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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:八島田 ( 17 ) タグの人気記事

 米沢街道と陣屋の道筋の交差点の左手に見える年番小屋を「八島田陣屋見取り図」から読み取ったが、その右手に高札場が建つ。現駐在の入り口付近だろうか。
a0087378_59115.jpg これは陣屋の道筋から米沢街道を見ているので、左手に高札場、右手に年番小屋の風景があったということだろうか。
 高札場の風景は、最近の散歩の資料としては、郷野目の絵図で、尾形屋敷前の道の真ん中に設置された挿絵をみたことがある。ただ、そちらの現地にも案内はみない。

 高札場は、古代から明治時代初期にかけて行われた法令などを板面に記して往来などに掲示して民衆に周知させるために設置されたと解説される。 
 その高札場の解説等からは、基本的には民衆の遵法精神の涵養を図り、その違反者は「天下の大罪」であることを知らしめるということのように読み取れる。内容的に、民衆からの告訴(謂わば密告)が奨励されているというのが面白い。
 高札場の目的には、幕府や大名などの権力者の存在感を誇示するということがあるようだが、解説等だけで、それを感じるのは難しい。
 ネットの中で、「大江戸歴史散歩を楽しむ会」の「日本橋高札場」というページに、典型的な高札場の風景をみつけて納得できた。
 http://wako226.exblog.jp/16102612
 郷野目の絵図や「八島田陣屋見取り図」の挿絵に描かれる高札場は、その地方ミニ版の風景のようだ。
 ミニ版ではあるが、構造的には基礎を石の土台で一段高くしてあり、木の柵で囲われて、屋根の下に差し掛けがついていて、そこに高札が掲げられるという施設に変わりない。
 これが、人の往来の多いところや道が交差したりするところに設置されているというなのだろう。
 案内がないのは、日常的なごく普通の風景だからなのだろうと思われる。ただ、散歩を楽しむものにとってはほしい案内かな。
 管理的には藩などの地方権力者の末端がその責任者なようなので、ここでは新発田陣屋かな。名主など村役人に、付近の掃除や手入れなどの管理を負担させたり、文字の読めない人のために村人に読み聞かせる仕事もさせたりしたらしいとの情報も見る。この地域に暮らす人々にとっては、幕府の権威そのものを示すもので、通行人はかぶり物を取って敬礼するものだったとも。
 この高札場は、距離表示の原点という役目もあって、集落という単位を表したり、住人たちのまとまりの象徴だったりするということででもあったとも。
by shingen1948 | 2014-04-05 05:23 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「図版福島市史」では、八島田陣屋の沿革については以下のように解説する。
 新発田藩は、 (※寛政元年<1789>11月の) 寛政の村替えで八島田村に陣屋を設け、勘定奉行の支配下の役人若干名が派遣され、大庄屋以下を統括した。勘定奉行は常駐ではなく、定期的に出役していた。このほか郡廻り役があったが、分領の実質的支配は大庄屋に委ねられていた。信夫郡領では八島田村の豪農吉野家が、代々この役をつとめていた。が、文政元年(1818)大庄屋の不正事件発覚してのちは、奉行は常駐となり、陣屋詰役人も強化された。
 文化の村替えにより、陣屋の機構は縮小された。
 ここでいう「文政元年(1818)大庄屋の不正事件発覚」については、先に「義民⑤ ~名主半十郎供養塔」でふれている。ただ、この整理時点では地の人への遠慮があった。しかし、今回「野田村郷土史」など地の人の郷土史にも客観的に解説されている事を確認した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7308974/
 「八島田陣屋見取り図」だが、この八島田陣屋の解説にかかわって掲載される。それで、そこから八島田陣屋そのものの情報を探してしまうのだが、その視点を外すと八島田陣屋周辺の米沢街道散歩情報が見えてくる。
 米沢街道そのものの情報としては、米沢街道の新旧の道筋と街道渠の水路にかかわる情報が読み取れる。
 例えば、陣屋の道筋に向かう付近の米沢街道は、新旧の道筋が重なっているようなのだが、そこから東側の旧道は、新道の南側に逸れた道筋であった事が伺える。また、街道渠は、新旧の重なる街道筋の南側を流れ、その南側の街道沿いの道筋の延長線が、八島田陣屋の南側の米蔵に向かう道筋らしい。その道筋の脇を、その街道渠からの水路だろうか、小川が流れていてこれが八幡社の後方の道筋に沿って流れて行くようだ。

