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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 以下は、「心霊科学研究会」機関紙に掲載される石塚直太郎氏の論と思われる情報を拾ったものだ。

 1923(大正13)年5月1日心霊界第4号「父の死を遠隔予知す」石塚直太郎
 1924(大正14)年2月11日心霊界第2.3合冊号「霊媒に就いて」石塚直太郎
 1924(大正14)年6月1日心霊界第6号「幽霊の報恩」石塚直太郎
 1924(大正14)年11月1日心霊と人生第11号「疾病に就ての卑見」 福島県会員石塚直太郎(寄)
 1925(大正15)年7月1日心霊と人生第7号「生ける地蔵」石塚直太郎
 1931(昭和6)年11月1日心霊と人生第11号「疾病に就ての卑見」石塚直太郎

 仙台に東北心霊科学研究会が設立された時に東京には日本心霊科学協会が設立されるが、どちらもその前身は、浅野和三郎氏が設立した「心霊科学研究会」と「東京心霊科学協会」とのことだ。(「心霊科学研究会」は関東大震災後、本部は東京を離れ、大阪→京都→横浜市の自宅と移るよう。そして、東京での活動のために「東京心霊科学協会」も設立されていたという経緯のようだ。)
 その「心霊科学研究会」の機関紙は、当初「心霊研究」が創刊される。これが3号まで続くが、事務所が関東大震災で罹災して廃刊になるようだ。この機関誌の性格は「純学術的報告機関」ということだったようだ。
 石塚氏が投稿する「心霊界」はその後継誌ではあるが、その役割は大衆化されていたようだ。扱う内容も「宗教、政治其の他百般の人生問題、思想問題」と大きく変容していたという。その後半は「心霊と人生」と改題されているが、雑誌の性格はそのままだったとのこと。 
 これが昭和53年(1978年)12月号まで発行されたとのことだ。

 この後に仙台に東北大学金属材料研究所白川勇記教授を所長として福来友吉の業績を記念する「福来心理学研究所」が開設されるようだ。
 その「財団法人福来心理学研究所」付属の啓蒙団体「福心会」の機関機関誌が「福心会報」のようだが、その1961(昭和36)の№1号に石塚直太郎氏肖像が掲げられ、「石巻史蹟崖に関する実験(石塚直太郎)が掲載されているようだ。
 その内容までは確認できていない。
 なお、1924(大正14)年11月1日発行の「心霊と人生(第11号)」には、石塚氏は福島県会員の寄稿と表記されることから、この時点では鳴子から飯坂に転居されていたのだろうと想像する。
by shingen1948 | 2020-03-12 09:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「神霊の学者」というのも懐疑的な見え方の一つだろうと思っていた。
 しかし、当時の宮城県を文化圏とする範囲では、この神霊という概念が受容されていたのではないかという情報を見つけた。
 これも散策人にとっては、新たな見え方だ。

 昭和21年8月に福来友吉博士のまわりに集まった人たちが中心となって「東北心霊科学研究会」が仙台に設立されている。
 昭和15年に高野山大学教授を退職した福来氏が、20年3月に大阪箕面から妻の郷里仙台(青葉区宮町)に疎開して来られたこととかかわるようだ。
 その会長が、後に東北大学金属材料研究所所長となられる物理学者の東北大学助教授白川勇記氏とのことだ。そして、その顧問には福来氏と共に土井晩翠氏、志賀潔氏が名を連ねているようなのだ。

 神霊の学者石塚直太郎氏が「天皇御陵の発見者」となるのは大正12年、鳴子温泉遊覧案内を著わすのが大正12年、飯坂湯野温泉遊覧案内を著わすのが昭和2年だ。
 そして、井野目村人紺野伴右エ門に依頼されて、井野目堰にかかわる願外しが「録し伝説に遺す」ことになるのだが昭和28年だ。
 この依頼には、この仙台での心霊科学に関する大きな動きがあったことともかかわるのではないかと想像するのだ。

