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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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阿保原地蔵尊⑥

 白石市三沢の阿保原地蔵菩薩像は、圓福寺を開基した海運法印の遺言によって建立されたとのことだが、北沢又村斎藤逸平次、斎藤源三郎の両名が何故そのお姿を写して北沢又に建立させることになったのかは分からない。
 まず、いろいろな情報から、その時間的な経緯を整理する。

 真言宗熊野山圓福寺開山は、慶長19年(1614年)のようだが、ここは刈田郡三澤村陽善寺廃寺跡だったようだ。
 この寺を開基するのが海運法印で、当時18歳(慶長元年4月8日生まれ)だったという。この海運法印は、寛文7年(1667年)8月24日に72歳で遷化するのだが、その遺言によって阿保原地蔵菩薩像が建立されたということになっているようだ。
 この三澤村真言宗熊野山圓福寺は、一時廃れるようで、海運法印の死後70年を経た頃、法眼によって中興されたとの推定があるらしい。海運法印の死後70年ということは、1737年(元文2年)頃ということかな。
 その中興した圓福寺も、慶應4年・明治元年(1868年)に排寺となるようだ。

 「白石噺」の宮城野と信夫姉妹の父与太郎が、片倉家中志賀団七によって、阿保原地蔵付近の「通称大師堂の一本杉」で惨殺される話があるらしい。
 その与太郎の娘二人が、仇討ち祈願を阿保原地蔵尊に行なったとするのが、半世紀後の享保3年(1818)とのこと。
 これを西暦で逆算すると、「通称大師堂の一本杉」で惨殺が、享保3年(1718)ということになる。享保3年で逆算すると、元和4年(1618)ということになる。いずれにしても、海運法印開基の真言宗熊野山圓福寺の時代ということになる。
 西暦が正しければ、仇討ちの1818年は文化15年で、法眼によって中興された圓福寺の時代ということになるかな。

 さて、北沢又の阿保原地蔵尊建立は、明治4年という事なので、中興した圓福寺が慶應4年・明治元年(1868年)に排寺になって直ぐの頃ということになるようだ。

 経緯的には整理しても、北沢又の阿保原地蔵尊建立とのかかわりまでは分からないままだ。ただ、煙草とのかかわりはなさそうだとは思う。
 経緯的な可能性としては、海運法印とのかかわりと、元文2年頃(1737)に中興し、慶應4年・明治元年(1868年)に廃寺になった圓福寺とのかかわりが考えられそうかな。勿論、それとは全く別の理由もあり得る。
 絞り込めないのだが、三澤村の地元では海運法印が上保原縁の方との見方があるようなので、それも考慮すれば、海運法印とのかかわりの可能性が高いという見え方が自然かな。
by shingen1948 | 2014-09-23 17:46 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)

阿保原地蔵尊⑤

a0087378_1029458.jpg 「阿保原地蔵尊」に足を運ぶ人々の多くは、虫歯や口の病に苦しむ人々で、祈願の際には煙草(たばこ)の葉を線香代わりに供えて手を合わせると病が治るとされてきたらしい。ただ、この「阿保原地蔵尊」の風景の中では、煙草とのかかわりを感じることはない。祈願の仕方を受け継いでいるという事ではないのか、当方に見落としがあるのかは分からない。

