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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:奥州侵略の道 ( 37 ) タグの人気記事

飯坂への道~旧道諸説②

 佐藤静雄氏の「飯坂道の今昔」による飯坂古道の道筋と、江代正一氏「古代道」がいう東山道(後期駅路)とが、少なくとも森合の一杯森から重なるとした。
 しかし、確認してみると、一杯森付近は大きくずれている。
 大きな違いとして、江代正一氏「古代道」がいう東山道(後期駅路)は、一杯森の西側を通るように描かれるが、飯坂古道馬道は、一杯森の東側に描かれることだが、これは先に分かっていたこと。もう一つ違がっていたことがあったのだ。
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 実際に歩いて確認している時点では、江代正一氏「古代道」がいう東山道(後期駅路)は最終的に佐藤静雄氏の「飯坂道の今昔」がいう飯坂古道の馬道と重なるというイメージで確認していた。ところが、それを整理するのに地図に落としてみたところ、重なるのは徒歩道の方のようなのだ。
 「ふたつやま公園」に掲げられる「森合史跡地図」の図をお借りして、東山道(後期駅路)を想像するらしい道筋として、黄色線を加えると、こんな感じだ。

 徒歩道が字曲松と字道下の字境に沿って右折して北進し、下谷地字境で西進すると、泉・前原線(市道)に合流するのだが、この道筋が、松川までほぼ直線に近い道筋で北進する。これが、東山道(後期駅路)とされる道筋を引いた線を延長させた線と重なるようなのだ。
 松川からは、飯坂古道は馬道と徒歩道は合流して北進する。その道筋は、やや西に傾くもののほぼ北に向かって直進する。
 二つの道筋の重なりは、「佐藤静雄氏の「飯坂道の今昔」がいう飯坂古道徒歩道が泉・前原線(市道)に合流した地点から平野字矢車の地点まで」とし、そして、飯坂古道はそのまま北進するとすれば、より正確な言い方になるのかな。
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 江代正一氏「古代道」がいう東山道(後期駅路)のこの一杯森までの道筋の想像だが、先にも記したように、江代正一氏の「古代道」が描く東山道(後期駅路)の道筋は、字名の資料等に描かれる。それで、現地を歩いてみた勘で修正を繰り返し、小字名を確認して地図に落としてみたものだ。
 その想像のポイントは、方向的には字児子塚のやや西側を結ぶ直線を意識しているということ。解説では、ここから坿屋敷(直線道路)―丑子内―街道下―一杯森という表現をしている。実際に歩く時には、一杯森の高まりが目印だ。
 なお、江代正一氏の「古代道」では、この字児子塚から郷野目村字向原まで、東山道(前期駅路)が北東に直進し、腰浜方面に向かうように描かれる。解説では、ここから坿屋敷(大森川、旧荒川の河岸段丘)斜向道路―下宿―渡利―腰の浜という表現をしている。
 旧道諸説を歩いた時点では、この字児子塚と、実際の児子塚を勘違いしていた事も、今回気づいた事の一つ。
by shingen1948 | 2012-09-27 05:20 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(0)
 奥州合戦石那坂防御ラインにかかわる諸説を確認してきたが、戻ってきて気になっているのが、金谷川の「柏山」の位置。
 奥大道とされる道筋は小林氏と同じでも、奥州合戦石那坂防御ラインは、石那坂の地名にこだわった別説もある。こちらを確認しながら気になりだした。
 先に整理した福大の案内板で、「柏山」は羽山の南の福大附属図書館あたりの高まりを解説されていた。この説明では、張付け地蔵への道筋を古道とし、その村境にこの地蔵が立っていて、その西側の高まりが「柏山」というようなイメージだった。
 ちらりと見た別説は、図では羽山の北の高まりから防御ラインと解説しながら、本文では「柏山」からと解説されていて、イメージが混乱してしまった。
 奥大道説を違えているのか、「柏山」の位置を読み違えているのかは、今のところ分からない。
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 奥大道諸説を意識して歩いていて、新幹線の道筋が目印になりそうだということに気づいた。それで、高まりに出ると、新幹線の道筋を眺めることが多くなったのだが、伊達付近の散歩で気づいたのが、そちらの方向に信夫山があって、その先が見えないということ。
 それで、信夫山付近を散策した時に、新幹線のトンネルの上から石那坂方面を眺めてみたもの。
 春霞のせいで、はっきり見えなかったのが残念だったが、それでも信夫の里の玄関口を確かめたという気分にはなれる。
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 あれっと思ったのが、新幹線の道筋は緩やかなカーブを描いていること。
 どうでもいいか。

