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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 好國寺付近で見失う山王道筋と上鳥渡側から確認できる山王道筋を念頭で繋がる地点を確認して、配水池まで戻る。これが、その戻りながら確認できる道筋。
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 ここからの道筋も確認したいところだが、自転車を置いた配水池の方に戻る。
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 配水池の入り口に戻ったところで、振り返る。
 左手の通行止めになって居る道筋が、配水池への道筋で、中央の舗装が切れる道筋が、山王道が推定される道筋の入り口だ。左手に見える道筋は、その山麓の縁を廻り込む道筋だ。
 ここからの山王道筋を案内する資料は見かけないが、大森川の土手を進んだのだろうと勝手に想像する。

 何時もなら、自転車を引きながら山王道の道筋を確認するところだが、今回は山麓の縁を廻り込む道筋の確認をする。
 実は、先の自転車のパンク時に、タイヤがすり減っているので交換した方がいい言われたのだが、そのままパンク貼りでごまかしていたのだ。悪路に入れる状態にはないのだ。従って、大森川の土手筋も進めない。
by shingen1948 | 2015-07-02 07:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 山田村から上鳥渡に向かってくる山王道筋を確認するために、配水池のフェンス脇を廻り込んで先に進んでみる。
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 フェンスの直ぐ脇に結構整備された道筋がある事が確認できる。この道筋が、山田村―上鳥渡間の山王道筋なのだろうと思う。更に、先に進んでみる。
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 こちら側からは下り坂になっている。下り切ったあたりに、この道筋と好国寺の赤松から北に進む道筋の交点を想像する。

 この地点から右手に回り込む道筋もある。木々の間から、好國寺付近の散策で見慣れた風景が覗ける。
 ここから右側に山を廻り込む道筋もあって、こちらも結構整備されてはいるが、確認はここまでにする。というのは、自転車は配水池に置いたままなので、どう戻るかを想定しないといけないからだ。
by shingen1948 | 2015-07-01 09:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 散歩中に感じたことを元に、半沢氏の「歴史地図」を参考にして、好國寺付近の山王道の道筋を推測する。
 多分、好國寺を目ざして進んできた道筋の駐車場手前から、赤松の前を北に進む道筋なのではないかと思う。そこから寺の北側を廻り込む道筋ではないかと見当をつけて、地図を確認する。
 赤松の前を北に進む道筋と寺の北側を廻り込む道筋の間は切れているようだが、その北側に新設の道筋が見える。多分、配水タンクへ向かう道筋なのだろうと思う。
 それで、この新設の道筋から寺の北側を廻り込む道筋を観察し、その延長線上に消えた道筋を想像しようと思った。小心者なので、直接未知の道筋に飛び込む前に、確実な道筋から未知の道筋を観察して概要を掴もうと思ったのだ。
 山田村―上鳥渡間の山王道筋確認は、上鳥渡の配水池に向かう道筋の確認からスタートする。
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 ここがその上鳥渡の配水池へ向かう入り口付近の様子だ。
 進入禁止の表示があるが、この坂道を使ったそり遊びや車の進入を禁じたものだと思う。
 単に自転車を引いて進む者を禁じる趣旨ではなさそうなので、そのまま進む。
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 この道筋は、配水池で行き止まりになっている。
 ここに自転車を置かせていただいて、フェンス脇を廻り込み、その先に進む道筋を確認する。
by shingen1948 | 2015-06-30 07:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 3基の山王道標と好国寺を案内する石塔が建つところから好国寺までの間の左手に沢山の石塔が並ぶ丘がある。
 そこから道なりに進むと好国寺になるのだが、その手前に駐車場がある。
 その北の橋に赤松が目につくのだが、山王道はそこに向かう道筋だろうと思う。そこから西に進むと好国寺の正面に向かうのだが、山王道の道筋は、そのまま北側に進んで寺を回り込む道筋なのだろうと思うのだが、どうだろうか。
 その道筋を逆に進んで、来た道を越えて南に進んで墓地に入る直ぐ左手に、沢山の石塔が並んでいた丘に登る古い道筋がある。
a0087378_1254840.jpg その道筋に沿った右手に、整然と石塔が並んでいて、その奥がこの辺りの散歩で見え隠れしていた地蔵堂になる。これが、その地蔵堂だ。
 この地蔵堂が、半沢氏の「歴史地図」で「星消(延命)地蔵堂」と紹介されるものなのだろうと思う。「星消」という意味ありげな表記に惑わされて、いろいろ確かめるがよく分からない。
 ただ、「福島百八地蔵尊」なるものがあって、その1番が「鳥渡観音寺」で、この「星消延命地蔵尊」が、その2番になっているらしいことが分かる。ただ、それだけの話。
 この地蔵堂前に並ぶ石塔群は、半沢氏の「歴史地図」の「石造り33観音」のメモとかさなるのだろうか。こちらもよく分からない。
by shingen1948 | 2015-06-29 12:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
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 この「曹洞宗好國寺専門僧堂」とある本堂が、「右側に右意休居士者寄進田畑山林建立殿堂」を指すと見ていいのかな。

