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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 春日神社の信夫渡碑は、「天明7年(1787)9月伊達熊阪定邦撰」で「金竜山人筆」ということになる。
 「ウィキペディア」で確認すると、筆の「金竜山人」は、為永春水【寛政2年(1790)~天保14年(1844)】という江戸時代後期の戯作者のようだ。本名が佐々木貞高、通称が長次郎とのこと。その筆名の一つに、「金竜山人」があるようだ。
 江戸の有名作家や権威者の名を借りることによって、内容の正しさを強調する手法なのだろうと思うが、年代が少し合わない。

 今回、確認しておこうと思ったのは、こちらの方ではなくて、この歌を選定した伊達熊阪定邦の方だ。
a0087378_1024420.jpg 熊阪定邦は、散歩資料の中では号の「台州」ということで知られた上保原村高子の儒学者だ。
 「熊坂墓地」に建つ案内板では、この「台州」の号で、父の号「覇陵」、子の号「盤谷」で、共に江戸中期から後期にかけての儒学者・篤農家として知られているとある。 
 詩人としても高名であったことも付加的に紹介される。

 今回確認する中で面白い紹介を見つけた。
 「福島県立図書館」の「江戸時代に『桃太郎』を漢文にした『熊坂台州』」という紹介だ。こちらは、付加的に紹介された漢詩人という側面が中心的に紹介されている。
 この紹介文の後半にある「天明3年からの洪水や冷害による大凶作が元で大飢饉が発生した。この時期を境に台州には思想上の変化が見られ、文学運動を停止して救貧事業に力を尽くすことになる」という方が中心的に紹介されているのが一般的な紹介のようなのだ。
 それが、「名は定邦または邦。字は子彦。通称は初め宇右衛門、後に(たまき)、号を台州という。上保原村高子生まれの漢詩人である。元文4年(1719)、豪農の家に生まれた。父の定昭(覇陵)は、江戸後期に保原を中心に漢詩文の文学活動を繰り広げ、自らの屋敷を「白雲館」と号した人である」と紹介される。
 漢詩人の文学活動の視点からの紹介だ。
 その後、台州は22歳の宝暦10年(1761)に江戸に出て入江南溟に師事するのだが、それ以降の経歴や著書が紹介される。
 翌年には、江戸から上方へ約3か月間の旅に出て見聞を広めたともある。

 肝心の桃太郎についての紹介の概要は次のようだ。
 安永年間末、台州40歳の頃に弟子に文章修練として、物語を語らせ漢文訳をさせる。その模範解答として取りまとめたものの一つが「桃奴事」(桃太郎)という事のようだ。
 寛政4年に出版された書物で、台州が主宰する正心塾の入門テキストとしても用いられたとのことだ。その中に納められたが「二翁事」(花咲爺)「蟹猿事」(猿蟹合戦)「桃奴事」(桃太郎)の三話とのことだ。
by shingen1948 | 2016-10-12 10:32 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 都の奥州ブームにかかわって能因法師が「街道をゆく(33)」に紹介されていた。前回は、その中の白河の関にかかわる歌のエピソードにふれた。
 同書では、奥州へのあこがれ変化を、能因法師の生計とのかかわりで解説する。
 それによると、能因法師は、荘園を持つような身分ではなかったという。それで、その生計を奥州の馬とのかかわりで立てていたのではないかという。
a0087378_346319.jpg こちらの話が興味深いのは、地域散歩で確認した春日神社の「信夫渡し碑」=「能因法師の歌碑」とつながる話のように思うからだ。
 おおよそ次のような紹介だ。

 国司は、役得で馬を貰ったりすることがあるのだとか。それが都に運ばれた時には、一時的に飼っておく牧が必要になるということだ。能因は、このこととかかわって生計を立てていたのではないかというのだ。礼金を元に牧を商業的に運営していたという仮説話だ。
 40歳近い能因は、万寿2年(1025)以降に二度も奥州へ出かけるわけだが、これは馬の交易のための実務的な旅だったのではないのかというのだ。
 この事は、それまでの詩的なあこがれとしての奥州というイメージから、馬と産金という実利的なイメージに変質してきたという事を意味するともいうのだ。

