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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 ニセ作曲騒動の情報は、自分とかかわりのないワイドショーをみる感覚で接していた。
 それが、自分の散歩とかかわっているらしいことに気付いたのは、「佐村河内さん作曲担当の本宮『市民の歌』白紙へ【福島民友(2014/2/6)】」のニュース
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140206-00010000-minyu-l07
 このニュース自体は、本宮市民の歌「みずいろのまち」の作曲の話。
 しかし、その作曲依頼の経緯に「佐村河内さんが1997(平成9)年に、もとみや青年会議所が企画した映画「秋桜(こすもす)」のテーマ曲を担当した縁もあり、昨年11月下旬に佐村河内さんに作曲を依頼することを決めた」とある。更に、情報の後半に「関係者によると、佐村河内さんは、映画「秋桜」のテーマ曲を作曲した時期から、別人が作曲を担当していたとされている。」とある。

 気になったのは、映画「秋桜」ともかかわっているということだ。
 映画「秋桜」とかかわるのなら、先に「本宮映画運動」とかかわって本宮附近の散歩を整理したことともかかわるということだ。
 「本宮映画運動」は、「映画会社がいい映画を作らないなら、われわれの手で」と町の母親たちが自力で資金を集め、近代映画協会の協力を得て映画「こころの山脈」(66年公開)を自主製作したというものだ。単なる映画教室を越えたこの運動は全国でも注目され、製作された映画もブルーリボン賞に輝いたのだとか。
 このことを、まだ残っている古い映画館の風景を基に「本宮映画」として整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/8095266/
 その時に、本宮方式映画の二代目の本宮方式映画があるというコメントを頂いた。その映画が、「秋桜~コスモス~」という作品だ。
 この映画自体はみていないが、その時に気になっていた造り酒屋の煙突のある風景が、そのままこの「秋桜~コスモス~」の舞台にもなっているということのようだった。
 それで、「秋桜~コスモス~」とかかわらせながら、その風景を「造酒屋の煙突」として関連付けて整理していた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/8100747/
 この「秋桜~コスモス~」の音楽が、今回騒動の佐村河内さんとかかわるらしいのだ。
 この映画「秋桜」とのかかわりについての情報を「『口ずさんだもの譜面に』佐村河内さんの“本宮市民の歌”【2014/2/7】」というニュースの後半に見つけた。
 http://www.minyu-net.com/news/news/0207/news3.html
 もとみや青年会議所(JC)が企画した映画「秋桜(こすもす)」(1997年)のテーマ曲を担当した佐村河内さん。当時を知る同JCのOBによると、映画監督が佐村河内さんを連れてきたという。何度か一緒に食事をしながら話していて「耳は聞こえていて、直接会話した。一生懸命曲を作っていて、あやしい感じはなかった」と振り返る。
 映画に携わった同OBの鈴木福太郎さんは「テレビに出演する有名な作曲家になっていて驚いていた。今回の問題で、映画自体にも影響しないか不安」と話した。

by shingen1948 | 2014-02-11 07:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_5313015.jpg このフレームは、俳句に詳しい方にとっては関心が薄いことが多いようだ。子規の旅を紹介する本では、「本宮、南杉田などを経て、24日に福島に着いている。」というような紹介になる。
 しかし、ここに名所旧跡もないことや芭蕉が省略した世界であることを知っていながら、子規は、わざわざ「本宮、南杉田などを経」ている。ここで子規が目にし、表現したことに興味があった。

 それが、洪水の傷跡だ。
 数年前の洪水の傷跡が残って、今も昔の姿に戻っていないことに触れる。水の跡が門戸蔀などに残っていて、惨状聞くもおそろしいと。
 本宮市のホームページ「旧本宮町のあゆみ」によると、明治23年(1890)8月7日に未曾有の大洪水があったようだ。そこには、次のように記録される。
 
流失戸数111戸、潰家2850棟、水田冠水80町歩、畑冠水20町歩、被害総額221700円

 この年表には記載されないが、これ以前にも明治14年、18年、22年と洪水が続いているとも聞く。その上に、この未曾有の洪水があったということのようだ。子規がここを訪れるのは、明治26年で、この「数年前の洪水」から3年後だが、その傷跡がまだ残ったままだということだ。
 感心するのは、そういったこの土地独特の風景を嗅ぎ取っていることだ。