 「神霊の学者」を懐疑的に見てしまう見え方を否定的に整理してみると、以下のような見え方になるのだろうか。

 近代西洋科学で説明がつかない現象は「迷信」として処理することになる。
 したがって、学者は既成科学の枠内に収まらない心霊現象を目の当たりにすると、まずは現象が詐術ではないかと疑い、次に現象を既存の科学知識の延長線上で説明しようともする。
 しかし、心霊現象は既成科学の枠内に収まることはないので、胡散臭く見られて排除されることになる。
 こうして、日本人が長い間慣れ親しんできた物的実体以外に霊的な実体が存在するという実体二元論的な思考法が、近代西洋科学の思考法からはじき出されてしまった。
 この思考法は、明治政府の近代化政策の一つでもある「迷信撲滅の方針」とも相まって、既成科学の枠外に置かれていった。
by shingen1948 | 2020-03-10 11:51 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
旧八反田川の川筋の散策の中で④_a0087378_914270.jpg 関心事は、この忿怒相の大黒天がこの地域でどのように受け入れられていたかということだが、その手持ち情報はない。

 ここの案内板の後半に以下のような付記がある。

 「伝えによると、仙台伊達氏の持仏とされていたものが廃仏毀釈のあおりで市場に出され、それを明治元年(1868)教法院の法印石川民部氏がもたらしたものであるといいます」

 この地での名の通った権力者の持仏らしいというというのも、地域に受け入れられやすい情報の一つなのだろうとは思う。ただ、これは忿怒相の大黒天自体の魅力による受け入れということではない。

 それで、この忿怒相の大黒天を所持する寺では、どのような取り扱いをしているのかを確認してみた。
 ここの案内では、忿怒相の大黒天は、曼陀羅図像としてはしばしば見受けられるが、彫像としては全国的にもまれであるとされている。
 そのまれな彫像を所持する寺を確認すると、その一つが因幡薬師堂の平等寺であることが分かった。ここの因幡堂大黒天がこの忿怒相の大黒天なそうだ。

 京都には大黒さん利益巡りである京都大黒霊場会というのがあるそうだが、その第5番が平等寺の因幡堂大黒天とされているようだ。
 この因幡堂大黒天は、甲子(きのえね、こうし、かっし)の日限定で公開されるとのことだ。
 「ウィキペディア」によると、甲が木性、子が水性で相生(水生木)の関係にあり、また、干支の組合せの1番目であることから、甲子の日は吉日とされているとのこと。
 それで、子を鼠と結び付かせ、鼠を大黒天の使者とみなして、大黒天祭(甲子祭)が行われるとのことだ。

 この因幡堂(平等寺)のホームページでは、その甲子の日に授与されるという大黒天の御朱印(黒印)・御身影・勝運守りが紹介されるフェイスブックの写真が確認できる。
 https://inabado.jp/index.html
 なお、今年の最初の甲子の日は、1月22日だったそうで、次回は3月22日なそうだ。
by shingen1948 | 2020-01-30 09:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回整理したように、信達坂東33番札所の13番札所は、平野六角の教法院とされる。
 そのご詠歌を確認すると「観音を 拝む人をば 天王も 下にくだりて 守りとぞ 聞く」とされ、天王下の地名が織り込まれているようなのだ。
 これが、「平野の伝承とくらし」で、「天王下観音堂」が「信達坂東33番の第13番大悲大慈正観世音菩薩の札所になっている」と解説される事とかかわるのだろうと想像したところだ。
 ただ、同誌では、教法院とのかかわりについてはふれていない。
旧八反田川の川筋の散策の中で②_a0087378_8373953.jpg
 この観音像は、カラカネで仏様を造る元二本松藩御用達の日和田の鍛冶屋に頼んで、3年がかりで造られたものなそうだ。3日がかりでこの仏像が運ばれてくる様子まで紹介される。
 しかし、その開眼に教法院の法印様がかかわったのかどうかという事についてはふれていない。