 更に、米沢街道と陣屋の道筋の交差点の左手が年番小屋で、右手に高札場が建っていることも分かる。
a0087378_559367.jpg
 年番小屋や高札場は、直接的に八島田陣屋にかかわる風景というよりは、八島田村の風景とみるべきものなのだろうと思うのだ。教科書的なことを確認すると、「番屋」は、「江戸時代に消防、自警団の役割をしていた自身番の詰所」らしい。その自身番は、地元住民が交代でその役割を担っていたらしい。また、施設としては、木戸番や火の見櫓を併設していることが多かったとも聞く。今でいえば、地域の安全の拠点となる消防団や自衛団の詰所のようなものかなと見回せば、やや東手に消防屯所がみえる。
 勝手に地域の歴史の連続性のようなものを感じている。
by shingen1948 | 2014-04-03 06:00 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)
 八島田陣屋付近は、「歴史地図」では「笹木野宿付近」として解説される中心的な風景に重なっているので、「のりしろ散歩」ではなくなる。ただ、位置的には野田村の北縁でもあるということで、そのまま続ける。

 その八島田陣屋跡の現況は、宅地になっていてその面影をとどめない。「野田郷土史」では、次のように解説する。
 八島田陣屋
 この陣屋は字本庄町にあった。
 寛政元年八島田村以下11カ村1万3千石の代官所で、越後国新発田藩溝口伯耆守主膳正の離れ領を支配していた。以降明治維新まで数々の事跡を残し、中でも文政元年凶作の年、救助米を横領した名主頭を直訴した義民半十郎の侠勇や、安政4年陣屋の役人、粂幸太郎の親の敵滝澤休右衛門を陸奥の祝田浜で討った孝子伝等は、歴史上有名である。
 今、この地は東北興業会社福島工場の社宅となっているが、昔を偲ぶ陣屋の氏神「本庄稲荷」の石宮が残っている。尚陣屋の門で扉には唐金の筋金が張ってある「筋金御門」は廃藩の際、名主加藤伴三郎に下されたので、同家の門としてあったが、現在は取り払われてしまった。
 筆者郷土の記念として、昭和10年、同門の写真を撮ってある。
 想像の手掛かりになるのは、「ふくしまの歴史」や「図版福島市史」に記される「元名主加藤家控えより佐藤直政作成の元図による」「八島田陣屋見取り図」だ。
 八幡社地の移動がないと仮定して、絵図と照らし合わせて、その空間的な位置や配置を勝手に想像する。
 おおよその位置を現駐在の付近が西端で、北が八幡社の参道へ続く道筋、南側が街道筋と想像する。
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 陣屋の門だが、陣屋の西手の道筋の現駐在の付近のこのあたりと想像するがどうだろうか。
 ここに、絵図に屋根付きで、「表門(条金御門)」と付記されている「扉に唐金の筋金が張ってある筋金御門」を想像すれば、絵図にはその門を入って右手の陣屋の建物に続く道筋が描かれる。
 「八島田陣屋見取り図」を漠然と見ていた時には、「陣屋」と「米蔵」が目についたのだが、確認していくと、その陣屋の建物に続く道筋の途中に「牢屋」があるのが気になる。そして、その牢屋に着目すると、その南側の建物が「道場」となっているのだが、そこに「兼吟味場」と付け加えがあるのだ。これが、門を入った正面の位置になる。その「道場」の東手が「吟味道具入れ」となっている。

 時代劇から得る想像を重ねれば、この「吟味場」というのは、警察機能を執り行う部屋ということであり、いわゆる「御白洲」があって、その奥には仮牢があるという想像イメージとなる。この道場とされる大広間は、警察機能を執り行う陣屋の重要な場所で、玄関は南向き、「吟味道具入れ」にあるのは取り調べ用拷問器具のはずだと勝手に想像を膨らます。
 その吟味の拷問を一般的な情報として確認すれば、公式には1742年に公事方御定書が制定されてからは、笞打・石抱き・海老責・釣責の四つが拷問として行われたとのことだが、代官が自分だけで事件の審理ができる(手限吟味)のは、事件関係者がその支配地の者か無宿者の軽い罪とのことだ。また、当時の軽い罪での吟味は笞打・石抱きとのこと。ならば、その吟味道具は、三角に尖った責台・先がささくれている箒じりなど、それに抱き石かなと勝手に想像する。

