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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 今回得た和算についての情報を、2007年秋に土湯温泉辺りを散歩したこととかかわりながら整理している。
 前回は、「土湯温泉と高湯温泉③:薬師様(2007/9/24)」として整理した土湯こけし薬師堂にかかわる和算家渡辺治右衛門一氏土湯薬師堂に算額奉納情報を確認した。
 その算額に記される復元趣旨と「薬師こけし堂の由来説明板」解説から、当時の薬師堂は、現湯本下の町の共同浴場「中の湯」辺りに鎮座していたということが確認できる。
 御堂が流亡するのは大正2年8月27日の水害と推測できた。

 その共同浴場「中の湯」周辺については「土湯温泉共同浴場『中の湯』(2007/9/10)」で整理している。現在は新しく建て替えられているらしいので、建て替え前の姿ということでもある。
 https://kazenoshin.exblog.jp/6143371/
 寛政3年8月に和算家渡辺治右衛門一氏が算額を奉納した薬師堂はこの辺りということまでは分かるが、具体的にどこという情報はない。というか、恐らく度重なる水害と防災工事によって改変されているという事なのだろうと想像する。

 このあたりでもう一つ気になるのは、和算家渡辺治右衛門一氏が制を受けた湯舎会津屋もこの辺りでないのかなと想像される事だ。
 そこは、文化1年(1804)年頃、湯治に来ていた須永通屋(埼玉県)という方から和算を学んでいた所でもあり、山形から江戸に戻る途中に土湯に立ち寄った最上流の祖となる会田安明氏と出会ったところでもある。
 また、その出会いから江戸に出るのだが、故郷に戻って、文政2年(1819)に二本松藩に召抱えられるまで、度々二本松に出て和算を教えながら過ごしたところでもある。

 「中の湯」の写真の奥に橋が写るが、その向こうに現在「会津屋」という店があるが、これが、この「湯舎会津屋」とどうかかわるのか、あるいはかかわらないのかの手持ち情報はない。

 そして、先に「和算「最上流宗統派の系譜」から⑧」で、渡辺一の墓という標識を見つけたことがあったとしてふれた「土湯探索余談(2007/9/29)」も、この土湯温泉散歩だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/6236962/
 最近、この墓地近くに須永太宗兵衛通屋(享和二年七月十五日没)の墓があるとする阿部寛氏による情報を見つけた。
 この方なら、先に「文化1年(1804)年頃、湯治に来ていた須永通屋(埼玉県)という方から和算を学んでいた」と記した方のはずだ。ここ土湯で亡くなられたという事のようだ。
by shingen1948 | 2018-10-23 10:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 半沢氏の「歴史地図」をもとに土湯温泉辺りをウロチョロと散歩したのは、2007年秋頃だ。この散策をもとにして、今回和算について得た情報を加えてみる。

 まずは、確実な情報から。
 寛政3年8月に、和算家渡辺治右衛門一氏が土湯薬師堂に奉納した算額が復元されているという。 この算額が薬師堂に掲げられているとのことだ。
 この薬師堂については、「土湯温泉と高湯温泉③:薬師様(2007/9/24)」として整理しているが、確認してみるとこのことにふれていない。
 https://kazenoshin.exblog.jp/6211819/

 その復元された算額の写真を確認すると、末尾の「寛政三辛亥八月 最上流会田算左衛門安明門人 渡邊治右衛門一 印」の後に、次のような復元された趣旨が記されている。

 「原額は渡邊治右衛門一が故郷の薬師堂に奉納したもので時に二十五歳。当時薬師堂は土湯温泉発祥の名湯、中の湯の地に祀られていたが、度重なる洪水のために流出して幾星霜、昭和四十九年現在地に再興するに至る。奉納者の百五十回忌に当たり復元して懸額する。
昭和六十三年十月七日
         土湯薬師堂算額復元保存会
                  謹書 法井八夫」

