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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 大森城の南西周辺散歩の中で確認したのが、城裏口の石造供養塔(板碑)だ。その前には、城山縁で確認した城山供養塔の板碑、北舘供養塔を確認している。これらは、大森城が創設されたとされる天文11年(1542)より以前に建てられたものだ。
 複数の板碑群を確認することで、何となく厚みのある散策をしたような気分になっていたのだが、半沢氏のフィールドワーク地図を確認したら、この近所にはまだ中世の板碑群が建っているようだが、それらは見落としているようだ。
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 これは、大森城を西側から眺めている。右手の小高い山が、大森八幡神社の裏側だ。
 大森城の散歩を裏側から整理してくると、視野の広がりのようなものを感じる。
 その一つが、下鳥渡山王道から福島道にかけての道筋沿いの風景と大森城の散歩を重ね合わせてイメージしていることだ。


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 これは、散歩の中で撮った天神社だ。家に戻って「半沢氏のフィールドワーク地図」と見比べていたら、その隣の「龍音寺が別当だったが、明治期の神仏分離政策によって分離されたもの」とのメモがあるのを見つけた。散歩では、その龍音寺は見逃したなと思いながら、芋川氏の菩提寺が明治期に廃寺になったのも、この神仏分離政策だったことを思う。

 その「半沢氏のフィールドワーク地図」の「好国寺」に、「再興 山田意休夫妻墓碑 宝永元年(1704没)(長尾久右衛門もと米沢藩上杉氏家臣山田の開拓者)。長尾久右衛門大学の開拓として「寛永7年(1630)頃上杉氏の新田開発奨励政策により帰農したという。猪鹿防除のため鉄砲役免除」とあるのを見つけたことで思うこと。
 それは、大森城は漠然と伊達氏とのかかわりをイメージしていたのだが、少なくともこの城の南西付近は、上杉家臣団とのかかわりのイメージが強くなったということ。

 考えてみれば、大森城も最終的に芋川氏の時代に廃城になるので、少なくとも大森城下の痕跡も、上杉家臣団とのかかわりで大きな変革はストップしているはずなのだ。
 「大森城の構成」でも、慶長5年(1600)の栗田氏以降に山麓の整備が大きく展開したのではないかとみているらしい。山麓部の発掘調査が行われていないので慎重なものいいだが、計画的な街区画割りの特色は、織豊期の特色を示し、この時代に日常的な諸機能は山麓部に移動してきたとみているようだ。
 それで、大森城は近世当初まで使用されたが、天文期の基本プランの雰囲気を留めていることになったと見ているようだということとかかわりながら、「天地人の時」のカテゴリーを意識している。
by shingen1948 | 2011-11-12 06:25 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)

旧奈良輪家

 民家園の旧奈良輪家が建っていた元の場所は、城裏口の石造供養塔(板碑)北側の集落の山側に近い位置にあったことを推定した。
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 その旧奈良輪家が民家園に移築され、福島県の重要文化財に指定されている。この写真は、民家園を訪ねた時に撮りためておいたもの。

 福島県指定重要文化財 
 旧奈良輪家住宅
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 ・旧所在地 福島市山田字城裏口
 ・建築年代 江戸時代中期(18世紀中ごろ、約250年前の建築)
 ・概要
 住宅規模から村役層農民の住宅と考えられる。
 「にわ」(土間)の広さ、奥の「ざしき」の杉板、側面や背面の厚い土塗りの大壁造り、閉鎖的な窓や入り口など多くの古い民家の要素を持ち、福島県の県北地方でも最古の現存民家の一つであろう。
 なお、今回の組立てにあたっては、平面外観などすべての面にわたり建築当初の姿にもどした。(昭和57年度記)
 村役層農民の住宅規模とされるのは、「にわ」(土間)が広いこと、奥には一部屋の「ざしき」があるというこの住居の特色を指していると読み取れる。
 別資料によると、その規模は、面積165.9㎡(42.8坪)、木造寄棟造平屋建茅葺き。その復原が、昭和56年(1981)5月、福島県指定重要文化財になるのが、翌昭和57年3月31日ということのようだ。

