この沼は自然湧水の沼で、四方の灌漑用水になっています。桜の花の名所で、すぐ側に運動施設があり、運動公園として多くの人々の憩いの場となっています。
 ここで気になるのが、「この沼は自然湧水の沼」という部分。
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 この沼の中にこんこんと湧水が出ているという状態は見えない。
 公園東側の湿地帯方向には2本の引水口があり、西側に1本の引水口があるということから、自然湧水を引水しているのではないかと勝手に想像する。


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 瀧清水が枯れたことにかかわる報道では、「水道水としては使われなくなった後も、果樹の消毒や消防用水、十六沼公園の散水などに重宝されてきた。」とある。
 十六沼公園では、瀧清水の水は公園の散水にしか使われないということだが、気になるのは、十六沼の西側の1本の引水口が瀧清水の方を向いているような気がすることだ。
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 これは、震災前の瀧清水からの風景で、左手の高まりの左手が十六沼の方向だ。この手前の沼と十六沼とが水脈でつながっているような気もするが、よくは分からない。
by shingen1948 | 2012-03-30 05:22 | ◎ 水 | Comments(0)
 「明治天皇御休憩所」の案内柱には、以下の解説が記される。
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 明治天皇東北行幸のさい、ご休憩なされた処で、明治6年、同14年の2回にわたり万世大路を米沢より栗子峠を越し遊ばれ、当時大笹生の素封家であった菅野家宅が帝の行在所となった。注明治14年10月3日午後3時30分であった。
 これが、瀧清水碑にある「明治14年、明治天皇東北御巡幸の砌(みぎ)り、御休所にてその水を召され「これは美味なり」と賞賛された」ということにつながるらしい。

 「栗子峠にみる道づくの歴史」に、米沢ー福島間の道づくのかかわりでここが「明治天皇御休憩所」になったことが解説される。
 明治天皇は、明治14年7月から東北・北海道までのご巡幸の後、10月3日に栗子山隧道を通られることになるのだが、三島県令(当時は山形県令)は、この日に合わせて竣工式を挙行したとのことだ。
 明治天皇は、米沢側からこの竣工式に御出席なされ、12時に板籠に召されて御出発されたという。隧道を抜けると福島県側になり、そこからは福島県側の対応となる。
 福島県側に入って、明治天皇一行は、まず二つ小屋隧道福島口にあった県土木出張所で御休息された。その後、中野村大滝の渡辺要七宅、円部の渡辺勇吉宅、大笹生村菅野六郎兵衛宅に小休憩され、午後7時に福島医学校着。そこにお泊りになって、翌4日午前七時に御出発して、皇居には11日着とのこと。
 「これは美味なり」と賞賛されたのは、その時の事だと思われる。
 この時の供奉員は、二品能久親王、太政官左大臣熾仁親王、参議大隈重信他1名、内閣、内務・大蔵省、近衛局、近衛諸隊、宮内省外侍医等以上325名、馬300余頭の行列だったとか。
 当然、迎える側の福島県側の行政官の対応もあるわけで、村総出でのお出迎えであったろう事が想像される。

 なお、今のところ、お泊りになられたという福島医学校の情報については曖昧なところが多い。
 福島医学校が福島に開設されるのはこの年の明治14年(1881)で、それ以前は須賀川町の福島県病院内に置かれた医学所のはずだ。
 恐らく新築なった公的な施設にお泊りになられたと想像するが不確かで、その場所情報も持ち合わせない。
※ 今のところ、案内柱にある明治6年の栗子峠越えについての情報は確認していない。また、万世大路の名称は、この道筋を簡単に解説するには便利だが、命名は後日らしい。
by shingen1948 | 2012-03-29 05:20 | ◎ 水 | Comments(0)
 瀧清水碑によれば、「瀧清水は、明治初年の大雨による崩壊により地下に埋もれ、現在水源地に湧き出づ。」とのことだ。
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 公園西斜面には、いくつかのそれらしきものがあるが、とりあえず一番奥の囲いのあるところが、それに近いのかなと勝手な想像をする。
 碑では、大笹生東部簡易水道の水源については、「俎板山中腹より湧出する瀧清水を導水」という言い方をする。

