人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

上条古墳群付近②

 先に上条古墳群付近を散歩した事については、整理していると思っていた。
 本宮市庚申壇古墳の現地説明会に出かけたのは、2007年頃だったろうか。この古墳は、古墳時代中期以降における福島県中通り地域中部の有力首長墓群である七ツ壇古墳群の中の一つの古墳で、墳長約40mの前方後円墳とのことだった。
a0087378_424921.jpg
 この発掘調査の前に、上条1号墳の発掘調査をしていたとのことで、その報告書を確認して散歩した。現況では1号墳しかないが、報告書では、他の消滅した古墳群の位置も示されていたので、イメージを膨らませながらその辺りを散歩した。
 現在、震災の影響で図書館が完全復旧しないので、気軽に資料確認ができないが、その時の記憶では、この付近から115号線国道付近にかけての範囲に分布していたということだったはず。
 「ふくしまの歴史」によれば、その2号墳(円墳15m)の横穴式石室から金銅製圭頭太刀の柄頭(6世紀後半~7世紀前半)・八窓倒卵型鐸・鐸の金具・ガラス製小玉が出土したとあるが、今はその2号墳の位置記憶はあいまいだが、それらの遺物を念頭でイメージと結び付けて散歩したはず。
a0087378_4352570.jpg
 上条1号墳は、見た目は、二つの丘陵があって、その北側の丘陵の石積みの上に祠があるというような状態だが、これが「6世紀後半に築造された墳長46mの前方後円墳」とのことだ。

 丘陵の石積みに見えるのが、「後円部の横穴式石室が一部露出」した状態ということだ。
 その埋葬施設の横穴式石室は、一枚石の奥壁を持っていて、その床面に礫が敷かれていたということだったらしい。
a0087378_4372277.jpg
 その内部の様子が見える写真が、2008「福大考古学室所蔵資料特別展示」案内ポスターにあった。

 「ふくしまの歴史」の発行を確認すると平成17年(2005)だ。僅か数年の間の記述される内容に変化があることを実感する散歩でもあった。 

 なお、この近くの「日向古墳群」を散歩したことについても整理していないのかなと思ったら、こちらは、「忘れ去られる古墳群」①~「日向古墳群」 として、整理してあった。
by shingen1948 | 2012-02-27 05:20 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)

散策と情報

 散策で直接体感したことを基盤にして、それにかかわる情報を整理するというのが、実感を膨らませる。
 そうはいっても、最近は、散策にかかわる気になる情報が多い。
 遠くの奈良桜井茶臼山古墳とか、邪馬台国とかかわる纒向遺跡とかの話はさておくにしても、県内でも、湯川桜町遺跡とか、棚倉町流廃寺跡寺の遺跡など散策にかかわるニュースが次々と報じられる。

 直接体験と情報が結び付いて実感が膨らむという意味で気になったのが、鈴木氏の寄稿だ。
 「桜井茶臼山古墳と大彦命」と題したその寄稿文を読むと、奈良桜井茶臼山古墳の発掘調査の話が、単に遠くの話ではないということのようだ。題して「会津ゆかりの将軍埋葬?」とある。(「福島民報」2009/11/23)
 桜井茶臼山古墳とメリス山古墳は、出土品や規模形式が共通で4世紀初頭と前半に造られたとみている。副葬品から将軍的な性格は明らかで、大王陵との差異はないが陵墓の伝承はない。
 このことから、被葬者を大王に次ぐヤマト政権内の最高の権臣だとし、大彦命と建沼川別命ではないかという。
 大彦命を、崇神天皇の将軍とみると、この古墳が会津と結びつく。
 大和国家誕生時に、父子の王族将軍が北陸道・東海道を進んで出会った土地に「相津」と名付けたとされるからだ。

 巡り巡って、自分の散策とも結びつく。大塚山を散歩している。この大塚山は、古墳時代の前期には、会津地方で畿内とほぼ同時期に前方後円墳が作られ始められていることとかかわるのだ。
 ここに、情報のかかわりをつなげると、今年の10月に現地説明会があった湯川桜町遺跡の発掘の成果が最古からということの証になるようだ。
 湯川桜町遺跡の弥生後期の周溝墓から古代前期の前方後方墳、前方後円墳の発展が会津の地で確認されたということになるようだ。

