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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家⑥

 今日も暑くて実際の散歩を控えて、書物の中の散歩だ。
 手元にある安達地域の資料の中から、安江五郎左衛門を拾ってみる。
 まずは、「大玉村史」上巻に1行見つけた。ちょっと曖昧なのは、「安江五郎左衛門」ではなくて、「字江五郎左衛門」となっている。それでも、「石栗将監」と対になっていて、一字違いなので勝手にこれを安江五郎左衛門と判断するのは素人の特権。
この支城(二本松城)は、慶長3年8月19に日に直江山城守の支配地で、その知行宛行状を石栗将監、字江五郎左衛門に出している。その内には、二本松知行分、安田上総介1万石、下條駿河守4千石以下10人である。

 更に、そこで掲げられた表に石栗将監500石が記載されている。ここでいう「字江五郎左衛門」についての詳細は見えない。
 恐らく、塩之松支城の項の山浦源吾景国6500石(本文では500石とあるが、表に6500石とある)、2480石、市川左衛門尉房綱6700石、同心給分として2480石が記載される中に、この「字江五郎左衛門」分があるように思う。
 この表の二本松と塩之松支城の項に、空白の欄があって、そこに石高の記載があるのが気になった。
 これにかかわる情報は、「大玉水利事業誌」で見つけた。
 概観すると、この時代の仙道地域の支城は、浅香城・二本松東城・二本松西城・塩ノ松東城・塩ノ松西城・森山城・長沼城であるらしい。
 これを、蒲生の時代の長いスパンで見た時(この地域では、上杉時代は蒲生時代に挟まれた3年間でしかない)に、二本松東城と二本松西城、塩ノ松東城・塩ノ松西城が、統合されるという歴史があるようだ。
 ここからは、またしても素人の推測だが、恐らく統合された時代の資料を活用しているのだろう。この本が専門書であるため、私意を加えるのを避けて整理したので空白になっているのだろうと思われる。
 その推測を元にして、「大玉水利事業誌」に掲げられるこの時代の城将を中心にして整理された表を見ると合点がいく。
 その表によると、安田氏が浅香城将で城番は栗田監物、二本松東城将が下條氏、二本松西城将が秋山氏、塩ノ松東城将が山浦氏、塩ノ松西城将が市川氏、森山城将が竹俣氏(初め須田氏、慶長4年から本荘氏、それについで竹俣氏)、長沼城将が嶋津氏ということになるようだ。
by shingen1948 | 2010-07-28 05:20 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)

台田遺跡を推理する④

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 山﨑後遺跡は、縄文時代中期~後期の遺跡で、この遺跡は、昭和62年に調査が実施されたとされる。そして、ここから出土する土器は、北陸の馬高式土器の影響を受けた縄文時代中期中葉のから後葉のものという。
 この遺物は、ふれあいセンターに展示されている。
 このセンターの展示空間は小さいが、収納空間が広い。そこに収まる遺物は豊かそうに思う。


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 ここでは、山﨑遺跡と台田遺跡の土器が並んで展示されている。台田遺跡を中心に据えたが、右奥の遺物は山﨑遺跡出土土器のようだ。


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 これは台田遺跡の土器だが、山﨑遺跡とは同時期の特徴を有しているのだろうと思う。

 縄文土器は、豊かな飾りに、人々の願いのようなものを感じる。


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 縄文の文様には、人の気が込められ、芸術の意気込みであるらしい。全勢力を込めて作品作りに没頭する岡本太郎氏が、この土器にのめり込んだという話に納得がいく。
 縄文の飾りは、縄文時代中期まで大型化立体複雑化して華やかに変化していく。
その変遷を踏まえた土器の文様の特色について、台田遺跡・山﨑遺跡からされている華やかな時期の実物を使って解説展示する。

縄文時代半ばを過ぎると、土器は実利の機能を重視するようになり、土器の文様や飾りが少なく簡素になっていく。
 ただ、土器自体は色々な形になり、終わり頃は、細工の細かい漆塗りも出てきたという。この変化は、やがて弥生式の土器へとつながっていくという。

 今年から正式に小学生の心に縄文時代からの記憶を刻むことになったと聞く。
 この地区の縄文の世界は、そのまま終結したのではない。台田遺跡・山崎遺跡の縄文時代は、連続的に次の時代に繋がり、古墳時代まで続く。そのことを確認できるのが、上ノ台遺跡だ。
 ここでは、中心となる住居遺跡は古墳時代だが、縄文時代の住居跡も検出している。縄文時代から古墳時代までの住居跡が重なって発掘されているということだ。

