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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 正岡子規氏が瑞巌寺を詣でた際には、乙二氏の句を「独り卓然たるを覚ゆ」として、一具氏についてはふれていない。しかし、「俳句歌留多」などの情報と照らし合わせると、乙二氏同様俳人として高く評価しているらしいことが分かる。

 「『子規居士真筆俳句歌留多帖』考(復本一郎)」をガイダンスにして、を確認する。
a0087378_11132054.jpg 「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められる「子規手製俳句カルタ」の原本は10月18日~12月22日に、開館70周年記念展示として公開されているという。
 これは、その90番目に紹介される札だが、これが一具氏の句のようだ。
 その制作年代は、「国立国会図書館デジタルコレクション」では明治年間とするが、「『子規居士真筆俳句歌留多帖』考」では、明治27年(1894)ないし明治28年(1895)に成立しているとみているという。
 ここでは、55番目に「一具 町うらに夕日のこりてしぐれけり」として紹介されている。
 なお、乙二氏の句は39番目に「乙二 凍るぞといふ声わびし草履の緒」として紹介されている。

 また、ここでは、明治31年(1898)12月10日「ホトトギス」掲載の「俳諧かるた」も紹介されている。
 一具氏の句は、その95番目に「一具 町裏に夕日残りてしぐれけり」として紹介されている。子規手製俳句カルタと同一句だが、漢字かな表記が違っている。
 乙二氏の句は47番目に「乙二 凍るぞといふ声わびし草履の緒」として紹介されている。こちらは子規手製俳句カルタと同一句で表記法も変わらない。

 「子規手製俳句カルタ」と「ホトトギス」掲載の「俳諧かるた」の大部分は重なっていることだが、5人の作者の作品に異同がみられる事の確認ができるとのことだ。「ホトトギス」掲載の「俳諧かるた」の時期、子規氏は無村への傾倒が著しい時点とのことだ。
 復本一郎氏は、結果的には、「子規手製俳句カルタ」と「ホトトギス」掲載の「俳諧かるた」の大部分は重なっているのだが、俳句観の変化に伴って選び直しが行われたとみているようだ。

 散策人としては、「俳諧かるた」を見る限りでは、一具氏は子規氏に評価されているとみる。

 
by shingen1948 | 2018-12-12 11:17 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 夏、久しぶりに合った客人が、飯坂温泉に行きたいというので付き合った。
 要望は、飯坂電車で行きたいということと鯖湖湯に入りたいということだ。後で聞いたら、新幹線にあった雑誌を見て思いついたこだわりらしい。
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 新しい共同浴場もあることは紹介したが、あくまでも鯖湖湯がいいという。それだけでない。いろいろと案内しても興味のないことには耳を貸されない。
 好き勝手に歩きたい人が、興味を持ったことについて整理しておきたい。

 まずは、湯加減。
 先に入っていた方が湯加減を調整してくださっていたが、暫く立つと段々熱くなってきたが、これも経験として楽しんでいるようだった。
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 そして、湯から出ては、鯖湖湯を中心とした湯沢の共同浴場の整備された雰囲気。
 現在の鯖湖湯の建物は、平成5年に改築されたものだが、老朽化で取り壊された建物と同じようなイメージに立て替えることにこだわったことだろうか。
 老朽化で取り壊された建物は、明治22年(1889)の飯坂町誕生の時に再建された建物だったらしい。
 「飯坂の歴史」によると、明治21年(1888)の湯町から出火した飯坂大火で、湯沢・十綱町の178戸が灰になったが、これをきっかけに新しい町づくりをしたという。
 旧道を広げ、新しい道を造り、錦町、古戸町、旭町、鯖湖町、若葉町などの新町を設置して、若葉町に遊郭を移転したとのことだ。その一環として、鯖湖湯も再建されたという。

 更には、この時の鯖湖湯は、今の足湯のあるあたりに建っていて、現在の鯖湖湯は透達湯があったはずということにも、興味を示す。
 透達湯の建物は、自分の記憶では、今の他の共同湯と同じように、モルタル造りの建物だった。

