地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 この宿は、散策情報としては福島の範疇で整理されることが多いように思う。安達郡との境界である境川の信夫郡側であることが影響しているようだ。
 しかし、散策を通して感じるのは、少なくとも近世の八丁目宿文化圏は二本松の影響下にあるということだ。
 それで、「再び八丁目宿へ ~西東広親④」で整理していた西東広親の名乗りについて行き詰った時に、二本松側の情報から迫れないかを探ってみていた。
 結果的には、この事については不発だった。

 しかし、この情報の中に、幕末から明治にかけて八丁目宿とその文化圏にかかわった田島久敬氏などの文化人と結びつくものがあった。それが、二本松神社神官の情報だ。また、これが最近その息子さんが注目を浴びている立子山や川俣などの文化圏にかかわった朝河正澄氏とも結びつくようなのだ。
 それで、この事を八丁目宿散策余談として整理しておきたいと思ったのだ。

 まずは、手持ち散歩資料での二本松神社の沿革確認から、現鎮座地に遷座されるまでの変遷とその呼称をメモる。

 田地ヶ岡城時代の守護神は熊野大神を祭っていたとのこと。
 15世紀中頃、城郭が白旗ヶ峯に築かれ、その守護神が本丸に遷座した時に、八幡大神を勧請し、併せ奉って領内の総鎮守としとのことだ。その時の呼称が御両社。
 現鎮座地への遷座は、丹波光重公が二本松城主として入部した時とのことだ。
 この遷座によって、実質的に領内二本松藩領(安達・安積・信夫(一部))の領民の守護神にもな り、二本松藩の総鎮守になったとのことだ。
 神社の社領は五十石で、その遷宮式を斎行されたのが寛文元年(1661年)とのことだ。それ以来、領民の参拝が許されたことでにぎわい、門前町としても栄えたという。
 この御両社の呼称が、二本松神社とされるようになるのは明治5年とのことだ。

 次に、「二本松市史」で、その神官を確認した。
 「二本松市史」には神官の項があって、直ぐに二本松神社神官「安藤親重」氏の以下の概要が確認できた。
 
 幼名が求馬、薩摩守、後、兵庫又筑前と改める。
 家世代々郡山八幡宮神官で、国学和歌に長じていた。
 寛政元年(1789)正六位下に叙せられる。
 同二年(1790)12月藩主長貴公の命で、二本松鎮守永代兼帯の祠官

 寛政7年(1795)に亡くなられた神職であった薩摩守行廣氏とのかかわりでは、「薩摩守、後、兵庫又筑前と改める」が気になったが、それ以上は先に進めなかった。

 田島久敬氏や朝河正澄氏に影響を与えたのは、この安藤親重氏三子の安積民僑氏のようだ。
 なお、長子は郡山八幡宮神官を継がれ、次子の重満氏が、親重の次の代を継ぐようだ。この安藤氏の祠官は現在まで続いているようだ。

 なお、この確認を通して、「松川のあゆみ」で確認した文化人情報のほとんどが「二本松市史」で紹介されていることを知った。近世の八丁目宿文化圏は二本松の影響下にあるということをあらためて確認したということでもある。
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by shingen1948 | 2018-09-19 10:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_535337.jpg この写真も「八丁目家主一覧」の「検断 植木九郎右衛門(掲示板、高札、事務所)」と「名主 杉内与三郎」とあるあたりの現況ということで撮った写真の中の一枚だ。
 石合町に向かう方向に名主宅付近を撮っている。石合町は写る信号から右に入る。

 今回の散策は、石合町から散策し始めて、前回までの散策で確かめ直したかった本町付近まで戻ってみたということだ。

 最近の八丁目宿の散策は、八丁目村側から確認を進めてきた。天明根村・鼓岡村の中町・本町と確認してきているところだった。
 確認をしていくと新たに確認したいところが出てきて、そちらの散策に戻るという繰り返しだった。それで、ずっと本町から石合町にかけての散策にまで進まなかった。
 今回、石合町から散策し始めたのはそんな状況があったからだ。

 八丁目宿の散策はここまでだが、この帰りに浅川村の水雲神社に立ち寄った。この散策で常円寺に立ち寄った時に感じた空気感を引きずったのかもしれない。
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by shingen1948 | 2018-09-09 10:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 写真を整理していて気がついたのは、石合町側から本町に向かう時には、いつも道路の右側を通行していることだった。
 石合町から本陣までの間の本町の右側の風景をしっかりと捉えた写真がないのだ。
 今までは、自らに散策はママチャリか徒歩でという制限をかしてしていたことも影響しているかもしれない。