 なお、「二本松市史」に記される算額の内容は、先に記した佐久間文庫などの記録をもとにしているとのことだ。

 散策時に整理した「薬師こけし堂の由来説明板」の解説と照らし合わせると、当時の薬師堂は、現湯本下の町の共同浴場「中の湯」辺りに鎮座していたということのようだ。
 御堂が流亡するのは大正2年8月27日の水害とのことなので、この原算額消失はこの時点でないのかなと想像される。
by shingen1948 | 2018-10-22 11:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 旧旧ニ本松街道近くで、和算家渡辺治右衛門の墓という標識を見つけたことがあった。
 「土湯探索余談(2007/9/29)」の記事でそのことについてふれたが、この方が、今回整理している二本松藩士最上流二伝渡辺一氏だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/6236962/
 この時には、その渡辺一の墓のある墓地らしいことまでは分かったのだが、渡辺一の墓そのものは分からないという事で、そのままになっていた。

 二本松市史の情報から、このことにかかわりそうな情報を確認しておく。

 まずは、二本松藩士最上流二伝渡辺一氏と土湯村との関りについての確認。
 氏は、保5年(1785)に土湯村の湯舎会津屋で生を受けている。
 そして、ここで、湯治に来ていたと思われる須永通屋(埼玉県)という方から和算を学んだとのことだ。これが19歳の時というから文化1年(1804)年頃だろうか。

 最上流の祖となる会田安明氏との出会いもここらしい。会田安明氏が、山形から江戸に戻る途中に、土湯に立ち寄ったとのことだ。この頃には、渡辺氏の名も奥羽だけでなく江戸にも知られるようになっていたとされる。
 ここで、渡辺氏の出題した問題を、会田氏は思ったよりも簡単な方法で解いてしまったという。それに感服した渡辺氏は、彼の弟子になるべく江戸に出たとのことだ。そして、最初の門人になったとのことだ。
 23歳の頃とのことなので、文化5年(1808)頃ということになるだろうか。

 この会田氏との出会いの話は土湯の散策資料にもあったのだが、そのままにしていた。その確からしさが伝説に近い話なのだろう思ったからだ。
 しかし、市史によれば、この事は渡辺氏の著書に書かれている事なのだそうだ。

 この後、氏は江戸に登るが、やがて土湯に戻る。
 この頃には、度々二本松に出て和算を教えていたようだが、文政2年(1819)には、二本松藩に召抱えられる。

 ここからが、渡辺一の墓があるらしい墓地とのかかわりも意識した情報の確認だ。
 氏は、二本松藩に召抱えられこの時に、嫡男を土湯に残し、後に二本松藩武衛流砲術家となり家禄を継ぐ二男未分氏を連れて着任したとのことだった。
 ならば、土湯の渡辺家を嫡男が継いでいるはずで、渡辺一氏の墓が土湯にある可能性はあるということだ。
 氏は天保10年(1839)72歳で亡くなるようだ。墓碑を探すなら、その法名もヒントになりそうだが、それが東嶽院不朽算額居士とのこと。
 ただ、二本松の情報では法輪寺墓地に墓碑があるということだが、こちらもあり得る情報だ。
by shingen1948 | 2018-10-21 09:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「西地区史跡文化財」の案内図に和算にかかわる史跡が4か所プロットされている。
a0087378_239388.jpg 今回「最上流宗統派の系譜」で整理した方々とのかかわりでふれたのが、このうちの「佐藤刻治碑」と「佐藤元竜碑」だ。
 ただ、「佐藤元竜碑」の碑文は確認できていない。また、ここで「佐藤刻治碑」とする碑を確認したとするのは、「福島のいしぶみ」では「佐藤刻治翁寿蔵碑」として紹介されている碑の碑文だ。

 佐藤刻治氏は、結局は田村郡佐久間佐久間纉の塾門人ということになり、最上流佐久間派ということになるのだろうと思う。しかし、それは佐藤元竜田氏が修天元術及天生法の修得を認められた上での話だ。その佐藤元竜田氏に認められた時点で、形式的にも算法印可を受けたかどうかは不明なのだが、その時点では最上流宗統派の系譜に近い認められ方という事になるのだろうと思うのだ。
 和算愛好にかかわる情報を探ると、佐藤元竜田氏の門人が明治35年(1902)2月に飯坂の八幡神社に奉納した算額が現存するとのこと。また、佐藤刻治氏が昭和5年(1930)に地元白山寺に奉納した算額も現存するとの情報も見る。どちらも確認はしていない。

