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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 北山の寂光寺の北側が「輪王寺」であることが気になったのは、この寺も伊達の里から移った寺のはずだと思ったからだ。「金剛山輪王寺」のホームページで、その歴史を確かめると、その開山について、次のように記される。
 輪王寺の開山 (1441年)
 輪王寺は、嘉吉元年(1441年)、伊達家9世政宗の夫人、蘭庭明玉禅尼の所願により、11世持宗が、太菴梵守和尚を開山として、福島県梁川に創建されました。
 政宗夫人は、3代将軍足利義満の生母の妹に当たるため、6代将軍義教は、後花園天皇に奏請し、「金剛寳山輪王禅寺」の額を賜りました。
 「福島県梁川に創建」とあり、現伊達市梁川の輪王寺跡に創建された寺であることに間違いなさそうであることが分かる。
 その現伊達市梁川の輪王寺跡には2011年に訪ねて整理している。
 梁川城の発掘調査現地説明会に出かけた折に散策の足を延ばしたもので、「梁川城現地説明会に出かける~輪王寺跡」として整理している。
 〇 「梁川城現地説明会に出かける~輪王寺跡」
 http://kazenoshin.exblog.jp/14181961/
 〇 「梁川城現地説明会に出かける~輪王寺跡②」
 http://kazenoshin.exblog.jp/14188699/
 輪王寺は、その後伊達氏の移動に伴って桑折西山→米沢→ 会津→米沢→岩出山→仙台と移転してきたという。それを「金剛山輪王寺」のホームページでは、「輪王寺の六遷(1532年~1602年)」と紹介する。
 仙台の地に移るのは、「青葉山寂光寺」と同じ慶長7年(1602年)で、17世の政宗公の時だ。

 ここに2人の政宗公が登場している。
 創建所願の蘭庭明玉禅尼は伊達家9世政宗公の夫人である。その伊達家9世政宗公は、伊達家中興の祖といわれる政宗公であり、「独眼竜」として知られるのは伊達家17世政宗公だ。
 9代政宗公は、文武の才に恵まれ、和歌も堪能で、「山家の霧」と題する歌がよく知られているとされる。また、「金剛山輪王寺」のホームページが紹介するように、彼の妻が室町幕府3代将軍足利義満の叔母にあたり、中央との繋がりが強かったようだ。
 応永9年(1402)に領地の割譲を求めてきた関東公方に対して、長倉館(伊達市館ノ内)や桑折赤館で反抗したが及ばず、会津方面へ逃れたという政宗公は、この9代政宗公のようだ。
 なお、9代政宗公の代には、本領である伊達郡の他、伊具郡、刈田郡、柴田郡(宮城県)、長井郡(山形県)も伊達領だったのだとか。

 この9代政宗公の墓と伝わる石塔や寺号である「儀山東光寺殿」と書かれた位牌が保原町柱田の東光寺にあるとのことで、出かけたことがある。そのことについては、「9代伊達政宗の東光寺」として整理した。ただ、石塔の家紋が丸に横三つ引き両で、伊達家の紋は丸に竪三つ引き両と合わないので、疑問が残るとの情報もある。
 http://kazenoshin.exblog.jp/10822810/
 17代政宗公の名は、この9代政宗公にあやかって付けられたといわれているという。
by shingen1948 | 2016-03-06 09:16 | Comments(0)
 時の流れとかかわらせて梁川を見るようになったのは最近の事。若い頃は、どちらかというと地質的な興味が強かった。その視点での見え方は、広瀬川の少し上流に、霊山層と梁川層の境界線があり、貝の化石、サメの歯などの化石などが採れる所もあるということ。
 有名なのは、昭和59年(1984年)8月にこの川の河床で良好な保存状態のまま発見された梁川化石パレオパラドキシアだ。パレオパラドキシアは、今から1500万年から1600万年前に生息していた古代の大型のほ乳類だ。伊達市観光ポータルサイトに、復元骨格と復元想像図が載っている
 http://www.date-shi.jp/kanko_date/yanagawa/bunkazai/kaseki.html
 同じ場所を時の流れとかかわらせて見れば、城跡とかかわって、そこは桝形経由桜舘(屋敷跡)の道筋が見える広瀬川沿いの風景ということにもなるということ。