 その阿保原地蔵尊の祈願の仕方について「民俗学者・柳田國男の書で、阿保原地蔵の言い伝えが紹介される」と解説されていたが、「青空文庫」で確認できる。
 民俗学者・柳田國男の書というのは、「木綿以前の事(柳田国男)」のことのようで、その全文が「青空文庫」のページに掲載される。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53104_50767.html
 阿保原地蔵の言い伝えがかかわるのが、その中の「女と煙草」の項だ。その項の最初から、阿保原地蔵の言い伝え辺りまでを引用させていただく。後半の太字部分が、阿保原地蔵尊の祈願の仕方とのかかわりと思われる。
 女が煙草を吸うということは、そう古く始まった風習でないにきまっているが、奇妙に日本人の生活とはなじんでいる。このあいだも旧友の一人に逢って、その細君が小娘の頃、ひらひらの簪(かんざし)などを挿して、長煙管(ながキセル)をくわえていたことを思い出しておかしかった。この婦人の里は村の旧家で、広々とした囲炉裏の間にめったに人も来ず、それにおかあさんが心配の多い人で、始終煙草で憂いを忘れようとしていたらしいから、そのお相手をしていて覚えたのかと思われる。今一つの記憶は、これももう老婆になっている親類の家内が、嫁に来たときには私の家を中宿にした。どんなお嫁さんかと思って挨拶に出て見ると、それはそれは美しい細い銀煙管で、白い小さな歯を見せて煙草をのんでいた。こういう光景はもうおそらくは永久に見ることができぬだろうと思う。
 数年前に私の家のオシラ様を遊ばせに、奥州の八戸から来てくれた石橋おさだというイタコは、何がすきかと聴いたら煙草だと即座に答えた。この女は十五の年にはもう煙草を吸っていた。だんだんと眼が悪くなってきたとき、何とか院の法印さんが祈祷をしてやるから、煙草を断ちますという願掛けをせよと教えてくれたけれども、私は見えなくなってもようござんすからと謂(い)って止めなかった。そうしてついに巫(みこ)になったのだから、この女などは少しかわっている。
 しかし私はこの話を聴いて、ふと気がついたことが一つあった。琉球の旧王室では、以前地方の祝女(のろ)の頭(かしら)たちが拝謁に出たときに、必ず煙草の葉をもって賜物(たまわりもの)とせられたことが記録に散見している。宮古や八重山の大阿母(おおあも)などは、危険の最も多い荒海を渡って、一生に一度の参観を恙(つつが)なくなしとげることを、神々の殊なる恩寵(おんちょう)と解し、また常民に望まれぬ光栄としていた。そういう人間の大事件を記念するものが、たちまち煙となって消えてしまう一品であったということは、何かまだ我々の捉え得ない隠れた力が、この陰にあったからであろう。それがこのおさだ子の話によって、少しずつたぐり寄せられるように、私には感じられたのである。

 陸前の登米(とよま)で生まれた人の話に、この人の父は毎朝煙草をのむ前に、そのきざみを三つまみずつ、火入れの新しい火に置いて唱えごとをした。「南無阿保原(なむあほばら)の地蔵尊、口中(こうちゅう)一切(いっさい)の病(やまい)を除かせたまえ」と言って、その煙草を御供え申したのだそうである。阿保原の地蔵は刈田(かった)郡にあるというが、私はまだ詣(まい)ったことも無くまた書物などでも見たことがない。こういう信仰行事は他にもあることであろうか。もう少し例を集めてみたいものと心がけている
 以下略すが、具体例として、信州北安曇郡の郷土誌から、北城村の切久保の鬼女と煙草の話、秋田県北部雪沢村の枝郷の黒沢部落の鎮守様が煙草嫌いだった話、蘇我馬子と関係づけられていた天然の煙草という意外な信仰の話等々がつけ加わる。
 そして、お神酒と煙草の恍惚感の心持の共通性から、地蔵様にお神酒と煙草をお初穂として供えようとする趣旨の共通性を考察し、香と信仰との年久しい習慣にも結びつけられそうだと結ぶ。
 その後も、日本人のきれぎれの生活ぶりの注意深い観察から、強い感覚が何らかの形で表れているものを感じ取り、言葉として残らない深く古い体験の痕を読み取ろうとする試みが続く。

 全体的におもしろそうで、はまって読み進めてしまいそうだが、確認は阿保原地蔵尊がかかわるここまでにする。
by shingen1948 | 2014-09-22 10:32 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)

