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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 「福島市史」では、郷野目の尾形家家宝「相撲軍配扇」の箱書きで、神尾又右衛門へ家督致すが、神尾五左衛門に家督を譲って帰農したことを示す根拠としたとのこと。神尾又右衛門=神尾五左衛門だろうか。
 前回は、堀田時代に神尾五左衛門に家督を譲って帰農したのは、神尾図書氏の子神尾主馬氏と想像したところだ。従って、「神尾主馬」氏から家督を譲られたのが神尾五左衛門氏ということになり、この方が尾形家初代としているようにも読み取った。

 最近老いを感じる散歩人としては、この場合「神尾主馬」氏が眠る所はどちらかが気になる。多分、神尾家の跡を継いだという神尾五左衛門氏の手配だろうと思う。ならば、尾形家の墓地に眠るということか。
 「すぎのめ」の中に「尾形家の墓所は郷野目の旧墓地として、昔は常光寺が方木田のこの辺りにあったといわれる畑の一角」との情報を見たことがある。方木田散歩中、定紋のある門柱の建つ尾形家墓所を旧方木田墓所の道路を挟んだ畑に見たことがある。ここがかかわるのかどうかは確認していない。

 ただ、「堀田相模守の家中神尾五左衛門へ家督渡す」の堀田相模守が神尾図書氏で家督を渡されたのが「神尾主馬」氏であり、この方の時に尾形家と縁を結んだという風に読み取れなくもない。ならば、尾形家初代は「神尾主馬」氏=「神尾五左衛門」=神尾又右衛門と読み取れなくもない。

 もう一つ気になるのが、郷野目尾形家は禄高500石の家柄の部分。これは、堀田氏から「神尾主馬」氏に与えられた禄高と見るべきだろうか。その堀田氏の福島時代を確認する。
 堀田氏(10万石)は、貞享2年(1685年)に山形から実質5万石といわれる福島に入部する。そして、再び山形に戻るのが元禄13年(1700年)1月だ。
 ここに、今まで整理したことを時間軸を意識して重ねてみる。
 芭蕉一行が神尾家へ来訪するのが元禄2年、神尾図書氏の夫人が没するのが元禄5年、そして、父である2300石神尾図書氏が没するのが元禄8年だ。堀田氏は、まだ福島藩主だ。
 家督を譲って帰農した方が曖昧だが、少なくとも元禄8年からこの禄高で「神尾主馬」氏が生計を維持していたということなのかもしれない。あるいは、帰農する際に与えられた碌なのかもしれない。堀田氏の他の経済的な情報との絡みでみると、この事と帰農の選択がかかわっているように思えなくもない。
 いずれにしても、尾形家との縁を結ぶ選択は「神尾主馬」氏が行っているはずだ。一般庶民から見れば裕福な生活のままではあるが、「神尾主馬」氏自身にとっては、家老の生活から碌高500石の生活へという落差を経験し、帰農と嗣を絶ち尾形家と縁結ぶ決断をするという波乱万丈な人生だったと感じているのかもしれないなとも思う。
by shingen1948 | 2016-09-09 18:35 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 前回は、福島の「神尾図書」氏が、堀田氏の2300石の重臣であったことや、その子「神尾主馬」氏が嗣を絶ったということについての確認をした。この事と福島での尾形家の言い伝えの記録がつながるということのようだ。
 言い間違いを入れ替えて再掲すると次のようなつながりとのことだ。
 郷野目の尾形家は、方木田の辻乃内の尾形家から郷野目の神尾家に婿養子に入った。その時の約束で、以来、姓は尾形を名乗ること、ただし定紋は神尾の定紋を用いることを条件とした。
 これに「福島市史」が、郷野目尾形家が禄高500石の家柄で、堀田時代に神尾五左衛門に家督を譲って帰農したことを示す根拠とした郷野目の尾形家家宝「相撲軍配扇」の箱書きの出だしにあったという「五百石の百姓なり。堀田相模守の家中神尾又右衛門へ家督致す。本家尾形庄右衛門、同庄吉は兄弟なり」という情報を重ねる。
 この文脈で行くと、「神尾主馬」から家督を譲られたのが神尾五左衛門氏ということになる。
 「福島市史」では、芭蕉一行が訪ねた郷野目村神尾氏は、この五左衛門に符号するとしているとする。
 それを受けて、「ふくしまの歴史(近世)」では、芭蕉一行が郷野目村神尾氏を訪ねた事について次のように解説している。
 芭蕉はその日(5月1日)のうちに郷野目村の神尾氏宅を尋ねて1泊の宿を願おうとしましたが、残念ながら五左衛門は江戸に上っていたため、神尾氏の夫人と母堂(五左衛門の母親)に挨拶をして福島町の旅籠に一泊しました。このことは曽良の日記に書かれています。

