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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 結果的に、今回は「和算の最後の花を咲かせた」とされる方々のうち、「二本松の完戸政彜の後には、信夫の丹治賜庄作、尾形貞蔵、長沢忠兵衛、長沢辰蔵」の各氏を、「最上流宗統派の系譜」として整理している事になる。
 咲かせた「和算の最後の花」について紹介されるのは、今回整理の中心だった丹治庄作氏と尾形貞蔵氏の研究らしい。
 慶応2年時点で転距軌跡およびそれに伴う重心問題は和算の最高峰に位するとの紹介だ。
 三春の佐久間派のような華々しさは感じないが、しくしくと奥深い学びが継承されていたという事なのだろうと思う。
 数学問題に興味があるわけではないか、この「成果が、福島市の近郊の(例えば黒岩虚空蔵の)算額に今日も見ることができる」との紹介にふれると、見てみたいとも思わなくもない。

 さて、ここで佐藤元竜田氏、助川音松氏、安達の植野善左衛門氏の三氏が抜けているわけだが、前回、安達の植野善左衛門氏関連について少し触れた。
 助川音松氏については、磐城国田村郡船引の方で、明治24年1月、明治26年3月 に菅布称神社に他7名の方と算額を奉納していることが確認できる。
 ここまでで、佐藤元竜田氏の情報が確認できていなかった。
 ただ、ひょっとすると「土湯会津道を歩いてみる⑭~和算家と学校を意識する」でのちょっと脱線でふれた荒井小校長格佐藤元竜氏と同一人物ではないのかなと勝手な想像しているところはある。
 「田」が抜けた一字違いであることと、半沢氏の「歴史地図」にこの方が和算家で医師であったと紹介されていることだ。若石集会所付近に墓地・生家・資料所有者がプロットされているのを確認しているが、実際に確認ができているわけではない。

 「佐久間文庫 由来」の渡辺一の門弟として紹介される佐久間氏と完戸政彜氏以外の方についても確認したことを整理しておく。
 市野(市川)金助茂喬氏だが、「伊能忠敬測量隊員、高橋景保手附下役」との情報をみる。
暦局に出仕し、伊能忠敬の第5次測量に参加したとのこと。ただ、病気を理由に同測量の途中で帰府してしまったとも……。
 葛西通之亟泰明氏だが、江戸時代後期の和算家、暦学者小出 兼政氏の門人葛西通之丞とある方ではないのかなと想像する。師は洋学の暦学にも精通した方ということのようだ。
by shingen1948 | 2018-10-04 10:00 | ◎ 水 | Comments(0)
 福島の和算の主流は、今回整理の会田安明氏の最上流であることが分かる。
 二本松藩士渡辺治右衛門が、天明8年22才でその門弟となり、寛政9年31才のとき二本松に帰って、江戸から安明の著書を借用して伝写につとめたとされる。
 ただ、「福島の和算」研究としての情報を確認すると、ここから先の継承が今回整理していることと違う。
 主たる情報では、継承者は第一の高弟で明治期にかけて活躍した佐久間纉(庸軒、船引町石森出身)だとされる。
 今回の整理では、そこを完戸政彝(まさつね)氏としていることだ。
 そこから継がれたとされる丹治明斉氏の碑を確認し、その丹治明斉氏から継がれたとされる尾形曠斎氏の碑を確認し、その尾形曠斎氏から継がれたとされる長沢保斎氏の碑を確認したところだ。
 この後、杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏が継ぐが、ここから後継者なく最上流が途絶えたという流れだ。
 散歩人としては、主たる情報との違いに戸惑いながらも、「最上流宗統派の系譜」とされる確認をすすめてきたところだった。

 この戸惑うところを確認していたところだが、山形大学附属図書館の「佐久間文庫 由来」にその回答に出あえそうなヒントがみつかった。
 同図書館が所蔵する最上流の和算家 会田安明の著作を公開する目的のようだが、その文庫の多くに佐久間家が寄贈した佐久間纉父子が蒐集した書があるそうだ。
 http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/yktop/holding/collection/sakuma/yurai/

 その「佐久間文庫 由来」に、渡辺一の門弟が以下のように紹介されている。

 渡辺一の門弟に佐久間正清質(1786-1854)、庸軒佐久間二郎太郎纉(1819-1896)、完戸佐左衛門政彜(1782-1865)、市野(市川)金助茂喬、葛西通之亟泰明などが出た。
 このうちで、佐久間質・纉父子の跡をついで、佐久間綱治成己(1851-1873)、佐久間広吉(1860-1907)が三春で佐久間派を守り、明治の末年に及んだ。この間に弟子を養うこと数千人の多きに達している。
 一方、二本松の完戸政彜の後には、信夫の丹治賜庄作、佐藤元竜田、尾形貞蔵、長沢忠兵衛、長沢辰蔵、助川音松、安達の植野善左衛門らが、和算の最後の花を咲かせた。