 散策と余りかかわりのない事で気になる事がもう一つあって、それがこの池だ。
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 この寺は高台にあって、少なくとも「曹洞宗好國寺専門僧堂」の位置よりも高い位置だ。この御堂が、意休氏が寄進した田畑山林に建っているとするのなら、この池はそのお堂が建つ以前の田畑山林の風景のころからあったのではないのかなと勝手な想像をしている。というのは、その手前の石碑は水神だ。湧水かな?
 勝手な思い込みかも知れないが、この状況からは、少なくとも後方の建物が建つ前にこの池があったと思っている。

 この寺の右手の北側の高台の裏の西側には、現在配水池が設置されていて、この辺りに浄水を供給している事を考えれば、かなり高い位置にある池だなと思う。
by shingen1948 | 2015-06-28 17:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 よそ見を大切にしたいと言ってはいるが、散歩中になんだろと思ったもので、確認ができなかった情報は切り捨てていた。しかし、その確認に費やした時間も多く、結構心の中には思い出として残っている事が多い。
 曖昧さが残ったままでも、そのまま整理しておきたいと思うようになったのは最近の事だ。
a0087378_17122522.jpg 御夫婦の石碑の右側に建つ12世・13世が読める石碑は、その時代のお寺の方かなと想像はできるのだが、この長尾氏御夫婦の石碑の右脇手前のこの石碑はよく分からない。高橋仲右衛門墓が読めるような気がする。散歩中は、長尾久右衛門大学氏とともに開拓に関わった方かなとも思ったが、そうでもないらしい。

 半沢氏の「長尾久右衛門大学の開拓」のメモに、「寛永7年(1630)ごろ上杉氏の新田開発奨励政策に寄り帰農したという」とあるのは、長尾久右衛門氏に「山田村開発免許状」が発給されたという情報と重なるようだが、この受給者が、鈴木源左衛門氏と長尾久右衛門氏とのことだ。
 その鈴木源左衛門氏は、今は信夫郡、福島の大肝煎だろうと推測がついている。

 慶長6年(1601)、徳川家康によって、上杉氏は会津120万石から米沢30万石に減封されるが、この時点で伊達信夫両郡はその米沢藩領だ。この体制は、寛文4年(1664)に、更に15万石に半減されて伊達信夫両郡から撤退するまで続く。
 初期の米沢藩では、この減封対策として家臣団のリストラを極力避けて、新田開発を進めている。「新田開発奨励政策」というのは、その事を指しているのだろう。その結果、2代藩主上杉定勝公の時代には、表高30万石に対して内高は51万石あったといわるようになっているようだ。

