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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:清水町 ( 11 ) タグの人気記事

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 ここには、先に清水町宿の一風景として立ち寄っている。
 ただ、この時には、案内柱に誘われて立ち寄っただけで、この阿弥陀堂も、この「地域の人々が伝える祈る心」の話とかかわることを意識していなかった。この庵の別名が「塞耳庵」とされることは聞いていたが、それまでだった。

 この「塞耳庵」という名称が、この地区のその道に通じている人にとっては、無能上人とのかかわりをイメージするということだ。

 ということで、あらためて訪ねてみた。
 案内柱には解説がなかったが、この「阿弥陀堂」は、「信夫郡仏堂明細帳」では、延宝元年(1673)3月28日建立。佐藤清右衛門持ち、曹洞宗仲興寺持受け持ちとあるらしい。仲興寺は、この清水宿のお寺だ。
 土蔵造りの仏堂は、昭和29年に再建されたものらしい。
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 その土蔵造りの仏堂前に名号塔が建つ。
 表面と裏面の両面に名号が刻まれているのだが、手持ち資料に「明和6年(1758)8月15日願主然蓮社良成天阿暢音による百万遍一万座供養塔造立される。この正面の名号は別人のものだが、裏面は無能の花押入りの名号が刻まれる。」とあるものだろうと思う。


a0087378_5251784.jpg これが、その裏面で、無能の花押入りの名号が刻まれるとされる名号だろう。


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 無能の花押入りというのが、この部分なのだと思う。 


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 「当地ゆかりの人物の墓標(正徳・享保・元文)も数基確認できた。」というのが、こちらだろうか。
 この確認とかかわるのが、佐藤家に伝わる縁起(宝暦8年(1758)8月当庵現住戒心の作)標題「奥州信夫郡清水町塞耳庵之縁起」にある以下の部分らしい。

 〇 延宝元年 芝増上寺出身の旅僧安心開基。(泰心庵)
 〇 元禄5年(1692)上州から達山という僧が奥羽地方行脚、衰退したこの旧庵に庵を結ぶ(選仏庵)
 〇 享保5年(1716)信州高遠の僧縁知が無能の徳を慕ってこの地に来たり、随身給仕したりした。この淨業に感銘した佐藤半右衛門が、旧庵の地に小堂を再建し、この縁知を請じた。
 元文元年(1736)10月縁知没

 資料で、曖昧で確認が取れないというのが、以下のことらしい。
 〇 この間に、庵を現在地に移し、新たに3尊を講じ、48夜別時念仏を開白するとともに、二本松大運寺を本寺と定めて、庵号を「「塞耳庵」と定める。
 〇 縁知没後、元文2年3月、半田村の善之丞こと直翁が移住、居住数年一生をここで了える。
 特に、半田村の善之丞のくだりは明らかに違うというのは、自分でも確かめられる。

 ここで大切にしたいのは、その位にこの戒心という方が、無能上人との縁を結びたいと思っていたこととそれを地域の方に伝えたかったという熱意の部分なのではないのかなと思う。
by shingen1948 | 2012-05-27 05:28 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
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 奥州街道清水宿の出雲神社の案内板説明にある吉次伝説について、「ふくしまの歴史」では、吉次は、義経の道案内人をした「金売り吉次」の話として伝わるとある。
 その解説では、古金山・山発田・吉次森・長者屋敷・両日森(宝を隠した場所)など、黄金伝説とかかわりそうな地名を紹介する。

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 ここで、紹介される吉次の石宮は、新幹線北口上であり、これが、小林氏が石那坂の戦いとのかかわりで描く石那坂付近であり、奥大道とのかかわりでも、この吉次伝説がつながる。

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 東北本線上り線は、この山から東に抜けて谷を橋で共楽公園のある丘陵縁側に渡り、鉄道マニアの間では有名な通称石那坂トンネルの方向に回り込む。東北本線上り線下り線は、新幹線の西側を通る。その道筋の多様さの風景は、この峠越えも難所の一つであろうとの想像を膨らませる。