 遠い存在と感じる情報を、身近に引き寄せていただいた。
 散策で直接体感したことを基盤にして、それにかかわる情報を整理するという手法のためには深い見識からのヒントを得ることも必要なようだ。
by shingen1948 | 2009-11-30 08:18 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 古墳にかかわって散策すると、無意識に貴重なのは古いこと、大きいこと、前方後円墳など権威を誇ることなどとに興味を持ってしまう。
 しかし、新しいことと次の時代の古いことが重なるということに目を向けて、散策してきたことを実感でつなごうとすると最後期であること、衰退していることや貧弱であることも魅力になる。
a0087378_5294836.jpg
 この古墳で興味深いのは、この新山古墳群は、古代の静戸郷を治めていた有力者の墓と考えられるということだ。
 案内板では、「古代の郷名は静戸郷にあたる。梁川町においては唯一の古墳帯であり、阿武隈高原西麗における最北隅の貴重な古墳群である。」といい、マホロンのこの新山古墳の性格を「有力者の墓 ※梁川町指定史跡」としている。

 散策を整理するのに、古代のこのあたりの様子を確かめる。
 この信夫近隣には、伊具(宮城県伊具郡・角田市)、思(おもい)(宮城県亘理郡)、阿尺(あさか)(福島県郡山市)、染羽(しねは)(福島県双葉郡)、白河(福島県白河市)に国造がおかれたということが分かる。
 ちょっと気になったのが、信夫国造の姓だ。姓氏姓制度では血縁を表す氏と職務を表す姓が定められたそうだが、信夫国造は久麻直(くまのあたい)。従って、信夫国造の姓が直(あたい)ということなのだ。

 これが、自分に勝手な想像を誘う。
a0087378_5303033.jpg

 今回発掘調査説明が行われた舟橋北遺跡は、周りに奈良から平安時代にかけての遺跡があり、米の倉らしきものがあったということだ。その遺跡の中で発見された土器に刻まれた文字が、「直刀自」だ。
 「刀自」についての説明は聞いたが、気になってきたのが「直」の方だ。
 専門の方はそんなことは百も承知のはずで、素人が口を出すことではないことは分かっているが、それでも気にはなる。
by shingen1948 | 2009-11-29 05:37 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)

新山古墳

 散歩の楽しさは、そこに訪れたことで、実感が得られるという楽しさだが、全く知らない状況で、突然目の前に史跡が現れるという偶然訪れる楽しさもある。
 新山古墳との出会いは、その偶然見つけた楽しさだった。
a0087378_4574137.jpg
 梁川に自転車で来る時には、阿武隈山地の縁をたどってくる。それは、東根堰を捕える積み重ねの意味と、堰は等高線沿いに走るので、移動が容易であるということによる。
 そこを通っているときに、新山古墳の案内標柱に出会って、導かれるままに進んでみた。


a0087378_503459.jpg
 しばらく山道を登っていくと、左手に、案内板が建っている丘があった。


 近ずいて確かめると、梁川新山古墳群の概要とその位置を示す地図だった。

 梁川新山古墳群(4基)
a0087378_5509.jpg

 梁川町文化財第6号(史跡)
 昭和49年12月18日指定
 一 名称 新山古墳群(4基)
 ニ 所在地 梁川町大字細谷字新山地内
 由来
 新山古墳群は、ここより徒歩10分約1000mの地点にあり、昭和49年3月14日より8日間に互って発掘調査を行ったもので、この古墳は、8世紀末、奈良時代末期頃と推定され、(AD774年)胴張り(三味線胴)横穴式石室で出土品などからみて、この地方の首長の墓であり一部追葬が行われている。
 古代の郷名は静戸郷にあたる。梁川町においては唯一の古墳帯であり、阿武隈高原西麗における最北隅の貴重な古墳群である。
 梁川町教育委員会

a0087378_510582.jpg
 案内板の地図をたよりに進んでいくと、直ぐに分かったのが、2号墳と3号墳だ。
 白い標柱が中央に見えるが、これが2号墳で、その右手奥に見える標柱の所が3号墳だ。