 明治天皇東北御巡幸の砌(みぎ)り、御休所にてその水を召され「これは美味なり」と賞賛されたのが明治14年とのことなので、由緒ある水の水源は一番奥のここから供給されたのではというのも勝手な思い。


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 いくつかの囲いのある水槽は、その水源の変遷とその確保の苦労を意味するのか、それとも、水源から管理小屋の水槽に導水される途中の調整所を意味するのかは分からない。


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 水源近くに水神が祀られている。瀧清水神社の奥の院といったところだろうか。

 広域水道に切り替えによって、この水源から管理小屋の水槽に導水し、各家庭に配水する管理のわずらわしい共同作業から解放されたということだろうか。
 他所者の勝手な感覚でもったいないと思うのは、豊かな水が存在するのに水を買い取って使用するということ。
 見方をかえれば、そこでは、感覚的な都会化が、……。
 水は金で苦労無く手に入るものという変質は、水が湧き出るところに神を祀るという感覚と共同作業による絆の感覚が薄らぐということであり、この水の誇りが失われることなのかもしれないとも。
by shingen1948 | 2012-03-28 05:25 | ◎ 水 | Comments(0)
a0087378_3573257.jpg 瀧清水神社脇の建物は、塩素投入装置と水槽から簡易水道の管理小屋だろうと想像する。
 時代の要請ということで、福島市は、各簡易水道を福島市の摺上川ダムを水源とする広域水道に切り替えてきた。ここもその動きの一環として廃止されたようだ。

 大笹生簡易水道の廃止については、先に以下のように整理してきた。
 〇 大笹生⑧~豊かな水系
 〇 大笹生⑨~豊かな水系②
 〇 大笹生⑩~豊かな水系③
 大笹生簡易水道は、平成4年10月あたりから市水道局と統合の協定と統合計画に入り、平成5年から配水管工事に着工、その完成が平成13年とのこと。
 その中で、この大笹生東部簡易水道が、福島市の水道に切り替わるのが平成6年とのことなので、早い段階での切り替えだったのだろうと想像する。

 先の整理の時にもふれたが、この変化は単に巨大化効率化という効果に留まらず、心の変化につながるものなのだろうと思う。
by shingen1948 | 2012-03-27 05:20 | Comments(0)
 昨年の散歩では、この瀧清水神社の裏の水源を確かめようとしたら、その途中に国有林野使用承認の標識が建っているのをみつけた。
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 それによると、国土交通省東北地方整備局福島河川国道事務所が、22年11月11日から平成25年3月31日まで、2年141日の期間、ボーリング調査をするようだ。
 地下0.5m未満10㎡、地下5~25m未満33㎡、地下25m以上5㎡とある。

 現在もこの期間中ではあるので、今月見かけた先の風景も、このボーリング調査の一環だったのだろうと想像できそうだ。その規模から想像すると、地下25m以上5㎡に該当する調査だろうか。
 昨年の原発事故前の時点では、ニュースとして報じられる情報だったが、今は地道な調査になっている。