 この奥大道は、源義経や頼朝、あるいは西行など奥州に下った多くの人々が通った道だと想像すれば、「奥の細道を歩く」散歩人が清水町宿をとばし、こちらの道筋を探ろうとした意図は分かる。ただ、石那坂古戦将士碑からそのまま共楽公園に抜けたようだ。
 それならば、回り込んだ東北本線上り線の通称石那坂トンネルの北側出口上部から丘陵上の道筋に向かったということで、この奥大道とされる道筋も奥州街道清水宿もかすらなかったということになるのが残念なことだろうか。

 自分の散歩とのかかわりでは、「気を感じて伏し拝む」の金沢黒沼神社物語に解説される東山道とこの奥大道をどう折り合いをつけるかということだ。
 このことについては、「ふくしまの歴史」で以下のように調整するのを見つけた。
 今の松川町あたりで奥大道から東に分かれて、金沢・古浅川を通って田沢村を抜け、黒岩村の学壇に上り、上ノ町から黒岩宮ノ下に下り、八郎内・鳥谷野をへて郷野目に入る道筋もありました。

 なお、先に出雲神社の旧地にかかわって、「平石神社が近くの神々を合祠したはずだが、ここに出雲神社が入るかどうかは分からない」とした。半沢氏のフィールドワーク地図に、このことにかかわる以下のメモを見つけた。
大正13年
出雲・熊野・天神・香取・稲荷を合祠
 出雲神社も入っているらしい。その旧地はここかもしれないし、吉次の石宮かもしれないなどと想像は膨らむが、分からない。
by shingen1948 | 2012-01-30 07:30 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 共楽公園への登り口に案内板が建つ案内板には、旧奥州道(陸羽街道)として清水町仲興寺前まで通じると案内する。
 ここは、その共楽公園への道筋で歩いた道筋と重なる。
 その中で、清水町の旅籠仙台屋について、「共楽公園への道筋⑦~根子町人形と仙台屋」としてふれた記事に誤りがある。
 奥州街道清水宿略図と照らし合わせてみると、仙台屋らしいとした位置は、「穀や」あるいは「かみや」さん付近のようなのだ。
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 この写真は、石那坂からの道筋と奥州街道が交わる地点から清水宿を見ている。
 消火栓が見えるが、これが奥州街道清水宿略図にある消井戸と重なると思っている。
 従って、新しい蔵造り付近が、扇屋(問屋)さん付近だと思う。その奥に写るのが、先に仙台屋さんらしいとした「穀や」あるいは「かみや」さん付近だと思う。

 情報の多くが、そのように解説することで、鵜呑みにしてしまった。みんながそういうものだからという言い訳でしかない。
 皆をそういう導いたと思われる権威のありそうな資料がみつかった。
 「奥州街道『歴史探訪全宿場ガイド』<無明舎出版遍>」だ。
 「(江戸側から向かって)左手にかつての仙台屋という旅籠があった」として、奥州街道清水宿略図で、「穀や」あるいは「かみや」とする付近の土壁の建物を写真で紹介し、今もその面影が残ると結んでいる。

 権威に立ちむかつもりはなく、一応、こちらを誤りとしておくのは、奥州街道清水宿略図とのかかわりとしておく。現在の地図でも仙台屋さんはプロットされていること、その位置は、奥州街道清水宿略図に示される位置と重なることも、その理由に挙げておく。更に、道筋から、ちょっと覗かせていただいたら個人名と共に、仙台屋の郵便受けがあったことで、理由づけを補強しておく。
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 「根っ子町人形」にかかわる「旅籠仙台屋」さんは、こちらだと思う。個人宅のようだが、地図上にも郵便受けにも仙台屋を公表していることで、写真を掲げさせていただいた。
 なお、明治9年の明治天皇がこの旅籠で小休止なされて、野立ての場所に移動された情報や、ここに根子町土人形の型が多数現存する主旨の情報も見たが、確認はしていない。
by shingen1948 | 2012-01-28 06:00 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 「奥州街道清水宿略図」をもとに、勝手に想像を膨らませてみる。
 まず、略図にある屋号を持つ家が、現在の地図のどのあたりか見当をつけて、配置してみた。それから、その中の商売と結びつきそうな屋号をピックアップしてプロットしてみたのが、この図だ。
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 この中の「茶屋」、「十手持」、「本陣」、「元名主」は、略図に明記されているので、ほぼ間違いないと思う。その他は、屋号からの想像でしかない。
 なお、藤清水脇の「米沢屋」さんは「茶屋」であり、「法院様」は寺関係だろうと想像する。また、「十手持」の斜め向かいの「吉野屋」さんは、窯元らしいが、陶器の窯でいいのだろうか。