阿保原地蔵尊④

a0087378_8115273.jpg 阿保原地蔵尊の線刻部分だが、写真に修整を加えてみてもなかなかそのお姿が浮かびあがらない。とりあえず張り付けておくことにする。

 この阿保原地蔵尊の原点と思われる白石市三沢の「阿保原地蔵尊」についてネットで検索すると、結構多くの情報が集まる。
 目にしたページの中では、その多くの要素を概括的に紹介されているページが「ぴあはーるおすすすめドライブプラン」の詳細ページ
 http://www.viajar.jp/pc/index.php?layout=spot_dialog&gid=mPATotAOmduRmDMN5d6PmtaQmxM
 阿保原地蔵堂
 「孝子堂」から東南に向かって県道を進むと、田園地帯の中にひっそり建つ寺「天桂院」があり、境内に地蔵堂があります。時は慶長(1596-1615)の頃、大鷹沢三沢の円福寺の和尚が、「口の中の病に苦しむ者は我が霊にお参りし祈願すれば救う」との遺言を残しこの地に葬られたといいます。虫歯や口の病に苦しむ多くの人々が「阿保原地蔵尊」に足を運び、祈願の際には煙草(たばこ)の葉を線香代わりに供え、手を合わせると病が治ると親しまれてきました。「阿保原地蔵」は他にも各地にあり、民俗学者・柳田國男の書でもその伝説に触れられています。地蔵堂のそばには、片倉家の招きで天保の大飢饉後の領内復興に尽力した二宮尊徳の高弟・倉田耕之進の書が彫られた「湯殿山」の碑があります。
 「阿保原地蔵尊」に足を運ぶ人々の多くは、虫歯や口の病に苦しむ人々で、祈願の際には煙草(たばこ)の葉を線香代わりに供えて手を合わせると病が治るとされてきたらしいことが分かる。
 案内にあった「阿保原の意味は不明であるが口中一切の病平癒に霊験あらたかな地蔵尊として信仰を集めてきた」という解説と重なる。
 この言い伝えは、民俗学者・柳田國男の書でも触れられると紹介されるが、便利な時代になったもので、その柳田國男の書の内容が「青空文庫」で確認できる。
by shingen1948 | 2014-09-21 08:12 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)

阿保原地蔵尊③

 阿保原地蔵尊は、「阿保原」+「地蔵尊」であることは直ぐに分かる。
 案内では、この「阿保原」をどう解釈するのかは不明であるとする。多分、それは専門的な話で、本当はいろいろな解釈が存在するのではないのかなと思っている。
 正直に言えば音的に感じてしまったのか、自分は不謹慎ながら「阿保」+「原」のイメージがつきまとっている。
 ただ、想像は勝手だという範囲での話だが、まじめな話としては、「阿」+「保原」ではないのかなという風に思っている。何となく「阿」って大事にされているはずだよなという思いと、説明の上の梵字が「阿」だよなと思ったことが根拠と云えば根拠。
 「デジタル大辞泉」の解説で、「阿」を検索する。
 その中の「4梵語の第一字母aの音写。あ‐うん 【×阿×吽】・あ‐じ 【×阿字】」がイメージ的に重なりそうかな。そう思って、【×阿字】を確認すると、次のように解説されている。
 阿字
 梵語字母の第一字,およびそれによって表される音。密教では,阿字はすべての梵字に含まれており,すべての宇宙の事象にも阿字が不生不滅の根源として含まれていると考える。 → あじほんぷしょう【阿字本不生】
 「あ‐うん 【×阿×吽】を確認すると、次のように解説される。
 阿吽
 梵語のaとhUmの音写。「阿」は口を開いて出す音声、「吽」は口を閉じて出す音声。
 1梵語の12字母の、初めにある阿と終わりにある吽。密教では、この2字を万物の始めと終わりを象徴するものとし、菩提心と涅槃などに当てる。
 2仁王や狛犬などにみられる、口を開いた阿形 (あぎょう)と、口を閉じた吽形(うんぎょう)の一対の姿。
 3 吐く息と吸う息。呼吸。
 4相対・対比など相対する二つのものにいう語。
 あじほんぷしょう【阿字本不生】を確認すると、次のように解説される。
 阿字本不生
〘仏〙 密教の根本教義の一。阿字は宇宙の根源であり,本来不生不滅すなわち永遠に存在するということ。この真理を体得する時,人は大日如来と一体化すると説く。 →阿字