 更に、庚申壇古墳や谷地古墳などでは、その上に中世の舘跡が確認されているようだ。中世の時代まで、途切れることなく連続的にこの地の歴史は刻まれてきた。
 開発は進んでも、形式的にはあちこちに山神を讃える風習も残っている。

 豊かな自然の恵みの意義を忘れる時代に開発は進すすんだ。そのことによって別な豊かさが享受できた。それでも、いつかは真の豊かさを真に問う時代は来ると、散策していてそう思う。
by shingen1948 | 2009-04-07 05:20 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)

台田遺跡を推理する③

 台田遺跡も、他の安達太良山麓の縄文遺跡と同じようにこの台地の周辺に住居を配したと思われる。
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 したがって、台地中央部は広場的空間として利用するという安達太良山麓の当時の集落遺構は、ここでも通用するものと想像する。
 この畑はその台地中央部の広場的空間ということになる。


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 もと深読みすれば、袋状土壙7基、土器棺墓2基などが検出され、土器棺墓からはヒスイ製の垂玉が出土し、ほかに人面付き土器、船型土製品の出土したというのは、平成7年に県道拡幅工事に伴って台地中央部の調査が行われた塩沢上原A遺跡の結果だが、そんなことも起こり得る広場ということになる。

 この台地は、そんな可能性をベールにつつんでのどかな景色を構成している。
 この遺跡の遺物は、ふれあいセンターに整理されて展示されている。

※ 最近目にした古についての情報を、備忘録としてメモしておく。

  ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
古に関する情報
4月の情報
 福島県県北地区

 福島県地域
 〇 3月14日(土)~5月17日、新編陸奥国風土記巻之七信夫郡展/福島県文化財センター白河館「まほろん」
 〇 4日、大安場古墳公園オープン:前方後方墳の大安場古墳を復元し、発掘資料展示館で遺物展示。(福島民報)
 〇 2日、慧日寺中門一般公開:冬季休業していた金堂も再オープン(福島民報)
 〇 25日13:30、館長講演会 「私の世界文化遺産散歩」/福島県文化財センター白河館「まほろん」:第1回 藤本強氏「世界遺産とは、日本の世界遺産」
 福島県外地域(近県)
 〇 2日、一関市博物館、寺村荘園遺跡展示コーナー新設:藤原清衡が発行した文書「中尊寺幼蔵別当補任状案」の複製や仏教遺跡の写真を展示して、荘園としての平泉との関係、宗教色ある遺跡としての特徴を強調した。(河北新報)
 〇 4日、平泉遺産4資産除外:2011世界遺産登録をめざす平泉文化遺産推薦書作成委員会は、以下の4史跡を除外することを決めた。(河北新報)
  ・ 骨寺村荘園遺跡(一関市)・ 白鳥舘・長者ケ原廃寺跡(奥州市)・達岩窟(平泉市)

 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
by shingen1948 | 2009-04-06 05:36 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(9)

台田遺跡を推理する②

 この遺跡の住居について、案内の説明や報告書を直接は見ていない。
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 ふれあいセンターの玄関前の広場に、台田遺跡を模したモニュメントがある。複式炉も再現されている。恐らく、複式炉・3本柱は何らかの根拠があって作成されたものと思う。複式炉は県内の住居の特色だ。安達太良山麓だけでなく、散策した阿武隈山地の遺跡も福島の遺跡も、国見の遺跡もそうだった。


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 柱の数は、それぞれの遺跡に特色があった。
 コンクリートの柱は、3本であったことを示している。
 3本の柱は原瀬上原遺跡・田地ケ岡遺跡・塩沢遺跡などの安達太良山麓の縄文遺跡の特徴かもしれない。 飯野の遺跡は4本柱だった。


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 原瀬上原遺跡・田地ケ岡遺跡・塩沢遺跡がそうだったように、原瀬上原遺跡の縄文復元住居と同じような住居が、丘の南端のあたりにあったのだろうと想像する。
 原瀬上原遺跡の縄文復元住居を貼り付けておく。


