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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:八木田 ( 12 ) タグの人気記事

吉倉→八木田散歩⑫

 「ぐるっと吉井田」には、「有角石斧の出土品」が写真で紹介されている。
 半沢氏の「歴史地図」に有角石器が吉井田小学校に保存されているようにメモされていることから、この出土品は、発掘調査以前に元々の小字鎧塚地点で出土したのではないかなと勝手に想像する。

 「鎧塚遺跡(下鎌遺跡)」の地形を、荒川(須川)との関係性を意識してみれば、河岸段丘上のように見える。そして、その南側が、吉倉村の耕地整理で開発された水田が広がる。見方を変えれば、その開発から取り残された風景のようでもある。その理由が、村境である事と微高台地なのだろうと想像する。しかし、その地形的な特徴こそが、古墳時代から平安時代(1600年~1100年前)の福島盆地の拠点的な集落跡と重なる理由でもあったということなのだろうと思う。
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 遺跡の南側の吉倉村の耕地整理で開発された水田の中に、3m四方の小高い丘が残る。これも取り残された風景だが、そこには山ノ神が祀られている。この辺りの小字山神の元になるものかなと勝手に想像する。
 山ノ神が祀られる辺りの消えた小字を確かめると、その丘の南側辺りが「小字南山神」で、その丘の北側辺りが「小字北山神」のようだ。
 小字を確認していたら、西環状線を挟んだ明治時代に吉井田の役場があったという小字上八木田の南側にも山神とかかわる小字を見つけた。「小字山神後」、更にその南に「小字山神前」。ただ、その辺りでは山神様は見なかったような気がしている。小字と共に山神様も消えたかな。

 その小字を通して「鎧塚遺跡」附近の地形とのかかわりで気になったのが、塚の付く小字名かな。
 「小字鎧塚」もその一つだが、現在はその小字鎧塚に取り込まれているが、元々の小字鎧塚の北側に、小字石塚が見える。更に、墓地の附近が「小字大壇」で、その北側が「小字大塚」かな。

 ※消えた小字「小字上八木田」について確認したこと
 方木田村・八木田村・仁井田村・吉倉村が合併して吉井田村が誕生するようだが、その吉井田村の明治27年時点での役場が、この小字上八木田にあったとのことだ。更に、大正9年時点の吉井田村道路元標位置が、その小字上八木田8という情報がある。
 その小字上八木田自体は消滅しているが、「福島の小字」で確認でき、八木田神明神社の直ぐ東側の位置であることが分かる。ただ、その8の地点がどこかは分からないのだが、散策した道筋なのだろうと想像しても大きく違える事はなさそうにも思う。
by shingen1948 | 2013-11-22 07:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

吉倉→八木田散歩⑥

 半沢氏の「歴史地図」には、榎内から西高の西側にかけて、斜めに「このあたりにも旧河床の段丘が残る」とのメモがある。
 しかし、実際に歩いてみると、その形状が曖昧である上に、河床かなと思って歩いていると、その先が段丘の形状になっていたりしていて、この辺りの地形を統合的にイメージができたとは言い難い。
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 ただ、榎内の段丘を意識し、西高の南側のラインが河岸段丘というイメージを頭に置いて歩くと、感覚的には、2か所を定点としてイメージしたうえで、その間の地形の変化という捉え方になって、何となく分かったような気分にはなる。
 これが、その西高の南側の段丘と思しきラインを東側から眺めている。水路に橋がかかっていて、その南側が墓地になっている。
 この墓地に、「赤沢五輪塔」がプロットされる。そして、その段丘に「中世赤沢在家」がメモされる。

 「ぐるっと吉井田」では、その「赤沢五輪塔」については、以下のように解説される。 
「赤沢五輪塔(方木田字赤沢)」a0087378_1863147.jpg
 福島西高南側の墓地内に建つ塔婆。五輪塔の脇の墓碑には寛永21年(1644)とあります。石が五つ、空・風・火・水・地輪と重なっています。
 更に、半沢氏の「歴史地図」では、そこに「吉倉・仁井田・八木田にかけて弥生~古墳時代(奈良・平安)の遺物出土品が多い(1950年代土地改良工事中に大量の土師器群)」のメモが記される。
 