 今回の整理は、この説明の下段から佐藤元竜田氏、助川音松氏、安達の植野善左衛門氏を除く方々の系譜ということになる。
 なお、福島県歴史資料館は、植野善左衛門が自筆で写したとみられる和算書 および関係書715点を「植野貞夫家文書(安達郡安達町)」として収蔵しているらしい。
by shingen1948 | 2018-10-03 10:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 この碑は以下のように締めくくられるという。

 二本松東仙子 題銘曰
 潜心算法 温故知新 大窮宇宙 細破微塵
 提要釣玄 著書等身 足以不朽 何竢銘文
               二本松 武内 貞撰
 明治二十七年歳次甲午七月
           正三位子爵 時 萬書 印印
              清水町 佐藤重次郎彫

 ここには、いろいろな情報にあふれている。

 まずは、この碑の撰文者。
 二本松 武内貞氏は、東京の出版社から著書を出版されている方のようだ。その著書を検索していくと「東仙詩鈔(竹内貞誠甫著)【裳華書房明治31.1.2】」という出版物に出会う。
 また、「国立国会図書館典拠データ検索提供サービス」で、竹内貞氏を確認すると以下の情報を得る。
 武内貞(たけうちてい)1838-1924
 別名竹内、誠甫(字)、号竹内、東仙
 これ等の情報を組み合わせると、碑文の「二本松東仙子」は、この碑の撰文者である二本松武内貞氏の号であろうと推測できる。
 更に、近代文学基礎データを確認すると、この方は「竹内東仙は安積艮斎の弟子」であることが分かる。
 この安積艮斎氏は、先に「八丁目宿散策余談 ~二本松神社神官」で、「田島久敬氏や朝河正澄氏に影響を与えたのは、この三子の安積民僑氏のようだ」とした方だ。

 次に、この碑文の書。碑面が痛んでいて写真では確認できないのが残念だが、確認だけはしておく。
 この碑の書は「正三位子爵 時 萬」とある。
 この方の情報はたくさんあって、直ぐに、幕末-明治時代の公卿・神職交野時万氏だろうと推測できる。この方の経歴情報はたくさんありすぎるので、この碑文との関連ということで絞る。
 具体的には、慶応2年正三位にすすんだことと明治維新後の氷川・日吉両神社の大宮司時代の御歌所にかかわる以下の経歴にしぼればいいのかな。
 明治17年(1884)叙爵内規により子爵を授けられる。
 明治19年(1886)年2月6日参侯を仰付かる。
 明治21年(1888)年6月6日の御歌所成立時、非常勤の参侯となる。
 明治41年5月正二位に叙せられる。
 この方がこの碑文の書者となる経緯は知る由もないが、この碑の撰文者が何らかのつてで、この方を碑文の書者とされたのではないのかなという勝手な想像。

 なお、「清水町 佐藤重次郎彫」の清水町は近くの清水宿だと思うが、今のところ、そこの手持ち石工情報はない。
by shingen1948 | 2018-10-02 10:52 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 これは、船橋観音堂を訪ねた時に撮ったものだが、この右手の石碑がそれなのではないかと想像している。ただ、碑面が痛んでいて読み取れていない。
a0087378_4113684.jpg 地元の方に尋ねればすぐに分かると思うのだが、今のところそれもできていない。不確かなことなので、?をつけておく。
 ただ、「福島のいしぶみ」を確認すると、船橋観音堂境内の尾形曠斎氏の石碑の篆額は、「曠斎壽蔵碑」となっているということだ。
 それをヒントにこの写真を眺めると、右から二つ目の文字が「斎」の字が読めるように思う。そして、その右が「曠」であってもよさそうな気がするし、その左の文字列が「壽蔵碑」だったとしても矛盾はなさそうだと思うといった程度の確からしさはある。

 この写真から碑文を読み取るのは不可能だ。次の機会に新しいデジカメで碑文を撮ってみて、「福島のいしぶみ」の碑文と照らし合わせてみたい。
 そのために、「福島のいしぶみ」の碑文をメモさせていただいた。その中からの確かめ。