 現在の交番付近で、これ等江戸時代の警察機能が展開されていたということを勝手に面白がっているのだが、そういう意味では、街道からこの陣屋への道筋への入り口に「年番」小屋があり、現在の交番や消防団の詰め所が近いということも成程なぁとこれも勝手に楽しんでいる。
by shingen1948 | 2014-04-02 06:22 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 水路は、公園付近から顔を出すが、その水路沿いを歩くのは気が引けるので、回り込んでその先に進む。
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 回り込んだ先に、その水路沿いの道筋があらわれる。確実なのは、街道渠を以て笹木野村及び下野寺村と界す風景ではあるという事だ。ただ、この水路に沿った道筋が旧米沢街道という事なのだろうという解釈が正しいのかどうかは分からない。街道渠(渠道に循がって流るを以て名とす)が、旧米沢道に循がって東流する風景なのだろうという勝手な想像だ。
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 旧米沢道と思っている道筋から水路の方向を眺めているが、その右手にわずかにみえる道筋が、回り込んできた道筋だが、この道筋は徒歩や自転車で奥羽本線の南側に行く時によく使う道筋でもある。
 この付近では、奥羽本線を跨ぐのに、陸橋の立体交差になっている。車での通行には便利なのだが、徒歩や自転車の通行にはこの高低差がしんどいのだ。それで、高低差なしで奥羽線の南側に渡れる便利な道筋なのだ。ただし、歩行者と自転車のみではある。
 この道筋も、旧米沢街道から下野寺村につながる古い道筋の一つなのだろうというのも勝手な想像だ。
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 旧米沢街道と想像している水路沿いの道筋は、やがて新道に抜けるのだが、よく見れば、歩道が、水路に蓋をしているということが分かる。ということは、この新道も街道渠沿いの道筋であるということなのだろう。
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 地図での確認では、銀行前の字界も街道筋と外れるように見えるのだが、ここも水路が道筋から離れている部分でしかないことが分かる。
 ここがその地点だが、ここから水路は、民家の後ろを回り込んで、南に延びる道筋を突っ切って越えて民家の庭先に進むのだ。
a0087378_5571052.jpg その民家の庭を横切った後に、再び回り込んできて、新道沿いの道筋に戻って来る。これが、その再び道筋に戻って来る水路だ。この右手が下野寺村で、左手が八島田村ということかな。
 その後は、同じように水路に蓋がされて新道の歩道として活用されているようなのだ。

 この辺りの新道の道筋は、旧米沢街道に沿った渠沿いの道筋でもあるという事なのではないかなというのが、勝手な想像だ。
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 笹木野駅に通じる県道との交差点近くになって、水路は街道の南側に外れて行くのだが、その水路を追うのが難しくなる頃、「のりしろ散歩」から「歴史地図」の「笹木野宿付近」を散策解説する中心的な風景に重なるようになってくる。
by shingen1948 | 2014-03-31 06:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

のりしろ散歩~米沢街道

 小字「清合」を中心とした下八島田村付近を散策してきた。
 のりしろ散歩という視点でみれば、住所としては野田村に属すのだが、小学校区としては森合小学区に属するという状況のようだ。その小学校区の南北の句切れが、奥羽本線のようで、東西の句切れが、西環状線のようだ。
 それで、奥羽本線の北側、西環状線の東側の下八島田村付近の遺跡に関する情報は、森合地域の郷土史にも詳しい情報があるということのようだ。行政的には野田村なので、野田地域の郷土史にも詳しい情報が重なるということだ。
 「のりしろ散歩~米沢街道」としては、「歴史地図」にある米沢街道の道筋をたどりながら、森合地区と野田村地区の郷土史を照らし合わせて確認してきたということになる。

 その下八島田村付近の米沢街道をたどってみると、現況ではほぼ通称庭坂街道(八島田街道)に沿って八島田村と下野寺村との字界線が走っているのだが、西道路を過ぎたあたりで、その字界線が街道筋から外れる区間があることに気づく。

