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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:東湯野 ( 40 ) タグの人気記事

 半田銀山散歩に出かけるママチャリでのコース取りは、結構難しい。変則ギヤも付けてないものだから、等高線沿いの道筋や、水路沿いの道筋等を使って距離を延ばす工夫が必要になる。
 桑折に向かう道筋には、うまい具合に西根上堰と下堰の二本の水路があるので、これ等を組み合わせてコース取りをするのだが、西根下堰から上堰にのりかえる地点が大体東湯野辺りになる。
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 その乗り換え中間地点辺りに、上岡遺跡がある。
 この位置については「再び上岡遺跡④~「雄性座像土偶」発掘地点を想像する」で整理したところだが、今回ここを通って、案内板が「うずくまる土偶」の発見位置に合わせた場所に変えてあったことに気がついた。


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 よかったなと思ったのは、報告書から土偶発見位置を推定して楽しんだその位置に近かったということもあるが、それよりも、少しゆとりができたのかなということだ。
 昨年7~8月にかけて、「再び上岡遺跡へ」として再度整理し直したのは、それまで県指定重要文化財だったのが、昨年6月末に国重要文化財指定に指定されたというニュースを見た頃だった。とりあえず「祝 上岡遺跡「うずくまる土偶」国重要文化財指定」ということで、整理し始めたのだが、この頃は、福島では放射能問題でそれどころではなかったという状況だった。この新聞報道でも、昭和27年出土のはずなのに、「市教委がこの土偶は52年12月の発掘調査で出土したと説明された」という誤りがあるなど、そこには余裕の無さも感じられた。

 それで、正確な報告書を探したら、昭和48年に再版された「上岡遺跡発掘調査報告書(東湯野村)」を確認する事ができた。何故かこの上岡遺跡地点を、下岡と三島神社の間の地点と紹介するなどの明らかな誤りもあったが、報告書自体は忠実な再版だった。
 「再び上岡遺跡」では、その報告書を元に散歩しながら整理した。

 よかったなと思ったのには、もう一つの理由がある。それは、次の二つの「上岡遺跡」の特色による弱点にならないかなと思ったことが払拭された事だ。
 ○ 昭和27年の発掘調査は、個人的な探求心から始まっているということだ。それが専門家による調査整理されていくという過程は辿るが、遺物や資料が個人の手持ちになったりする可能性があるということだった。携わった方の個人的なつながりでしか継続されないのではという心配も。
 ○ この地区は、行政区の変遷が複雑だったこととのかかわりで、うまく福島市という行政組織に引き継がれていったのかということだ。
 これ等の事から、経年によってだんだんうやむやになっていくのではないかと、頼まれもしないのに素人の散歩人の余計な心配をしていた事が解消したという勝手な思いも。
by shingen1948 | 2012-08-24 06:14 | 半田銀山 | Comments(0)

増田舘③

 「福島市の中世城舘」で、増田郷の増田舘は、築城者増田監物(東湯野概史)とし、その時期を元亀、天正年間とする。塩野目舘・上岡舘のそれは不明だとしている。しかし、その塩野目郷も大塚将監が総成敗を命じられているということでは、互いにかかわりある郷と見える。
 なお、、「福島市の中世城舘」では、塩野目舘が新田原条理遺構とかかわりあるように見ているらしいことと同じように、増田舘と増田条理遺跡との関係をにおわせるように感じる。これらの状況から、増田郷も塩野目郷も、古くから存在する集落の可能性が高いことを言わんとしているように思う。
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 そのかかわりある郷の舘の位置関係だが、かなり近くに感じる。
 増田舘を中心に、近傍の舘との位置関係を確認する。
 69が「増田舘」68が「上岡舘」67が「塩野目舘」66が「志和田舘」だ。ただし、「志和田舘」は湯野村になる。
 この二つの郷は、天正年間には統治者は一人なのに、少なくともそこに3つの館が400m位の間隔で並んでいることが気になる。どう見るのかということだ。

 互いにかかわりのある館と見るのだろうか。
 それなら、在地豪族の連合と見るのか、それとも別の見方か。
 「戦国の城」に、近年「村の城」いう見方が提案されたとの紹介を見る。それなら、在地豪族の館と村の城という役割の混在という勝手な想像もできるのか。定かでない分いろいろな空想が可能だ。

 なお、志和田舘をここに入れて整理しているのは、その舘自体や一角の地名「志和田」は湯野郷なのだが、この志和田の地名が東湯野、伊達にも広がっている。そのこととかかわりがあるものやらないものやらとの思いだ。

