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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:庭塚(在庭坂) ( 18 ) タグの人気記事

 文政元年(1818)8月の須川が変水することとかかわることが「福島市史」の「庭塚(在庭坂・二子塚)」の項で解説される。
 須川の変水による田地の地焼・根腐被害を何とかしてくださったという話ではない。在庭坂・二子塚の両村でその対策を協議した改善策を提示し、それを最初にお認めくださったことが称えられた功績ということのようなのだ。

 その改善策だが、具体的には目洗川および鳥川から引水して、在庭坂地内の新規堰掘割り工事を行うというものだったらしい。
 その目洗川・鳥川からの引水するという策を、文政2年、桑折代官寺西重次郎に願い出たということだ。

 その鳥川についてはまだ確認できないが、目洗川は清水屋向かい側から、高湯街道を越え、須川に流れこむ川のようだ。
 「高湯温泉 周辺の観光スポット」のページでは、「高湯ダム公園」の中で、「目洗川という高湯地区内唯一の温泉の流れ込んでいない川がある。 岩魚が生息し、新緑と紅葉時の散策は素晴らしい」と紹介されている。

 ここからは、先の散策とのかかわりで想像したことで、まだ、確認していないことだ。
a0087378_9334691.jpg これは、高林簡易水道の水源からタンクに向かう水筋を整理した時に、こんな風に高湯街道沿いの水筋が、高林簡易水道の水源からの水筋とクロスしているのをみつけた。その高湯街道沿いの水筋の方なのだが、位置関係を地図で確認すると、その目洗川から取水した水が流れる用水路なのではないかなとも思えている。
 そして、姥堂への道筋を間違えてたどり着いた滝だが、これもかかわっていないかなとも思っている。

 豊かな水というと大きな川をイメージしてしまうが、その大きな川の豊かな水は、そこに注ぎ込む支流によって支えられているのであって、名もなき水筋が先達山からも流れている。高林簡易水道の水筋だって、その中の一つの水筋で、その水道の余剰水だって豊かで、堂ノ上の集落に向かって流れていた。
 ということで、今のところ、鳥川もその中の一つの支流とイメージしておくことにする。
by shingen1948 | 2014-08-12 09:35 | ◎ 水 | Comments(0)
a0087378_10505336.jpg
 これが、皇大神神社境内拝殿右手に建つ「寺西大明神」の石塔だ。
 右側に「文政5士年(1822)」、左側に「○3月吉日」が読める。

 「寺西大明神碑」が建立された経緯は、文政元年(1818)8月の須川が変水することとかかわることが「福島市史」の「庭塚(在庭坂・二子塚)」の項で解説される。
 文政元年(1818)8月、在庭坂村・二子塚の用水である須川が変水して、田地が年々地焼・根腐れをおこす被害が続出し、在庭坂・二子塚の両村では、協議のうえ、在庭坂地内に新規に堰掘割りの工事を行う事を取り極め、まず文政2年目洗川および鳥川からの引水を桑折代官寺西重次郎に願い出た。
さらに文政6年12月、在庭坂村三役は、桑折代官西重次郎に詳細な「在庭坂村・二子塚村 根腐除・高湯尻悪水落箱戸井自普請目録見帳」を提出した。
 寺西代官は、この工事に対して文政7年2月に最初に許可を与えたという。それが称えられる功績のようだ。
 しかし、建立の年代とちょっと合わない。許可が与えられる2年前にこの碑は建立されているようだが、これは、御愛嬌かな。
 「寺西大明神碑」であれっと思ったのは、その事ではない。
 二子塚村には溝口大明神碑も建っていることとのかかわりだ。解説の続きに、こちらの碑は在庭坂村と二子塚村の両村民が建立したとの説明。
 当時、桑折代官の支配下にあった在庭坂村と、新発田藩分領八島田陣屋の支配下にあった二子塚村の名主・組頭・百姓代が世話人として名をつらね、両村惣百姓によって建碑されたものと紹介される。
 高さは台座の自然石をふくめて約2.5mの堂々たるもので、寺西代官の顕彰碑のなかでは、最もりっぱなものなのだそうだ。

