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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 平石の朝日舘から鹿島神社の間の山王道筋を、鹿島神社から逆に進む。
 まずは、陽林寺に向かう道筋に出て、その道筋から、東に抜ける道筋に出る。少し進んで、民家の手前から右手に入る道筋を進む。それが、この道筋だ。
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 そのなだらかな道が、山側に建つ民家をやや回り込む。
a0087378_1131525.jpg

 その付近に、石塔群が……。
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 そこから少し先までは、整備されているのだが、その先は笹藪となる。
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 しかし、道筋ははっきりしているようなので、進めないことはないとは思うが、今回は半ズボン。無理をしないでここから戻る。

 この道筋は、暫くは陽林寺に向かう道筋と平行に走っているが、やがて朝日館とされる山を回り込んで平石側の平地につながる。
 この道筋が、平石の朝日舘から鹿島神社の間の山王道筋なのだろうと思う。
by shingen1948 | 2015-06-24 11:39 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 小倉舘の牧野氏の具体像はよくわからないのだが、伊達氏中枢にいた牧野氏という重臣とのかかわりが想像されているのだろうと想像する。
 先の牧野氏も、自領の七ヶ宿から伊達領を逃れて相馬領への逃走の途中、大森城主伊達実元公に身を寄せ、そこから会津に身を寄せ、相馬藩に仕えるようになるようなので、この時点でも、近くでの動きはあるようだ。
  
 これから、平石の朝日舘からここ鹿島神社までの山王道筋を逆方向から整理しようと思うのだが、その道筋は、鹿島神社から陽林寺への道筋に入って、その途中から左手に抜けていく道筋を進む事になる。
 ということで、改めて陽林寺についての情報を眺めていたら、その創建時情報に牧野氏を見つけた。小倉舘の牧野氏が、具体的にどの方のどの時期の牧野氏なのかはよく分からないのだが、牧野氏という氏名に敏感になっていたのだろう。
 
 陽林寺は、永正13年(1585)に稙宗公によって開かれる。そして、大森城主実元の保護によって栄え、その後も領主の保護を受けてそれなりに栄えていたということのようだが、その創建時に、伊達家臣の桜田氏と共に牧野氏が周辺の所領を寄付したとの記録もあるという情報だ。

 さて、平石の朝日舘へ向かう山王道筋だが、鹿島神社から陽林寺に向かう道筋に出るところまでは、陽林寺への案内板も建っているので直ぐに分かるのだが、ここから東の山越え道に入る道筋がなかなか見つけられなかった。何度か挑戦して、やっとそれらしい道筋を見つけた。
a0087378_1383347.jpg これが、その東に入る道筋。
 なかなか見つからなかったのは、小心者である自分の性格に由来していた。
 というのは、この道筋の先に民家がある。その私道かもしれないということで躊躇してしまっていたのだ。
 勇気を出して進んでみて、民家の手前を右手に進む道筋らしきものを見つけたということだ。暑い日で半ズボンだったので、無理をしないで、進める所まで進んでみる事にした。
     ◇       ◇        ◇         ◇       ◇
 整理しようとしているのは、平石の朝日舘から鹿島神社の間の山王道だが、最近歩いているのは、山王権現様近くの山王道筋だ。
 気になるのは最近の熊情報で、6/8福島市山田字音坊 地内(19時頃、車で荒井から福島市内へ向かう途中、右側の道路沿いの竹やぶにいるクマ(体長約1m)を目撃したもの)、6/11福島市上鳥渡山王 朝日舘公園(13時頃、公園で10m離れたところを歩くクマ(体長約1m)を目撃したもの)
 山王権現様は、この朝日舘公園内だ。元々小心者で無理はしないのだが、今回は特に深入りは控えた方がよさそうだなと思う。
by shingen1948 | 2015-06-23 13:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、小倉舘の鹿島神社で気になった伊達氏と鹿島神社とのかかわりにかかわって、伊達氏の祖伊佐氏が常陸とかかわる事からの勝手な妄想に浸った。その妄想を広げれば、その家臣にも鹿島にかかわり深い方がいらっしゃってもおかしくはないということだ。  
 家臣の中には、剣法として鹿島流として願流を起こされた方がいらっしゃるという情報も見るが、深追いしない。

