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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:戊辰戦争 ( 55 ) タグの人気記事

a0087378_6233993.jpg 会津に来る時には殆どいつも立ち寄るヨークベニマルの近くに、この道標が建っている。
 西面に、「向 右 若松市ニ至ル約十二町」 「左 大寺及猪苗代方面ニ至ル」が紹介される。これが二本松街道の紹介のようだ。

a0087378_6255395.jpg 南面には「向 右 長原村ヲ経テ戸ノ口方面ニ至ル」、東面には「大正9年2月1日建立」、北面に「郷之原青年会」が刻まれる。
 写り込んでいるのは 「左 大寺及猪苗代方面ニ至ル」方面の風景だ。

 実は、この道筋自体も、結構馴染みのある道筋ではあったのだが、これが「二本松街道」の道筋ということを意識してはいなかったし、この道標にも気づいてはいなかった。

 特異点付近では街道筋を意識するのだが、それを連続的に意識しているわけではない。
 旧市内では、「白河街道」が「札の辻」から東に六日町を目ざし、そこから北に博労町(相生町街)→養蚕国神社と進むその手前で「二本松街道」が分かれるあたりは特異点付近として意識している。
 しかし、この辺りまでくると、二本松街道を意識してはいなかったのだ。

 意識させられたのが「街道web」の「二本松街道・郷之原」のページだ。
 この道標が紹介されているのを見た時に、ここは見慣れた風景なのに、そこにこの道標を見ていなかったという据わりの悪さだ。
 http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/nhm/24.htm
 今回はその据わりの悪さ解消のための確認だ。

 今までなら、今回のようなスポット的な確認をしても、線としてもある程度見えてくるまで整理するのは待った。それを、今回はとりあえず整理しておこうと思ったのは、そのままになってしまっている事が多いなと感じているからだ。
a0087378_634023.jpg 赤い線が、道標西面に紹介される「向 右 若松市ニ至ル約十二町」 「左 大寺及猪苗代方面ニ至ル」と紹介される二本松街道の道筋。緑の線は、南面に紹介される「長原村ヲ経テ戸ノ口方面ニ至ル」と紹介される道筋のつもり。

 二本松街道は、会津街道とも呼ばれる会津若松と二本松を結ぶ街道だが、これから先の大雑把な見方を確認しておく。
 その経路の概略は、磐越西線の経路に近いという。現在の交通路の道筋としては、磐梯町付近までは県道64号線「会津若松裏磐梯線」が近く、そこから猪苗代町付近までは県道7号線「猪苗代塩川線」が近いとされる。

 この道筋の二本松街道にかかわる地点のあちこちに立ち寄ってはいる。
by shingen1948 | 2014-09-16 06:35 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
 散歩で心がけているのは、感性を磨けば宝が見えてくるはずという思い。
 しかし、それは徒歩で何度も繰り返して歩ける場所の話で、ここでは通用しない。見たことと得た情報とを照らし合わせて補強しておいて、次の機会を待つということになる。

a0087378_6114387.jpg 戸ノ口原の戦いの視点での戸ノ口原古戦場から先の興味は、西軍の陣になる。
 情報では、その西軍が会津軍と対峙して陣を敷いたのが現会津レクリェーション公園内の小高い丘とのこと。白虎士中二番隊が、船石茶屋あたりで聞いたという砲撃の音は、ここからのものと想像しているところだ。
 しかし、今回もここは通過するだけで、その確認は次の機会にゆずる。ただ、通過するときに右手のレクリェーション公園の二か所でシャッターを切った。その位置と西軍陣地位置情報を関連付けて、次の機会につなげたい。
 これが、その中の一枚で、公園の北西隅の部分と思われる。

