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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:平清盛 ( 42 ) タグの人気記事

 最終話は、清盛の最後が描かれる。
 これは、平家一門の滅亡と直結することであり、そのかかわりの中で4年後の「壇ノ浦の戦い」に破れ、安徳天皇とともに平家滅亡までが描かれるのは、想定内の事。ところが、ドラマでは当方の想定外の鎌倉時代、室町時代の幕開けまでふれてしまう。
 考えてみれば、このドラマのテーマ設定が、江戸時代まで続く武家政権の最初の扉を開いたのは平清盛ということ。そう思えば納得だが、普通にその後の物語展開とみれば、盛り沢山のイメージになってしまう。そう思うのは、当方の勝手な都合かなとも。
 本当は、現在地域散策として阿津賀志山防塁を整理しているのだが、これ等とうまくつなげられないかなという期待があって、それが裏切られたという感じもあったかな。

 さて、清盛の最後だが、「平家物語」では、巻6「入道死去」に描かれる。
 清盛が「頭風」を病んでいるという噂がながれて程なく、治承5年(1181)閏の2月4日、盛国の八条河原口にある屋敷で息を引き取る。享年64才とか。
 2日前の時子への遺言で、葬式や供養は不要であり、頼朝の首を我が墓前に供えることが私にとって最大の喜びであることを一族郎党はこれを肝に銘ずべしとしたとか。
 清盛は発病以来、湯水ものどをとおらず、身体の熱いこと火の如くだったと伝える。病床の清盛はやたら熱がり、水風呂につけて身体を冷やそうとすると、たちまち水が沸き上がって湯になってしまったとか。筧で水を引いて注ぎかけても、熱した石に水をかけたときのように、水がはじけて一瞬で蒸発したとも。
 清盛の死後、遺骸は荼毘に付され埋葬されるが、その墓所は諸説あるようだ。その有力候補は、播磨国山田の法華堂とか。その仮説のもとが「吾妻鑑」の清盛の遺言で、「播磨国山田の法華堂に納め 七日ごとに仏事をせよ、京で追善供養を行ってはならぬ」とか。

 ここで、いつもは要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」からお借りしてしめるのだが、今話は最終話で大テーマともかかわる。それで、まずは、やや詳しく整理されるNHKサイトの大河ドラマ「平清盛」あらすじをお借りする。
 http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/story/50.html
 「遊びをせんとや生まれけむ」
 突然の熱病に倒れた清盛(松山ケンイチ)は生き霊となって、遠く伊勢・二見浦にいる西行(藤木直人)の目の前に姿を現す。はじめはひどく驚く西行だったが、話を聞くうちに事態を理解し、清盛の霊に死期が近いことを説く。京では高熱にうなされている清盛を、平家一門が祈るように見守っていたが、手の施しようもなかった。
 一方、後白河法皇(松田翔太)は清盛危篤の報に接し、思いつめたように今様を歌い、踊り続ける。
「♪遊びをせんとや生まれけむ。戯れせんとや生まれけん♪」
 生に執着する清盛の様子を見かねた西行は、思いやりあふれる言葉で諭す。そして西行の言葉でようやく自分の寿命を受け入れた清盛は一門の前でむくっと立ち上がり、「―きっと、わが墓前に、頼朝が首を供えよ!」と言い遺し、1181年の春、絶命する。64年の生涯だった。
 西行は京の平家一門を訪れ、清盛の遺言を伝える。二見浦の庵で清盛と交わした最後の会話がみんなへの遺言だったのだ。西行の姿はいつしか清盛そのものとなり、それぞれに遺言が伝えられた。
 その後も、平家は一連托生の強い絆のもとにそれぞれ戦った。源氏軍の侵攻により、都落ちを余儀なくされたのは1183年。この都落ちはそれぞれの行く末に多大は影響をもたらした。頼盛(西島隆弘)は清盛の遺言を受けて、平家の血を守ろうと考え鎌倉の頼朝(岡田将生)を頼った。侍大将の忠清(藤本隆宏)は伊勢で戦ったが捕縛され、斬首となった。その後、態勢を立て直した平家だが、一の谷で重衡(辻本祐樹)は捕らえられて斬首となり、逃亡した維盛(井之脇海)は後に入水して果てた。
 壇ノ浦でも多くものが西海に散った。総大将の知盛(小柳友)は勇猛果敢に戦い、最後は錨を体に巻きつけて海に沈み、宗盛(石黒英雄)は死にきれずに海でもがいているところを捕縛され、のちに斬首された。徳子(二階堂ふみ)は捕らえられ、のちに出家して建礼門院となり、一門の菩提を弔う生涯を送った。時忠(森田剛)は配流された能登国で生涯を終えた。そして時子(深田恭子)は安徳天皇(田中悠太)を抱き、「海の底にも都はござりましょう」と言って海に身を投じた。鎌倉のとある館では捕縛された盛国(上川隆也)の姿があった。盛国はひと言も発せず、飲食を断ち、餓死による自害を選んだ。亡くなった盛国を弔う琵琶法師はかつて禿の長として京を震撼させた羅刹(吉武怜朗)だった。
 平家を滅ぼした頼朝が、次に退けねばならなかったのは、弟・義経(神木隆之介)だった。身内同士で殺し合う苦しみをよく知る頼朝は、幾度もしゅん巡するが、最後には弟の追討を決意する。
 1186年、頼朝のもとへ西行が訪ねてきた。西行は頼朝にも清盛の遺言を伝える。「まことの武士とはいかなるものか見せてみよ」という言葉をうけ、頼朝は自分の進むべき道を定めた。
 1189年、奥州藤原氏を頼ろうとした義経は衣川で兵に襲われ、孤軍奮闘するも、弁慶(青木崇高)は多数の矢を受け立ち往生し、義経は自害して果てた。
 1190年、頼朝は上京し、後白河法皇と対面した。後白河法皇は老いを感じさせるうつろな目で頼朝を迎えた。その一年後、後白河法皇は亡くなり、頼朝もその7年後に死んだ。そして頼朝が開いた幕府が滅んだ後の足利の世となって清盛が目指した国と国との交易が行われるようになった。