 これは、春日神社の信夫渡碑で紹介される能因法師の歌だ。
 浅茅原荒れたる宿はむかし見し人を信夫の渡なりにけり 能因法師
 この歌は次のように解釈されているようだ。
 「能因法師が二度目の奥州の旅の時、常陸から久慈川をさかのぼって奥州信夫の里に着き、旧知の友を訪ねてこの地に来たのだが、その人はもう亡くなったと聞き惜別追悼の情から歌った歌」。
 注目は、この地に旧知の友がいて、そこを訪ねたということだ。
 能因が陸奥から戻った国司がもらった馬を一時預かる牧場経営で収入を得ていたということなら、陸奥のこの地に友がいても自然であり、イメージ的に納得がいくということだ。

 今回、春日神社の信夫渡碑を確認していて、もう一つ気づいたことがある。
 前段の漢文の部分を見ていたら、「天明丁未秋九月伊達熊阪定邦撰」とあることに気づいたのだ。天明丁未は、天明7年だ。
 この歌碑は「天明7年(1787)9月伊達熊阪定邦撰」で「金竜山人筆」ということになる。
by shingen1948 | 2016-10-11 09:30 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
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 「福島の戦争展」の位置を示すために掲げられた地図の№14が、模擬原爆の渡利着弾地点だ。この地図、今は福島駅南側から№14地点にかけた範囲が、模擬原爆とかかわる地点に見える。
 そういう見方に変えると、先に確認した模擬原爆のもう一つの目的が見えてくる。

 模擬原爆投下は、「人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練と、爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練」+「充分な殺傷」を目的としていたということのようだだった。
 その「充分な殺傷」だ。
 渡利着弾地点だけでは見えなかったのだが、これが見えてきているのではないかなと思うのだ。計画で、福島の目標地点に二つの工場が示されるが、それは道義的な名目のために目標を軍事工場に置いているだけ。
 この模擬原爆のもう一つの本来の目的に、充分な殺傷を確実に実行できることも想定しているらしいということだった。
 この事を頭に置いて地図と見比べる。

 福島での投下目標地点は、道義的な名目のための目標として、福島の北西隅に位置する福島製作所と福島高校南にあった品川製作所だ。
 福島投下予定機B29の2機は、7月20日テニアン島を1時20分に飛び立っている。そのうちの1機が、エンジントラブルで引き返す。それで、福島投下予定機B29の1機だけになる。
 これが、福島上空に現れるのだが、福島まで来たところで、曇りで目視投下が出来なかったとのことだ。それで、上空9000m【高度3万フィート】からレーダーで投下したということだった。
 その投下地点が、投下目標地点に近い福島駅の北側ではなく、南側だったということだ。
 
 目視ができない状態で、レーダーでの投下なのだから、そのセットは福島駅の北側にもできたはずだが、道義的な名目より本来の目的である「充分な殺傷」が頭にあれば、これはどちらでもよいことだったのだろう。
 もっと勘ぐれば、「充分な殺傷」を試すには福島駅の南側の方がよかったという判断も無かっただろうかとも思う。そういう視点で地図を見れば、ずれがなければ駅があり、多少のずれなら県庁付近がある。ここに着弾なら大成功だったのかなとも、……。

 実際には、目標から逸れて、渡利の水沼に着弾する。これが、先の確認の情報では、8時33分。これがどちら側の情報だったか記憶にはない。
 経過とかかわる情報を新聞報道からも拾えば、「午前8時3分に大型機1機が現れ、雲の上をしばらく旋回して北東に機首を向けた時に爆弾を1個投下した。」ということであり、「投下後、そのまま北東部から洋上に向かった。」という情報につながるのかな。
by shingen1948 | 2012-10-30 05:20 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 休日に手持ちの資料を整理していたら、ふれあい歴史館の「阿武隈川の舟運」というパンフレットが出てきた。
 散策してきた渡利地区とかかわる部分を整理すると、より深く実感できそうに思えた。
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 「弁天山」は、先に整理したように三山からなる。東から福見山・椿舘・八千代山が連なっている。その西端の八千代山に、弁財天が祭られているので、ここを単独に弁天山と呼ぶこともあるということだった。
 その弁財天の勧進だが、これも舟運とかかわるようだ。
 弁天山の登り口の案内板に「貞享2年(1685)渡辺友意の子孫貞嘉が水上運行の安全を祈願し山上に勧進す。」とあったが、この渡辺氏というのが、この阿武隈舟運を始めた方らしい。
 寛文4年(1664)に、信達地方の米を江戸に運ぶために、代官に阿武隈川の川浚い普請を願い出たのが、阿武隈舟運の始まりとのことだ。
 本格的な舟運は、寛文10年(1670)で、幕命を受けて、その渡辺氏の子孫が代々十左衛門を襲名して、普請や廻米をしていたということだ。
 福島から沼の上までの小鵜飼舟による舟運を渡辺氏が請負い、水沢以降が艜舟に積み替えて上総屋が請け負うということだったらしい。それが、明和4年(1767)に渡辺氏が廃業に至って、上総屋が全ての舟運の主になるという経緯を辿るらしい。