 子育ての時期は、梁川希望の森へ出かけたのだが、実は、その風景を完全に思い出していなかった。あの時の風景がポツンポツンとは見えるのだが、それが記憶とうまく結びついていなかったのだ。今回は、その確認をしてみた。
 阿武隈急行を利用して、梁川希望の森駅で下車して、梁川町営プールで泳いだこともあったし、SLで梁川希望の森公園の滑り台で遊ばせたり、ロッジを借りてキャンプのまねごとをしたりもした。
 今回の指定駐車場は梁川プールで、ここがその時の梁川町営プールのはず。その駐車場から眺めると、確かに梁川希望の森駅が見える。
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 確認すれば、どうということはなく、この駐車場から出て東に向かう道筋が、梁川希望の森への道筋で、この右手がSL乗り場。
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 線路沿いの道筋を確認して、SL乗り場東口を確かめる。そのまま道筋を進めば、懐かしい風景につながった。

 子育ての時期とかかわってふと思い出したのが、子供が化石に興味を持って、同じような興味を持った友達の母親とご一緒させていただいて化石探しに来た時に、親切に案内してくださる町の方に出会ったとかという話を聞いた事。
 同時に、子供が、意気揚々と学校で理科の先生に話したら、それが化石のはずがないと言われて意気消沈で、一気に熱が冷めた事。
 その先生、他所で理科教育の権威者として出世したというのは後日談。
by shingen1948 | 2012-10-26 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 指定された駐車場が、梁川プールで、ここから発掘現場に向かう途中、梁川中学校の向かいのプレハブ建物が、梁川小学校と表示されているのを見た。
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 家に戻って確認すると、梁川小学校は2011年3月11日の震災で使用不可となったことで、子供達は梁川中学校、梁川高校にわかれて学んでいたということらしい。それが、2012年2月になって、この仮設校舎への引越しをしたという状況のようだ。

 詳しく確認すると、震災直後は、梁川中学校に校長室と職員室を置いた上で、富野・五十沢・白根・山舟生小学校などの空き教室を活用して授業を再開するという計画もあったようだ。
 そんな中、原発事故によって学校敷地の放射能に汚染された表土の仮置き場という新たな問題が派生する。梁川の学校は、梁川城の史跡に建つ。特に、小学校は梁川城本丸の史跡になっているために埋設できないという状況となり、2011年11月には、幼稚園・仮校舎建設地・小学校・中学校の表土を、小学校校庭にコンクリート壁で囲って置くことになるという。
 しかし、3月には、仮置きされた汚染された表土をどけて、卒業式を旧小学校体育館で行ったとか。

 以下は、2012年2月に、この仮設校舎への引越すことを報じる「KFB福島放送(2012/2/28)」の情報。
 伊達市の梁川小は、27日から梁川中に隣接する仮設校舎で授業を開始した。2カ所に分かれて登校していた児童にとって待望の校舎。全校児童492人が久しぶりに一堂に会し、全校集会が開かれた。約11カ月間、梁川中と梁川高の校舎に間借りして授業を行ってきた。高校生のじゃまにならないよう、2階の奥の教室に行くときもいったん3階に上がり、廊下を通って再び2階に下りていた。また、6年生は2教室に3クラスが入り、カーテンで仕切って授業した。児童は「机がぎっしりで、通るのに苦労するほどだった」と話す。体育は挌技場で行った。仮設とはいえ、真新しい校舎に児童は大喜び。「みんな一緒に通えてうれしい」と笑顔を見せた。

 なお、震災に伴うこれら一連の動きの前に、2009年7月には、梁川小学校校舎の老朽化に伴う改築・移転のための検討委員会が設置されるという状況の中で、これ等震災に伴う状況が重なったという事でもあるようだ。
 その移転計画の背景には、現在地が梁川城本丸跡であり、福島県指定史跡を受けている史跡であることとかかわるようだ。市(町)では、ここから小中学校を移転させていく方向性で、梁川中学校が新築移転が完了しているという状況下だったらしい。それが、今回の大地震のために、その計画を早めざるをえない状況になったというような経緯もあるらしい。
 その開校予定が平成28年度とのことだが、市の提案する蚕業試験場跡地という場所をめぐって、防災の観点からいろいろな問題提起もされているらしい。ただ、学校、特に小学校には、その町の精神的な中心を形成する機能も持ち合わせている。表面に現れていないこの町の精神的な中心を形成する機能の移動に関する抵抗感のようなものもあるのだろうなと想像する。
 歴史ある街が、新たな街づくりに挑戦するための悩みは、深そうだな。
by shingen1948 | 2012-10-24 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 「平成24年度梁川城現地説明会」に出かたことについて、もう少し続けたい。
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 これが、掘立柱建物跡が見つかったとされる11トレンチとされるところ。中心的な説明はここで受ける。新聞報道で伝える「大規模火災が起きた事」や「大規模な建物跡が検出された事」についても、ここで解説される。