 先に旧地の集落への入り口の風景を掲げたが、その前の道筋を福島道としたが、それでいいのか気になっていた。
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 福島道としたのは、好国寺へ進む道との交点に道標があって、そこに「福島道」とあったからだ。気がかりだったのは、何故ここに「福島道」を示さなければならなかったのかということだった。
 これが、半沢氏のフィールドワーク地図で確認して、合点が行った。
 この道筋は、旧山王道の道筋と重なっているらしいのだ。この道標のある交点から好国寺へ向かう道筋は、そのまま進むと鳥渡山王に至る道筋になっているようなのだ。そして、そのまま北に向かうと「福島道」なのだと案内されるものと推測される。
 なお、今回は確認していないが、この地図の「好国寺」に、「再興 山田意休夫妻墓碑 宝永元年(1704没)(長尾久右衛門もと米沢藩上杉氏家臣山田の開拓者)」のメモがある。
 更に、長尾久右衛門大学の開拓として「寛永7年(1630)頃上杉氏の新田開発奨励政策により帰農したという。猪鹿防除のため鉄砲役免除」とある。
by shingen1948 | 2011-11-09 06:24 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 福島市民家園に移築復元された旧奈良輪家(福島市指定有形文化財)は、城裏口の石造供養塔(板碑)の道を挟んだ北側に建っていたと思われる。

 この旧地を確認するつもりはなかったのだが、「リビング福島」の「旧家巡り」に「江戸時代中期に福島市大森城山に建てられたものを移築しました」と紹介されたことが気になった。
 確かに大森「城山」の山際には、何軒かの民家が建っているようだが、そこは他の字名のはずだと思った。大森城山自体に民家が建っていたという話も聞いたことがなかった。

 とりあえず住宅地図を確認したら、城山にはその候補は見当たらないが、城裏山付近、龍温寺付近、山田付近にその候補地はありそうだと推測できた。
 後で分かったのが、そんなことをしなくても、「民家園のページ」で旧所在地が確認できた。そこに、「山田字城裏口」とある。ここなら、地区的には「城裏山」であり、「リビング福島」の紹介文を「大森城裏山」と読み替えられそうだということだ。
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 そういうことで、民家園の旧奈良輪家が城裏口の石造供養塔(板碑)北側の集落の位置にあったことを推定する。
 これは、城裏口の石造供養塔(板碑)の建っている位置の南側からの風景をとらえてみた。この民家が建っている付近に、奈良輪家の民家は建っていたという事のようだ。

a0087378_5575745.jpg 福島民家園のページに紹介されているその「やしき取り」のイメージをちょっとお借りした。
 これが、旧奈良輪家固有の「やしき取り」なのか、一般的な概念としての「やしき取り」なのかは分からない。
 「いぐね」は、大玉村周辺の屋敷取り特有のものと思っていたが、この地区でもそういう屋敷取りだったのだが、この屋敷林は、この地区では消えてしまったというに過ぎないという事が、分かる。
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 民家園で眺める民家は見覚えのある懐かしさが漂うのだが、自分の頭の中では会津の空気の中でのイメージで捉えてしまう。具体的に旧地を訪ね、その風景の中で、そこに流れる空気が漂う雰囲気の中で、捉えなおす。
 福島道からこの住居が建つ集落への入り口には、お地蔵様が建っていた。
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 それらのイメージを頭に浮かべながら、奈良輪家旧地付近の風景を、好国寺に向かう坂道の高台から捉えてみた。
by shingen1948 | 2011-11-08 06:08 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 城山供養塔の板碑、北舘供養塔について整理したので、大森城付近の板碑というくくりで、城裏口の石造供養塔も整理しておく。
a0087378_555512.jpg この板碑も、文永8年(1271)建立ということで、これも城が創設されたとされる天文11年(1542)より以前の話。
 年代順に並べると、城山供養塔が正嘉2年(1258)、この城裏口の石造供養塔が文永8年(1271)、北舘供養塔が文永10年(1273)の建立ということになる。