 大塚将監とかかわって、先の日本地名辞典「富塚(中世)」の項に次の解説もみる。
 戦国期に見える地名信夫【しのぶ】荘のうち天文段銭古帳に「しのふ北郷」のうちとして「一,五〆五百文 とミつか」と見え、5貫500文の段銭がかけられていることがわかる(伊達家文書/県史7)また「采地下賜録」によれば「富塚在家」が見え, 大塚将監の知行となっている(伊達家文書/山形県史資料篇15上)中通り北部、現在の福島市丸子字富塚前に比定される。
 ここにも「富塚館」という館らしきものがあるとさる。
 「福島市の中世城舘」の城舘一覧では、備考に冨塚右門(一統志)としている。館主と思われる。
by shingen1948 | 2011-08-30 05:58 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

増田舘②

 「福島市史」では、先に整理した「塩野目舘」のある塩野目村も、大塚将監が総成敗を命ぜられているという。

 市史では、中世の塩野目村について、天文7年(1538)の伊達稙宗による郷村段銭帳初出を紹介する。
 伊達にしね内「4メ(貫)550文しほの目村」とある。
 また、天文22年(1553)の晴宗采地下賜禄に塩目の郷として、「えんどう(遠藤)在家さんかう田、神社2貫文、せうし寺、堀内在家」が書きあげられている。増田村と共に大塚将監に宛てがわれていたとする。
 大塚将監は、塩野目之郷の総成敗を命ぜられ、「其方知行之通、皆々守護不入たるべく」の特権を与えられ「永代相違あるべからず」とされたと紹介し、一方で、この時期に、同じ晴宗采地下賜禄に「伊達郡湯の村しほの目のうち云々」とあり、その境界は不明瞭とする。

 先の増田舘の散策では、館の北側のラインは意識していない。館の南側の境界線と館に向かう道筋に気を取られていた。
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 それで、今回はその北側のラインを意識して散策する。
 ここは、舘の東側と思われる地点だが、意識すると直ぐに、このお宅の左手奥の林がそれらしいことにに気づく。


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 ここは、そのお宅の南外側から眺めたところだが、ここが北側のラインなのだと思う。
 手前に用水路が流れてくる。
 その奥に林があって、これが北側のラインと重なるのだと思われる。


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 その北側のラインを西端から眺める。
 その境界は不明瞭だが、奥に見える林が東側の林で、ここと地形をもとに頭の中で北側のラインをイメージする。


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 先の散策の整理で、南側のラインも整理していなかったので、確認しておく。
 南側のラインは、東側から見ると、道沿いに高台になっているのが確認できる。


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 そこからやや斜めに林が走るが、ここを「福島市の中世城舘」の略測図ではその続きとみているように感じる。
 その折れ曲がる東端が、この辺りだろうか。


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 その林を南西方向から見る。
 先に自分で散策した感覚と変わりはない。


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 そのラインの北西端がここだ。

  居館は1町を一辺とする方形居館をイメージするのが基本らしいのだが、北側にある先に土塁と勘違いした形状は、今も気にはなっている。
by shingen1948 | 2011-08-29 06:24 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

増田舘

 「山形宮城福島の城郭」では、312に上岡舘を、324~326に塩野目舘、下岡舘、志和田城を、345に増田舘を分類する。ここで、増田舘の所在を湯野としているは誤りだろうが、気になるのは、下岡舘だった。
 「福島市の中世城舘」で、上岡舘をニ連の可能性もあると指摘しているのが、その下岡舘を含めて「上岡舘」とみているのかもしれないとも思う。

 この中の「増田舘」については、先に「近傍の舘遺跡②~再び上岡遺跡⑱」として整理している。
 この「増田舘」と近傍の他の舘と比べての特色は、この舘に関わりそうな資料はあるが、実際に発掘調査で城舘が確認されてはいないということのようだった。
 この時の整理では、その資料とのかかわりが中心だった。
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 略測図と地籍図を重ね合わせた図をもとに、もう一度散歩で確認するが、とりあえず「増田舘」について確認したことを再掲する。
 「福島市史」では、天正元年(1532)以降、西山城とのかかわりで大塚将監の采地とされたものと解説する。更に、「東湯野概史」をもとに、三島神社も、将監とのかかわりだとする。天正18年(1890)将監氏は、宮城県に移ったとする。