 次に気になるのが、小倉舘主牧野 紀伊守とおっしゃる方だ。
 同一人物なのかどうかは知らないが、「牧野紀伊守」という御名前に接した事がある。梁川の散歩で、「興国寺」の「上杉景勝家臣梁川城主須田長義公の墓」に立ち寄ったことがある。この時に、その興国寺の旧地が常栄寺跡とのことだが、その常栄寺が、この方の菩提寺だったということだった。

 先に整理した「興国寺②」で、その「常栄寺は、伊達家の宿老牧野紀伊守の菩提寺であったが、伊達氏が梁川を去った後に空き寺になったということのようだ」と整理した方だ。ここでは、この牧野氏は元亀の変で失脚し、相馬へ逃れたと伝えられるらしいとしてそのままにしていた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9284941/
 この「元亀の変」は、元亀1年(1570)の伊達輝宗公と父晴宗公との対立。
 永禄7~8年(1564~65)頃には、晴宗公は引退して、伊達輝宗公は、家督を継いでいたのだが、晴宗公の宰臣である中野宗時氏と牧野宗仲氏父子の執政体制が続いていたとのことだ。
 それが、この変で輝宗公側が鎮圧して、遠藤基信氏を宰臣として家中を統治する新体制になったということのようだ。
 この時以降、伊達氏権力の中枢は、伊達、信夫に代わり置賜出身者がすわるようになるようだ。ただ、この遠藤基信氏の元の主人は中野宗時氏という関係性でもあったようだ。

 よく分からないところはあるのだが、伊達家の宿老牧野紀伊守が、中野宗時と牧野宗仲氏父子との「牧野宗仲氏」ということかな。
 とりあえず、この「牧野宗仲」氏のその後を追っておく。
 中野宗時氏とその子の牧野久仲氏は、共に追討を受けて相馬盛胤氏を頼って落ち延びるようだ。この時に、中野勢の方は亘理氏の攻撃で潰滅してしまうのだが、宗仲氏等は、身一つでなんとか相馬領へ逃れたということだ。
 その後、大森城主の伊達実元公と晴宗公を通じて、輝宗公に赦免を乞うてもらうのだが、許されずに流浪のうちに死去したということだった。

 天文22年(1553)晴宗が奥州探題に任命されると、桑折宗貞、牧野宗仲の二人が守護代となったとのことだが、牧野氏を意識しながら、その時の重臣とされる方を列記しておく。
 <牧野宗興・桑折宗貞・桑折景長・牧野宗仲・白石実綱・中野宗時・牧野久仲>
by shingen1948 | 2015-06-22 11:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 延喜式は延喜年間に編纂された古代律令制施行細則で、その中の神明帳に載る神社は国家が公認し、幣帛を奉った神社なそうだ。
 陸奥国には100座あって、そのうち信夫の里には5座あって、これを信夫5座というのだそうだ。その5座が、鹿島神社 東屋国神社 黒沼神社 白和瀬神社・東屋沼神との事。ただ、神社には廃絶や移転、祭神の変更などがついてまわるので、その考証は難しいのだとか。
 「ふくしまの歴史」では、その中の鹿島神社も、鳥谷野、岡本、小田、水原にあるが、どれがもともとの鹿島神社かは分からないとし、栗田寛の「神祇志料」では「鳥谷野村の鹿島森にあり」としていることが紹介される。
 それでも、それぞれの地域の神社の地区民は、それぞれに本家意識が強い。それで、神社の由緒では延喜式内社である主張と絡めた紹介になるようなのだ。

 重々しく歴史の考証をしたいわけではなく、気楽に散歩をしたいだけなので、その主張部分を外させていただいて解説を読む事にしている。
a0087378_5372434.jpg 小倉鹿島神社でもそうさせていただいたところで、気になったことの一つが伊達氏と鹿島神社とのかかわりだ。
 その視点でネットを検索して遊んでいる中で見つけたのが、「桑折 雅嗣氏」のホームページにあった伊達、信夫の里の伊達氏の祖の話。

 伊達氏は、鎌倉時代に誕生するのだが、それ以前は伊佐氏と称した常陸の国の武士だったとのこと。現在の下館近辺にあった伊佐荘、中村郷を領していたとのことだ。
 常陸時代の伊佐氏に詳しい中世常総名家譜という資料があるそうで、その資料には次のように紹介されるとのこと。
 この伊佐氏の祖は、藤原山陰に発し、藤原鎌足の8世の孫、その子に越前守安親があり、為盛、定任、実宗と続くのだそうだが、この実宗氏が伊佐氏の祖とのことだ。
 実宗氏は康和元年(1099)陸奥守となり鎮守府将軍を兼ねる。
 天永2年(1111)に常陸守となるが、この年、臨時課役が課され疲弊していたことから大蔵卿の大江匡房に哀訴し助かったとある。
 そして、この実宗氏が永久2年(1114)に鹿島神宮を造営したとも紹介されるとのことだ。