 これも勝手な想像でしかないが、確認していく中で、新しい店は南に延びてきたのではないかというような印象を受けた。そういう見方で見ていると、奥州街道が、曲がって、石那坂の道筋とつながる地点までは、元々が近隣の村々を結ぶ主要な地点だったのではないかと思えてくる。特に、石那坂を中心とした平田の村と田沢の村を結ぶ要の位置だったように思う。それで、商売が想像できた訳ではないが、「旧角屋」さんも加えてみた。主要な角だったと勝手な思い込みなのかもしれないが、……。
 そうすると、根子町から清水町への変遷についても、自然な形で納得できそうな気分にはなる。この付近が松林であったことを想像すれば、根子町の名称の由来となった苦労話は、当然清水町建設の際にもあった苦労話で矛盾はないと思う。
by shingen1948 | 2012-01-27 05:13 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 宿場南端をぐたぐたと確認したのは、「藤清水は、宿場町の南端に近い」とのことだからだ。その藤清水の位置想像は、手持ちの資料をいろいろ眺め、勝手な想像を膨らませて、もうちょっと狭い範囲に絞り込んで想像している。この想像の元になるのが、奥州街道清水宿略図だが、これがどなたの仕事なのかが分からない。

 散歩の中で東の裏通りにつながる道筋と見た道筋が、愛宕神社・清水院大如来参道への道筋に近いのではないかと思っている。
 その道筋の南側に1軒分空けた付近にある民家が、「米沢や」付近だろうと想像する。その1軒分空けた付近が、藤清水とやらのあった辺りだろうと思っている。
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 小心者は、地元の方に声をかけられずにその水風景を探す。

 この道筋と街道を挟んだ反対側辺りで撮った写真に、旧水道局地があった。

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 民家の井戸を撮ったものもある。これは、「米沢や」付近の民家からもう一軒南側の民家付近だったと思う。

 これら水風景が、この藤清水の水脈とかかわるのではないかと勝手な想像をしている。

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 今思えば、高まりにお宮のある風景をみつけた付近が、その愛宕神社や清水院大如来様の旧地付近なのではないかと思っている。

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 ここは、東の裏通りにつながる道筋と想像した道筋を登ってきて、街道がよく見え始める付近だ。ここから更に東の高まりにも民家が建つ。その民家の敷地内に祠なども見つける。


 藤清水にかかわる想像を整理する。
 今のところ、東の裏通りにつながる道筋と想像した道筋が、おおよそ奥州街道清水宿略図の法院様と米沢やに挟まれた愛宕神社・清水院大如来参道付近の風景と重なる地点だと思っている。
 その道筋の南側に藤清水があったと想像する。その道筋の北側に法院様。
by shingen1948 | 2012-01-26 05:55 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)