 後で確かめてみると、マホロンの「ふくしまの文化財」にもこの古墳群が紹介される。
a0087378_5155885.jpg
 その説明の中で使われている写真が、この2号墳の石室だ。
 そこでは、この新山古墳について以下のように説明している。
 「棺を収める部屋(横穴式石室)がある直径10m前後の円墳が4基発見されており、石室内からは龍をかたどった飾りのついた直刀の鍔(つば)が発見されています。」


a0087378_5202195.jpg
 その西側に4号墳が紹介されているので、そちらを眺めると西側の丘に標柱が見える。
 目星をつけて、丘を下りて行く。
 背の高い草の中を漕いで、傍まで近づく。


 ここまで確かめると、なぜか全部確かめようという気になる。
a0087378_5263082.jpg
 もう一度案内板に戻って、4号墳と2.3号墳の感覚を頭に描きながら1号墳の位置に目星をつけて、2.3号墳に戻る。
 そこから東側に進めそうな道を探す。
 耕地の中にありそうだ。
 躊躇しながらも、そちらに向かうと、途中で、お年寄りのバイクに出会う。
 御挨拶をして少し話しこむ。
 時期は早いがエンドウの種蒔きをするのだとか。


a0087378_53068.jpg
 何故か満州の話が出て、その話を聞くことになる。話が途切れたところで、一号墳に近づかせていただく。
 貴重な史跡だと言うが俺にとっては宝ものでも何でもないと、お年寄りの話。


 この古墳群は、8世紀末とのことなので、古墳時代の最後期で、次の時代とのつながりを想像するのに良さそうだと勝手に思う。梁川の舟橋北遺跡も古い時代を想定すれば、この時代とつながらなくもなさそうだとも勝手に思う。
 伊達市内の古墳には、この他に愛宕山古墳群、大泉みずほ古墳群があるという。
a0087378_5391014.jpg
 全部といいながら、3号墳が抜けている。ここにそれを貼り付けて、話を福島県という範囲を大きく広げておく。
 古墳時代の前期、会津地方で畿内とほぼ同時期に前方後円墳が作られ始められる。それが、中期(5世紀)となると、会津地方よりもむしろ中通り地方で多く古墳が作られるようになるようだ。
 伊達市を含む福島盆地でも、数多くの古墳が作られているようだ。
 これは、5世紀末には、福島盆地も大和朝廷の支配下に入ったということであり、大和朝廷勢力圏の北限として信夫国造が置かれたという話につながることだ。
by shingen1948 | 2009-11-28 05:43 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)

王壇古墳

 阿津賀志山防塁現地説明会が中止だったので、ここから梁川に抜けながら、散策していこうと思った。

 防塁に沿って走る道から、南側の道に抜けて、それから梁川方面を目指そうとしたら、「活性化センター」脇に王壇古墳へ導く案内板を見つけた。指示されるようにその角を曲がって進んだら、右手の人家の前に小さな円墳が現れた。
a0087378_5194315.jpg
 案内板の説明によると、古墳時代末期の7世紀頃に築造された円墳とのことだ。墳丘の南と西に幅2~3mの周溝が残っていて、その周溝の内側の線と墳丘の中心とした直径15mの大きさを測定したという。古い文献等から、この辺りには数基の古墳があったらしいが、現在はこの1基だけが残ったとのことだ。

 町指定史跡
 王壇古墳
 平成5年10月1日指定
a0087378_5223545.jpg
 本古墳は国見町大字西大枝字大壇地内の平地内に位置し7世紀頃(古墳時代末期)に構築された。
 周囲は阿武隈川沿いに発達した段丘上の平坦面が広がり、墳丘の上には松の古木があり王壇の松として親しまれていたが昭和20年代に枯死した。現在のものは平成5年に植えられた2代目である。
 明治期の西大枝村丈量図によればこの付近には更に数基の古墳が存在していたが、現在残るのはこの1基のみである。このようなことから古墳群を形成していたもののうち松がある1基が残されたものと思われる。
 平成5年の調査の結果によれば現在残る墳丘の南と西で幅2~3mの周溝が確認されている。その周溝の内側の線は墳丘を中心としたほぼ15mの円形を呈しており、本来は直径15mの円墳であったものと推定することができる。
 このように本古墳は西大枝地区に残る唯一の古墳であり、重要な文化財として今日まで地元でも親しまれている。
 平成16年12月
 国見町教育委員会