 ここからは、和算「最上流宗統派の系譜」からということからは余談になる。
 「西地区史跡文化財」の案内図にプロットされる「阿部太七寿蔵碑」については、荒井村の散策時にふれている。
 この碑は、「土湯会津道を歩いてみる⑭~和算家と学校を意識する」で張り付けた写真に写る碑だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/21884427/
 この方の碑は「福島のいしぶみ」では「阿部(長安)翁寿蔵碑」として紹介されている。
 この時にもふれたが、この方は、数術を鈴木某氏に学んだ後、岳谷佐久間先生門でも数年学んでその奥を極め、家に戻って余暇に村の子弟を教育した方であることが、「福島のいしぶみ」で紹介される碑文からも確認できる。
 この方も結局は最上流佐久間派ということになるのだろう。ここでも、その研鑽途中の師が気になる所だ。
 この案内板で「鈴木梅次郎寿蔵碑」とされる方が、その鈴木某氏でないのかなと思うが、どうだろうか。この方の碑は、「福島のいしぶみ」では「深見(鈴木甚右衛門)翁碑」と紹介されている方だと思う。
 この方の碑が建つのが明治15年で、阿部太七寿蔵碑建碑が明治31年なので、矛盾はなさそうにも思う。

 この「深見(鈴木甚右衛門)翁碑」の碑文を確かめると、この方は文政5年生まれで、下村の須田信崇氏を師とするらしいことが分かる。
 その後、岩瀬郡吉田東光氏の門弟となるが、途中師が亡くなられたので、田邑郡の佐久間纉の門で学ばれるということだ。この方も、結局は佐久間派ということになるようだ。
 研鑽途中の師とされる下村の須田信崇氏が、最上流かどうかは分からない。

 地域情報で紹介される和算家はここまでだが、伊達地方の和算家情報中にこの地域近くの別の和算家が紹介されている。
 寛永6年に、信夫郡山田村の奈良輪甚内氏と土湯村の二階堂藤蔵氏が、伊達郡塚原村の三品丈之進常祐氏とともに渡辺一の門人とのことで、二本松の亀谷の坂町観音堂に師渡辺の追善供養の算額を奉納しているとの情報だ。
 この地域の和算文化の底辺の広さにかかわる情報として受け止めてよさそうに思う。
by shingen1948 | 2018-10-09 10:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回、「土湯会津道を歩いてみる⑭~和算家と学校を意識する」でふれた荒井小校長格佐藤元竜氏が、「佐久間文庫 由来」に和算の最後の花を咲かせた一人として紹介された佐藤元竜田氏なのではないかと想像してみた。
 「福島のいしぶみ」を眺めていて、この想像とかかわるかもしれない箇所をみつけた。
 「佐藤刻治翁寿蔵碑」だ。
 寿蔵碑というのは、生前に建てられた碑をいうのだそうだ。「土湯会津道を歩いてみる」として散策した時に撮った写真があった筈だが、今のところ見つからない。
 この碑文によると、この方は、田村郡佐久間佐久間纉の塾に5年間入門し最上流の奥義を極めて村に戻って小沢軒と号して私塾を開いた方のようだ。
 今回注目したのは、そこに辿り着く前の研鑽部分の碑文だ。

 次のように刻まれているらしい。
 特徴于数理 入同邨数学家佐藤田之門 修天元術及天生法 
 天元術及天生法を修めたのは同じ荒井村の数学家佐藤田の門だと解釈する。

 これを、今までの想像と結び付けてみる。
 まずは、「佐久間文庫 由来」で「最上流宗統派の系譜」で整理した方々の外に「佐藤元竜田」と表記される方がいらっしゃったことを確認した。
 次に、その方を半沢氏の「歴史地図」に和算家で医師であったと紹介される荒井小校長格の「佐藤元竜」氏ではないかと想像した。
 今回は、この荒井村に天元術及天生法が学べる佐藤田の門という数学塾の存在が確認できたという事だ。
 この「佐藤田の門」と称している数学塾が半沢氏の「歴史地図」に紹介される荒井小校長格の「佐藤元竜」氏の私塾と想像してよさそうに思ったのだ。その事で、想像の確からしさが高まったようにも思えるのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2018-10-07 10:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
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 藩学の基として、後に上杉鷹山が創設した興譲館へと受け継がれることになる学問所「禅林文庫」の開設に関わる九山禅師の墓は、土湯にある。
 先に土湯を散策した時点では、天地人とのかかわりを意識していなかったのだが、直江兼続が大河ドラマになるとのニュースから2007.10.27に「直江兼続と九山和尚」として一度整理した。
 福島県文化事業団なども、ブームに便乗して情報を流し始めたので、最近の天地人にかかわる情報をつなぎ直してみる。