 ただ、碑の建立だけでなく、以下のような分水問題自体もいろいろあって、単純な事ではなさそうだ。
 文政11年(1828)には二つの村で分水問題が起こり、文政13年閏3月に規定書を取り決めたとのこと。また、万延元年(1860)9月、在庭坂村が損置起返しを理由に須川の水源不動滝から新規の掘割を行って引水したことに端を発した紛争が福島領の8か村がからむ紛争に発展するようだ。
 これ等は、先に「野田村郷土誌」をもとに堰について整理したこととも複雑にかかわりを持ってくるのだろうと思う。
by shingen1948 | 2014-08-10 10:53 | ◎ 水 | Comments(0)
 「のりしろ散歩」なのに、またまた「吾妻連峰へのアプローチ口としての庭坂駅」が17回続いて、中心話題になってしまった。
 その庭塚(在庭坂)散歩のよそ見の一つが、寺西顕彰碑。その「寺西大明神」の石塔は「皇大神神社」境内に建つ。
 支配関係の変遷が複雑だというのは分かっていたが、ここが、桑折陣屋とかかわるということは知らなかった。
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 ここが、「寺西大明神」が建つ「皇大神神社」だが、その由緒にかかわる案内板が建つ。

 皇大神神社由緒
 御祭神:大日霊尊(おおひるめのみこと)<天照皇大神の別の名>
 天にまします太陽のように、広大で尊い御神徳をお持ちになられる神を称え奉る神様で「日の神」と仰がれています。
 「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国(日本)は、わが子孫の王(きみ)たるべき国である。そなた皇孫(瓊瓊杵尊)<ににぎぬみこと>よ 行って治めなさい。いってらしゃい。お元気で。皇位の隆盛は…地とともに無窮でありましょう」と八坂瓊ノ曲玉 八咫(やた)の鏡 草薙(くさなぎ)の剣の三種の宝物をお与えになられ この国にお下しになられました。
 わが国の天皇は 代々この神器を皇位のみしるしとして受け継がれ 万世一系の天皇を国の象徴と仰ぐ日本の基をきずかれた「天照皇大神」であります。
 天照皇大神は この尊い神の御分霊を捧持し直接お伊勢まいりをしなくとも 御神徳をいただくことのできる神社で、明治4年8月「指定村格社に列せられています
 奉納 : 氏子総代
 祭礼実行委員会
 平成14年9月吉日
 「寺西大明神」の石塔は、この拝殿の右手に建つ。

 「桑折陣屋」については、先に整理しているが、その中で、「代官の中には、竹内代官や寺西重次郎代官等のように、桑折で死去し、町内に墓所があるものもあります」として、寺西氏にもふれている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7750549/ 
 その寺西氏の墓所である「無能寺」については、「旧奥州街道の桑折宿」でふれていて、「寺西代官墓所」そのものについてもふれている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7752808/ 
by shingen1948 | 2014-08-09 09:49 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「温泉案内【鉄道院 編(大正9年)】」が案内する庭坂駅から「微湯温泉」への道筋を確認したところだ。
 確認しているのは、庭坂駅から高湯温泉や微温湯泉へ向かう道筋だが、漠とした吾妻連峰のイメージが頭にあって、これらのアプローチ口からのイメージ的なつながりも意識している。

 「温泉案内」には、もう一つの「微湯温泉」への道筋が紹介されている。それが、高湯温泉から「微湯温泉」へ向かう道筋で、これが最も容易だとしている。その理由として、高湯迄は馬も駕籠もあるからだとする。
 「信夫高湯温泉」
 奥羽線庭坂駅より西2里、坂路で車の便はない駄馬1頭1円60銭、人夫一人80銭荷物は7貫目まで、以上1貫目毎に10銭を加える。駕籠荷は3円50銭、荷物は3貫目までは無料で運搬する。

 手持ち地図では、この「信夫高湯温泉」から「微湯温泉」へ向かう道筋は表記されていない。a0087378_11312070.jpg 「スキーとスケート【鉄道省(1924)】」の「五色付近スキー地」の基本的な「スキー滑走路」として高湯温泉から微湯温泉への道筋が紹介されているのをみつけたが、この道筋と重なるのだろうか。