奥州街道清水宿②

 資料と目にした清水町の姿が対応しないと、資料を生かせない。
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 「藤清水は、宿場町の南端に近い」とするが、どこをその南端とするのかも分からない。散歩の中では、この石塔群を清水宿の南端とイメージしてみた。
 地図を確かめると、現在は、ここからが清水町の地名としているようではある。
 少し気になるのは、この北側の道が東の裏通りにつながる道筋とみれば、宿場町の南端は、もっと北側のようにも思える。
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 石塔群の脇には不自然な細道が残されている。この細道先を確認すると、お宮のある高まりだった。それで、その原形のイメージは、この不自然な細道がこの宿場端にある高まりにあるお宮への参道で、その参道脇に石塔群がある風景だと勝手に推測する。
 そのお宮が、旧愛宕様に近いのかなという期待もあって確かめたら、お稲荷様のようだった。
 この石塔群も、旧国道4号線になることに伴って改変されたり、この東側の大規模に造成されたりするのに伴って集められた石塔群の可能性もありそうだ。
 ただ、この街道挟んだ西側の地名が、町頭であり、その細道を地図で確認すると、一部切れるが出雲大神宮裏の細道につながり、バイパス沿いの細道に抜ける。この辺りの地名西裏であることもあって、この通りが西裏通りと見ると、原型のイメージでよいのかもしれないとも思える。
 消えた藤清水の位置ぐらいはイメージしたかったが、今回はここまでにする。
 その位置は、奥州街道清水宿略図の法院様と米沢やに挟まれ、愛宕神社・清水院大如来参道への道筋脇。
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 気がつけば、出雲神社前に水準点が、……。水準点は、その多くが国道脇にあると聞く。奥州街道と旧国道4号線とが重なった証にも見える。
by shingen1948 | 2012-01-25 05:29 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)

奥州街道清水宿

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 屋号をもつ家が紹介される奥州街道清水宿略図は、「ふくしまの歴史」でも見たが、これは、現地を散策する「吾妻歴史講座」で配られた「米沢街道を往く」という資料に掲げられたもの。
 いろいろな資料に引用されているようだが、その出典を確認できない。「ふくしまの歴史」の資料では、出雲神社の脇の「吉野や」に窯元の印が見える。


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 出雲神社の向かいに、杉妻地区時代と思われる案内柱が、阿弥陀堂を案内する。

 清水宿略図中にも、この阿弥陀堂が紹介される。これで、位置関係が実感できる。


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 その図には、阿弥陀堂の近くに消井戸の記号がある。位置的に、気になったこの用水曹がかかわるのではないかと勝手な想像をする。
 解説にはないが、消井戸は消火用井戸と勝手に見る。それならば、飲料水用の井戸も、あるいは、その併用の井戸もあったはずだと、これも勝手に考える。

 「ふくしまの歴史」で、清水町村の由来となった藤清水いう井戸が、宿場町の南端に近く、街道の東側にあったと紹介する。
 その井戸が、位置的に見て、この図の法院様と米沢やに挟まれた井戸の印と重なるのではないかと想像を膨らませる。
 その井戸は、「清水町村の由来となった」とのことだから、飲料水用を想像する。同時に、愛宕神社や清水院大如来参道脇の位置関係からは清め用水をも、また、街並みと愛宕神社脇の位置からは消火用とも想像できる。
 勝手に、それらを併用した重要な井戸だったのではないかと想像する。
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 阿弥陀堂参道を挟んだその両脇の屋号を持つ家の位置関係からも、想像を膨らます。
 「賀藤や」の店は想像つかないが、「かさや」は、傘屋だろうか。その隣の十手持は、そのままの仕事だろうか。
 案内はないが、いろいろと想像しながら楽しめる。
by shingen1948 | 2012-01-24 05:59 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 「ふくしまの歴史」に清水町宿が解説される。
 この「仲興寺」にかかわっては、「仏法僧庚申塔」が紹介される。その価値として、元禄9年(1695)9月建立は、福島地方では早い時期であることと、仏法僧と刻まれるのは福島ではこれだけだと解説する。なお、仏法僧とは、仏と仏の教えとその教えを信じる僧だと解説される。
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 意図して撮っていないので、撮った写真から拾ってみる。左手の笠付の石塔がこの「仏法僧庚申塔」のようだ。なお、「藤原宗興卿の歌碑」というのは、馬頭観世音の蔭になって少しだけ見える石塔らしい。