 この辺りは、昨年度しっかりとした柱跡が多数見つかったという状況があった昨年度の第5トレンチ、第6トレンチ、第7トレンチとされた試しぼり部分の第6トレンチ、第7トレンチあたりが拡張確認されたところのようだ。
 その昨年度「しっかりとした柱跡が多数見つかったという状況」については、「梁川城現地説明会に出かける⑦」で整理している。そこの拡張確認作業から、掘立柱建物跡が検出されたということなのだろう。
 http://kazenoshin.exblog.jp/14221641/ 

 建物跡として検出できそうな柱跡の様子については、その柱跡を紐で結んでくださる。幾つかの建物跡が重なる中に、東西に張られた紐の柱跡部は、他の柱跡と比べてかなり大きいことが分かる。
 本年度の説明資料にある「しっかりとした柱穴が区画溝と並行及び直行する形で検出された」とされる部分で、「その柱穴の規模が30~70センチmで、本丸の調査で確認された柱穴よりも大きい柱穴が確認された」とする部分のようだ。
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 新聞報道に、「見つかった柱穴は本丸跡の柱穴最大40㎝よりも大きい。力を持つ人物の蔵や寺院などの建物が建っていたと推測される」とある部分のようだ。
 一部彫り込みを行った中に、柱穴の底面に柱材が遺存しているものもあるのは、こちらかな。彫り込みを行った様子が見えるのが2か所あるが、他方はおき石らしい脇の彫り込みのよう。

a0087378_436749.jpg 「しっかりとした柱穴が区画 溝と並行及び直行する形で検出され、その柱穴の規模が30~70センチmで、本丸の調査で確認された柱穴よりも大きい柱穴の『力を持つ人物の蔵や寺院などの建物』と想像される建物跡は、この10トレンチの東側まで、続いているらしい。

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 この建物跡の南と西の方向の掘立建物跡の範囲は確認できているようだが、北と東の方向の範囲の確認はまだのような気がする。
 その建物の南西隅から眺めると、こんな感じ。建物の周りの溝跡・土抗の様子が視野に入るというイメージかな。

 これが、今回の調査で見えてきた「室町時代15~16世紀を中心とした伊達氏に関連の深い寺院或いは武家屋敷跡と考えられる建物」の様子ということかな。
by shingen1948 | 2012-10-22 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
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 今回の現地説明会では、11トレンチを中心に説明された。その11トレンチを東から眺めている。この奥が10トレンチ。
 自分の観点で整理していくと、いつも興味の向くままに流れていくので、今回は新聞で紹介された事を視点として整理しておく事にする。
 まずは、昨年は「梁川城現地説明会に出かける⑨」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/14234878/ 
 ここでは、この「建物跡と梁川城本丸や八幡神社、輪王寺跡、東昌寺跡などの遺構と合わせると、かなり広い範囲で町並みがつくられていたこととなり、伊達氏が力を入れていたことが分かる」ということであり、この「守護館となる梁川城跡本丸東側にこのような武家屋敷群やこれに伴う仏堂などが展開した姿が明らかになりつつあります。」ということが、より確実性を増したということかな。
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 今年は、「大規模火災が起きた事」と「大規模な建物跡が検出された事」が紹介されている。
 「福島民友」では、大規模火災が起きた事を中心に報じ、検出された建物跡が大規模である事を付け加える。
 区画溝の変遷ともかかわることで、昨日整理した「ここでの検出面が丁寧に整地された層が3層ある」ということ。