 丘の周溝とのかかわりも大切にしながら保存されているようだが、遺物の説明はない。
 
 最初に国見の古墳を訪ねたのは、塚野目第1号墳(八幡塚古墳)だ。これは、古墳時代中期の築造で、主軸68mの大きな前方後円墳だ。そのことについては、「国見町の八幡塚古墳を訪ねる」として整理した。
 その他に、森山古墳、堰下古墳なども見て、それぞれ、「国見町指定史跡『森山第4号墳』を訪ねる」・「堰下古墳を訪ねる」として整理した。
 この王壇古墳も、観月台の公民館で紹介されていて知ってはいたが、ここに導かれたのは偶然だ。
by shingen1948 | 2009-11-18 05:26 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(3)

大塚山古墳④

 この大塚山の南斜面には、大窯があり、天目茶碗や碗、菊花の押印の皿、窯道具が出土していて、東日本で、唯一の天目茶碗を焼いた可能性が高いとのことだ。
 焼き物についてよく知らないので、検索していたら、考古学から見た「会津の歴史」に詳しく紹介されていた。
 それによると、天目茶碗を焼くことのできる大窯というのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家、蒲生氏郷氏郷の5大名ぐらいしかできない窯だということらしい。
 関わったと思われる候補者として、蒲生氏郷、蒲生秀行、上杉景勝を挙げている。職人として、前田家から職人を推定しているのも面白い。
a0087378_5255333.jpg
 大塚山古墳にある「一箕地区の文化財」の地図には、「村北瓦窯跡」がプロットされて紹介されている。実は、この窯跡は、昨年旧道の感覚を試して歩いている時に偶然見つけた。
 出土遺物と窯元との関係を見てみたいという程の探究心もなかったので、そのままにしていた。
 この機会にいろいろ検索してみたら、石田明夫の「会津の歴史」のページに、会津最古の窯跡で、古代の瓦と須恵器を焼いた「村北瓦窯跡群」という紹介をみつけた。それによると、会津若松市河東町の郡山遺跡から出土した平瓦「雷文縁複弁蓮華文軒丸瓦」の窯元という重要な位置づけらしい。7世紀末から8世紀前半にかけての瓦を焼いた窯跡5基と須恵器を焼いた窯跡1基の合計6基の窯跡群とのことだ。
 それこそ、風景的には、ただの丘でしかないのだが、整理しておくことにした。

 次のような、案内板は立っている。
 市指定文化財(史跡)第25号
 昭和47年11月1日指定
 史跡
 村北瓦窯跡
a0087378_5274195.jpg この史跡は、昭和45年6月14日から6月30日にわたって実施された居合団地造成に伴う埋蔵文化財発掘調査の結果発見された、古代の瓦窯跡である。5基発見され、内部か出土した古瓦等より貴重な資料として、保存のため1~3号までの3基が埋め戻されて残されている。
1号瓦窯跡 長さ4.50m幅1m高さ0.80m
2号瓦窯跡 長さ7.70m幅0.80m高さ0.8m
3号瓦窯跡長さ7.50m幅0.80m高さ0.8m
 この窯は、地下式登り窯の構造を有するもので、窯としては最初のものである。奈良時代に瓦を焼いた跡といわれ会津地方では唯一の古瓦関係の遺跡として重要なものである。
 平成6年3月
 会津若松市教育委員会

by shingen1948 | 2009-09-14 05:29 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)