 そして、海の中を落ちていく宋剣がある。その剣をつかんだのは、若き日の清盛だった。清盛は兎丸(加藤浩次)の声に導かれ、海の中にある館に入っていった。すると清盛の前に平家一門が笑顔で待っていた。「海の底にも都はありまする」、時子の声に振り向いた清盛は、夢中で遊ぶ子どものような笑みをたたえていた。
<完>

 最後の最後は、今までと同じ形式で、その要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」からお借りしてしめる。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_50.html
 「遊びをせんとや生まれけむ」<最終回>
 清盛(松山ケンイチ)は熱病に倒れた。生霊となって西行(藤木直人)のもとへ現れた清盛は西行との問答のなかで、自分の人生の意味を知る。一方、京で倒れた清盛の肉体のもとへは、続々と人々が駆けつけ、病床の清盛をよそに、口々にこれからの心配ごとを語りだす。そしてついに、清盛は死す。その後、一門の運命は坂をころがるように変転し、ついに壇ノ浦での滅亡に至る。安徳(田中ゆうた)を抱いた時子(深田恭子)は、海峡に沈み、海底には平家一門の姿が…そこには青龍刀をかかげる若き日の清盛の姿があった。

 どうでもいいことだが、話題の視聴率は今回9.5%で、全体の平均視聴率が12.0%とのこと。
by shingen1948 | 2012-12-26 18:45 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)
 娘徳子の夫である高倉院は、清盛の朝廷への拠り所であったが、これがわずか21歳で世を去ってしまう。これが、治承5年(1181)の正月14日。高倉院自身の視点からみれば、実父後白河帝と義父清盛の駆け引きに翻弄された生涯かな。
 高倉院が「平家物語」に描かれるは、巻6の「新院崩御」―「紅葉」の風流を愛する性格描写―「葵の前」の寵愛①―「小督」の寵愛②とその顛末―そして、「廻文」あたり。そのうちドラマに登場するのは、「新院崩御」と「廻文」の27日の法要も済まないのに、法王に自分の娘を差し出して政略結婚をさせ、周囲のひんしゅくをかうあたり。 

 清盛の視点に戻して、院が亡くなられたことをみれば、結果として後白河法皇に院政を再開させるしかなくなるということ。
 ドラマでは、力を失いつつある清盛を挑発する双六の場面を通して、確かに武士は王家の犬ではなくなったという意味では、武士政権への入口を開いたという事になろうが、平安の時代は終わり、武士と武士とが争う時代になることを暗示する。
 これが、「双六が終わるとき」に象徴されることかな。

 第49話「双六が終わるとき」の要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_49.html
 「双六が終わるとき」 
 治承5年、平家は憂うつな年明けを迎える。平家を悪行三昧と忌み嫌う風潮が、国中にいきわたっていた。そんな折、清盛(松山ケンイチ)の頼みの綱だった高倉院(千葉雄大)がわずか21歳で世を去ってしまう。朝廷でのよりどころを失った清盛の前に再び後白河法皇(松田翔太)が現れ、力を失いつつある清盛を挑発する。一方、鎌倉の頼朝(岡田将生)のもとには、梶原景時(浜田学)をはじめ、続々と武士たちがつどう。頼朝は彼らを御家人と呼び、新たな「武士の世」の政治システムを作り始めていた。頼朝の国づくりをもれ聞いた清盛は、亡き義朝と誓い合った武士の世が、頼朝によってひきつがれていることを知り、うれしく思う。後白河法皇と最後に対じした清盛は、これより先は、朝廷に力はなく、武士同士が覇権を争う世になる、と後白河法皇に語る。