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 この整地された3層というのが、この11トレンチの中では、この左上に表示されている。
 この整地層の2.3層の上面に、建物が火災にあった痕跡が見られる焼けた壁材や炭化材などが多量に出土したということで、そのことから「火災に遭って建て替えられたもの」と推定しているらしいということだ。
 表示された層とのかかわりでみると、この面が整地層3ということかな。
 この赤っぽいのが、壁土とのかかわりかなとか、中心部の黒っぽいのもかかわるのかなとみているのは勝手な見方かな。
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 「福島民報」では、逆に、寺跡か武家屋敷跡とみられる大規模な建物跡が検出された事を中心に報じ、大規模火災の痕跡を付け加えて報じている。
by shingen1948 | 2012-10-19 05:02 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
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 今回の説明会では、溝跡についての観察はなく解説のみだった。
 その位置を確認すると、ここから見えるのが、区画溝とのかかわりでは、南東隅付近で、1Tとあるのが、昨年トレンチ部で、その手前に今年14Tが掘られているようだ。これが、東西に走る溝跡確認目的と思われる。南北に走る溝跡確認のために12Tと13Tも今年掘られたものと思われる。

 解説は、2つの観点で聞けばいいのかな。
 その一つが、区画溝ということから区画割りの観点で、もう一つが、その溝跡の変遷とかかわる事。

 まずは、その区画という観点の解説から。
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 配布資料に、昨年度の調査で、区画溝と考えられる溝跡1条確認とあるのは、1T(平成23年度)とある部分かな。本年度の配布資料には、その溝跡にsd02と番号が振られている。1辺半町(約60~70㎝)とある。
 この溝それ自体については、昨年「梁川城現地説明会に出かける⑥」で整理している。なお、10Tと11Tが、建物跡を検出したトレンチ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/14214846/ 
 昨年度の調査確認した溝跡の外側に、第14トレンチで新たに溝跡1を確認したという。配布資料で14Tにsd01と番号がふられたものだと思われる。解説では、第12トレンチでは、2条のトレンチを確認という。配布資料図では、sd01・sd02・sd03の番号が振られるので、3つの溝跡の可能性もあるのかな。
 第13トレンチで、南北に延びる溝跡4条が確認したという。配布資料に、sd01~sd04の番号が振られたものだと思う。これらは、重複(切りあった)状態で確認でき、重複関係で新しい4号溝跡は堆積状態及び分布状況から東側(調査対象外)に延びる溝跡と思われるとある。ここで、溝跡の変遷とかかわる事も解説される。
 なお、新しい4号溝跡というのが、図のsd04だと思う。

 区画溝という観点から、頂いた図の各溝を結ぶ線を引いてみた。まず、sd01の内側の端のラインを緑の線で結んでみた。この溝は、このラインの外側を走る区画溝跡ということかな。次に、sd02の溝だが、12・13Tの確認とつなげられるのは、溝の外側かな。これを水色のラインで結んでみた。ここは、昨年度の溝跡1Tでは、内側も確認できるが、14Tでも内側が確認できるので、これも水色の線を引いてみた。12・13Tでは、sd03の外側もつなげられそうなので、紫の線で結んでみた。
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 もう一つの、埋め戻されたり新たに溝が掘られたりするその変遷にかかわる観点だが、配布資料の13トレンチで説明される。ここが、その13トレンチ現場のようだ。最初の写真の範囲を外れた左手奥手に位置する。
 説明の2号溝跡というのが、図のsd02だと思う。これが西側の土塁構築土で埋められて、その後、3号溝跡(sd03)が造られているらしい。このことから、拡張工事跡だと推定するらしい。
 そのことと、ここでの検出面が丁寧に整地された層が3層あるということと関連させた変遷の流れも解説される。その整地層の2.3層の上面では、建物が火災にあった痕跡が見られる焼けた壁材や炭化材などが多量に出土するといい、火災に遭って建て替えられたものと推定しているらしい。
by shingen1948 | 2012-10-18 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 NHK特別番組 「平清盛 日宋貿易にかけた夢」の前半を見逃したのは、梁川城現地説明会に出かけていたためだが、その「梁川城現地説明会」を整理しておきたい。
 今回の梁川城現地説明会は、昨年の現地説明会の続きで、昨年も参加して「梁川城現地説明会に出かける」として整理している。それで、区別するのに頭に「平成24年度」とつけて整理する。
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 昨年の現地説明会時に、「調査地点の意義を感じてみる」として、3つの視点から整理した部分は、そのまま本年度も重なる。
 ① 梁川城現地説明会に出かける③~調査地点の意義を感じてみる
 http://kazenoshin.exblog.jp/14194817/
 宮城県立図書館蔵「梁川城絵図」と比べて、「覚範寺」が気になる。前半に整理した部分が、すまし顔の自分が気になるところ。さりげなく、後半の個人的な感覚も記したが、今も変わらない。
 その一が、「覚範」が輝宗公の戒名と同じこと。だが、直接的には関わらないはずとも。
 その二が、東昌寺の言い伝えとのかかわり。「伊達5山のうち、3代目夫妻をまつった寺が、観音寺、興福寺という2寺だが、これが廃寺になって、資福寺という寺がこれ等を吸収する。更に、この資福寺から覚範寺が別れた」ということとのかかわり。
 ② 梁川城現地説明会に出かける④~調査地点の意義を感じてみる②
 http://kazenoshin.exblog.jp/14200512/
 鈴木啓氏作成梁川城跡復元図とかかわって、武家屋敷を意識してみた。
 ③ 梁川城現地説明会に出かける⑤~調査地点の意義を感じてみる③
 http://kazenoshin.exblog.jp/14207647/ 
 この中の地籍図とのかかわり。この整理の中の出土品の部分は、今回の発掘調査の整理と合わせて整理すべきものかな。

