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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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旧道諸説を歩いてみる⑦

 今回は、旧道諸説のうちの現在の福島大学北側のハッツケ地蔵から北進する道筋とそのバリエーションの逆コースを歩いてきた。
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 その最後の行程にあたる開発道から福島大学北側へ向けての道筋が地図にはあるのだが、実際の道筋は心もとない。
 それが、この右手に写る道筋のはずなのだが、この先に抜ける道筋までは整備されていないようだ。ここで切れている。確かに、その奥に福大の建物らしきものが見え隠れしている。


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 その道筋の右手に、整備された下り道があるが、これは水道管理道らしい。この先は、迷い込んだことがある道筋とつながるのだろう。


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 今回は、ここまでにしようと開発された道筋を下る途中で、先の福大らしい建物を確認する。

 実はよく分かっていなかったのが「ハッツケ地蔵から北進する」とあるその「ハッツケ」という言葉だ。「八景」・「はっつ」・「はつけ」等のいろいろ可能性を探ってみた。


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 いずれも、イメージしたのは、崖とか村はずれとかということで、どれも風景と溶け込む。それで気にもしなかったのだが、最もそれらしい可能性が高い情報は、福島大学図書館付近に「はりつけ地蔵」というのがあるらしいということ。

 道筋を整理する。
 見失ったのが、紺色の道筋。今回歩いてみたのが、小林氏が石那坂にかかわる自説とのかかわりで提示した奥大道で、橙色の道筋の延長した道筋。基本的に福大の北側から東北新幹線のトンネル福島側に抜ける旧道の道筋だ。
 もう一つの道筋である「字本山地内から旧平沢村の湯ケ原に下りる」道筋は、今のところ、米沢街道とされる道筋に近いのではないかと勝手に思う。
by shingen1948 | 2012-04-09 05:24 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)

旧道諸説を歩いてみる⑥

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 暫く笹藪の道筋に沿って歩いていくと、その道筋が登り道になりかけたところで、本格的に道筋が塞がれることになる。
 その先が最近の開発道なのだろうことは、直ぐに分かる。先の左手に並べられた樹木は、この開発道からの侵入を防ごうとしたものらしいことがこの時に納得する。


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 今まで歩いてきた道筋は、開発道からは侵入を禁止された道筋だったことが分かる。


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 開発道に沿って南に進むと、開発道の右手に旧道が見える。もう一度、旧道の道筋に入り込む>
こちらは進入禁止にはなっていない。


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 その道筋から再び開発道に脱け出るようになるのだか、その脱け出た所に気になる土塁が積まれている。
 今までなら、家に戻って汚れものを洗濯機に放り込んで終わりになるところだが、そうはいかない。その日は、とりあえずビニール袋に放り込んで外に置き、次の日からママチャリとその来ていた服の泥を外の水道で洗い流すということになる。

 この付近の旧道諸説は、大きくは二つの道筋だ。その一つは、「現在の福島大学北側のハッツケ地蔵から北進する」道筋とそのバリエーションであり、もう一つが、「字本山地内から旧平沢村の湯ケ原に下りる」道筋なのだと思う。
by shingen1948 | 2012-04-08 05:26 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)

旧道諸説を歩いてみる⑤

 穏やかにS字に進む辺りには、まだ残雪があったりするが、それから後は整備された道筋がずっと続く。
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 松林付近からは、写真でも明かに西側が開けたという感じがする。その開けた西側に平場が開けたり、その平場に崩れた石塔があったりするような普通の山道が続く。

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 それが、突然にその道筋の左手に樹木が並べられるようになる。左手に行く事を禁じたものなのか、あるいは左手からこの道に入り込む事を禁じようとしたものなのかは分からなかった。そして、その道筋自体が樹木で塞がれる。

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 とりあえずその先を確かめようとした辺りで、西側の視界が開け、おおよその位置の見当がつく。
 そこから更に進むと、道筋が二つに分かれる辺りだ。


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 西への下り道となる道筋が見える。
 家に戻って地図と照らし合わせてみる。地図にはこの道筋はないのだが、降りた西側の道筋が描かれることとのかかわりから、これが、東山道の諸説の一つ「現在の福島大学北側のハッツケ地蔵から北進して牛坂に降りる」道筋のその「牛坂に降りる」道筋だったのではないかと想像する。