 台座の左手の蓮に、「発願主橋本惣右衛門」氏が刻まれていることが分かる。その姓から、この「平野の伝承とくらし」の情報提供者がかかわりのある方なのではないかと想像する。

 なお、鳥渡観音寺の情報によると、教法院は宗教法人ではないが観音寺(天台宗)の末寺になるとの事。元来修験の法印様のお寺とのことだ。
by shingen1948 | 2020-01-26 08:38 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
撮り溜めた写真から24~医王寺の石造供養塔群⑤_a0087378_9412641.jpg こちらは、佐藤基治・乙和ご夫妻墓碑とされる。こちらも「医王寺の石造供養塔群」の一部という見え方もあれば、こちらがスポットライトを浴びせるメインの石塔という見え方もある。
 医王寺のホームページでは、その視点から以下のように紹介されている。

「 奥の院薬師堂の境内に見られる板碑群は、信夫荘司一族の墓域と伝えられ、中央に佐藤基治・乙和、右側に継信・忠信の墓碑といわれる石碑があり県指定重要文化財に指定されております。 
 凝灰岩の奥州型板碑を主に大小60数基が安置されています。石塔が削り取られているのは、熱病の際に削って飲むと治るという伝えがあり、継信・忠信のような勇猛な武士にあやかりたいという信仰であったと思われます」

撮り溜めた写真から24~医王寺の石造供養塔群⑤_a0087378_942274.jpg こちらが嗣信忠信墓碑とされる。
 医王寺のホームページでは、「佐藤継信と忠信の墓碑。墓はすべて板碑作られておりで、これらの板碑は福島市の文化財に指定されております。このお墓の石を削って飲むと病が治ると言われており、削られた跡がみられます」と紹介される。

  ◇        ◇         ◇          ◇
 前回、悲母か慈母かにややこだわったのは、先に整理した「下鳥渡供養石塔」とのかかわりだ。
 この石塔の解説に「阿弥陀三尊を浮彫りにした左右の年忌と願文によって、正嘉2年(1258)9月に悲母(亡母)の供養のために平氏の女が建立したことが知られる」とあったのだ。その「悲母(亡母)」を「悲母=亡母」と勝手に解釈していたのだ。

 逆修というのは以下のようなことなので、それと会わないのではないかとの思い込みがあったのだ。

 逆修というと、生前に戒名を授けてもらって、その戒名を位牌・墓に刻んで、文字を朱で埋めておいて、死後これをとり除くという習俗をイメージする。しかし、本来的には「生前に逆(あらかじめ)自己の死後の冥福を祈って仏事を行う」ことをいうのだそうだ。死後の追善供養では死者に達する功徳は1/7と説かれ、「地蔵菩薩本願経」で、逆修は7分の徳すべてを得る事ができると説かれるのを受けて、平安中期以降天皇貴族から民間に至るまで広く行われた習俗とのことだ。

 しかし、確認すると悲母と慈母は同義語なそうだ。
by shingen1948 | 2017-07-04 09:44 | ★ 季節便り | Comments(0)
撮り溜めた写真から23~医王寺の石造供養塔群④_a0087378_923349.jpg この大型の長方形の板碑とその手前の板碑がセットで、父母の逆修碑とのことだ。

 ただ、案内板の解説だけでは母の供養塔でもあるとする部分が読み取れないでいた。
 「ふくしまの歴史(2中世)」の「医王寺の板碑」にそのヒントが記されているのに気がついた。
 ここに「このうち正和2年(1313)の2基には、真言宗系の仏をたたえ、その教えを述べた文が記されているほか、それぞれ「慈父蓮仏逆修」「悲母逆修」とあります」とあったのだ。