 その渡辺氏が舟運の神として弁天山に滋賀県の竹生島の弁財天を勧進したのだか、その後、天神河川岸に移動した理由は案内板にある通りのようだ。
 ただ、移動先として指定されたのは、小倉寺村のようだ。黒岩の向いあたりというから、今の蓬莱橋のあたりだろうか。舟運を守護する神としてはこの位置は納得がいかないということで、福島河岸が見守れる位置にこだわったという経緯もあったようだ。
 絵地図には、弁財天は阿武隈川守護仏として天神様と共に天神渡しの少し下流に描かれているようだ。上の写真に写っている橋は天神橋で、その橋の左手あたりと思われる。

 それが、これもまた明治の廃仏希釈によってこの弁財天は名倉の長勝寺観音堂に移ったそうだ。この長勝寺は、立子山を訪ねた後、その続きである農民一揆のかかわりで訊ねたことがある。そのことを「義民⑤~名主半十郎供養塔」として整理しているのだが、その観音堂のこの事情について考えは及んでいなかった。
 弁天山には、新たに鹿島神社が勧進されて、弁天山が復活する。
 案内板はこういった事情も説明しているのだが、その知識を持たない者にとっては歯切れの悪さを感じてしまっていた。

 もう一つ渡利地区とかかわるのが河岸だ。
 福島河岸には、福島藩と米沢藩の御米蔵があったそうだが、渡利側にも、天神河岸と渡利河岸が舟運の蔵場としてあったということだ。
 渡利河岸の賑わいはイメージしていた所だが、天神河岸にかかわる道筋が明治2年の絵図では、それ程重要にみえなかった。
 その天神河岸は、主に立子山・飯野方面の幕領米を運んだとのことだ。そして、渡利河岸(松齢橋のやや下流の位置)が、川俣を中心とした小手郷の幕領米を扱ったということだ。そこに、天神様と海運の守護神として弁財天が鎮座していたということだ。
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 阿武隈川海運図には、確かに天神河岸から延びる道が描かれている。
 その時代の川俣方面と渡利地区のつながり具合は分からなくなるが、立子山・飯野方面と天神河岸は繋がっていたということになりそうだ。
 鳥谷野渡しはその途中ということで、農民一揆の義人の足跡は、鳥谷野の渡し経由で信夫の里に入って大森陣屋とかかわった道筋だろうし、案内板にあった「伊達政宗の父が粟の巣から、こちら側を経由して、鳥谷野の渡し」を渡ったということも、実感しやすい。ここから大森経由で慈徳寺に向かったということになるのだろう。

 最近、「疣石峠の話」~享保14年信達農民強訴物語~という、労作を見つけた。眼を通してみたが、この地域に五感を通して馴染んでいなかったので、実感を持って捉えきれなかった。
 今回、渡利・小倉寺・山之内から、立子山辺りを散策したが、その後で、もう一度目を通して見たら、今度は読めるような気がした。
 この立子山地区を最初に散策したのは疣石峠で、農民一揆の確認だった。是非、読み通して、この地域をもう少し深く感じてみたい。
by shingen1948 | 2009-10-28 05:06 | ◎ 水 | Comments(0)
 蓬莱橋から上流から信夫発電所までの阿武隈川沿いの景色については、先に整理した。
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 更に、その上流を確認するのに、信夫発電所への分岐点である前川原バス停から一度旧国道114号線に出る。この辺りから、旧国道は上り坂になる。
 その高くなった地点から、阿武隈川沿いの景色が見える。