会津大塚山古墳③

 ここに登る途中に、ここから遠望できる古墳が紹介されている。また、近くの遺跡の紹介が表示されていて、見方を深めさせてくれる。これも、今年新たに工夫された表示だ。
a0087378_516241.jpg
 こちらの方向は、自分にとっては二本松裏街道の旧滝沢峠方面だ。滝沢本陣を挟む二つの山が古墳だとのことだ。その片方が飯盛山で、もう一方が堂ケ作山という。


a0087378_5175949.jpg
 自分の目で見てみるとこんな感じの景色だ。
 地元の方々の感覚では、背あぶり山系ということらしい。背あぶり山自体はテレビ塔等のアンテナがあって直ぐに分かる。
 この古墳は、案内板によると古墳時代前期の大型前方後円墳で、大塚山古墳よりも古いとのことだ。


 飯盛山は、白虎隊自害地とその墓のイメージが強い。それ以外の歴史は、その強いスポットライトの影になり見えにくくなっている。この山の山頂が古墳であるという案内は、自分の意識の中から、それ以外の歴史への興味をあぶり出す効果を受ける。そういえば、中世の館でもあるという話も聞いた。

 改めて飯盛山の白虎隊の情報を消し去ってみると、標高314mの弁天山で、厳島神社が鎮座した信仰の山という景色も見えてくる。
 この厳島神社は宗像神社と称して、永徳年間(1381~)に勧請され、歴代の領主芦名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科氏から崇敬されていたという。特に会津藩主松平正容は社領の寄進や社殿の建立などを行ったと聞く。西国三十三観音が祀られているさざえ堂は、正宗寺の別当で寛政8年(1796)の創建という。
 これらが、例の明治政府の神仏分離令で正宗寺が廃されて厳島神社と改名され、それまでの信仰が見えにくくなったというおまけも見えてくる。


a0087378_5263999.jpg
 「会津地域の歴史」(簗田直幸著)によると、この大塚山の近くには円墳や横穴古墳も近接しているという。また、この山は、大塚山城跡、中世居舘跡、会津大塚山窯跡なども存在して、遺跡の宝庫でもあるという。
 「会津若松市史」では、東北最古の古墳の原型を損なわずに物見が設けられ会津でも良好に遺構を残す大きな山城の側面もあるとしている。山の南側から西側に遺構が平場、土塁、堀が残るという。
 案内板は、それらを散策するヒントも与えてくれている。
 なお、この大塚山館の主は、葦名氏家臣石塚氏とも聞くが、よく分からない。
by shingen1948 | 2009-09-13 05:27 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
a0087378_446354.jpg
 今年の補助の案内板で、その規模が実感できるようになったが、もう一つイメージできるようになったのが、埋蔵施設だ。そのイメージを助ける表示がもう一つある。墓地の休憩所にある案内の中のこの写真だ。

 この表示は、去年見つけたのだが、そのことを整理していなかった。今回の表示の工夫と合わせると、具体的にイメージできるようになった。


 昨年掲げられた古墳案内は、次のようなものだ。
a0087378_4473954.jpg
 古墳は、この管理棟の裏側(南側)約170mの丘陵頂部(標高約270m)に存在します。
 昭和39年(1964年)に発掘調査が行われました。形は前方後円墳で、規模は全長114mで、会津地内で第二位の大きさです。
 棺は朽ち果てていましたが、後円部のほぼ中央に2基並んだ状況で2人が葬られていました。南側の棺の 埋葬後に北側の棺が葬られており、形態は竹を二つに割ったような割り竹形木棺と考えられます。
 棺の中には、鏡・太刀・剣・やじり・靫(ゆき:矢を入れるもの)などの武器や武具・斧・刀子などの農耕具・勾玉・管玉の首飾りをはじめとして多くの品物が供えられていました。
a0087378_4501297.jpg 特に南棺から出土した三角縁神獣鏡は、単に人を写すものではなく、権威のシンボルとしての意味が強い品物と考えられています。縁の断面が三角形で、内側に3つの神像と2つの獣、その外側に唐草文があります。この鏡は国内で生産されたもので、岡山県鶴山丸山古墳から出土した鏡と同じ鋳型でつくられたことが知られています。
 出土品は国の重要文化財に指定されており、県立博物館に展示されています。
 古墳の造られた時期は、今から1650年ほど前の4世紀中頃と考えられています。
 葬られた人は、古墳の形や規模と出土品から、大和政権と強いつながりのある会津盆地を治めていた豪族と思われます。