 信夫山に関わったついでに、西行と信夫の里にかかわる別情報を見つけたことを加えておく。
 「陸奥の 信夫の里に 道はあれど 恋てふ山の 高根しるしも」というのも、西行の作で、最初の信夫の里に「やすらひ」たこととかかわる歌ではないかというものだ。 
 山は、当然信夫山で、この山も歌枕の山ということになるのかなとは思うのだが、正直にいえば、陳腐な言葉遊びにしか見えていない。文学に疎いせいで、そのよさがよくわからないということなのだとは思う。
by shingen1948 | 2012-05-02 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 最近になって、若い役者さんの顔の区別がつかなくなっている事には気づいていた。それでも不自由な事が無かったので、特に気にもならなかった。
 ところが、大河ドラマ「平清盛」に登場する人物の関係が複雑だ。役者さんによる識別も、楽しく視聴する方策の一つかもしれないと思いはじめた。現在、家人に聞きながら勉強中。
 義経の母となる常盤役の武井咲さんが「家族に乾杯」に出演していた。何とか顔を覚えたような気になったのだが、まだコマーシャルの顔とは一致していない。

 ウェーブを検索していたら、奥州の旅は、西行だから出来た事とする想像に出会う。近隣の奥大道とされる旧道諸説を歩いてみただけだが、納得する経験になっていることに気づく。
 道筋は、ある程度の旅に沿った条件は整えられていたとは思うが、それでも厳しい条件であったはずだということ。体力と共に、賊に合うということも想定した武力のようなものや、宿泊地の確保に必要な情報収集力も必要だったのではという。
 しかし、これらの力を持ち合わせる要件が揃っていたから、「西行の旅」は成立したのだという。

 体力・武力は、北面の武士であったということで、直ぐにわかる。納得は、情報収集力にかかわる条件の方だ。
 その一つが、藤原秀郷を祖とするということのようだ。
 東国に勢力基盤を持つ藤原氏と佐藤家とが縁続きであることで、行く先々での口利きや案内が期待でき、ゆかりの地の便宜も図ってもらったのではないかとの想像ができるということ。

 もう一つ、北面の武士だったことが、情報収集力の側面からも活きていたのではないかという。
 それは、中央の情報に長けているという事だ。中央の院の状況に関する情報は、地方の豪族等が欲しがる情報であって、その情報を手土産にして、もてなされたことも想像に難くないとか。

 更に加えて、僧侶という側面が。
 最悪の場合でも、寺に駆け込めば、泊まりと食事は保障されるというようなことではなかったかという。

 辻邦生氏「西行花伝」の部分読みからもイメージのヒントを貰おうとしたら、こちらは失敗。無駄骨だった。
 こちらは、出発が春、白河の関が秋ということで、最初の旅のようなのだが、白河から名取まで合戦を想定した地形を想像するということで、奥州合戦4年前の2度目の旅になっているように見える。しかも、地形を想像するといいながら、白河から名取までとんでしまっている。
 国見を越える阿津賀志山防塁にもふれないのだから、石那坂や信夫の里など眼中にないのは当たり前。
by shingen1948 | 2012-05-01 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 大河ドラマ「平清盛」は、忠盛の死を経て、清盛が「平氏の棟梁」の座につくが、忠盛が残した功績に対し、清盛も時子もその器に不安を感じ始めるという不安な船出というなる展開。
 信夫の里を散歩する者としては、ドラマの展開の中心ではないが、源義朝が側室となった義経の母となる常盤を紹介するあたりに意識のスポットを当ててしまう。
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 散歩の方は、小林氏の奥州合戦石那坂防御ラインから、奥大道とされる道筋を想像しながら駐輪場にママチャリを置いた金谷川駅まで戻る。
 この道筋は、奥州合戦の石那坂の戦いにかかわる資料をもとに歩いてみているが、大河ドラマ「平清盛」視聴とからめてみれば、西行の歩いた道筋にかかわるということでもある。