 「慈父蓮仏逆修」が大型の長方形の板碑の銘文に刻まれていることは案内板に紹介されていた。ということは、右手の石碑に「悲母逆修」を読み取ったということだろうと思う。
 「集古十種」の「陸奥国佐場野医王寺碑(併)同国信夫郡飯坂天王寺碑」で解析された銘文と照らし合わせると、右側の「右造立之□為□□逆修」の逆修の上の二つの未解読部分に悲母が入るという事なのだろうと思う。
 つまり、右側に刻まれるのが「右造立之□為悲母逆修」ということになるようだということだ。
 この確認のために、もう一度拓本とも照らし合わせてみると、之と為の間に文字はなさそうだ。ということで、右側に刻まれるのは「右造立之為悲母逆修」ということになるのかもしれない。

 ついでに、左側に刻まれる文字も確かめると、業の上の文字もなさそうだ。また、素人の勝手な見え方では、手書きにした部分は「辨」のようにも見えるが、こちらはよく分からない。
 もう一つ素人の勝手な見え方としては、大型の長方形の板碑とその隣の板碑が対をなして父母の逆修というのであれば、不明文字を「慈母」と読んでもよさそうに思うのだが、どうだろうか。

 もう一つ気になるのは、「真言宗系の仏をたたえ、その教えを述べた文」の部分。確かに大型の長方形の板碑は、「弘法大師作の偈頌(げしょう)」を天台宗と真言宗で用いられる回向文で挟んでいるのは確かめた。
 しかし、その右手の石碑に刻まれるのは「識・除・理・如」だけだ。
 これは、上部が欠けているとのことなので、四行の末尾がこの四文字になるということなのだと思う。恐らく「識」と「理」にかかわる仏教の教えにかかわる言葉なのではあろうと思うが、こちらだけで真言宗の言葉とは断定できないような気もするが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2017-07-03 09:05 | ★ 季節便り | Comments(0)
 案内によるとやや後ろにのけぞっているように建っている大型の長方形の板碑とその右側の石塔はセットで父母の逆修供養塔と解説していると読み取る。
 解説の「なかに、松平楽翁の「集古十種」にのっているものが中央より左にあります。上部が欠けた正和2年の板碑」と大型の長方形の板碑とセットで父母の逆修供養塔だとする石塔が同じものなのだと解釈した。

「国立国会図書館デジタルコレクション」で松平楽翁の「集古十種」を確認すると、「集古十種(碑銘之部 下)の48/75にその拓本が確認でる。
 そして、そこから読み取って整理されたものが「巻之八」の「碑銘類(21)104」の59/104に「陸奥国佐場野医王寺碑(併)同国信夫郡飯坂天王寺碑」としたものだと推察する。
 以下のような整理だ。
撮り溜めた写真から22~医王寺の石造供養塔群③_a0087378_5454854.jpg  陸奥國佐場野醫王寺碑
高2尺8寸余
横1尺7寸余

 どうでもいいことだが、実際に確認してみると、松平楽翁の「集古十種」ではこの板碑を正和3年と読んでいるように見える。これは、ミスではなくて、セットで父母の逆修供養塔との考察を得られた後、こちらも正和2年の板碑だと同定したものだと推察する。拓本を見ると、確かにどちらにもとれそうな感じはする。干支との照らし合わせ確認が済んでいるのかどうかは分からない。
by shingen1948 | 2017-07-02 09:44 | ★ 季節便り | Comments(0)
 やや後ろにのけぞっているように建っている大型の長方形の板碑について、次のような図解入りで解説されている。
撮り溜めた写真から21~医王寺の石造供養塔群②_a0087378_5272289.jpg 説明では、梵字の部分については、「一字金輪仏の種子『ボローン』」と表現される。
 知識が無いので確認する。
 「一字金輪」は、密教で、大日如来が最高の境地に入って説いた真言である (梵bhrūṃで、勃嚕唵(ぼろん)と音写)の一字を人格化した仏頂尊。像は結跏趺坐(けっかふざ)して手に印を結ぶ姿に表される(小学館デジタル大辞泉)とのこと。