 点線は、上級者コースらしい。
 微温温泉から高湯温泉を経由して町庭坂に降りて行くというコースのようだが、それにつながる上級者コースが二つ紹介されている。
 その一つが、高山から微温温泉までのコースで、もう一つが、東吾妻山から吾妻富士を経由して微温温泉までのコースということのようだ。

 実際に歩くのは、ママチャリと徒歩では庭塚(在庭坂)周辺という狭い範囲であり、今回の散歩で、微温温泉や高湯温泉まで向かうつもりはない。
 資料での確認とする。

 この「信夫高湯温泉」から「微湯温泉」間のコースにかかわる内容を見つけたのは、「福島登高会」の「不動沢」登山記録が紹介されているページだ
 その主な内容は不動沢の沢登りだなのだが、その行動記録の中に、「高湯温泉から微温湯温泉への道」についてふれている部分をみつけたのだ。
 その道筋とかかわる部分とその部分図だけを抜き書きさせていただく。
a0087378_11361733.jpg
 ○ 高湯温泉から微温湯泉への道は今では歩く人もなく、歩きなれた道だったはずなのに、最後まで見つけることができなかった。
 ○ あったはずの高湯から微温湯温泉へ向かう登山道の標識が無くなっている。通い慣れたはずの登山道がゴルフコースの拡幅のため無くなってしまった。入口がいくら探しても見つからない。
 ○ しかたがないので地形図を頼りにヤブ漕ぎを開始し、ようやく昔、微温湯温泉に引いていた電線の道に降り立った。いずれ刈り払いをすこともあるかなと思い、ゴルフ場跡まで登り返して赤布を付けた。1時間のロスをした。
 掲げられた地図と照らし合わせれば、現「花月ハイランド」の東側に、元高湯ゴルフ場跡があって、その中を東に向かい、ある地点から南下して進むと、沢越えの地点に、「微温湯温泉に引いていた電線の道」とつながる道筋があるということらしい。
 なお、近くのユースホステルに宿泊し、ここで紹介される不動沢への道筋は子供連れで歩いた事がある。勿論、滝をみて引き返しただけだ。
by shingen1948 | 2014-08-08 11:38 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
a0087378_95495.jpg  「吾妻地区史跡・文化財案内板」には、この道筋を横切っている道筋が「あづま古道」であることが案内されている。結構古い道筋らしい。

 このこととかかわるのが「温泉案内【鉄道院 編(大正9年)】」で紹介される「微湯温泉」へのアクセス(交通)案内だ。再掲する。
 「微湯温泉」
 ① 奥羽線庭坂駅より西3里半、駅より高湯に至る途中の姥堂から左折して約2里、姥堂までは道路平坦である。姥堂より約半里は平坦な細道で、後の一里半はかなり険しい山道で徒歩を要する。此處からは荷物運搬の人夫が傭(やと)へる。
 ② 庭坂駅より西へ2里高湯に出て、更に左へ1里半で達する。この道は①に比べると余程容易で高湯迄は馬も駕籠もある。詳細は高湯参照。
 ③ 福島駅より5里、此道は、微温湯の手前約2里半の處で①の道と合する。①の道は、3カ年計画で郡道に工事中であるので2、3年後には一層容易になるであろう。
 この①に紹介される「(庭坂)駅より高湯に至る途中の姥堂から左折して約2里」の「姥堂から左折」する道筋が、この道筋なのだろうと想像することができる。
a0087378_992799.jpg 現況では、高湯街道がその勾配を緩めるため、高湯温泉と逆方向に進行し、z字に折れ返して高湯温泉方向に向かうのだが、その高湯温泉と逆方向に進行する付け根につながっている。
 そこから旧高湯道を横切り、須川を横切って、微湯街道に向かう。そこから2里半の處で通称微湯街道、或いは水保街道と合することになると解される。
 この道筋が、③で解説されるように、この時点(大正9年)で、元々の古い道筋を「3カ年計画で郡道に改良工事中」だったということのようだ。
a0087378_9124380.jpg 今回は、庭坂発電所の菅野氏が、須川沿いに姥堂までやってきていることを想像して、須川の橋でその想像を膨らませ、そこから何度かお邪魔した事があるATOMAまでしか進まなかった。
 多分「微湯街道に合する地点」に、先に整理した事がある土舟簡易水道組合のタンクがあったという記憶がある。ただ、同じような道筋が通っているので曖昧なところもある。