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 こちらが、信夫発電所の方向だ。


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 そこから少し登ったガードレールの外側に水準点がある。
 余計な話だが、ここに水準点があることを見つけたことよりは、プレートが欠けていることの方が驚きだ。印を確認して楽しんでいる人は絶対にこういった悪戯しない。
 最近、本人にとっては他愛もない悪戯で、迷惑を被ったり、文化的な価値を無くしたりしているニュースが目につくが、その前兆のような感じがして、不快だった。


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 山之内集会所近くで、一度、最近開通した国道バイパスの陸橋をくぐってすすんで、このバイパスと交わりそれから先は、重なり合いながら先に進む。


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 その国道バイパスから、登ってくる旧国道114号線を見ると、こんな感じだ。


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 国道バイパスと旧国道は、ほぼ重なって進むようになるのだが、所々で旧国道が切り取られた景色がある。その景色に入り込んで直ぐに、蓬莱発電所へ向かう道の案内がある。


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 その道をしばらく下ると、阿武隈川沿いに出る。
 立子山少年の家前にあった案内板によると、そのあたりが、漕艇場ということだが、その雰囲気はない。
 ただ、釣り客が、テントを張って自然を楽しんでいた。


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 岩をくりぬいてできたこの道の奥に、蓬莱発電所が現れる。


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 これが、蓬莱発電所だが、ここで行き止まりになる。


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 また、戻ることになるが、行きはよいよい、帰りはこわい。ここに来るまでの坂道を思い出す。
 
 しかし、目の前には、そんなことを忘れさせる蓬莱発電所から下流の阿武隈川沿いの景色が広がる。


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 さらに進んで、漕艇場あたりだと思われる景色。

 飯野の堤も含めて、信夫発電所の案内板にあった「このあたりが、福島市近傍では大切な電源地帯である」ことの確認だ。


 その案内板の説明のうち、このことにかかわる部分を再掲する。
 信夫発電所は、阿武隈川の水をせき止めて水圧で電力をおこすダム式発電所です。昭和12年(1937)から3ケ年かかって14年の10月から送電するようになりました。発電量は5950Wですが、上流にある蓬莱発電所と共に福島市近傍では大切な電源地です。

by shingen1948 | 2009-10-25 05:10 | ◎ 水 | Comments(0)
 鳥谷野舟橋の跡と、渡舟場跡との違いは、渡利地区側からははっきりしないが、川向かいの鳥谷野地区には、別に案内板がある。
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 ここが、鳥谷野側の渡船場跡(鳥谷野の渡し)の入り口だ。この入口には、渡しについての簡単な説明がある。
 
 この渡しは、佐藤庄司基治の平安時代より鳥谷野村で運行されていた。特に中通り地方を制圧した伊達稙宗・政宗が多く利用し、その記録が残っている。船場跡には2基の記念碑が建っている。



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 川際まで降りて行くと、渡船場跡に記念碑が建つ。その脇の船場の道記念碑には、この渡り跡についての説明が刻まれている。


 船場の道記念碑
 この道は旧川俣街道より阿武隈川を渡り大森街道となる地域の生活の道であった。今から803年前の文治2年佐藤庄司の郎党渡利猪太という者が馬と共に渡ったと伝えられる。その後今から447年前の天文11年より天文17年までの伊達天文の乱には、伊達稙宗の軍勢が幾度となく渡河したとも伝えられ、又、今から404年前の天正13年伊達政宗の軍勢が東安達に出陣し粟の須で戦死した政宗の父輝宗の遺骸を守る軍勢が天正13年10月この船場を渡河したとも伝えられる。その後戦勝して天正16年5月25日小倉寺観音様に参詣して此の船場を渡河したという。私達隣接地権者はかかる歴史のある此の船場の道を後世に伝える為に之碑を建る。
 平成元年(1989)11月吉日
 建立者 (4名の氏名記載)
 鳥谷野町会長(氏名) 書
 福島市文化保護指導員(氏名) 記
 施工 (有) 〇〇石材店



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 ここから対岸を確認すると、意味ありげな供養碑があったあたりだ。
 ここが渡舟跡ということは、渡渡利側の案内板に説明のあった、渡船場跡から100m上流ということとも一致する。