 次の河岸段丘の確実な地点は、その呼称からして「小字白家」あたりだろうと思う。白家=バッケ=崖や坂下を著すのだと思う。そのラインを意識しても、そこから南側の旧河床・段丘のイメージするのは難しい。
 ここから先は、「福島河川国道事務所阿武隈川水系阿武隈川上流浸水想定区域図」につないでイメージする。
 http://www.thr.mlit.go.jp/fukushima/sinsui/map01/map01_06.html
 荒川流域の浸水想定区域が、ここでくいとまるとするのは、ここでいう古川で、新川の改良工事に伴う事なのだと思うがよくは分からない。荒川流域は、別管理という事なのかもしれない。
 なお、西高脇の段丘沿いの水路は、この新川につながる。この水路だが、整備前の小川は八木田の小字「芹川」の呼称とかかわりがあるのかなと勝手なイメージをするが、確証はない。
by shingen1948 | 2013-11-01 18:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 小字を頼りにした「ふくしま道」らしき道筋を進むと、石塔群に出会う。そこに「善明院行屋」の案内柱が建っている。
 「善明院行屋(御祭礼11月23日)」
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元禄16年(1703)の八木田村差出帳は、この地に山伏安性院が存在したことを記録している。天台宗善明院の前身がこの行屋であろうか。その当時よりこの行屋は信仰潔斎の場として守られてきた。ここでは300年近くもこの地域の人々が法印修験者の先導や連帯を深める講中によって行や祈祷を行ってきた。また人々の親睦の場として活用され、○○では数少ない尊厳と親睦の両立する貴重な行屋として維持されてきたのである。
 安性院と天台宗善明院の関係性が考察されるが、それぞれの時間経過に伴う盛衰とも見れそうな気もするなどと思いながら、先に進むと荒川土手に出る。

 ここまで、吉井田村の側からの見え方で散歩してきたが、最近、川向かえの地区からこの道筋にかかわる見え方の資料を見つけた。
 そちら側からの見え方を確かめると、「ふくしまのまち」から西の郷に向かう「太田口」からの道筋の一つで、荒川(須川)を渡った後のイメージということになるらしい。荒川を渡った西の郷のどこともつながってはいるのだが、その向かう先のイメージは、八木田・方木田・吉倉・仁井田の吉井田村の村々を経由して、「水保村方面と鳥川・佐倉方面に通じる」という範囲という見え方のようだ。

 その荒川(須川)を渡る八木田橋は、ネット等で確かめられるのは、昭和5年(1930)に旧橋が架けられてからの経緯だが、ここは、その前にも経緯がある。
 まずは、流れの部分に丸太を束ねて並べるか、板を渡して通行していた時代があるらしい。この時代、橋の架設は、原則地元負担だったので、立派な橋は架けられなかったということのようだ。
 次が郡制時代。この時代になると、川幅の全長にわたり低い木橋が架設されたのだとか。この橋は、路面に土を盛り通行していたとのこと。普段は、2筋の水流があるのみの川筋だが、大雨の度に水量が増し、その度に橋梁を流失したり、流木によって支柱が破損したりしたという。
 その都度、関係町村が経費を捻出し、修理が行われていたのだとか。
 更に、この経費を捻出を県に委譲する経緯があるようだ。これが吉井田村の政治的な画策で、八木田―微温街道は利用度も高く重要な道路と認められるという経緯のようだ。県道編入されたことで、経費は県が捻出する事になり、やや堅牢で高さも若干高い橋になったという。ただ、この時点でも木橋の路面に土を盛った橋で、洪水の度に修理をするという事を繰り返していたのだとか。

 先に整理した八木田橋の板橋のイメージは、この頃までの話。
 板橋の架かっている位置のイメージは、以下の整理では、旧橋のやや上流と推定している。こちらも捨て難いのだが、川向かえの地区資料では、この橋はいわゆる旧橋の少し下流に架かっていたということらしい。橋近くの河岸も整備されず、福島側の橋の周りは笹藪で、隔離病舎のある風景はこの時代の話らしい。
 〇 板橋のイメージを求めて③~旧八木田板橋
 http://kazenoshin.exblog.jp/12227273/
 〇 板橋のイメージを求めて④~旧八木田板橋
 http://kazenoshin.exblog.jp/12233007/
 川向かえの地区の資料に寄れば、昭和5年(1930)に架けられた旧橋は、28331円を投じ10カ月を要して鉄筋コンクリートT桁橋。有効幅員4.5m、全長5.5m両岸の整備とともに、12月31日竣工という概要とのこと。
 昭和41年9月の洪水では橋脚の一部が浸食され沈下、路面が急傾斜で通行不能になって修理、両側に1mの歩道を拡張したりした経緯を経て、昭和62年(1987)9月に、旧橋の南側へ橋を架け替え、前後の取り付け道路を整備する工事が行なわれ、現在の桁橋となって、その役割を終えたとのことだ。