 この湯沢の共同浴場は、子規の「はて知らずの記」にも鯖湖湯と透達湯の二つの共同湯があったことが記される。
 子規は文知摺観音までで体調を崩し、炎熱に堪へられずに人力車で飯坂温泉にやってくる。着いた旅宿については、今の処、その宿の庭前に今を盛りと山吹が咲き出していたということしか分からない。
 
 山吹のみな月とこそ見えにけれ

 子規が、湯に入ろうと外に出ると、雨が降り出していたという。そこに、その浴場が2箇所あったと記されている。
 本日は貸し切り状態だが、子規が入った時には、風呂はかなり混んでいて、芋洗い状態だったらしい。
 岩代国飯阪温泉三句が、記録されている。
 夕立の下に迷ふや温泉の煙
 夕立や人声こもる温泉の烟
 夕立や人声おこる温泉の烟

 ここに建つ子規の句碑は、「はて知らずの記」にも記される次の一句を選んで記される。
 夕立や人声こもる温泉の煙
by shingen1948 | 2012-09-11 05:20 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(2)
 飯坂温泉史の旅館群とこの滝の位置関係を確かめておきたい。
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 西根堰脇の清龍館の建物は、今はない。旅館として機能していたかどうかは分からないが、なくなったのはそれほど古い話ではない。最近は、この辺りは西根堰散歩道でもつくるのか、工事中で入れない。
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 この中の新松葉屋は、そのホームページで、松葉屋からのれん分けされたとあり、明治26年に子規が来た時点では、この旅館はなかったようだ。
 この地図の清水屋と現在稲荷屋の隣にある清水屋が同じ旅館なのかどうかは分からない。もし、同じなら、考えられるのは移転だ。この地図が正確なものと仮定すれば、明治26年時点では、この地図の位置だった可能性が高いと思っている。位置的にバイパスとかかわる移転かもなどと余計な想像もする。
 なお、椎谷氏は、現在地にこの清水屋を描く。
 残りの旅館群については、今のところ情報はなく、明治26年に存在していたと想像している。

 従って、子規がいう「向かい側の絶壁によりそって、三層楼が立ち並ぶ間から、一條の飛爆玉を噴て走り落ちる」という「立ち並ぶ三層楼」は、今のところ、これらのこういった状況の旅館群だと思っている。
 これは、その旅館群を北側からみているが、それを十綱橋の方面から当時の風景を想像しながら眺めているのが 「飯坂温泉:湯野の橋本温泉」で整理した中の橋から見た橋本温泉であり旧「仙気の湯」である。


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 この滝は、西根堰の排水路とかかわると思うので、この管理記録から滝の位置を特定することもできそうだ。湯野側の西根堰の位置まで道を拡張するのが、明治19年(1886)だから、その道路の変遷資料からたどれる可能性もありそうにも思う。


 なお、椎谷氏は、この滝がみえることとのかかわりで、子規の宿泊地を松葉屋と仮説を立てているように感じたが、自分は、子規は十綱橋近くからこの滝を見たと思っている。今のところ宿泊地は、湯町だと思う。

 この「涼しさや瀧ほどばしる家のあひ」の句碑の存在も、まだ曖昧なままだ。
by shingen1948 | 2011-01-10 07:30 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(3)
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 これは、旧若喜旅館と旧波来湯が更地になった時点の写真だ。詳細は後で確認したいが、写真などから得た情報の範囲で、「『家のあひ』よりほとばしる滝」があったのは、奥の緑の建物あたりだろうと思っている。
 この滝についての情報を、もう少し詳しく整理しておく。

 絵葉書でこの滝が確認できる十綱橋は、木の橋だ。古い絵葉書であっても、鋼橋になってしまうとこの滝は建物に隠れてみえなくなる。その滝の位置の建物の後ろに木が写っているという状態になる。橋の変遷とともに、湯野温泉街の変遷を意識させられる。
 十綱橋の歴史については、「福島の建築 29」と「福島の建築 29ー2」で確認している。このことと、この滝のあたりの風景を関連させられるのは、今のところ木製か鋼橋かということしかない。