a0087378_6124625.jpg これが、それから少し進んで、公園内の道筋と二本松裏街道とが接した付近の風景。
 この2枚の写真と、西軍が会津軍と対峙して陣を敷いた位置の情報との関係を照らし合わせておく。
a0087378_6144146.jpg 公園の北西隅と思われる風景の方をAとし、公園内の道筋と二本松裏街道とが接した付近の風景をBとして表記し、会津軍と対峙して西軍が陣を敷いた位置をプロットした。ここに、レクリェーション公園の駐車場とバス停をプロットして次回立ち寄りのための資料になるようにしておく。
 なお、「赤井谷地湿原」の視点から眺めると、このレクリェーション公園内の池で新たにマダラナニワトンボが発見されたとの情報も見る。
 このトンボは、本州のみに分布し、水中から根を張るような植物が茂る浅い沼地に生息するという。湿地が減少してそのすみかを失って、環境省、県の「絶滅危惧(きぐ)Ⅰ種」に指定されているとのことだ。
 専門家ではないので、難しいことはさておいて、赤くならない黒のままの赤とんぼのイメージらしいとの情報だけ頭にいれておく。
by shingen1948 | 2014-09-15 06:19 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(2)
 二本松裏街道を「戸ノ口原古戦場―笹山」の道筋とクロスする地点まで進む。
a0087378_9342149.jpg ここで、昨年整理の「戸の口原古戦場に立ち寄る」につながる。http://kazenoshin.exblog.jp/18539424/
 「戸の口原古戦場に立ち寄る②」では、「会津戊辰戦争」の移動図から読みとれる白虎隊士中2番隊の最前線と小さな案内板にあった「因みに白虎隊士中2番隊士は、此処より2㎞も西の赤井谷地周辺で戦っている。」という解説との違いに戸惑っている。
 今回の散策で確認した資料に、白虎隊士中2番隊士の最前線情報を混乱させいているのが、この会津戊辰戦争」の移動図だとの指摘も見た。
 何とか辻褄を合せようとしていたが、今は、この情報で納得してしまっているところもある。
 http://kazenoshin.exblog.jp/18586368/ 
 「戸の口原古戦場に立ち寄る③~戊辰戦争戦死者の墓群」では、戸ノ口原古戦場―笹山」の道筋を「戊辰戦争戦死者の墓群」まで進んで整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/18592458/
 ここは、戸ノ口原で戦死された会津藩士を弔う墓標と、笹山や戸ノ口原で戦死されたそれぞれの方々の墓で構成される。戸ノ口原に点在していた墓を、この一画に移したものと思われる。
 「戸の口原古戦場に立ち寄る④」では、全体的なイメージを整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/18599191/
a0087378_937433.jpg 今回中心的に散策した地点は、「地形的にも戸ノ口原の低地を見渡せるこの菰槌山(こもつちやま)の地名の小高い丘付近に塹壕を掘って対峙していたらしい。白虎士中二番隊が胸壁を築いたのはその右手で、藪に覆われ自然に還りつつあるが、戊辰の役の際に築いた3重の塹壕がこの近くにあるという情報」と概括。
 ここに掲げた全体的なイメージ図に今回実際に散策して得た情報を橙色で付加した図がこれだ。

 なお、この二本松裏街道の道筋の北側が、大きくみれば大野原であり、戸の口原はその大野原の南縁ということになるようだ。昨年整理の大河「八重の桜」に描かれた会津藩の軍事訓練「追鳥狩」が実際に行われていたのは、この大野原らしい。具体的な地点は分からない。

 会津事典では、「追鳥狩」について、以下のように解説する。
 「追鳥狩」
 会津松平藩政時代の軍事演習。
 兵学の研究は、藩校日新館の武講で行なわれていたが、これは学校奉行の管轄ではなく、軍事奉行が総括していた。
 日常講習の結果を、城内三の丸で実地に演習するのを「小操練」といい、全藩をあげての大演習を「大操練」または「追鳥狩」という。
 寛政4年(1792)3月、当時の軍事奉行黒河内内揮の建言により、本郷河原で始められたのが最初。その後、藩主在国の年に、一大軍事演習として同所で行なわれてきたが、文化12年(1815)9月からは場所を大野ヶ原に移している。