 ここからは、勝手な想像だ。
 小倉舘は、伊達氏の重臣の舘であり、そこに鎮座するのが小倉鹿島神社とみれば、この神社が伊達氏の故郷常陸の鹿島神社と直接的に権威付けの交渉があったとしてもおかしいことではなさそうにも思うのだが、どうだろうか。
 ただ、これは単なる他所者の散歩人の勝手な想像であることを強調しておきたい。というのは、これって「一統誌」の記載にかかわる大胆すぎる想像のようになっているようだからだ。
by shingen1948 | 2015-06-20 07:32 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 鹿島神社前に建つ「鹿島神社」の案内板には、その由緒について、次のように記される。
 由緒
 御鎮座については不詳であるが、その昔篠生(信夫)郷が湖沼であった時わずかに水上に出ていた鹿島の丘上に常陸国の鹿島神宮より蝦夷地経営の為分祀勧請されたと伝えられている。延喜式制定(905年)に当たり、本社もその例に入る。中世には牧野紀伊守の居住する小倉館と言う城舘があり、別名「小倉鹿島神社」とも称され、古くから信夫の古社として信仰が厚い
 信夫の里には鹿島神社が5社あって、延喜式内社は不明なところもあるようなので、延喜式内社である主張と絡めての紹介から、その主張部分を外させていただくと、ここは「中世には牧野紀伊守の居住する小倉館と言う城舘があり、別名「小倉鹿島神社」とも称され、古くから信夫の古社として信仰が厚い」という立地条件たったとの紹介になる。
 ここは「小倉舘跡」との視点で、少し引いた地点から眺めるとこんな感じ。
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マホロンの「遺跡データベース検索」で、濁川水系で未調査の条件に絞ると以下の中世の城舘が検索できる。
 〇 小倉舘跡(福島市 小田字鹿島山)
 〇 朝日館跡(福島市 平石字朝日館)
 〇 古舘(福島市 小田字古館)
 〇 鳥谷野館跡(福島市 鳥谷野字館)
 〇 砦城跡(福島市 平石字台)
 〇 八幡館跡(福島市 小田字八幡館)
 小田村内には、小倉舘跡の他に古舘と八幡館跡の検索。
 これからの散策とのかかわりで、山王道沿いの舘跡を視点にすると、ここ小倉舘跡と朝日館跡だが、山王道の到着地点である上鳥渡山の山王様の山の上にも朝日館跡があることを思い描く。

 「山形・宮城・福島の城郭」では、№307小倉舘は、「牧野紀伊守の居舘」と記される。鳥谷野の鹿島神社とのかかわりで気になる「鳥谷野館跡」は、「慶長年間の舘」と整理されている。
 なお、上鳥渡山王の朝日館については、「正治年間、信夫小太郎の居舘、搦手・堀が残る」ことが記される。

 「一統誌」の「小倉舘」の項では、「伊達 家の 臣 牧野 紀伊守 居住す」とし、 この方が大永年間に亡くなられて「鹿島院殿と号す」ことが記されているようだ。
by shingen1948 | 2015-06-19 07:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
  「石造宝塔」らしきものを見つけたのは、「山中太郎右衛門頌徳生祠」らしきものをみつけたのと同じ日だった。
 こちらが、その「石造宝塔」だと思う。
a0087378_1233793.jpg この「石造宝塔」について、半沢氏の「歴史地図」には中世の宝塔(石造)と記される。素人の散策人にはよく分からないのだが、中央に施された薬研彫りが鎌倉時代特有のものなのだとか。

 なかなか見つけることができなかったのは、完全な形のものが存在するとの勝手な思い込みがあったからのようだ。
 先に「福島城(杉妻城・大仏城)」で整理した「宝塔」が、石造宝塔の基本形とイメージしていた。それで、これと同様なものがあるとの勝手な思い込みがあったのだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7876632/
 こちらの「宝塔」だって、笠の部分は後から補修されて加えられたということを知っていながら、完全な形のものの存在をイメージしていたというのが、ちょっとあまかったな。