 最初の橋が、明治6年(1873)熊坂惣兵衛と盲目の伊達一が架けた橋だ。これは、勿論木造の吊り橋だ。これが、半年で落ちてしまう。
 その後、明治8年(1875)に、橋本館の新館の所から斜めに橋が架かかる。宮中吹上御苑の吊り橋を模して10本の鉄線で支えられていたという。明治16年(1883)に、大修繕が加えられ、更に明治24年(1891)には、県費の補助も受け、伊達信夫両郡の負担で大修繕が施工されたとのことだ。 この2年後に子規が来る。
 この旧橋の歴史が長いようだ。しかし、この橋も漸次橋体が傾き,明治43年(1910) 8月27日に大出水のために落橋する。これを明治45年(1912)4月から修繕されたという。
 ここまでが、木橋の風景ということになる。

 鋼橋になるのは、大正4年(1915)9月に完成された橋で、昭和40年(1965年)に大補修が加えられるということだ。
 恐らく、大正時代には、この滝はなくなっていたと考えられるということだろうか。
by shingen1948 | 2011-01-09 07:38 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 「もう一つの奥の細道」29で、子規が歩いた「本宮駅→二本松駅」・「福島駅→桑折駅」までを整理する中で、その時点で気になっている事を具体的に三つ挙げた。
 その一つは、子規が訪ねた時期、黒塚に渡るのは「供中の渡し」だったのか、「供中橋」だったのか確認していないことだ。
 それから、飯坂温泉湯野側の滝が切湯近くだった可能性がある写真を見たことと、更に、子規が福島や飯坂で宿泊した旅館は、まだ曖昧のままであることとした。

 その二番目の「飯坂温泉湯野側の滝が切湯近くだった可能性がある写真を見たこと」というのは、「ふるさとの想い出写真集明治大正昭和の福島(大竹三良編著)」に大写しの十綱橋が載っていて、その背景になっている切湯近くに、滝らしきものが写っているように思えたのだ。ただ、ぼんやりとした感じだったので、曖昧な表現にしていた。

 今回、飯坂の散歩で、堀切邸での収穫は、「飯坂鯖湖こけし」だけではなかった。このぼんやりとした感じだったことが、やや確からいという風に思えた事だ。
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 堀切邸の十間蔵では、椎野健ニ郎氏の作品展をやっていた。そのなかの「子規が歩いた飯坂の道(平成5年7・8月製作)」に、この滝が描かれていたのだ。

 (撮影禁)なので文章だけになるが、古い地図にある井サノヤとシミズヤが逆に描かれてはいるが、シミズヤから南に並ぶ旅館群と切り湯の間にその滝は描かれていた。伊佐のヤは、その滝をまたいで建っている。キツネユと切り湯の間の現在も見える滝も描かれていた。

 ずっと気にしていたのは、子規は、芭蕉のように実際に見えた景色を加工することはなかったと思えている。だとすると、「家のあひ」よりほとばしる滝は、十綱橋から見える位置でなければならないという思いがあったのだ。
 「はて知らずの記」で、「向かい側の絶壁によりそって、三層楼が立ち並ぶ間から、一條の飛爆玉を噴て走り落ちるのも珍しくいい景色だ」と表現するのは、十綱橋までの散歩の中だ。
 その確かな風景が見つからないでいたのだ。
 「「家のあひ」よりほとばしる滝を求めて」は、そんな曖昧さの中で整理していた。

涼しさや瀧ほどばしる家のあひ 子規
 
 恐らく、シミズヤから南に並ぶ旅館群と切り湯の間に描かれた滝が、一條の飛爆玉を噴て走り落ちる滝なのだろう。そう感覚的に納得したうえで、想像することができるようになった。

