人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

タグ:心の故郷 ( 21 ) タグの人気記事

 「『宮脇遺跡』~第6次調査現地説明会に出かけてみる⑧」で、出土瓦について、構造体とのかかわりでその多様な出土という視点で整理したところだ。
a0087378_4243298.jpg
 整理を進める中で、熨斗瓦が展示紹介されていたのに、それが抜けていた事に気がついた。その構造体とかかわる多様な出土との観点で、この「熨斗瓦」を付け加えたい。


 さて、文様の視点とは多少違うが、「スタンプ」のある瓦、「へら書き」のある瓦も展示される。 多様な瓦という視点で整理しておく。
 <「スタンプ」のある瓦>a0087378_4255090.jpg

<「へら書き」のある瓦>a0087378_4322916.jpg

 出土した瓦の総破片数は、20314片とのことだ。
a0087378_4391037.jpg今回も排水装置とされる石積みの後ろあたりに瓦片を見かける。
a0087378_441322.jpg 本当は、排水装置構造体の一部なのではないかなとも思ったのだが、そうではないらしい。
 それはさておいて、出土した瓦の総数は更に増えることになるのだろう。

 今回は、多様な出土瓦という視点で整理されて、それなりに興味深かかっただけでなく、宮脇遺跡が総瓦葺の建物であった事の実感が強まった。
 その実感の背景に、何度か説明会に来て多量の瓦片があるなと思ったこともあるようにも思う。
 もし、これらの瓦が構造物として分類されたなら、総瓦葺の建物の実像が浮かぶのではないかなどと想像すると楽しくもある。

 発掘調査の視点からは、この「宮脇遺跡」の発掘の成果は、基壇・池・総瓦葺の礎石建物であり、その文様も含め格調高い寺院であることが確認されたという事になるのだろう。
 更に、その造成には相当な財力や権力が必要であり、当時現地を治めた伊達氏が建てた可能性が益々高くなり、ほぼ間違いないだろうということのようだ。
by Shingen1948 | 2011-10-06 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 資料によると、前回の調査までで出土した瓦の総破片数は、20314片とのことだ。今回も、排水装置とされる石積みの後ろのあちこちに瓦片を見ている。更に増えるのだと思う。多量の瓦片ということだ。
 その整理作業によって、多様な瓦が確認できているということのようだ。
 その多様な瓦ということについて、構造体とのかかわりの視点で整理したところだ。

 今回は、文様の視点で整理しておく。「軒平瓦」と「軒丸瓦」の文様については何度も目にしているのだが、そんなものかとぼんやりと見ていたような気がする。
a0087378_4434770.jpg 
 文様についての解説図と照らし合わせながら確認する。
 まずは、「軒平瓦」の文様。

a0087378_4452042.jpg 解説図と照らし合わせてみる。

a0087378_4461747.jpg  「隅切瓦」も似たような文様。
 こちらも化粧瓦の一部なので、当然かな。


a0087378_4475867.jpg
 次に、「軒丸瓦」の文様。
 多様という意味では、瓦の大きさ等もいろいろ。それだけでなく、文様をよく見るとここにもいろいろなバリエーションがあるようだ。