a0087378_15512854.jpg 阿保原地蔵尊の裏面碑文で読み取れるのは、中央上部に「明治4○年7月○月」と下部右から「南沢又村(?)」「開眼○○」「慈徳寺」、次に、「北沢又村」「発願人」「斎○○○」と「○○源○○」、次に「世話人」が読めるが、他はちょっと読めない。世話人に、 「大笹生」が見えるような気もするが分からない。

 案内によれば、この阿保原地蔵尊裏面碑文には、明治4年当時の北沢又村斎藤逸平次、斎藤源三郎の両名が発願人となり白石市三沢の「阿保原地蔵尊」のお姿を写して建立させたことが記されているとのことだ。それに、当時の光徳寺は14世住職であったという情報も案内される。

 その原点は、白石市三沢の「阿保原地蔵尊」である事が分かる。素直に、その白石市三沢の「阿保原地蔵尊」を確認してみることにする。
by shingen1948 | 2014-09-20 15:55 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)

阿保原地蔵尊②

 表の案内板では、「当所鎮座の7基の石塔のうち最東端が「阿保原地蔵尊」の御尊像」と紹介されるが、裏の配置説明では、阿弥陀如来供養塔・子育地蔵菩薩・阿保原地蔵尊・阿弥陀如来像・勢至菩薩供養塔・金毘羅大権現供養塔・弁財天供養塔が並び、昭和63年12月6日に開眼式を行ったと解説される。
a0087378_9545684.jpg 実際の配置は、その裏面の解説のようになっているようで、案内されている「阿保原地蔵尊」は、東から3番目というか、恐らく中心に鎮座するように配列されているようだ。こちらは、案内板が古い時代の写真だが、松の木の直ぐ脇が阿保原地蔵尊だ。
 案内板が真新しくなっただけでなく、この松の木も切られているという変化もあるようだ。
先に何度かこの「阿保原地蔵尊」のお姿を見せて頂こうと表面の汚れを布でふきとらせていただいたことがあった。
a0087378_9555571.jpg 案内板にある「表面に『奉 仙臺阿保原地蔵尊 像也口中一切之病心願成就世須登言事奈志』との碑文が刻まれ」ることの確認は、直ぐにできたし、その下に地蔵尊菩薩のお姿が線刻されているのも確認できたが、線刻の地蔵尊菩薩のお姿自体はやや不明瞭だった。

 裏面を確認させていただいたりしている時に近所の方に声をかけられたのは、不審者とみられたのは明らかで、ほとぼりが冷めるまで暫く近づくのをやめていた間の変化だ。
 ここは、夏の季節は散歩の途中で休まれる方も多いように思えたので、今の季節はいいのだがちょっと心配だなと思うのは、余計なお世話かな。
by shingen1948 | 2014-09-19 09:57 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)

阿保原地蔵尊

a0087378_17395246.jpg ここは、北沢又の松川沿いににある阿保原地蔵尊などの石仏や供養塔碑が並ぶ区域だが、最近ここを通ったら、ここに建つ案内板が真新しくなっているのに気がついた。
 ただ、案内される内容は、先の古い案内板と見比べて見ると、その違いはなさそうだ。