 それで、今回はその風景をおさえてみたいと思ったのだ。
 その視点を「八丁目家主一覧」の「検断 植木九郎右衛門(掲示板、高札、事務所)」と「名主 杉内与三郎」とあるあたりの現況ということで数枚撮ってみた。
 これは、その中の一枚だ。
a0087378_11372119.jpg なお、最近の散策では、散策したいところの近くまで車か、交通機関を利用して行って、そこから歩くということにして散策の範囲を広げているところだ。
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by shingen1948 | 2018-09-07 11:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回の散策で、常円寺あたりは、手持ち情報をよく確認しないまま散策していた事に気がいた。誤りについては「浅川、松川散策の写真メモから33」でおおよそ訂正したところだが、あらためて確認する。
 https://kazenoshin.exblog.jp/238134235/

 この常円寺は、「信達二郡村誌」では次のように紹介される。
a0087378_1091585.jpg 北部水晶沢に在り 境内東西32間南北12間 段別1段2畝23歩 官有地外に民有地3畝9歩有り 羽前国置賜郡米沢曹洞宗東源寺末派なり 慶長6年丑年奈良沢主殿助淳盛開基と云伝ふ

 このあたりの地域散策では、「羽前国置賜郡米沢曹洞宗東源寺末派」からは上杉氏とのかかわりを想像するものだ。「のりしろ散歩~米沢街道⑨(笹木野宿附近)~仏母寺」の整理でもふれているが、その中にこの寺の開基奈良沢主殿助淳盛氏も含まれている。
 https://kazenoshin.exblog.jp/19677037 /

 上杉輝虎(謙信)が、飯山城の防備強化のため、安田顕元(譜代衆。越後国安田城主)と岩井昌能(信濃衆。もとは高梨氏の同名衆)を派遣することを伝える手紙を出した相手とされる方の中に、仏母寺とかかる方と共に奈良沢氏名も見えている。
 その方々というのが、「信州飯山城(水内郡)の城衆(外様平衆)である上倉下総守・奈良沢民部少輔・上堺彦六・泉弥七郎・尾崎三郎左衛門尉・中曽根筑前守・今清水源花丸」ということだ。この中の奈良沢民部少輔とされる方だ。

 上杉氏にかかわる整理でお世話になったMASAさんが、そのブログでそれらの方々について整理されていらっしゃるのをみつけた。「泉八家と信達八寺」と題しての整理だ。(「泉八家と信達八寺 その1」) 
 https://blogs.yahoo.co.jp/ssyinb27/12021236.html

 既に主な信濃諸将と上杉氏とのかかわりの概略の基礎知識を有することを前提に紹介される。
 江戸幕府の時代には、武田侵攻からの時間も経過していて、信濃諸将は上杉家の中核となってしまう。その中の一人に岩井昌能氏がいらっしゃるが、泉八家はその本家筋や親戚筋にあたられる方々ということのようだ。
 奈良沢氏は、その中の一家ということのようだ。

 菩提寺建立経緯について読み取ると、「慶長3年(1598)1月10日、上杉景勝公の会津移封によって、泉八家は奥州信夫郡、伊達郡に所領を宛がわることになったとのことだ。それに伴って、信濃国高井郡・水内郡から菩提寺を移したとされている」とのことだ。

 それぞれの方々の信達地方の菩提寺は、次のように紹介される。

 南具羅東源寺(信夫郡名倉村)  尾崎三郎左衛門重誉
 喜松山嶽林寺(伊達郡糠田村)  上倉玄蕃元春
 天徳山明智寺(伊達郡増田村)  今清水掃部介重将
 般若山仏母寺(信夫郡笹木野村) 上堺左馬之助誉正
 玉泉山泉秀寺(伊達郡泉田村)  大瀧甚兵衛実安
 大悲山成願寺(伊達郡大波村)  中曽根小左衛門義清
 岩井山金剛院(信夫郡入江野村) 岩井備中守信能
 長沢山常円寺(信夫郡八丁目村) 奈良沢主殿助淳盛