a0087378_454835.jpg
 解説図と照らし合わせてみる。
 珠文があるものとないものがあるとのこと。説明されて初めて気づく。

 巴文が反対のものもあるとのことだが、これは、その視点では見えていない。

a0087378_458988.jpg もう一枚写真を張り付ける。
 中央のものが、その巴文の逆文様のようだ。文様のしっぽの部分での判断のようだ。
 これらの「軒丸瓦」と「軒平瓦」の文様が主要で代表的な文様のようだ。今回の説明資料の表紙にも使われている。
by shingen1948 | 2011-10-05 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 宮脇遺跡が格調高い寺院であったこととかかわるもう一つが、総瓦葺屋根だったということだと思う。
a0087378_4535440.jpg
 そちらの整理の前に、3号礎石建物跡を整理しておく。
 報告書では「西側にのびていないことを確認しました」とある。可能性として廻廊のようなものを想像し、そうではなかったという否定形の結びになりそうだということのようだ。説明会の中では、礎石建物ではなく、掘立柱だった可能性もあるとの説明だったように思う。当然、報道の対象にはならない。
 それなら、この建物は何かという興味になるが、それは「分からない」ということになるのだろうか。
a0087378_4563059.jpg
 こちらが、そののびていないことを確認したという西側の整地面の様子だ。
 今証明しようとすることと結びつかないけれども存在するということを大切にするという態度が、散歩を楽しむコツなのではあるが、震災以降この態度も強まっているように思う。
 今回の震災で、地震や津波について、伝えなければならないという先人の思いがあったにも関わらず、伝わらなかったということが明らかになっているようだ。
 歴史的にみれば短いスパンで、先人が必死で伝えようとしているのに伝わらなかったということだ。それは、専門家と称する方を中心に、その時代の価値観に合わなかったものは、なかったことにしようとしたことによることが大きかったのではないかと思える。
 今回の震災で、せめて「分からない」けれども存在したという真摯な態度があれば、先人の忠告は生きた可能性はあったのではないかと思われる事例のいくつかを目にした。
 そういう意味では、ここに立派な寺があったという地元の言い伝えも大きな価値のあることだということなのだと思う。立派な寺があったなら伝わるのは、それは当然と思うところがあったのだが、 実際には、伝わらないのが普通だと言う事らしいということだ。
 この宮脇遺跡の発掘調査は、その存在の言い伝えをもとに行われたと聞く。

 ついでに、今回の新聞報道についても、整理しておく。
<池に視点をあてた報道>
 「排水施設か 石積み確認~伊達の宮脇遺跡」
  ~仏堂跡調査、金閣寺の影響判明~基壇の下に新たな池跡も~

 南北朝時代の動乱で焼失、室町時代に再建された霊山寺跡とみられ、石積みの基壇などが確認された、伊達氏霊山町大石の宮脇遺跡で10日、現地説明会が開かれた。
 調査は、同市教育委員会が2006(平成18)年度から開始。国史跡化を目指しており、今回は仏堂跡と考えられる建物の南西側を中心に調査し、仏堂全面に広がる池跡に関する排水施設のような石積みが確認された。池の水位を調整する役割などを担っていたと考えられ、池の大きさや出土した軒平瓦の文様などからも、京都鹿殖寺(金閣寺)などの影響を受け、北山文化を意識した格調高い寺院だった様子がうかがえる。
 また、石積みの基壇のすぐ下に池が広がっていたことも新たに分かり、当時は池の中に建物が浮かんでいるようなイメージだったと推察される。(2011年9月15日「福島民友」)

<基壇に視点をあてた報道>
 宮脇遺跡で「基壇」発見 伊達氏建立の可能性高まる

 室町時代に伊達氏が再建した「里の霊山寺」跡の可能性が高いとされ、発掘が進められてきた伊達市霊山町大石の宮脇遺跡で7日までに、建物の下の基礎となる石で造られた基壇が見つかった。造成に財力や権力が必要な基壇が確認されたことで、当時現地を治めた伊達氏が建てた可能性が極めて高くなった。市教委が同日、発表した。
 基壇となる石は、これまで発見された建物の南西の角に、建物を囲うように並び、大きさや形がほぼ均一になるよう加工されている。
 また、市教委は、平瓦や棟瓦など総瓦葺(ふ)きの建物に必要な複数の種類の瓦を確認。総瓦葺きは当時、多大な労力が必要だったため、伊達氏の建物である可能性を裏付けた。市教委は10日午後1時30分から現地説明会を開く。
(2011年9月8日「福島民友」)

 なお、この宮脇遺跡に関わる過去の報道の様子を詳しく紹介する「歴歩」というページを見つけた。
by shingen1948 | 2011-10-03 05:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)
a0087378_4471640.jpg
 本年度調査された池の様子は、前年度までに明らかになった東から南にかけての池の様子とつながるものだ。