 軍事演習であるから、藩士たちは伝来の甲冑を着けた武装の上、長沼流軍学に基づいた部隊編成で次々と鶴ヶ城を前日の夕刻に出城し、現地で野営しつつ夜明けを待つ。夜が明けると、法螺貝が吹き鳴らされ、全軍が鬨の声を上げて演習が開始された。
 まさに実戦さながらの部隊演習が繰り広げられた後、あらかじめ捕まえておいた雉、山鳥、兎、熊の子、狸、狐などが放たれ、兵たちはこれを敵将に見立てて追うのである。
 獲物を捕獲した藩士は、藩主の立つ「御立場」の下に行き、目付所に捕獲した獲物と姓名を自書して藩主に献上する。これを一番先に行なう「一番鳥」は極めて名誉なこととされ、藩主から褒美が与えられた。

 藩主在国の年、つまり2年に一度しか行われない行事のため、これを見物しようとする者も多く、みな藩士たちと同じように前日から野宿してこの一大時代絵巻を見物したという。

by shingen1948 | 2014-09-14 09:39 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
 現地で意識したのは、二本松裏街道筋の観点と現地に建つ「白虎隊の足跡を辿る」に案内されることの確認ということだけだった。整理する時点で、「白虎隊の足跡を辿る」で案内される事とかかわって家に戻って確認する内容が膨らんでしまったが、「赤井谷地湿原」の確認が、それ以上にてこずっている。
a0087378_4132587.jpg 二本松裏街道筋を天皇陛下御歌碑の地から東へ進むと直ぐに、前方に右へ入る脇道があり、その角に道標が建つ。「左戸ノ口 右笹山 ニ(至?)」が読める。
 どちらも「白虎隊の足跡を辿る」こととかかわって、気になる地点を指している。

 最近分かった事を付け加える。
 「天皇陛下御歌碑の地」と案内された地点は、地元では「姥山」と呼ばれているらしい。「白虎隊の足跡を辿る」観点からは、この地を「姥山」と見た方が分かりやすい。
 もう一つ、新四郎掘、菰槌山付近からこの地点辺りまでが、戸の口原戦の会津藩の前線基地であるらしいという事だ。
 更に、先に「荒井村」が分からないとしたところだが、これが、旧上強清水村らしいことまでは分かった。ただ、最近また地域名が変わったようで、強清水と上強清水の位置関係までは確認できていない。

 そして、「戸の口原古戦場碑」が建ち「白虎隊奮戦の地」が案内されるのは、この少し先だが、実際の「白虎隊奮戦の地」はこの辺りらしいこと。
 細かい点ではいろいろな微妙に違う見え方があるようだが、会津藩の陣が菰槌山であり、この辺りが会津藩の最前線であったらしいという見え方は変わりなさそう。
a0087378_4184658.jpg 最近本屋で立ち読みした資料では、「天皇陛下御歌碑の地=姥山」の地が8月22日の白虎隊奮戦の最前線地とみて、翌日の白虎隊奮戦の地が「新四郎掘」と見ていた。石田氏は、新四郎掘で戦うのは篠田隊とは別の隊と見ているようなので、確かに見え方に微妙な違いはありそう。

 この写真は、「左戸ノ口 右笹山 ニ(至?)」の「左戸ノ口ニ至る」道筋を意識して撮ったものだが、資料と照らし合わせると、石田氏が白虎隊奮戦の最前線地と見ているのは、道筋の左側に写り込んでいる辺りではないかな。
by shingen1948 | 2014-09-12 06:05 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)

二本松裏街道

a0087378_13155471.jpg 会津での用事が昼ちょっとすぎには済んだので、いつものように強清水で蕎麦を食おうと思った。そのついでに、昨年整理した戸ノ口原古戦場跡あたりまで旧道を進んでみようと思った。
 とりあえず国道294号線白河街道に入って、「沓掛峠入り口」の地点まで進み、そこを出発点とする。

