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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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さいで地蔵尊③

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 「さいで地蔵尊」を確認するきっかけになったのが、この清水のさいで地蔵尊だ。
 先に、清水の泉と池をめぐる中でみつけた念仏講碑を記事にした。その中で、これが半沢氏の紹介する碑ではないかとしたが、それはこちらだとご紹介いただいた。
 確かに半沢氏が紹介するのは、こちらの方だと分かった。

 向かって右よりニ十三夜塔(安永6年1777年)地蔵尊・さいで地蔵尊(文化13年1816年)百万遍供養塔(文化11年1814年)で、平成3年4月「福島西土地区画整理事業」によって整備したとのことだ。
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 この時点での興味は、百万遍供養塔とニ十三夜塔だったのだが、説明されるのは「さいで地蔵尊」の方だった。
 ここには、地蔵尊が2体並んでいて、「さいで地蔵尊」は舟に乗っていらっしゃる。散歩人が、他の地蔵尊と区別するのには、一つの目安になりそうだ。


 「さいで地蔵尊」は、幕末にできたのですが、いつのころからか首がなくなり後で補修されたもので「さいで」とは田植え等の農作業によって手首が赤く腫れあがる関節炎のことで、ひどい痛みのため農作業ができなくなるのでその平癒をこの「さいで地蔵さま」にお祈りいたしました。
平成9年6月清水地区郷土史研究会

 ここで初めて「さいで」という言葉に接した。
 方言なら古語辞典で確認できないかと思ったが、「さいで」そのものには行きつかない。「さきて」あるいは「さきで」ならかかわりそうな言葉もあるが、その症状が「手首が赤く腫れあがる関節炎」となると随分違う。今のところ深追いしないでおく。


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 元々は、大笹生道の旁らにあったが、平成3年に土地整備事業とのかかわりで移動したとのことだ。

 
by shingen1948 | 2011-03-03 05:04 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(5)

双体道祖神 ④

a0087378_518421.jpg 岩代清水の泉と池をめぐる⑯ で久盛院の双体道祖神に出会ったのだが、これが地域の道祖神の概念の特殊性を意識するきっかけになった。
 この地区では、双体道祖神に出会う機会は少ないということだ。今のところ、この地区で気軽に散歩する者が双体道祖神に確実に出会えるのは、この久盛院の道祖神だけのようだ。
 道祖神については特殊な地域らしいが、これに方木田道祖神神社も併せて散策すると、本来の路傍の神をもイメージできそうだということらしい。


 日本の民俗「福島」(岩崎敏夫著)に、福島の道祖神にかかわる事情が解説されている。
 男神女神をあらわした双体の石像は県内では非常に珍しく、福島市方木田のほかに南会津に少し見られるぐらいのものである。福島市周辺のものは旅行安全・縁結び・性病治癒の信仰が多いというが、近年は交通安全にもなっていて車の運転手などもよく参拝するという。

 なお、ここでいう近年というのは、この本の発行が昭和48年なので、その頃ということだ。

 ここには、先に方木田の道祖神神社で整理した次の信仰について、その理由が記されている。これが、親父ギャグ、ダジャレのたぐいで面白い。
 〇 自動車の運転手も「毛が無い」 、「怪我ない」の縁故から参詣している。
 〇 婚礼の時嫁婿はこの社の前の道路を通らない。

 「毛が無い」というのは、石の道祖神だからケガナイというダジャレのようなことと解説する。
 「婚礼の時嫁婿はこの社の前の道路を通らない」というのは、道祖神の別呼称「ドウロクジン(道陸神)」とのかかわりらしい。紹介は郡山の例だが、「ドウロクジン(道陸神)」がドウラクジンとかけて、婿殿に浮気をされては大変ということで、これを避けるということだと解説する。

 福島市方木田にある双体道祖神が北限だという情報の参考文献を確かめたら、岩崎敏夫著「村の神々」(昭和4 3年、岩崎美術社)で、今日参考にしたこの日本の民俗「福島」と同じ著者のようだった。

 もし、久盛院の道祖神が江戸期のものであるということが確実なら、北限の道祖神の豊かな補助資料にもなりえるかななどと勝手なことも思う。
by shingen1948 | 2011-02-28 05:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
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 この自噴井の井戸は、先に「岩代清水の泉と池をめぐる~福島の水道とかかわって③」として整理した。本当は、先の記事の写真を交換しておこうと思ったのだが、もう一度整理しなおしておこうと思った。先にふれていない意義がもう一つありそうに思ったからだ。