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 それからも暫く笹藪の道筋になるが、砂利敷きの道筋だ。
by shingen1948 | 2012-04-07 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)

旧道諸説を歩いてみる④

a0087378_453246.jpg 歩いた感覚でいうと、最初に左側に回り込む道筋が、右に大きく回り込む辺りまで、笹藪の中で、じめじめとした道筋だったというイメージだ。
 途中、右手に鎖の車止めの道筋が見える。この道筋が山発田へ降りる道筋だろうか。


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 阿部氏が描く旧米沢街道を水色でなぞり、奥州街道の道筋を赤でなぞる。そこに、小林氏が奥大道をイメージする旧道を橙でなぞると、緑の道筋に気づく。これが、山発田へ降りる道筋だろうと想像する。
 これが、東山道の諸説の一つ「石那坂の吉次宮手前から山発田に降りる説」を思い浮かべる道筋だろうか。メモには「山発田は、大日本地名辞典に「昔のもの片原の宿」があるとする」とも。

 暫く藪が続き、小心者なので、戻り時を考え始めていたのだが、その藪道を過ぎると、やや整備された道筋になる。
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 砕石で整備された跡がみえ、轍も見える。このあたり、地図で確認すると、上りの東北線のトンネルを横切るあたりだろうか。
 それで、そのままもう少し進んでみる事にした。


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 撮った写真を確認してみると、暫くは視界が塞がれているように見えるのだが、歩いた後の感覚的では、西側が何となく開けたという感じで歩いていたような気がする。
 尾根近くを通っていたことなのだろうとは思う。
by shingen1948 | 2012-04-06 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)

旧道諸説を歩いてみる③

 昨日「新幹線の側道に建つ村の神社のイメージ」とした施設は、半沢氏のメモによれば、「下石地蔵堂」ということらしい。また、その西側に建つ石碑は、明治9年から22年に、平石の5つの沼の改修に尽力した佐藤伴右衛門の功徳碑らしい。
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 小林氏は石那坂の戦いにかかわった寄稿では、新幹線側道からトンネルの上部へ続く旧道が奥大道とするようだ。
 黒沼神社物語か地元研究会誌等から旧道の道筋にかかわりのある部分を抜き書きしたメモでいえば、「曲がらずに、字吉次下―町畑―の旧道あたりが、片原(石那坂)千軒とも」とあるあたりが、それに相当するのだろうか。
 その道筋を、北側から確認できるところまで進んでみた。
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 上り始めると、左手に沼が見える。これが、明治9年から22年にかけて改修されたという平石の5つの沼にかかわるものなのかどうかはわからない。少なくとも、その位置と高低から平石の耕地にかかわる大切な沼だろうとは思われる。
 「ふくしまの歴史」の「吉次伝説」の項に、炭焼き藤田と吉次のかかわりが解説され、その吉次の石宮がこの山頂にあると紹介される。
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 これは、旧道が一度右に回り込んで、左に回り込み始めるころの辺りだが、既に笹藪の季節だ。清水宿の出雲大神とのかかわりで気にはなるのだが、今回はその確認はしない。その気になる事を記してだけおく。

 清水宿の出雲大神宮案内由緒によれば、その神社は、その炭焼き藤田と吉次の氏神とかかわり、その出雲大神が移されてきたとすることで、その出雲大神宮案内由緒の解説とのかかわりで気にはなる。
 出雲大神は、炭焼き藤田の家の氏神として祀られたとし、その炭焼き藤田と金売り吉次伝説とを関連させて解説する。その炭焼き藤田の家の位置だが、「長者屋敷と呼ばれ村人とともに栄えたが、鎌倉幕府による奥州合戦・石名坂の戦いで消失」とある。更に、平石の長者屋敷は、平石小学校の東側とのこと。

 小林氏が描く東山道の道筋とのかかわりでいえば、その道筋から西側に下った地点であり、東山道の諸説の一つ「石那坂の吉次宮手前から山発田に降りる説」を思い浮かべる地点でもある。
 更には、大日本地名辞典に「昔のもの片原の宿」があるとする山発田ともかかわるかとも。
by shingen1948 | 2012-04-05 05:32 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)