 阿保原地蔵尊の由来
a0087378_17412828.jpg 当所鎮座の7基の石塔のうち最東端が「阿保原地蔵尊」の御尊像である。
 表面に「奉 仙臺阿保原地蔵尊 像也口中一切之病心願成就世須登言事奈志」との碑文が刻まれ、その下に地蔵尊菩薩のお姿が線刻されている。
 宮城県白石市の天桂院境内にも、阿保原地蔵尊が堂内に祀られているが伝承によれば慶長年間同地の円福寺住職の「自分の死後佛として祀られるなら口中の病で苦しむ人を助けてあげよう」との遺言によって土地の人々が建立したものと伝えられている。
 阿保原地蔵尊は裏面碑文の通り明治4年当時の北沢又村斎藤逸平次、斎藤源三郎の両名が発願人となり白石市三沢の「阿保原地蔵尊」のお姿を写して建立させたことが明らかで、当時の光徳寺14世住職によって開眼された7月20日を祭礼の日と定めて今日に至っている。
 阿保原の意味は不明であるが口中一切の病平癒に霊験あらたかな地蔵尊として信仰を集めてきた他の6基の石塔は南沢又上河原阿弥陀堂にあったものを太平洋戦争後当地に移した江戸時代の供養塔である。
 昭和61年7月20日
 別当 瑠璃山光徳寺
 阿保原地蔵尊奉賛会

by shingen1948 | 2014-09-18 17:43 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 延命地蔵堂前に建つ案内柱に、「のちに信徒の拠り処として建立されたのが延命地蔵堂で、延命地蔵尊と千手観音を祀ってあります」とある。
 そして、ここには「此僧ハ羽州五台山文殊菩薩(米沢)之折誓し、仏法の真密を悟る近世の名僧」の墓である「五台遍照独国大和尚」と大書した石塔があったという状況設定。
 疎いのでよく分からなかったが、詳しい人には、これらの状況からよくある風景だと見えるらしい。

 禅宗では、昔は高僧の死後に、その弟子が師の徳を慕って、 墓塔のほとり(頭)や敷地内に小さなお堂を建ててその墓を守るというのは、ごく普通に行われていたことらしい。一禅僧一代限りが禅寺の原則だったということにかかわるらしい。
 それなら、延命地蔵堂は、そういった感覚の名残なのかなというのが、散歩人の勝手な思いだ。

 ネットに流れる「女川町誌」の情報では、もう一カ所、光徳寺が独国和尚寄寓の地だとして紹介される。女川三十三観音の23番瑠璃観音に鉄五郎という方がかかわり、その氏が光徳寺近くにお住まいだった方とのかかわりから調査されたということらしい。想像するに、無涯氏と同じように、西国三十三観音の地とかかわらせる作業に従事された方ということだろうか。福島側の資料としては「福島市史」近世Ⅱに「南沢又の光徳寺・中町の塩沢無涯・常光寺などに寄寓し」とあることしか確認できない。確からしさは定かではない。
 それで、先には「信夫の里の狐達」のイメージにかかわる支障のない所だけ引用をさせていただいた。今回は、引用先を明らかにしているので、その「沢又邑に於ける独国和尚」の項をそのままお借りする。
 光徳寺住職小池正孝師の語る所によれば、独国和尚は住職ではなく暫く寓居して居たらしい。誠に質素であるが地方の信望が厚かったそうで、特に祈祷がすぐれて居て㈠或年旱魃のためこの寺から数丁南の小池に於いて、村人が雨乞いをした。神職数名熱意をこめて祈祷したが、聊かも気配だに見えない。そこに独国が黒染の衣を着て現れ、私が試みようと言って何か熱心にお経を読み、そして終わると声高に気合をかけ払子を池中に投げ入れたら、間もなく大雨が降って来たと伝えている。㈡生き物は殺してはならないと言い、着物を洗濯する時は先ずシラミを拾って紙に包み置き、それから洗濯してかわくとそれに振りかけて着たという。又庭の草を取る時は、むしり取るのは残酷だと言って、必ず抜き取るか堀り取ったという。遺物は地方民に数本の軸物と愛用したという黒塗りの経五寸もある椀があるという。書幅は見たが椀は所蔵者不在の為め見ることが出来なかった。鉄五郎は剣道に秀で、大和尚の伴侍として諸国を巡ったが、四倉に婿入りして世を終わった人物である。
 女川町教育委員会が整理する独国和尚略歴は、以下の通り。
 宝暦12年(1762年)    女川浜鍛冶屋(木村家)に生まれる
 享和 2年(1802年)   塩沢無涯(利作)と出会う
 文化 4年(1807年)3月 差塩  妙典-字石-行三霊塔建立
 文政 7年(1824年)   三十三観音建立(女川山地内)
 文政 8年(1825年)   金比羅大権現碑建立
 文政13年(1830年)    福島県川寒の塩沢家で入寂
by shingen1948 | 2013-03-20 07:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 福島の散歩資料で気軽に「信夫の里の独国和尚」像をみることはできない。
 それで、ネットに流れる「女川町誌」の情報をもとにして、福島の資料でその確からしさを確認したところだ。その中で、「川寒金福寺跡地蔵堂」の独国和尚については、おおよそ福島の資料で確認できそうであり、確からしさの確率も高そうだなと思っている。