 この大塚将監が、「山形宮城福島の城郭」でいう増田将監と想像する。

 先の散策では、「福島市の中世城舘」の概測図の南側のラインは意識できているが、北側のラインを意識していなかったような気がする。また、この時には寺の駐車場付近の丘を土塁のかたわれかもしれないと思っているが、この概測図ではそれはない。

 日本地名辞典をもとに「増田郷」を整理したが、それも再掲して「福島市史」の在家についての解説を付け加えておく。
 ます田(中世)
 戦国期から見える地名。伊達【だて】郡のうち。天文段銭古帳に「伊達にしね」のうちとして「一,十仁〆四百仁十五文 ます田」と見え,12貫425文の段銭がかけられていることがわかる(伊達家文書/県史7)。「采地下賜録」によれば、当地の柴田在家・黒須在家が大塚将監に与えられ、守護不入とされている。
 「福島市史」が、その在家について以下のように解説する。
 ここにいう柴田在家にかかわって、現在地名として残る「新発田(しはた)」をそのかかわりとし、明治の初めまで地方の人は「しばた屋敷」という名を用いた事や屋敷のいぐねが残っていたと紹介する。
 黒須在家については、黒須姓の家の現存から、この地に定着した一族と見られるとする。

 南側のラインが意識できている事で満足しているが、北側のラインを意識することを中心に確認してみようとは思う。
by shingen1948 | 2011-08-28 05:04 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

「上岡舘」②

 「福島市の中世城舘」から読み取った「「上岡舘」をもとに、もう一度上岡舘の散歩を試みる。
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 まずは、略測図と現況、それに地籍図とから、西側に堀と土塁がイメージできるのだが、その南東の隅から確認する。
 土塁と堀がイメージ出来るこの道筋が一番気になる。その道筋を進む。


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 ここは、現況からその掘がイメージ出来る部分で、その奥に植え込みがあるが、そこに土塁をイメージしてみる。
 実は、この道筋を何度か歩いているのだが、これが堀と土塁と重なってイメージするものとは気づいていなかった。


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 北西角が民家の入り口になっている。そこから西側のラインを覗きこませていただくと、こんな感じで、確かに土塁を想像してもよさそうにも思える。
 道筋は、この民家の入り口付近でカーブを描くが、そのラインはこの土塁や掘に合わせたものらしいと思えてくる。


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 この民家の入り口付近から東に広がる果樹園が、一段低くなっている。これが掘の続きのようだ。


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 高速道路側からみると、この掘の続きらしき地形の続きに見えてくる。先の散歩では、ここを扇状地の名残川が自然につくり出した地形とみていた。それが、今は中世の舘の掘に見える。


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 この一段と低い地形は、北側にもう一つある。これも、扇状地の名残川がつくりだした地形だと想像したが、こちらは、そのままのイメージにしておく。
 ただ、その自然の地形を掘の役割を担わせていたことも考えられなくはなさそうだ。


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 この舘は、東北自動車道によって分断されるが、その東側のラインを北側から眺めてみる。こんな感じだ。


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 「福島市の中世城舘」が、地域の方から伺ったということで、掘を記すのはこの辺りだと思う。
 
 なお、この舘は、ニ連の可能性もあるとの指摘も気になる。
by shingen1948 | 2011-08-27 05:27 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

「上岡舘」

 この舘の近くには、「増田舘」「塩野目舘」「志和田舘」があるが、ここは唯一発掘調査が行われたところだ。
 ただ、その調査は、高速道路建築に伴うものであり、舘の全容解明のための調査ではない。従って、高速道路建築に伴って、現況ではこの舘は消滅したと勝手に思い込んでいた。それで、ここの散歩では、おおよその位置を確認して納得していたところがあった。
 そのことは、「近傍の舘遺跡~再び上岡遺跡⑱」として整理した。
 ところが、「福島市の中世城舘」を確認すると、現在でも遺構らしきものを確認しながら散歩することが可能であることが分かった。
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 この舘の略測図には、調査や現況から掘と土塁と想定される遺構が示されている。この付近の地籍図も示されているので、その図の特徴的な部分から主として掘と土塁が想像できそうなところを書き写し、その略測図に重ね合わせてみる。
 その図から、高速道路幅を消し去ってみると、こんな図になる。

 先の散歩で、この舘付近ととらえた写真は、案内板がいう「田屋の清水」の角からねらっているが、そこがこの図の「掘と土塁」と想定される南西の角だ。ここは、民家の境にあたるところで、その脇を道が走っていたことを想いだす。
 上岡遺跡の岡の南東端の部分で、標高80mの標高線沿いに走る西根下堰が北に回り込んで、その地形的な特色を感じさせてくれる所であり、位置的にこの辺りとの見込みは、大きな誤りが無かったらしいという事でもある。

