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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:大笹生 ( 65 ) タグの人気記事

 御神木が伐採されたばかりの時期の紫神社跡の写真をみると、2本の御神木の切株は北南の方向に並んでいる事が分かる。
a0087378_5333215.jpg 「笹谷大笹生地区の文化財」には、御神木伐採前の写真が載っている。この写真は、2本の御神木の間から祠が見えている。
 この二つの写真を見比べると、紫神社の祠は、後ろ側の御神木と並んでその東側に建ち、南を向いていたように思う。

 ただ、この境内は東側に広がっていたようであり、「信達一統誌」の表現も東側に広がる田園風景であるように感じる。
 「笹谷大笹生地区の文化財」では、以下の「信達一統誌」の表現を紹介されている。
 「八月朔日(祭礼なり 其日)太陽山の端を出給ふとき神前より東の方数百畝(の間)稲穂の上淡紫となる 春の日水田の干たる所を見ればその色淡紫なり これまたこの地の一奇なり 土人説ニ云ク佐藤庄司の産神にてむかしは大社」
 「信達一統誌」では、ここが「土人説ニ云ク佐藤庄司の産神にてむかしは大社」とし、「笹谷大笹生地区の文化財」でも「この地最古の神社で、蝦夷の守護神の尊崇が厚かったと伝えられている。後世には根津賢物の守護ともいわれる」として、古くからこの地に鎮座した神社であるとする。

 ちょっと気になったのが、この北東側の字が「月崎」であることとの関連。
 というのは、飯坂の月崎の段丘地は比較的早くから集落が形成されたとされていることで有名らしいからだ。ここでは、飯坂南部土地区画整理事業に伴って、高舘遺跡・月崎A.B遺跡として調査されたようだ。
 今回「台山山麓散歩」で新たに意識しているのは台山に「東屋」のイメージを重ねているのだが、中野の「東屋国神社」の由緒が、この飯坂の月崎とオーバーラップしているようなのだ。

 「東屋国神社」は、一時信仰が薄れて存在すら分からなくなっていたのだとか。それが文化年間(1804~1818)に佐藤某氏によって月崎の築崎神社がそれだと比定されたということらしい。
 その築崎神社が何故東屋国神社なのかはよく分からないが、飯坂の月崎の地は当地方では比較的早くから集落が形成されたことに加え、先に整理した湯野西原廃寺、菩提寺に近いこと等々の関連から、この築崎神社が格式の高い神社と推定され、その推定が 「東屋国神社」であるという推定根拠らしいのだ。

 この紫神社は古くからの大社だったと強調されるのだが、このことと大笹生の月崎前に鎮座することを絡めて、「東屋国神社」に匹敵するような神社だったという地域の誇りのようなものを感じるのは、考えすぎかな。
by shingen1948 | 2014-12-21 05:41 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 見送る者の喪失感の対象となる方の生きていた証のようなものを共有したいと思うその生きていた証が何かという問いは、自分にもはねかえってくる。
 まず思いつくのは職歴だろうか。
 これを確認して行くと、確かに証の一つではあるようには思える。しかし、どこかが違うなと感じ出す。
 それよりは、見送る者やかかわり深い者との関係性の方がもっと大切なものなのではないのかなと気付かされた。しかも、生きていた証とかかわるのは、弱みを包み隠さず見せられて、目をそらさず真剣に向き合って流れた共有時間のようなもののような気がしてきている。

 さて、紫神社の旧地を訪ねて来たところだが、もう少し範囲が絞れそうなのだ。
 というのは、「福島の歴史あっちこっち」の「星宮神社と紫神社」というページに、高速道路の工事によって御神木が伐採されたばかりの時期の紫神社跡の写真をみつけた。
http://www7.plala.or.jp/oygd/hosimiya/hosimiya.html
 その紫神社の紹介の真ん中の写真だが、手前の足元に写る道路が、今回案内された道筋のようだ。そして、この写真のバックには高速道路のトンネルとフルーツラインを跨ぐ陸橋部分が写っている。更に、その左手に目を移せば、民家が写っている。この関係を考慮して見える風景に散歩情報とを重ね合わせれば、おおよそこんな感じになるのだろうと思う。
a0087378_1642278.jpg 手前に写るコンクリート塊は、今回案内された農道を高速道路が跨ぐ陸橋だ。
 「福島の歴史あっちこっち」の撮影位置は、もう少し右手からになるのだろうか。その位置に合わせるとこの陸橋の影に紫神社跡地が入ってしまうので、それよりやや右手からの見え方にしている。
 この写真の側道付近との情報と重ねれば、紫神社の旧地の位置は、かなり絞り込まれる。
by shingen1948 | 2014-12-15 16:48 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 見送る者の喪失感ともかかわる事だが、喪失対象との距離感が保てない状態から、その距離感が生まれるのにはある程度の時間が必要になる。僅かにその距離感が感じられるようになると、その人が生きていた証のようなものを共有したいと思うようになる。
 「忌中」とか「喪中」とかというのは、別の意味で設けられている期間だと思うが、その時間的な長さが、心の整理に必要な時間と重なっているようにも思える。