 その信達両郡の統治だが、米沢藩では村々を束ねる大肝煎(信達4郡役)に依拠しての統治だったようだ。
 その大肝煎の信夫郡(福島)は鈴木源左衛門氏、伊達郡西根郷(桑折)は佐藤新右衛門氏、同郡東根上郷(下保原)が渡部新左衛門氏、同郡東根下郷(梁川)が堀江与五右衛門氏、同郡小手郷(秋山)が高橋清左衛門氏という5人体制だったらしい。
  「山田村開発免許状」受給者の鈴木源左衛門氏は、この信夫郡、福島の大肝煎だろうと思うのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2015-06-27 17:13 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_1132852.jpg 屋根のかかる右側の石碑は、「當寺仲興開基教山意休居士」と刻まれた文字が読める。これが、「信達ニ郡村誌」に「本堂の南に碑有り 正面に当寺中興開基教山意休居士 右側に右意休居士者寄進田畑山林建立殿堂」と紹介される碑であることが分かる。
 この左側の石碑は、「昌室○久大姉」と刻まれる文字が読める。

 「半沢氏のフィールドワーク地図」の「再興 山田意休夫妻墓碑 宝永元年(1704没)」とメモされる山田意休夫妻墓碑であろうことが推測される。
 ここでは、山田意休氏は、寛永7年(1630)頃上杉氏の新田開発奨励政策により帰農した長尾久右衛門氏で、山田村を開拓した元米沢藩上と紹介される。
 「ふくしま散歩(小林金次郎著)」では、好国寺の開基について「元禄8年(1695)、伊達家の一藩主長尾意休(久衛門)が、娘の供養に建てたもの」と紹介する。

 「福島県歴史資料館収蔵資料目録」に、「長尾家文書(福島市)」について以下の紹介を見る。
 (長尾氏の)祖は上杉家旧臣といわれ、福島藩の割元や福島元町検断等を務めた長尾家に残る史料群で、由緒に関する史料など13点。
  同家の先祖で、江戸時代前中期に、森合村(現福島市森合)に潜龍庵を建てた耀山と、その兄で山田村(現福島市山田)に好国寺を再興した山田意休の墓所に関する史料がみられる。
 ここでも上杉家臣と紹介される。
 注目は、「好国寺を再興した山田意休の墓所に関する史料がみられる」とあることと、森合村(現福島市森合)の潜龍庵は、その弟が建てたとの紹介。
 
 先に「信仰の山:信夫山「養山口の清水」」を整理した中の「月山神社山道入口案内板」説明では、この森合村(現福島市森合)の潜龍庵にふれている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7921394/
 更に、「福島県歴史資料館収蔵資料目録」の「満願寺文書(福島市黒岩)」について、その末寺としてこの「潜龍庵」にふれて紹介されるのを見る。
 「満願寺文書(福島市黒岩)」
 満願寺は、境内にある虚空蔵堂の別当寺的存在として、 近世初期に成立した臨済宗妙心寺派の寺で、本寺は米沢の法泉寺である。
 末寺2か寺があり、一は福島市土湯の興徳寺(現在は兼務)、 一は同市森合にあった潜龍庵である(黄檗宗で明治以前に廃庵となったらしい)。
 火災に遭わなかったため、文書の残りがよい。 書籍類を除いた1098点の文書からなるが、内容は豊富で、臨済宗関係文書の基本となろう。明治8年8月、 臨済宗中教院となったため、この時期の文書も多い。
所有者の要望により資料を返却したため、現在は閲覧不可能。