 この回は、衆院選の開票速報にともない7時からの放送。ドラマ自体も各種出来事に翻弄されたな。話題の視聴率は9.2%とか。
by shingen1948 | 2012-12-22 05:20 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)
 還都した平家が、治承4年(1180)12月初めから反撃を始めるが、今話も通説に近い展開らしい。
 「坂の上のサインボード」では、その反撃を以下のように整理されている。
 清盛はまず手始めに近江の園城寺を焼き討ち、続いて畿内最大の反平家勢力・南都興福寺を討伐すべく、平重衡を総大将とする追討軍を南都に差し向ける。南都に攻め入った追討軍は、興福寺、東大寺など七寺院に火を放った。興福寺では金堂や南大門をはじめ堂舎38ヶ所が燃え尽き、東大寺も正倉院を除いてほとんどの堂舎が消失。大仏もむざんに焼きただれた。
 これで、清盛は「仏敵」とみなされ、寺院勢力を完全に敵に回す。その上、平安貴族をさらに平氏から離反させることにもなる。もっと下からの目線に下げれば、この時に堂内に逃げこんでいた多くの人々が焼死したということもあり、大仏の頭が落ち、その身体はどろどろに溶けて山のようになったとかということかな。
 「平家物語」巻5「奈良炎上」では、民家に放った火が、折からの強風にあおられて、伽藍に延焼したとする。しかし、計画的な「南都焼き討ち」であり、房舎の焼き討ちも当初からの計画であったろうというのが通説らしい。

 この「奈良炎上」あたりに焦点を当てて整理したかったのは、地域散策とのかかわりもある。
 壇ノ浦後の話ではあるが、これが西行の2度目の陸奥の旅とかかわるらしい。
 文治元年(1185)年、平氏が壇ノ浦で滅亡した年の8月に、後白河法皇を導師として「大仏開眼供養」が行なわれる。その時、大仏をおおう全身の鍍金が終わっていなかったが、それは藤原秀衡から貢献されるはずの金が遅れていたためとか。その督促役が西行とのことだ。
 文治2年(1186年)7月、69歳の西行は、東大寺の砂金勧進で藤原秀衡に会うため、高齢を押して、遠く離れた異郷である陸奥の旅に出るということになるらしい。
 事実の羅列の中では、イメージが膨らまない。その辺のイメージを膨らませて地域散策をより楽しむために、「西行花伝」の部分読みをする。
 「西行花伝」には、間接的ではあるが30代に西行が高野山聖の経験を匂わすところもある。そうなると、これがイメージ的には会津河東の八葉寺にも重なり、河沼郡散策あたりまで繋がったような感じになっている。
 自分は結構楽しんでいるが、視聴率は10.4%とのことで、横ばいらしい。
 第48話「幻の都」の要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_48.html
 「幻の都」 
 富士川の戦で敗戦し、忠清(藤本隆宏)も斬れずにしりもちをついた清盛(松山ケンイチ)を待っていたのは、棟梁・宗盛(石黒英雄)からの福原から京への還都の申し出だった。宗盛の涙ながらの訴えに、清盛もついに折れざるを得ず、安徳天皇(貞光奏風)を頂き、最初で最後の五節の会が福原で行われ、その宴をもって、京へ還都する。還都の知らせに、清盛が何を求めて武士の世を目指しているのか、わからなくなった頼朝(岡田将生)は、清盛の過去を知る弁慶(青木崇高)に、若き清盛のありようを聞く。若き日、故意に神輿(しんよ)に向けて、矢を射た清盛のことを聞き、頼朝は、清盛の目指す世も、父・義朝が目指し、いまの自分が目指す世も同じものであることに思い至る。そんな時、南都・興福寺を攻めた平家軍の火が、東大寺の伽藍(がらん)を焼失させてしまう。

by shingen1948 | 2012-12-14 06:09 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)
 今話は、今まで断片的に描かれていた頼朝が挙兵することと、平家方が行き詰まることを絡ませて描く。「宿命の敗北」とあるように、頼朝の挙兵、石橋山の戦いでの敗走、富士川の戦いまで、一気に進んでしまう。確認しながら整理していくには早すぎる展開だが、放送の期限を考えれば、これも仕方がないか。
 今回は、慌てずに「おごる平家は久しからず」の物語の視点からの整理を続けて行くことにする。

 前話で、邸から追い出してしまった祗王に、「仏が退屈そうだから」といって邸に呼びつけられて仏御前と清盛の前で舞わせられるなどの屈辱を受ける場面が、頂点を極めた清盛の自分を見失う苦悩と重ねて描く。これが、第44話「そこからの眺め」とつながり、頂点に立った者にしか分からない苦悩ということで、先の白河院との関係性との伏線につなぐという層の厚い伏線構成になっているらしかった。
 そこに、今話では更にその先の父忠盛の言葉と結びつける。
 「おのれにとって生きるとは何かを見つけたとき、心の軸ができる。心の軸が体を支え、心を支えるのだ」との言葉を想起する清盛は、今や心の軸を失っていた姿という描き方だ。 
 今の時代、こんな重層的な伏線が支持されるわけもない。視聴率には見切りをつけて、描きたい事を描くという本質を突き進もうとする姿勢すら感じる。(今話視聴率は、10.8%とか。)