 子規から2年程時代が経ってここを訪れた鏡花が、「藤の花なる滝」に感嘆したというのもこの滝だろうと思う。繰り返すが、文人が共通に感じる風景なのか、それとも、鏡花が子規の影響を受けているのかは、分からない。
by shingen1948 | 2011-01-08 05:06 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 福島駅に立った子規は、芭蕉の交流性のもやもやから解き放たれている。ここでは、本宮駅で芭蕉翁を追おうと思う意識はより純化されている思うのだ。
 解き放たれた見方で、黒塚→福島宿→飯坂温泉→桑折→名取の旅を通す中で培われた旅の姿勢が、仙台での行動につながるのだと思う。
 芭蕉翁は、須賀川でそうだったのと同じように、人頼みの物見遊山の旅をする。それに対し、子規は、芭蕉翁が訪ねた後を追う姿勢は同じだが、旧派宗匠を頼らない。これは、須賀川で感じた芭蕉翁の交流性の違和感から脱したのではないかと勝手に思う。そのことによって、自らの思いに任せた旅になったのではないかと思う。
 それが、芭蕉が訪ねた順に訪ねるのではなく、興味のある松島を先に訪ねた後、芭蕉が訪ねた名所旧跡も訪ねるという姿勢になっていることとかかわると見る。

 名所を訪ねる子規の姿勢も対照的だ。
 例えば、黒塚の観音堂では、「はて知らずの記」を読む限りでは、子規は神妙に案内されていたように感じる。寺僧に賽銭投じ、小堂を案内され、壁上の書、函中の古物を説明され、その縁起を説かれるのを素直に説明を受け入れている。
 それに比べ、瑞巌寺では、小僧の案内にもうっとうしいと感じている。寺の宝物である玉座・名家の書幅・邦の古物、八房の梅樹等、いちいち指示するというのだ。
 これは、子規の本来的な書生気分が表出しているように感じる。
 確かに、老僧であることや袈裟を正すその姿勢との対比もあるのだろうとは思う。しかし、それだけではなさそうだ。ここには、忠実に芭蕉翁を追う姿勢と子規自身の表出ということとの意識のバランス感覚がかかわりそうだと思うのだ。
 瑞巌寺や雄島の句碑を評価するということも併せて見ると、子規らしい自己表出ということとかかわるように思うのだ。

 この姿勢は、最初から持ち合わせたものではない。本宮→黒塚→福島宿→飯坂温泉→桑折→名取で成長させたものだ。一般的には、この辺りはほとんど注目されないのだが、本当は、子規の旅の心の変化を読み取るのには重要な要素を含んだところなのではないか勝手に思っている。

 散策では、細かい所で気になっていることがいくつかある。
 一つは、子規が訪ねた時期、黒塚に渡るのは「供中の渡し」だったのか、「供中橋」だったのか確認していないこと。それから、飯坂温泉湯野側の滝が切湯近くだった可能性がある写真を見たこと。更には、子規が福島や飯坂で宿泊した旅館は、まだ曖昧のままであること等々だ。
by shingen1948 | 2010-12-27 05:25 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 子規は、南杉田の遠藤翁を訪ねた後、子規は紹介された宗匠を訪ねていないとした。この時に少し気になっていのが、次の福島で小川太甫を訪ねたとする資料があることだった。そのことについて、「福島市史」資料Ⅶにこの事についてふれている箇所があるのをみつけた。
 「はて知らずの記」に「福島の某屋に投ず。亭主太甫氏俳譜を能くす。」とあるその太甫氏を、地元資料で確認したということらしい。それで、この某屋亭主太甫氏が、旧派俳句をよくした小川太甫氏という方だということ分かったっということらしい。ただ、それ以上を知るすべはもうできないとも。その地元資料についてもふれてはいない。
 少なくとも、この方は紹介されて訪ねた宗匠ではないのではないかと思われる。宿泊した主人が俳譜を能くした方だったという関係性とみてよいのだろうと思う。