 伊達氏は、梁川城の東部を中心に整備しているが、この梁川城を中心とした発展自体は、西側に広がっていくという経緯らしい。それで、伊達氏の梁川城初期の様子が梁川城の東部に残っている可能性が高く、解明の糸口が見つかるのではないかという期待感で、発掘されているということだろうか。それ等を含め、参加させていただく観点は、今年度も変わりない。

 なお、昨年は、現地説明会の機会に、輪王寺跡を散策したことも整理している。
 ○ 梁川城現地説明会に出かける~輪王寺跡
 http://kazenoshin.exblog.jp/14181961/
 ○ 梁川城現地説明会に出かける②~輪王寺跡②
 http://kazenoshin.exblog.jp/14188699/
 これらは、これ以前の梁川城付近の散策で気になっていた部分。
by shingen1948 | 2012-10-17 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
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 少し時間がたって、見直すのに結構役立つのが、どう報じられたかと言う事。今回報じられたことを確認しておく。

<b>梁川城跡周辺に遺構 寺院か武家屋敷跡【福島民報(2011/12/09)】

a0087378_5465723.jpg  伊達市の県指定史跡・梁川城本丸跡の北東部分から、新たに鎌倉時代から室町時代にかけて造られた寺院か武家屋敷跡とみられる遺構が8日までに発見された。青磁盤などの出土品も確認され、位の高い人が利用していたこともうかがえる。市教委によると本丸跡や周辺の寺院などとの位置関係を考えると、当時、梁川城周辺は東北屈指の町並みがあったことも想定できる重要な発見となった。
 梁川城は中世伊達氏の本拠地の城として、室町時代から使われていた。「独眼竜政宗」の先祖である伊達家の当主らが住み、町並みを形成してきた。
 今回は、梁川城本丸の北東200メートル部分の範囲や遺構確認のため、11月から調査してきた。
しっかりとした柱穴が多数見つかり、約60メートル四方に区画されていたことから、寺院か武家屋敷とみられる建物があったことが分かった。
 このことから、梁川城本丸や八幡神社、輪王寺跡、東昌寺跡などの遺構と合わせると、かなり広い範囲で町並みがつくられていたこととなり、伊達氏が力を入れていたことが分かるという。市教委は11日午後1時半から現地説明会を開く。駐車場は梁川プールか、やながわ希望の森公園へ。問い合わせは市教委 電話024(577)3245へ。

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 ついでに、今回梁川城現地説明会に参加して、整理するのに確認していく中で、曖昧なままだが気になっていることを記しておく。
 今回頂いた資料の宮城県図書館が所蔵する「梁川絵図」に神尾舘があって、ちょっと気になって「神尾氏」を確認するが、よく分からない。多分地元では直ぐに思い当たる方なのだろう。他所者の素人は勝手な想像を膨らます。
 資料は見失っているが、見かけた次のような解説と、この神尾氏とかかわるのかなと、……。
 代々の亀岡八幡宮神主は菅野氏で、伊達氏に従ってきたとされる。菅野氏は梁川天神社の神官も兼務していた。現梁川中学校の南側に神官菅野氏の古い墓地があり、この付近に菅野家の初期のころの屋敷があったと思われる。江戸期も引続き菅野神尾が梁川八幡の大宮司職を全うし、明治に至っている。ただし江戸中期に菅野氏は苗字が関根に替った。