 尾形曠斎氏については、その二段目に以下のように紹介される。

 今玆甲午 翁齢六十 門人胥議 将建立碑 持所状群行
 懇余経緯之曰 翁名英悦 通称貞蔵 号曠斎 尾形氏 信
 夫郡金谷川村大字浅川人 其先出尾形若狭

 ※玆=ここに

 その方が、最上流宗統派五伝となる経緯については、次の段に以下のように紹介される。

 翁少学算数 覃思専攻数十年 得其奥旨 所謂最上流是也
 会田安明以是伝之渡辺一 一以是伝之宍戸政彝 政彝以是
 伝之丹治重治 重次伝是伝之翁 翁性撲厚 不屑々乎貨殖
 而資産頗贍 以其倹有法也

 ※覃=ふかい=深くひろい、屑々乎貨殖=こせこせする(「福島のいしぶみ」の注)、頗=すこぶる、贍=たりる=とむ
 ここでは、前回整理の最上流宗統派四伝「丹治」氏は「重治」となっている。

 碑文確認のためならここまででいいのだが、次の段も引かせていただく。というのは、次の段に、すでに洋算が着目される時代になっても、和算に需要があったことが記されるのだ。ちょっと立ち止まって考えたいと思ったのだ。

 生乎 焉 人排難解紛 村人毎有事之難処 就翁咨詢 翁
 処之曲尽其心 是以郷里 翕然推服焉 数為村吏府労績
 暇日 輙聚徒授数 諄々不倦 所著有算法詳解三百余巻
 明治維新以来洋算行 厭旧喜新之徒 往々棄和算 而入洋
 算 惟翁則不然 益鑽旧学 不肯趁時好 自非信之篤造之
 深者

 ※咨詢=参考として他の機関などに意見を問い求めること、曲尽=きょくじん=ことこまかに事情を説きつくすこと、翕然=きゅうぜん=多くのものが一つに集まり合うさま、推服=すいふく=人を敬って心から従うこと(心服)、村吏=そんり=村役人、輙=すなわち、諄諄=じゅんじゅん=相手にわかるようによく言い聞かせるさま、不倦=ふけん=手を抜かずにしっかりと、不然=事実はそうではない、鑽=さん=物事を深く究める、趁 =したごう

 なお、建碑は明治27年7月のようだ。
by shingen1948 | 2018-09-30 10:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「長澤保斎之碑」の碑文は、社会的地位を伴う功績が続く。

 翁名高一郷或推為村會議員又為地押總代又曾為収入役其功
 亦有不可没者焉翁今則置身間散之地優遊自娯頃日有志家廣
 與其門人謀欲建碑以傳翁名于不朽請余文余深感其功與門弟
 之情乃其蹟以次第之係以銘曰
  天時人事 皆歸數学 數学の教 不可姑置
  翁有見此 教之世人 厥功厥名 千載不泯
a0087378_851334.jpg
 ※焉=えん 訓読みのいずくんぞは読まず、助字として句末に置いて語調を整え、断定の意を表す、散=別れる
 ※謀欲=はかりごと
 ※ 姑置=問題にしない、厥は、ここではぬかずくかな? 千載不泯=長い年月が経っても滅びない

 この後に、前回ふれた以下が続く。

 大正六年歳次丁巳秋十月
   二本松 霞城 三浦譲撰
   福島 遂堂 高橋直周書併篆額 于時年七十五
         福島 佐藤喜誠鐫

 「金谷川のあゆみ」によれば、裏面に、金谷川・杉妻・松川・二本松・吉井田・岡山・福島・平田の門人47名の名が刻まれているという。「福島のいしぶみ」によれば、背面には門人46名、世話人9名の名が刻まれているという。
 この事は確認しなかったが、各地から多くの門人が集まっていたということは分かる。
by shingen1948 | 2018-09-23 08:53 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 これは、散策の帰り道に撮った水雲神社近くの森の様子だ。もっと神社近くの風景も撮ったのだが、こちらはよく撮れていなかった。
a0087378_9464521.jpg この水雲神社は、今までの散策といろいろなことでかかわる。その一つが、「示現(慈現)太郎神社」散策とのかかわり。

 「示現(慈現)太郎神社」のご神体は宇都宮神社へ飛んだのだそうだが、この水雲神社の御神体は、その「示現(慈現)太郎神社」が鎮座する「古浅川」集落の水雲神社に飛んだのだとか。
 「金谷川のあゆみ」によれば、「古浅川水雲神社(鶏権現)」は、大竹森のご神体をひそかに移し奉ったとの伝承があるのだそうだ。以来大竹森の氏子との縁組はできなくなったのだとか。吉の目では、大竹森からご神体が飛んだと伝えられているとのこと。
 その現況だが、この神社には蚕の神様、水雲様、雷神様、熊野様、二十三夜様が祀られるが、大竹森から飛んだご神体は、熊野様ではないかといわれているのだとか。