 子規は、黒塚を訪ねた後も地元の方との交流は続く。この方々の関係性と同質のものだと思われる。
 子規は、黒塚を訪ねた後、橋本の茶屋で休む。「はて知らずの記」でも、その主人が俳句をたしなむ方であるようには描いているが、「正岡子規の福島俳句紀行」では、より詳しく紹介されていた。 それによると、この方は、二本松町根岸の方で、油屋を営んでいたが、店をたたんで粗末な茶屋を開いた方とのことだ。
 その方との俳句談義の中で、矢張り俳諧に造詣の深い油井根岸の櫛見青山という方が紹介されたとのことだ。子規が満福寺を訪ねたのは、その方の紹介とのことだ。
 満福寺の住職蓮阿という方は、当時67歳で連歌を好み、子規と出会って翌年にはなくなられたとのことだ。子規は、この方と縁台を庭に広げて語り合ったとか。

 ここで確認したかったのは、紹介された宗匠を訪ね歩くのは、南杉田の遠藤翁までということだ。
 その後訪ねる方も、確かに旧派の俳句などをたしなむという事ではある。しかし、それ以降の方々は、旅での偶然の出会いの中で深められた交流ということだ。
 紹介された宗匠ということとの違いは、宗匠という権威とは遠ざかるということだ。日常の素養として旧派の俳句に親しんでいた方々ということだ。
 福島の某屋の亭主太甫氏との出会いは、この交流の延長線上にある。したがって、この方についての資料が乏しいのは当然の事なのかもしれない。

 子規は、紹介状で出会った地域の有力者、地域の著名人、俳句に長じた方との交流より、普通に生活している名も知らぬ方との出会いが、心に響きはじめているようだ。
 この本宮駅から二本松駅までのフレームで、旅での交流のあり方が見えてきたということのようだ。後で明らかになる旧派宗匠を否定的にみる見方は、この辺りで確立されたように思えてくる。
by shingen1948 | 2010-12-26 05:42 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 南杉田の遠藤翁宅を後にした子規は、「幾曲りか曲って、長い二本松の町を過ぎて野を行く事半里で、阿武隈川を渡れば路の側老杉あり」ということで、先に整理した黒塚につながる。
 この道筋の途中、個人的に立ち止まったのは、まずは北杉田宿、「七夜坂」、杉田舘跡それから、大壇口古戦場だ。
 この大壇口古戦場は、「おくのほそ道自然歩道」でも紹介されている。
 この古戦場については、先に整理している。
 〇 大壇口古戦場を訪ねる  
 〇 再び、大壇口に戻って想う
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 この大壇口古戦場の丘から奥州街道の方を望むと、こんな感じだ。この写真は、大壇口古戦場を訪ねた時に撮ったものだ。
 この時のポイントは、奥州街道を挟んで二つの丘が迫るということで、二本松場内に侵入する敵を食い止める絶好の地形だったということだ。奥州街道をやってくる敵が、手にとるように分かるといったところだ。

 
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 今回のポイントは、古い奥州街道の名残が見えるということだろうか。
 その古い奥州街道から大壇口古戦場を眺めると、こんな感じだ。子規は、線路の脇道になった奥州街道を眺めながら、二本松の町をめざして進んだのだろう思う。


 北杉田宿については、先に、「奥州街道:杉田宿木戸跡 」として整理している。そこから先の道筋は道路の改修によって分かりにくくなっている。
 そのおおよその道筋を「奥州街道:杉田宿北の旧街道を確かめる」として整理している。
 その道筋は、西側の山を回り込むが、これが「杉田舘跡」だ。
 子規が見た風景といういうことで確認すると、奥州街道沿いの「舘跡」の高台だということと、現在は舘跡に移動した光恩寺という寺は、当時はこの山の下の奥州街道筋にあったということだ。この寺は、慈覚大師円仁が開いたと伝えられる古刹だとのこと。
 「七夜坂」は、その後に続く風景になるが、最近、ここで整理した歌碑について新たな情報を見た。
 この歌碑は、国道の改修工事に伴って、奥州街道筋の鈴木?製材所脇から現在地に移されたものと記述だ。整理した時には、歌碑を元に奥州街道筋を推測したことが、これが曖昧になってきた。
 奥州街道は、ここから大壇口古戦場を通り、二本松の町に入るというのがおおよその道筋だ。