 それは、地元の水という思いが薄らぐ時代に、この井戸をあえてつくったということのようなのだ。最近目にした「福島の名水」によると、この井戸は、平成になってからできたものとのことだ。

 この地域の飲料水は福島の水道へ参画する経緯の中で、地元の水ではなくなっているらしい事を、散策を通して知った。
 湧水を飲水にしていた時代は、その意識がなくても、この地域の水は貴重な財産であったはずだ。良質の水が湧き出ることが、崇拝の対象となり得るという感覚だ。
 しかし、平成19年に、この地区の飲料水が完全に地元産の水でなくなった時点で、その感覚はなくなったということだと思う。
 安定供給される飲み水と引き換えに、地元の水に対する意識は薄らいでいったはずだと思う。その設備も巨大化され、より水の実感が伴わなくなっていく過程だったと思う。
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 そんな中で、この自噴井の井戸には、あらためて地元の水を意識させたということもあるのではないかと思う。
 それが、「1995年には日量約400?自噴し、近所の人々はもちろん関東圏の旅行客までもがおいしい地下水をくんで帰ったほどであった。」ということにつながったのだろうと思う。

 ここで意識されなおされるのは、地元の水質ということであり、この上流の水管理ということも含む。
 昔語られた上流の工場の排水管理、農薬の影響などの問題は、今では問題視されることがなくなった。これは、問題がなくなったということではない。地元の水への意識が薄らいだこととかかわっていると思う。水管理は、最大限の努力はなされているはずだが、それでも、汚染は進んでいるに違いない。恐らく、飲料水として湧水を利用しようとすれば、この地区でも深井戸にする必要があるという状況なのではないかと想像する。

 水質にこだわる必要性がなくなったことは、ある意味幸せなことだ。しかし、水質にこだわる装置があってもよさそうな気もするという勝手な期待も込めて、撮った写真をもとに整理し直す。
by shingen1948 | 2011-02-24 06:01 | ◎ 水 | Comments(0)
 安達太良山麓の風景は、山の中の湿原という中での湧水だった。清水の湧水のある風景は人工的であり、比べものにならない。
 それでも、川筋をたどると、あちこちの湧水から流れ出した水が集まって、川の流れが豊かになっていくことが実感できる。

 ここの散歩の出発点である「柳清水」の湧水が川に流れ出すということは実感しにくいが、その近くの民家からの湧水が、松川から分流した川に流れ込んで、川の流れが豊かになり、その清らかさもましていくということは実感できる。
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 その風景のメインは、村の自慢の大清水の水源から溢れ出た水だろうか。
 これが、一本の川筋となって流れ出す。


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 西道路の横断で、ここで風景が一旦切れるのは残念だが、西道路をくぐった水路に、


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 新しい福島町の水源地となった池からの水が加わり、更に、福島県監獄署水源だったところの湧水が加えられる。


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 その川筋をたどると、やや人工的ではあるものの、川の始まりを感じることができる。


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 ここに「ほたる」の名称を用いて公園化したのは、その水の清らかさを象徴させたのだとは思うが、もっと豊かな水生生物の世界なのではないかと想像する。


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 この水筋と外れた近くの住宅地を流れる水路でさえも、清らかな水が流れている。人と清流が共存する風景がいい。
 
 他所者にはそう感じるのだが、地域ではこれがごくありふれた日常の風景になっているのだろうと思う。
by shingen1948 | 2011-02-22 05:58 | ◎ 水 | Comments(0)
 松川南岸の水系をを広く散策してみようと思ったのは、岩代清水の泉と池めぐりで、小さな川の始まりのようなものを感じたことがある。
 実際に扇状地の上部まで確認していくと、当然奔流は松川であり、小さな川々はそこから分水されたもののようだった。
 そこには、水との戦いのための風景があり、ひょっとすると洪水筋なのかもしれないが、松川の南流の可能性も秘めた川筋といったものまで感じられた。少なくとも松川水系という言葉に実感も持てた。

 廻った岩代清水の泉と池を特徴づけるのは、そんな松川水系の中での豊かな湧水ということだ。そこから流れ始まる小さな川は、松川奔流から分水された水ではない。そこから川が始まるということだ。
 