 兼続は、岩城の九山禅師(妙心寺115世の高僧)と宇都宮で知り合い、九山禅師に金を与えて下野足利学校で勉強させていた。
 それを、米沢移封から17年目の1618年に、兼続は足利学校で学ばせていた九山禅師を呼び寄せて、後に法泉寺と名を改める禅林寺を創建し、米沢藩士の子弟を教育する学問所「禅林文庫」を開設する。ここにあつめた兼続の蔵書は、今でも貴重な文化財として残っているという。
九山禅師は、ここに京都天竜寺の名園をまねて庭園も造っているが、これを歴代藩主も愛し、上杉鷹山もこの庭園で詩会を催しているという。
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 兼続は、元和元(1615)年には、土湯に九山禅師の隠居寺となる興徳寺を建立している。創建当初は法得寺という真宗本願寺派であったが、途中から、臨済宗妙心寺派の興徳寺となったようだ。
 九山禅師がここに隠居してからも、藩主は、禅師の健康を気遣ったという。福島市内のお寺には、景勝の子 上杉定勝が九山禅師の健康を気遣う手紙が残されているという。

 兼続は元和5年(1620年)江戸屋敷で病死するが、九山禅師は、寛永13年(1636年)ここ土湯の興徳寺で没する。そのお墓が、土湯小学校西側の高台にある。

 つないだ源情報は、次の3つだ。
その一つは、戦国武将・直江兼続の情報や兼続ゆかりの地を、山形県米沢市から発信するという「直江兼続・米沢.com」。「法泉寺」で、九山禅師についてふれている。
 それによると、米沢移封から17年目の1618年に、兼続は足利学校で学ばせていた九山禅師を呼び寄せて、後に法泉寺と名を改める禅林寺を創建する。その寺内に米沢藩士の子弟を教育する学問所「禅林文庫」を開設したとのことだ。

 その二が、福島県文化事業団のホームページで、「九山禅師の墓」の写真に、次のような紹介文を載せている。
 学問修行の道場として米沢に禅林寺(その後に法泉寺と改称)を開山するにあたり、直江兼続が米沢に招いた九山禅師の墓所(福島市土湯)。兼続は、九山禅師の隠居寺として、元和元(1615)年に土湯に興徳寺を建立しています。なお、景勝の子 上杉定勝が九山禅師の健康を気遣った手紙が福島市内のお寺に残されています。

 その三は、地元の「宿六修行中」というブログ。
 ここでは開山年代から改宗理由についてについて推定をしていることを参考にする。
 九山禅師が米沢で開山した米沢禅林寺(現法泉寺)は元和4年(1618)の開山で、土湯の興徳寺建立より遅いことを、九山禅師を米沢に、招き入れるための足がかりとして、興徳寺を改宗させたのではないかと推定している。
by shingen1948 | 2008-12-30 06:28 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)

小峠古戦場を見つける

 赤湯からの帰り道、小峠古戦場の案内板をみつける。ここは、何度も通っているのだが、気が付いていなかった。
 その古戦場は別にしても、ここが土湯温泉から土湯峠に向かう古道の道筋とぶつかった所であることが推定できる。
 土湯温泉から土湯峠に向かう古道の道筋は、太子堂の所からだったのを思い出した。太子堂から会津への旧道を確認した時、旧街道についての説明をみつけた。
古道は太子堂から野地温泉に向かって進むのだが、その道筋はほぼ送電線に沿っているとのことだった。「高湯温泉と土湯温泉②:戊辰戦争の悲劇」
 その古道がここに繋がっていて、野地温泉に向かい、鬼面山の稜線を回り込んで、会津に向かったのだろうと推定がついた。
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 その古道の雰囲気を確かめるのに、少し下ってみて、そこからこの小峠を眺めてみる。


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 ここからは、古道の道筋が確かめられないので、少し下って送電線の走る道筋を確かめ、古道の道筋だろうと推定してみる。