  「沓掛峠入り口」に建つ「白虎隊の足跡を辿る」の案内板は、白河街道と沓掛峠のかかわり、滝沢峠と沓掛峠とのかかわりを次のように解説する。
 沓掛峠は越後街道から白河街道に至る脇道であったが、寛永4年(1627)に会津領主となった加藤嘉明公が滝沢峠を開いてこの峠を継ぎ、2代明成公は石畳を敷き街道を整備して白河街道とした。
a0087378_13163242.jpg 
 この図は、その案内板の図から、「沓掛峠入り口」から「戸の口原古戦場入り口」間のあたりを切り取った図だ。
 点線で沓掛峠と交わる道筋が示されているが、これが「旧白河街道」のようだ。
 この範囲の街道webで「二本松裏街道」と紹介される道筋と重なる部分なら、車で動けるので、家人から申し渡されている長雨で危険だから寄り道は禁止の厳重注意には違反しないはず。

 会津にいるころには、「白虎隊の足跡を辿る」ことに抵抗感があった。その抵抗感の一つが白虎隊の悲劇の悲惨さであり、もう一つがこの悲劇が戦争賛美へ活用されているという抵抗感である。

 会津で生活した期間より会津を離れて過ごした期間が長くなって、会津が故郷としての懐かしさと観光地を訪れるような気分が入り混じるようになった。昨年、戸ノ口原古戦場跡を整理したのは、その気分と大河八重の桜の視聴によるものだと思っている。
by shingen1948 | 2014-09-02 13:25 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(2)
 今の興味は、神儒仏思想とからむ経過とか、もっと人間臭い部分とかだが、2008年9月にここに立ち寄った時は、会津藩体制とかかわるその表向きへの興味だった。
 立ち寄ったきっかけは、学生時代にこの「松平家御廟」へ続く道の左側の家のどこか忘れたが、家庭教師をしたその懐かしさからだった。その時に、この御廟の入り口までは来てはいたが、そのままになっていたことを思い出して、中に入って見たということだった。

 立ち寄った時の印象メモがある。
 それを確認すると、案内板の次の紹介をもとに、歴代藩主の墓を視点に散策していることが分かる。
 明歴3年(1657)、藩祖である保科正之の嗣子正頼が亡くなったとき、院内山を開き、当家代々の墓所とした。この墓所には2代正経から9代容保までの歴代藩主の墓があり、正経が仏式の他は神式で葬られている。
 他に、藩主の家族が西の御庭・中之御庭に埋葬されている。

 それは、今回初代藩主の墓所で神道廟所の特色を確認したことの延長としての見方とも重なる。

 神道廟所の特色は、手前に、亀に乗った藩主の事跡を記した碑石があり、一段高い箇所に石灯籠が並んで、その奥に「表石」が建ち、そのもっとも奥まった場所に藩主が葬られている円墳の頂上には、八角形の「鎮石」が置かれるということだ。
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 これは、3代・4代墓地の左手にならぶ5~7代の墓の「碑石」列だが、この「碑石」が印象的だったようだ。

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 この神道廟所は、2代の墓を過ぎ、暫く登り道を進んだ所で、3代の正容の墓からになる。3代の墓の南に進むべニア板が敷かれた道があったが、これを進むと4代の墓が並ぶ。


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 進み方によっては、4代の墓が外れの感じがするのだが、拝殿から登ってくれば、ここが正面となる位置になるようだ。
 この南側は道路が走っていて、管理用の入り口らしかった。この時には、国指定に関わる整備工事中であることの表示がしてあった。今は、整備された状態になっているのだろうと思う。


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 この時の現地での感覚では、更にその奥に8代の墓があるという感じだが、案内板等で確認すると、3代・4代墓地の左手にならぶ5~7代の墓との相対関係になっているらしい。