 西行は奥大道とされる道筋を通る。それを追う江戸時代の芭蕉一行は、この東側の奥州街道の道筋を通る。そのまた芭蕉を追う明治時代の正岡子規は、二本松から汽車に乗り、東北本線の道筋を通って、信夫の里に入ったということだ。
 「奥の細道を歩く」の著者が、奥州街道の道筋から外れて、奥州合戦の石那坂の戦いの地を探そうとしたのは、そういうことをイメージしたということなのだろうと想像する。

 今回の散歩と資料の関係を整理しておく。
 小林氏が紀行された地元誌に寄稿された説をもとに、奥大道と奥州合戦石那坂防御ラインを歩いてみたが、奥州合戦石那坂防御ラインの主流ではない。ただ、「平泉藤原氏と南奥武士団の成立(入間田宣夫)」<歴史春秋社>は、こちらの小林氏の説に合理性があるとみているようだということはある。
 大河ドラマ「平清盛」視聴とかかわって、西行陸奥の旅の途中で信夫の里に「やすらひて」いることについて「南奥(ふくしま)の古代通史(鈴木啓著)」を参考にした。「山家集」をもとにした大鳥城逗留の想像を膨らませている。(大河ドラマ「平清盛」視聴⑨~西行に視点をあてて地域の散策とつなぐ⑤)
 その西暦1140年代の信夫の里の佐藤氏の系図について鈴木氏が参考にするのが「平泉藤原氏と南奥武士団の成立(入間田宣夫)」<歴史春秋社>。
 それで、「しのぶと申すわたり、あらぬ世のことにおぼえてあはれなり。」の「あらぬ世のこと」を、「平泉藤原氏と南奥武士団の成立」でいう佐藤氏の出現にかかわる平泉藤原氏を巻き込む「大庄司李春」と国司とのトラブルをイメージしたように見える。(大河ドラマ「平清盛」視聴⑧~西行に視点をあてて地域の散策とつなぐ④)
 鈴木氏が、この奥州合戦石那坂防御ラインをどう見ているかは分からない。
by shingen1948 | 2012-04-30 05:52 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(2)
 奥州合戦石那坂防御ラインについて諸説があっても、小林氏の説に説得力を感じるのは、散歩を通しての実感だ。
 徒歩や自転車で、南から進んで金谷川付近まで来ると、この段丘崖を越えて信夫の里に入るには、どれが自然な道筋なのかと思う。その実感を大切にして、現在の道筋をみてみると、その道筋を見つける苦労のようなものを読み取ることができる。
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 例えばJR東北本線だが、上り線の方が旧東北線だが、これが大きく東に振れるのは奥州街道松川宿とのかかわりのようだが、金屋川駅と松川駅の間の複線化でできたその下り線は、段丘崖を挟んだ西側を通るという複雑さだ。先の松川事件の散歩で、この地形的な制約と松川事件が起きる要因との関連を実感したところだ。
 金谷川駅を越した東北本線は、その段丘崖の西端を抜けて行く。旧東北本線が、旧奥州街道や国道4号線バイパスの走る高まりの方に回り込むのは、穏やかな勾配を確保するためなのだろうと思われる。
 複線化された新東北本線は、直線で北に向かうが、この穏やかな勾配は、高架という新しい技術で確保された道筋なのだろうと思う。

 他の道筋だが、旧米沢街道は、そのJR東北本線を跨いでから、その本線に沿うように信夫の里に入り、大森城に向かう。
 東北自動車道は、それよりも更にその西側のラインを描くのだが、これはそれらの道筋と重ならない事も考慮の一つにあるように思える。
 奥州合戦石那坂防御ラインの視点で見れば、このラインが西端とみることができるように思う。

 トンネルを越した東北新幹線の道筋と奥大道とされるラインが近いのは、共通の意図によるものではないかと、勝手に思う。
 それは、わき目も振らずに一気に北に進みたいということなのではないかということだ。時代は違うのだか、共通の思いのようなものを勝手に想像して楽しむのも、自由な散歩人の特権なのかもしれないとも思う。
 
 もう一つ、歩きにこだわる散歩では、旧国道四号線及び奥州街道筋よりも、米沢街道筋や奥大道とされる道筋に沿った信夫の里の盆地入りが自然に感じる。このことと大森付近が先に開けていたという歴史的な流れの納得とつながっているのではとも勝手に思う。