 この城裏口の石造供養塔は、福島市指定有形文化財らしい。
 案内板から、その指定理由を確認すると、「鎌倉時代の優品であり、また生前にあらかじめ死後の冥福を修する逆修の板碑の市内最古のものとして、さらに双式供養塔の形式を探る点で貴重である。」としている。
 他の供養塔との違いは、二つのようだ。
 その一つが、「鎌倉時代の優品」。
 時代の古さでは三つの中では最も新しい。後半のその時代の板碑の「優品」というのが選定理由だろうか。
 もう一つが、「市内最古の逆修の板碑で、双式供養塔の形式」。
 生前にあらかじめ死後の冥福を修するという思いは、想像するよりも強く、常に死を意識していることを思わせる。
 福島市指定有形文化財
 城裏口の石造供養塔(板碑)a0087378_522712.jpg
 板碑は、鎌倉時代~室町時代頃に供養のため造立されたもので、板石塔婆・石造供養塔などともよばれる。
 板碑は、その地方に産する石材を使用しているため使用石材の差異により、全国的に種々の形のものがみられ、典型板碑。類型板碑・自然石板碑に区分されることもある。また刻まれ方の違いにより、画像板碑・種子板碑(供養の対象となる本尊を画像・または種子で現したもの)・名号板碑(南無妙法蓮華経と刻むもの)・曼荼羅板碑(種子で各種曼荼羅を刻むもの)などとよばれることもある。
 この板碑は、高さ123㎝・幅169㎝・厚さ32㎝の横長の大きな自然石に、板状に近い面取りを施してある。
 「城裏口供養塔」と呼ばれてきたのは、隣接する小字名(山田字城裏口)によるものであろう。
 向かって右に胎蔵界大日如来、左に金剛界大日如来の種子をそれぞれ円の中に刻み、さらに右手に「志為」、その下に「蓮比丘尼」「沙弥蓮持」をニ行に並べ、続けて「逆修之也」、改行して「孝行等」「敬白」と彫り、二つの種子の間に、「文永8年辛未(1271)2月2.2(4)日」と刻んである。
 右手の種子は蓮台に荘厳されている。文字の彫りはあるいは後に修刻されたものであろうか。
 鎌倉時代の優品であり、また生前にあらかじめ死後の冥福を修する逆修の板碑の市内最古のものとして、さらに双式供養塔の形式を探る点で貴重である。
 昭和58年3月15日
 福島市教育委員会

by shingen1948 | 2011-11-06 05:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

北舘供養塔~大森城付近

 先に城山供養塔の板碑について整理したのは、芋川氏の菩提寺常栄寺跡の位置を確認するためだった。
 散歩の中では、この板碑を写真におさめることは多いが、大概はどう整理していいか分からずにそのままにしておくことが多い。
 北舘供養塔も、そんな板碑の一つだった。
 ふるさとのよさを見つけよう
 <旧跡>北舘の供養塔
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 この2基の碑は、いずれも板石の塔婆で、板碑とよばれている。
 高い板碑は、中央に文永10年11月25日とあり、その下方左右に孝子・敬白とよみとられる。この地に住んでいた名のある家の子が、我が親の供養に建てた石の塔婆である。高さ103㎝ある。
 低い方の一基は高い方の碑より2年あとの文永12年1月23日の建碑である。これは、先年この小川の改修の折に発見されたもので、これにも孝子・敬白の文字が読まれ親の供養のためのものである。
 文永12年(1275)は文永の役の翌年にあたる。

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 案内板には2基とあるが、実際には、碑は3基並ぶ。その中の2基の解説ということなのだろう。素人目には、右手の石碑は胎蔵界大日如来の梵字や内容が読み取れる気がするが、解説と違うようだ。風化の具合からも左側の2基の解説だと思う。
 気になるのは、この板碑は、野山に建てられるものなのか、それとも近くに宗教施設があって、そのかかわりでこの地に建てられたものなのかということ。
 近くに宗教施設があったのなら、この山が城となる以前に宗教施設があったということなのか、それとも、城とかかわる宗教施設があって、それとかかわってこの板碑があるとみるのかということも気になる。

 少なくとも、城山供養塔も北舘供養塔も、この城が築城されたとされる天文11年(1542)以前であるという事だけは、確かなことらしい。言い方を変えれば、この城の築城から城として機能している間も、廃城になってからも、これらの板碑はずっと城山の風景の中にあったということだ。
by shingen1948 | 2011-11-04 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 散歩をしてみての実感として、北追手→城山観音堂→城山配水池→本丸へ至る道筋が、「牙城に登る正大手」としたいようにも思う。その場合、虎口については、いろいろな想像が必要にはなりそうだが、それでも10年程前に学習会に参加して頂いた大森城にかかわる「天正日記」の抜粋資料で、その情景を思い浮かべるには支障ない。