 この村は、地形的に阿武隈川に流れ込む安達太良川などの支流が交わるところにある。したがって、水害に遭いやすい土地柄で、毎年のように水害は繰り返されているわけだ。  
 この水害とその対策とかかわる風景は、今でもこの土地独特の風景として残る。
 この事については、先に「本宮水害対策 舟使用の意識の根底」として整理してみた。
 地元の方ののブログで、最近の大水害に遭った年の記録をみた。
 昭和16年・昭和24年<二つの台風>・昭和25年・昭和53年<水位・5.22m>・昭和61年<水位・8.48m:床上床下浸水した家1031戸>平成10年。
 この中で、阿武隈川の水位が異常だったのが昭和61年と昭和16年とのこと。

 
by shingen1948 | 2010-12-21 05:42 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 子規が「芭蕉が訪ねた黒塚」を訪ねるというフレームの切り方は、本宮駅に降り立ち、黒塚を訪れ、二本松駅までだと構想したのだろうと思う。
 「奥の細道」の中で、「芭蕉が訪ねた黒塚」は、浅香から一気にやって来る。その黒塚までの途中は描写されることなく省略されている。そこを、子規は、本宮駅に降り立ち、杉田の遠藤翁を訪ね一泊した後黒塚を訪れるという行程をとる。
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 「奥の細道」の本文では省略されるものの、実際には芭蕉一行もここを歩いている。子規は、その表現はされていないが、実際には歩いている芭蕉を感じながら黒塚に向かうという構想と思われる。
 ここは、奥州街道本宮宿を過ぎたあたりだが、ここを過ぎると現在も人家はなくなり、山裾の道を左手に広がる平地の中を歩く。このあたりは、東北本線が街道と平行に走っている。
 この道を、感覚を研ぎ澄ませて実際に歩くことで、芭蕉翁の思いを感じ取ろうとしているようだ。

 そこに名所故跡などがあるわけでもない。子規は、ただ200余年の昔、芭蕉翁がさまよったあとを慕って歩く。芭蕉もその足でこの道を踏んだであろうし、その眼でこの景色を眺めただろうと芭蕉が省略した世界を空想しながら歩いている。

 その人の足あとふめば風薫る(子規)

 その子規が降り立った「本宮駅」については、先に整理している。
 本宮駅は、今ではひなびた感じの古びた駅舎だが、古くは会津街道、相馬街道、三春街道の交点であり、鉄道の駅も早くから設置されていたとのことだ。

 ここを整理する時点では、野口英世が猪苗代から会津街道を歩いてきて、ここから東京に向かったことをイメージして整理している。子規がここに降り立って、杉田宿を目指して奥州街道を歩くことはイメージしていなかった。

 駅前の風景の一つ「造酒屋の煙突」を確認すると、この酒屋がここで創業するのが、明治20年ということで、子規もこの煙突のある風景を見ているようだ。
by shingen1948 | 2010-12-20 05:46 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)

安江繁家⑤

 二本柳宿に許可を出した、もう一人の石栗勘解由氏の名前は、本宮宿南町の創設にかかわってお目にかかっている。
 その事は、「本宮南町の建設~ちょっとだけ天地人にかかわる」で、ふれている。
 実際のこの町の創設にかかわるのは、小沼貞長氏なのだが、ストレートな許可の出し方をしていない。直接小沼貞長氏に許可が下りていないで、直江兼続知行充行状は、給人石栗将監宛てに出されている。
 その書状が、「企画展「天地人の時代―ふくしまと直江兼続―」に展示されていたので、それを整理し直している。
 ここでは、慶長6年(1601)5月9日付小沼貞雄家文書として展示された。説明の中で、給人石栗将監については、二本松城に500石との情報であった。また、間接的に石栗将監を通して免状を与える形式についても、当時はあり得る形式として解説されていた。
 整理した時には、ここで得た情報としているが、実際には旧本宮市の郷土史の資料から読み取れていた内容と変わりはなかった。
 それに比べれば、今回の安江繁家の情報との比較が楽しい。
 給人石栗将監氏が、二本松城の500石であり、安江五郎左衛門氏が、金奉行・東塩松郡代であり、知行も500石、同心馬上30騎、足軽100人を付けられたとの情報だ。
 見比べれば、おおよそ同じ条件であったろう事が推定できる。
 確実なのが、知行500石、一方の石栗が、二本松郡代、もう一方の安江が東塩松郡代ということだ。これは推定だが、一方に同心馬上30騎、足軽100人が付けられているというのであれば、もう一方もそうであったろうと思う。
 二本柳宿の許可の出し方に戻ると、仙道地区の西安達を任された二本松郡代石栗将監と東安達を任された東塩松郡代安江繁家の連名で、この二本柳宿開設の許可は出されていたという事だろうと思われる。
 なお、この二本柳宿開設にかかわる文書も、本宮宿南町の創設にかかわる文書も個人蔵文書であるらしい。
by shingen1948 | 2010-07-27 05:06 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)
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 庚申檀古墳案内板説明内容と今回の調査のまとめを比べてみると、その違いは、規模についての記述だろうか。
 その他の部分については、詳細なことまで明らかになったり、根拠が示されたりしたということだろうか。