旧道諸説を歩いてみる②

 以下は、黒沼神社物語や地元研究会誌等から、旧道の道筋にかかわりのある部分を抜き書きしたメモだ。
 〇 金谷川駅から北に進み、字本山地内から旧平沢村の湯ケ原に下りるか、現在の福島大学北側のハッツケ地蔵から北進して牛坂に降りるか、石那坂の吉次宮手前から山発田に降りたものと思われる。
 〇 この山発田は、「昔のもの片原の宿」といった。(大日本地名辞典)。ただし、山を開いて耕地とする意あり。
 〇 曲がらずに、字吉次下―町畑―の旧道あたりが、片原(石那坂)千軒とも。
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 まずは、小林氏が奥大道とする道筋とかかわりながら散歩する。

 地元の歴史愛好会の雑誌に、小林氏が石那坂の戦いにかかわる自説を寄稿するが、その資料として石那坂合戦関係図が示される。その図には、奥州街道と奥大道が描かれているのだが、そこに散歩にかかわった道筋と阿部氏が描く米沢街道を書き加えた。

 福島盆地に入っての小林氏が描く奥大道の道筋を緑の線でなぞった。
 この道筋は、新幹線沿いの道筋と東北本線下りの道筋の間を通り、永井川付近では新幹線の東側をそのまま進むように描かれる。
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 茶色で書き加えた道筋は、先の散策で平石石那坂村から清水宿に抜けた道筋だ。あてもなく散歩する時には、この道筋に入ることが多い。
 その道筋に「南無阿弥陀仏」の百万遍供養塔の石碑が建つ。その供養塔と左下の書き込み。

 その右手の水色の道筋が、奥州街道だが、これは小林氏が描いた道筋をなぞったもの。

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 現在は、新幹線の側道に建つ村の神社のイメージだが、古い道筋ならその反対側の位置になるのだろうか。
 目印となる施設を確認する操作を通して、その風景と古道の道筋を重ねてイメージしながら、新幹線の側道としか見えなかった道筋に、古道を感じながら進んでみる。


 なお、赤で書きくわえた線は、阿部氏が描く米沢街道の道筋だ。
 また、紫で示した辺りが石那坂トンネルで、先に石那坂碑とのかかわりで整理した辺りだ。「奥の細道を歩く」の著者が、平石から奥州街道に抜けようとしたのは、石那坂碑への案内で、このトンネルの上を登った石那坂碑に導かれ、そのまま坂を登って、バイパス経由で奥州街道に行きつくという道筋だったろうと想像する。
by shingen1948 | 2012-04-04 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
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 奥州街道清水宿の出雲神社の案内板説明にある吉次伝説について、「ふくしまの歴史」では、吉次は、義経の道案内人をした「金売り吉次」の話として伝わるとある。
 その解説では、古金山・山発田・吉次森・長者屋敷・両日森(宝を隠した場所)など、黄金伝説とかかわりそうな地名を紹介する。

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 ここで、紹介される吉次の石宮は、新幹線北口上であり、これが、小林氏が石那坂の戦いとのかかわりで描く石那坂付近であり、奥大道とのかかわりでも、この吉次伝説がつながる。

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 東北本線上り線は、この山から東に抜けて谷を橋で共楽公園のある丘陵縁側に渡り、鉄道マニアの間では有名な通称石那坂トンネルの方向に回り込む。東北本線上り線下り線は、新幹線の西側を通る。その道筋の多様さの風景は、この峠越えも難所の一つであろうとの想像を膨らませる。

 この奥大道は、源義経や頼朝、あるいは西行など奥州に下った多くの人々が通った道だと想像すれば、「奥の細道を歩く」散歩人が清水町宿をとばし、こちらの道筋を探ろうとした意図は分かる。ただ、石那坂古戦将士碑からそのまま共楽公園に抜けたようだ。
 それならば、回り込んだ東北本線上り線の通称石那坂トンネルの北側出口上部から丘陵上の道筋に向かったということで、この奥大道とされる道筋も奥州街道清水宿もかすらなかったということになるのが残念なことだろうか。

 自分の散歩とのかかわりでは、「気を感じて伏し拝む」の金沢黒沼神社物語に解説される東山道とこの奥大道をどう折り合いをつけるかということだ。
 このことについては、「ふくしまの歴史」で以下のように調整するのを見つけた。
 今の松川町あたりで奥大道から東に分かれて、金沢・古浅川を通って田沢村を抜け、黒岩村の学壇に上り、上ノ町から黒岩宮ノ下に下り、八郎内・鳥谷野をへて郷野目に入る道筋もありました。