 なお、二本松に入ってからだが、「おくのほそ道自然歩道」では、「亀谷」について、「坂を登り竹田町へ出るのが奥州街道だが、芭蕉はこの坂を登らない。この坂の途中に鏡石寺がある」と紹介する。子規は、二本松に入ってどんな道筋をとったのかは分からない。

※ 12/26修正
by shingen1948 | 2010-12-25 06:23 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 子規は、本宮から杉田宿の遠藤翁宅をめざして結構な距離を歩く。その間「奥の細道」でとばされた風景にも芭蕉翁を感じながら表現しようと試みる。しかし、子規なりの表現からも省略された風景があるのも当然なこと。
 その省略された風景の中で気になるのは、杉田宿手前の薬師寺だ。気になって先に訪ねていたのだが、整理しづらくてそのままになっていたところだ。
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 目につくのは、整備された石段と入口のところの水場だ。
 万病に効くと言う霊泉の説明と、「この水は飲めません」と書かれる注意書きのミスマッチ具合も面白い。しかも、そこには柄杓が準備されている。地元では、今でも飲む方がいらっしゃるのかもしれない。
 昔は飲んでいたという風習と、飲むなら自己責任ですよという注意なのだと思う。


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 これは、参道の最初の石段を上って、その途中から山頂を見ているが、この石段が続く。この石段が、右手に続いていく。

 入口に「おくのほそ道自然歩道」の表示があったので、先日、図書館でその「おくのほそ道自然歩道」の解説書を確認したら、次のような説明があった。

 杉田薬師
 眺望がよい。昔、温石を掘りだしよく売り出されたという。近くに長者宮、郡山台の古代跡があった。古くから栄えたところ。
 温石は、石を温めて真綿や布などでくるんで懐中に入れ、胸や腹などの暖を取るために用いた道具とのこと。大玉村の「温石古墳」も、この温石とかかわって命名されたものだろうか。言われてみれば、この辺りに石切り場は多いかもしれないとも思う。

 先の水場の側に建っていた説明板には、「霊泉由来」として、温石ではなく温泉が紹介されている。
「霊泉由来」 
 農夫太郎左エ門は、延宝5年(1677)正月2碑枕べに霊夢を見る。
 この事で南杉田温石沢に村人と発掘に入ったが霊体との出会いは成し得なかった。再び山深く立ち入りついに尊体のお姿を拝し得たのである。
 尊体出土せるその穴から泉が湧き出し、村人たちは、これを温め浴したるところ総ての病気が治癒し後には広く世間に知れ渡った。
 この霊泉を以って『薬師の湯』の起源と伝えられる。(中略)
杉田の名湯は、有名な眺望の薬師坂にあって人馬の往来には皆憩うた所であった。天下の霊水は以来万人の湯治場として賑わったと云われる。氏子一同によってこの源泉から引水され(約320m)此処に、その水場を施し、(後略)

a0087378_505616.jpg 
 先の石段を登ると、途中に小さなお宮があって、それを更に登りきると、山頂にお堂が建っている。その左手には鐘撞堂が建っている。
 
 個人名で書かれた先の案内板の説明の中段は、この薬師寺の創建にかかわる説明だ。

 太郎左エ門は、この山頂きにお堂を建立、薬師堂を開山創立す、時同年(延宝5年)2月である。尊体は、同年4月6日此の新堂にお祀りした。此処に至って、法名を天心と改め、堂守りに生涯を掲げられた。薬師浄土への光明が与えられてから310余年を経る。