 なお、「板橋のイメージを求めて~旧八木田板橋」では、明神神社を散策し、その板橋を荒川資料館で見つけたことについて、「板橋のイメージを求めて②~旧八木田板橋」で整理した。
 〇 「板橋のイメージを求めて~旧八木田板橋」
 http://kazenoshin.exblog.jp/12216661/
 〇 板橋のイメージを求めて②~旧八木田板橋
 http://kazenoshin.exblog.jp/12222008/
by shingen1948 | 2013-10-31 07:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

吉倉→八木田散歩④

a0087378_663767.jpg 現況の榎内地域は「小字館の内」をも含んでいるので、道路元標が建つ中部榎内東南隅は、一本南の道筋になる。しかし、旧八木田村の道路元標が建つ時代の中部榎内東南隅は、その「小字館の内」と「小字榎内」の字界を走る道筋ということになるので、この位置だと思う。

 小字を確認していたのは、道路元標の位置を確認するためだったので、これで目的は達成したのだが、関連しそうな小字が近くにみえる。「道上」と「道下」の小字だ。
 当然、道筋があって、その上と下という事なので、その道筋が走るのはその字界のはずだと思う。その字界は、北東方向に延びている。地図で確認すると、現況ではこの北東へ延びる道筋自体は消えている。地図上に、旧八木田村の道路元標が建つ位置から、北東に線を延ばしてみると、おおよそ八木田橋の方向になる。
a0087378_6103273.jpg その道筋の延長線上を眺めてみると、その続きと思われる道筋がみえる。その道筋の痕跡らしきものと思えるのが、この八木田第二集会所へ続く道筋だ。
 周辺の小字を確認すると「小字町道下」がみえる。
 小字「道上」と「道下」、小字「上八木田」などの用法から、上・下の法則性を推理すれば、上が西、下が東の方角らしい。ならば、「小字町道下」は、この北東に進む道筋の東側の位置になるのだろうと思う。「町道」の「町」は、「ふくしま」で、ふくしま道の東側が、「小字町道下」だと思うのだがどうだろう。
 少なくとも小字に「道」として残る道筋は、「小字館の内」と「小字榎内」の字界を走り、八木田村の道路元標が建っていた位置から北東へ進む道筋ということになる。

 ということは、吉倉散歩の時点では、吉倉散歩から続く「ふくしま道」は、微温湯街道の旧道につながると思っていたのだが、そうではないらしいということだ。
 その道筋が街道と呼べるほどの道筋かどうかは知らないが、旧八木田村は、その「ふくしま道」の道筋に沿った家並みの村だったという事になるのかな。

 拘ったついでに、「榎内」・「舘の内」・「伊賀内」など、その「内」は、アバウトな範囲を著すのだろうと思うが、そうすると気になるのが「舘」・「榎」・「伊賀」という地名かな。
 そのうちの「榎」だが、高木なので、目印になったり木陰で休めたりすることで、1里塚として榎を植えることがあったという情報がある。また、霊木として信仰の対象となることもあるとも。その材は器具用・薪炭用に使われたのだとか。
 これらの情報を頭において、「ふくしま道」の道筋を「ふくしま」側から眺めれば、小字「道上」と「道下」の道筋辺りは低地であり、「榎内」が河岸段丘の高まりになっている。そこに榎があったかどうかは知らないが、河岸段丘の高まりそれ自体が目印になっていたとみてもおかしくはなさそうにも思う。
by shingen1948 | 2013-10-29 06:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

吉倉→八木田散歩③

 「ふくしま道」にクロスする気になる道筋が、八木田集会所から枝分かれしていて、その南側の道筋となる。この道筋も気になっているのは、現況では、この道筋の北側も「字榎内」とされることだ。このことと八木田村の里標が「(八木田村の)元標を中部榎内東南隅に建つ」と表現されることとのかかわりだ。
 マホロンの検索地図を確認すれば、この道筋を少し東進した地点も、「明神遺跡」という平安時代の遺跡であることが表示される。