 そんな実感と重ねながら、石那坂の戦いの防御ラインをたどった。
 小林氏の奥州合戦石那坂防御ラインだか、「吾妻鏡」に記されるという大手筋の坂の下に堀を設け、「逢隈河の水を懸け入れて」、石弓を張るという布陣のイメージと浅川筋が重なるということだろうと思うことを付け加えておく。
by shingen1948 | 2012-04-29 09:39 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 源頼朝の奥州遠征の道筋とその石那坂の戦いの防御ラインの交点が、金谷川の関谷付近とする小林氏の説には、説得力がある。
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 その防御ラインを、西側から確認している。先に整理したのが、高速道路がトンネルで貫通する愛宕山からその脇の揚水施設事業施設があるあたりまでだったが、今回はその続き。

 愛宕山の右手の窪地に旧米沢街道の道筋が走る。窪地の右側に走る道筋が、その道筋だ。
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 その米沢街道を南に進んだあたりから防御ラインを眺めて、街道右側の高まりをとらえるとこんな感じだ。
 この高まりは左右に広がっていて、その中央付近の微高になっている辺りに民家が建つ。それが、右手に写る民家だ。


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 その左手の高まりにお堂が建っていて、気になって確かめたら、薬師堂のようだった。

 小林氏は、その薬師堂のある高まりから東に広がる高まりの地形と、福大のある高まりとの間の窪地に奥大道が走るとみるようだ。
 その奥大道から眺めた風景を地図で確かめると、薬師堂のある高まり沿いに津島神社、並木大山祇神社が並んで見えるようになるようだ。
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 今は、この窪地の福大のある高まり側には、東北本線、193号線が走る。
 その道筋と奥大道が走る間に微高地があって、ここに、八幡神社が建つ。

 今回は、小林氏が描く奥州合戦石那坂防御ラインを見てみた。
 この奥州合戦石那坂防御ラインは、諸説あるようだ。その主流は、奥大道の道筋のある高まりの西側の高まりを中心にして、奥大道が平地に下ったあたりの平場の北側にかけてその延長線を延ばしてイメージするようだ。
 ただ、「平泉藤原氏と南奥武士団の成立(入間田宣夫)」<歴史春秋社>は、この小林氏の説に合理性があるとみているようだ。また、この付近の奥大道筋については、確認した範囲の中ではあるが、奥州合戦石那坂防御ラインにかかわらず、ほぼ同じような道筋を想像しているように感じている。
 
by shingen1948 | 2012-04-28 05:16 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(3)
 「毎日新聞」日曜版に、「日和下駄とスニーカー(大竹昭子)」という東京散歩コラムがある。街自体に興味がないので、流し読みするのだが、4/22日は「糊しろの町」という言葉にひかれて立ち止まった。
 その概念は、特徴のある街並みと別の街並みの間には、どちらにも属さない中立の町ともよべるエリアがあるとし、それを「糊しろの町」と名付けたらしい。
 その概念をお借りして微妙に調整すれば、この庄司方防衛線を探る散歩で感じている事が、「糊しろの地域」ということでぴったりする。

 「日和下駄とスニーカー(大竹昭子)」では、その「糊しろの町」にみられる特徴は、特徴が無いことだとし、このランドマークとなるものがなくなると、どこにいるのか分からなくなるとする。
 それは、「わたしたちの抱く街のイメージは、限られたエリア内の作られたイメージに依っており、その目印がなくなるととりつく島を失って位置関係が崩れてしまう。それは物理的な位置というより意識の方向性のようなものだ。」という。
 この「街のイメージ」という言葉を風景と置き換えると、最近の散歩は、その作られたイメージに隠れたイメージを見つけて楽しんでいるような気がしている。