 近年の清水町村の地域意識を旧清沢小学校の沿革にたよれば、東側の田沢村とのつながりが深くなったことが伺えるが、「ふくしまの歴史」では、沿革に共楽公園を挟んだ石那坂村とのつながりを解説する。
 清水町村は、「1673(延宝1)年に石那坂村から分かれたと考えられます」とある。
 根子町から清水町に変わることについては、幕領であった延宝年中で、検地の際に、街道の東側にあった藤清水にちなんで清水町に改めたこと、ここに宿駅ができるのが1590(慶長9)年ころとおもわれること等が解説される。
 清水町宿の南側では、共楽公園を挟んだ石那坂とかかわる言い伝えがあることの情報に合点がいく。また、先に石那坂を確認した時に、周辺を散策する中で、石那坂トンネルの上の道筋をたどってみたら、この清水町宿に出てきたことを思い出す。
 「おくのほそ道を歩く(田口惠子著)」<歴史春秋社>では、この清水町宿を省略して、石那坂を歩いて話をつないでいることも思い出す。

 旧清沢小学校の沿革を見ていると、近年は、東側の田沢村とのつながりが深くなっていくことが伺える。その中心地も、街道筋の改変もあってか、東側に移動していくように感じられる。
 沿革の明治9年の項には、「田澤の長秀院に田澤小学校が分離」するとあるが、そこに、清水町の子供もこちらに移る記載がみえる。また、明治18年には現清沢体育館の地に校舎が新築されるようだが、その名称は、信夫郡第10番学区田澤小学校ということだ。
 明治21年頃からの沿革は、杉妻小学校とかかわる文教場のようだ。これは、明治22年(1889)に、清水町村と田沢村が、伏拝村・黒岩村・鳥谷野村・太平寺村・郷野目村とともに合併して,杉妻村となることとのかかわりだろうと想像する。
 最終的には、昭和48年の団地の開発に伴って、「蓬莱地区」という意識変遷だろうか。
 藤原宗興にかかわる案内板には、「杉妻」の地区名がみえるのは、ここが杉妻村だったころの名残が今に残るということだろう。

※ 「ふくしまの歴史」には、「清水町宿場略図と屋号をもつ家」の図があった。これを「根っ子町土人形」にかかわる情報を頭においてこの並びを見ると、仙台屋と吉野屋は、仲興寺と同じ並びの北側のようだ。
 詳細は分からないが、気になった建物は、「旧角屋」、「穀や」、「かみや」というような並びのようだと言う事が分かる。先に「旅籠仙台屋」とか、「根っ子町人形」にかかわって書いた時にいだいたイメージとずれがあるので、徐々に修正していきたい。
by Shingen1948 | 2012-01-09 06:21 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
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 案内された仲興寺についての詳細は分からないが、現曹洞宗の寺で、「長秀院」のホームページの解説等から清明町の常光寺を本寺にして、大森の円通寺、田沢の長秀院、東湯野の明光寺・法伝寺等と同門寺院という事らしい。


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 境内には石仏石塔が多数集められて、江戸時代から清水町村が奥州街道宿駅であるこの地区が、中心地として栄えていたことを伺わせる。信夫西国第15番という情報もある。


 街道筋の改変によって、その中心地がだんだん東側に移動していくことになる。その歴史が、象徴的に刻まれるのが、学校の変遷だろうか。門表の柱の裏に、檀家の方々の思いが刻まれる。
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 永年菩提寺仲興寺に門表の建立を念願し今日に至る
 此の都度旧清沢小学校跡地に立つ往年の校門柱の無償譲与を得て仲興寺表門として再生、更に、校門としての名残をとめおく。
 願いをこめて有志より浄財を募り移築建立せしものである。
 昭和56年8月吉日

 旧清沢小学校跡地は、現清沢地区体育館とのことで、ここに「清澤小学校跡地」の碑が立ち、学校の沿革が記されている。その創設に関わって、以下が記される。
 明治6年5月4日八丁目小学校第1支校として清水町小学校開設。誠意館と称し仲興寺に置く田澤からも出校する。
 最終的には、昭和48年に、蓬莱小学校に移籍されるが、そのスタートを切ったのは、この寺であるとの思いが込められているように思う。
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 「藤原宗興卿の歌碑」の案内板が建つが、今のところ、その藤原宗興卿は確認できない。ただ、宿場が繁栄していたことを示すエピソードではあると思う。