 「温泉案内」では、この微湯温泉の案内後半で、「吾妻山へは1里半で噴火口を見ることができる」と案内し、吾妻小富士、五色沼、神楽岩、姥滝などの見どころが紹介される。この頃、「微湯温泉」からの吾妻山散策も意図されているという事も分かる。
by shingen1948 | 2014-08-07 09:12 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 姥堂神社脇の道筋が旧高湯道とのことだが、この道筋に自然につながる道筋を、姥堂の集落を経由し、南林の集落から広域農道を越えて、高湯街道筋に向かう道筋とみた。
 ただ、こちらの道筋は想像しているだけで、今のところ確からしさの確認はできていない。
a0087378_11275620.jpg  「吾妻地区史跡・文化財案内板」に紹介される「山津見神社」らしき神社からこの道筋に入り、高林の集落を越えて、小字上須川端との小字界道筋になる付近に、この石塔群が現れる。
 寛政8年と天明の刻字が読めるので、旧高湯道に続くかどうかは別にしても、古い道筋の一つであるらしいことは確認できる。
a0087378_11284270.jpg 更に、小字姥堂との小字界道筋にも古い石塔群が、……。


a0087378_11301121.jpg 姥堂神社脇の旧高湯道へ続く道筋と想定するのは、この左手の細い道筋だ。姥堂の集落が、この道筋に沿っているようだ。この道筋を進むと、「姥堂神社」と「旧高湯道」を案内する柱のところに出る。
 「吾妻地区史跡・文化財案内板」には、この道筋を横切っている道筋も結構古い道筋だとの案内があったことを思い出す。

 ※ 8/4「あづま運動公園でクマ目撃」で、園内施設が休業したとの情報。
 報道によれば、朝6時に警備員があづま総合運動公園の雑木林でクマ三頭を目撃し、公園内の施設が営業を取り止めたのだとか。親小熊と見られ、親クマの体長はおよそ2m、小熊2頭の体長50㎝とのこと。
 現場近くでは、前日にも目撃されていたという。
 
 ※ 小心者としては、10年近い前からの以下のこの近くの古い熊目撃情報も重要。果物が採れる頃とかかわるらしい。
 ○ 天戸工業所、天戸大橋、アイリス学園付近、親熊
 ○ 東邦銀行研修センター付近、吾妻中南、天戸川北、親熊
 ○ 東邦銀行研修センター・天戸川ますの家の北側付近
 ○ 在庭坂字原の内で、長年クマによる農作物(ナシ)の被害が相次ぐ。
 ○ 在庭坂天戸川付近(小野工業所資材置き場付近)、小熊
 ○ 庄野字茶畑地内、親熊
 ○ 県道福島・微温湯線(青葉学園西)、小熊
 ○ 県道福島・微温湯線(青葉学園北側)、親熊
 ○ 青葉学園近く、熊5頭
 ○ 庭塚小西側(姥堂南林)付近、天戸川南
 ○ 淨楽園付近、親熊
 ○  水保小東側薬品工場付近、親熊
 ○ 福島市西部、佐原橋付近、小熊
by shingen1948 | 2014-08-06 11:31 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 現在確認しているのは在庭坂付近だが、「信達ニ郡村誌」では庭坂村として一括扱いで、在庭坂、町庭坂の区別はない。
 その「信達ニ郡村誌」で、道路の一つとして「高湯道」が以下のように紹介される。
 
一は、内町より末位に支するを高湯道とす。吞塚、六本松を経、天戸川を渡り、渡辺、北前を経、西部の山道に入り、2里18町にして高湯温泉に達する。
 気になる道筋として挙げた五十須場の道筋薬師堂前の道筋が的外れではないということのようだ。