 この図ではその掘りの続きと思われる地形は、先の散歩ではこの地が扇状地であった事に伴う名残川が作った地形と思い込んでいた。その北側の地形も同様だ。
 東側の掘りの続きらしい地形は、現在鉄塔が建っている付近で、ここは先の散歩でイメージしたことと一致する。

 この図で消し去った高速道路の部分が、発掘調査が行われた所だ。この路線幅のみが調査されたという。
 ここを、「福島市の中世城舘」で情報として補う。
 昭和47年の調査では、舘の整地層と土塁・空掘跡、それに舘の施設と考えられる掘立柱建物跡の一部が発見され、灰釉陶器も出土しているとのことだ。
 また、時代は不明だが井戸跡が発見されたとも。その井戸内からは、曲物、塗器、編物などの木製品が出土しているということで、その図も紹介される。
 この事によって舘の全容が調査されたのではないが、調査によって舘跡の存在は肯定されたということにはなるということらしい。

 先の散歩では、秋山氏の解説をもとに、以下のように整理していた。
 この調査で、東西160m南北105mの方形の城舘が確認されたとのことだ。
 この調査では、土塁・掘跡・井戸跡が発見され、陶器・木製品・漆器等も出土したとのことだ。秋山氏は、これに加え、柱根が残る柱穴の発掘と内黒土師器が出土も紹介し、鎌倉から室町時代の頃に機能した城舘跡であることが確認されたとする。
 なお、上岡遺跡とのかかわりでは、上岡舘遺跡は、下岡の地になるが、その地下1mから握用尖頭器が出土の情報もある。

 石器出土に興味の焦点を当てているのは、上岡遺跡が気になっていたからだ。舘中心の散歩をすれば、もっと明確にイメージできそうだということらしい。
by shingen1948 | 2011-08-26 05:19 | Comments(0)

塩野目舘③

 「塩野目舘」に関する記録等はないという。それといった特徴もなく、目立たない舘だ。多分、発掘調査が行われることもないだろうと思れる。それでも、痕跡らしい窪みや高まりを見ているといろいろ想像してしまう。
 少し範囲を広げて、この舘の周りにの遺構について確認しておく。
  
 「福島市の中世城舘」は、本舘付近の遺構として、「福島市北部条理遺構の湯野地区」と「外屋敷遺跡」を以下のように紹介する。
 本舘付近は、福島市北部条理遺構の湯野地区に隣接又は含まれた可能性が高い。また、本舘の東南には平安時代と推定される外屋敷遺跡が存在する。
 ただ、同誌は、「福島市北部条理遺構の湯野地区」を「志和田舘」の項に整理している。

 この「福島市北部条理遺構の湯野地区」については、先に「新井田条理遺構」あるいは、「にいだっぱら」として整理している。新しい行政区でくくると、湯野地区の遺構になるが、確かにこの遺跡にも近い。
 この「新井田条理遺構」の整理とつないでおく。「にいだっぱら」と表現するのは、秋本氏の「ゆの村」をもとに散歩したものだ。
 ○ うずくまる土偶⑤と「にいだっぱら」 
 ○ にいだっぱら②
 ○ にいだっぱら③
 ○ にいだっぱら④~「前野遺跡」・「志和田舘」
 この中で、基準点とされる一つ石から東西に補助線を引くと、確かに次の1画で隣接区域まで近づき、2画目で遺跡も含まれるという位置にある。

 「新井田条理遺構」として整理しているのは、増田舘にかかわって「増田条理遺構」を意識し、その対比として「にいだっぱら」を「新井田条理遺構」として意識したものだ。
 ○ 「再び上岡遺跡」にかかわる整理で修正すること~①条理制遺構
 これは、条理遺構については、「新井田条理遺構」と「増田条理遺構」について整理してきたが、市史に「増田地域の南方「壷石」東南一帯から伊達町にかけて条理制遺構の伝承がある」との記述を見つけての整理だ。
 ○ 増田村の条理遺構②~再び上岡遺跡⑳
 ○ 増田村の条理遺構~再び上岡遺跡⑲
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 これは、本当は中村新道(伊達街道)の東湯野停車場付近を確認するために撮ったものだが、ここに写るのが「外屋敷遺跡」あたりだ。
 この「外屋敷遺跡」は、中村道(伊達街道)と毛勝断層線上から中村道(伊達街道)を抜け、現在板谷内村の五叉路になっている地点まで延びる古い道筋と、上岡遺跡の稲荷前を通る道筋が板谷内村の五叉路に結ぶその間に囲まれた位置のようだ。
 ただ、昭和27年の「上岡遺跡」付近の遺跡としての遺物の散布地は、ここより西側の湯野地区に近いようにも思う。
 はっきりとは言わないが、自分が整理しているカテゴリーより古い時代を想定しているようにも見える。