 しかし、神尾氏側からの視点で眺めてくると、芭蕉一行が訪ねた郷野目村神尾氏は「神尾主馬」氏でも不自然ではなさそうに思えてくる。
 「ふくしまの歴史(近世)」でも、「芭蕉は神尾家の夫人や母親とも顔みしりではないかと推察されます」とある。そして、この日も郷野目村神尾氏は江戸に上っている。
 更には、神尾図書氏没年は元禄8年で、その夫人没年が元禄5年のようなので、元禄2年の芭蕉一行神尾家来訪の折には、神尾図書氏も神尾主馬氏も御健在が想像されないだろうか。
 堀田氏の2300石の重臣神尾図書氏とその子が、江戸に出かけて福島を留守にすることがあるのも自然だし、その奥方が江戸の風流人と知り合いであってもそれほどの不自然さはなさそうに思うのだが、……。

 単なる福島の散歩人の感覚では、曽良氏が入江野村中村氏と共にメモっていた福島郷野目村神尾庄衛門氏は、神尾主馬氏ということも可能性のある想像範囲かなとも思うということ。
by shingen1948 | 2016-09-08 09:31 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 西在への道筋へつながる里道を確認していながら、頭のどこかで「松葉」にこだわっている。というのは、方木田村にかかわる郷野目側の情報に、以下の紹介を見たことだ。
 そこに、今年の秋、現大森川(荒川)で鮭の遡上を見たという情報を見かけたことも重なっている。
 荒川(現大森川)沿いに歩を運び、松葉梁場跡に着く。当初常光寺のあったところで(?)竹林があり、明治時代までは、狐が出たといわれている。川幅が広く深さもあり、大正昭和のはじめまでは、子どもたちの夏の水泳場として親しまれたところ。ここで遊んだ人もまだ多いことであろう。当時を追想して、……。
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 「当初常光寺のあったところで(?)」という部分が、昨日整理した「西在への道筋~里道⑧~方木田附近散歩⑮」の「松葉閑居東堂」にかかわることのようだ。また、「竹林があり、明治時代までは、狐が出たといわれている。」という部分が、「西在への道筋~里道⑤~方木田附近散歩⑫」で整理した「松葉の狐」の世界のイメージに重なるようだ。
 その位置だが、この情報だけだと、馬川、大森川、荒川?の3つの川が合流する附近のようにも思われる。

 ただ、殆どの情報は、このヤナ場の情報とセキ止めの話がセットになっている。「方木田物語」では、以下のような紹介。
 ヤナ場は本方木田の南、郷野目村境を流れる荒川にあった。荒川は大正末期まで鮭(さけ)や鱒(ます)が上がってきて魚が豊富であった。
 元禄15年村差出帳に小物成「荒川小あみ礼御役銭永150文」とある。川魚を取るにも年貢がかけられていた。
 田植期になると、郷野目村の人達が来て、セキの上に石詰の俵を積みあげて水をセキ止めて用水をとった。セキ止めが終わると鰊(にしん)一束と酒2升を持って本方木田に挨拶に来た。今は改修されて俤(おもか)げはない。
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 この情報と重ねれば、現在の「セキ止め」位置より上流ということのようにも思える。改修による位置の改変があったとすれば、太平寺村側に水路の痕跡らしきものが残るのは、ここから馬川、大森川、荒川?の3つの川が合流までの中間地点辺り。おおよそ、その辺りがヤナ場候補地かな。