 その道筋を進んでいくと、右手に「稲荷社」の空間が目に入ってくる。「ぐるっと吉井田」では、この神社を以下のように解説する。
 伊賀内稲荷社a0087378_135036.jpg
 伊賀内の氏神で建立時期、由来は不詳
 祭神は蒼稲魂命(うがのみたまのみこと)、養蚕の神、今では商売の神として信仰されています。境内には三山碑、金毘羅碑などの碑があります。
 祭神蒼稲魂命は、稲荷神社系の基本神であり、「うが」は、穀物・食物を表すことから、「うかのみたま」は農耕神のひとつ穀物の神とされ、基本的には五穀豊穣を司る神とされるようで、その恵み豊かのイメージから、商売の神に転じ、商売繁盛を司る神や養蚕の神に転じるのも一般的な事。
a0087378_1382689.jpg 初めての風景なのに懐かしく感じるのは、曖昧な境界のイメージもかかわっているように思う。会津に住んでいた頃を思い出せば、人家や神社と道筋との境界が曖昧で、そこを通るのが平気だった感覚だ。
 この神社に入った時、この人家との境界線の曖昧さが、その懐かしい感覚を思い出させたのだ。
 この奥にも社があるのだが、恐らくこちらは屋敷神ではないのかなとも思う。
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 三山、地蔵、月待塔などはよく見かけるが、この坂東「百三十三観音」の石塔ははじめてのような気がする。
 一般的には、供養は、その功徳を自分だけにとどめ置かないで、他の人にも施すという意味で、巡拝供養塔が建てられるとのこと。
 この「百観音札所」巡礼は、(最も古い西国三十三ヶ所)+(鎌倉時代の坂東三十三ヶ所)+( 秩父三十四ヶ所)の合計百観音の札所を巡礼するという風習とかかわるものだと思う。ちょっと気になるのが、坂東に限定して、百観音としているところかな。
 
 道路元標の位置とのかかわりだが、ここが「伊賀内の氏神」ということは、ここは「小字伊賀内」ということになる。それと「福島の小字」を見比べると、「小字榎内」とこの「小字伊賀内」の間にあるはずの「小字舘の内」が現況では消えて、そこも「小字榎内」に含めてしまっているようなのだ。
 先の整理で、榎内地区の位置を八木田神明の通りか、その一つ南側を走る道筋を南側の字界線と重ねてその北側の地区とイメージしていた。
 それを、榎内地区の位置を八木田神明の通りを字界線と重ねてその北側の地区とイメージしてよいように思えてきたところだ。
by shingen1948 | 2013-10-24 13:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

吉倉→八木田散歩②

 今までの八木田散歩は、「ふくしま道」にクロスする八木田神明神社の旗立て台が建っている道筋の西側を中心としていたようだ。この事に気づいたのは、「信達ニ郡村誌」の八木田村の里標の項の以下の表現だ。
「(八木田村の)元標を中部榎内東南隅に建つ」
 ここに「中部榎内」とある。この表現は、榎内地区が八木田村全体の中部の位置であることを示している。この地区を地図で確認すると、この道筋の東側にあって、そこが村の中部であるということらしい。
 その地区の北側に、「榎内稲荷社」がプロットされている。散歩では、そこを目標として「榎内」のイメージを広げる事にする。

 「ぐるっと吉井田」では、この神社を以下のように解説する。
 榎内稲荷社
a0087378_711174.jpg 榎内の氏神、建立は文久2年(1802)。境内には宮が2社あり、右側の宮に3体の神(稲荷大明神・熊野大権現・三寳大荒神(仏・法・僧と火の神・竃の神)が祀られています。左側の社は正雲神社(シロサマ・ハクサンジンジャ)で、建立時期や由来は不詳。
 境内には大黒天や水神、己待供養塔などの石塔があります。
 祭日は旧歴9月19日
 神社前の大きな銀杏の木を見上げていると、通りかかった人が声をかけてくださった。そこには、銀杏の実をつけていたのだが、最近、この樹木の手入れで、枝葉を大きく伐採したらしい。それで、たくさんの実がついていている事に気づかなかったらしいのだ。
 この大銀杏、これも「ぐるっと吉井田」によると、明神神社や善名院の大銀杏と共に、大正天皇の即位記念として植樹されたとのことらしい。
 通りがかりの方の話では、この神社は、この向かいの三軒で管理していて、祭りも取り仕切っているとのことだった。
 ※ 三寳荒神(さんぼうこうじん)=仏・法・僧の三宝を守護するという神。三面六臂(ろっぴ)で、怒りの形相を示す。不浄を忌み、火を好むというところから、近世以降、かまどの神として祭る。荒神。(大辞林より)
a0087378_7143368.jpg この榎内神社附近を見回せば、近隣の都市化の波と隔離した雰囲気がいい。マホロンの検索地図を確認すれば、この辺りは、「榎内遺跡」という平安時代の遺跡であることが表示される。
 また、あらためて半沢氏の「歴史地図」を眺めて見れば、榎内附近に(荒川の)河岸段丘の様相を観察する事ができるというメモがみえる。
 この付近都市化が進んで、意識して歩かないと地形的な特徴は見落としがち。実際に歩いてみると、この付近がその河岸段丘の突端の高まり附近。
 ここは主要な通りで囲まれているのだが、それでも懐かしい風景のまま残っているのがいい。
by shingen1948 | 2013-10-22 07:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