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 この散策時点での興味のメインは、5~7代の墓の北側の容保公の墓だったろうか。
 観光案内としては、松平容保公が明治維新に幕府側責めを一身に背負った悲運の藩主として紹介され、戊辰戦争の会津戦争の経緯を案内して、この容保公が眠る墓所として紹介される。

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 その北側がそれ以降の松平家の墓所となるという配置のようだ。
by shingen1948 | 2011-12-15 05:25 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
 土津神社で感じた雰囲気は、どこかで国家が管理する神道の歴史へつながることを感じさせる。それに対して、会津松平家院内御廟の原形は、それとは対照的にもっと自然な信仰に近い雰囲気を醸し出しているように感じた。

 会津松平家院内御廟を開くきっかけになった保科正之公の嗣子正頼が亡くなられた時に、若松城下にあるすべての宗旨の寺の住職と、猪苗代・熱塩加納・柳津・津川(新潟県)などの寺の住職が読経に来ているというのも、そちらのイメージだ。

 院内墓地に決まる前の候補墓地も、どちらかといえば自然な信仰に近い雰囲気だと勝手に思う。
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 「かみやましろのもり~葵徳川将軍、秀忠の四男正之の生涯と土津神社」によると、嗣子正頼が亡くなったときの保科正之公が院内山を開く前の候補墓地は、宝積寺とのことだ。
 この寺は、小田山の忠霊塔の近くの寺だろうと思う。小田山を散歩した時の写真を確認したら、この写真があった。
 近くには、葦名氏代々の墓所があり、小田山頂上付近には、重臣達の墓地があり、更に、山の南側には、保科正之公が開いたという墓地が広がっている。

 「会津若松市のホームページ」には、保科正之公の会津移封に伴う御供の寺が紹介される。想像するに、多くは、保科家に関わる寺と母親に関わる寺のように思う。保科家に関わる寺は、更に詳細が紹介される。
 ○ 建福寺は、信州高遠藩主保科家の菩提寺とのこと。
 寛永20年(1643)保科正之公に従った鉄舟和尚により開山となり、延宝8年(1680)に現在の地に堂塔伽藍を建立。その当時の住職が退山して、貞享2年(1685)3代藩主正容公が、江戸芝東禅寺の黙水和尚を迎えたとある。
 ○ 善龍寺は、保科家の元祖筑前守正則の霊を守る保科家の菩提所とのこと。総州(千葉県)から信州(長野県)高遠に移っていた寺が、保科正之公の山形~会津移封に伴って移ってきたとのこと。城南花畑に建立されていたのが、現在地に移ったとある。
 ○ 大龍寺は、当時は慶山寺という無住の寺で、そこに機外禅師が山形から正之に従って会津入りして開山したとのこと。

 大法寺と淨光寺というもう二つの寺が紹介されるが、ここではその詳細を解説しない。こちらが、母親に関わる寺ではないかと想像する。
 淨光寺は、母菩提寺とあるが、地図で確認すると淨光寺は2か所ある。大法寺の方は保科正之お供寺としかないが、こちらではないかと勝手に想像するのは、その宗派だ。

 いずれにしても、これらの動向は、どれも当時の自然な宗教観に近いものだったのではないかと感じる。
by shingen1948 | 2011-12-14 05:20 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
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 保科正之公が院内山を開いた時点では、保科正之公の嗣子正頼の墓を西の御庭の正面に祀り、中の御庭には、それ以外の子女を弔うというイメージだったのだろうか。
 この保科正之公の嗣子である正頼が亡くなるのは、振り袖火事の延焼をくい止めるために奔走したことが原因とのことだ。
 会津藩『家世実紀』には、亡くなった時に、若松城下にあるすべての宗旨の寺の住職と、猪苗代・熱塩加納・柳津・津川(新潟県)などの寺の住職が読経に来ているという記録が残されているという。