 「100分で名著」の年表で確かめると、現在のドラマ進行の時代と、「方丈記」の第2章が重なる。
 治承4年(1180) 長明26歳の時の5月が、前話の「以仁王の乱」による源頼政敗死で、その6月に「福原遷都」強行、そして、8~9月「源頼朝、木曽義仲挙兵」というのがドラマで描かれることだが、「方丈記」は、その3年前の安元3年(1177)4月長明23歳の時の「安元の大火」から描かれる。
 次に描かれる「治承の辻風」はその治承4年(1180)の4月で、その年6月の「福原遷都」は、方丈記も批判する。そして、方丈記では、「養和の飢饉」も描くが、これが養和元年(1181)27歳の時で、この年の2月に清盛が死去する。ドラマは、この辺りまでかなと思う。
 福原への遷都についてだが、「方丈記」では、「古京はすでに荒れて、新都は今だならず」と状況を描写し、民を一顧だにしない今の政治のありさまについて糾弾している。福原への遷都を強引に推し進めたことによって、京の都はその負担で疲弊し、住まいを解体して建材を淀川に流して運んだりするため、京の町は打ち壊しにあったようだったとか。
 なお、「方丈記」の「安元の大火」の描写は、吉川英治の「新平家物語」にそのままそっくり採用されている。

 清盛にしてみれば、福原への遷都は必要不可欠な事と考えたのだろう。
 京都の歴史と伝統は、摂関家藤原氏をはじめとする公家を中心とした国政の運営をも意味し、興福寺や東大寺、延暦寺などの大寺院の影響力も大きいということでもある。辺鄙な福原への遷都は、これ等の歴史と伝統と決別して、平家の血を引いた安徳天皇を始祖とする「新王朝」の幕開けの地にしたかったということなのだろうと思う。
 しかし、「方丈記」は、この事について誰もが激しく反発していたらしい事を伺わせる。
 それまで380年以上日本の都として栄え、歴史と伝統が刻み込まれた京都が捨てられ乱れる事への反発は、平家物語が「平家の悪行の極み」とするだけではなかったということらしいことが分かる。

 第47話「宿命の敗北」の要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_47.html
 「宿命の敗北」
 治承4年、頼朝(岡田将生)が挙兵。清盛(松山ケンイチ)は高倉院(千葉雄大)の名のもとに追討令を発す。頼朝は石橋山で敗戦するも、各地で次々と反平家の武士たちが立ち上がる。が、動じない清盛は、周囲の反対にも耳を貸さず福原への遷都を推し進める。同時期、頼朝のもとへは上総広常(高杉亘)ら有力な武士が次々に集結。頼朝は父・義朝の悲願である本物の武士の世をつくることを胸に誓う。10月20日、駿河富士川にて、平家・維盛(井之脇海)・忠清(藤本隆宏)軍と源氏・武田信義(永澤俊矢)軍が布陣するが、維盛軍は、水鳥の音を聞いただけで、おびえて敗走する。怒り狂った清盛に忠清(藤本隆弘)は、清盛自身が、もはや武士ではない、と断言する。

by shingen1948 | 2012-12-07 05:39 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)
 前話「以仁王の令旨」の結末は、「以仁王の令旨」にかかわって、「高倉宮以仁王流転の伝説」について整理したが、今話では頼政が宇治川で敗戦し、以仁王は園城に脱したが、ここでも敗れて光明山の鳥居前で戦死される。ドラマでは、この以仁王の戦死場面としては描かれなかった。再生の伝説に配慮もあったかな。大山宿あたりでは、その余韻を楽しんでいるかな。

 ドラマでは、「平家物語」の現実的でなさそうな場面や清盛を否定的に描くための仕掛けのようなものも結構丁寧に描いている。
 例えば、知らないで見ていると唐突にさえ思える西行の我が子を張り倒す場面、太陽が沈むのを扇で仰いで遅らせる場面などが、現実的でなさそうなそれかな。
 清盛を否定的に描くための仕掛けとしては、乗合事件・重盛が清盛を諌める場面かな。
 「平家物語」巻1の祇王と仏御前は、清盛を否定的に描くための仕掛けでもあり唐突感のある話でもあるが、ドラマでは、福原への遷都強行とかかわりながらこれにふれる。
 前話では、清盛が祗王・祗女の姉妹から仏御前に心を移すまでを描いていた。今話では、邸から追い出してしまった祗王に、「仏が退屈そうだから」といって邸に呼びつけられて仏御前と清盛の前で舞わせられるなどの屈辱を受ける場面を描く。
 ドラマでは、この逸話と第44話「そこからの眺め」と結びつけて、頂点を極めた清盛の自分を見失う苦悩を描く。これが、頂点に立った者にしか分からない苦悩ということで、先の白河院との関係性との伏線につなぐという層の厚い伏線構成になっているらしい。
 ドラマでふれるのはここまでだろうが、この逸話は、世の無常を悟った祗王・祗女の姉妹は髪を剃って尼となり、嵯峨野の奥に庵をむすんで母とともに念仏三昧の日々を送る話に続く。そして、その年の秋には、仏御前までもが尼になってその庵を訪れ、4人は一緒に念仏を唱えながら日々を送ったということになるようだ。

 なお、「平家物語」では、今話の福原への遷都強行も、清盛を否定的に描く材料になっていることを考えれば、ドラマでは、ここでもいくつもの伏線を重なり合わせいていることになる。こういう複雑さも、視聴率を下げる一因かなとも思う。それでも、前回7.3%最低だった視聴率は、今話は10.3%だったとか。