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 これは、その渡利側の供養碑。


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 この供養塔のある風景を引いてみると、これが渡利側の景色だ。この道自体は新しいが、この道筋が、先に古道とした道筋と重なっていったのだろうと思う。
by shingen1948 | 2009-10-24 05:15 | ◎ 水 | Comments(0)
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 小倉寺集会所付近の旧国道114号線で、切り取られたこの細道が、鳥谷野舟橋・渡船場へ続く道のようだ。


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 この道を進んでいくと、阿武隈川の土手になるのだが、そこに鳥谷野舟橋・渡船場跡について説明する案内板が建っている。
 それによると、ここも松齢橋と同じように、船橋があったようだ。松齢橋が、明治16年にできて、この橋は明治23年にできているということのようだ。
 それ以前は、渡しだったとのことだが、位置はここではなく、100m上流とのことだが、その道が、先に勝手に川俣への古道と思った道とつながっていたということのようだ。

 史跡 鳥谷野舟橋・渡船場跡
 ここに、明治23年から昭和16年の大洪水まで「鳥谷野橋」と呼ばれた舟橋がありました。両岸にワイヤーを張り、舟を横列に16隻つなぎ、各舟に櫓を組み桁を通して、その上に板を並べ、人・牛馬・荷車から荷馬車まで通れるようにしたものです。
 それより昔は、約100m上流に「渡し舟」がありました。その歴史は古く、文治2年(1186)佐藤庄司の郎党が、この渡し場を渡ったとの説があります。
両所とも、長い間福島と川俣をつなぐ、重要な通路として利用されてきた史跡です。
 昭和63年3月吉日
 渡利歴史研究会
 贈 福島東ライオンズクラブ



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 対岸を望む。


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 その対岸は、鳥谷野地区になる。こちら側の案内板自体も違うし、案内も鳥谷野舟橋と渡船場跡を分けて案内している。

 ここは鳥谷野船橋跡の入口の案内で、渡船場跡は、この東側にある。鳥谷野地区では、鳥谷野船橋跡を次のように案内する。


 鳥谷野船橋跡
 明治23年、鳥谷野村38名、小倉寺村2名の出費で橋は完成したが、秋に大洪水で流出、後復元した。船に桁でつなぎ、板を渡したものであった。昭和13年に蓬莱橋ができて船橋の役目は終わった。北原白秋の信夫小唄に「怖い鳥谷野の船橋ならば~アラヨイショ~渡れやすまいに~エーソリャ~なぜわたる 逢ひに行く行く~アンナシ~なぜわたる」

 渡利地区の案内と違うのは、橋の役割を終える時期だ。こちららでは、昭和13年に蓬莱橋ができて役割を終えたとしている。渡利側では、昭和16年の大洪水で橋が流されたとする。
 この脇が、地区の集会場らしい。古くからそうらしい。


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 ここから、渡利地区の案内板のあった対岸を望む。


 渡利地区の阿武隈川を渡る橋の架設を確認しておく。
 松齢橋が、明治16年に舟橋ができて、大正14年(1925)に現在の橋に架け替えられている。
 次にできたのがこの鳥谷野橋で、明治23年から昭和16年の大洪水まで、あるいは、昭和13年に蓬莱橋ができるまであったということだ。
 天神橋は、意外に新しい。昭和39年(1964)の架橋だ。
 弁天橋と大仏橋の架橋は、国道4号線バイパス工事に伴って架設された。
 昭和47年(1972)に現在の下り線の橋を利用して対面通行で暫定的開通。昭和50年(1975)に上り線の橋が開通。
 昭和54年8月に三本木橋が架設され、そして、平成8年3月国道114号線バイパス工事に伴って渡利大橋全面開通(4車線)。
by shingen1948 | 2009-10-23 05:18 | ◎ 水 | Comments(2)
 福島の飲料水の多くは、この渡利浄水場から、先に整理した弁天山にある配水池に水が送られ、そこから道下に埋められた導管を通って、松齢橋を渡って福島市内に送られていた。今は、逆にこの導管を使って渡利地区に水が送られてきているのだろうか。
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 松齢橋は、大正14年(1925)5月6日に浄水場とともに完成を祝われたとのことで、この橋に対する地域の方の思い入れが分かる。