 先の「根子町土人形」の伝承とされる以下の記述とかかわるものやら、違う事やら分からないが、こんなこともあんなことも、繁栄する宿場町ではあったかなという情景として、重ねて記しておく。
 (根子町土人形の)伝承では、姑の嫁いびりに耐えられなくなった、堤人形の窯元の若い娘が自家の人形職人と共に出奔し、その逃避行の途中、根子町で急病に罹り、旅籠を営む仙台屋に助けられました。
 そして、仙台屋に逗留中に人形職人が作った堤人形の出来が評判となったため、興味を持った主人は2人のために仕事場を提供し、また自らも人形作りを学び窯元となって製作を始めたと伝えられています。

by shingen1948 | 2012-01-08 06:16 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
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 案内された仲興寺まで進むと、眼の前に山があり、視野の左手に気になる建物があり、ここからは建物の陰で見えないが、右手に案内された仲興寺で構成される空間が広がる。
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 その眼前の山上には祠が見える。これも気になる風景だ。
 奥州街道は、ここから右手に進み、旧四号線と重なるようだ。


a0087378_5411084.jpg この気になる建物を 家に戻ってから確認すると、清水町の旅籠仙台屋ということらしい。
 検索を繰り返すと、「清水町宿は、町おこしの際、木の根が多く難儀したので、根子(ねっこ)町とも言われていた。」等々の情報に出会い、これらの情報をからキーワードを拾って検索していくと、土人形の情報にぶつかった。

 「草の根工房」という「郷土玩具とギャラリー」のページに、以下のように詳しく紹介される。
 ■根っ子町土人形■(廃絶品)
 福島市の近郊、清水町。かつてここに根っ子町という宿場町があり、根っ子町人形が作られていました。
 長い間、土人形研究家の中では、「堤人形」か「花巻人形」の優品ではないかとうわさされていた土人形でした。
 研究の結果、昭和50年代後半に、根っ子町人形が存在していたことが明らかとなり、その創始は江戸時代末期と推定されました。
 文化・文政(1804~30)の頃、絵心もあり彫刻もうまかった、旅籠(はたご)仙台屋の高橋吉郎次が初代製作者とされています。
 江戸末期から明治初期にかけて3代目増兵衛の頃は、節句の雛人形が盛んに作られていたようですが明治末期から大正初期にかけ、布製雛人形のおされて衰退、次郎吉の代で廃絶したとされています。
 また、この仙台屋高橋家とは別に、吉野屋鈴木家でも店先にわらじ等と共に並べていたといわれます。

 福島の地元での情報を耳にしないが、全国的なマニアの間では、堤、花巻、相良の東北三人形に引けをとらない優品「根子町人形」として認知されているような感じがする。
 情報を拾い集めて、その人形の特徴にかかわることを再構成してみる。
 ○ 堤の人形師による創始の伝承があり、彩色は堤人形に非常に似ている。
 ○ 堤人形との違いは、人形の背面が扁平なものが多い事や、土質が荒く赤いということ。土質の荒さをカバーするためか、薄い和紙を貼った上から彩色をしている。

 「郷土玩具とギャラリー」のページでは、天神の根っ子町土人形が、「古民具の土人形」のページでは、見立て和藤内童子の根っ子町土人形が紹介されている。
 「見立て和藤内」を確認すると、そのモチーフは、朝鮮の役においての加藤清正の虎退治だが、当時、信長・秀吉以降の武家を描く事は禁止されていたので、歌舞伎作品の人物である和唐内を仮託するということらしい。
 確かに、童子の足元には退治される虎がいる。

 マニアの中で紹介されても、地元福島では再評価される気配はない。評価について頑固なのか、文化について淡白なのかは、散歩人には分からない。

※ 「ふくしまの歴史」で確認すると、仙台屋と吉野屋は、仲興寺と同じ並びのようだ。こちら側は
旧角屋、穀やか、かみやあたりと思われる。こちらの情報が、確からしさがあると思われる。なお、根っ子町土人形については、同誌では、伝承とされる方が紹介されていた。
by shingen1948 | 2012-01-07 05:47 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)