 その下に刻まれるのは、「弘法大師作の偈頌(げしょう)」とのことだ。
 読み下すと、以下のようだ。

 五大に皆響きあり
 十界に言語を具す
 六塵悉く文字なり
 法身は是れ実相なり

 読み下しても分かった気分にもなれないので、キーワードを確認する。

 五大=宇宙(あらゆる世界)を構成しているとする地・水・火・風・空の五つの要素のこと。
 十界=天台宗の教義において人間の心の全ての境地を十種に分類したもの。六道(下から地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)に声聞、縁覚、菩薩、仏を付加したもの。
 六塵=(仏教)人間に煩悩を起こさせる六つのもの;色・声・香・味・触・法で、眼耳鼻舌身意の感覚器官でとらえることのできる知覚対象。
 法身=真理そのものとしてのブッダの本体、色も形もない真実そのものの体をいう。真理(法)の身体、真理(法)を身体としているものの意味。
 実相=すべてのもののありのままのすがたをいうのである。無相こそ萬有のありのままの姿。法性、真如、如実。

 こんな風に捉えるとのことだ。
 地・水・火・風・空の五大からなる森羅万象には、皆、真理を語る響きがあり、地獄・飢餓・修羅・人・天・声聞・緑覚・菩薩・仏の十界すべてに真理を語る言語がある。
 色・声・香・味・触・法の六塵、すなわち私たちの感覚によって把握される認識の対象は悉く真理を語る文字であり、究極のホトケたる大日如来とは、この世界のあるがままの姿に他ならない。

 これ等を、以下の言葉で挟んでいるが、これは天台宗と真言宗で用いられる回向文ということのようだ。

 願以此功徳 普及於一切
 我等與衆生 皆共成佛道

 読み下すと、以下のようだ。
 
 願わくは、この功徳を以(も)って 普(あまね)く一切に及ぼし 我等と衆生(しゅじょう)と 皆共(みなとも)に仏道を成(じょう)ぜんことを

 その下に「慈父蓮仏」が刻まれるとのことで、この板碑は、父の逆修供養塔ということのようだ。
by shingen1948 | 2017-07-01 09:26 | ★ 季節便り | Comments(0)
 奥之院薬師堂の西側に「医王寺の石造供養塔群」の案内板が建っている。その案内によると、そばの荘司夫婦の墓塔と伝えられる石塔も、右端の佐藤継信・忠信の墓塔と伝えられる石塔も含めて「医王寺の石造供養塔群」ということのようだ。
 前回ここを訪ねた時は、この墓塔と伝えられ石塔を確認しただけで、医王寺の石造供養塔群全体を見ていなかったような気がする。

 若い頃、地層の観察の実地学習で、直ぐにその岩場に近づこうとした時に、遠くから煙草を吸いながら一服して全体を眺める事が大切な事なのだと指導されたことを思い出した。
 この指導を当てはめると、最初からこの寺の見どころの一つである佐藤氏の墓塔に視点が行ってしまうと、「医王寺の石造供養塔群」全体は見えなくなってしまうよという事に通じる。全くその通りの過ちを犯していたということだ。

 今回は、先にこの墓塔の他の石塔群にかかわる案内を素直に読み取ってみる。
撮り溜めた写真から⑳~医王寺の石造供養塔群_a0087378_5511116.jpg 案内によると、この石塔群は昭和18年頃に付近の山のものも含めて整理されたものなそうだ。

 石塔の形状からの分類できる見え方の説明がある。
 その一つは、長方形の厚石や自然石を加工した奥州型板碑とのことだ。
 もう一つが、頭部が山形でその下に2条線を刻み、額部・基部を備えた関東型板碑とのことだ。
 そこに等とついているから、他の型もあるのかもしれない。ともかくここにはそれらの石塔が60余基保存されているということだ。
 しかし、その岩質が、いずれも凝灰岩製であるため、多くは摩滅して種子(梵字)年紀、建立趣旨などが不明だという。ただ、読み取れるものには、弘長・正和・建武・永和などの年号が刻まれているいるものもあることから、鎌倉中期から南北朝のものと考えられるということだ。