 規模について、案内板では、「後円部径約30m、前方部削平残部約18m、高さ約5m」としている。
 今回の調査の結果をまとめから拾うと、そこが「墳長約35.5m、後円部直径約32m、後円部高約5m、テラス幅約1.4m、前方部長約5.4m、前方部前端幅約17m、くびれ部幅約15m、前方部高約2m」というふうになるだろうか。
 この古墳の形についても、この案内板風に表現し直してみると「帆立貝墳あるいは造り出し付き円墳で、南側に一部周溝が巡らされている。盛土と地山削り出しで形成されたものです。」というふうになるだろうか。
 その後に続けてみる。
 この古墳の円墳部のテラスより上部には、全面に葺石が葺かれていました。また、墳頂部とテラス部には円筒埴輪と朝顔型埴輪を樹立していたと考えられます。
 後円部頂には並列する2基の埋蔵施設があります。南側の埋蔵施設は、大きさの異なる3種類の河原石と粘土で木棺を包むという礫槨でした。ただ、上部が削平されていたためこの部分は確認できていません。
 棺の形は、刳り抜き式の舟形木棺であったようです。副葬品として、鉄剣、鏃・帯金具などの鉄製品が添えられていました。
 北側の埋葬施設は、主軸長約2.7m、幅約1mで、粘土のみで棺を包む粘土槨でしたが、詳細な調査は継続中です。
 築造年代は、円筒埴輪に黒班が見られないことや、二次調整の横ハケが見られること、更には、人物、動物埴輪が出土しないことから、同じ古墳群にある南ノ内の天王檀古墳(5世紀後半頃)よりやや古いと考えられます。
 また、副葬品の鉄剣の全長、柄の装着部分の長さが長いという特長からは、4世紀から5世紀中葉のものと考えられ、また、鏃の接合部が長い等からは、5世紀中よりも古いと考えられます。

 こんな感じだろうか。
 現在の庚申檀古墳案内板説明内容は、次のように掲げられている。
 本宮市指定史跡
  庚申檀古墳
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 規模・後円部径約30m、前方部削平残部約18m、高さ約5m
 位置・福島県安達郡本宮市字竹花
 この付近は、多くの古墳があって七ツ坦とも言われていたが、現在は庚申檀・金山・天王檀・二子塚の4つの古墳が残っている。
 この古墳は、竹花丘陵西端に、築造したもので、墳頂に庚申塔がまつられているところからこの名がつけられている。
 古墳は前方部の低い前方後円墳と考えられているが、前方部は削平されて一部のみが現存している築造されたときは、全長50m以上の規模を有していたと考えられる。
 墳丘には葺き石が残存しており周辺には埴輪片が散見され、埴輪を樹立した古墳であったことがわかる。
 築造年代は、古墳の前方部が低平なこと、円筒埴輪が、大きく、焼成に甘さが見られるものが存すること、埴輪片に二次調整の横ハケが見られることなどから、同じ古墳群にある南ノ内の天王檀古墳(5世紀後半頃)より古く、5世紀前半まで遡る可能性がある。