 第46話「頼朝挙兵」の要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_46.html
 「頼朝挙兵」 
 以仁王(柿澤勇人)の令旨を知った清盛(松山ケンイチ)は激怒し、以仁王、頼政(宇梶剛士)らを捕らえ、鎮圧する。そして清盛は、安徳のための都として、福原への遷都を強行する。8月、以仁王と頼政に刺激された東国武士たちの思いを受け、打倒平家を掲げ、頼朝(岡田将生)が兵を挙げる。清盛は頼朝のことを知り、動揺・不安・怒りなどさまざまな思いがこみ上げてくる。と同時に「ついに頂に立った自分や平家と頼朝や源氏の武士が頂点をめぐって戦うときがやってきた」とぞくぞくする。保元・平治の乱から数十年、60歳を越えた清盛の体に流れる武士の血が、久方ぶりに騒ぎ始めたのだ。9月、清盛は頼朝を討てと全国の武士に命令。伊豆の頼朝はひるまず清盛軍との戦いに向かう。

by shingen1948 | 2012-12-01 05:20 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)
  「古代会津の歴史」に「高倉宮以仁王流転の伝説」が紹介されるのだが、よく読みとれていなかったのが、以仁王の無念な心情。ドラマでは、そこのところを丁寧に描いてくれた。
 先に伏線として登場させて、その後に物語が進行し、そして、遂に今話で「以仁王の令旨」という構成で、その心情が丁寧に描かれる。よく読みとれていなかった部分がこれですっきり。
 治承4年(1180)高倉天皇は譲位し、幼い清盛の孫が即位して安徳天皇が誕生し、平家と清盛にとっての最終的な権勢の頂点に達する。ここで起こったのが、後白河の第三皇子で高倉帝の異母兄である「以仁王」の謀反。これまで不遇の地位にあった以仁王は、源頼政と組んで、突然平家打倒を呼びかける令旨を 全国の源氏に向け発令する。
 次回には、以仁王の令旨を知った清盛が激怒し、以仁王、頼政らが捕らえられ、鎮圧されるのだろう。頼政は宇治川で敗戦し、以仁王は園城に脱して、ここでも敗れ、光明山の鳥居前で戦死されたという。

 ここから「高倉宮以仁王流転の伝説」につなげれば、伝説を楽しめるのだろうか。
 「古代会津の歴史」によると、この伝説の原本は、「御墳墓考【宮城三平著】」とのこと。宮城三平氏は、会津の郷土史家として有名な方とのことだ。
 その伝説では、この後、以仁王は桧枝岐村を通過して、東蒲原郡小川荘まで落ちのびていくらしい。その概要は、以下のようだとか。
 宇治川で敗戦後、奈良路から近江の信楽に逃げる。そして、東海道を経て甲斐、信濃・上州沼田から片品川に沿って尾瀬沼畔に達して、ここから福島に入る。
 尾瀬沼畔から沼山峠を越えて桧枝岐に来ているとする。
 一行は、ここから下流伊南川沿いの各地に伝説を残しながら、只見川叶津から80里越えを経て越後に入り、小川荘中山村で逝去。ここに高倉天皇御陵ができるという物語らしい。
 「御墳墓考」では、ここに、いろいろな通路、宿泊地、滞在日数、合戦場所まで詳細な記述があって、それを史実だとしたらしい。
 例えば、この一行には、尾瀬中納言藤原頼実もついていて、その兄大納言頼国が桧枝岐に留まったとされるとか。また、会津より江戸への裏街道南山通り大山宿では、この「御墳墓考」の記述に基づいて高倉神社がまつられ、頼政の子乙部重朝の娘と伝える宮の愛妾桜木姫が旅の疲れで倒れたとした立派な墓までつくられたとか。

 ドラマの方は、これから、清盛は安徳のための都として福原への遷都を強行し、8月には、以仁王と頼政に刺激された東国武士たちの思いを受け、頼朝が打倒平家を掲げて兵を挙げるという展開にすすむのかな。

 第45話「以仁王の令旨」の要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_45.html
 「以仁王の令旨」 
 後白河院(松田翔太)を鳥羽離宮に幽閉し、クーデターをおこした清盛(松山ケンイチ)は、ついに武士として初めて天下の頂に君臨する。清盛は福原にいながら、朝廷の人事権を掌握し、高倉帝(千葉雄大)に安徳帝への譲位を迫るなど、思いのままの政を展開していた。一方、治承3年の政変で、不遇に言づかった鳥羽院の嫡流・王家の以仁王(柿澤勇人)は、源頼政(宇梶剛士)に接近し、武力決起による平家討伐を考え始めていた。伊豆でも、高い租税に困る東国武士たちは、徐々に平家への不満をあらわにしつつあった。そして義経(神木隆之介)は弁慶(青木崇高)とともに奥州藤原氏を頼り、力を蓄えつつあった。頂にたち、孤独の中で我を失い始めた清盛をよそに、各地で反平家の火がくすぶり始めていた。2月21日、かねてよりの清盛の望みどおりに、高倉帝が譲位、上皇となる。清盛は言仁親王(安徳帝)の即位の儀を福原で行うといいだし、周囲を驚かせる。
 今話視聴率は、大幅ダウンの7.3%で、最低視聴率更新とか。
by shingen1948 | 2012-11-22 05:20 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)
 今話は、いわゆる「治承三年の政変」とのこと。清盛は、後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉するが、ドラマでは、治天の君を退けたこの時点が、武士が頂点に立つという悲願を成し遂げた時点とみる。
 「そこからの眺め」の題は、祇園女御が問い、西八条の別邸に行啓した言仁が穴をあけてしまった障子から満足げにのぞき込む姿で象徴する幸福絶頂にいる清盛かな。