 さて、先に大福寺脇の紫神社について「大笹生城跡④」でふれたことがあった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/8221957/
 この時には「信夫の庄司佐藤元治(基治)の土産神にて昔は大社なる由、北極紫徴垣帝座を祀ると伝えられる」との説明にかかわって確認した。
 「信夫の庄司佐藤元治(基治)の土産神にて昔は大社なる由」の部分は、「信達一統志」に記載されていることらしいことと共に、「北極紫徴垣帝座」について確認した。
 再掲すると、「北極星が宇宙の大元とみてそれを神格化する。そして、北極星と周辺の星座で中宮を形成する。北極星が太一、その近くに太子・后の星があり、紫徴垣というのはこの天帝の一団の星をいう」とのこと。

 この紫神社の所在地だが、「笹谷大笹生地区の文化財」では大笹生字宮地内とする。そこから現在地に移動してきたということなのだが、この時にはそのことを知らなかった。
 この紫神社は、北という方向にこだわっているとの事なのだから、散策を楽しむ者としては本来の地を特定することが必要なはず。ということで、紫神社の旧地を訪ねることにしたのだ。

 まずは、大笹生字宮地内のおおよその位置を地図で確認して出懸けてみる。
 その現況は、高速道路建設真只中だ。進入禁止ではあるが、徒歩の者を規制する気配はなさそうなので、元々の地形を確認させていただく。
 それから、その字地付近進入可能な部分を歩いては、少しずつ北側に回り込んでいって、町大笹生の「西海道」抜けられる道筋を探って、工事現場の西側に回り込む。こちら側からも字宮地内の風景のイメージを把握する。
a0087378_1643199.jpg ここからは情報の収集だが、これは、得られた情報をもとに、散歩で実感した地形を考慮して、おおよその紫神社旧地の位置らしきところをプロットした地図だ。

 まず、「西海道」を散歩中の方に声をかけてみた。
 紫神社を尋ねれば、はじめに案内されるのは大福寺脇の現在地だ。それで、更にその旧地を知りたいのだと続けた。すると、簡単に「西海道」から東方面に抜ける道筋が案内されたのだ。
 この道筋は今回整理の上戸内薬師への道筋と同じ道筋で、この道筋の防火用水の所から北側に入ったところが上戸内薬師堂という位置関係だ。
 紫神社旧地へは、道筋をそのまま真っ直ぐ進んでいくというのだ。フルーツラインを越える農道がつながっているので、その道筋を高速道路工事現場まで進むと、その直ぐ手前が紫神社旧地なのだとか。
 いわれるままに進んでいくと、防火用水の所で柿をもいでいた方に出会う。
 次の情報が、この方に同じように尋ねた回答だ。
a0087378_16491695.jpg
 同じように高速道路工事現場手前である事が案内されるのだが、更に詳しく尋ねると、高速道路の西側側道になっている辺りだと、具体的な情報が得られる。
 その道筋を進んで高速道路工事現場に突き当たった現場がここだ。この写真の高速道路左手側道辺りが旧地とのことだ。
by shingen1948 | 2014-12-14 16:50 | ◎ 信仰と文化 | Comments(2)
 定形通りの送り人になれなら何も考えず慣例に従う事ができる。ただ、少しでも通例と違う事情があれば、遺族の葬儀における役割の本質から考えていくしかなくなる。
 送り人の役割の一つは遺体の処理であり、もう一つが送られる人の魂の処理だろうか。更には、残された見送る者の喪失感と向き合うことや、現実的な事務処理が重くのしかかってくる。
 本当は、残されて見送る者の喪失感を大切にしたいものだが、現実にはその他の事務処理に追われているうちに日々過ぎていくというのが実感だろうか。