 この区間を資料としている「歴史地図」で確認すれば、「森合地区」の散策と「笹木野宿付近」の散策解説の切れた部分。のりしろ散歩の視点でいえば、資料の空白地帯ということで、その確認は散歩の観察頼りということになる。
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 その字界線付近を何度か確認していくと、水路沿いであるらしい事が分かる。
 ここが、街道沿いの字界線から外れる付近だが、そこには水路跡らしい痕跡が見える。字界線を意識しながら、この水路を西手にたどれば、この先の公園付近から水路が顔を出す。その間は駐車場になっているのだが、その筋に沿って水路が駐車場を横断している事が観察できる。
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 あらためて駐車場を横切る水路上に、さきの水路跡を眺めれば、これが字界になっているのだろうという想像が確実なものに思える。

 公園付近から先は水路沿いに歩けないので、回り込んで確認してみると、水路筋と重なる道筋につながることが確認できる。恐らくこの辺りの旧米沢街道は、この水路沿いの道筋だったのではないかなと想像する。

 野田堰の本流は新道の北側を走るようなので、ここはその支流のようなのだが、「街道渠」の呼称と重なって見えてしまう。
 「信達ニ郡村誌」では、米沢街道は「清合内より下野寺に入り、3町7間にして復び本村台に入り、西に赴」いた後、笹木野村の経界を為し16町6間にして桃木町、上台畑の間より西隣より笹木野村に入る」のだが、そこを地勢の項での確認を重ねれば、「(村の)東部に米沢街道を受く」に続いて、「街道渠(渠道に循がって流るを以て名とす)、道に循がって東流す」とある。
 西南部は特に「街道渠を以て笹木野村及び下野寺村と界し」とある風景とも重なるような気がするのだがどうだろうか。
by shingen1948 | 2014-03-29 16:54 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「野田村郷土史」では、円光寺とは別に項を起こし、次のように解説する。
 円光寺観音堂
 八島田円光寺境内にある正観音で、当地方の新西国33カ所中の第30番の札所である。本尊は大きな木造の仏体で堂内の造りも意匠を凝らしてある。
a0087378_4355883.jpg 先の円光寺の案内板では、「山内には、新西国30番札所、聖観世音菩薩を祀る観音堂があり、中に目地蔵様、不道明王、弘法大師、養蚕堂神等が祀られており、天井には福島藩御用絵師佐原玉山弐信筆の龍が画かれている」と解説される。
 「森合郷土史」では、その建立の経緯について解説する。それによると、宝永5年(1708)に先に散策した「小字台」に建立されたようで、それが、寛永8年(1796)にここに移されたとのことだ。
 都市化に伴ってその高低差は感じにくくなっているが、先に散策した「小字台」は、「小字沼田」の西手で、ここの南側の小字で、その小字名からはやや高台になっているという風景だろうか。「勝口前畑遺跡」の東縁に位置する辺りでもある。
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 「野田村郷土史」で「堂内の造りも意匠を凝らしてある」ことを、円光寺案内板では具体的に「天井には福島藩御用絵師佐原玉山弐信筆の龍が画かれている」と解説する。
 「森合郷土史」は、この観音堂の天井絵の龍図は、文化・文政期(1804~29)の福島藩御用達絵師佐原玉山によると詳しく解説する。
 その福島藩御用絵師佐原玉山弐信氏は今のところ確認できていない。また、目地蔵は、「森合郷土史」によれば「杉目地蔵」とのことだが、こちらも確認できていない。