by shingen1948 | 2015-06-26 11:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回は小田村から山田村の山王道の道筋にこだわって整理してきたが、その前に、天神社から好国寺にかけての山王道の道筋を確認したり、奈良輪家跡とか、双式逆修碑の供養塔の整理にかかわって好国寺付近の山王道の道筋を確認したりしてきた。
 〇 旧奈良輪家
 http://kazenoshin.exblog.jp/13970982/
 〇 奈良輪家旧地推測~大森城裏口付近
 http://kazenoshin.exblog.jp/13964584/
 〇 大森城裏口付近を散歩して
 http://kazenoshin.exblog.jp/13989115
 〇 城裏口の石造供養塔(板碑)~大森城付近
 http://kazenoshin.exblog.jp/13951215/
 山王道を意識したその続きを「好国寺」の確認から続ける。
a0087378_11355251.jpg 「信達ニ郡村誌」では、山田村の寺として次のように紹介する。
 「好国寺」
 元標の北9町 東部寺之前に在り 境内東西21間南北28間 門内道敷幅1間半 長29間 合段別2段1畝1歩(官有地) 岩瀬郡矢田野村曹洞宗長寧寺末派なり 慶長年間長寧寺第2世善嶺和尚開創す 上杉家臣長尾大学 後 山田意休と称す 伽藍を再造するを以て 中興開基と称す 本堂の南に碑有り 正面に当寺中興開基教山意休居士 右側に右意休居士者寄 進田畑山林建立殿堂 奉彫刻本尊 依此功 従本山贈賜開基居士号者也 左側に宝永元庚申年9月28日玉林山好国寺現住善苗叟誌 山田氏孝子謹誌を蠵(?)る

 ここで紹介される「上杉家臣長尾大学後山田意休と称す」方は、先に「山田村」の項で、「上杉定勝の臣長尾大学 本村に居り平民と為り山田意休と称す 寛永7年別に帳簿を作り開拓す」と紹介された方だ。
 この方について、「福島市史資料叢書」では、「山田意休は長尾大学の子で久右衛門と称した。大学が意休と称したのではない」と注釈されている。
 「半沢氏のフィールドワーク地図」の「好国寺」では、次のメモが記される。
 「再興 山田意休夫妻墓碑 宝永元年(1704没)(長尾久右衛門もと米沢藩上杉氏家臣山田の開拓者)。「長尾久右衛門大学」の開拓として「寛永7年(1630)頃上杉氏の新田開発奨励政策により帰農したという。猪鹿防除のため鉄砲役免除」

 半沢氏と「福島市史資料叢書」で、山田意休氏=長尾久右衛門氏までは同じ意見なのだが、長尾大学氏とのかかわりの意見が割れる。
 半沢氏は、長尾久右衛門=長尾大学としているが、市史編纂では、長尾大学氏が上杉氏家臣から帰農して新田開発し、その子長尾久右衛門氏が「好国寺」を中興開基するという関係性になるようだ。

 素人なのでよくは分からないのだが、実際に「右意休居士者寄 進田畑山林建立殿堂 奉彫刻本尊 依此功 従本山贈賜開基居士号者也」の行為実行者はその子であろうが、祀られている方と行為実行者が同一人とは考えにくいような気もする。
 廻りくどい言い方になったが、簡単に言えば半沢氏の見方でいいのではないかなということ。
by shingen1948 | 2015-06-25 11:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 いい風景だなと思うようなところでも、近くにスポットライトが当たる地点があると、そのスポットライトの陰の部分に入ってしまい、その風景は見向きもされないことがある。
 今回の山田村の散策は、そのような風景のよさを表現しようとする試みでもあったように思う。これが結構難しかったのだが、今思えば次のような視点で整理してみようとしたように思う。
 ○ 懐かしい風景としての一コマとその背景について
 ○ 数少ない史跡や伝説などを拾う
 ○ スポットライトが当たる地点とのかかわり

 「懐かしい風景としての一コマとその背景について」という視点では、信夫地方の吾妻沼神社の伝承とからめて山田村を中心に、里山沿いに広がる田園風景を眺めてみた。 
 そして、半沢氏の「歴史地図」を中心資料として、その開発の歴史を眺めて見た。
 まずは、山田村の上杉氏時代の開発の視点で風景を眺め、次に、小田村の関宿藩大森陣屋に統治されている時代の開発に視点を当ててその風景を眺めて見た。
 更に、此の視点では戦後の開拓者入植による開発もあるようだが、今回は半沢氏の「歴史地図」に記される次のようなメモの転記にとどめる。
 