 そして、中の御庭には、正之公の子供である5男正純の墓と正之公3女菊姫の笠つきの達性院の墓が並び、更に、正之公側室お塩の方徳性院の笠つきの墓が並ぶ。

 これが、原形のイメージだろうか。個人的には、土津神社を訪ねて描いた保科正之公のイメージとのギャップを感じている。
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 その原形から現在の形に移る経緯を想像すると、次に中の御庭に、生母栄寿院の墓が建つ施主は3代正容公だろうか。
 その前後に2代藩主正経公の墓が建つ。これがその2代藩主墓所で、仏式とのことだが、墓碑は、神式の靈神碑に近い。、施主は同じ3代正容公であったのだと思う。


a0087378_4342093.jpg
 生母である本妙院を西の御庭に弔ったのは、4代容貞公だろうか。施主とのかかわりでみれば、この前後で3代正容公の墓が建つ。
 これは、その3代の墓所を、現在の拝殿方向からみている。

 ここらが、初期の会津松平家院内御廟のイメージなのだろうと想像する。
a0087378_4385528.jpg
 ただ、この墓地を歩いたイメージでは、2代墓所から3代墓所の間が空き、3代以降の墓所が、統一された空間というイメージになる。


 かかわりを確認していると、3面記事のような面白さに出逢う。見つけたのは、「会津事典」の「塩見伊知」の項に解説されること。

 この中の御庭に祀られる4代容貞公の生母栄寿院は、享保8年(1723)に13歳で3代藩主松平正容の側室となられた方で、側室になった翌年に男児を出生している。これが、4代容貞公とのことだ。
 話は、そこまでではない。男児を出生の翌年には、家臣笹原与五右衛門忠一に妻として下げ渡されたとのことだ。これが、「拝領妻」とのことで、3代正容公の代には多かったらしい。
 再び伊知の人生が大転換するのは、正容の世継ぎである男子が次々と早死し、伊知が城内に残してきた男児のみになってしまう事とのことだ。
 世子の母として、城内へ召し返されたのである。この男児が4代目容貞公で、伊知は、藩主の母という栄耀栄華の立場となるが、わずか22歳でその波乱の生涯を閉じたとか。

 これで、本妙院施主は4代目容貞公と想像したが、公は西の御庭に弔うことにこだわったのではないかなどとも勝手に想像する。

 土津神社を訪ねて描いた保科正之公のイメージとのギャップを確認しておく。
 それは、初代が我が子と家族を仏式で祀り、2代が初代を神道で祀ること。そして、3代正容公は、その先代を仏式で祀ること。更に、この3代正容公を4代目容貞公が神道で祀ることと、同じ4代目も、生母は仏式で弔っているということだろうか。
 ここから、「かみやましろのもり~葵徳川将軍、秀忠の四男正之の生涯と土津神社」に神道作法のみにするのは、5代容領公からだと紹介することから勝手な想像を膨らます。それは、4代まで先代藩主を神道で祀る意識にも、儒教、仏教、神道の習合的なものが働いていたのではないかとも思えるということだ。
by shingen1948 | 2011-12-13 05:20 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)

会津松平家院内御廟

 案内板によると、松平家院内御廟」は、明歴3年(1657)、藩祖である保科正之の嗣子正頼が亡くなったとき、院内山を開き、当家代々の墓所としたとのことだ。
a0087378_4274675.jpg
 ということは、保科正之公が直接かかわる墓地の原形は、中の御庭・西の御庭ということになるようだ。
 西の御庭の正面には、保科正之公の次男で嗣子正頼の墓で、その奥が拝領妻で有名な3代正容公側室で、4代容貞公の生母である本妙院の墓とのことだが、そちらには立ち寄っていなかった。
a0087378_4294885.jpg
 これは、中の御庭で、右側が20歳で亡くなった正之公の5男正純の墓で、左は3代正容公の生母栄寿院の墓とのことだ。笠つきの墓は、右が正之公3女、菊姫の達性院、左が正之公側室、お塩の方の徳性院ということのようだ。

