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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 小森舘~鎌田舘の道筋は、耳取川筋でもある。
 台畑(南矢野目)周辺を歩くという視点では、台畑の台地を南側から回り込んだ道筋と、北側から回り込んだ道筋、それにその高台の峯を越えてきた道筋が、その台地の北東で合わさって、東に向かう道筋と、北のこの小森舘~鎌田舘の道筋でもあり、耳取川筋でもある道筋に向かうという五叉路を越えてくる。a0087378_10313414.jpg ここが、その五叉路だが、ここからは、充分に低地であり耕地とのイメージに納得できる地形になっている。
 昨日整理した道筋は、この五叉路の右の道筋を進んでいく。
 この五叉路から東に向かう道筋を進めば、小森舘から神社経由して信夫山方面に抜ける道筋と交差し、その道筋を進むと、北側の道筋と南側に回り込む道筋に分かれるのだか、その間に挟み込まれたところが、丸子条理遺跡だとか。北側の道筋を進んで、小学校にぶつかり更に北に折れて進んだ辺りが、石名田遺跡とされる。この辺り、古くから耕地として利用されてきたとされるようだ。
 報告書の遺跡分布をお借りして、今回と昨日整理した散策の道筋を確認する。
a0087378_1055220.jpg 会津にいた頃、親父の本棚から盗み見していた「会津の古代」の書物では、条理遺跡なる見え方には懐疑的な扱いがされることが多かった。それは、条理遺跡とされる土地の仕切りは、耕地として適切な大きさであって、必ずしも条理遺跡てあることの必要条件ではあるが、十分条件とはなりえないということだった。
 しかし、信夫の里では、条理遺跡と示されるものを、結構見かける。
 ここ信夫の里の古代が、歴史的にその可能性多いところというその土地特有のことかもしれないし、目にしていた書物が古いということかもしれない。
 いずれにしても、散策としては、古くから耕地として利用されてきた地で、条理遺跡の可能性もあるという見え方で充分満足。
by shingen1948 | 2013-04-19 10:57 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 昨日は「台畑遺跡」の福島市の弥生時代にかかわる部分を整理した。
 この時代、書物で確認する中では他の時代と負けない位にその足跡が紹介されるのだが、実際に散策して歩いていると、この時代の足跡は少ないと感じる。
 そのことを、マホロンの検索ページで確かめてみる。
 「福島市の弥生時代」を調査されている遺跡に絞って検索すると、瀬上の青柳、荒井の小沢南、八島田の勝口・前畑、下野寺の中ノ内、宮代の孫六橋、そして、この台畑遺跡だけらしいことが分かる。ここに、未調査地を加えても、平石の照内、庭坂の遠窪、それにこの近くの丸子の石名田と泉の道下遺跡の3遺跡が加わるだけらしい。
 「ふくしまの歴史」では、このうちの台畑遺跡の水田跡、青柳遺跡の再葬墓、それに、勝口・前畑遺跡のいろいろな遺物を使って「福島市の弥生時代」が紹介されているという状況のようだ。
 昭和42年発行の「福島のあゆみ」を確認してみると、飯坂大船山の開墾地、泉の道下・南沢又などから稲作にかかわる石庖丁が発見されたことなど遺物をもとにした紹介が中心だ。
 大船山出土の石庖丁は写真で紹介される。他に生活用具の紹介で、余目小学校所蔵の弥生式土器等が写真で紹介される。
 改めて「ふくしまの歴史」に紹介される遺物と見比べると、資料展示室所蔵の勾玉や勾玉造りにかかわる資料が新たに提示されて充実しているようだが、石庖丁については、勝口・前畑遺跡出土品と出土地不明の出土品、それに復元模造品が紹介されるのみだ。気になる出土地不明の出土品と「福島のあゆみ」の大船山出土の石庖丁とを見比べたが、欠け具合からはこれとは違うものらしい。ならば、大船山出土品や余目小学校所蔵の行方が気になるところかな。