 次に気になる道筋は、旧高湯道に続くべき道筋。
 姥堂神社に続く道筋が旧高湯道とのことなのだが、ここへ自然につながる道筋がどこかということだ。
 姥堂神社から姥堂の集落を経由して、南林の集落から広域農道を越えて、高湯街道筋に向かう道筋なのではないかなと思うが確からしさの根拠はない。この道筋にこだわる要因がもう一つあって、それが南林集落を通るということだ。
 先の散策で、先達山の沢水を水源とする姥堂地域の上部の簡易水道組合タンクがあったが、あれが南林簡易水道組合とのことだった。その高林集落は姥堂地域の直ぐ東側に位置している。その集落を通る道筋ということだ。
a0087378_12121435.jpg この道筋、高湯街道沿いの庭塚南部集会所から入る事になるのだが、その高湯街道を挟んだ東側に、気になる神社がある。「吾妻地区史跡・文化財案内板」に「山津見神社」として紹介される神社でないのかなと思うが、確かではない。


a0087378_12185140.jpg  山津見神社なら、山神を祭る神社ということで、ここから西側に林の関係する小字が並ぶことからも自然なような気がする。
 近くで有名なのは、飯舘村の山津見神社のようで、こちらの眷属神(けんぞくしん)は白狼なそうで、それに伴って、本来の山神の守護に加え、火伏せや盗賊除けの御利益や道中の安全を守るお使いとしての役割を担うようで、そのままこの地でも当てはまりそうな感じがするが、あくまでも単なる想像。

a0087378_1221923.jpg
 その神社前の道筋が、高湯街道を越えて、この道筋にもつながっている。更に、そこのバス停が「姥堂」であり、東側が小字姥懐という事でもある。
by shingen1948 | 2014-08-05 12:23 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
a0087378_1181671.jpg 気になる道筋として、五十須場の道筋薬師堂前の道筋を挙げた。公共の交通手段なら、その経路として主要な道筋を選択するのだろうが、私的な徒歩での移動なら、より近い道筋を選択するという事もあり得ると思うところもある。
 それがこの道筋なのだが、フルーツラインからこの道筋に入る付近に気になる石塔が建っている。
 そのプロットされる地点付近の小字が渡辺なので、多分「吾妻地区史跡・文化財案内板」に「渡辺の道標」としてプロットされているものなのではないかなと想像している。
a0087378_1191012.jpg ただ、ここに刻まれている文字は、中央の「水」以外は読み取れていないので、この石塔が建った意義や「道標」とされる意図は分かっていない。

 この石塔は、道筋の確認で見つけたのではなく、先に天戸川から堰への取水口を確認している時に見つけていた。この時に近くの水天宮も見つけたこともあって、漠然と水防とか堤防とかということとかかわる石塔なのではないかなと思っていたところだ。
a0087378_1111683.jpg のりしろ散歩の場合、疑問が資料を通して解決するということはまずない。想像の翼は広げるが、広げっぱなしのままになる事が多い。この石塔も、そのままになっていた上に、五十須場薬師堂前の道筋とのかかわりも気になったということで、疑問は集約せずに広がったということ。
 集約しない疑問がもう一つあって、それがこの北西側に「元五十須場道」という小字あるということ。
 「五十須場道」という集落が元の地域から移転してきたということなのか、「五十」が開拓を意味し、「須場」を待つところと解して、開拓地と元の開拓地と解するのかとも、……。
a0087378_11115714.jpg ついでのついでにということで、この石塔は観音堂の境内に建つのだが、この字体、岩城の浄土宗とのかかわりで、勝手に気になるなとも、……。
by shingen1948 | 2014-08-04 11:20 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 「吾妻連峰へのアプローチ口としての庭坂駅」としては、その基本的な道筋は次のような事だろうか。
 まずは、庭坂駅を起点とする福島県道198号庭坂停車場線を、福島県道5号上名倉飯坂伊達線の交点まで進む。この福島県道5号上名倉飯坂伊達線が、いわゆるフルーツラインだ。
 そのフルーツラインを福島県道70号福島吾妻裏磐梯線の交点まで南下するのが、次の道筋だろうか。この福島県道70号福島吾妻裏磐梯線が、いわゆる高湯街道だ。 その高湯街道の道筋に沿って姥堂を経由して高湯温泉に進むということだ。