 なお、2010年頃、阿武隈川漁業協同組合の人工孵化場で10万尾を超える稚魚を育成し、次年度に摺上川・荒川・阿武隈川本線に放流するという情報があった。現大森川(荒川)で鮭の遡上は、この事ともかかわるのかも知れない。
by shingen1948 | 2013-12-29 06:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 直接確かめていないが、常光寺の寺伝には、天正年中方木田村に松葉閑居東堂という道場を設けたとあるのだそうだ。半沢氏の「歴史地図」では、東北本線と会津街道の間位に常光寺松葉閑居東堂がプロットされ、「天正18年10月家康、秀次宿陣か」とメモされる。その位置が曖昧であり、メモの語尾に「か」とついていることから、史実としての確からしさの観点からも疑問はある言い伝えということなのだろうと思う。

 現在清明地区にある常光寺は、元々大森にあった寺で、文禄2年(1593)木村伊勢守重次が杉妻村を福島村に改め大森城から福島城に移った時に、常光寺は現在地に移ったとされる。その常光寺が、天正年中(大森城主が伊達實元の時代)に、その道場として本方木田に閑居堂を建てたとされているらしいのだ。
 その「松葉閑居東堂」を、「吉井田ふるさと再発見マップ」では、本方木田村へ向かう里道から西畑に向かう道筋を進んで西畑橋を渡る少し手前の東側にプロットする。
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 これが、そのプロットされた地点附近の様子。
 「方木田物語」では、「閑居東堂」の位置について以下のように記す。
 「場所は、本方木田の西、現在の西畑、前田の附近で荒川とうま川の合流地点の北側である。現在でもこの辺りを松葉と称している。西畑、石田は全部常光寺の除地で、前田の畑からは、花崗岩製の宝球が発見されている。」
 別所には、「この時の方木田の寺領が8字田畑宅地反別8町8反である」ことも記される。

 「この辺りを松葉と称している」というその「松葉」の原風景としての雰囲気については、先に「西在への道筋~里道⑤~方木田附近散歩⑫」で整理した「松葉の狐」の世界とイメージが重なるところかなと思う。
 http://kazenoshin.exblog.jp/19194513/
 「方木田物語」では、その方木田村の「閑居東堂」が福島村に移る経緯を次のように記される。
 文禄2年(1593)木村伊勢守重次が杉妻村を福島村に改め大森城から福島城に移った時、この閑居東堂も福島大学町(1丁目西側)に引移し的場山長安寺と称した。
(中略)
常光寺は、宗門人別寺として寛永16年長安寺と合寺して現在の所に移った。
 大きな視野では、木村伊勢守重次が、文禄2年(1593)杉妻村を福島村に改めて、大森城から福島城に移る時に常光寺も現在地に移ったという事。
 その途中経過として、まずは閑居東堂が的場山長安寺として現在の地に移り、寛永16年に大森の本堂が移動してきて合寺になり、現在の常光寺となるということらしい。

 「天正18年10月家康、秀次宿陣か」とメモされるのは、豊臣秀吉の奥州総仕置きにかかわる言い伝えとのかかわりらしい。
 伊達政宗の所領替え、奥州検地、南部九戸政実征伐等が行われるのに、蒲生氏郷を先陣とした10万の軍勢が8月6日二本松、翌日大森城下に宿営したとする。この時に、豊臣秀次、徳川家康、浅野長吉、石田光成等も下向したとすることにかかわるらしい。
by shingen1948 | 2013-12-28 06:44 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
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 本方木田村の東側の小字界道を進むと神社が見えてくる。これが淵上稲荷(ふじうえいなり)大明神らしい。
 「方木田物語」は、「昔、荒川(現大森川)が氾濫する度毎に畑が削られたので、それを勧進した神社」とする。 勧進の年月不詳。
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 その脇に「猿田彦大神」の石塔が建つ。
 「方木田物語」は、この猿田彦大神について、「猿田彦は神々の案内役として信仰され、峠や村境などに祀られているのが多い。天正以前太平寺から福島村に通ずる街道がこの神社を通っていたと伝えられている。その因縁か」と解説する。石柱には、宝暦8年(1758)が記される。
 ※ 猿田彦大神=日本神話の神。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に際し道案内をした怪異な容貌の神。のち、伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したという。日本書紀では衢(ちまた)の神とされ、中世には、庚申信仰や道祖神と結びついた。(大辞林)
 この情報と、以下の「信達ニ郡村誌」の里道についての解説の後半を重ねれば、この道筋から里道の小字辻経由小字東高屋に出て、1等道路に抜けて福島村に行くというイメージになる。
 辻之内の西南隅に於いて此道に支し、辻、高屋前を経て1等道路に達す。長8町35間、幅1間。
 此道とある前に記されるのが、今まで確認してきた里道である。
 東北本線の開通に伴う改変に都市化が加わり、現況では、こちらの里道は確認できない。更には、東北本線の東側は、昭和23年に吉井田から分村し、福島市に合併される。それに伴って、小字東高屋の東側の小字高屋前は消える。
 現況の位置的には、街道の向こうに第一中学校がみえる付近だろうか。このあたりから江戸街道につながる道筋だったのかな。