 そういう中で、この台畑遺跡の弥生時代の水田跡は、福島市で一番古いということで紹介されるのだか、その時代のムラの痕跡はここでは発見されていないようだ。ここの中心は、奈良時代から平安時代のムラということのようだ。
a0087378_11364717.jpg この時代の連続性という視点に立てば、弥生時代から古墳時代の痕跡はここでは残っていないらしい。
 この台地にこだわってみれば、その裾野が広がる南側の位置に相当する冨塚前遺跡が気になるところかな。時代の連続性を意識すれば、この遺跡は古墳時代と鎌倉~室町時代の遺跡らしい。「ふくしまの歴史」では、そのうちの冨塚舘を中心に紹介される。関係があるのかどうかは分からないが、台畑遺跡が、弥生時代の水田と奈良時代から平安時代のムラの痕跡で、台畑遺跡の抜けた時代の生活展開痕跡がここにあるというのが興味深い事かな。
by shingen1948 | 2013-04-11 11:38 | Comments(0)
 台畑(南矢野目)の弥生時代の水田の痕跡に関わる遺物として土器と石庖丁が、「ヘルシーランド福島」に展示されているのをみつけた。a0087378_5174872.jpg
 展示される土器は、「ふくしまの歴史」にある「出土した土器から、弥生時代中期のものと考えられています」とある時代比定にかかわった土器かな?
 展示される石庖丁にはその出土されたとする表示はなく、弥生時代に使われた石庖丁といった感じの表示。「ふくしまの歴史」ダイジェスト版に、縄文時代から弥生時代にかけてつかわれていた石器復元品の写真が載っているが、それかなとも思う。
 それでも、本文の方に「福島市内では台畑遺跡だけでなく勝口前畑遺跡でも石庖丁が発見されているので、弥生時代に水田で稲作が行われていたことが分かります」とある。この遺跡から石庖丁が発見されたことは確かなことなのだろうとは思う。
 遺物の現物を直接目にすることができるのは、貴重かな。
 ちょっと気になるのは、ダイジェスト版では勝口前畑遺跡の遺物と紹介される甕の写真があって、それとこの甕の差異は素人には分からないなぁということ。
 

 「ふくしまの歴史」では、台畑(南矢野目)遺跡の弥生時代の水田の痕跡については、次のように説明される。
 
福島市で一番古い約2000年前の水田が発見されています。福島市内でも、弥生時代に米作りが行われていたのです。石や木の道具で水田を作り、農作業をしていたため、現在の水田から比べると小さな水田です。水田を作った人が生活をしたむらはみつかっていません。
 そこには、発見された弥生時代の水田の写真が掲げられる。その解説では、畦で囲まれた処で稲作を作るらしいが、その一枚の水田の面積は、大きいものでも11.3㎡、小さなものでは1.93㎡と紹介される。
 自分の感覚に近づけるのに勝手に畳で換算すれば、1畳~3畳の広さかな。

 散歩人としては、その位置が気になるところだが、本調査の遺構配置図と見比べれば、「台畑遺跡」遠景の写真にみえる調査区の南端近くのような気もするが、よくは分からない。
 台畑遺跡推定範囲内の調査は、宅地造成計画に伴う記録保存の必要とされるところが実施されたということだ。従って、遺跡としては破壊されることを前提としている。せめて、その位置が現況の地図でも確認できる情報としてほしいものだと思うが、一散歩人の勝手な思いでしかないかもしれない。
by shingen1948 | 2013-04-10 05:23 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
a0087378_1842113.jpg 「散策での感触」と「『台畑遺跡』遠景の写真」と「現況の地図」と「本調査の遺構配置図」とを見比べて、これらのおおよその重なりをイメージしてみて、平安時代の住居区域である台地と水田跡の境目附近を想像してみた。
 こんな感じかなと思うのだが、各報告を確認していないので曖昧な状態だが、散策を楽しむだけなので、概括的にイメージしたいだけだ。