 前回は、大竹森水雲神社の言い伝えについて「大竹が大音響とともに割れ滅した」ところまでで切って整理したが、その続きがあるようだ。
 大竹森に生息していた六頭の熊は、その大音響で各地に去り倒れたのだとか。村内の深沢、浅目、清の内の熊野神社はこの熊を祭祈したものなそうだ。他に、土湯の熊野権現もこの熊が行き倒れになったこととのかかわりなそうだ。
 「古浅川水雲神社(鶏権現)」境内の熊野様もそのかかわりでみたいということかな。

 もう一つのかかわりが、「浅川黒沼神社」散策とのかかわりだ。
 「浅川黒沼神社」には、地元の画家が描いた「浅川村見立八景」が奉納されていた。
 「『浅川黒沼神社』と示現(慈現)太郎神社④」で整理した時点では、「 黒沼晴嵐(くろぬませいらん)」の「黒沼神社」、「以後田落雁(いこうだらくがん)」の「富士浅間神社」、「平石晩鐘(ひらしいばんしょう)」の「浅川正観音」、「比丘尼石名月(びくにいしめいげつ)」の「薬師堂」にある「比丘尼石」を確認していた。
 https://kazenoshin.exblog.jp/237820728/

 水雲神社は、この「浅川村見立八景」がいう「大竹森明神」が祀られる「大竹森暮雪(おおたけもりぼせつ)」なのだ。これを確認したということになる。
 残りは、「古川帰漁(ふるかわきりょう)」「笠松夜雨(かさまつよさめ)」「台橋夕照(だいばしせきしょう)」という3つの風景ということになる。
by shingen1948 | 2018-09-17 10:45 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 宮の前集落から山道を進んで、この神社に辿り着いたのは神社の脇だ。境内には、ここから入った。昨日使用の写真は鳥居越しに神社が写っているが、これは境内に入った後に回り込んで撮ったものだ。
a0087378_8494464.jpg 「金谷川のあゆみ」に、この神社にかかわるおおよそ次のような話が紹介される。この話には、神社に辿り着いて直ぐに撮ったこちらの写真が似合っているように思う。

 この地が米沢藩の領域であった頃、この明神付近一帯に巨竹が繁茂し密林状態だった。その竹は、直径2尺ほどあり風呂桶やその他の容器類に使用されていた。
 この竹を毎年御用竹として米沢まで搬送しなければならなかったが、これが大変な苦労だった。
村人は、この地で巨竹が産出しなければ、こんな苦労をしなくてもよいはずだという事で、この巨竹をどうするかを話し合ったがまとまらなかった。

 そんなときに、旅の六部(白衣をまとう諸国行脚僧)が、事の次第を聞き、自分が人柱になって、その願いを叶えるといって、村人に大穴を掘らしめ、大竹明神の黄金の御幣を抱いて、土中に埋めさせ、その上に下肥を散布し祈らせた。
 その深夜、大竹は大音響とともに割れ滅した。

 その後、村人は塚を発掘したが、そこに六部の白骨は見つかったが、大竹神社の黄金の御幣は発見できなかった。
 村人は、その六部の霊を慰めるために供養塔を建立した。

 この話の供養塔の所在は分からないのだが、この神社境内近くと思い描いて想像する。
 なお、この話に「大竹明神の黄金の御幣」というのが登場するが、これが、昨日整理したこの神社の鎮守神の概念でとらえた祭神の御幣ということのようだ。
by shingen1948 | 2018-09-13 10:48 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
途中の道筋に竹が延びていたりして不安になるが、しばらく進むと神社らしき建物が見えてくる。結構大きな神社だ。
a0087378_5545018.jpg  「金谷川のあゆみ」によれば、鳥居には「昭和2年石工石川今朝松」と記され、傍らの石碑には世話人五十人の名が刻まれているとのことだが、確認しなかった。

 この水雲神社の祭神は、天水分大神で浅川村最古の守護神大竹森明神とのことだ。

 「ウィキペディア」で「分水神(みくまりのかみ)」を確認すると、水の分配を司り、水源地や水路の分水点などに祀られる神ということのようだ。水にかかわることから、祈雨の対象ともされたり、田の神や山の神とも結びついたりしたしたのだとか。
 後に「みくまり」を「みこもり」と解して、子供の守護神・子授け・安産の神ともされるようになったという。
 「天水分大神」は、その「分水神」とのことだ。日本神話ではハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメの子として天分水大神・国水分神が登場するという。