 あらためて、遺跡データベースの「塩野目舘」を確認すると、この毛勝断層線上から横町を抜けて中村新道(伊達街道)に抜ける道筋を挟んだ位置を示しているように見える。
 もしも、「塩野目舘」が、「福島市の中世城舘」が示す位置だとすれば、もっと西側にずれるべきなのだとも思う。
 なお、ここは「上岡舘」からも400mと近い。
by shingen1948 | 2011-08-25 05:18 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

塩野目舘②

 雨の合間に、「福島市の中世城舘」の略測図と、自分でイメージした図を資料に、もう一度塩野目舘を確かめに出かけた。
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 これは、南西方向から法伝寺の観音堂の丘付近の地形を確認した所だ。右手が観音堂になる。
 ここに写る道を登って、それから果樹園の南端を登る。


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 その丘からは、略測図にあった南北に走る堀がみえる。
 この右手の丘の果樹園が舘跡と思われる。その風景と、自分でイメージした図を見比べる。この果樹園の南端の方に残る林は、崩された土塁がの名残だろうか想像してみる。


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 先の観音堂は、下方に見える。


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 堀に降りて、南側に向かって撮ったこの写真が、実際に感じている風景に近いイメージだ。


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 北端のあたりから北側を眺めるとこんな感じだ。図と見比べると、土塁が崩されて、平坦化した部分という感じだろうか。

 「福島市の中世城舘」では、この一段低い部分が、地籍図の字会田畑のほぼ中央に南北に細長い地割(水田)と重なり、北端から東へもほぼ同じ幅の地割(畑地)が延びるこの地形も、掘跡と推定しているようなので、自分の感覚とも一致する。
 地籍図では、この地割の内側に並行して細長い地割(林)が読み取れることから土塁跡と考えられるようだ。それは現況ではない。

 先に資料なしで散歩して、地形の観察から遺構らしきものを探ろうとしたが失敗したのだが、その訳が分かる。
 東側の舘らしい遺構の痕跡は、少ないようなのだ。
 「福島市の中世城舘」では、地籍図に字会畑の東の字横町や南側の字上町には同様な地割が見られないこと、東と南は一段高台になっていること等から、こちらには掘や土塁を構築されなかった可能性を指摘している。

 資料なしで、遺構を見つけた時の満足度は強いのだが、何度も足を運ぶ事になる。
 今回は、それでも確認できなくて資料を元に散歩した。
 満足度が落ちるかというと、そうでもない。イメージ通りの風景が目の前に現れた時には、それなりの感動がある。しかも、その確からしさに不安がない。不安がない分、安心して自分のイメージをふくらますことができたような気もする。

 なお、「福島市の中世城舘」では 舘の規模は、東西90~100m南北130~140mと推定しているらしい。また、「東湯野慨史」では、舘の南木戸と推定した通称「たての坂」の修理をした際に、石の階段らしき敷石が発見されたとかという情報が記載される。
by shingen1948 | 2011-08-24 06:09 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

塩野目舘

 上岡遺跡にかかわる散策の中で、「志和田舘」「上岡舘」「塩野目舘」「増田舘」についてふれた。 これらは、歴史的なことはよく分かっていない名もない舘だ。こういう舘は、本格的に調査されたこともないので、その輪郭も曖昧な事が多い。だから、土塁らしきもの、空掘らしきものの一部にでもふれることができると、何となくイメージできたような錯覚に陥って感動する。それが何とも楽しいものなのだ。
 その見え方が、後で専門家の見方と違ったと分かっても、それほど気にはならない。

 落ち着きが悪いのが、どう見ても何もイメージできない舘だ。
 それは、自分の修行が足りないせいなのか、遺構が破壊されてしまったのか、それとも最初から違っているのか等々いろんな原因が考えられる。