 ここに、次の「ふくしまの歴史」の「台畑遺跡で発見された平安時代の水田跡の写真解説」情報と重ねてイメージしたいのだ。本文に「台畑遺跡(南矢野目)では水田の西の水路から墨書のある土器が数多く出土しています」とする部分だ。
 弥生時代から古墳時代にかけてのような小区画水田ではなく、1枚の田(1辺が約5~10m)は大きくなっている。水田の近くの溝からはまつりに使われたと思われる墨書土器が出土している。
 墨書のある土器が数多く出土した水路が水田の西という表現から、水田と居住地の道筋付近の水路らしきものを探せば、確かにそれらしきものは分かるが、それと関わるのかどうかは、今のところ分からない。
 ただ、水路らしきもの附近に水田と居住地の境の祭りの場を想定し、それに伴う墨書土器と勝手に想像させてもらってもいいのかなとも思う。

 古墳時代のムラとされる勝口前畑遺跡では、石製模造品と土器を並べた、祭りの場が水田と居住地の境で発見されたことに関わって、豊作を祈ってムラでまつりが行われていたのではとの推測が記されるが、ここでは「まつりに使われたと思われる墨書土器」という表現しかないわけで、勝手な類推のし過ぎかなとも思うが、どうなのだろうか?
by shingen1948 | 2013-04-09 18:11 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 遺跡紹介でよく見かける写真は、平安時代の住居跡があるとれる台地とその時代の水田跡とされる低地の様子がよく分かるとされる「台畑遺跡」遠景の写真。確かにそうなのだろうが、この風景に見慣れていない他所者にとっては、これが実際の風景となかなか重ならない。 
 それで、いろんな事を試す。
a0087378_5171682.jpg まずは、とりあえず南から見た風景と東側から見た風景の想定で風景を見る。ただ台地の東側が低地になっていて、ここに平安時代の水田跡との情報があるので、東側から見た風景の可能性が高いとは思っている。
 次に、本調査の遺構配置図の形と見比べる。その形状からも台地を東側から見ているのだろうとは思う。その発掘されている部分は、その形状から、高台の南側辺りだろうかとは思うのだが、この時点では自信がない。というのは、低地とされる部分は、確かに台地よりは低地ではあるのだが、散策した感じでは、周りの水田地帯に比べれば、結構高いというのではという感覚的なズレのようなものがあるのだ。

 気がつくまで時間がかかったが、虫眼鏡で拡大してみれば直ぐに解決。奥に新幹線の高架橋が写っていたのだ。台地を東側から見みた風景に間違いない。
 本調査の遺構配置図と見比べ直せば、解説がいう低地とされる発掘部分の右端が公園付近で、発掘されている台地部分は、現況のアパートが建つ前の道筋から南側だろうか。 
 ここは、台地の南端部分で、台地の大部分は当時の原形のままの状態と見える。台地と耕地との境界が、現況の福島商業からの道筋と重なって見える。
by shingen1948 | 2013-04-08 05:30 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 散策で得た台畑(南矢野目)周辺の感覚と、手持ち情報を重ねて見る。
 情報の一つとして、「台畑遺跡3」の報告書をみつけた。中心となるのは、平成13年度の報告だが、ここに、それまでの本調査と試掘調査の遺構配置図が載っていた。
 直ぐに目がいくのが、掘立柱跡とそれを点線で結んだ地点。それを目安に、ここから台地のムラの痕跡の広がりを想像してイメージを広げることができる。
a0087378_6531313.jpg
 この道沿いに台畑遺跡を確認すれば、ビニールハウスのある辺りから、つまりは台畑八幡の鳥居前辺りからこの遺跡の範囲とされるらしい。ただ、報告書をみると、その本調査が行われたのは、ここから東側の台地らしいことが分かる。
 その西端の地点から台地を眺めればこんな感じだ。掘立柱跡の多くの痕跡は、この左手かな。