 その「治承三年の政変」の要因を確認する。
 出来事としては、その一つが、関白・藤原基実に嫁いだ清盛の娘盛子の死去にかかわることで、もう一つが、後白河路線に同調的であった重盛の死去にかかわることと、このことにかかわる後白河院の動き。
 
 清盛の娘盛子の死去にかかわる動きの一つが、その盛子の遺領を没収したこと。
 長寛2年(1164)盛子8歳のとき、21歳の基実に嫁いだのは政略結婚。2年後の永万2年(1166)基実が23歳で急死する。その後任の摂政には、基実の弟基房が就任する。
 基実には膨大な摂関家領をはじめとする相伝の財産があり、本来は、その大部を基房が受け継ぐべきものだったが、清盛はその殆どの遺産を正室・盛子(10歳)に相続させた。あくまでも、嫡男・基通が成人するまでの一時的な措置という建前で、清盛は盛子の父として摂関家財産を管理していたこととのかかわり。
 平家側は、この遺産を盛子が準母になっていた高倉天皇の管理下に置こうとした。
 これを、基房は盛子の死を機に、この財産を取り戻したいと考え、後白河院に働きかける。後白河院はこの訴えを利用して、事実上、近臣の藤原兼盛を「白河殿倉預」に任命し、盛子の遺領すべてを自身の管理下に置く。
 もう一つの動きが、松殿基房の嫡男・師家を権中納言に任命したこと。
 平家は、盛子の養子・藤原基通を権中納言に推挙するが、これを無視。基房の子師家を権中納言とする。  師家は僅か7歳で、基実嫡男・基通(19歳)を跳び越えたこの人事は、明らかに近衛家の摂関家継承を妨害するもの。

 後白河路線に同調的であった重盛の死去に伴う後白河院の動きも、遺領の没収。
 越前国は、十数年前から重盛の知行国であり、重盛の死後は嫡男・維盛が継承するのが当然視されていたが、後白河院はこれを没収して、院近臣の藤原季能を越前守に任じる。
 後白河に恭順であった重盛に対する冷淡な仕打ちであることも、清盛に対する挑発行為。

 よく分からないのは、後白河院の挑発行為に比べ、清盛に対する無防備さとその軽さ。

 第44話「そこからの眺め」の要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_44.html
 「そこからの眺め」 
 法皇(松田翔太)と清盛(松山ケンイチ)の間に入って、心労を重ねていた平家の心優しき嫡男・重盛(窪田正孝)はついに病の床に伏す。さらに清盛の娘で摂関家のパイプ役だった盛子が病死。平家に暗雲がたちこめる。やがて、盛子の所領が後白河院に没収され、院は関白基房(細川茂樹)と手を組み、平家の力をそごうとしはじめる。平家では病の重盛の代行で、ついに時子(深田恭子)の第一子・宗盛(石黒英雄)が一門の棟りょうとなり、京を任される。そして、重盛は42歳の若さで病死。後白河法皇は、すぐさま重盛の知行国を没収する。福原でその知らせを聞いた清盛の後白河院への怒りは、頂点に達する。

by shingen1948 | 2012-11-17 05:44 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)
 ドラマでは、「鹿ヶ谷の陰謀」の処理を描く。
 西光・成親の処分は、清盛自らの判断で行うが、それ以降は、後白河院裁定の形をとり、後白河院の処分も見送る。これは、平家内部の慎重論・反対論への配慮らしい。
 題からしても、描かれる中心は、その中の成親が鹿ケ谷事件の中心的人物として峻烈に処罰され、重盛が気力を失う辺りとしてみればいいのかな。

 清盛は、親後白河的な重盛の態度を深く憂慮していたと思われる。それで、清盛は、後白河院と重盛を深く結びつけていた人物である成親を、鹿ケ谷事件の中心的人物として峻烈に処罰する。これで、重盛の面目は丸潰れとなり、政治的地位を失墜させることになる。ドラマでは、その辺りを清盛がねちねちと流罪ー餓死という道筋での処罰として描く。
 このことで、重盛の父との間に行き違いが強調され、一門内で孤立を深めていた重盛の心境が醸し出される。
 これから、重盛は、直ぐに左近衛大将を辞任することになる。その後、治承3年(1179)3月には病を理由に内大臣も辞任して、5月には出家する。そして、7月には、41歳で死没する。
 ドラマでは、重盛は病気の姿。時期も考慮すれば、内大臣を辞任する直前辺りの姿かな。