 ただ、微妙なところで見え方の違いも感じる。例えば、独国和尚と信夫山とのかかわりだが、「女川町誌」では、薬王寺とのかかわりとみえるらしい。これが、散歩人の勝手な想像では、廃絶した羽黒山寂光寺と見えている。
 「信夫の里の狐達」とのかかわりで、そう見たいという思いがあるのかもしれない。確認を通してイメージする信夫の里の独国和尚像は、山を修行の場とする修験者で、信仰のある山に深く関わることで行者名が伝えられた方なのではないかと勝手に想像するということもある。
 そのイメージを持って「福島市史」近世Ⅱを確認すれば、真淨院は元々霊山の遍照寺だが、慶長年間に上杉氏の重臣平林蔵人の持寺になったかかわりで、廃絶した羽黒山寂光寺の支配権を併せ持ち羽黒山真淨院とされた経緯が解説される。護摩執行も薬王寺と真淨院が各年交代だったという経緯らしいことの考慮だ。
 金福寺は真淨院末寺とされる。それなら羽黒山寂光寺の末寺金福寺が、羽黒山真淨院に委譲されたものと見たいという勝手さだ。

 本当は、地域の人々には寺格への拘りなどもあるだろうから、散策人は控えるべきことなのかもしれないとも思う。その板倉氏当時の寺格に関わりそうなのは、常光寺・満願寺・薬王寺・真淨院の4ヶ寺と稲荷神社を持って4寺1社制を定めていることだろうか。
 弟子の塩沢無涯の計らいと帰依者の希望で、独国和尚の遺骨は各所に分骨されるようなのだが、その分骨先や無涯氏にかかわる塩沢家の拘りでも、このことと無縁ではなさそうだとも思う。
 なお、この独国和尚の弟子塩沢無涯氏の塩沢家は、元々上杉氏の家臣で、上杉氏が福島に移った時に越後の塩沢から一緒に移られたとのこと。
by shingen1948 | 2013-03-19 05:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_9121727.jpg  これは、北沢又の地蔵堂の北側の石塔等の風景だ。
 最初に見た時には、付近の路傍の石仏等がここに集められたのだろうと思っていたのだが、どうもそういう事ではないらしい。
 「福島市史」近世Ⅱでは、「特に福島・石城・米沢(亀岡文殊)に普教(布教?)の遺跡がある。」とし、「北沢又の川寒金福寺跡地蔵堂」では「五台遍照独国大和尚」と大書した石塔をその遺跡とする。しかし、それだけではなく、この地域の古老の話としての情報によれば、ここには三十三観音もあるとのことだ。
 その情報によれば、三十三観音は、地蔵堂の右側(北側)に高さ1尺2・3寸の観音像が30余体並列してあるとのことだ。数えてみれば、確かに33のようではある。整然と並んでいるなとは思ったが、三十三観音との意識はなかった。