 「当地方の新西国33カ所中の第30番の札所」とあることにについて確認すると、オーソドックスな「信達三十三札所観音」の霊場ではなく、そのバリエーションの一つである「信夫三十三観音」の札所ということらしい。
 これにかかわって、「日本を巡礼する」というページを見つけた。
 http://harusamebashi.wiki.fc2.com/wiki/%E4%BF%A1%E5%A4%AB%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E8%A6%B3%E9%9F%B3%28%E6%96%B0%29
 円光寺観音堂は、その中の「信夫三十三観音(新)」として紹介されていた。
 その解説によれば、「信夫郡西国三十三所」には、新旧があるらしい。古くは(旧は)江戸期の開創とのことだが、昭和4年(1929)後藤要七氏が信夫准西国三十三観音とともに再興したというるそれが(新)とある「信夫郡西国三十三所」らしい。
 その29番に御近所の一杯森の正眼寺があって、次の30番がここ円光寺の観音堂ということのようだ。そして次の31番が、御近所の笹木野の仏母寺ということのようだ。
 http://harusamebashi.wiki.fc2.com/wiki/%E4%BF%A1%E5%A4%AB%E6%BA%96%E5%9D%82%E6%9D%B1%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E8%A6%B3%E9%9F%B3
 なお、ここで「信夫準坂東三十三観音」も紹介されるが、これはマイナーな巡礼のようで詳細不明とのこと。札所も15番法輪寺(福島市庄野茶畑屋敷)だけが紹介される。 
 これとかかわるのが、先の「2代目金子周助建立伝神社・仏堂」の散歩。
 ここで「長泥観音堂」がこの第25番「南無大悲観世音菩薩」で、醴(あまさけ)観音堂が第25番「準提観世音菩薩」であることを見つけている。更に、「小針地蔵堂」も、この札所の一つかなと想像もしている。それは、「うぶきぬを ぬいるおはりのいとながく ○○○○○○○○○○○○○○のもし」の御詠歌があることと、他の巡礼にかかわるところにその名が上がっていないということからだ。
 ここの第3番札所が「岩谷観音(福島市岩谷)」で、第7番札所が「養福院観音(福島市北矢野目)」、第22番札所が「鳥渡観音(福島市上鳥渡)」との情報もある。
 なお、後藤要七氏がどなたかの確認もできていない。
by shingen1948 | 2014-03-27 05:33 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 この辺りは鎌倉末期から歴史を刻むという見え方らしいのだが、その指標となる遺跡が「藤権現碑」のようだ。
 ここに永仁五年が刻まれているということなのだろう。他は同じような時期から歴史を刻むようだという状況的な類推によるように感じる。
 その「藤権現碑」の案内柱はよく読めなかったので、読めたことから類推したところだったが、水熊さんから以下の案内との情報を頂いた。a0087378_68427.jpg
 清合内藤権現の由来
 此の処、岩代の国信夫郡八島田の里、後に清合内の地名なり。水清き流れあり辺りに一宇ありて童達が唯一の遊場なりき。鬱蒼たる藤の大木あり、夏は冷風と藤の花見に村人は集まりしと伝え聞く。頃は永仁五年今より六百八十四年前、伏見天皇の御代より1297年鎌倉幕府は弘安の役等内外の乱世を鎮むる為め、各地に名僧を遣わし民心の安定をはかれし由。此の集落にも其の頃旅の僧来たり。自ら大石に刻まれ傍らの清水に水ごりをとられ、ひと廻りの祈願をされて立去りしと言う。後々村人は藤権現と敬み無病息災、家内安全、五穀豊穣をされしと古老の言い伝えなり。此の地一帯を清合内と称する由因なり。
 昭和56年4月 旧八島田史跡保存会 藤権現講中
 この地域にどのような影響を及ぼしていたのかは知らないが、「永仁五年」がからむ教科書的な事項を確認しておく。

 この時代(鎌倉時代の後半)になると、元寇の恩賞に関する問題等が発生し、御家人は困窮していく。それで、幕府は徳政令(永仁の徳政令)を出すなどして御家人救済に努めるのだが、それでも解決には至らず、各地で悪党と呼ばれる者が活動を始め、幕府と御家人との信頼関係も薄いものとなっていく時代。
 そんな中、天皇親政を志す後醍醐天皇が即位し、時代が大きく動き始める転換期という時代背景。

 「藤権現碑」建立の永仁五年は、その転換点である永仁の徳政令が出された時期と重なるということのようだ。
 この「永仁の徳政令」も確認しておけば、鎌倉幕府第9代執権北条貞時が発令した日本で初めての徳政令とされるとか。そのおもな内容は、①今後御家人所領の売買・質入れを禁止する②すでに売買・質入れされた所領は,無償で本主に返付させる③ただし買得安堵状を下付されたもの,または20年の年紀を超過したものは除外する④債権債務に関する訴訟を受理しない。債権確認の下知状をもつものでも、債務不履行の訴えをとりあげない⑤)越訴(おつそ)制を廃止するの5点。