 最初に川の始まりというものを実感したのは3年前で、それほど古い話ではない。
 安達太良山麓の風景だった。この時にも整理はしたが、それは、カゲロウとの出会いや、水質が中心だった。その風景を、川の始まりの実感という観点から整理し直しておく。
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 そこは和尚山麓で、湿原が広がる風景があった。
 この奥に和尚山、前岳、安達太良山と続く。恐らくは、それらの山々が蓄えた水が元になっている風景なのだと思う。


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 この湿原の近くには、近くの村の水源を求めた施設が建っている。


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 こんな湿原の風景のやや低地に、川の始まりを実感させる湧水の風景がある。
 ここから湧き出た水は、地表近くを濡らしているという感じなのだが、やがて溝に集まりだすのだが、そこまでにかなりの水量になっているのだ。


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 その溝に集まりだした風景だが、これが湧き出た地点からそれ程離れていない。もうここで、川を意識している。


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 その流れをたどると、それから直ぐに、こういった谷川の風景になるという事だった。

 ここを散策したことは、水生生物の興味でまとめているが、川って、こうして流れ始まるのだという実感があって、感動した。


 これが原点の風景だが、今回の散歩では、やや人工的な風景の中に、それに近いものが感じられたということだ。
by shingen1948 | 2011-02-21 09:44 | ◎ 水 | Comments(0)
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 清水中の南端の窪地から南側の高まりを眺める。
 その窪みのラインをたどれば、95mの等高線を越した南北に走る道筋のお宮付近までのびているような気がする。


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 その95mの等高線を越した南北に走る道のお宮付近から窪みを確かめる。
 ここから眺めた感じでは、窪みを実感することはできない。大坪水源池跡は、ここからはやや左手に見えている。
 ただ、左側の中江渠支流と思われる川筋が、用水路としてその高度を保つたように流れる川筋が、高台との境界線を教えてくれる。


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 その右側にも、神社を挟んだ同じような川筋がある。この二つの川筋の間のやや低地と思われる窪みが、清水中の南端の窪地につながるように観察できる。


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 ここから扇状地の上部にかけての地形では、窪みを実感できる地点はない。この付近が、この窪みのもう一つの頂点に見える。
 半沢氏が記す寛永13年以前旧松川床とする記録と見比べると、こちらの頂点の延長に想像しているように感じるが、どうだろうか。
 ここに、「森合史跡地図」にいう「旧松川段丘崖」のポイントとの連続性を確認してみたい。

 慎重な言い方は、最近、文書的には松川の信夫山南流を確とするものは見つかっていないという情報を目にしたからだ。
 それでも、強い水の力を受けたという想像にたる地形的は存在するようだとは思う。あくまでも散歩での実感でしかないが、……。
by shingen1948 | 2011-02-20 05:21 | ◎ 水 | Comments(0)
 扇状地を意識して川筋をたどってみたり、等高線を意識して南北に走る道を歩いてみたりを繰り返す。すると、大きく扇状地という地形の中にあっても、その違いを主張しだす風景とも出あう。

 特に気になったのが、清水中の西を走る標高90m等高線沿いの道だ。
 清水中校庭が、おおよそ標高90mと意識したこともあるかもしれない。その等高線の連続が、この清水中の南端で切れて、そこから窪地になっている。
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 その窪地の内側から、清水中の方向を見る。
 清水中の校庭が、おおよそ標高90mなのだが、その高さを意識して眺めると、道路を挟んで左側にその高台が続いている。そして、そこから手前が、削り取られたような地形になっていることが分かる。


 その高台と削り取られたような地形の境界線をたどってみると、この地点から眺めた感じでは、先に整理した大坪水源池跡あたりのように思う。
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 その大坪水源池跡に建つ案内板の説明によると、そこは大昔から大量の清水が湧きだしていたという。その湧水などが造り出した地形と思えなくもない。清水水源地の揚水がはじまってからは、その湧き水はなくなったとのことだが、今もその脇の少し高台を中江渠の支流と思われる川筋が流れ続けている。