 なお、「方木田物語」では、淵上稲荷(ふじうえいなり)大明神には、己巳(きし)待碑について以下のように紹介されるが、こちらは見落とした。
 己巳(きし)待碑
 明和元年(1764)の建碑で、丸味のある川石の碑で、昔は村の若者たちの力自慢で担ぎあげて遊んだといわれている。

by shingen1948 | 2013-12-26 06:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
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 里道は、現115号線バイパスを横切り、南東方向に道なりに進む。その道筋の左手に分岐する道筋は、辺り一帯をアバウトに「松葉」と称する地区に入り込む道筋らしい。こちら側で気になるのは、「常光寺松葉閑居東堂」がプロットされることだが、そちらは後で整理する。
 今回は里道と記される右手の道筋を進む。この道筋は、本方木田集落を回り込む。
 これは、その本方木田集落の三社稲荷付近から振り返ったところ。

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 これがその三社稲荷神社。
 「方木田物語」によれば、その三社は、稲荷・山神・蛇王権現だとか。社前の目立つ3つの石碑は、足尾大神・妙見神・養蚕神・死観音供養碑。いずれも、明治期に建立されたらしい。

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 先に進んで、前田の防火用水の奥に見えるこれが、「吉井田ふるさと再発見マップ」にプロットされる「清水跡」。
 ここが、集落の共同井戸だったらしい。大正末期になると、各戸が井戸を掘ったことで、その役割を終えたということらしい。ただ、防火用水につながる小川が形成されているらしいので、まだ水が湧き出ているのかもしれないとも思う。

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 「吉井田ふるさと再発見マップ」に記される里道は、本方木田の東側の小字界の道筋とつながるように描かれる。だとすれば、この道筋が里道の原形に近いのかなと思う。
 ここから先は曖昧となるが、今回は、とりあず大森川を越える現況の道筋から太平寺村の集会所まで進む。

 実は4号線が混雑する時には、東北本線を越えて、こちら側の道筋に出て、東北本線沿いの道筋も混雑するときには、この太平寺村の集会所からこの道筋を経由して115号線バイパスに出るという使い方をしていたことを思い出した。
by shingen1948 | 2013-12-25 05:54 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 里道は、現115号線バイパスを横切り、右手に本方木田集落をみながら南東方向に進む。

 その道筋の左手だが、その辺り一帯をアバウトに「松葉」と称するらしい。「吉井田ふるさと再発見マップ」では「松葉閑居堂」がプロットされる。これは、常光寺が大森にあった頃の寺の道場跡との事だが「松葉」がつく。他に「松葉梁場」というのもあるようだ。この「松葉」という地域は、これといって何があるというわけでもないので、地元で特に解説される資料を見ない。この「松葉」の原風景の雰囲気を感じられる言い伝えは、お隣の郷野目地域側の資料。そちらから眺める。
a0087378_714172.jpg 言い伝えの「現南町と郷野目の境を流れる荒川の上流」とある「荒川」は、おおよそ大森川のことだ。それなのに話の中に「大森川との分岐点」ともある。巨視的に見れば現大森川と現馬川が合流するのだが、現馬川はその直前に北島から流れ込む川筋(荒川を原流かな?)と合流している。狭義でどちらが荒川になるのかは今のところ分からないが、そんな経緯のためと想像する。
 なお、現馬川の川筋は、古い資料では石田渠分渠の一つ。ここでいう荒川も荒川渠という見え方の影響のようだ。