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 内部の様子として、塩沢上原A遺跡と重ねて想像してもいいはずだ。写真は、塩沢上原A遺跡の復元住居の複式炉あたりを貼り付けておく。


 直接の遺跡の説明は目にしていないが、別の遺跡の説明の中に登場するのは目にしている。
 「上の台遺跡発掘調査報告書」では、縄文遺跡である山﨑遺跡について、次のように触れている。
 同じ丘陵上には、縄文時代中期~後期の山﨑後遺跡がある。この遺跡は、昭和62年に調査が実施され、北陸の馬高式土器の影響を受けた縄文時代中期中葉の大型住居跡や同期後葉の複式炉などが発見された。複式炉は、大玉玉井の台田遺跡や本宮荒井上原遺跡、二本松市原瀬上原遺跡、田地ケ岡遺跡からも多数発見されており、安達太良山麓の縄文時代を代表するものになっている。

 「下舘跡発掘調査報告書」の第二節「周辺の遺跡」では、縄文遺跡について、以下のようにふれている。
 縄文時代の遺跡の多くは、安達太良山からの丘陵に位置している。これまでに調査を行なった台田・山﨑遺跡からは中期の土器と複式炉を伴う住居跡が発見された。また、本遺跡から約1.2km北西の丘陵に在所する上ノ台遺跡からは、前期に比定される土器と住居跡が発見された。

by shingen1948 | 2009-04-05 05:36 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)

大名倉山③

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 大名倉山に関わって、大玉村ホームページでは、相生集の鶴塚の言い伝えを紹介している。
相生集に鶴塚の言い伝えがある。元禄年中、山田金太郎(月岡某)というものが君命によって、名倉山で鶴を撃ったところ、その足に金の札があった。その札は、頼の字を残していたが、他は摩滅して見えなかった。その鶴を埋めたところに塚を建て(名倉山の中腹)一株の杉を目標にしたという。源頼朝公が鶴を放ったことは口伝えにあったが定かでない。今から数十年前まで杉やかや榧の大木が存在した。しかし、雷火に遭い、二昼夜にわたって火は消えず、ついに焼失して今日に至った。その傍らに山王を祀り、日吉神社と称し、今なお小姓内集落で祭礼を執行している。

 山王信仰に触れている。
 この信仰の起源は、比叡山(日枝山)一帯に古くからあった山岳信仰で、人々の生活に溶け込んでいた信仰のようだ。

 祭神は大山咋神後に大物主が加わる。(大山咋神は、素戔嗚尊の孫)
 平安の時代に、最澄が比叡山に延暦寺を建立するが、古くから信仰されていたその地の神々を鎮護神・護法神として尊重し、山王と呼んだという。
 この時から古来の土着の神と天台宗の習合が始まると聞く。
 そして、鎌倉の時代には、天台宗と日吉の神の信仰が結合して「山王神道」が確立されて隆盛したらしい。

 今の生活からこの感覚が抜けているのは、明治政府の宗教政策のようだ。
 延暦寺と日吉大社の神を分離し、山王権現の社号を禁じる政策が完成して、私たちからこの感覚が消える。

 整理しておきたかったのは、この大名倉山には、「おらが村の神」を祀っていたらしいということの意義もあるということだ。
 里に近い山だから羽山信仰もあったと思う。この山に祀られていた右奈己呂和気彦霊神は、祖霊神の役割も担っていたのではないかと想像する。

 大名倉山に生活と精神的に繋がる神々が住み、それが安達太良山の神々とも繋がり、その奥の吾妻山の神々と繋がっている。
 そして、昔は、修験の峰入などを見聞きしているのだから、そのことについてもっと実感に裏打ちされていたと思うのだ。
 ずっと気になっていたのは、生活と密着する神々が名倉山の中腹ということだった。しかし、山頂には安達太良山の遙拝殿の機能があることが分かって合点がいった。

 なお、本宮の安達太良神社では、飯豊和気神を祀っているとも聞く。もっと奥の会津の山々の神をも感じていたかもしれないとも思う。
by shingen1948 | 2009-03-30 04:33 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)

大名倉山②

大名倉山は、本宮の安達太良神社とかかわる。

 安達太良山の信仰は、平安時代まで、磐梯山・吾妻山修験の峰入りに組み込まれて盛んだったと聞く。
 独立峰としての信仰としても、山麓の登山口にそれぞれの神が祀られたという。
 そして、それらのそれぞれの神、宇奈己呂和気神、飯豊和気神、安達嶺禰宜大刀自神、安達嶺飯津売神などが、久安2(1146)年に本宮町の菅森山に合祀遷座されたということだ。