 虎口がどちらでも、現在では東側からこの城山公園へ登る主たる道筋になっている南追手からの道筋は、「南舘へ登る道」であるという事で一致しているようだ。しかも、その南舘の虎口は、北東側が想定されている。
 そして、本丸跡とこの南舘は、堀切で遮断されるとするらしい。そこは共通のようだ。

 ただ、「大森城の構成」では、西側の外郭線は、南舘にも至っていたのではないかと推定しているようだ。虎口にかかわって、現駐車場から続く平場が、従属的な曲輪であるが、その谷筋に主要な登城道の一つを想定することとかかわりかもしれない。

 諸曲輪を外郭の帯曲輪で包んで城を一体化していたということが基本プランとイメージして、南舘周辺の現状を確認する。
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 南舘の虎口と想定される南館北東部までの公園への道筋は、登城道の改修ということだろうか。
公園への道筋は、ここから西側に南館をぐるりと回り込んでいるが、この部分は南館の外郭の帯曲輪の一つが改修されたものなのだろうとか。

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 今回はその確認はしていないが、「南舘南東部には櫓台状の土塁を備えた部分があるが、土塁際まで近年の削平をうけており全体の構造の中で、この土塁の意味を読み込むことは難しい」とあるのは、この辺りだろうか。

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 その西側は、現在も畑になっている。「大森城の構成」では、畑地化するために平坦化されているが、ここにも何らかの城としての遺構があったと見ているようだ。
 なお、「山形・宮城・福島の城郭」では、「この南館は本丸跡の南方の丘陵で『姫御殿』とよばれ、『東西30間許南北80間許、湮濠之を環る』とみえる」と紹介する。
 「信夫の府城:大森城フィールドワーク地図」にその呼称が「出丸【ひめごてん】」と紹介される根拠がみえる。

 搦手は、滝ノ前から登るものと、竹の内から登るものと二つあったと想像しているようだ。これは西側からの道筋に近いのだろう。字名では、「城裏口」の地名に着目しているようだ。
by shingen1948 | 2011-11-02 05:24 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

大森城⑦

 今回の散歩は、手に入れた資料をもとに忠実に確認していくことがメインだった。
 この散歩を通しても、尾根に並ぶ舘については、なんとなくイメージしていたことと大きな相違はなかった。しかし、この城へ登る道筋については、今回の散歩でイメージが明確になったような気がしている。散歩を通して実感したことと、「山形・宮城・福島の城郭」で解説されることを比べながら整理する。
 「信達ニ郡村誌」に字地として「北追手」・「北舘」・「椿舘」・「南舘」・「南追手」を記されるが、これをもとに各舘と登城口とのかかわりが解説されている。
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 まずは北追手だが、この道筋は、現在も道筋として整備されている。多分、信夫中学校北側から城山観音堂へ登る道筋がこれに近いのだろうと思う。先に「安江繁家24」で芋川氏の菩提寺常栄寺の情報をもとに散策した道筋だ。


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 観音堂から更に登っていくと、北舘の城山配水池付近に出る。これは、「大森城跡を訪ねる②上杉景勝の領地だった時代」で、尾根の館を確認した後に下って確認した道筋でもある。 
 ここから本丸への虎口への道筋は逆に曖昧になったが、古墳が移設された平場に向かう道筋をそれと考えて、この道筋が本丸へ至る「牙城に登る道」で、正大手でもあったと考える方が多いようだ。
 今回は、その道筋に沿って通して登ってみた。

 本丸跡では、芋煮会を楽しんでいらっしゃる集団に邪魔にならないように通り過ぎる。トイレの修理も終わり、平常の都市公園になっていた。
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 下るときにも、ここから観音堂まで、平場等を確認しながら同じ道筋にした。
 そこから墓地を確認しながら、常栄寺跡に降りる道筋を確認しながら下ってみた。
 これが、芋川氏と常栄寺を確認する道筋であると同時に、椿舘の確認ということにもなっている。

 ただ、それも一つの見方のようで、本丸への虎口の見方によって、椿舘の位置の見方がややずれるように思う。
 先の「大森城の構成」では、主郭南側が虎口と想定し、本丸跡と南舘の間は帯郭となっているが、椿舘をその現在駐車場脇の公園部の丘陵東側付近を想定しているように思う。
 それに対して、「山形・宮城・福島の城郭」では、椿舘の位置を「丘陵東側の傾斜面で、城址より東に下り山の半腹に位置し、芋川正親の墓がある。」とする。今回は、そちらの見方で、城山観音堂左下の墓地付近から常栄寺跡にかけて道筋を確認しながら下ってきた。
by shingen1948 | 2011-10-31 05:04 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