 なお、先に出雲神社の旧地にかかわって、「平石神社が近くの神々を合祠したはずだが、ここに出雲神社が入るかどうかは分からない」とした。半沢氏のフィールドワーク地図に、このことにかかわる以下のメモを見つけた。
大正13年
出雲・熊野・天神・香取・稲荷を合祠
 出雲神社も入っているらしい。その旧地はここかもしれないし、吉次の石宮かもしれないなどと想像は膨らむが、分からない。
by shingen1948 | 2012-01-30 07:30 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 奥州街道清水宿に立ち寄ったことを整理したのは、共楽公園への道筋の散歩の範囲だった。
 奥州街道清水宿は、そこから南側に続く。金沢黒沼神社に向かう時にも、この道筋にこだわり、ちょっと立ち寄った。これが、1月2週目頃。
 南沢又城付近から脇道をあちこち探りながら、石那坂付近へ向かう。このママチャリで動き回ったのが、1月の2週目頃。
 石那坂付近までの散歩は、南沢又城付近からの道筋と小林氏が描く道筋とのイメージの重なり具合を感じてみたいという思いもあった。

 石那坂付近から、東北本線のトンネル附近の坂道を登って奥州街道清水宿に出る。
 ここで、見落としに気づいたものの幾つかを確かめておきたいということもあったが、この時期のママチャリの限界という思いもあった。
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 出雲大神宮案内由緒は、この神社は、炭焼き藤田の家の氏神として祀られたとし、その炭焼き藤田と金売り吉次伝説とを関連させて解説する。
 今回の散歩とのかかわりで、興味深いのは、その炭焼き藤田の家の位置だ。
 「長者屋敷と呼ばれ村人とともに栄えたが、鎌倉幕府による奥州合戦・石名坂の戦いで消失」とある。
 平石の長者屋敷は、平石小学校の東側だ。
 小林氏が描く東山道の道筋とのかかわりでいえば、その道筋から西側に下った地点であり、東山道の諸説の一つ「石那坂の吉次宮手前から山発田に降りる説」を思い浮かべる地点でもある。
 更には、大日本地名辞典に「昔のもの片原の宿」があるとする山発田とも重なり、東山道の諸説のもう一つ「曲がらずに字吉次下、町畑の旧道で、これが片原(あるいは石那坂)千軒とも言われたものではないかとする説」とも重なる。

 その視点でこの解説を読むと、「藤太や、吉次兄弟の家である平石の長者屋敷は、文治5年(1189年)の奥州合戦で焼失との解説」、「出雲大神は村人の手で守り続けられていたが、奥州街道が開かれた慶長年間(1596~1615年)に、ここに移されたという解説」に説得力を感じてしまっている。

 平石小学校隣の平石神社は、地域の幾つかの神社を合祀していくうちに、御祭神による神社名では呼べなくなったと想像する。それで、地名の冠をつけた神社名となったと思われるが、その合祀される中にこの出雲大神も含まれていたものかどうかは分からない。
by shingen1948 | 2012-01-23 10:08 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)
 石那坂の戦いが行なわれた位置については、不明な点が多いらしい。少なくとも先に訪ねた「石那坂の戦将の碑」がある地点は、古墳からの出土を根拠にしているので違うだろうという点では見方が一致しているようだ。
 どんな推定があるのかを確かめてみる。
 「福島県史」には、「奥州藤原氏の支配」という項があり、その4節が、「石那坂の合戦」になっている。ここでは、概要を以下のように捉えているようだ。
 文治5年(1189)8月7日、頼朝は本営を国見駅におき、合戦は翌8月8日からはじまった。8日の戦いは前線の接触で、いわば小手調べであったろう。決戦は10日であったろう。

  「吾妻鏡」によると、この時の戦いは、阿津賀志山と石那坂の両所で行われたように記載されているという。
 石那坂の位置に関わる記載を確かめてみる。
 石那坂は、石の多い坂という意、(中略)福島市平田であろうといわれている。(中略)信達盆地の南端に当たる。古代の駅跡は「湯日」から「岑越」にいたるには松川町から東北本線に沿う山間を通ったものとみられるから、石那坂古戦場はこの付近と考えてよかろう。

 そして、石那坂古戦場の有力候補地としては、以下のように推理する記述がある。
 鉄路の西平石小学校の背後の山頂に山城がある。朝日舘といって、標高173㍍の山で、何者が何時の時代に造ったのか不明であるが、このあたりが古代駅路に面し、石那坂古戦場としての伝承を伴っており、一応この地点と考えるしかない。