 「金谷川のあゆみ」で解説される事の一つが、この下の沢や沢水とかかわる浅川村最古の神ということなのだろうと思われる。
 雰囲気と共に、この鳥居の前の道筋を進めば、西に下り「深沢」に出るということも含めて合点がいく。

 もう一つ重ねられた意味があるようだ。それが「浅川村最古の守護神大竹森明神」ということだ。
 自己流の解釈も加えると、概念としては、鎮守神(ちんじゅかみ)に近い事を言っているように思う。浅川村という一定区域の土地を守護する神で、氏神・産土神の概念も重ねられた神なのではないかと読み取る。「大竹森明神」とのことなので、もうちょっと狭い範囲の区域の守護神ということなのかもしれない。
by shingen1948 | 2018-09-12 10:53 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 旧国道は、水晶沢を通って奥州街道に接続する。
 しかし、旧国道開通以前、その北側から八丁目宿の方向には舌状に延びた台地がその行き先を阻んでいたという風景だったはずだ。
 その見え方でその風景を眺めてみると、結構奥まったところにある水雲神社がいつも気になっていた。
 ただ、立ち寄ってみようというところまではいかなかったのだが、今回の八丁目宿の散策の帰りに、そこに向かってみることにした。

 浅目前から西に向かう道筋に入ると、現東亜自動車学校の裏側に沢沿いの細い道筋がある。地図で確かめると、こちらは八丁目城の愛宕山を西に回り込んで市の沢に抜ける道筋のようだ。
 水雲神社への道筋は、その沢筋の西側のアスファルト舗装された高台に向かう道筋を進む。
 この道筋は、宮の前の集落で消える。
a0087378_10111842.jpg 辺りを見回すと、整備された山道があるのが分かる。これを進むのだろうと見当をつけて進む。

 これまで散策してきたところを俯瞰してみれば、中町から本町にかけての旧街道筋は八丁目城辺りから舌状に延びた台地を回り込んでいるということだ。そして、その台地の縁には常念寺、盛林寺、常光院、常円寺の寺々が並んでいたというとこだ。
 そこから旧街道は石合町へ進むのだが、これも、地形に沿ってその舌状に延びた台地の先端を回り込むという自然な道筋なのだ。
 その裏側の風景という事でもある。
by shingen1948 | 2018-09-10 10:13 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 浅川地区の散歩資料で、「浅川と喜熨三太郎秀房一座」とかかわるとされる辺りを散策したところだ。
 この辺りを、旧浅川村とのかかわりで眺めれば、中沢屋敷とかかわる辺りだろうか。
 「浅川、松川散策の写真メモから⑤~舟橋地区④:船橋観音堂」でもふれたように、旧浅川村の起こりは、5軒在家なそうで、古浅川村と呼ばれるそうだ。
 そのうちの宮屋敷、中屋敷、舟橋屋敷(尾形若狭)、古浅川屋敷辺りについては、ごく一部ではあるがふれていた。今回は、今までふれていなかった「沢の深い中沢屋敷」の一部にふれたということだ。
 ただ、今では風景としては開発された地域のように見えるが、古くはこの「沢の深い中沢屋敷」の耕地を潤すための中沢渠の水源地群の東端辺りの風景のようだ。
 そして、「沢の深い中沢屋敷」在家自体は、もっと東側の現上中沢・下中沢地域辺りなのだろうと思う。

a0087378_9342468.jpg これは蓬莱団地の道筋に上ってから眺めたところだが、ここに写るお堂が、「黒虫地蔵」なのだと思う。
 「黒虫」というのは、マムシの別名だ。恐らくこの辺りには多くのマムシが生息しているということなのだろう。それで、小心者の散策人としては、ここに立ち寄るつもりはなかったのだが、この写真を見る限りでは、その心配もなさそうにも思う。
 浅川の散歩資料によれば、昔は樹齢200年程の松がお堂を覆うようにかぶさっていたのだそうだ。幹回り150㎝程の太さだったそうだが、松喰虫の被害で昭和末年頃に切り倒されたのだそうだ。
 祀られた地蔵尊は文政年間(1818~1830)に清水町の人が彫ったものなそうだ。
by shingen1948 | 2018-01-12 09:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)