 そんな中、新たな展開は、中宮徳子の懐妊。ドラマでは、時子は日吉社に百日祈願したが効なく、清盛が船を造って厳島に月参りし60日ばかりで懐妊したことを清盛が自慢することで、清盛の喜びを描く。11月には、平家一門の願いどおり皇子が誕生する。

 地域を散歩して楽しんでいる者として気になるのは義経の描写。
 ドラマでは、遮那王と弁慶が常盤を訪れ、平家を打倒すると宣言し、ふたりが平泉へと向かうあたりを描く。吉川英治の「新平家物語(4)」では、この平泉へ向かう途中、信夫の里を経由する際、飯坂の大鳥城に立ち寄り、十綱橋で佐藤氏に見送られて平泉へと向かうように描かれる。
 それらを勝手に組み合わせて想像を膨らませ、楽しんでいる。
 この吉川英治の「新平家物語(4)」は、現在ドラマ進行中あたりなのだが、これが古本屋で、100円台で売られていたもの。それを手に入れて満足しているなどというのは、どうでもいいことかな。

 第43話「忠と孝のはざまで」の要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_42.html
 「忠と孝のはざまで」 
 清盛(松山ケンイチ)は鹿ケ谷の首謀者・西光(加藤虎ノ介)を斬首とし、成親(吉沢悠)を流罪とする。重盛(窪田正孝)と経子(高橋愛)の心配をよそに成親は備前国で餓死に至る。義兄の死と後白河法皇(松田翔太)への気遣いで、重盛は疲弊していく。そんな時、徳子(二階堂ふみ)懐妊の知らせが清盛のもとに入る。安産の祈とうに励む清盛だが、ついに高倉帝(千葉雄大)と徳子の間に清盛念願の男児が誕生する。その皇子こそが、のちに壇ノ浦に沈むことになる安徳天皇であった。一方、伊豆では、恋仲になった頼朝(岡田将生)と政子(杏)が時政に結婚の許しを得ようとしていた。
 今回の視聴率は、10.2%とか。
by shingen1948 | 2012-11-09 05:20 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)
 「鹿ヶ谷の陰謀」は、平家にとって都合よい展開のきっかけになる話で、清盛が仕組んだという見方もあるらしいが、ドラマでは実際に謀議があったものとして展開される。
 謀議そのものに対する怒りと、後白河院直々の司令を拒むわけにはいが、比叡山との武力衝突は避けたいという思いには都合よく働いたという二面性が描かれる。
 ただ、「平家物語」の逸話をもとに描くその飲み会は、不平不満をいい合うたわいもない会のようにも見える。

 その会が、多田行綱の密告で事が発覚し、囚われの身となった西光が清盛をののしり、激高した清盛が西光を何度も蹴り倒すというシーンは、「平家物語」と照らし合わせれば、巻2「西光がきられ」のあたりに忠実で、ここでは、もっと過酷な拷問の上に、その場で惨殺される。その子、師高・師経兄弟も斬首。
 ドラマの演出には効果的なこのシーンは、昔から語られていたことということ。
 この事件によって後白河院近臣の実力者は一掃される。

 よそ見の好きな者としては、このドラマの時代は鴨長明が20代で「方丈記」の第2章あたりに興味だが、そこから新たな興味も派生する。
 「方丈記」の以下最後の部分にかかわる話。
 栖はすなはち、浄名居士の跡をけがせりといへども、保つところは、わづかに周利槃特が行にだに及ばず。若、これ、貧賎の報のみづからなやますか、はたまた、妄心のいたりて狂せるか。そのとき、心、更に答ふる事なし。只、かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏両三遍申てやみぬ。
 その中の特に、「不請阿弥陀仏両三遍申てやみぬ。」が、作者の意図として自暴自棄で言うのか本願思想を説明的に述べたのかの解釈が定まらないらしいが、テレビ番組の中での玄侑宗久氏の話がこれにかかわるように聞いた。
 氏が言うには、回数にこだわれば、それは自力で、さりとて1回に念を込めとなればこれも自力だと。この2~3遍というのが、他力の丁度いいところという落ちが、自分としては結構納得。
 こんなことを思ったつながりで、この弥陀仏を唱える事にかかわるのが法然。その法然が、浄土宗の立教開宗の承安5年(1175年)43歳の時が、丁度現在ドラマ進行の時代だ。
 その弟子親鸞の誕生は、承安3年(1173年)4月1日で生まれたばかりで、時代的には後の時代の人だが、誕生地が方丈の庵の地、京都市伏見区の日野ということではつながるみたい。
 時々、ドラマの考証をするのに登場する「愚管抄」の慈円は、ドラマ登場の天台座主明雲により受戒を受け、自らもまた天台座主に任じられるしいうつながり。ただ、その「愚管抄」で明雲を激しく糾弾とか。その糾弾されていることが、ドラマで進行中。

 第42話「鹿ヶ谷の陰謀」の要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_42.html
 「鹿ヶ谷の陰謀」 
 清盛(松山ケンイチ)に、多田行綱(野仲イサオ)から密告がなされる。京、鹿ケ谷にある俊寛の山荘で、後白河(松田翔太)・成親(吉沢悠)・西光(加藤虎ノ介)・平康頼が、打倒平家の企てをしていたというのだ。怒った清盛は成親と西光を捕らえて真相を明らかにしようする。清盛の今の心中をえぐるような激しいば声を浴びせる西光に激怒した清盛は、容赦なく斬首を申しつける。