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 その位置を地図で確かめると、朝日舘という地名がある。そこに行ってみる。
 確かに、やや道筋からへこんでいて、東北本線沿いに敵が入ってくれば、山陰になっていて見えにくい。奇襲効果が高そうな位置である。
 この西手の山は、先日訪ねた陽林寺側になる


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 朝日舘からの眺めを確かめるのに、薬師堂から信達盆地の南端方向を眺めると、戦列の横から効果的に攻めることができる位置になることが分かる。


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 余計な話だが、薬師堂には何故かお地蔵様。


 県史では、「吾妻鏡」の記載のうち、明らかに誤記と思われる部分を取り除いて、石那坂合戦の状況を以下のように解説している。
 ここで戦いが繰り広げられたと想像を膨らませる。
 石那坂の守将は、信夫庄司佐藤元治で、継信・忠信の父である。佐藤庄司は叔父に当たる川辺太郎高経・伊賀良目七郎高重らに信夫の兵をもって石那坂の上に陣を構えていた。 頼朝方は、後に伊達氏の始祖となった常陸入道念西で、子の常陸冠者為宗・二郎為重・三郎資綱・四郎為家の父子が甲冑に身を固めて秋風茂る中を潜行して伊達郡沢原に出て佐藤庄司らが守る背後から矢石を浴びせ、死闘がくり返され、為宗・為重・資綱・為家らは傷を負ったが、長男為宗は抜群の功をたてて信夫の兵を倒し、佐藤庄司以下主なるものの18人の首をとり、阿津賀志山の山頂経岡にさらした。
 伊達郡沢原の地は不明で、あるいは信夫の佐原(今福島市)であろうかともいわれる。

 この地点が、佐藤氏が奇襲を受けたのだとすれば、佐原は行き過ぎのような気もする。水原の地点ぐらいから、裏側にまわり奇襲をかけたなら、先に訪ねた陽林寺の金比羅様や愛宕様の辺りということにもなりそうだと思う。ただ、土地に不案内であったり、大胆な動きをすることを考えれば可能性はありそうだなと、散歩をしながら勝手に想像する。
by shingen1948 | 2008-06-11 04:11 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(4)

陽林寺②

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この寺に来ると、まず最初に目に入るのが、この寺の総門である。案内板によると「鳥道関」と命名された門で、元はこれより200m程下方に建立されていたとのことだ。
安永9年(1780)に16世にの完翁和尚の時代庫裡と共に建立されたもので、門額も和尚の書とのことだ。
 この寺の山号と寺名の命名は、稙宗公のようだ。彼の墓の前にある案内板ではそのことにふれている。山号はこの地の地名である位作とし、寺名は枝葉繁茂を祈念して陽林と命名したとのこと。この時、500石を寄進したようだ。


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  稙宗公の墓の隣りには観音堂があり、その前の道を山頂に向かって登ってみる。


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  しばらく登ると、まず小高い金毘羅様にたどり着く。


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  そこを右折して更に登ると、山頂に元小倉村(現福島市小田)の総鎮守である愛宕大権現がある。案内板の説明によると、この山自体も愛宕山というそうだ。
 ここは、雰囲気的には古舘のような感じがする。気のせいだろうか。

ここから東側を覗き込むと、今は木々で分からないのだが、平石のくぼ地のはずなのだ。季節によっては見渡せるかもしれない。その位置関係が面白いと勝手に感じている。
  伊達家のスタートが、石那坂での戦勝だとするならば、その戦いがあった所が見渡せるということだ。
 この地に、福島の地では最後の代である稙宗公が寺を開基し、そこに眠っているのだ。


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 大森城に関わっては、もう一つ墓がある。山中太郎右エ門の墓だ。安永5年(1776)より十数年間大森陣屋にいた幕府代官とのことだ。天明3年(1783)の大凶作の時、下役人中沢道右エ門と共に農民救済に奔走したという。
  この碑と燈篭は領民である渡辺和左エ門等によって寛政10年(1789)に建立されたとのことだ。彼は、寛政10年2月6日に亡くなったとのこと。
 右側の自然碑が寛政9年2月9日に亡くなった中沢道右エ門の墓とのことだ。
by shingen1948 | 2008-06-10 04:46 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(2)