大森城⑥

a0087378_61769.jpg 「信夫之府城:大森城フィールドワーク」にプロットされる廃寺跡は、「常栄寺」の他に、「普門寺あと」がある。

 地形と位置関係から、現在いろいろな方の歌碑が建つ辺りを勝手に想像するが、どうだろうか。
 こちらは文禄元年(1592)に、蒲生氏の家臣木村吉清氏が、大森城から杉妻城に移る以前の寺らしい。
 「山形・宮城・福島の城郭」には、「この時の町屋敷の移動に伴って常光寺・誓願寺・常福寺、そして普門寺が移された」とある。

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 ただ、ここで創建にかかわる解説がされるのは常光寺のみだ。「普門寺」については、「城山観音堂の別当を兼ねていたとされる」とのみ紹介されるだけだが、この紹介で、象徴的には、この「城山観音堂」が、この城山の歴史を見つめてきたということになるのではないかと想像できる。


 信達33観音5番札所「城山観音堂」について、別当寺とのかかわりで整理すると、こんな経緯が想像できる。
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 文禄元年(1592)に大森城から杉妻城に移った時点で、大森城は廃城になる。それ以前から別当寺「普門寺」のもとで、この「城山観音堂」は存在する。この時に別当寺「普門寺」は杉妻に移るが、この観音堂は残る。
 大森城は、慶長3年(1598)上杉氏の領地になったことに関わって復活する。その城代は、誰の家臣になるかという重大な判断にかかわって混乱する。その大森城内の混乱を受けて、最終的に芋川氏が大森城主におさまる。
 その芋川氏が、大笹生の東禅寺4世とかかわって菩提寺として常栄寺を開基する。どうでもいいことだが、このかかわりは信州つながりなのではないかと勝手に思っている。
 その常栄寺が、この「城山観音堂」の別当寺であった時期もあったのではないかと勝手な想像をする。
 寛文4年(1664)に、この地が幕領になったことに伴って芋川氏は去る。
 この寺は明治になっての廃寺という情報から逆に、芋川氏が去ってもこの常栄寺はここに残ったと勝手に想像する。
 そして、この寺は明治になって、神になるか仏になるかで廃寺となる経緯をたどるが、その時点でも「城山観音堂」は残る。

 信達33観音5番札所「城山観音堂」、現在は、円通寺がその別当寺だが、それまでの経緯を勝手に想像してみた。
by shingen1948 | 2011-10-29 06:08 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「安江繁家24」で大森城に出かけたのは、芋川氏が大笹生の東禅寺の4世とかかわって、菩提寺として常栄寺を開基したとする情報を得たからだった。
 
 しかし、この時点で肝心の常栄寺の旧地が分かっていない。案内板の説明から、観音堂脇の大森城主として初代正親・二代元親・三代綱親の墓碑が、昭和36年9月に左手下の椿館の墓地から移転改葬されているということが分かったに過ぎなかった。
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 その常栄寺の旧地が、「信夫之府城:大森城フィールドワーク」の地図にプロットされている。

 先の散歩でその北側の風景はイメージできている。城山供養塔をみつけ、それとイメージした北側の風景の中で、常栄寺の旧地が分かるかもしれないと思った。


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 城山供養塔は、北の道筋の次の道筋にあった。

 その脇に建つ案内板では、常栄寺跡供養塔となっていて、そこが、常栄寺境内であることが解説されていた。この案内板の解説で、常栄寺旧地はここであることが分かった。
 ふるさとの良さを見つけよう
 <旧跡>常栄寺跡供養塔
 このあたりは、城山に居住した芋川氏の建立と伝える常栄寺の境内である。
 この碑は、その寺の境内の一部に建てられた板石の塔婆で「板碑」といわれる供養塔である。中央には正嘉2年大歳戊午9月3日と読まれ向って右下方には右志者為慈父也とあって、なき父の供養のために建てられたものであることがわかる。碑の高さは112㎝である。正嘉2年(1258)は、国々に盗賊がはびこって、心の落ち着かない不安な年であったという。そのためか同年(正嘉2年)記銘の板碑は上鳥渡地区に2基も残っている。
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 ただ、この解説でこの供養塔と常栄寺は関わるという誤解を与えないかと気になった。