 「石造宝塔」と「山中太郎右衛門頌徳生祠」が確認できると、今まで関心がいかなかった欅(けやき)と榧(かや)の古大樹が〆縄がまわされて御神木となっている事にも気づく。
a0087378_1252733.jpg  「山田大清水の杉」同様、案内されないのだが、こちらのケヤキが、県の「緑の文化財」に指定されているという情報があるので確かめる。
 福島県の「県北農林事務所」のページの「緑の文化財」の項に、「福島県緑の文化財登録一覧表(県北管内)」が紹介される。その福島市№39の「鹿島神社のケヤキ」が、それに当たるのだろうと思われる。
 その紹介によれば、指定日が昭和58年2月17日で、樹種名はケヤキ、推定樹齢が300年、樹高が20m、胸高直径が120㎝ということのようだ。
 http://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/36210a/bunkazai.html
 いろいろな情報も考慮して「鹿島神社のケヤキ」は、ここ小田(小倉)の鹿島神社のケヤキと推定した。しかし、福島市の鹿島神社は、岡島・鳥谷野・小田(小倉)・水原の地にあって、本当に「鹿島神社のケヤキ」がここのケヤキを指すという自信があるわけではない。

 そもそも「緑の文化財」って何なのかということがなかなか確認できなくて、やっと見つけた情報なので、ようやく見つけた福島県「林業」のページに掲げられたその趣旨を再掲しておく。
 http://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/36055d/ryokka.html
 「福島県緑の文化財」は、県民に親しまれ愛されてきた名木や鎮守の森等の緑の財産を保護、保全して、かけがえのない貴重なみどりを引き継ぐものとして、知事が指定、登録したものです。
 登録には、次の各号のいずれかに該当することが必要です。
 (1) 寺社等建築物、遺跡等と一体となっている樹木とその周辺緑地
 (2) 名木並びに伝承、風俗、習慣に結びついた樹木とその周辺緑地
 (3) 国又は県指定の天然記念物のうち、前各号のいずれかに該当するもの
 (4) その他、知事が適当であると認めたもの
 現在の登録箇所数は、539か所です。

by shingen1948 | 2015-06-18 12:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_1729852.jpg 「山中太郎右衛門頌徳生祠」の右脇の刻字部分だが、「供養・天明○年・月余・ 代官」が読めているような気もするがどうだろうか。
 一般的に、地域の情報では神格化された方と地域のかかわりが、より深いかかわりとしてデフォルメされるのが常だ。
 それで、他の地域とこの方とのかかわり情報を確認することで、そのデフォルメされた部分の平準化を試みる。

 小名浜地域の情報では、この方の小名浜陣屋就任が、天明 6年(1786)から天明 8年(1788)までとある。こちらの情報によれば、小田鹿島神社に祠が建立された天明7年(1789年)には、この方は小名浜陣屋に第7代代官様として在任していたということになる。
 「天明の大飢饉領民救済」の天明3年(1783)の大凶作の時点では、第5代代官蔭山外記氏とのことだ。

 天明3年(1783)の大凶作の時点で、山中太郎右衛門氏がおらが村のお代官様だとする情報は、山形県東置賜郡高畠町安久津にあるようだ。
 こちらの安久津八幡神社にも、氏の同様な報恩碑が建つのだという。
 どちらにしても、搾取される側からその搾取に大凶作のご配慮を頂いたという情報で、その至誠が、地域の恩義の美談として東北地方の広い範囲で語られていたように思うのだ。

 江戸期の三大凶作とされるのは、享保17年(1732)と天明2年(1782)~7年(1787)、それに、天保4年(1733)~10年(1739)の凶作とのことだ。この時期の飢饉が、餓死者多数を出した飢饉だといわれている。
 このうち、享保の凶作は西国地方中心で、奥羽地方の被害は少なかったが、天明と天保の凶作は奥羽地方全域で被害が出たという。
 山中太郎右衛門氏の美談がかかわる天明3年(1783)の状況は、2月までは暖かい冬とも思えない日が続いたものの、6月から10月まで霖雨が止まず、冷涼で袷を着て焚き火を囲んでいたという状況だったのだとか。
 その冷夏と6月の大洪水、7月の浅間山爆発、8月の北風と大霜と災害が続いて、稲は勿論、畑作物も皆無となったという。
 三春地域の資料によると、三春領内では、秋に収穫したはずの米雑穀が、師走までに貯蔵が底を尽いたという。三春藩では、城下に救済を求めた領民が多数城下に避難してきたため、八幡町末に集めて翌閏正月から5月まで施粥が実施されたようだ。
 三春北部の成田村でも1ヶ月間施粥が実施された記録が残っているという。それでも、領内の各村で餓死者を多く出たのだとか。