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 その松齢橋の記念碑が、七社宮に建っているということなので確認する。
 この神社の道路沿いに案内板が建ち、この神社の説明と共に松齢橋記念碑の説明をしている。ただ、錆びが出ていて一部読めない所はある。概要は分かる。
 読んでみると、浄水場と共に完成した今の松齢橋を記念したものではなく、明治16年1月に竣工した15艙の舟をつなぎ並べて渡り板を敷いた最初の松齢橋である舟橋を記念したもののようだ。だとすれば、今の橋の位置からやや東側の細道につながる位置に架かっていた橋ということらしい。
 いずれにしても、この橋に寄せる思いがいかに大きかったかということが分かる。


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 案内板が錆つきはじめているということと、いくつもの橋がかかり、地域が開発され便利になって、川の障害が感じられなくなたこととかかわるのだろうか。


 ふるさとの良さを見つけよう
 <歴史> 七社宮
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 この神社の勧進年代は明らかでありませんが、渡利山王七所明神を祀ったものと思われます。今の社殿は昭和○○造営で、耕地整理碑も同年10月の建立ですが、明治16年12月に松齢橋碑が建設されていますから、古くから土地の人々に信仰されてきたのでしょう。
 松齢橋碑は、明治15年5月に起工され、翌16年1月に竣工した最初の橋で、15艙の舟をつなぎ並べて渡り板を敷いた舟橋を記念したものです。命名は時の県令三島通庸で、この橋のおかげで川俣街道が県道として渡利を通るようになる重要な意味○○○○いました。副碑には、福島730名、渡利○73名の○か周辺○○多くの有志がこの碑の建立にあた○○○を記しています。○○橋の竣工がどんなに期待され、祝福したか、○○の心が○○○くるよう○○ま○○○○
 東ライオンズクラブ
 ディスカバーマイカントリー
 信夫ライオンズクラブ

 松齢橋の記念碑がある七社宮は、河岸段丘の端のライン沿いにある。今でこそ水路が整備され、排水設備が改良されているが、ここからの低地は阿武隈川氾濫原でもある。そこは昔は、砂地だったので水田にはならずに畑地だったというが、現在は住宅地になっている。
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 ここが氾濫原であったという過去を忘れないようにするためだろうか、阿武隈川の河原に、過去の増水時の水位が記されたポールが建つ。
by shingen1948 | 2009-10-22 05:31 | ◎ 水 | Comments(2)
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 旧国道114号線は、明治18年竣工とのことだが、弁天橋近くに起点のポールが建つ。この道は、阿武隈川沿いの見慣れた景色だ。


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 国道を進むと、渡利地区のもう一つの水に関わる代表的な風景である「旧浄水場」がある。
  福島の水道は、明治11年(1878)に、泉村からの箱樋による簡易水道が最初だが、この浄水場は、大正14年(1925)3月に完成し、5月6日に松齢橋と共に完成式が行われたとのことだ。当時の施設は取水塔→ポンプ井→沈殿池×2→緩速濾過池×3→高揚ポンプ→配水池×2 とのことだ。
 その後、各地の水源ポンプ所新設とともに、濾過池、取水及び送水ポンプ増設。急速ろ過設備の設置、沈澱池、緩速濾過池の改良等々、この浄水場自体の改善を加えながら、長年市内に水を供給し続けていた。
 それが、平成19年(2007)3月28日に、福島地方水道用水供給企業団からの供給に切り替えることになって、浄水場としての役割を終えた。
 しかし、風景としては現在もそのまま残っている。
 若いころ、初めてこの地の水を飲んだのが、かび臭い異臭騒ぎの頃だ。それで、その後改善されたにもかかわらず、ここを見るとどうしてもそのことを思い出してしまう。

 その貯水池のところに、ナウマン象臼歯発掘の説明案内板が建つ。中学校の社会科の資料集には、福島県内のナウマン象化石発掘地、郡山市熱海町と共に福島市小倉寺として紹介されている。
 ただ、写真で見たこともなく、その保管場所を記載されたものも見たことはない。自分にとっては、弁天山の古墳同様、伝説に近い。
 ふるさとの良さを見つけよう
 <史跡> ナウマン象化石出土地
 大正14年(1925)ここ福島市浄水槽の工事中に、土中から偶然発見されたものにナウマン象の化石(臼歯)がある。これ福島県内数か所のうちに数えられる貴重な資料である。
 ナウマン象は新生代後期の洪積世(百万年余以前)とよばれる地質時代に地球上の各地に住んでいた哺乳動物で我が国では二万年前まで生存していたことが確認されている。このナウマン象は、もとアジアなどの大陸に住んでいたもので、それがやがて日本に移ってきたものであろうから、日本列島がアジア大陸と陸続きであったことを示す貴重なものである。
 ディスカバー・マイカントリー
 福島信夫ライオンズクラブ