 庭坂駅は、微温湯温泉口としても紹介されている。
 その観点から微温湯温泉までを意識するなら、フルーツラインをそのまま福島県道126号福島微温湯線の交点まで南下することになるのだろう。この福島県道126号福島微温湯線が、いわゆる微温湯街道、または水保街道ということだ。

 ただ、繰り返して散歩していると、その交点付近で何本かの道筋が気になるようになる。
a0087378_11315377.jpg この辺りの散歩はじめが「阿保原地蔵尊」の確認だったということもあって、最初に気になった道筋は、五十須場簡易水道組合解散記念碑も建つ「五十須場薬師堂」前の道筋だ。
 この道筋は、フルーツラインを進んで、天戸川を渡ると直ぐに右折し、そのまま進むと福島県道70号福島吾妻裏磐梯線につながる。

 その交点には、庭塚村の道路元標が建っている。
 庭塚村は、明治22年(1889)に信夫郡庭坂村から分村した在庭坂村と二子塚村が合併してできた村だ。昭和29年(1954)には、庭坂村と合併して大庭村となる。昭和31年(1956)には、その大庭村が野田村、水保村と合併して吾妻村となるという経緯をたどり、昭和43年(1968)には、吾妻町が福島市と合併する。

 この庭塚という名称が残るのは、学校や地域の団体など限定的だ。地域の概念としては存在するのだが、確認の作業では、「在庭坂」と「二子塚」に分けて確かめた方がいい。
by shingen1948 | 2014-08-02 11:35 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 五十須場薬師堂について整理しているが、最初にここに興味を持ったのは、薬師堂の左手の「阿保原地蔵尊」の方だった。
a0087378_9485526.jpg まだ「阿保原地蔵尊」について整理していないのは、松川沿いの阿保原地蔵尊の碑面を確認するのに、その汚れをふき取ったり、周りの草をどけて写真を撮ったりしたのだが、御近所の視線を感じることがあって、ほとぼりが収まるまで控えていたからだ。
 そちらの整理は後からにするが、とりあえず「阿保原地蔵尊」の情報の確認だけは進めているのだが、先の上野寺付近の散策の中で、「吾妻地区史跡・文化財案内板」に、在庭坂に「阿保原地蔵尊」がプロットされているのをみつけたのだ。それで、とりあえず確認しようとしたものだ。
a0087378_9544664.jpg 先にママチャリのパンク事件を記したが、それはここに来ようとした時の話だ。
 そのパンクのその後の話としては、とりあえずパンク修理道具とバルブ、それに簡易空気入れをリックに入れて何時も持ち運ぶようにした。
 ショックだったのは、この辺りは庭坂に運転試験場がある関係で、自転車大会の地元のはずと思っていた。当然、自転車屋さんは少なくとも各小字毎に一軒位の割合であるのだろうという思い込みがあったのだ。しかし、実際には町庭坂に1軒あるのみで、庭塚(在庭坂)には1軒もないということで、自転車の盛んな地域というのは錯覚であることが分かったということだ。

 「阿保原地蔵尊」の話だが、中を覗かせていただいたが、ここの地蔵尊が阿保原地蔵尊なのかどうかは素人にはよく分からなかった。
 薬師堂に掲げられた案内板には、以下のように記される。
 「阿保原地蔵尊」
 阿保とは守り育てるということで、子供が丈夫に育つように守ってくれる地蔵さまです。また、口の中の病気を治してくれます。お祭は4月8日です。
 焼野にある小さな地蔵尊も、ここと同じく子供をまもってくれます。だから子育て地蔵尊とも阿保原地蔵尊とも言います。昔は、原っぱに阿保を願って建てられたからと思われます。
 自分の持つ「阿保原地蔵尊」のイメージと重なるのは、「口の中の病気を治してくれます」の部分だけで、他は普通の地蔵尊信仰の解説のように見えている。
by shingen1948 | 2014-07-31 09:57 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)