 更に、「ふくしまの歴史」から「台畑遺跡」のムラの住居の情報を重ねる。
 「台畑遺跡」では奈良時代の終わりに、住居として使われたと思われる掘立柱跡が発見されています。竪穴住居と掘立柱建物とがムラの中にありました。ムラの中では竪穴住居と掘立柱建物とが同じ時期にあった事になります。
 掘立柱建物の使用目的が不明としながらも、有力者の存在を匂わせる。
 そのダイジェスト版からは、この時代のムラのでき方とかかわりが、以下のように読み取る。
 ここでは、奈良時代に台地近くの低地や台地上の開発がおこなわれ、台地にムラがつくられ、それが平安時代まで連続的に発展したとするのだが、その平安時代の痕跡としては、水田跡とのかかわりの中でのムラの推定を含むようだということ。
 台畑遺跡の台地上の住居跡痕跡という視点で、その連続性にかかわって整理すると、奈良時代の初期にはその痕跡はなく、その後期から平安時代にかけての住居痕跡とみるのだろうか。
 この事は、福島の他のムラの痕跡の紹介と照らし合わせると、その時代の連続性に特徴があるらしいことが伺える。
 例えば、同じ平安時代のムラの痕跡地であっても、五十辺・鎧塚・勝口前畑遺跡などは、古墳時代のムラの痕跡後、奈良時代のムラの痕跡はないのだが、平安時代には、またムラの痕跡が登場するということになるらしい。
 これ等と比較すると、「奈良時代~平安時代」の連続した時代のムラの痕跡ということも、この台地のムラの特徴ということかな。
 もう一つ、時代の連続性という意味では、弥生時代の水田の痕跡は残すが、古墳時代、奈良時代初期のムラの痕跡はなく、その後、奈良時代~平安時代の連続した時代のムラの痕跡を残すということでもあるかな。

 なお、この台地の奈良時代の初期の痕跡として、須恵器を焼いた窯跡の発見も紹介されるが、位置的な情報は今のところない。
by shingen1948 | 2013-04-07 06:58 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
a0087378_4492973.jpg 字富塚の雷神から大字丸子の冨塚と大字南矢野目の竹ノ内を分ける道筋をたどってくると、二手に分かれる道筋がある。
 そこを、その滑らかな道筋に沿って進むと、この名号の石塔が目に入る。その細道に入ってみると、そこが台畑八幡の裏手だった。その時に、台畑の高台にスムーズに入れたと実感。後で確認すると、二手に分かれた道筋も、その台畑八幡から抜ける道筋と重なっていた。
a0087378_45456.jpg
 この台畑八幡の鳥居から東側にみえる辺りから、奈良.平安時代とされる台畑遺跡が広がっているらしい。
 遺跡の紹介文を確認すると、8世紀中葉から10世紀の集落跡および弥生時代中期と平安時代の水田跡、9世紀代の居住の場と生産の場が調査されたとか。

 ここまでは、台畑の高台にスムーズに入れたことを視点に整理してきたが、その前の散策では、逆にこの辺りの高低差をイメージして散策している。そのイメージと今回の散策がつながって、ようやくこの辺りが実感できたということになるのだろうと思う。

 この台地に東側から進入すると、その高低差が実感できる。
 福島では最古の弥生時代の水田跡が発見された処というイメージにこだわると、高台を求めながらも、どこかで低地のイメージも求めているという複雑な感覚で歩いている。
a0087378_456243.jpg それで、堰沿いの道筋にこだわって歩いてみたりもしている。そこから、その堰の奥に足を踏み入れてみるという感覚で登ってみたのが、福島商業からの道筋だ。
 登って直ぐに「台畑」のアパート名を見つけ、地図で散策する前に「台畑」の地に入り込めたという感じがあったようにも思う。それで、その奥の道筋まで意識が進み、この道筋をたどって、今回の道筋の逆コースをたどって冨塚まで抜けている。
a0087378_4585966.jpg
 今回の散策と先の散策が結びついたなと実感したのは、東に進んでやや下り道になった付近に公園を見つけた時だ。先の散策では意識していなかったのだが、ここから各方面に道筋が走っている。