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 その向い側に、「水道記念碑」が建つ。
 泉村からの箱樋による簡易水道だったものを、明治22年4月に陶管に変える工事が完成したことを記念して、翌年の明治23年3月に福島稲荷神社境内に建立されたものとのことだ。
 これを福島市の浄水場が整備されたことに伴って移築したものと思われる。
 この浄水場は、平成19年(2007)3月28日に役割を終えたのだが、記念碑はそのまま残されている。いつか忘れ去られる運命なのかもしれない。


 ふるさとの良さを見つけよう
 <歴史> 水道記念碑
 この碑は、明治23年3月に福島稲荷神社境内に建立されたものを移築したもので、これまで木管だった水道を陶管に換える大工事完成の記念碑です。明治22年4月、曽根田村と腰の浜村の一部を合併して新発足した福島町は、早速、当面する課題に取り組みました。その一つが泉村(清水)から引いた水道の整備で、当時の金で陶管費1218円余・待箱費709円余などの巨費を計上して着手しました。
 碑文には、「町民欣喜せざる莫く慶賀。是に於て数百年の困乏変じて万世の洋溢る」と讃え、
 すゑ(陶)もの 樋をもち水を通はする
            いさをそ長く世に残りなむ
 ほか2首の歌を刻んでいます。
 撰文は欧遷田島寛、書は淡湖内池(三十郎)、歌は従五位穂積重嶺です。

 ディスカバー・マイカントリー
 福島信夫ライオンズクラブ



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 阿武隈川を渡って、南側に通水するのだろう水道橋がかかっている。
 ここが、浄水場への取水口でもあったらしい。


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 この水が、弁天山の配水池に揚げられて、市内に送られる。
 浄水場から弁天山の配水池に向かうこの石段が、弁天山へ登る時にいつも使っていた懐かしい道だ。
by shingen1948 | 2009-10-21 05:06 | ◎ 水 | Comments(0)
 手持ちの資料によると、前河原バス停から信夫発電所と東根堰に向かうあたりの阿武隈川に、献上梁場跡があるとのことだった。それを確認しなかったことが気になって、日を改めて出かけた。
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 旧国道114号線の蓬莱橋を過ぎるあたりから、阿武隈川の様子を確かめながら進む。
 黒岩虚空蔵堂・満願寺・春日明神などが祀られる小山が対岸に見える。


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 河原で魚釣りの人影がみえるが、その対岸の降り口に施設のようなものが見えるが、よく分からない。


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 少し進むと、旧国道114号線から阿武隈川が見えなくなるが、直ぐにまた川沿いに進むようになる。
 その対岸あたりが、小原という集落があったとのことで、ここが康善寺の旧地という。
 元和6年(1620)に西根堰開削者古河善兵衛が、ここから秀安寺を中町に移して、康善寺と改称したとのことだ。

 ここから、献上梁場跡を見ることはできる。ただ、前河原バス停までは、国道から河原に出てこの梁場に抜けれそうな道はなさそうだった。


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 前河原バス停から信夫発電所と東根堰に向かう細道に入ってしばらく行くと、献上梁場跡の入口を示す標柱が建っていた。先日は、これを見逃していたらしい。


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 畑の中の細道を進むと、竹藪になっていて河原に行けそうな所がなかなかみつからなかったが、南側の端からなんとか河原に出られそうな所を見つける。


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 河原に出てみると、石を組んで人工的にいじったのだろうと思われる風景がみえる。ただ、献上梁場跡という情報を得ているのでそんな風に見ようとしているのかもしれないが、……。
 ここは、福島藩が、将軍家への献上鮎漁場らしい。眼下8寸以上1800匹を中秋に樽塩漬けにして江戸へ送ったと聞く。


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 この上流に釣り人が見えるが、この辺りは誰もいない。
by shingen1948 | 2009-10-19 06:07 | ◎ 水 | Comments(0)