 気になっているのは、この中の「菅野神尾」という部分だ。

 伊達市広報に「ふる里再発見」というコーナーがある。そのコーナーに現梁川中学校「茶臼山北遺跡」について以下のように紹介されているのも見かける。
 発掘調査の結果、伊達氏の主要な家臣や血縁者の屋敷、それらに付属するお堂などが存在したことが分かってきています。出土した「かわらけ」から、この遺跡では、武家の儀式が執り行われた可能性も考えられます。守護館となる梁川城跡本丸東側にこのような武家屋敷群やこれに伴う仏堂などが展開した姿が明らかになりつつあります。

 今回の発掘調査とのかかわりでは、この「守護館となる梁川城跡本丸東側にこのような武家屋敷群やこれに伴う仏堂などが展開した姿が明らかになりつつあります。」ということが、より確実性を増したということなのだろうと思う。

 気になることとかかわるのは、「茶臼山北遺跡は、発掘調査の結果、伊達氏の主要な家臣や血縁者の屋敷、それらに付属するお堂などが存在したことが分かってきています」とした後半の紹介だ。
 その「伊達氏の主要な家臣や血縁者の屋敷」とのかかわりを、「伊達の城」の「茶臼山北遺跡」にプロットされる「須田長炭塚」が常栄寺跡を推定する根拠で、その主要な家臣にかかわるのが、「神宮菅野家廟所」なのだろうと勝手な想像を膨らませている。他所者は、その「神宮菅野家廟所」ということと気になっていることが結びつかないかなと勝手な思いをいだく。
by shingen1948 | 2011-12-24 06:04 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 「しっかりとした柱穴が多数見つかったという状況」にかかわる説明があったのは、5番目の試掘の所。
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 なお、手前左隅が粘土の部分。柱を建てるのに、その土台部分に粘土を張り付ける場合もあるとか。かかわるものやらないものやら、……。
 「しっかりとした柱穴」というのは、その大きさらしい。

 5番目の試掘の所から6.7.8の試掘が並ぶ方向(西側)を眺める。
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6番目
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7番目 カラーで無くなるのは、この辺りでデジカメのバッテリーが少なくなってきたため。
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 気になるのは、小石群と溝。
8番目
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 これが、約60メートル四方に区画されていたところから、しっかりとした柱穴が多数見つかって、寺院か武家屋敷とみられる建物があったことが分かったとされる現場ということのようだ。

 ここは、梁川城本丸の北東200メートルの地点だ。
 この調査結果と、梁川城本丸や八幡神社、輪王寺跡、東昌寺跡などの遺構と合わせて、伊達氏が力を入れた町並みをイメージするようだ。
 
 古い遺構は、新しい大きな改変によって失われることを考慮すれば、その改変は西、北に向かって進められたらしいことも考慮してイメージすることになるのだろうか。
by shingen1948 | 2011-12-22 07:04 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 武家屋敷跡か寺院跡と想定する根拠の一つに、「比較的区画規模が大きい」とされることとがあげられている。説明会では聞き逃したが、「福島民報」記事中には、「約60メートル四方に区画」とある。その大きさは、地籍図をもとに調査対象区とした範囲とほぼ同じ大きさだ。
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 ここが、その調査区の南西隅の地点だ。そこから、発掘調査の行われている方向を眺めている。地籍図の水路の折れ曲がりを感じているが、地図でこの地点を検索して、その付近の航空写真を眺めると、このことに実感が伴う。

a0087378_5471221.jpg  そのこととかかわるのが、堀跡が出土したとされこの調査地点だろうか。
 白線でその堀跡が示されている。
a0087378_5482798.jpg その西側に、この堀跡の詳細が堀上げられている。この試掘の大きさは8m程度ではあるが、この状況と地籍図、それに実際の地形等から、住宅が立ち並ぶ裏道の道筋に沿って、それと平行に東西に走っていると想像を膨らませた状況が読み取れる。
 この堀が、先の調査地点南西隅まで続いているということなのだろう。


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 散歩を楽しむ者にとっては、このことから見え方が変わる。この調査区まで来たこの住宅が立ち並ぶ道筋を裏道とみていたのだが、裏道などというものではなく、この道筋が、元々の道筋で、地籍図にある道筋はこちらなのではないかと勝手な転換が起きている。


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 これは、その隣の試掘の様子だが、立て札がある白線で記された所が、検出遺構ということのようだ。
 広めの土抗は、確かめられてはいないが、井戸が想像されているらしい。
by shingen1948 | 2011-12-21 05:53 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)