 「ふくしまの歴史」に「ムラが発見された台地の東には低地があり、平安時代の水田跡が発見されました。平安時代には子の低地で稲をつくった事は間違いありませんが、奈良時代の水田跡は発見されていません」という記載がある。
a0087378_521346.jpg この公園から高台をみれば、こんな感じだ。高台から降りてくれば、ここから東側の道筋が下りの道筋となるということと、「ふくしまの歴史」がいう「台地の東には低地があり」とあるその境界線が、この公園あたりなのではないかなというイメージだ。
 詳細は知らないが、少なくともこの公園が散策の目印にはなりそうだなと思う。
by shingen1948 | 2013-04-06 05:30 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 13号線から4号線に抜ける道筋は、基本的には「歴史地図」にある「昭和初年農民救済道路」なのかなと想像する。現在は改良が進んでほぼ直線の道路だが、自分の感覚では、旧道と思っている道筋がそれに当たるのかと思う。
 その道筋を地元の方の感覚を想像しながらたどれば、向原から冨塚までは、大字丸子と大字南矢野目の境界に沿った道筋になっていて、大字丸子の冨塚と大字南矢野目の台を真っ直ぐ道筋を通して、そこからまた大字の境界に沿って道筋が引かれているというイメージだろうか。a0087378_6425665.jpg ただ、自分も含め、ここを通る者にとっては、現在では改良された真っ直ぐに4号線に抜ける道筋という感覚だ。地元の方にとっては自然な感覚かも知れないのだが、この感覚で進む他所者にとっては、この雷神の石塔が何かを主張しているように見えて気になる。
a0087378_6433877.jpg それで、この石塔から風景を眺めれば、ここから北に大字丸子と大字南矢野目の境界に沿った道筋の延長線らしき道筋が見えてくる。
 この大字丸子の冨塚と大字南矢野目の竹ノ内を分ける道筋をたどってみると、これが高低差の少ない道筋で、そのまま台畑の高台に導かれる。

 地形にかかわる感覚は、開発された風景で見失っていたのだが、その感覚を少し取り戻したように感じる。
 その感覚で概括的にこの地形を見直してみると、台畑の高台は、西側から舌状にはみ出している大地であるらしいということだ。この大字丸子と大字南矢野目の境界に沿った道筋は、その高台の尾根に相当するところを走っていたと思われる。

 高台に平安時代の住居跡とされる遺跡があるという情報は、頭では既に納得しているのだが、そこを歩いて、その高台に自然に導かれたことで、平安時代の住居跡のある台畑ということが、感覚的にも納得できたように感じているということのようなのだ。
by shingen1948 | 2013-04-05 06:58 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 この辺りは、何度も散策しているのだが、整理していない。その一つの理由が、手持ちの情報と自分の持ち合わせの感覚とのずれのようなものだ。違和感とまではいかないが、今まで散策してきた感覚との間のギャップのようなものだ。今回、素直にその感覚と情報のギャップを視点にしてもいいかなと思ったので、整理してみることにした。

 中心的な違和感は、土地の高さに関わるもののような気がする。
 ここは、松川が形成した下位砂礫の段丘だといわれ、少なくとも丸子よりも高台の位置にある。従って、平安時代の住居跡とされる遺跡のあるところという情報には素直に納得できる。ところが、ここは福島では最古の弥生時代の水田跡が発見された処とか、住居跡の東側には平安時代の水田跡も見つかっているという水田跡の情報があるのだ。その水田のイメージにここが似つかわしくないという違和感だ。a0087378_58989.jpg
 ここは、商業高校前の信号付近から高台を眺めているところだが、その高台の縁に沿って水路が顔を出す。多分、矢野目堰の支流にかかわるのだろうと思う。
 水路に着目するのは、その高さにかかわる高低それ自体の目印であるとともに、感覚的に高低差を見失った地点の等高線の目安になるとも思うからだ。
 地図でこの流れを確認すると、字富塚あたりから顔を出している。そして、その水路沿いに道筋が見える。福島の小字で確認すると、冨塚を過ぎて字台付近からは、これが大字丸子と大字南矢野目の境界になっているような気もする。ここを境に、大字南矢野目の字名が字台で、字台畑は更にその上になる。台畑は、近世の時代の水路よりも高い位置ということで、これが水田というイメージが結びつきにくかったのだ。

 なお、この辺りの高低差を見失いがちなのは、開発が進んだことで、主要な道筋が改善されたこともある。道筋の改善にとどまらず、クロスした道筋では、一方の道筋を跨ぐように改良されたりしていることもある。また、優先順位によって、一方の道筋を閉じてしまった処があるのも、連続的に風景を感じられなくなった要因の一つにある。
by shingen1948 | 2013-04-04 05:30 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)