 現代の感覚からみれば、無理な横槍にもみえる法令だが、古代人から続く思考法では必ずしも特殊なことという見え方ではなく、民衆生活や社会習慣を反映した見え方でもあるらしい。
 それは、天皇が一年限りの暦を持って居られて、これが一年毎に総てのものをリセットしてしまうという見え方とのかかわりのようだ。何もかもが元に戻って復活するというリセット信仰ともいえる見え方かな。
 永仁ということ自体、正応6年に天変と関東の地震を理由に改元された時代のようで、これも天変地異がリセットされたという感覚とかかわるのだろうな。
by shingen1948 | 2014-03-25 06:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
「野田郷土史」では「八田神社」を以下のように解説する。
「八田神社」
 元村社、下八島田に鎮座、祭神は半軻具槌命を祀ると共に八方の天を祀ってあるので八天神社ともいう。
 創建年代は明らかでないが、長い間八島田の村社であった。境内にはかなり太い神木があって古社の面影残っている。
a0087378_536816.jpg 「元村社」、或いは「長い間八島田の村社であった。境内にはかなり太い神木があって古社の面影残っている」とかかわる標柱が、神社の後ろに残される。
 上八島田村の「八幡神社」も、八島田村の元村社とされるが、こちらは、元々は八島田村の吉野家の氏神であったものを、明治43年3月に遷宮して村社になったという経緯らしい。それで、それ以前の村社がこの「八田神社」なのかなと思っていたのだが、この柱には「昭和」が刻まれている。
 ならば、明治43年3月からは、この下八島田の「八田神社(八天社)」と上八島田の「八幡神社」が、八島田村の村社として併存していたということになるのかな。

 御祭神は、ここでは「半軻具槌命」とあるが、案内板などでは「火具都知神」とする。
 その共通の「カグツチ」について、「ウィキペディア」で確認する。
 「カグツチ」
 記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。
 創建年代については、ここでは明らかでないとするが、案内板や「森合郷土史」では、「神社の創建は鎌倉時代の永仁年間の頃」とする。
 これは、恐らく藤権現碑が永仁5年(1297)建立の板碑であり、「弁慶の御山隠し」もこの「八田神社(八天社)」も、同時代なのだろうという推定に基づくものなのだろうと想像する。
 これに結構説得力を感じるのだが、それは直ぐ西手の「勝口前畑遺跡」の存在が大きいように思う。
 福島市のホームページによれば、この遺跡では弥生時代の時代の痕跡を残した後、古墳時代のむらの痕跡を残すという。その後、6世紀~8世紀には、そのむらの痕跡が消えるらしいのだが、9世紀になると再び水田の新たな開発によってむらが作られ、平安時代、鎌倉時代、江戸時代のむらの痕跡を残す事になるのだという。
 その広がりの中でとらえれば、ここに鎌倉末期の遺跡を残すことに不自然さを感じないということがあるのだろうなと思う。
by shingen1948 | 2014-03-22 05:42 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「立石権現」(=「立石」=「清合内前供養塔」=「弁慶の御山隠し」)の旧地の北側に「八田神社」が建つ。
a0087378_605572.jpg
 「歴史地図」では、この社を八天社とし、八方の天をまつったとする。それが、明治4年に神仏分離令によって「八田神社」とされたと記す。
 この八天社に自分は馴染みがないので、今回はいろいろ確認して、得られた情報をこねくり回して切り貼りするという作業を通して馴染んでみたい。

 まずは「八方の天」を確認する。
 仏教の護法善神である「天部」の諸尊が12種あって、そのうちの八方の天を護る諸尊は、四方の東の帝釈天・南の焔魔天・西の水天・北の毘沙門天と、東南の火天・西南の羅刹天・西北の風天・東北の伊舎那天で、八天社はこれを祀ったということなのだろうか。

 次に、御祭神を火具都知神とする「八天権現」・「八天神社」を検索してみる。
 すると、肥前を中心にこの八天にかかわる神社にたどりつく。その中の興味深い解説は、こちらの八天社は、修験者とのかかわりで八天狗とかかわるのだとかという情報。
 散歩を通して、信夫の里でも信夫山を中心とした修験者とかかわる地域らしいを感じている事とのかかわりだ。
 修験者の思想の中に、優れた力を持った仏僧、修験者などは死後大天狗になるという感覚があるらしい。それが他の天狗に比べて強大な力を持つという。そのこととのかかわりのようだ。
 日本を代表する八天狗は、愛宕山太郎坊、比良山次郎坊、飯綱三郎、鞍馬山僧正坊、大山伯耆坊、彦山豊前坊、大峰山前鬼坊、白峰相模坊とのことだ。
 信夫の里の八天社にも、こちらの思想の影響はあってもよさそうとは他所者の大胆さかな。