 今回の視聴率は、8.9%で、日本シリーズ中継があったのに、前回よりは上昇とか。
by shingen1948 | 2012-11-03 05:49 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)
 治承元年(1177年)反平家の機運が高まる中、「比叡山の強訴」が起きる。ドラマでは、この事件は平清盛が延暦寺と通じ合い仕組んだとするが、ドラマの創作部分だろうか。
 説では、事の発端は、加賀守・藤原師高の弟で、代わって現地に赴任していた藤原師経が、白山中宮の末寺・湧泉寺といざこざを起こして、末寺を焼き払ったことにあるらしい。それで、怒った白山衆徒が本寺である比叡山に訴えて、延暦寺の山門衆徒が師高・師経の解官と配流を求めて強訴の挙に出たということになるらしい。
 その後の師高・師経は西光(後白河院の側近)の息子ということで、後白河院は師経だけを罰して事態を収拾しようとする以降の強訴顛末の展開からは、ドラマも通説通りらしい。

 この事件の中の「軍兵の放った矢が神輿のひとつに命中した」というのが、第13話「祇園闘乱事件」とのかかわりで、苦労したことを思い出す。最近でこそ「平家物語」との照らし合わせはスムーズに出来るようになったが、この第13話あたりでは四苦八苦していた。ドラマでは、この時に「清盛は、こともあろうに強訴の渦中に、みこしへ一本の矢を射て、「神に向かって矢を射た」と朝廷・寺社・武家をまきこむ大問題に発展する」という展開になっていた。この時の強訴と今回の「比叡山の強訴」が混乱していたのは、この「軍兵の放った矢が神輿のひとつに命中した」表現だった。
 すっきりしなくて整理がまだだったようなので、第13話「祇園闘乱事件」の要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りしておく。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_13.html
 「祇園闘乱事件」
 久安3年、一門の繁栄祈願のため祇園社を訪れていた清盛一行は、僧兵ともめ、それがきっかけで延暦寺の強訴を招いてしまう。清盛(松山ケンイチ)は、こともあろうに強訴の渦中に、みこしへ一本の矢を射る。「神に向かって矢を射た」と朝廷・寺社・武家をまきこむ大問題に発展する。とらえられた忠盛(中井貴一)・清盛親子の処遇をめぐって頼長(山本耕史)と信西(阿部サダヲ)が対立。待賢門院(檀れい)なきあと、権勢をふるう得子(松雪泰子)のもとで朝廷内のパワーバランスも次第に変わり始めていた。平氏の武力と、それを率いる忠盛・清盛親子を流罪にすることは、王家・貴族の力関係にも大きく影響を及ぼすことになる、と朝廷内は揺れる。ついに、ことの次第を知っている僧兵・鬼若を証言者として呼び、詮議が始まる。清盛放逐派の頼長と弁護派の信西の果てしない討論が続く中、ついに鳥羽院(三上博史)は清盛と直接話すことを望み、検非違使庁へ向かう。

 今回の「比叡山の強訴」と「平家物語」との関連を確認しておく。
 事の発端にかかわるところで記した部分が「平家物語」第1巻「鵜川合戦」で、「軍兵の放った矢が神輿のひとつに命中した」あたりが、「御輿振」。そして、その祟りとして「内裏炎上」―「座主流し」―「一行阿闍梨」と続く。
 よそ見が好きな者としては、同時代の「方丈記」も気になる。
 この第2章は、20代の鴨長明が、平安時代の悲惨な災害体験の数々を伝える部分なのだが、この最初の災害として描かれる安元の大火と「内裏炎上」が重なるらしい。この時、鴨長明23歳。
 ドラマの時代背景としてイメージを重ねながら読み直してみた。その解説で確認すると、「平家物語」の「内裏炎上」の方が、逆に「方丈記」の描写を借りているのではとも。

 第41話「賽の目の行方」の要点もエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_41.html
 「賽の目の行方」
 1177年、加賀国白山の鵜川寺で目代・藤原師経(清水優)が僧ともめる。師経は西光(加藤虎ノ介)の息子。鵜川寺の本山である比叡山延暦寺が後白河(松田翔太)と西光をこらしめるために山門強訴をおこす。後白河はいよいよ重盛(窪田正孝)に武力の出動を発令。重盛らは内裏を警護するが、神輿(しんよ)に重盛の家人が矢をうってしまい、問題となる。だが、朝廷により処分されたのは西光のふたりの息子、師経と師高だった…。事の次第と、背後に父・清盛(松山ケンイチ)のたくらみがあることを知り困惑する重盛。一方、伊豆では時政(遠藤憲一)が、娘の政子(杏)に平家ゆかりのもとへ嫁ぐことを勧めるが、政子は頼朝(岡田将生)にひかれ始めていた。
 この回の視聴率は、7.9%との事。最低記録更新かな。
by shingen1948 | 2012-10-27 05:20 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)