 先の散歩時に、ここを散歩する資料として、地方紙が高速道工事による瀧清水水源枯渇を報じられたものをメモしている。
 この時に気になっていたのは、湧水に対する畏敬の念とか、地域の誇りとかという事とはかかわりなく、あくまでも実用の側面でしか整理されていないということだった。
 恵みの湧水枯渇、高速道工事が影響か/福島<2009年10月30日>
 福島市大笹生のわき水「瀧清水(たきしみず)」の水量が激減し、国土交通省福島河川国道事務所が東北中央道の大笹生トンネル工事との因果関係を調査していることが29日までに分かった。かつて簡易水道の水源だった瀧清水は昨年夏ごろから減り続け、今夏にはほぼ枯渇。わき水を利用していた果樹の消毒や公園の散水などに影響が出ている。地元住民はわき水の復活を願っており、同事務所は11月4日にも協議の場を持つ。  瀧清水は、同市大笹生の台山東側からわき出ている清水で、平成5年まで周辺の208戸、842人でつくる元大笹生東部簡易水道組合の水源として使われていた。
 水道水としては使われなくなった後も、果樹の消毒や消防用水、十六沼公園の散水などに重宝されてきた。
 しかし、昨年夏ごろから水量が徐々に減り始め、今夏はほぼ枯渇した。
 地域の果樹農家約30戸は消毒用の水を約2km離れた小川などにくみ取りに行かなければならなくなった。
 昨年まで続けていた稲作を今年はあきらめた農家もあるという。

 トンネルに大量の水 福島のわき水激減 <11月>
 福島市大笹生のわき水「瀧清水」の水量が激減し、東北中央道の大笹生トンネル工事との因果関係が指摘されている問題で、国土交通省福島河川国道事務所は4日、同市の信陵支所で住民の代表者への初めての説明会を開いた。事務所は トンネル工事現場で今春1時間当たり100トンを超える水が出ていたことを明らかにした。
 同事務所によると平成19年9月の掘削開始後、20年5月ごろから坑内のわき水が増え始め、今年3月には1時間当たり約105トンのわき水があった。現在は約50トン前後で推移しているという。
 同事務所は、影響が出ている果樹農家の消毒用水として、工事現場近くにトンネル坑内からのわき水をためるタンクを設置し農家への提供を検討することも示した。
 瀧清水の水量調査では、4月の調査開始後、5月上旬まで一分間に約10リットルわき出ていたが、現在はほぼ枯渇していることが報告された。
 説明会には、大笹生地区の六町会の代表10人をはじめ同事務所と市の担当者が出席した。平地内第一町内会の菅野勝太郎会長は「調査を継続してほしい。今回の内容を地区に持ち帰り対応を検討したい」と語った。

 素人目には、因果関係は明らかなように見えるが、専門家としては慎重な判断になるらしい。
 今、資料は見あたらないが、確かこの対策にかかわる事業は社会貢献事業であり、謝罪とかかわる事業ではなかったと記憶する。
by shingen1948 | 2012-03-26 06:00 | ◎ 水 | Comments(0)
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 今月見かけたこの風景は、水源を傷つけてしまった謝罪の行為の継続と見てよいのだろうか。
 放射性物質がまき散らされ、この水は故郷の大地から湧き出る水だと胸を張って言える状態にない。そんな状況の中でも、水脈を傷つけてしまったことに誠実に対処している姿なのだろうか。


 あの時点では、明治天皇が「これは美味なり」と賞賛された由緒ある水であり、地域の人々が飲料水としてきたという誇りの水であり、それが大地から湧き出て恵まれる神秘さを持った水だった。
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 大笹生東部簡易水道の施設の脇に鎮座する瀧清水神社が見える。現在、近づくことはできないようだが、これが地域の人々が飲料水としてきたという誇りのシンボルのようだ。
 瀧清水神社の社には水道通水記念日が刻まれ、その前に建つ「瀧清水神社」標柱の裏にも水道完成記念として、昭和23年11月20日が記されている。
 この瀧清水を水源とする大笹生東部簡易水道に対する思いの強さが感じられた。

 この簡易水道が地元の集落の水道として使用されてきたが、平成6年市の水道に切り替わるという経緯でも、この時点では、その誇りは残っていたという状況だった。

 先の風景は、あの時点の感覚の継続として、今も対処されているという風景とみてもよいのだろうか。
by shingen1948 | 2012-03-25 05:45 | ◎ 水 | Comments(0)