 前年度までに整理した「宮脇遺跡」の中から、その池の広がりの詳細にかかわる部分を抜き出しておく。
 ○ 2号建物跡(仏堂)の「南東隅」の様子については、平成20年度の「宮脇遺跡現地説明会」で整理している。
 ○ その2号建物跡(仏堂)の「南東隅」の基壇と池とのかかわりについては、「宮脇遺跡現地説明会④」で整理している。
 ○ 池がどんな風に広がっているかということについては、「里の霊山寺:「宮脇遺跡」第5次調査現地公開説明会③」で整理している。
 ○ 建物と、庭園や池などの配置(東側)全体を整理した図、「里の霊山寺:「宮脇遺跡」第5次調査現地公開説明会②」にある。
a0087378_453765.jpg
 これ等に比べ、西側の池の様子は、埋め立てられた整地面に推定されるラインを示しているだけだ。その池の様子を詳細に確認したということではなく、池の広がりの範囲が分かるだけだ。
 そのこととかかわって気になるのが、池が埋め立てられた後にももう一つの整地面があるという事だ。
 報告書では、その整地面については、土抗3と複数のピットが確認されたとのこと。その中で、底部に粘土ブロックを張って作られ、焼けた痕跡のある土抗(sk04)が特記される。

 しかし、そのことより気になるのが、なぜ埋め立てられたのだろうかということと、埋め立てられた整地面の時代のこの寺の様相はどんなだろうかということだ。
 専門的には、池と権威との結びつきを主たる知見として展開するようだ。散歩を楽しんでいるだけという者にとっては、地形とのかかわりが気になる。
 見回すと、ここは高所ではあるのだが谷地(窪地)でもあるという地形とのかかわりの方が気になっている。谷地(窪地)であるということで、豊かな水と結びつく。それが、豊かな湧水の源と結びつく。そのことと聖地のイメージの結びつきや、その豊かな水量と池の存在が結びつくというたわいもないイメージを持つ。
 それとは逆に、水害に遭いやすい地形でもあるということではないかとも思う。池が埋め立てられたこととかかわるのではないかと思ってしまうが、これも勝手な想像だ。

 この半年、地震による自然災害としての被害を体験し、原発事故による人災の被害を実感している中に、水害の被害の情報が入るという状況にも実感が伴ってくる。
 その事によって見え方が変わっているのかもしれないとも思う。
by shingen1948 | 2011-10-02 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 仏堂全面に広がる池跡に関する排水施設のような石積みが確認されたということだが、これが2号建物跡(仏堂)の「南西隅」のようだ。
 その池が、ここから南側に広がる。
 その推定のラインが、2本白線で池が埋められた後に整地された面に記される。
a0087378_5254996.jpg 
 説明はなかったが、推定線1をもとに溝を掘り、池の端を確認していく過程を通してより確実な推定線2を導いてきているのだろうと勝手に思う。

 溝の中の様子も分かる角度からを覗いてみると、石積みの地点と重なるのが推定線2のラインのようだ。この石積みが、池の縁だろうと推定したのだろうと思う。


a0087378_5292743.jpg
 東側から覗き込む。
 勝手に、東側に比べ大型の石を使用しているように思う。機能的な側面だけでなく、景観としての側面もあるのだろうか。

 今年は仏堂の西側の基壇や池の広がりの様子が説明され、それまでの調査と合わせると、全体的な建物配置の中で、仏堂の石積みの基壇のすぐ下に池がどんな風に広がっていたかが分かったということのようだ。