 昭和61年7月
 本宮市教育委員会

 地道だが、一歩ずつ着実に明らかになっている感じがする。
by shingen1948 | 2009-09-09 05:53 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 今年の調査地点でも、多数の埴輪が出土したという。また、主体部からは副葬品と考えられる鉄製品が確認されたという。
 今回の説明会では、その他の詳細不明な土器については未確認として、埴輪と副葬品が中心だった。
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 埴輪については、昨年もそうだったが、表土や盛土の層からの出土だったとのことだ。大部分が円筒埴輪で、朝顔型埴輪も一定量出土したという。
 焼成時の黒班(焼きムラ)は認められないという。このことは、年代特定の一つの方法であって、これがないということは野焼の可能性が低く、そのことで、古い時代の方の可能性を削るというふうに考えるらしい。
 年代を特定するのには、埴輪の表面のはけ目状の調整痕が大切らしい。
ここの円筒埴輪は、タテ・ヨコ・ナナメの調整痕が施されているが、特にタテに調整を施した後に横方向の調整が施されたれた埴輪が確認されているとのことだ。
 透かし(埴輪に開けられた穴)は、円形のみとのことだ。

 昨年の情報では、底部はタテ方向の調整のみが施されているが、上部ではヨコ方向の二次調整が施されているというのがあった。今年は、底径34㎝前後のものと、24㎝程度のものがあるという埴輪の大きさについての情報が加わる。


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 朝顔型埴輪も、肩部ではタテハケの後に、ヨコハケが施されて、頚部凸部帯が明確に突出する特徴だったという。
 昨年に発掘した遺物については、「庚申壇古墳説明会⑥~出土遺物」で整理している。
 天王壇古墳などから出土している人物や動物の埴輪が確認されていないことから、天王壇古墳よりやや古い時代を推定していることも変わりなさそうだ。


 副葬品については、昨年は、鉄製品7点が礫床の直ぐ上から出土していることから、副葬品を考えているとしていた。種類は、刀子・帯金具・工具等が考えられるとしていた。
 今年は、それを「出土した副葬品」として、これまでに出土したものが整理されていた。
 更に、副葬品の短剣・長頚鏃が主体とならない鏃の組み合わせから、5世紀後半を下らないとし、年代についても言及していた。
 「出土した副葬品」
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 ○鉄剣 (全長32㎝)        1点


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 ○帯金具(ベルトまたは馬具の一部) 1点


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 ○鉄鏃8点
 ※鏃には、有茎鏃(矢柄との装着部分の茎部が存在する形態)と無茎鏃(矢柄との装着部分の茎部が存在しない形態)と長頚鏃(茎部と鏃身部の間に長い棒状の頚部が加わる形態)があるということだ。
by shingen1948 | 2009-09-08 05:06 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
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 今回は、昨年と反対側の場所で、肩部からテラスにかけて、そして、テラスから墳端部までの部分が調査されているらしい。位置的には、「後円部第2」とあるところだ。
 なお、昨日整理したところが、「後円部墳頂」とある部分で、一昨日整理したところが、「前方部前端」とある部分だ。


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 これは墳肩の部分だが、構造として、テラスより上部が盛土になっているということなので、盛土の部分の様子だ。


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 これが、その下のテラスから上部の部分だが、散歩人としては、テラスよりやや上部の葺き石が盛り土に突きさすように張りつけてある様子が見れたことがうれしかった。


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 葺き石のようなものが存在しても、そこに葺き石があったと断定しないという説明があった意味が分かる。
 こここでは、この転落石が多量に存在することも含めて考え、後円墳上段の全面に葺かれていたと想像しているようだ。
 なお、この葺き石は、黒色土層より上の層に施されていて、古墳築造以前のものらしい遺構が見えるとのことで、この層は古い表土と判断したという。


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 これは、上部からみている。
 テラス部は、幅が約1.4mとのことだ。構造的には、このテラス部から下は地山を削り出して墳丘をつくっているらしいとのことだ。

 もう一つ気になるのは、埴輪だ。この写真でも、葺石に混じってその片が見えるが、その据え方は検出できなかったという。
 ただ、埴輪の多くが、墳丘の下段から出土しているので、このテラスに設置されていたという想像はしているようだ。更に、テラスの上段斜面からも出土することから、墳頂付近にも設置されていた可能性があるとしているようだ。