 今回の散策で「塩野目舘」が、その落ち着きの悪い舘だった。
 位置的には、マホロンのデータベースに基づいて確認したが、何をどうみていいのか分からない状態だった。
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 「福島市の中世城舘」に「塩野目舘」の項があった。
 この舘の築城者や年代などの詳細不明は分かっている事だが、欲しいのは地形をどう見るかという事のヒントだ。
 ここでは、城郭とかかわる現況の略測図とその付近の地籍図が掲載される。地形の見方の参考になるのは、城郭とかかわる現況の略測図だ。確認すると、先の散歩では、地形的に曖昧な位置からこの舘を捉えようとしていたことが分かる。
 法伝寺の観音堂の丘に登っていれば、容易に推測できたことが分かる。今思えば、この寺は古くから塩野目村の寺だったようだ。それを、新しく分離された方の墓地が気になって、そちら側から眺めていた事でよく見えなかった事ということのようだ。
 この図は、略測図を元に、地籍図から城郭の輪郭とのかかわりが想像できそうなを重ねてみた図だ。
 天候が回復したら、略測図とこの図を持ってもう一度散歩してみたい。略測図から現在見えるであろう地形の状況を想像し、そこに、地籍図から想像できる城郭の輪郭の想像を重ねてみる。こんなイメージになるような気がしている。
 今度は、収穫がありそうに思っている。

 なお、カテゴリー分類だが、詳細不明の舘なので、分類しにくい。増田城が、伊達氏とかかわりそうなので、「上岡舘」「塩野目舘」「増田舘」共に、その近くの舘ということで、「伊達氏」とかかわるカテゴリー分類にしておくことにする。
 「志和田舘」は、言い伝えに従って、奥州侵略にかかわる時代のままにしておくことにする。ただ、伊達晴宗の「采地下賜禄」に、「しハた屋敷」と記されるともあるので、一括しておいてもよさそうにも思う。
by shingen1948 | 2011-08-23 05:23 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 確認していくと、昭和27年の上岡遺跡の発掘は、地域の力が一つに結集されたことが、その特色の一つと感じている。しかも、ごく自然な形で進行したようにみえる。

 まず、地主の方が興味を持ち、新聞記事が言う「地元の民間考古学者」の方に相談する。
 その「地元の民間考古学者」の方は、中学校に出向く。その相談相手の鈴木氏は、社会科を担当される方だったのだろうか。確実ではないが、出身校の大学に相談されたのではないかと思われる形跡を感じる。
 それらの経緯があって、本格調査の必要性を確認するようだが、その調査依頼の中心が、地元学校の校長先生らしい。
 ここまでの確認でも、学校が地域文化の発信機能を持っていたように感じる。
 それで、東湯野中学校を確認したところだ。
 地元の力が、地域文化の相談発信機能を持っていた学校などを通して結集し、本格調査につながったとみる。

 この本格的調査で、立案全面的指導は、県の梅宮氏が行うが、この地域の調査をしたり、考察をしたりするという具体的な調査は、信夫高等学校の教諭であった秋山氏が担当するようだ。
 氏が地元に詳しい方ということもあったろうが、学校もまた地元と結びつきが深かったのではないかと想像する。
 恐らく信夫高等学校には、信夫郡地域の中心高等学校という意識があったように想像する。その誇りは、福島高校に対抗するということより、信夫郡のオンリーワンの高等教育拠点というイメージではなかったろうかと勝手に想像する。
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 確認していくと、これが福島県立福島工業学校の前身ということのようだ。
 この学校前を通りかかった日、元信夫高等学校は除染中だった。
 現在は、福島工業学校で、この学校のある地域は美しい町づくり指定を受けているらしいことが、看板から分かる。その隣には、市議会立候補者のポスターが掲示され、ごく普通に市議会選挙が行われた。その中で、学校は除染作業中というのは、個人的には日常の普通の生活と思わない。

 それはさておいて、福島市と合併後、オンリーワンという意識が、工業学校という選択肢にたどり着いたのではないかと、勝手に想像する。

 東湯野地域の地元高校という意識では、飯坂の高等学校だろうが、昭和27年当時は、ここは、信夫高等学校の分校だったようだ。先にもふれたが、独立して飯坂高等学校に独立し、暮坪山にされるのが昭和35年のようだ。
 それが、北高等学校となって現在地に移転するという経緯のようだ。

 今は、高等学校は、広域化し、その価値が大学進学率に大きく傾いている。今の高等学校は、学校の範囲で自己完結している組織だが、当時は地元意識とのつながりの中にあったらしい。
 そういう意味で、信夫郡の消滅も確認しておく。
 昭和43年(1968)10月1日 吾妻町が福島市に編入され、信夫郡が消滅する。
by shingen1948 | 2011-08-12 06:53 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)