 なお、常円寺の開創は天正9年(1581)2月25日に水内郡奈良沢邑とされていて、慶長3年に伊達郡糠田村に移転されたとのことだ。そこからこの地への移転という事になるようだ。
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by shingen1948 | 2018-09-05 10:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「西東薩摩」屋敷の位置確認の念頭操作で、何となくこの辺りの宗教的な、或は文化的な空気感といったようなものが感じられたような気になったところだ。
 そんな思いで振り返ると、そこに六地蔵道標が建っている。
a0087378_5745100.jpg 先に「八丁目宿の二つの追分~『米沢街道』と『相馬道』」として整理した時点では案内柱はあったが、説明の案内板はなかったと思う。
 この時は、この宿が奥州街道と米沢街道・相馬街道が交差するという交通の要になっているという視点での整理だ。ここも、八丁目宿石合町を過ぎて、青麻山を回り込むのに左折する道筋が奥州街道で、その地点が相馬道の追分になっているという観点で整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7189745/

 この辺りの空気感を感じた後では、この道標が六地蔵の浮彫を施した六角石であることに視点が移る。
 新しく建った案内板には、その形状について次のように説明されている。

 「碑は高さ約1.5m、火袋には六地蔵が彫られ、円形の竿石には『従是南相馬道・従是西北往還道(南相馬・西北奥州街道)・元禄八年(1695)乙亥四月八日信夫郡八丁目施主杉内中兵衛政軌』と刻まれている」

 感じた空気感を形成する要素は、この道標が建った時代より新しい。その建立目的は、案内にあるように「地蔵の石仏は旅人の目印となり、旅人は旅の安全を祈った」のかもしれない。
 しかし、「八丁目家主一覧」の幕末は、この宿が二本松藩領である。そのことを思えば、ここが福島藩や川俣陣屋の領地と向き合う地点だったように思う。その意味で、その時代にはこの六地蔵は集落の入り口に立つという意味合いも付加されたように思うが、どうだろうか。

 なお、先の散策では、この地点を三叉路だった地点と見ていた。案内板にある昭和40年(1965)代初期に県道の改良工事で道幅が広げられたことに伴い、10m程南に移動されたという時点で四辻になったのだと思っていたところだ。
 しかし、案内では「六地蔵は、六道輪廻思想から四辻分岐点にあるのが通例とされている」とある。案内されない細い道筋もあったのかもしれないとも思う。
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by shingen1948 | 2018-09-03 10:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 奥州街道は、八丁目宿の石合町を過ぎると、左に折れて北に向かう道筋となる。
 ここはその曲がり角で、この道筋がその北に向かう道筋だ。
a0087378_5363559.jpg この空き地になっているところが、「八丁目家主一覧」で「地福寺」とされる辺りと想像したところだ。
 ちょっと気になるのが、「松川のあゆみ」の年表の天明4年(1784)に、「天徳山寿福寺を石合町に建てる」とあることとのかかわりだ。この年は天明の飢饉の翌年でもある。
 石合町には他にその寺らしきものもない。しかも「地福寺」とは一字違いだ。それで、この寺と重なるのかなと想像しているところだが、どうだろうか。

 昨日整理の写真で使用した大日如来堂は民家の後ろに写る赤い屋根の建物だ。
 左端に写る民家付近が、「八丁目家主一覧」で「明宝院」とされる辺りとの想像だ。
 
 「明宝院」以外は、他の手持ち散歩資料からの情報はないのだが、大日如来堂も地福寺も明宝院も互いにかかわりあっているいるような気がする。寺院としての見え方だ。

 「明宝院」には、他に地区の私塾という役割もある。
 住職は、平林宥京氏のお弟子さんという情報から、国学の私塾であることが想像できる。

 ここで、「松川のあゆみ」から平林宥京氏の経歴の概略を確認しておく。

 嘉永3年東置賜郡長手村梅祥院住職3男として生まれる。
 慶應元年置賜郡左沢村宝水寺で得度。
 明治5年八丁目村西光寺住職。
 明治6年教導職試補。
 (※「再び八丁目宿へ ~西東広親③」でふれたように、「再び八丁目宿へ ~西東広親③」で整理した教導職がかかわる。経歴に記されるのは事務見習)
 明治8・9年準訓導拝命(松川小)
 その後、大和国長谷寺入(8年)
 明治34年保原町長谷寺住職
 昭和12年遷化
 その弟子に、K宥範氏の他に水原竜積寺住職、金沢永仁寺住職等が紹介される。

 この「明宝院」の一軒置いた先には、神官の「西東薩摩」の和歌と国学を教える私塾があったということだ。

 今回の「西東薩摩」屋敷の位置確認のための整理で、この辺りの宗教的な、或は文化的な空気感といったようなものが感じられたような気になっている。
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by shingen1948 | 2018-09-01 10:33 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 現在の風景の中で、西東塾の屋敷はどの辺りだったのかを確認をしようとしている。前回は屋敷の西側から確認を進めたところだが、今度は、その屋敷の東側から確認してみる。