戦後の開拓者入植
 平田(22戸)北焼野(41戸)平石(7戸)、主に畑作(陸稲・麦・果樹桃)それに酪農
 北焼野は昭和34年頃から開田→水田へ、又は、離農……
 「スポットライトが当たる地点とのかかわり」という視点では、今回は山王道を中心に散歩した。その山王様は、何度も訪ねたがまだ整理していない。
a0087378_5551175.jpg 今回散策した範囲の道筋でまだ整理していないのが、山王道から荒井への道筋を案内する道標と庚申の道標だ。
 「歴史地図」と見比べると、こちらがその山王道から荒井への道筋を案内する道標だとも思うのだが、今のところ確認できない。もし、その道標なら「右 山王」「左 あらゐ」が刻まれているということだが、刻まれる文字の確認ができていない。
 次の道筋の候補地付近には、庚申の道標があるはずだが、その石塔自体が見つけられないでいる。
by shingen1948 | 2015-06-07 05:57 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 小田村の「東覚寺」から山田村に山王道の東側の道筋を戻る。この道筋も元々の道筋かも知れないなと勝手に思うのは、山田村の御堂に突き当たるからだ。本当のところは知らない。
a0087378_15121639.jpg 北側と南側の高地に挟まれた田園風景を山田村側から眺めてきたのだが、地図で確かめると、この平地の真ん中を流れる中井川の北側は山田村で、南側が小田村になっているらしい。これは、その小田村側の水路なのだが、半沢氏の「歴史地図」の以下のような洽田記の碑の解説メモとのかかわりで気になっている。

 洽田記の碑(関宿領信夫郡小田村とある)
 文化5年(1808)2月関宿藩(千葉県)大森陣屋に名主らが願い出て沼を開削現在の平田小学校北側一帯の日干害を防いだとしての記念碑(代官所より費用10両下賜される)
 今回、「洽田記の碑」の確認をしていないが、そこに記される沼によって干害を防いだのが、平田小学校北側一帯ということのようなのだ。ならば、中井川の南側のこの水路がそれとかかわるような気がするのだが、本当のところはどうなのだろうか。

 先に記したように、この道筋を進むと昭和39年建立の山田耕地整理記念碑が建つお堂に突き当たる。
a0087378_15143027.jpg この御堂だが、地区名としては虚空蔵前ということなのだが、半沢氏の「歴史地図」では「田植え地蔵」が案内されるのでその地蔵堂なのかな。
 この地蔵さま、「福島市『信夫村』口頭伝承」のページに【高倉の田植地蔵】として案内されていた地蔵さまだと思う。 まだ、その出典資料の確認はしていないが、引かせていただく。
 http://members.jcom.home.ne.jp/rikka/chimei/chimei_04sinobu_idx.html
 山田の高倉にある延命地蔵堂は、土地の人々からは「田植地蔵さま」と親しまれている。堂の中には、地蔵の木像が、何体かまつられている。
 むかし、山田は田植えの時期になっても、水が少なくて田植えに困っていたという。その時も、やはり水が不足していて、田植がなかなかはかどらないでいた。それでも、何日かのあいだに、苗が植えられていった。ところが、地蔵堂の近くにあった田の数枚は、どうしても水が少なく、田植えができないでいた。
 すると、ある夜、一晩のうちに、この残っていた田に苗が青々と植えられていたという。そこで部落の人々は、これは誰の仕わざなのだろうかといっていたところ、地蔵堂の石段に、小さな泥の足あとが乱れてついているのを見つけた。それで、お堂の扉を開いてみたら、お堂に納められていた何体かのお地蔵さまの足の全部に、泥がついていたという。
 それから、部落の人々は、この地蔵さまを、「田植地蔵さま」と呼ぶようになったといわれている。
(『「福島市史」別巻Ⅳ 福島の民俗Ⅱ(信仰伝説 神・仏)』より)

by shingen1948 | 2015-06-04 15:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)