 説明板にある「氏子」の表現とこの神仏折衷の風景に、古くから伝わる地元の信仰の心を感じる。
 恐らく、この仏教的な部分は、明治期に分が悪くなったものだろうと勝手に想像する。
 なお、長者宮、郡山台の古代跡については、先に「郡山台郡衙跡に立ち寄る」として整理しているが、位置的には北杉田宿から東に少し入ったところだ。子規とのかかわりでいうと、遠藤翁宅を過ぎた後の話になるが、その当時はここは発見されていなかった。

追記
 郡山台郡衙跡については、先の整理後も次のように整理をも試みているが、まだうまく整理できてはいない。
 〇 郡山台を訪ねて②
 〇 郡山台を訪ねて③<白河の郡衙跡とかかわるニュースから>
 〇 安達郡衙分置の意義
 〇 安達郡衙分置基礎データを確かめる
 〇 安達郡衙分置基礎データを確かめる②
by shingen1948 | 2010-12-24 05:11 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 遠藤菓翁を訪れる効果は二つあると思う。
 その一つは、芭蕉翁が、「奥の細道」の構成上省略した風景の表現の一つということだ。
 子規は、ここからただひたすらに芭蕉翁を追おうとしている。本宮宿では、水害の傷跡を描き、杉田宿ではこの遠藤翁を訪ねた事を描いたということだ。

 もう一つが、芭蕉翁の交流性の確認だ。
 前のフレームでは、幹雄氏の紹介状で訪ねた宗匠との交流にしくじっている。杉田宿の遠藤翁も紹介された宗匠の一人のようだ。
 「はて知らずの記」では、遠藤翁は、前に訪ねた宗匠達とは違って、真心をもって歓待してもらって、気分よく一泊したとする。

 子規は、氏を次のように紹介する。
 氏は、小さいころから多少の風流を解していたが、心を勧業に傾けて、専ら実利に務めていた。この地方では、多くの人々が氏の恩恵を受けている。
 60歳の時に全く公務を辞して、家政に励む一方で、再び風流に遊ぼうとしていた。
 これが、「正岡子規の福島俳句紀行」で、遠藤菓翁は味噌醤油の醸造業を営む財産家で、村長も務めた人物と紹介されることと重なるところだ。

 歓待については、氏の物言いの柔らかさも紹介する。
 辺鄙の田舎で何のもてなしもできないが、一椀の飯、半椀の汁で暫く飢えをことができる御馳走しかできないが、蝿蚤の間に一夜を明かすのも、一興だろうとの勧めだ。
 剛毅で、粗糲に失せず、とつとつとしているが、識見があるということで、気にいって話しこんでいると、突然のにわか雨ということもあって、勧められるままに一泊する。

 夕立に宿をねだるや蔵の家 
 蚊俯を共にして旅の労れをなぐさむ
 次の朝(23日)朝起きると、昨夜時鳥しきりに鳴いたのでと言って一句示さる。

 奥の細道の跡を遊観せらるゝ子規君を宿して
 草深き庵やよすがらほとゝぎす 菓 翁
 子規は、
 水無月をもてなされけり時鳥
 といって、その家を辞す。

 地元の俳句や子規に詳しい方は、前のフレームと対比して、真心をもって歓待され一泊したことに胸を撫でおろすのだろうか。確かに遠藤翁の人柄がにじみでるような紹介だ。
 しかし、ここでは、子規本来の書生気質の自負を隠し、宗匠然とする態度を軽蔑する意識を押さえ、幹雄の俳業の翳を認める姿勢を示したはずだという前提があっての話だ。
 そうすることでしか、芭蕉翁の交流性は体験できなかったという側面もあるように思う。芭蕉翁の交流性の否定が、このあたりで固まったのではないかと勝手に思う。

 この後、「幾曲りか曲って、長い二本松の町を過ぎて野を行く事半里で、阿武隈川を渡れば路の側老杉あり」ということで、黒塚につながる。「はて知らずの記」でも、ここからは、その間の風景が略される。
by shingen1948 | 2010-12-23 05:14 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)