吉倉→八木田散歩

 八木田附近は、先に2度ほど散策した事がある。この時には、目的的であっだ。
 最初は、双体道祖神を求めての散策だった。
 双体道祖神は、広い視野で見た時には、方木田の道祖神神社が北限と紹介することが多い。しかし、半沢氏の「歴史地図」では、この道祖神神社の他に、八木田神明神社、久盛院にもあるようにプロットされている。
 その八木田神明神社を訪ねて整理したのが、「双体道祖神③」
 http://kazenoshin.exblog.jp/12188113/
 次が、八木田旧橋を探しての散策だった。
 この橋が板橋だった頃の板が、八木田神明神社に大切に保管されているという情報をもとに出かけてきたのだった。
 「板橋のイメージを求めて~旧八木田板橋」で整理したように、ここでは、その板橋が見つからなかったが、この神社を管理されている方に荒川資料室に移動されたとの確認頂いた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/12216661/
 それで、その板橋を訪ねて、荒川資料室に出かけて、資料室の南側の軒下に展示されている板橋を確認した事について、「板橋のイメージを求めて②~旧八木田板橋」として整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/12222008/
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 いづれも八木田神明神社の散策だったのだが、今回の吉倉散歩とつながったのが、古い道標によって意識させられた「ふくしま道」に、この八木田神明神社の旗立て台が建っていた事だ。
 この四つ角には、消防団の屯所と八木田地区の集会所があって、この道筋が里道に近いのではないのかなと勝手に想像した。
 「ぐるっと吉井田」で確認すると、方木田村・八木田村・仁井田村、そして、今回散歩していた吉倉村が合併して吉井田村が誕生するようだが、その吉井田村の明治27年時点での役場が、小字上八木田にあったとのこと。その小字は現在消滅しているので、「福島の小字」で確認すれば、八木田神明神社の直ぐ東側であり、この道筋とかかわり深いらしい事が想像できる。
 更には、大正9年時点の吉井田村道路元標位置が、その小字上八木田8との情報もある。上八木田の小字自体が消滅しているので、その8の地点が正確にどこを指すのかは分からないのだが、この道筋と想像しても、大きく違える事はなさそうにも思うのだ。
 この道筋とクロスした「ふくしま道」は、旧八木田橋につながるイメージだが、新橋と旧八木田橋と旧八木田板橋とのかかわりは、先に「板橋のイメージを求めて③~旧八木田板橋」として整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/12227273/
 板橋の架かっていた下流に、八木田旧橋が架かるのが昭和5年で、これが旧ぬる湯街道の延長線上から現在の八木田橋のたもとあたりの位置。そして、昭和昭和63年(1987)に今の八木田橋が架けられたという状況でつながるかな。
by shingen1948 | 2013-10-14 06:45 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今の八木田橋が架け替えられたのは、昭和63年(1987)とのことだ。この橋の旧橋の風景に接していてもおかしくはないはずなのだが、記憶にない。こちらまで来ることが少なかったのかもしれない。
 その旧橋が架かるのは、昭和5年とのことだ。
 板橋が架かるのはそれ以前だろうから、板橋を渡って「土人島」と称された水遊び場に通ったというのは、明治大正時代の話ということなのだろうということになる。