 南東側が寺の入り口だろうか。そちら側から坂道を登って寺に着くと、庭園の池の中に総瓦葺の仏堂の建物が浮かんでくるというようなイメージだったと推察される。
by shingen1948 | 2011-10-01 05:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 仏堂に伴う基壇の様子と共に、前年の調査とのかかわりで気になるのが、池跡の調査だ。
 池は、総瓦葺であること、石積み基壇、礎石建物跡、天目茶碗等の遺物と共に、格調高い寺院であったこととかかわるらしい。池の存在や、東側の配置については、前年度に説明されている。その池の様子がどこまで明らかになったのかという興味だ。
a0087378_4275082.jpg
 その事にかかわって、報告書では「……西側で石の集中している箇所を確認しました。1号配石遺構に付属する施設(排水施設)の可能性を考えています」とある。
 それが、この石積みのようだ。
 5日後に地元「福島民友」誌は、「配水施設か 石積み確認~伊達の宮脇遺跡」の見出しで、宮脇遺跡が格調高い寺院であったことを伝えている。
 この石積みについては、次のようにふれている。
 今回は仏堂跡と考えられる建物の南西側を中心に調査し、仏堂全面に広がる池跡に関する排水施設のような石積みが確認された。池の水位を調整する役割などを担っていたと考えられ、池の大きさや出土した軒平瓦の文様などからも、京都鹿殖寺(金閣寺)などの影響を受け、北山文化を意識した格調高い寺院だった様子がうかがえる。

a0087378_430667.jpg
 実は、説明会の間、別のイメージでこの石積みを見ていたのだ。
 報告書や新聞記事等で、排水施設の推定と説明されたことは明らかだが、自分は配水施設と勘違いしていたのだ。入水路とかかわる築山のイメージだ。
 それで、石積みの後ろに回り込んで眺めてみたりした。意識したのは地形的な高低だが、それだと流水のイメージになるからだ。その水が池になって広がるイメージで見た。

 そうではなく、水源は湧水をイメージしているということのようだ。ここから溢れた水が排水されるという推定とのことらしい。
a0087378_4333669.jpg
 石積みには、機能的な役割だけではなく、庭園の一部としての役割も担っているはずだと思う。
 そういう見方をすると、基壇の手前が池であり、その奥にこの石積みが配石されるという捉え方をしてみたが、どうだろうか。
 なお、ここに写る整地面は、池が廃止された後の整地面とのことのようだ。水面ももっと下位なのかもしれない。
 
by shingen1948 | 2011-09-30 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_5172672.jpg 頂いた「南西コーナー」の資料は1号建物跡の「南西隅」の様子だが、この辺りは二つの意味がありそうだ。
 その一つは、1号建物跡の「南西隅」の様子であり、もう一つが、庭園池と1号建物跡とのかかわり及び池への入水装置の様子があるらしい。
 地元紙も、「1号建物跡の『南西隅』の様子」という観点から、今回の発掘調査について伝えていた。

 「基壇となる石は、これまで発見された建物の南西の角に、建物を囲うように並び、大きさや形がほぼ均一になるよう加工されている。」としている。


a0087378_52165.jpg
 新聞には「大きさや形がほぼ均一になるよう加工されている」様子の写真が掲載されていたが、建物(仏堂)の南西の角の基壇となる石という観点から見ると、こんな感じだろうか。


a0087378_5223361.jpg 
 報道では、「造成に財力や権力が必要な基壇が確認されたことで、当時現地を治めた伊達氏が建てた可能性が極めて高くなった。」とした。

 「基壇となる石」にこだわるのは、2009年度の発掘調査で建物跡の南側と東側を囲む掘割のような溝と石組みが見つかったが、この時点ではこれが明確に建物(仏堂)の基壇となる石だということになっていなかったこととかかわるようだ。
 この2009年度の石組にかかわる事については、「『宮脇遺跡』~第6次調査現地説明会に出かけてみる②」で整理している。
 なお、この報道では、この成果を宮脇遺跡の広がりという観点で解説されていた。この遺構は、学頭坊とのかかわりかもしれないとも。
 この時の説明会の中では、それぞれの遺構が、石垣等で区分けしている可能性があるとの見方につながるものとしていたところだった。