 この案内を受けて、補助の案内板によって観察をして、改めて主体の案内板を読むと、納得したような気にさせられる。
 会津盆地の東側にある比高30mの独立丘陵上に造られた柄鏡式の前方後円墳で、全長114mの規模を有する。
 昭和39年、市史編纂のために発掘調査が実施され、主軸と直交する二つの割竹型木棺が検出された。その副葬品には三角縁二神二獣鏡、三葉環頭太刀、直弧文を有する靭など379点が出土した。
 古墳の造営は4世紀末と推定され、東北地方では最古に属する古墳に位置付けられている。この被葬者は会津盆地を治めた首長と考えられ、その副葬品から当時すでに、畿内の大和朝廷と密接な関わりをもっていたことが推定される。

 埋蔵文化財は、景色としては単なる山であったり、丘であったり、野原であったり、……。
 散歩で楽しむには、こういった案内板の工夫がいい。郡山の大安場古墳のように、復元して公園にするのも具体的にイメージする方法の一つではあると思うが、逆にイメージを損なう側面も持つように思う。それに比べれば、この案内の工夫はすぐれた方法に思う。
 ここでゆっくり散歩をすると、博物館にあるという遺物を見てこようかという気分になる。それがもっと近くで、それだけの展示だったらもっといいだろうが、それは小さな行政区でしか実現できない贅沢なことなのかもしれない。
by shingen1948 | 2009-09-12 05:22 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)

会津大塚山古墳

 今年の夏に会津へ出かけことについて整理している途中で、適時性を考えて別の整理に入った。しかし、もう少し整理しておきたいことがある。その一つが、大塚山古墳についてだ。
 この古墳は、東北にはその時代に古墳があるはずがないと考えられている中で解明された古墳という位置づけがあるらしい。それが波及的に、中通り浜通りの古墳の時代の仮説に影響を及ぼしたということだ。福島県の古墳のシンボル的な存在らしい。
 ちょっとおじけるところがあって、散歩人として興味を棺桶の蓋にした。
 「8月の忘れ物②:棺桶の蓋を見て」、「大塚山の山頂:前方後円墳の円墳部の興味」と、散歩で思いついたことを勝手に書いていた。
 それを、「福島県立博物館紀要第11号」で「会津大塚山古墳 南棺と北棺」(藤原妃敏・菊地芳朗)と題する論文に出合ったことで、少しその価値が実感できててきて、「大塚山の棺桶の蓋」として不謹慎に見ていた景色をどう見ればよいかということで少し整理した。

 今年の夏に出かけてみたら、この古墳の辺りは整備が進んでいて、楽しく散歩できそうになっていた。
a0087378_540739.jpg
 後円墳部に行ける道の近くには、前から案内板があったのだが、その他に、現地の様子が分かりやすいように、補助的な表示板が整備されていたのだ。

 前から後円墳部は分かりやすかったが、前方墳部は、ちょと分かりずらいところがあった。それが、この補助案内板で分かりやすくなり、更にその他の古墳との位置関係もより明確になった。
 この補助の案内板が、後方墳部端の北側と2号墳から南西の方墳端に向かう道の中間あたりに設置された。
a0087378_5431863.jpg
 その案内板によるとこの辺りが、北側の方墳端あたりと思われる。


a0087378_5451041.jpg
 今まで一続きとしてイメージしていたが、これが、2号墳ということのようだ。


a0087378_5474917.jpg
 ここが、南側の方墳端あたりのようだ。


 漠然とこの辺りが古墳らしいと思っていたことが、もう少し明確にイメージできたことで、その規模の実感を持つことができるようになったということだ。

 昨年も整理しなかったが、散歩をする人に親切に案内する工夫は、昨年から実感はしていた。
by shingen1948 | 2009-09-11 05:54 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 案内板にある「この付近は、多くの古墳があって七ツ坦とも言われていたが、現在は庚申檀・金山・天王檀・二子塚の4つの古墳が残っている」とある。行政区としては、金山・二子塚が大玉村、庚申檀・天王檀が、本宮市に所属する。
 大玉村史では、この辺りを「地蔵堂古墳群」として紹介している。その地蔵堂は今はなく、紹介からみると随分開発が進んではいる。地元の感覚では本宮から岳温泉へ向かう道沿いのごく当たり前の普通の景色でもあるらしいが、他所から来きたものにとっては充分散歩が楽しめる。
 