 その信夫の里に入る「糊しろの地域」に、小林氏が描く庄司方防衛線をイメージして風景を眺めるのだが、意識していなかったが、西側から確かめようとするのは、ここにランドマークをたててみるということなのかもしれない。
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 まずは、現在は高速道路のトンネルで穴が開けられた愛宕山あたりの風景。
 前回整理の防衛線東側に写る八幡神社に、「基盤整備記念碑」が建つ。この碑は、昭和49年5月に建てられたようだ。
 今まではこの碑文には注目しなかったが、今回目がいったのは、この高速道路のトンネル工事とのかかわりが記されていたからだ。
 基盤整備記念 福島県知事 木村守江 題字
 東北自動車道の当地区確定路線発表は昭和43年8月29日である。
 地域住民は事の重大なるに鑑み直ちに是が対策を協議した。再三に渉る協議の結果愛宕山トンネル貫通による用水不足と道路農地を分断する障害及び家屋移転等の問題であった。地域を挙げての対策協議会は是等の問題解決の為終始交渉に当たった当局は是等条件について慎重調査の上採択と決し左記事業を施工する事が出来たのである。
 滋に日本道路公団及び県市当局の誠意に感謝し地域関係者と土地改良区の建設に対する努力を誌し永く伝えるものである。
 以下、事業内訳として、この谷地の整備事業、関谷沼、昭和沼改修事業、用水路改修事業、木金水揚水施設事業等が記される。
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 「基盤整備記念碑」からは、このトンネルが貫通する山が愛宕山であり、この谷地の現在の風景に改変されたのは、昭和43年~昭和49年にかけてだったことが分かる。高速道路開通と基盤整備が同時期だったという事が、計画の重なりなのか一環の計画なのかは分からない。

 次のこの風景に写るトンネル脇の施設は、「木金水揚水施設事業」とみてよいのだろうか。この山の右手、次の高まりとの間に、旧米沢街道の道筋が走る。
by shingen1948 | 2012-04-25 05:31 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 「平家物語」は、鎌倉時代にできた物語で、背景に政権を握った源氏があり、清盛像はアンチヒーローとして描かれているといわれているようだ。しかし、近年まで長きに渡って親しまれてきた物語でもある。
 一昔前は誰もが親しんだというのは見聞きしているのに、自分にとっては古文学習の物語でしかなかった。
 大河ドラマ「平清盛」と重なる「平家物語」を読んでみることで、この親しむという感覚を得ようと思っているのだが、その準備がようやく整った。
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 「旧道諸説を歩いてみる」ほうだが、小林氏の描く庄司方防衛線を確認した。
 先の散歩で、「『石那坂の戦い』にかかわる東山道のイメージ」を整理しているが、今回現地を散歩してみると、東山道のイメージが微妙に違うので、図を修正する。

 この辺りを散歩していると、この金谷川から信夫の里に入るあたりに防衛線があるというのは自然に思える。ただ、そのラインは193号線ライン沿いをイメージしていたところがある。そういう意味では、新たな風景の見え方の期待もあった。

 東山道のイメージで金谷川駅の南の道筋をたどって、目指してきたのは194号線沿いの風景だ。
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 これが、少し下って振り返ってみたその194号線沿いの西側の風景だ。
 奥の高まりは、高速道路だ。


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 そして、こちらがその東側の風景だ。八幡社が見える。

 ここを庄司方防衛線とするのは、浅川水路沿いを「吾妻鏡」に記されるという大手筋の坂の下に堀を設けて「逢隈河の水を懸け入れて」、石弓を張るという布陣のイメージだった。
 しかし、浅川の川沿いのこだわりというよりは、ここから南側が大きな窪地になっているという地形的なことが、ここを防衛線イメージの要素かなというのが、来てみての実感だ。
by shingen1948 | 2012-04-24 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 大河ドラマを楽しむ事に、こちらから近づこうと思っていたら、今回は、ドラマの方からも近づいてくれた感じがする。
 ドラマ展開は、手持ち資料で、清盛「安芸守となり、瀬戸内海の制海権を手に入れる」1151年34歳、忠盛の死後に平氏一門の棟梁となる1153年36歳あたりで、伏線としては、1156年39歳の歩元の乱に向けた場面設定あたり。

 「旧道諸説を歩いてみる」ほうだが、まずは、小林氏の描く旧道道筋の確認から。
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 今回、「張付地蔵」が気になって確認した道筋が、古道2とした道筋だ。小林氏の描く旧道道筋は、古道1とした道筋だ。今回確認した「張付地蔵」から旧福大北門を経由して先の散策道につないだ道筋とは、先の散策で戻り道とした道筋辺りとつながる。
 どちらの道筋も、高並の道筋、要は金谷川駅の南の道筋となって、小林氏が描く庄司方防衛線の地へとつながっていく。
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 その道筋から福大北門からの道筋と東北線の踏切あたりで交点し、やや北に回り込んでいくというようなイメージのようだ。
 最近見かける資料では、庄司方防衛線想像はいろいろだが、小林氏の描く旧道道筋とそのバリエーションあたりを奥大道とするのが多いように思う。
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 古道1・2の道筋に関わる駅の南側の道筋は、駅の整備に伴って消滅している。
 散歩人としては残念な事だが、地区の方にとっては幸いな事なのかもしれない。そこにあったという石塔群は、一か所に集められているが、どのあたりという説明はなく、旧道の想像には役立ちそうもない。