 まずは、「八丁目家主一覧」で屋敷の並びを確認する。

 「西東薩摩」屋敷の東側には「明屋敷」があるようだ。その明屋敷の隣が「明宝院」で、そのまた隣が「地福寺」になっている。
 そして、その「地福寺」の東側に、北へ向かう道筋が描かれている。これが旧街道だろうと思う。その東側に「ハンドメ」があり、そこから南東方向に「川俣道」が記される。

 次に、これら描かれている事と現風景とを照らし合わせる。

 目印になりそうなのは、旧街道の道筋と川俣道なのだが、「八丁目家主一覧」には描かれていないが、現在の風景の中で気になるのは、この大日如来堂だ。
a0087378_17123127.jpg 地図で、右手の建物が石合町集会所であることが確認できる。
 左手に写るのは、その参道の西側の民家の建物だ。
 この左手に写る参道の西側の民家辺りに「明宝院」を想像する。そうすると、この参道東側の現在空き地になっている辺りに「地福寺」を想像することになる。

 更に、これらにかかわりある情報を当てはめて、想像の自然さを確かめる。
 その情報の一つが「松川のあゆみ」の寺小屋情報だ。
 この「明宝院」について次のような紹介をしている。
 
 石合町「明宝院」住職がK宥範氏で、この方が寺小屋師匠なのだが、この方は平林宥京氏のお弟子さんなそうだ。ただ、この寺に関する一切の資料は石合町の大火で焼失していて、詳細は分からないのだそうだ。

 この情報のS氏とあることとからんで、「明宝院」の位置は想像通りと勝手に思っている。
ということで、「西東薩摩」屋敷の位置は、西側の石造馬頭観世音像の建つお宅と「明宝院」がかかわると思われるお宅の間ではないのかなと想像するが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2018-08-30 17:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「八丁目家主一覧」の石合町に「西東薩摩」と記されるのが、俗称「さつま様」の西東塾の屋敷だと思われる。
 目印になりそうなのが、その屋敷の西斜め向かいに「作場みち」が走ることと、同じ並びの二軒置いた西側に「石はし」がかかっていることだ。この石橋の位置が本町と石合町の境になっていることも目印になりそうだ。
 これらの目印と現地を照らし合わせることで、その屋敷位置を絞り込んでみる。

 まず、作道みちだが、地形的にみて、福信の東側にある駐車場付近ではないのかなと想像できる。
a0087378_12391839.jpg 次に気になるのは、そのやや西側の向かい側の民家宅地内に石造馬頭観世音の案内柱が建っているお宅だ。案内柱には、福島県北部では最大の石像だと解説されるが、興味は石造ではなく、このお宅のほうだ。
 これが、「八丁目家主一覧」に案内されるS氏宅のような気がするのだ。確からしさは知らないが、散歩情報を継ぎ合わせるとそのS家は延宝年間(1673~80)に帰農した信濃武士とされるらしい。

a0087378_12401389.jpg 案内される石造馬頭観世音は、このお宅の奥のようなので写真だけ撮らせていただく。
 「こでらんにふくしま通」の「奥州街道八丁目宿の面影を訪ねる」の地図には、この馬頭観音を「石合地区にある高さ1.63mの 三面八臂後背の石像」と紹介する。

 先にここから二軒置いた西側の「石はし」を目印になりそうなものとしていたが、現地を歩いて見ると、これが「青麻神社」参道にかかわる道筋のような気がするのだ。
 「奥州街道八丁目宿の面影を訪ねる」の地図にもこの神社はプロットされるが、その解説はない。

 それで、これも散歩情報を継ぎ合わせて確認していると、このS家がかかわるようなのだ。このS家が青麻神を信仰したのが起源とされるらしいのだが、その確からしさは分からない。
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by shingen1948 | 2018-08-26 12:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「浅川、松川散策の写真メモから⑨~松川村道路元標」で、「信達二郡村誌」に「
村社『稲荷神社』は『北部稲荷に鎮座す』」とあることから、その所在を小字稲荷と推定した。そして、現稲荷神社の位置には、「(その稲荷神社の)遥拝所卯辰の間に面す(字中町に在り)東西5間半南北2間 明治八乙亥年九月十九日村社に列す」から、その遥拝所だったことを推定していたところだった。
 https://kazenoshin.exblog.jp/237953658/