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 これは、墳端部分だが、地山の傾斜が変わる部分をもって墳端部としたようだ。こちらには、周溝は存在しなかったとしている。


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 ここに、藤田駅南西のニュータウン内公園展望台として復元された堰下古墳の写真を貼り付けて、葺き石が貼り付けられた円墳部をイメージしてみる。ただ、この写真の古墳ではテラスよりも下部も葺き石があるように復元されているので、その部分を消し去って。
 なお、この古墳については、「堰下古墳を訪ねる」として整理している。


 昨年、後円部の墳墓の様子について説明があったのは、東側の墳端から周溝にかけての部分だった。このことについては、「庚申壇古墳説明会③~後円部(墳端と周溝)」として整理した。
 昨年の「墳端から周溝部」と今年のその上部の「墳端部からテラス、そして肩部」までを、連続的に考えれば、具体的なイメージが深まったということだ。

 説明の意図とは別に、個人的にもう一つ印象的なことがあった。それは、この周溝の外側の斜面には黒い堆積土があり、ここから古墳期以前の土器片や石器片が出土したということだ。そのことは、この古墳の周溝を造るのに、この下層にあった古い住居跡の遺構の一部を壊しているということだ。
 この古墳は、その後長尾氏の館として使用されていたとも聞く。それなら、その時には古墳としての施設は、相当に傷ついただろうと想像する。更には、この長尾氏の館跡としての姿は、東北線の開通で分断されて破壊されるということになるようだ。ここは、そんな経緯の中でも、生き残っている景色だということだ。
by shingen1948 | 2009-09-07 06:03 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
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 後円部墳頂は、昨年も説明会が行われ、そのことをもとに、以下のように整理したところだ。
 〇 「庚申壇古墳説明会④~後円部(墳頂)」
 〇 「庚申壇古墳説明会⑤~後円部(墳頂)②」
 今回は、この時に残っていたベルトを除去して、第一主体の埋葬施設の形態と構造を確認したということのようだ。


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 さらに、その部分の土層を観察するために断ち割を3か所に入れたようだ。

 第一主体の埋葬施設の形態と構造については、昨年の説明の通りだ。
 遺体を入れた木棺は腐ってなくなっているが、小礫を敷いた上に置かれていたと考えられ、副葬品として、鉄剣や鉄鏃などが見つかっている。
 具体的には次のようなことだ。
 ○ ここは、木棺を覆う施設であり、その規模は、主軸長5.8m、幅2.4mとのこと。
 ○ 棺の形態は檪床の様子から舟形の木管であり、その規模は長さ約5m幅約0.6mであり、棺の両端は緩やかな弧をを描くと考えられること。
 ○ 棺は東西の方向に置かれ、副葬品の位置などから、頭が東向きであったと推定されること。
 ○ 施設は、人頭大の丸い石と粘土を用いて高まりをつくり、棺を置いた間にやや小さめの石を積めたようだ。木棺の下に敷かれた檪床との間に、その小石が検出されるということのようだ。


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 今年、断ち割を3か所に入れた成果が、主体部の構築順序の確認ということらしい。
 ①→② 平坦な基盤に、土を混ぜた小礫を一段3㎝程度の厚さに積む。
 ②→③→④ 両端の高まりの土台になる土を12㎝積み、その内側に棺の幅に合わせて赤茶色の砂土を盛る。
 ⑤ その上から棺の内部にかけて小石を積み、ここに木棺を置く。
 ⑥ 周りを白粘土で高まりを作る。両端は、人頭大の石で棺をおさえる。
 ⑦ ⑤の上にこぶし大の石を敷く。
 ⑧ 両脇の高まりの部分⑥に人頭大の丸い石を積み白粘土土で貼り付ける。

 ※ 現時点では、埋葬施設を設置するための堀込みは確認していないので、古墳に土を盛り上げていく途中に埋葬施設は造られていったと考えるとのこと。


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 今回はその北西側の第2主体部の形態や規模を確認しながら掘り進めているとのことだ。
その規模は、主軸長約2.7m、幅約1mとのことだ。