 さて、「笹谷大笹生地区の文化財」に、上戸内薬師堂には高さ約30㎝の上戸内薬師瑠璃光如来像と12体(現在は13体)の脇侍が安置されていると紹介される。
a0087378_11121576.jpg
 中の掲げられた幡によれば、この本尊が「旧上下大笹生12薬師」の10番目の薬師様であるらしい。その旧上下大笹生の範囲は、現信陵地区だろう。そこに12の薬師如来様がいらっしゃるという事だろう。a0087378_1114334.jpg この地区の薬師如来信仰ついてはまだ確認していない。
 情報として今思いつくのは、先にちらりとふれたことのある旧安養寺地内の薬師堂が、信達十二薬師の第三番札所だとか。この地区の12薬師の一つでもあるだろうことは想像できそう。
 「笹谷大笹生地区の文化財」では、この旧安養寺地内の「斗蔵観音」については三十三観音巡りとのかかわりで、本尊が木像千手観世音であることや信達板東十六番札所であることが解説される。その中に、薬師如来信仰についても以下のようにふれる。
  「薬師堂の護持僧が堂宇を建立して観音をまつり、斗蔵山安養寺と称したものか、別説佐藤庄司の巡察  立寄所説か伝承でも詳らかでない。」
 この「薬師堂の護持僧が堂宇を建立して観音をまつり」が「昔から福徳施与、衆病悉除の誓願仏として信仰が深い」とがつながっていて薬師如来信仰をも解説するものなのか、「斗蔵観音」の信仰として観音菩薩信仰として解説されるものなのかははっきりしないところもある。
 なお、信達十二薬師については、その一番が信夫山の薬王寺なのだとか。こちらも他は知らない。

 薬師如来信仰にかかわる数のこだわりは12なのかな。
 「信達十二薬師」・「旧上下大笹生12薬師」・「薬師十二大願」等々。上戸内薬師の脇侍は十三体安置されるようだが、これも十二体とされるらしい。
by shingen1948 | 2014-12-12 11:24 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 自分の親の時には、現職だったこともあって、事務的な処理に追われて悲しむ自分の心に寄り沿うゆとりがなかった。今は、限りなく時間があって、アッシー君など手出しができるので、口は出さないがお手伝いをしてきたところだったが、それが終わった。
 終わってみれば、自分の親の時に感じた時と同じように残された者の空虚感が残る。しかも、今は素直に自分の心に寄り沿う時間的なゆとりも充分にあるという状況だ。
 台山山麓散歩整理も途中だったが、その自分の心に素直に従っていたところだった。それが、ようやく台山山麓散歩の整理から再開してみようという気分になれてきたところだ。

 この台山山麓散歩整理中断前は、この台山が東屋沼神社の旧地であり、気分的に西海道の明神神社は台山を背景っているという信仰の山なのではないかと思えてきたところだった。
 その視点で、この散策で出会った上戸内薬師堂を眺めるあたりから整理を再開する。

 ここもその背景に台山を背負っていることが大切な風景なのではないかとの思いだ。
a0087378_1153325.jpg この上戸内薬師内には、幡が掲げられていた。
 そこから、この薬師が「旧上下大笹生12薬師の第10番」であることが読み取れる。はっきり読みとれないが、以下のように記されるのは御詠歌だろうか。
 「なむやくしは○○○
       まいれるひとはりせうあるへ」

 「旧上下大笹生」とある地区の概念だが、おおよそ現笹谷地区あたりが「下大笹生」の範囲で、町大笹生地区を除いた現大笹生地区の範囲が「上大笹生」だ。そこに12薬師があり、その第10番目がこの上戸内薬師ということだ。
 「笹谷大笹生地区の文化財」でこの上戸内薬師を確認すれば、この薬師は「上戸内薬師瑠璃光如来といわれていて、耳疾に悩む近隣や遠来信者の日参薬師堂」なのだとか。
 中央の顔が隠れている像が、その薬師像らしい。脇侍がその脇に見えるが、それが12体か13体かは確認しなかった。
 ここの別当寺は東禅寺らしい。
 後で整理するが、この近くに鎮座した紫神社が現在地に移動されたのは、この神社も東禅寺が別当寺だったからではないかなと想像する。
by shingen1948 | 2014-12-10 11:54 | ◎ 信仰と文化 | Comments(2)
a0087378_152753100.jpg 今回、台山をバックに背負う明神神社を確認していたのだが、この神社前の石塔群の中に線刻の地蔵尊を見つけてしまった。忘れてしまいそうなので、こちらの阿保原地蔵尊を整理しておく。
 先に線刻の阿保原地蔵尊について整理したのは、松川沿いの北沢又の阿保原地蔵尊だ。以下の5回に分けて整理した。こちらは、明治4年(1871)の話。
 明神神社の阿保原地蔵尊建立は安政7年(1860)2月24日とのことなので、北沢又の阿保原地蔵尊より11年早い時期の建立だ。