 詳しく説明されるのは、この写真のやや後ろにのけぞっているように建っている大型の長方形の板碑と、その手前の板碑だ。こちらは、石塔の形状からの分類の解説の「奥州型板碑」だろうと思う。

 ちなみに、その手前の板碑は、基部を備えているかどうかは分かりにくいが、頭部が山形であり、よく写真を確認してみるとその下に2条線が刻まれているのが確認できる。ということで、こちらは「関東型板碑」とみたが、どうだろうか。
 この石塔を「関東型板碑」のモデルとして写真の他の石塔を眺めると、奥の小さな石塔は山形も2条線もはっきりしないが、額部の形状が似ているということで、こちらも「関東型板碑」かななどと、今までなかった視点で眺めることができる。
by shingen1948 | 2017-06-30 09:48 | ★ 季節便り | Comments(0)
 今回は、医王寺奥の院薬師堂を、この寺の歴史的な背景にかかわる意識をできるだけ取り除き、民間信仰の視点から整理してきた。
撮り溜めた写真から⑲~除病安楽祈願_a0087378_1714388.jpg 今回、除病安楽は薬師様の第7願として整理している事は、病気の苦しみを取り除いて心身の安楽を得られるようにお願するという意味では、先に「さいで地蔵」や「阿保原地蔵」で整理した祈願と共通することのように思う。

 これ等を、若い頃は苦しい時の神頼みという事に目がいっていたのだが、最近は、そこにその願いはかなえられることもあったのではないのかなという思いが付け加わっている。

 年を取るにつれて健康にかかわる情報に敏感になっているのだが、その情報の中の一つに、薬の効力にかかわる次のような情報が頭にあるのだ。

 薬効を試す検査で、ニセの薬(全く効果のないとされている薬=プラセボ)を飲んだ場合でも、「これは効くぞ」と思って飲んだ人は効いてしまうんなそうだ。
 それは、薬に限らずいろいろな治療法や健康法にも当てはまるそうで、これをプラセボ(プラシーボ)効果というそうだ。
 このプラセボ(プラシーボ)効果は、あらゆる治療行為において数十%は入り込み、時には60%近くの結果に大きくかかわる割合で有効性を発揮してしまうこともあるのだとか。
 薬効を試す検査では、このプラセボ(プラシーボ)効果は、検証しようとする治療法にとっては「雑音」であり、取り除くべき対象として解説される。
 
 今回の整理で注目したいのは、「これは効くぞ」と本気で信じ切ってしまったら、少なくとも数十%は効いて、時には60%もの割合で本当に効いてしまうというというという部分だ。これが科学的に証明されているというふうに読み取ってもいいのではないかとも思うのだ。

 ならばということで、不謹慎かもしれないが、このことと除病安楽祈願を結び付けてみているということだ。
 もし、信心が少しでもあれば、数十%は「ごりやく」があるということであり、信心が深ければ時には60%もの「ごりやく」を期待しても、不合理とは言い切れないということではないのかなと思えるのだ。
 これを「霊験あらたか」と表現しているのではないかという勝手な解釈だ。

 自分には、今は疑いなく心から信じ切るという能力が欠如している。しかし、祈願する側の信心深さによって「ごりやく」が期待できるのならば、その力をつけておきたいとも思う。
 お願いされる対象のありがたさというとらえではないという歪みはあるが、それでも除病安楽祈願の願いはかなえられるという結論ではあるということだ。

 今の時代、病気になった時には合理的な治療法を得る事は容易だ。そこに、疑うことなく信心深くおすがりする力を身につければ、その信じる対象から「霊験あらたか」な力を受容できるようになるのではないかなという身勝手な捉えだが、どんなものだろうか。
by shingen1948 | 2017-06-28 17:19 | ★ 季節便り | Comments(0)