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 この窪地を流れる水路を確認すると、大小合わせて7本走っている。当たり前だが、水は高い所から低い方に流れる。この付近に大量の水が流れることがあったなら、この窪地に沿って水が流れたであろう事を想像する。
 ここに、「森合史跡地図」にいう「旧松川段丘崖」のポイントとの連続性を意識すれば、半沢氏が記す寛永13年以前旧松川床とする記録とのかかわり地点と想像できる。
 これが、松川が南流していた事を想定して、散策で観察した事を結びつけた川筋と結びつく地形とみてよいのだろうか。
by shingen1948 | 2011-02-19 05:05 | ◎ 水 | Comments(4)
 松川の堤防筋は散歩道になっている。
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 その散歩道から眺めると、残された荒れ地という雰囲気しか感じない。恐らく地域の方にとっては何の変哲もない風景なのだろうと思う。
 そのまま見過ごす風景だ。

 それが、この向こうが、民地とのかかわりで近づけなかった堤防というふうに意識すると、別物に見えてくる。近づけなかった堤防の内側からの眺めということになる。(「岩代清水の泉と池をめぐる⑫」)
 新しい堤防からは簡単に近づけた。
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 改めて家の間から見えた様子を捉えてみる。
 古い堤防筋が、新しい堤防によって切り取られた風景とみるが、どうだろうか。

 松林も堤防筋の一つと考えて松川筋を眺めると、刑務所辺りは、新堤防よりも内側にその痕跡を残す。その痕跡はポンプ場まで続いて、その続きの堤防らしきものは、新堤防の内側にも残るが、この外側の堤防筋につなげて、松川筋の大きな蛇行を想像することもできる。
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 松川では、今年も床固めの大規模な工事が行われたようだ。水との戦いは、今でも続いている。その戦いの経緯の中で、切り取られた堤防ではないかと思うが、いつの時代のものかは分からない。
 ただ、現在のこの風景では、その実感は遠のいているが、その時代は、まだ暴れる水から地域を守る実感が伴っていた時代なのではないかと想像する。

 水との戦いについて、目にした記録では、「南沢又の今昔」の明治30年に松川の堤防を造ったとの記述が一番古い。この時から延々とその戦いが続いていることを思う。その戦いは、徐々に行政の手に委ねられ、専門化して大規模に効率を挙げていくことになる。逆に、実感という点では、戦いの意識が薄らいでいく過程ともいえる。

 水との戦いのもう一つの資料は洪水筋だが、荒川に比べて目にする資料は少ない。
 目にすることができたのは、半沢氏のフィールドワーク地図。
 この地図と現地を対応するには、氏がいう寛永13年以前の松川流域をイメージする必要があるが、これが標高90mラインの乱れにつながる線らしいと想像する。
 この地図では、そこから下流に、次の二つの右岸の洪水筋を記している。
 〇 明治43年と大正3年の洪水筋
 〇 そのやや上流の昭和13年の洪水筋。
 今のところ、この二つの洪水筋の位置を知る手掛かりはない。

 なお、半沢氏のフィールドワークでは、寛永13年以前の松川流域の上流にも、笹木野駅に抜ける松川洪水跡という洪水筋を記す。その松川筋との交点近くに、天保13年松川洪水、用水路再普請松川街道堰改修碑を記録するので、こちらは見当がつく可能性がある。
by shingen1948 | 2011-02-18 05:36 | ◎ 水 | Comments(0)
 川筋を追いながら気になりだしたのが、半沢氏のフィールドワークでいう寛永13年以前の旧松川流域ラインだ。多分、信夫山を回り込んで、旧松川流域という筋につながるこのラインが信夫山南流の説を意図した川筋なのだろうと思う。うろ覚えだが、この川筋が変わったとされる大洪水は、寛永14年だったかと思う。
 この川筋を追っては、清水村や泉村を水から守った松林や堤防を確認するという散策を繰り返す中で、追っている川筋が半沢氏のいうこのラインに重なっているらしいことに気付いたのだ。

 そんな堤防の確認で出会ったのが、「百万遍供養塔」だ。こちらを先に脇道の③として整理してしまう。
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 この「百万遍供養塔」が立つ道筋は、何度か通っていたし、ここに石塔があることにも気づいてはいた。ただ気に留めていなかっただけだ。
 今回、気になったのが「百万遍」という言い方だった。半沢氏のフィールドワークに、この石塔群とかかわる次のようなメモを見つけた。
 「サイデ地蔵文化13年(1816)・百万遍供養塔文化11年(1814)・ニ十三夜供養塔安永6年(1777)」
 ただ、左端の石塔も脇に「千座百万遍供養塔」とあり、二つの石塔とも百万遍供養塔だと思うのだが、どうだろうか。そして、左端がサイデ地蔵ということだろうか。