 この古墳群の中の天王壇古墳からは、多くの埴輪等の出土遺物が出土している。その出土品は、本宮の「歴史民俗資料館」で見ることができる。庚申壇古墳から出土した円筒埴輪や朝顔型埴輪も完全な形を見ることができる。
 そこを訪ねた様子は、先に「天王壇古墳の出土遺物の展示を見る。~本宮の「歴史民俗資料館」」として整理した。
a0087378_542341.jpg 
 今回立ち寄ったのは、六社山古墳群の辺りだ。
 この辺りを知ることのできる手持ちの資料は古い。この山を縦断する道路や村の運動場ができる前の資料で、現在の地形と照らし合わせてイメージするのに時間がかかった。今でも、まだ頭の中がよく整理されてはいない。


 六社は、今の神原田神社のことだ。
 境内に建つ「神原田神社12神楽」を紹介する案内板に、この神社について以下のようにふれている。
a0087378_562777.jpg
 大山地区には古くから豪族が居住していたことから、地方でも最も古い由緒ある神社と考えられる。またこの神社には源義家戦捷祈願の伝承がある。(この神社は)6社大明神を祀る神社で、地元では6社様の名で長く親しまれてきた。社殿は、文政年間に改築されたものであるが、当時は『安産の護り神』として近郷からの参拝者が多かったようである。明治になり「神原田神社」と改称した。


 この辺り、今は村の運動施設があるのだが、その前が大山中学校だったようなのだ。その大山小学校建設に伴う遺跡破壊と保存の様子について大玉村史に紹介されている。


a0087378_514123.jpg
 その大山中学校が建設された頃の様子から、古墳に関わる記述を抜いてみると「昭和28年に福島大学が忠霊塔前に残る石室他円墳二基を発掘調査した」とある。多分その忠霊塔の前の石室というのが、ここだと思う。
 これって、今回見せていただいた木棺用の墓だなと一人で勝手に納得。
 円墳は、忠霊塔の南脇に1基、その西に1基残っていたという。そして、その西方に小円墳二基あったが、この時点で畑になって消滅していたと記述されている。


a0087378_5274057.jpg
 これは、この辺りの石を払いのけたものらしい。宝の山かもしれないが、怪しまれるのでいじるのは遠慮する。


a0087378_5191183.jpg
 六社山を南側から眺める。


a0087378_5194698.jpg
 この眺めの南側には、墨所土器がたくさん出土したという大畑遺跡が広がっている。


a0087378_5233081.jpg
 これは、六社山を東側から眺める。
 この東側には、県の企画展冊子に生産遺跡として紹介された「住吉B遺跡」がある。


 その北側には、原形はないが昔は庚申壇古墳から金山古墳、天王壇古墳までの辺りと似た古墳群の景色があったはず。
 位置的に分かりやすいのが、谷地古墳。これは、大山小学校校庭の南端のやや高まりになっているあたりだ。そして、そのすぐ西側の信号のある民家辺りが久遠壇古墳。これも今はない。それに現存する南東側の二子塚古墳と合わせてイメージすると、昔は本宮から岳温泉へ向かう道沿いの古墳群と似たような雰囲気ではなかったかと想像を膨らませることができる。

 この辺りは、調査が入らない所でも散歩人が勝手に想像を膨らませてしまう所がいくつかある。例えば大壇という所は、調査時では縄文の狩場らしい跡しか見つかっていない。しかし、その住所や畑に横たわる大きな石などからひょっとするとと想像している。想像は自由だ。
by shingen1948 | 2009-09-10 05:32 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)