 阿保原地蔵尊
 http://kazenoshin.exblog.jp/20207671/
 阿保原地蔵尊②
 http://kazenoshin.exblog.jp/20209649/
 阿保原地蔵尊③
 http://kazenoshin.exblog.jp/20213419/
 阿保原地蔵尊④
 http://kazenoshin.exblog.jp/20215272/
 阿保原地蔵尊⑤
 http://kazenoshin.exblog.jp/20218688/
 明神神社の阿保原地蔵尊は「仙台阿保原地蔵尊」とあるが、多分、こちらも同じ大鷹沢三沢の「阿保原地蔵」の系列なのではないかなと想像する。
 先に整理したその伝承を再掲しておく。
 「阿保原地蔵生成の基となった熊野山圓福寺開基海運法印が生まれたのは、慶長元年(1596年)4月8日とされている。その18年後に、圓福寺は海運法印を開基とした刈田郡三沢村陽善寺廃寺跡に真言宗熊野山圓福寺開山となる。
 その海運法人が、寛文7年(1667年)8月24日に72歳で遷化し、同年に和尚堂に「阿保原地蔵菩薩像」が建立されたとされる。」

 「仙台阿保原地蔵尊」を素直に解釈すれば、近代の阿保原地蔵が現存する仙台の松音寺の可能性になる。ただ、そちら系列なら、以下の2回に分けて整理したように長楽寺の「半底勺阿保原地蔵尊」と同じ大きな鋳造の阿保原地蔵尊になってしまうと思うのだ。ここは、線刻の阿保原地蔵尊にこだわりたい。
 阿保原地蔵尊 ⑥
 http://kazenoshin.exblog.jp/20224695/
 阿保原地蔵尊 ⑦
 http://kazenoshin.exblog.jp/20229362/
by shingen1948 | 2014-11-11 15:33 | ◎ 信仰と文化 | Comments(2)
 台山はその特徴的な形状から、位置確認のための指標とさせていただいていたが、信仰の山という意識ではなかったように思う。
a0087378_6554561.jpg
 「大笹生城跡へ向かう道」で整理した道筋は、神明神社前の道筋だ。この時に、この道筋が何となくいい雰囲気の道筋だとは感じているようだが、ここが台山を背にしていることにはふれていない。
 多分、台山を信仰の山として意識することが弱かったのだろうと思う。
 http://kazenoshin.exblog.jp/8225114/
 神明神社の後ろにその台山を意識してみれば、こんな感じかな。

 この時点で、この道筋が「西海道」であることは分かっているはずだが、「飯坂古道」のカテゴリーに分類していないのは、いい雰囲気の道筋ということを大切にしたかったのだろうと思う。
 ただ、見直していくのに不便なので、「飯坂古道」のカテゴリーに変更しておく。
 今回、ここで「阿保原地蔵尊」を見つけてしまったことについてはどうするかな。

 とりあえず、ここに「ゆの村~祖先の足跡をさがして」(秋山政一著)で解説される神明の地名について解説部分を再掲しておく。a0087378_657642.jpg 「一般に『お神明さま』は信仰者が御神体(木製の神体に天照大神とか伊弉冉尊などと墨で書き、色つきの布を下げたもの)を捧げて、家々を廻って、祝言を述べて祈りながら歩いたのですが……」
 この地区で、どのような風習と結びついているのかの確認はしていない。
by shingen1948 | 2014-11-10 06:58 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(0)
 登山口の存在を確認したのは、台山にギリギリまで近づこうとしているだけで、山頂まで登る気は元々なかった。
 小心者にとって、この辺りで怖いのは熊さんだ。
a0087378_5304324.jpg しかし、今年、この山麓を荒らしているのは猪さんなのだとか。話をして下さった方は、果樹を倒して桜の植樹をしているようなのだが、猪対策作業中だったようだ。夜になると台山から出てきて悪さをするのだとか。