 これが、伊達氏建立の根拠の一つとなるということのようだ。
 今のところ、この宮脇遺跡を霊山とかかわるカテゴリーで分類しているが、伊達氏とかかわるカテゴリーとの重複の色彩が濃くなってきている。
by shingen1948 | 2011-09-29 05:28 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 現地説明会場に着くと、会が始まる前に現地を観察するのが癖になっている。
 その訳の一つは、全体像が把握できないと、説明されていることが理解できないという自分の思考回路の癖への対応だ。
 もう一つが、まず自分で観て考えてから、それから人の話を聞くということで、2度楽しさを味わう事ができるという散歩の癖でもある。散歩の指南本に、下準備をして、予備知識を入れて、それから出掛けるというのがある。しかし、それは行き当たりばったりの散歩での発見の楽しさを味わった上での話だと思っている。
a0087378_4472366.jpg 
 まず、全体を概観するが、今までの発掘の成果の全体をテープで示してくださっているので、把握しやすい。
 一番奥のテープで囲まれた所が、1号建物跡のようだ。
 その手前のテープで囲まれた所が、2号の建物跡のようだ。除けられた土をブルーシートで覆っている辺りが、昨年発掘調査された池の部分付近らしい。
 今回の発掘調査地点は、これらの遺跡の南西側付近らしい。

 頂いた資料の全体図を見るが、目が悪いので現場でははっきりは見えていない。詳細は家に戻ってからみている。
a0087378_4505698.jpg
 図の「1号礎石建物跡」とされる部分が、奥の高台に対応する。
 この発掘調査では、瓦も出土したがそれほどの量では無かったらしい。それよりも、碗、香炉などの青磁、茶を沸かす風炉などの出土が特徴的で、そのことから、「庫裏」など生活関連施設であろうと推定したようだった。
 その調査については、平成19年度の説明会で紹介された。その説明会には出掛けていて、「霊山町「宮脇遺跡」発掘調査現地説明会」として整理している。
 その詳細については、「霊山町「宮脇遺跡」発掘調査説明会②~礎石建物跡」として整理している。
 この時に紹介された出土瓦については、「霊山町「宮脇遺跡」発掘調査説明会③~出土瓦」として、整理している。

 図の「2号礎石建物跡」とされるのが、その高台の直ぐ下の位置に対応する。
 この発掘調査が最初に行われたのは平成18年度で仏堂と推定されたようだ。その説明会には参加していないが、平成20年度には、この総瓦葺きの仏堂と思われる礎石建物跡の規模や性格を確認して説明会が開催され、これには参加している。その事については、「宮脇遺跡現地説明会②」で整理している。
 この時に調査されたのは、この建物跡の南東隅付近で、その説明の詳細について「宮脇遺跡現地説明会③」で整理した。
 この発掘で注目されたのが池らしい出土のようで、その事については「宮脇遺跡現地説明会④」で整理した。
 この時点での「宮脇遺跡」の全体像について、「宮脇遺跡現地説明会⑤」で整理している。
 そして、図で示されるその池と庭園の様子と1号石積遺構の様子について昨年説明されたということだ。
 中心的な建物「2号礎石建物跡」の南東隅から南側の図が、今回の発掘調査された地点ということらしい。その図の南西隅からとりあえず概観した。
by shingen1948 | 2011-09-28 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 9月10日(土)の午後1時30分から「宮脇遺跡」第6次調査現地説明会があるという情報があった。いつもなら、日程の重複の確認だけで、それが無ければ出かけようという事になる。
 しかし、今年は、現地付近の放射線量が気になり、その情報も確認する。
 現地は、「伊達市霊山町大石字宮脇地内」ということなので、「大石小学校」と「泉原小学校」付近のデータを確認する。新しい情報は、除染されたデータも入るので推測が難しいので、その動き前の4月13日現在のデータから状況を推測する。

 確認すると、末松バス停、小国茶畑バス停付近は高い値を示している。報道されるのは、これ等の高い放射線量なので、この地域全般がこの高い数値というイメージを持つみたいだ。
 報告会付近は、最もひどい時期近くの値で、お年寄りの散歩には躊躇しなくてもよさそうなだと勝手に判断する。現在はこの数値よりかなり低いはずだと思う。
 ○ 泉原小学校跡 バス停付近(伊達市霊山町泉原米田) 0.65  0.63μシーベルト/時
 ○ 北方部会館付近(伊達市霊山町大石長畑)0.62  0.95μシーベルト/時
 ○ 別格宮弊社霊山神社付近(伊達市霊山町大石橋本)0.82  0.95μシーベルト/時という。