 塩駅無涯氏が福島駅中町の人で、独国和尚が金福寺住僧という情報と重ねれば、「差塩良々堂三十三観音」と同じように、「無涯氏が西国三十三観音を巡礼し、西国のご本尊と同じ形の石仏と十六羅漢を移して、西国三十三観音の堂下の土を携帯して定礎に収めた」ものなのかも知れないなとの想像が膨らむ。
 更に、この地蔵堂には、独国和尚の遺骨が埋葬されているという状況らしい。
 独国和尚の遺骨は、塩沢無涯の計らいと帰依者の希望で各所に埋葬されたようだが、ここもその一つになっているとのことらしい。観音信仰者にとっては、素敵な処なのだろうなと想像する。

 ただ、ここに建つ案内柱には、「後に、信仰の拠り処として建立されたのが延命地蔵堂」とある。それなら、この三十三観音と称されるのは、和尚の教えをもとに屯人が建てたものということになるのかな。それなら、これ等が建立されたのはその時点という可能性もなくはないのだが、単に路傍の石仏等をここに集めたということではなさそうだということではあるのは確からしい。
by shingen1948 | 2013-03-18 09:22 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_7524470.jpg
 独国和尚は、信夫の里を中心に活躍されたようだが、散歩資料の中で登場するのを目にした事はない。「福島市史」とか「信達一統志」とかといったお堅い書物の中の方である。
 ただ、ここ信夫の里を離れたところからの散歩情報からその名にお目にかかる事がある。例えば、県内では、いわき地方の散歩情報。
 出かけた事はないので、情報としてだが、「差塩良々堂三十三観音」という処の案内板には以下の解説があるとか。
 その昔、僧丹が開基、良々堂山願王堂を建立した。
 その後、寛政年間に宮城の僧独国によって開山された。文政のはじめに三十三観音建立を発心、弟子の無涯和尚をして西国三十三観音を巡礼させ西国のご本尊と同じ形の石仏と十六羅漢を移し、西国三十三観音の堂下の土を携帯して定礎に収めた。近郷近在の信仰心の助力によって同13年寅の中秋(およそ190年前)に完成、良々堂三十三観音と称す。而して、この地方の人々が遠い西国まで行かなくても、この地で西国三十三観音の巡礼ができ、いやが上にもその功徳を居民に示し、平常心を養うこと今に至っております。
 この良々堂山三十三観音の一周およそ三キロで、所要時間は二時間足らず。弘法大師と共に同行二人、西国三十三観音を忍ぶ巡礼が疲れを知らずに楽しむことが出来ます。
                          平成5年7月 山主
 「宮城の僧独国」と紹介されるのは、「福島市史」に「女川の人」とあることに重なり、その出身地を示していると思われる。
 ここには、もうお一人「弟子の無涯和尚」が登場する。「福島市史」では、「南沢又の光徳寺・中町の塩沢無涯・常光寺などに寄寓し」とあることと重なる。この中の、「中町の塩沢無涯」という方と重なり、この方が独国和尚の弟子という関係ということだ。
 別情報では、独国和尚は、文政13年(1830年)に 福島県川寒の塩沢家で入寂されたという情報がある。
 これらの情報を重ねれば、独国和尚の弟子塩沢無涯は、川寒にお住まいだったが、明治期には中町の方にお移りになったのかなと想像する。

 なされたお仕事の一部も想像される。
 この地に三十三観音建立を建立するため、西国三十三観音を巡礼して、西国のご本尊と同じ形の石仏と十六羅漢を移すことと、西国三十三観音の堂下の土を携帯して定礎に収めるということをなさったということのようだ。
 「福島市史」に、「曹洞禅を学び、後天台密教を修め、関西、奥羽など諸国を遍歴し」とあるその諸国を遍歴の様子が具体的にイメージされる。
by shingen1948 | 2013-03-17 07:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)