 今回、「松川のあゆみ」の年表を眺めていたら、明治33年(1900)に「稲荷神社本殿が字稲荷から中町に遷座する」と記載されているのをみつけた。先の推定に確からしさが増したので、現住所も確認すると、現まつかわ西幼稚園・現旧松川小学校応急仮設住宅付近が字稲荷のようだ。
 なお、その年表では、その翌年には字稲荷に天理協会松川宣教所が設立されたとある。

 西東広親氏が神官をつとめていた時代までの稲荷神社本殿は、間違いなく字稲荷にあったという確からしさが高まったことになる。

 その字稲荷の西の愛宕山が八丁目城跡だ。
a0087378_442414.jpg これは、その「八丁目城址案内図」だが、先に八丁目城跡を散策して整理した時の写真だ。
 ここに旧松川小学校がプロットされるが、そこが二本松藩領になった時代に代官屋敷があったということになるのだと思う。

 「松川のあゆみ」では、野地源蔵氏が描いた代官屋敷略図から以下のように読み取っている。
 代官屋敷が建つのが旧松川小学校あたり。
 そして、その同心屋敷が並んでいたのは盛林寺墓地の西から愛宕山に登る道を挟んで建っていたことが読み取れるという。その屋敷は南向きだったことや、そこにはもみの倉庫も建っていたことも分かるということだ。

 これらの情報を重ね合わせると、稲荷神社本殿は代官屋敷の敷地内に建っていたということになるようなのだ。

 西東氏の名乗りは、このこととかかわるのかなと想像が膨らむ。少なくとも二本松藩とのかかわりで捉えようとしてみた。
 西東という姓は、この辺りでは二本松に多いようで、更に地域を絞れば塩原近くの湯川村に多いようなのだ。

 しかし、直ぐに行き詰る。というのは、寛政7年(1795)に亡くなられた神職であった西東行廣氏が「薩摩守」を名乗って活躍していた時代と、ここが二本松藩の支配下にあった時代を照らし合わせてみたら、しっくりといかないのだ。

 まずは、八丁目宿が二本松藩支配になる時代を中心にその前後の支配者を確認してみた。
 散策資料では、境川との関係で八丁目宿は福島藩領のイメージで語られることが多いが、それは堀田氏の時代までのことだ。ここ八丁目村は元禄13年(1700)からは幕領だった。
 これが、享保15年(1730)~寛保2年(1742)まで二本松藩(藩主丹羽高寛)あずかりとなる。先に整理した享保14年(1729)の一揆とのかかわりで、大森代官所付37カ村、川俣代官所付14カ村が二本松藩あずかりとなっていたこととのかかわりだ。
 その後、寛保3年(1743)には再び幕領となる。
 それが正式に二本松藩領になるのは天保3年(1832)からだ。ここから幕末まで八丁目村は、二本松藩の八丁目代官支配下となる。地元の念願でもあったらしい。

 これに西東行廣氏の時代を重ねてみると、残念ながら八丁目宿が二本松藩領となる前の幕領の時代なのだ。

 今度は観点を変えて、二本松藩の神官を確認してみることにした。
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by shingen1948 | 2018-08-21 10:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 西東塾の俗称は「さつま様」だったという「金谷川の教育」の情報がある。
 この左端の石碑は、その事とかかわる墓碑なのだはないかと想像する。
a0087378_17394617.jpg 前面に、〇「祠官薩摩守行廣墓」が読め、右面に「寛政7年」と数文字が2行にわたって刻まれているのが分かる。
 寛政7年(1795)に亡くなられた神職であった薩摩守行廣氏の墓碑であろうことが分かる。
 そこに「薩摩守」とあることと、西東塾の俗称は「さつま様」だったこととがかかわるのだろうということが想像できる。

 その「薩摩守」について確認をする。

 まずは、江戸時代の官名の名乗りとということからの推測。
 江戸時代の官名の名乗りは、有資格者の通称であって役職とはかかわらないようだ。ただ、
その官途名や受領名を名乗れるのは武家の中でも諸太夫以上とされているということではあるようだ。
 八丁目宿場にあっては、支配者層に属する家というにとどまらず、その中でも名乗りの有資格者であるという格付けをも意識されるということであろうか。
 ここまでは〇〇守という一般的な官職名の名乗りのことだ。

 この「薩摩守」というは、特殊な官職名であって、松平薩摩守である島津家の独占ということで、更にグレードが高いということで一目置かれていたということになるのだろうことが想像される。

 次に、ここが江戸時代のこの年代は二本松藩の支配下にあった事も考慮にいれて確認してみる。ただ、ここからの想像は曖昧さも多くなる。
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by shingen1948 | 2018-08-18 17:41 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)