 昨日は、町頭遺跡現地説明会に出かけたが、こちらは庚申壇古墳説明会の整理が済んでから整理する。
by shingen1948 | 2009-09-06 05:50 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
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 今回の前方部の発掘調査点は、昨年の説明会の時に発掘していた地点の直ぐ隣の位置あたりのようだ。前方部の先端の位置とその構造を特定するということのようだ。


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 表土を出した後、更に掘り進めてその断面から土の積もり方を確認しているようだ。
 説明は、科学的だが、散歩人らしく整理すると、今回の調査区では、水平に堆積する層が確認できたので、盛土で墳丘が構築されているということのようだ。
 この盛土が、全面的に平らになるところを確認して、前方部前端として、昨年度の調査と矛盾がないことを確認したようだ。


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 散歩を楽しむ者にとっては、この古墳では、葺き石が気になるところだが、報告では、トレンチ内には存在しなかったとした。ただ、転落したと考えられる石は数多く検出されたという。
 遺物としては、円筒埴輪を中心に朝顔型埴輪や土器片が約200点出土したという。

 簡単にいえば、葺き石にしたと思われる石は、上部から流出してきたもので、ここに葺き石をした可能性は少ないということのようだ。埴輪片もあちこちに見えているが、これらも置き場所についての確認はされなかったということのようだ。

 なお、完全な形の円筒埴輪や朝顔型埴輪は、本宮市の歴史資料館でみれる。近くの天王壇古墳から出土したもので県指定の文化財になっている。また、大玉村の資料館には、谷地古墳(下舘跡)から出土した埴輪が展示されている。谷地古墳(下舘跡)は、大山小学校校庭南端の部分で、案内板はない。

 この庚申壇古墳あたりは、天王壇古墳や金山古墳、二子塚古墳などと共に七ツ坦古墳群を構成して築造されているが、本宮市と大玉村の2つの行政区の堺になっていて、よそから散歩に来ると、分かりにくいことがある。
 なお、七ツ坦古墳群というくくりでの前方後円墳の中では、庚申壇古墳は形や埴輪から5世紀前半にまで遡り、七ツ坦古墳群の中では天王壇古墳よりも古い時代の古墳である可能性があると考えられているようだ。
by shingen1948 | 2009-09-05 05:57 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
a0087378_544216.jpg 8月23日(日)に本宮の庚申壇古墳第6次調査現地説明会が行われるということで出かけてみた。前日の桑折の西山城の現地説明会にも出かけたので二日連続だ。ちょっと疲れ気味。
 県文化財センター白河館では、もう次の日にはこの説明会の様子が知らされていた


 ここの現地説明会は、昨年9月6日(土)にも開かれている。この説明会の時にも来ている。その様子については、以下のように7回に分けて整理した。
 〇 「庚申壇古墳説明会」
 〇 「庚申壇古墳説明会②~前方部隅角
 〇 「庚申壇古墳説明会③~後円部(墳端と周溝)」
 〇 「庚申壇古墳説明会④~後円部(墳頂)」
 〇 「庚申壇古墳説明会⑤~後円部(墳頂)②」
 〇 「庚申壇古墳説明会⑥~出土遺物
 〇 「庚申壇古墳説明会⑦~説明会を終えて
 この古墳には、昨年の庚申壇古墳説明会について最初に書いたように、これ以前にも訪ねて整理していた。
 〇 「庚申檀古墳を訪ねる」
 〇 「庚申檀古墳②」
 〇 「庚申檀古墳③」
 〇 「庚申檀古墳」・「温石古墳」にかかわって

 この辺りは、縄文の遺跡・弥生の遺跡・古墳遺跡、そして、その時代の住居跡等の遺跡が豊富だ。資料を見つけるたびに、その位置を確かめる散策をしていたところだった。これらの遺跡は、残っている場合ても、景色としては単なる丘であったり耕作地であったりでしかない。ましてや、そこが破壊されるための調査が行われた地域の場合は、住宅やショップが建ってしまったり、あるいは道路になってしまったりしている。

 そんな中で、この発掘調査の現地説明会に出会えて想像を膨らませることができるようになったことがありがたい。こういった機会を利用して、景色の中に想像を膨らませるコツをつかんで、散歩の楽しみを深めたいと思っている。
by shingen1948 | 2009-09-04 05:46 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)