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大峠をみあげてみる。


 案内板では、次のように説明している。
小峠古戦場

 会津街道を登りつめ小峠の頂上に立つともう野地温泉は谷一つ挟んで指呼の間に望め、視野を広げると鬼面山の稜線に大峠が望めます。
 この小峠は、慶應4年(1866)仙台藩を先発とする官軍が陣を構え、大峠に布陣する会津軍と対峙した古戦場で、当時の模様を「‥瀬上主膳を隊長として築州反50の兵を加えた850の兵を土湯に進め、会津街道小峠六合坂に陣を築いて、大峠の頂上で待ち構える会津藩と戦いを交えた。両軍の戦いの声は鬼面山にこだまし、撃ち合う大砲の煙はもうもうとたちこめて空を覆い、戦いは数時間に及んだが、夕暮れになっても勝敗は決まらず両軍はお互いに退いて、戦いは終わった」と伝えています。
 この戦いの後、8月2日土湯は兵火にかかり、明治2年4月川俣民生局に対して、「‥普請成兼ネ候故、71軒ニ、1軒分ノ金トシテ、参拾両宛…」として災害救助金物借願いを提出しています。
土湯温泉観光協会


 
by shingen1948 | 2008-06-19 04:44 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(7)

「民友の森」

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 「民友の森」に立ち寄った。入り口付近に駐車場はないので、道の駅に車を置いて行くことになる。
 きぼっこの森は、老朽化はしているが湿地を板敷きの道にするなど、人の手がかなり加わっている。民友の森は、下草を刈り払ったり、道に沿った木々を整理するなどはしてあるが、きぼっこの森よりは人工の手を控えている感じがする。


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 森の中は、ショウジョウバカマが咲いていた。


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 出口の道路沿いに、咲きかけた花をみた。よくわからない。

 山歩きの魅力を知るのは、人工から半自然の状態に誘われるのが出発点で、そこからやがて自然の状態に誘われていくような気がするという実感がある。
by shingen1948 | 2008-04-26 03:11 | ★ 季節便り | Comments(0)

「きぼっこの森」

 「きぼっこの森」は、気になってはいたが、立ち寄った事がなかった。立ち寄ってみようと思ったのは、高台から眺めたら沢が見えたことと、すっきりとした天候で森林の中に入り込んでみたいという気分だ。湿地の植物に期待がわいたこともある。
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入り口から、「サワギキョウの径」の案内されている方向へ回る。しばらく行くと、湿地帯に板敷きの道になる。そこが沢になっていて、水芭蕉が咲いていた。


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 板敷きの道は吾妻屋に向かう。そこから、右折して、山道に入る。その道の脇が沢になっているのだが、時々ピンクの花が目に入る。ショウジョウバカマだ。福島民報の「半田沼のショウジョウバカマが見頃」のニュースを思い出す。ここでも群生とまではいかないが、花が咲いていている。


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 出口近くに、ヤマザクラという標示があって気になる。
 ヤマザクラということにちょっと神経質になっているのは、昔ある高貴な方を案内された植物に詳しい方に聞いた話による。それは、ヤマザクラというものが、この地区で簡単に生えているものなのかどうかというようなことを聞いたような気がするのだ。それを簡単に紹介してしまう人がいて、はらはらして困ったというような話だ。幸い知っていても知らないことにするという細かい心遣いがあって、何事もなく済んだという昔話だ。
 その話を聞いて以来、よく分かりもしないのだが、ヤマザクラに引っかかる癖がついている。
by shingen1948 | 2008-04-23 22:30 | ★ 季節便り | Comments(0)

土湯の水芭蕉

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今週の月曜日、朝もやの中、土湯では水芭蕉の花が咲いていた。
写真としてはもやの中でぼんやりとしてしまっているが、実際は、このもやの中ということがいい雰囲気をかもし出している。


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水芭蕉が咲くのは、もうちょっと遅いという固定のイメージがあって、昨年は見逃している。多分、尾瀬がニュースで騒がれる季節感が染み付いているのだろう。5月初旬の水芭蕉を貼り付けておく。
尾瀬が水芭蕉ではなく、水芭蕉はその土地の季節に咲くという当たり前の感覚を取り戻す。


火曜日も立ち寄った。天候はすぐれなかったが、はっきりとした様子もいい。
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道路際にも何輪か咲いているのを見つけた。
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by shingen1948 | 2008-04-12 04:30 | ★ 季節便り | Comments(0)