 「百万遍供養塔」を確認すると、念仏塔とのことだ。
 集落の人々の念仏講で、「なむあみだぶつ」の唱えが、百万回に達したのを記念して建てられるものらしい。数日間にわたる法会・説法などの終わる最後の日に、満願達成を記念して、道しるべとなるように建てられるとある。
 具体的に念仏講の様子を紹介するものも見る。
 鉦を打ち鳴らし,阿弥陀の六字名号を唱える。これは月待ち講も同じだが、念仏講は、数珠まわしをするのがその特徴で,念仏踊りなどが行われることもあるという。
 講は,講中の輪番制で,当家(当番の家)で共食して念仏踊りや唄を唄い親交を深める娯楽の意味もあり、数珠まわしは、病苦・貧苦の救済を祈願し,祖霊の成仏を祈るとも。
 昔、この御近所で、月待ち講と共に「数珠まわし」の講があったということだ。

 この「数珠まわし」の言葉で思い出すのは、若い時代の茂庭地区。
 友人に見せられた民俗調査報告書では、この地区の念仏講は消えているということになっていた。しかし、当時は「数珠回し」がまだ存在していた。
 多分、調査なさる方が、専門家らしく念仏講という言葉でアンケートしたため、「数珠回し」の回答が得られなかったのだろうと想像した。
 この調査報告では、「寄り合い」も消えていたが、実際には「もより」が存在していた。多分、これは「最寄り」ではないかと思う。
 今もまだ存在するのだろうか。
by shingen1948 | 2011-02-17 05:03 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(3)
 偶然の見つけものを、雑然とその中に入れて整理してしまうという脇道の②ということで、「双体道祖神」をここに整理してしまう。

 公民館の案内板で、久盛院の双体道祖神が紹介されていた。
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 この寺の正門脇のこの石像に、「奉納道祖神」と記されているので、多分これがその「双体道祖神」ではないかと思う。
 この脇には、「八幡大権現」が鎮座する。これは、先に「松飾りを納めた泉八幡神社」として整理したこととのかかわりだろうと想像するがどうだろう。
 泉澤山久盛院の由緒沿革には、慶長(1596~)以来、泉村鎮守鷲神社と八幡神社の祭事に奉仕してきたとある。
 八幡神社は、寺が祭事を司っていた頃は、神仏習合であったことを想像に加えれば、その前身は「八幡大権現」の可能性が高い。それなら、この大権現様は、あの八幡神社の御先祖様ということではないかなと、勝手な事を思っている。

 「双体道祖神」だが、今までの散歩では意識していなかった。「野仏の見方」で確認する。
 それによれば、道祖神は、道沿いに来る悪霊や疫病を防ぎ、村人や旅人を守護する神を祀った典型的な路傍神とする。その路傍神が、寺に奉納されたということだろうか。
 元々の路傍も気になるところではある。
 「野仏の見方」では、道祖神に願うのは、「塞の神(悪霊や疫病の村への侵入を防ぐ)」であったり、「ふなどの神(道行く人を守護する)」であったりするとのこと。いずれにしても、これは路傍の神であるという。

 個人的には、道祖神は、「野仏の見方」でいう「金精神」だと思っていたところがある。
 そのことについては、同書では「地域によっては」として、次の説明が続く。
 性の神や結縁神としても祀られることがあり、子宝、安産子孫繁栄と結びつき、豊作祈願の作神や生産神ともなるという万能の神様になりえる。

 似たような石像を見つけたが、ここに整理するかどうか迷ったのがこの像だ。
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 これは、奥羽本線(山形新幹線)と高速道路が交わる辺りの110.6mの三角点が確認できるものか出かけてみたときに見たものだ。
 米沢街道の馬頭観音の石塔群とともにあったこの像は、同書にいう、似て非なる石像として挙げた「地蔵ニ体掘り」かも知れないとも思う。
 混同しやすいのに「双体道祖神」と「地蔵ニ体掘り」と「庚申塔のニ童子」というのがあるとのこと。「庚申塔のニ童子」は、金剛と共にあるということで判別できそうだが、地蔵ニ体掘りとの違いは、説明だけでは読み取れていない。

 福島の双体道祖神については、福島市方木田にある双体道祖神が北限だという情報もある。
 そんな中で、それより北にあるこれらの像をここに記すのは、少し不安ではある。
by shingen1948 | 2011-02-16 09:31 | ◎ 水 | Comments(0)