 塩鮭紛失の場面は、この辺りの字界の状況が分かっていることを前提にしている。
 現115号線バイパスを横切った後の風景だが、現馬川は、この里道と会津街道の間を流れるのだが、その馬川と会津街道の間を方木田村と大森村の字界道が走っている。ここで「北島集落」とあるのは、その字界の大森村分会津街道沿いの集落を指すようだ。
 「松葉の狐」
 現南町と郷野目の境を流れる荒川の上流、大森川との分岐点の方木田側を松葉と称し今は開墾されて昔日の面影は止めないが、ここはうっそうとした森で、昼でも寂しい感じの場所であったらしく狐なども棲んでいたようである。
 もっとも近い集落が本方木田で、ここの某家はおばあさん一人暮らしであった由、冬は松葉に棲む狐が子狐を連れてコンコン戸を叩き、暖を求めたとか。情深い老婆は囲炉裏火で暖をとらせ、朝早く人目につかぬように帰す毎日を続けた由、たまたま年末に独り言のように毎日こんなに面倒を見たのだから畜生でも少しは恩を感じるだろうとつぶやいたところ、それから間もなく雪の夜、大きな塩鮭一尾をおばあさんの家の入口に置いていったものがあり、雪の上を引きずった跡があったと。狐が採暖の御礼におばあさんに恩返ししたのだろうと、作り話のようなことを子どもの頃、雪の夜話に年寄りによく聞かされたものである。
 また、この塩鮭がどこから運ばれたか、それには大森村の某が福島町から夜特別おおきい塩鮭を買って帰る途中、松葉から程近い北島集落附近で見慣れぬ女性に道を聞かれ荷を下ろして小憩した際かんじんの塩鮭が紛失したというつけたりがある。