 この供養塔は、常栄寺建立前にあったはずで、常栄寺とは関わらない。常栄寺の開基は、解説にあるように芋川氏とのかかわりだ。
 廃城になっていた大森城が、慶長3年(1598)上杉氏が会津に入った時に復活する。この城代は栗田氏で、芋川氏はこの時点ではまだ白河城代だ。
 その芋川氏がこの大森城の城代となるのはその後で、常栄寺は、その芋川氏が大笹生の東禅寺の4世とかかわって、菩提寺として開基されるということだ。
 従って、この供養塔建立が建立された正嘉2年(1258)には、常栄寺はまだ存在しない。
 それどころか、この時代は鎌倉中期で、将軍宗尊親王、執権北条長時の時代だ。この大森城が創建されたとする天文11年(1542)よりも古い話だ。
 なお、案内板に解説される国々に盗賊がはびこる時代とあるが、その背景に、建久元年(1190)あたりから、飢饉・大洪水が続き、慢性的な飢饉に悩まされた時代ということがあるらしい。
by shingen1948 | 2011-10-27 05:20 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(4)

大森城④

 西側斜面に伸びた外郭線は、さらに主郭1.2を越えて南舘にいたった。城南側までもひと続きにまとめていたのである。…(中略)…。斜面部の連続した帯曲輪構造から、丘陵全体に広がった諸曲輪を外部の帯曲輪で包むことによって城城を一体化した大森城の基本プランが想定される。

 「大森城の構成」が紹介するこの帯曲輪と公園の散歩道が重なると思ったのは、主に「福島市の中世城舘」の中の「大森城地形図」と「大森城略測図」を重ねてみての感じだった。
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 更に、これが、太田氏が「信夫の府城:大森城フィールドワーク」で紹介する「空ぼり跡」とも重なっているように思うのだが、どうだろうか。

 なお、ここでは、「大森城の構成」が「主郭1.2」とし、「大森城地形図」が「主郭」とする平場は、「本丸」とされる。また、先に「北舘」とされた平場は、「ニの丸」とされる。更に、南舘は、<出丸(ひめごてん)>とされる。
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 公園広場から降りて、西側の散歩道筋を確認する。


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 実際に歩いてみて、この道筋と「大森城の構成」が紹介するこの帯曲輪とが重なるとの感覚は得られる。
 ただ、ここが空掘りだったかどうかというその痕跡は残っていなかったような気がする。
 
 先に主郭南西隅で確認した道筋にたどり着くということは、確認できた。


 「信夫の府城:大森城フィールドワーク」に目が言ってしまったが、本当に探していたのは、大森城の本丸の舘は二階建ての根拠資料だった。
 随分古い話になるが、半沢氏や太田氏などの有志の方が「福島の歴史学習」の講座を受講させていただいたことがあった。その中に、「伊達天正日記」をもとに、大森城の話があったことを思い出した。
 その記載の中から大森城が2階建てであったことが分かるというような事が印象的に残っていたのだ。これを、確認しようとしたのだ。

 これも確認できた。
 それは、天正16年5月4日の部分だった。
 この2年前時点で、二本松畠山氏を会津へ追い、伊達成実は二本松を与えられる。かわって大森城主は、片倉小十郎が居城する。
 なお、この年(天正16年)の4月には、八丁目城に隠居していた伊達実元が没し、陽林寺に葬られている。
 その5月には、伊達政宗が相馬氏の田村氏侵攻を防ぐため大森城に入り、約1ケ月ここに滞在して東安達や郡山周辺に出馬している。
 そういった状況設定の中での話だ。
 「(伊達政宗は、)軍議の後、夕方に雨がやんだので、大森城の「御二階」から梅雨空を払いのけるように鉄砲を放つ。家臣の横尾修理も相伴して空に向かって鉄砲を撃つ」というようなことが記述される。
 これで、少なくともこの時点の大森城は二階建てだったという事だったことを思い出したのだ。

 この「信夫之府城:大森城フィールドワーク」の地図は、この資料を探している中で見つかった。記憶にはなかったのだが、一緒に配られていたようなのだ。
 ただ、この地図を見ていたら、上記堀の部分だけでなく、「常栄寺あと」「普門寺あと」等、気になったがそのままにしていた事のヒント位置がプロットされているのにも気がついた。こちらも確認しておきたくなった。
by shingen1948 | 2011-10-25 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)