 この時に、新たに安達太良山支峰である大名倉山の神である宇名己呂別神も勧進し、安達太良明神と称したということらしい。
 大名倉山は、安達太良山支峰として安達太良山信仰の一役を担っているということのようなのだ。

 安達太良神社は、安達太良山の遙拝殿として標高1700mの安達太良山を拝む機能が大切だし、大名倉山もその支峰として安達太良神社から仰ぎ見られる存在であることが大切なようなのだ。
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 したがって、山頂からは大玉のほぼ全貌を眺望できることは勿論、奥深い山々の神の存在を感じながら、景色の素晴らしさを堪能し、本宮も見渡せることを確かめる。安達太良山の水の恵み、温泉の恵みをもたらす神に感謝しながら。
by shingen1948 | 2009-03-29 06:34 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)

大名倉山

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 昨年の夏、案内されて大名倉山に登ったのだが、それだけで満足してしまって、そのことを整理していなかった。
 大名倉山にはいつでも登れると思っていたが、なかなかそのチャンスはなかった。


 大玉村ホームページでは以下のように紹介している。

 大名倉山は、本宮町と大玉村の境に位置し、国道4号から見ると、採石場のあとが大きな崖になっており特徴的である。また山頂からは大玉のほぼ全貌を眺望できる。
 今から200万年前頃に噴火活動した火山だったため、マグマが固まって出来た安山岩が中心になって大名倉山は出来ている。この山の安山岩は、鉄に富んでいるので、鉄分が酸化し、岩肌の所々が赤くなっている。

 この山、もっと地元の心に溶け込んでいるように感じる。
 ホームページでは、山頂からは大玉のほぼ全貌を眺望できると紹介する。これは逆で、この山は、ほぼ全村から眺めることができる。だから、いつということもなく見ている山であるということだ。

 天気予報もこの山に頼る。
 大名倉山に雲がかかっていれば、現在晴れていても、直ぐに雨になる。
 雨が降っていても、名倉山がはっきり見えていれば、そのうちに雨は止む。
 村のほとんどの人はそう思っていて、それは本当によく当たる。


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 NTT大名倉山無線塔の下まで車でいく。そこに車を置く。


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 西に向かう所に大名倉山登山口の標識がある。
 そこを登る。


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 東側から登る話も聞くが、尾根道の東側に有刺鉄線が張られている。東側は急崖をなしている。
この道に続くしか、登る道はなさそうだ。
 無線塔にたどり着く方法はもっとありそうな気はする。


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 歩いて直ぐに山頂に着く。
 説明はないが、山頂の神社が、今は本宮の安達太良神社の御祭神の一つになっている宇名己呂別神(ウナコロワケ神)だろうか。
 安達太良山支峰としての大名倉山の神であるが、残念ながら、この時は安達太良山は見えなかった。
 ここで、安達太良山が見えることが、この山の一つの意義ではあるのだ。
 ここから安達太良山を仰ぎ見る気持ちが大切なことの一つと思う。
by shingen1948 | 2009-03-28 22:49 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

本宮電気発電と空爆

 林業が盛んだったころの痕跡は、先の営林署跡の広場と、その向かい側にあったその関係者の住宅だった。これが、最近取り払われて、広い道路になった。
 この営林署跡も、市民農園のようなものにすることを考えているらしい。
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 岳街道を少し下った辺りには製材所らしい所があるが、ここには今も切り出した木材が積まれている。
 この上の方にある村民の杜も、元々は森林から切り出した木材の集積場だったと聞く。

 
 先に書いた交差点を右手に登る道は、川からは離れているが、まっすぐに登り道になる。
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 その道を進んで、右に曲がるあたりに細道がある。この細道(写真の右手の丘のようになっている所)を下って、川との交点辺りが、横堀平発電所あたりだと勝手に想像する。


 この発電所にこだわってみたのは、本宮のグンゼ工場が太平洋戦争時に空爆を受けるのだが、何故という思いがあり、そのイメージがつかめなかったからだ。
 交通の便が良くて工業が発達し、軍事工場が建つというのは理解できる。
 しかし、グンゼは繊維工場のはずだ。ここが、空爆を受けるのは合点がいかないところがあった。