 この日、もう一本南側の道筋も確かめたのだが、そこで声をかけてくださった方から伺ったのも猪さんの話。今年は猪さんの害は特にひどく、20年近くここを耕していたのだそうだが今年で止めにするとのことだった。
a0087378_5321714.jpg そういえば、今年台山南西隅付近で見かけた出入り禁止のお願い対象に、猿さん・熊さん・狸さんと共に、猪さんも入っていたな。
 いい訳が長くなったが、台山山頂付近を地図で確かめることにする。
 台山の地図見ると、人によっては俎板山と称される標高408mのピークと台山三角点451.9mのピークの間の窪地は地図上荒れ地になっている。ここを2007年の航空写真で見比べると、整備されているようで建物らしきものも見える。
 台山の後ろ側には山並みが続くようだ。
 三角点451.9mのピークのすぐ後ろが平場になっているようだ。ここは航空写真では木々に覆われているようでその様子はうかがえないが、地図上ではその直ぐ下に小さな建物の記号が記される。これが、勝手な想像を膨らませた「オンツァ小屋」かな。
by shingen1948 | 2014-11-09 05:33 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「東屋沼神社」旧地が「東屋治神社」の台山ではないかと言われてみれば合点がいくことが幾つかある。
a0087378_555225.jpg これは南側から見える台山だが、その台山の名にふさわしい形状だ。
 古来、切妻造を真屋、寄棟造を東屋と呼んだとの事。信夫の里から見える台山の形状は、その東屋の形状にも見えると思うのだ。だから、その嶽に建つ神社の名称が「東屋」であることに納得がいく。

 お話を伺った位置だが、この写真の奥に見える俎板山とも呼称されるのピークと台山の右手のピーク状に見える地点との間の谷地の山裾だ。

 勝手な想像がもう一つある。
 それは、本田氏を案内されたお話の中に登場する「オンツァ小屋」と「東屋沼神社」の案内板にあった旧地「木落山」の俗称が結びつくのではないかなという勝手な思いだ。
 その小屋の位置は、三角点の北側の硅石を採石した縦坑跡辺りにあるという。この写真の台山と俎板山の間で、説明を受けた位置からはその真上の位置ということになる。
 ここは、山頂から落とした材木を集積する小屋だったらしいとのことだった。その小屋が本田氏を案内された時にも残っていたという。
 今は営林署で修復してあるが、昔はそこに材木を落とした二本の筋の跡があったのだとか。

 この話の「材木を落とした二本の筋の跡」の話と「オンツァ小屋」の「オンツァ」の俗称がかかわるのだろう。
 「オンツァ」は、馬鹿とか阿保とかという意味に近く、それよりはやや軽い蔑称の方言ではないかなと思うのだ。
 材木を落とした二本の筋の跡の話で「ハナンボ」を垂らした子をイメージすれば、その下に建つ小屋は「オンツァ」なのではないのかなという勝手な思い。

 この風景と「東屋沼神社」の案内板にあった旧地「木落山」の俗称が結びつくのではないかと勝手に思いついたのだ。
 「材木を落とした二本の筋の跡」の上には、当然、材木になる立派な林があったはず。これが、案内板にあった「一名『御林山』」ではなかろうか。そして、小屋が建つ辺りが、木が落とされる山「木落山」だったというのはどうかなということだが、飛躍しすぎかな。
by shingen1948 | 2014-11-08 05:58 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
a0087378_10365318.jpg 台山が「東屋沼神社」の旧地らしい話を伺ったのは、ここで出会った方だ。
 この方が、「東屋沼神社」とのかかわりで「延喜式内陸奥一百座平成巡拝記」の本田謙眞氏を案内されたらしい事をおっしゃっていた。
 その話が、思わぬところで結びつく。

 先日の知事選の投票に出かけたついでに、公民館の図書館に立ち寄った。
 そこで、何気なく目を通していた「郷土のあゆみ<№71>(平成9/2/25)」で、「七つ松神社案内」の記事を見つけたのだ。
 「延喜式内陸奥一百座平成巡拝記」の本田謙眞氏を案内されたお話だ。そこに書かれていた内容も、散歩で出会った方の話とほぼ同じだった。ということは、お話を伺った方がこの記事を書かれた方だったのだろうと想像する。
 結局、石宮にはたどり着けなかったらしいが、この記事でこだわっていた資料が「信達一統誌」。
 「七戸的社」
 木落山の上にあり石宮なり
 東屋治神社是也
 日本武尊を祭奉るものなり
 建武中奥州ノ大守北畠源中納言顕家卿この神を尊信し給へ七戸的大明神と称し奉るなり
 後世宮の傍に大なる松七本あり
 故に七松と称せしなり
 今は入江野邨にうつし奉り
 余目の総社と崇奉るなり
 ここでは「東屋治神社」とするが、これが「東屋沼神社」とかかわる「七戸的社」の記述だと思われる。それが「木落山」の上にある石宮だとも読み取れる。

 お話頂いた中で引っかかっているのが「オンツァ小屋」の話。勝手な思いつきなのだが、これが「木落山」という俗称とかかわるのではないかなと思うのだ。
by shingen1948 | 2014-11-06 10:41 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)