 目指すは、小林氏の描く庄司方防衛線だが、大河ドラマとのかかわりでいうと、平氏が滅んだ4年後、源頼朝が奥州藤原氏と合戦をするのだが、その最初の合戦にあたる佐藤氏防衛線推定の確認だ。

 
by shingen1948 | 2012-04-23 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 NHK大河ドラマ第15回「嵐の中の一門」の物語の奔流は、久安5年(1149年)5月、高野山の大塔の再建という出来事だが、それを『平家物語』で確かめてみる。
 「坂の上のサイドボード」に紹介される部分の概要をもとに、家にあった「日本古典文学大系32『平家物語(金田一春彦・渥美かをる・小澤正夫・高木市之助校注)』<岩波書店>」を眺めると、巻第3の「大塔建立」とあるあたりのようだ。
 高野山の大塔修理を終えた清盛が弘法大師(空海)の廟である奥院に参ったとき、眉毛の太い二股の杖をついた僧侶が現れて、「厳島を修理すれば肩を並べる者がないほどに出世するだろう」と予言した。弘法大師の化身だと思った清盛は忠告どおりに厳島の造営に着手。やがて工事が終わって清盛が厳島に参詣すると、うたたねの夢のなかに神の使者が現れて銀柄の小長刀を清盛に与え、「この剣をもって一天四海を鎮め、朝廷の守りとなれ」と告げた。その後、厳島大明神のお告げがあり、「高野の聖がいったことを忘れるな。ただし悪行があれば、子孫まではかなうまいぞ」と述べたという。(「坂の上のサイドボード」より)

 「旧道諸説を歩いてみる」ほうだが、まずは「はっつけ地蔵」―坂上―坂下―高並の道筋の風景は、以下の案内板にある他の消滅字をもとにイメージする。
 〇 入真田(いりさなだ):真田は、新田と区別された土地で、真田の奥の意
 〇 真北(まぎた):関谷村と浅川村との境の堀が、真北に伸びていた事に由来。底の深い泥田だった。
 〇 入真北(いりまぎた):真北の奥の意
 〇 柏山(かしわやま):柏の木が多い山
 〇 八神沢(はちがみさわ):由来不明。土質の肥えた畑地だったとか。
 その前段に、「元々、ここ金谷川は、1889年に、金沢村、関谷村、浅川村が合併して「金谷川村」なっていたが、1955年にこの「金谷川村」が、「松川町」に合併された」との経緯解説がある。
 これをヒントに道筋をイメージすれば、池の次の風景が、「入」とつく、奥地をイメージする風景であり、その坂道を登ると「はりつけ地蔵」だが、これが当時の村境で、ここで一息つくのだろうが、その道筋の左手に柏の木の生い茂った柏山が見えるという感じだろうか。

 この道筋と、先に散策した道筋のつながりを確かめてみている。
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 手にした地図は、現在も北門があって、そこから先に散策した道筋につながるように表記されているが、実際の風景は改変されている。現在は、その門はない。削り取られて、大学の駐車場に開発されているようだ。その奥を確認すると、そこから先に行かないように鎖で道筋が仕切られている所がある。

 先の散策で見覚えのある風景が、この道筋の先に写っている。

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 そこを拡大する。諦めて、戻って右手の道をくだったのだが、その地点だ。
 先の散策で道が切れて諦めた地点は、直ぐ目の前だった。ちょっとだけ、藪を漕げば直ぐにこの地点にたどり着いた事が分かる。こちら側からはその様子がはっきり分かる。


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 図書館脇の「はっつけ地蔵」まで戻りながら、旧道諸説の一つの道筋をイメージする。


 図書館からは、自転車を置いた北門に下る。
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 どうでもいいことだが、コンクリートの隙間のタンポポが、……。
 蕾のがくは開いているのだか、咲いている花のがくは閉じているように思えるのだが、日本タンポポにそんな生命力はないのではとも思うので、そんなはずはないと思いつつ、とりあえずパチリ。
by shingen1948 | 2012-04-22 05:23 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)