 更に、これらの大天狗は、仏法を守護する八部衆の中の迦楼羅の変化とのことなので、「仏法を守護する八部衆」とやらを確認する。
 通常に用いられるのは天衆・龍衆・夜叉衆・乾闥婆衆・阿修羅衆・迦楼羅衆・緊那羅衆・摩睺羅伽衆の8つなのだとか。ただ、奈良・興福寺の著名な八部衆像の各像の名称は、これ等と異なっていて、寺伝では五部浄・沙羯羅・鳩槃荼・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・畢婆迦羅の8つ。だとか。
 大天狗は、その興福寺の迦楼羅(カルラ)の変化とされるらしい。そのカルラは、「インド神話に出てくる巨鳥なそうで、金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き、竜を常食としているとされる」ということなのだとか。

 今回は、全てが引用文の切り貼りだが、その作業を通して共通だなと思うのが、全てというのが12で、その中の強力なのが8ということ。
 ならば、想像は自由ということで、信夫の里の八天社にも、選ばれた強力な8天の神という強調の意味が込められているのかなという、これも勝手な想像をしてみる。
by shingen1948 | 2014-03-20 06:04 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
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 「立石権現」(=「立石」=「清合内前供養塔」=「弁慶の御山隠し」)が現在地に移される前に、右手のトラックのあたりで見ている。
 ここが旧地で、「立石権現の由来」の案内柱にある「此の所奥州信夫郡八島田の里旧米沢街道添い」といわれている「此の所」のようだ。消防団の分所前の道筋につながる道筋が、旧米沢街道だろうか。
 紹介いただいた資料が描く祭りが行われていたのもここだろうと思う。
 その祭りの由来は、次のように紹介されている。
 立石には手のひらのようなあとと刀で切りつけたあとが残されこの石の前で人が殺されたとき残ったものだと地区の人々は信じている。
 その話によれば、13、4年にかけて病気がはびこり、死人が続出したのだという。
そこで須川の神主におはらいをしてもらったら「殺されたもののたたりだ。お祭りをしないと集落は全滅」とおどかされて旧の3月15日にお祭りをはじめたが、さてどんなことをしてよいか判らない。「形式ばらずにわれわれも楽しむことにしよう」と変わった祭りがはじめられたもの。
 変わった祭りというのは、集落の人々が茶菓子などを持ち寄って集まり、立石の前にゴザを敷き、七輪で湯を沸かし、茶を飲みながら男も女も子供も交って雑談にひとときを過ごすだけということ。
 この記事の時代、自分にも大人の「祭り」の創作の記憶がある。それが懐かしいのだが、その後、効率とか経済とかということの優先順位の時代になって祭りも消えて行ったという自分の時代認識の記憶と重なっている。

 前回、この祭り由来とかかわりながら、その石の遺跡としての価値について、祭りの由来を否定することなく解説する配慮にふれた。
 それは、福大庄司吉之助教授がその「石の由来や刀傷といわれているものが文字ではないかと熱心に研究を続けている」と紹介していることだ。
 最近の資料をみれば、この大石は、結論的には胎蔵界大日如来をあらわす種子が刻まれた供養碑らしいということになるらしい。そのことを直接的に言わないで、刀傷の言い伝えを、人工的な加工ととらえて、やんわりと種子が刻まれた供養碑であることを紹介するという配慮だ。
 専門家が永年の研究の結果、文字ではないかというところにたどり着いたというふうな表現にその配慮を感じる。
 なお、「野田村郷土史」は、この碑を鎌倉時代に建立された阿弥陀如来の大石碑と推定している。「歴史地図」では、供養塔かなという感じの記載。「ふくしまの歴史」では、「ア」という胎蔵界大日如来をあらわす種子が刻まれた供養碑とする。

 現在地に建つ【立石権現の由来】案内柱の解説
 
此の所奥州信夫郡八島田の里旧米沢街道添いにてその昔永任年間今より七百年前伏見天皇在位の頃此の地方年々凶作に見舞われ○○く○○せし○京より下りし高僧が民心安定の為亦旅人の安全と悪病退散を祈願し……。
 後半の「その昔永任年間今より七百年前伏見天皇在位の頃此の地方年々凶作に見舞われ○○く○○せし○京より下りし高僧が民心安定の為亦旅人の安全と悪病退散を祈願し……。」の部分は、「藤権現碑」が永仁五年であり、それと同時代との推定からの解説と想像する。
by shingen1948 | 2014-03-17 05:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)