 狐の出そうな風景ともとれるし、信夫の里の狐たちで整理したような寺の道場とかかわる宗教的な狐ともとれる。
by shingen1948 | 2013-12-21 07:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 昨日、本方木田集落とのかかわりで「本方木田古墳」を整理したところだが、先の「本方木田古墳」整理は、2009年7月。
 http://kazenoshin.exblog.jp/8609636/
 昨日の整理で、地元での呼称「オンジャ古墳」を推測できないとしたが、ひっよとすると「温石(おんじゃく)古墳」かなとも勝手に思うところもある。
 先に、大玉村の温石古墳を訪ねて、「温石古墳を訪ねる」として整理したことがある。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6648788/
 その温石(おんじゃく)にかかわっては、「杉田薬師」の案内板にあった「昔、温石を掘り出しよく売り出された」という解説からの類推を「もう一つの奥の細道」26~黒塚⑥~省略された風景」の中で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11771771/
 ここでいう「温石」は、昔石を温めて真綿や布などでくるんで懐中に入れ、胸や腹などの暖を取るために用いた道具だ。大玉村の「温石(おんじゃく)古墳」もこのこととかかわるのかなともみたが、本方木田古墳もまたしかりと思うのは飛躍しすぎかな。この古墳に凹みがあるという情報もあったなと我田引水気味。
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 「吉井田ふるさと再発見マップ」にプロットされる「聖塚」は、なかなか見つからなかった。ようやく見つけたが、その言伝えを記すものは「方木田物語」の以下の言伝え紹介ぐらいかな。
 聖塚(ひじりつか)
 高らん場(古墳)の西、300m位のところ、辻の内の境で、畑の片隅、本方木田47番地に聖塚と称される一坪ぐらいの笹と雑木に覆われた塚らしきものがあった。昔は上人塚、法人塚等と呼称されていたらしい。祟り(たたり)のある塚であると言い伝えられていた。近頃、バイパス線の開通に伴い急に開発され近代商社の並ぶ地帯と変わった。塚の所有者が、近頃この塚に五輪の塔を建て、被葬者を供養した。聖塚は五輪塔と共に残った。
 この被葬者は、平安初期遣唐使と共に唐に入り帰国後奈良にいたが、のち陸奥の地に出向き行方不明になった聖で、ここまで来て野垂れ死にしたのを村人が葬り墓をつくったという話がある。
 聖とは既成の教団から外れ離れて隠遁修行し、民衆教化に努めた僧をいう。
 (以下略)
 現況は、塚が消滅して五輪塔も撤去され、囲いの中にひっそりと石碑が建つのみ。
 近代化とのせめぎ合い中かな。
by shingen1948 | 2013-12-20 10:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
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 この左手の道筋が、里道の白家(バッケ)と前白家(バッケ)の小字界の道筋だろうと想像している道筋だ。この道筋は下り坂になっていて、前白家(バッケ)から沢道のごとく河床へ下って行く道筋と交差する。
 その交差点に名号の石塔が建っている事について昨日の整理でふれた。
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 その交差点がここ。
 前白家(バッケ)からの沢道のごとく河床へ下る道筋が、手前の道筋だ。この道筋を確認しておくのは、一つは、この付近の地形的な特徴を確認する道筋であることがある。しかし、それだけではなく、佐原道(※在郷道)とのかかわりを認識しやすいということもある。
 この道筋を南に進むと佐原道(※在郷道)が交差する地点あるのだが、ここに方木田集会所が案内される案内板が建つ。自分にとっては、方木田集会所の案内は、稲荷塚古墳の案内でもあって、地域の中に稲荷塚古墳をイメージする道筋でもあるという意義も付加されるということでもある。
a0087378_714415.jpg さて、昨日は「佐原道(※在郷道)と十字を為し、斜めに南に赴」く附近までを整理したが、ここから右手に馬川の水路を見ながら南進し、「会津街道(※山王道)と十字を為す地点まで道なりに進む。

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 ここが、その「会津街道(※山王道)と十字を為す」付近だが、この辺りが小字氷屋附近。「信達ニ郡村誌」の学校にかかわる情報では、方木田村は、郷野目村、太平寺村と共立の小学校を永屋平民高野菊次郎宅に仮経場を設置するとある。
 永屋の高野姓を確認すれば3軒ほどあって、今のところ具体的に「信達ニ郡村誌」がいう高野菊次郎宅=方木田村、郷野目村、太平寺村共立小学校の位置は分からない。
by shingen1948 | 2013-12-13 07:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 直接的な西在への道筋は、佐原道(※在郷道)、会津街道(※山王道)だが、方木田の各所を結び、この道筋につながるための道筋があるわけで、その中でも里道は主要な道筋であるようだ。
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 「信達ニ郡村誌」に解説される里道は、「西部赤沢と白家(バッケ)の間より起こり、南に赴き佐原道(※在郷道)十字を為し、斜めに南に赴き、会津街道(※山王道)と十字を為し、紆余として郷野目村に入る。」が、ここは、その西部赤沢と白家(バッケ)の間より起こる付近から、南に白家(バッケ)に進む辺り。
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 最近気づいたのだが、この道筋の白家(バッケ)と前白家(バッケ)の小字界付近に、この里道から左の沢に降りて行く道筋があること。その小字界道を下っていくと、地形的に白家(バッケ)から赤沢にかけての沢道風の道筋と交差する付近に名号の石塔が建っている。
 散歩としては、その道筋が白家(バッケ)と前白家(バッケ)の小字界の目印になる。その地点を少し進むと、現在の感覚で旧115号線(旧土湯街道)である「南町佐倉下線」と十字を為す付近に出る。

a0087378_1736343.jpg その道筋を横切って真っすぐ南下すれば、「佐原道(※在郷道)と十字を為し、斜めに南に赴」く附近に出る。これがその十字を為す付近の様子だ。
 ここから道なりに進むと、右手に馬川の水路を見ながら南進し、「会津街道(※山王道)と十字を為す地点に向かって進む。
by shingen1948 | 2013-12-12 17:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)