 この三春の資料で、奥羽地方では被害が少なかったとされる享保の凶作で、信達地域では有名な農民一揆が起きている。
 その一揆については、先に、その首謀者とされる佐原太郎右衛門氏を中心に整理している。
 その農民一揆が、享保14年に起きる。信夫・伊達郡の農民が、この年の年貢減免を強訴するのだが、その強訴先の一つが大森代官所だ。
 佐原太郎右衛門氏は、更に江戸に潜伏して目安箱に訴状を投入するが、捕らえられて、享保15年1月21日に49歳で処刑される。今回の整理と野かかわりで注目するのは、氏の生地である佐原に太郎右衛門一族の供養碑が建立されるのが、山中太郎右衛門氏の美談から2年後の天明5年(1785)だ。
 その2年後の天明7年(1787)には、山中太郎右衛門氏は神様になる。その関係性が気になるところだ。
 純粋に美談として見るのがいいのかもしれないが、出来事を羅列すると、顕彰することで不穏な空気を抑えたかった権力側の都合というひねくれた見え方もあり得るような気もしてくるが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2015-06-16 17:42 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 神社の境内案内の項では、「要石」と「小倉橋の碑」が紹介される。「要石」については案内標も建つが、「小倉橋の碑」には案内標はない。それで「小倉橋の碑」を少しは探したが、それでも直ぐにみつけることができた。

 境内案内では、その他に欅(けやき)榧(かや)の古大樹や小社たまる福稲荷と共に、鎌倉初期の「石造宝塔」と「山中太郎右衛門頌徳生祠」も紹介される。こちらを見つけるのは、ちょっと苦労した。
 地域の方には直ぐに分かる事なのだろうが、他所者の散歩人にはなかなか見つけることができなかったが、何度か訪ねてようやくそれらしきものを見つけた。
 まずは、「山中太郎右衛門頌徳生祠」。
a0087378_1812743.jpg 多分、これがその「山中太郎右衛門頌徳生祠」なのだろうと思う。祠に葵の紋が彫られているらしいという情報がある。
 確かに、屋根にそれらしきものが見える。それに、この祠は他に比べてやや立派な感じもする。右袖の刻字が読み取れないのは残念だ。

 「生祠」の意味がよく分からなかったので確認する。
 「マイペディア」によれば、生存中の人間を神格化してまつることを生祀といい、その設けられた社祠を「生祠」というのだそうだ。
 その対象は、英雄だったり、聖者だったり、恩人だったりするのだが、神格化の要因としては、超人的資質を有するとか、常人にできない行為をするとか、恩恵を施す等が考えられるとのこと。

 山中太郎右衛門氏の場合だが、半沢氏の「歴史地図」のメモによれば、「天明の大飢饉に領民を救済した大森陣屋の代官」とのことだ。そして、この祠が建立されるのは、天明7年(1789年)とのメモ。

 この方の顕彰墓については、先に整理した「陽林寺②」でふれている。そちらの情報と照らし合わせる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7196521/ 
 こちらの情報では、この方は安永5年(1776)より十数年間大森陣屋にいた幕府代官と紹介している。また、顕彰される行為である下役人中沢道右エ門と共に農民救済に奔走する「天明の大飢饉領民救済」は、天明3年(1783)の大凶作の時とされている。大森陣屋着任7年後ということになる。

 こちらの「生祠」建立は、天明7年(1789年)との事なので、大森陣屋着任13年後ということになるようだ。この時は、大森陣屋代官在任中のように紹介される。
 陽林寺の碑建立は、寛政10年(1798)とのことだ。(先の整理では西暦に誤りがあったようなので、今回修正しておく)
 山中太郎右衛門氏は寛政10年(1798)2月6日に亡くなったとのことなので、これに合わせて陽林寺の碑は建立されたものなのだろうと思う。
 なお、中沢道右エ門氏は、その前年の寛政9年(1797)2月9日に亡くなったとの事だ。