 霊山を城としたその背景の一つに、「おそれおののく」心が想定されているという話を聞いたことがある。自然を恐れぬ専門家と称する科学者一味は、そういった想定を越えた行為でこの霊山をも襲いかかる仕掛けをつくった。
 それでも、霊山という御山は、自らは傷つきながらも北側の地をなんとか守ってくださったということのようだ。
a0087378_438219.jpg
 この宮脇遺跡の発掘調査は、平成18年度から実施されている。その現地説明会には一昨年と昨年にも参加し、昨年の参加のようすについて以下のように整理した。

 ○ 「里の霊山寺:「宮脇遺跡」第5次調査現地公開説明会」で、一昨年の参加の様子と、昨年の調査報告会の概要について整理している。
 ○ 「里の霊山寺:「宮脇遺跡」第5次調査現地公開説明会②」では、前年の調査で分かった池と庭園についてと、南部から新たに石積みの遺構が発見されたとの新聞報道に関することの概要を整理している。
 ○ 「里の霊山寺:「宮脇遺跡」第5次調査現地公開説明会③」では、池と庭園についての詳細について整理している。
 ○ 「里の霊山寺:「宮脇遺跡」第5次調査現地公開説明会④」では、宮脇遺跡の南部に石垣跡についての詳細を整理している。
 ○ 「里の霊山寺:「宮脇遺跡」第5次調査現地公開説明会⑤」では、遺跡から出土する大量の瓦の遺物について整理している。
 ○ 「里の霊山寺:「宮脇遺跡」第5次調査現地公開説明会⑥」からは、この遺跡の周辺を散歩して整理している。ここでは、「宮脇遺跡」の直ぐ南の「日枝神社」の周りの様子を整理する。
 ○ 「里の霊山寺:「宮脇遺跡」第5次「宮脇遺跡」第5次調査現地公開説明会⑦」では、霊山神社周辺を整理する。
 ○ 「里の霊山寺:「宮脇遺跡」第5次「宮脇遺跡」第5次調査現地公開説明会⑧」では、大石側から石田方面に抜ける道筋をたどりながら、山の霊山寺を意識している。

 本年度は、仏堂に伴う基壇や池跡の調査を進めているということだ。
by shingen1948 | 2011-09-27 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
今週も、信夫山の散策に出掛けた。今までに登ったことのなかった道から登ってみることにこだわった。先週、この山の薬王寺から御神坂に向かう途中でお会いした方から、お勧めの登山道について熱く語られたことに影響されたことが大きい。
信夫山の参拝道の基本は五道とのことだ。まずは基本的な道としたいが、めったに紹介されないところがいいと思った。
a0087378_7392742.jpg
今回は、森合大清水の養山登拝路口から登ることにした。この登拝路口の目印は、JR新幹線トンネルで、その東側にある。現在は、公園に整備されていて趣はない。ここには大清水があるとのことだが、確認していない。参拝の案内役は耀山院で、羽山の月山、湯殿山に向けて登る道で、新しい先達は潜龍院とのことだ。


a0087378_7401569.jpg
階段の脇に四界六地蔵の24地像が並んで出迎えてくれる。公園の階段脇で、趣はない。階段を上り切った右手がその参道と思われる。しばらくいくと、車道に出る。そこから、観音石仏を目印にして登り始める。


a0087378_741467.jpg
  西国33観音石仏群の中を進む。急な坂道で、道なき道を進むことになる。
江戸時代に、 西国三十三観音の巡礼の信仰が盛行し、それを反映したもののようだ。
a0087378_7422926.jpg





この信夫山の一角にミニチュア化して、三十三観音の石仏を配置したもので、石仏自体にはほとんど個性は感じない。
もう一箇所、西国三十三観音信仰に関連して岩壁に大小のさまざまな刻像した岩谷観音の磨崖仏があるが、こちらの石仏群は傷んではいるものの個性的で有名である。
a0087378_7431640.jpg
by shingen1948 | 2007-12-02 07:54 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)