 荒川は「あばれ川」というイメージがあって、何となく洪水とか増水などという変化にかかわる話に納得してしまうところがある。
 板橋の説明でも、「洪水時に流され、わざわざ伏黒付近まで取り戻しに行ったこともあった」との話が紹介される。
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 しかし、この中州のある風景は、安定的に存在していたのではないかと思われる。
 明治24年に描かれる地図を見ても、ここには中州が存在する。それ以降の地図にも、ここの中州は描かれ続けられている。
 その視点から地元の方に伺うと、戦後の混乱期に、橋の下や中州に住む方がいらっしゃったのは、ここだったかもしれないという話が聞けた。
 荒川が、多少あばれても、この中州は安定して中州で在り続けたのではないかと思う。
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 半沢氏の地図によれば、橋の脇には伝染病隔離病舎跡があったらしい。それに並んで、その脇に1989年に鳥渡観音に移転したという須川稲荷が記される。更にその脇に、出雲路の神、道祖神があったとする。
安達地区でいう「しびょういん」のある風景だろうか。

 子供たちにとっては、こちら岸側も含めたこの「土人島」である中州のある風景は、秘密めいた場所であり続けたのだろうと想像する。
by shingen1948 | 2011-03-07 05:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 子供たちにとって、旧八木田板橋を渡ること自体が冒険であったろうと想像される。案内の説明によると、更に、その板橋を渡って「土人島」と称された水遊び場に行ったという。
 この「土人島」については、今のところ説明するものを見つけない。ただ、その位置については、案内板の説明と半沢氏の地図で確認できる。

 案内板では、八木田旧橋地点の上流側とする。この橋は、旧ぬる湯街道の延長線上から現在の八木田橋のたもとあたりに昭和5年から架かっていたようだ。
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 今の八木田橋は、そこよりやや下流側に昭和63年(1987)に架けられたという状況のようだ。
 半沢氏の地図をたよりに、現在の八木田橋から、その「土人島跡」の方向を眺めると、今でも右側の岸沿いに中州が広がっている。この中州が「土人島跡」に近い風景なのだろう思う。


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 自分は、河川工事で整備された後の荒川の風景しかみていない。現在も右岸の国体記念会館や公民館等のある方の堤防は、新たに整備中のようだ。
 近々、左岸の方も整備されて公園風になるのだろうと思う。


 昨年の夏から秋にかけて、上流から信夫橋までこの左岸を何度も歩いた。工事前の原風景に近いイメージをつかんでおきたいという思いがあった。それと、整備されていない所が残るこの左岸だけでいきつけるか試したということもあった。a0087378_5513571.jpg
 その時に、涼しい風を受けてほっとしたのがこの辺りだ。
 暫く休んでいると、鳥の鳴き声がしたり、蝶が飛んだりしてホッとする場所だった。
 そのイメージと、「土人島」と称された水遊び場のイメージが重なってくる。
by shingen1948 | 2011-03-06 06:00 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 双体道祖神を求めて八木田神明神社にやってきたことについては、先に「双体道祖神 ③」として整理したが、景色を眺めていて旧八木田板橋の情報を思い出した。
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 写真を撮っているうちに、この風景はどこかで見たような気がしたのだ。

 この時には漠然としていたのだが、家に戻って確かめると、それは1998.9月発行の「あらかわ散歩道」だった。

 そこにこの写真があり、次のように解説されていた。
a0087378_4531664.jpg 昭和初期までは、河原の中の水流のところにだけ長い一枚板の橋を架けて渡った。洪水時に流され、わざわざ伏黒付近まで取り戻しに行ったこともあった。この八木田旧橋地点の上には「土人島」と称された水遊び場あった。

 思い出したのには、もうひとつの訳がある。
 岩代清水の泉と池をめぐりの散策中に道標を見つけ、その道筋を想像してみたことについては、「岩代清水の泉と池をめぐる⑮」で整理した。その時に、笹谷城主さんから、笹谷庭坂間の旧道にかかわって、「高速ができる前までは『いつ流されても一向にかまわない』くらい簡素な丸木橋があった」という情報をいただいた。
 自分には、これだけ大きな川に、水流のところにだけに一枚板や丸木橋が架けてあるところを渡るという経験はない。意識していたわけではないが、どこかで実感を伴う風景にしたいという思いがあったのだろうと思う。

 それで、もう一度八木田神明神社に来て確かめてみたが、板橋らしきものはなかなかみつからなかった。
 うろうろしていたら、地元の方に声をかけられた。資料をお見せして事情を話したら、その方が調べてくださったって、後で電話を頂いた。
 この板橋は、荒川資料室に移動されたとのことだった。
by shingen1948 | 2011-03-04 05:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)