 この地域の情報だけをみていると辻褄が合いそうなのだが、山中太郎右衛門氏の陣屋就任には、小名浜地域や山形県東置賜郡高畠町安久津地域の別情報も見る。
 ちょっと気になるので、こちらの情報にもふれてみる。
by shingen1948 | 2015-06-15 18:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 水原への道筋は次の機会にして、平田村内の山王道は確認しようかなと思ったはず。まずは、山王道筋沿いの小田鹿島神社について整理する。
 神社前に案内板が建っていて、多様な解説があっていろいろと説明される。その中で、境内については次のように説明される。
 境内には霊石の要石があり、この石に触れると安産になると信じられている。また、かつて境内の前を流れていた濁川に架かる石橋は、明治21年に建立されたもので「よろづ世にかけて朽ちせじ里の名のおぐらのはしの名さへ橋さへ」と地域の発展を願った和歌の碑が残されている。
 その他境内には、鎌倉初期の石造宝塔、山中太郎右衛門頌徳生祠、欅(けやき)榧(かや)の古大樹、小社たまる福稲荷等がある。
 ここに案内されることのいくつかが、なかなか確認できなかった。
 要石と小社たまる福稲荷については、そこにも案内板が立つので直ぐに分かる。ただ、要石については、鹿島神社縁であることは誰もが知っている事として説明は省略されている。この案内板の解説も、地域の人々が民間信仰として、その御神徳として信じている事のみが解説される。
a0087378_4412191.jpg こちらが、半沢氏が「歴史地図」に「小ぐら橋の碑」とメモするものと思われる。明治21年国学者菊田和平氏建立とか。案内板には「かつて境内の前を流れていた濁川に架かる石橋は、明治21年に建立されたもので『よろづ世にかけて朽ちせじ里の名のおぐらのはしの名さへ橋さへ』と地域の発展を願った和歌の碑が残されている」と解説される。

 確かに、この「石橋の碑」左側面には地域の発展を願う思いを小倉橋の思いに重ねて表現したというその和歌が刻まれているのだが、その裏面には「石橋発起人」と「有志者」名が刻まれている。
 この「石橋の碑」は、国学者菊田和平氏建立やその和歌を誇っているのではなく、地域の力でこの石橋ができた事を誇っているように読める。それで、写真は、裏面から撮ったものにした。
 当時の人々にとっては石橋それ自体が誇るべきものなのだろうということに思い至る。
 そういえば「のりしろ散歩」では「橋供養塔」をみつけたなと思い出す。現代の時代を見聞する散歩人には、さもない橋にしか見えないのだが、そのことは感覚の麻痺なのかも知れない。曇った感性を磨き直す必要がありそうだとの思い。
by shingen1948 | 2015-06-14 07:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 山神神社への道筋は多分この道筋だろうと見当をつけて、さてこれから山道になるなと思うと直ぐに、その道筋の右手に神社らしきものが眼に入る。
 ちょっと意外に感じたのは、小田村の山神様は、山の民の神様だろうとの勝手な思い込みがあったからなのだろう。その位置と感覚とのギャップだ。
a0087378_175942.jpg この山神神社は、山裾に住む農民の山神様の拝み処なのだとみれば合点がいく位置だ。山の神は、春には田の神となって山から降りてきて、秋になれば再び山に戻るのであって、その拝み処が山裾にあるという見え方をすれば、すんなりと受け入れられる。

 他所者の散歩人には、山田村から隣村の小田村へ移動するのに山を越えているというイメージを持つのだが、地図で確かめればそうではないことが分かる。山々から舌状に延びた山と山の間の耕地に集落の単位が広がっているのであって、舌状の山はその集落と集落の境界になっているということだ。山村というイメージとは少し違うようだ。

 ママチャリを引いてももう少し進めそうだということで、山に少し入ってみた。水槽脇の表示から小字「高森前」あたりまで進んだらしい事が分かる。その先が工事中になっていたので、そこから戻る。
a0087378_1814633.jpg 戻る時に気がついたのだが、道の右手に谷川が流れている。濁川の源流の一つなのだろうと思う。
 この濁川が、この辺りの耕地に豊穣をもたらしているのだ。山神神社が祀らるのは、その水源の一つがある山裾という見え方もできそうだ。

 とりあえず、この山神神社を山裾に住む農民の山神様とのイメージで整理しておく。
 ただ、半沢氏の「歴史地図」の山田村のところに「猪鹿防除のため鉄砲役免除」のメモが見える。この山神神社も、山の民の山神の性格もなかったとは言い切れないなとも思うが、実際はどうなのかな。
by shingen1948 | 2015-06-12 18:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)