 最近、ここで飛行機の部品を造っていたと聞いた。
 軍事部品工場になっていたというは、空爆の理由としては理解できる。
 すると、ここに繊維工場が発展し、戦時には軍事部品工場にされたという変遷を知ることが、納得しやすい。

 福島県での発電は、明治28年(1895)福島電灯(庭坂第一)がスタートで、郡山、喜多方、会津の東山、須賀川、二本松、川俣、三春、伊達(茂庭滝野)と次々に設置され、明治44年(1911)には、この本宮電気と相馬電気が設置される。
 このエネルギーが、この辺りでは繊維工業の発展に寄与したのだろうか。その工場と電気エネルギーが太平洋戦争時には、軍事工場の役割を担ったのだろうと想像される。
 本宮の繊維工場でもその役割を担い、空爆を受けた理由になったのだろうと想像される。
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 通り過ぎただけだったが、本宮の資料館の二階にこの空爆の資料が展示されていた。今度はそちらも観てみようと思う。
by shingen1948 | 2009-03-27 06:21 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(5)

横堀平あたり

 トロッコ道のスタート地点も、本宮電気の発電所も同じく横堀平とのことで、横堀平辺りを確かめてみる。
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 目印は、元営林署の敷地で、最近まで木材置き場になっていた。
 この上の方に発電所があったと聞いたことがある。


 北側の道を少し登ると分かれ道になるところを左手に進むと、橋がかかっている。発電所に使う水は、この川らしい。
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 しばらく登ると、川から離れるので、藪の中から覗いてみる。
思ったよりは水量はあるようだが、発電というイメージからは遠い。


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 やや上流に滝になっているところが見える。
 水量は少ないが、高低差でカバーしたのだろうか。ただ、発電の初期の水量は、こんなものなのかもしれないとも思う。


 発電所の場所はもっと上流のような気がする。
by shingen1948 | 2009-03-25 19:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)
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 こちら側が、安達太良川への分水だが、これにかかわる堰がある。額石堰だ。
この堰は資料不足でよく分かっていない。地元の人は、通称「ばかぼり」と呼んでいる。
 「大玉村水利事業史」では、本宮池堰書上帳に記載されることをもとに、この堰の開削を、元禄8年(1695)以降明和7年(1770)以前と推定している。
 同書では、「本宮地方史」の記載内容も紹介して、年代推定の確かさ加減を示している。
○ 江戸時代中期後、額石川、唐沢川その他の流れを合わせて、玉井地内の安達太良川に落水したこと。
○ この用水は、現在三森ため池の北縁を通り、その導水路の下部を横断して通水し、水不足の場合、利用も可能であるとしている。

 これら資料の状況は、いくつかの示唆を与える。 
 その一つは、資料が、本宮地区にあるということは、水利の問題は、本宮も含めた南達地域全体の問題であることであり、課題は取水口から遠い本宮地区に多くあること。
 その二は、それでも資料が少ないのは、信夫の里のような厳密な検地による締め付けが少なかったのではないかと推理できること。

 「大玉村水利事業史」では、現地の調査感想から、その流れは、時として水は高きより、低きに流れるのが通常だが、低きところから高きところに向かって流れているように見える。そのように普通と異なる型で水が流れる堀なので、異常なものとして「バカ堀」の名が付いたのではないかと推定している。
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 現地に行ってみたいところだが、熊注意で行く勇気はない。
 地図で確かめる。

 「ばかぼり」という否定形での言い方については、似たような否定形で表す流れがいくつかある。これらは、厳密な水位保持があって、これら迂回と逆さ水から逆流の錯覚が生まれるというものだ。
  砂子田堰の「伊達の逆さ水」は、分水した水を本流と堰で、方向が逆になっているものだ。西根堰では、五十沢の迂回がある。これは、削られてしまった地形で、、迂回しているのだが、周りとの景色で逆流に見えるらしい。


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 この堰の最初の川から額石堰に取り入れた流水を、次の川に繋げるあたりが、そういった状況になっているように感じる。

  なお、この用水は、現在三森ため池の北縁を通り、その導水路の下部を横断して通水し、水不足の場合、利用も可能であるとのことだ。
by shingen1948 | 2009-01-13 20:24 | ◎ 水 | Comments(22)