 土津神社を整理したその延長にここを整理すればいいと思っていた感覚では、正之公をはじめ、4代藩主までとかかわる方が、仏式で弔われているという事が気になる。
 「かみやましろのもり~葵徳川将軍、秀忠の四男正之の生涯と土津神社」によると、正之公は、嗣子正頼が亡くなった時に、会津へ葬りたかったとのことだ。
 その墓地として、最初に宝積寺を選んだという。それが、この院内山を開くことになったというのは、千日念仏を行った小庵の跡がいいという紹介があってのことという経緯とのことだ。
 これらは、正之公が仏式をイメージしていることを示すものだ。しかも、その位牌は、淨光寺に安置し、領内の僧侶の読経で法要は執り行われたことまで紹介される。

 土津神社の整理につながるのは、保科正之公がこの時に相談したのが儒官土岐元長であることと、尾張大納言義道公が亡くなられた時に儒道の作法で葬られたことに習ったということだろうか。
by shingen1948 | 2011-12-12 05:25 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)

忠霊塔

 今回、少し時間にゆとりがあったので、小さい頃に会津で過ごした記憶の中の原風景を探してみた。
 小田山は、小さい頃に遊び場にしていた所だ。スキーで足をねん挫して大騒ぎをしたのもこの山だ。ここには、葦名氏の墓地もあり、「忠霊塔」もある。これ等は見慣れた風景だが、「忠霊塔」を確認しておく。
a0087378_6101959.jpg
 ここには、日清戦争からの対外国との戦争の戦没者が祀られている。

 会津での戦没者の慰霊は、戊辰戦争の「西軍墓地」と「東軍墓地」、そして、この「忠霊塔」といのが原風景にある。

 この原風景との比較のなかに福島縣護國神社への違和感がある。この違和感については、先にも整理しているのだが、言いきったという感覚になっていない。小さい頃の記憶をたどると、それは会津での戦没者の御霊の祀り方を戊辰戦争に限定しているからのような気がしていた。

 もう一度、福島縣護國神社を確認する。
 若松にあった招魂場に祀られていた戊辰戦争従軍者の御霊は、明治12年に、相馬・三春の御霊と共に官祭信夫山招魂社に合祀されたという。その時に、これらに祀られていなかった同戦争の従軍殉国者として、世良氏等も合祀されたのだろう。
 これが、昭和14年(1939年)に福島縣護國神社と称する内務大臣指定護国神社となったということのようだ。

 小さい頃に会津で過ごした者にとっては、戊辰戦争は身近な戦争だ。護国神社と会津の中での祀られ方とを比べながらみてしまう。
 ここでいう戊辰戦争従軍者の御霊は、若松では西軍墓地に祀られた御霊を指すのだろうと思う。戊辰戦争従軍者とは、「戊辰戦争西軍従軍者」であり、「若松の東軍」は除外されている。
 会津で過ごす頃は、当然ながら「若松の東軍」の視点でみている。更には東軍の遺体を埋葬することすらかなわなかったという話を聞く中で、東軍墓地を眺めている。
 大きくは、これが福島縣護國神社への違和感となる。
a0087378_612598.jpg
 福島縣護國神社では、ここに対外国との戦争の戦没者が合祀されていく。これと対比するのが、会津では「忠霊塔」に祀られるということだろうか。ここで気になるのも、靖国神社とのかかわる第二次大戦の戦犯問題ということではなくて、西南戦争で戦死した御霊はどこにも祀られていないということのようだが、確認していない。

 なお、具体的な違和感については、先に「戊辰戦争の犠牲者の弔い~ようやく会津へ⑥」で整理した。
 この時に忠霊塔の写真がないことに気がついたという記憶がある。意識していなかったが、ここに立ち寄ろうと思ったのは、そのこともあったかもしれない。
by shingen1948 | 2011-11-29 06:14 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)