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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

タグ:信夫山 ( 122 ) タグの人気記事

 鉱山としての信夫山については、「福島の鉱山」で「福島鉱山」とされていることを確認したところだが、散歩情報と微妙に違うところがある。
 例えば、散歩情報では信夫山は優秀な金山で、鎌倉後期から金が掘られていたとされるのだが、「福島の鉱山」の「福島鉱山」では、その歴史は、明治初期の半田鉱山主、五代友厚氏の探鉱を始まりとし、その後、明治30年代に飯坂町の武田某氏の探鉱があるが、いずれもうまくいかなかったが、昭和8年に石川氏、その後昭和11年から昭和18年にかけて、大日鉱業によって採掘されたとされる。「福島の鉱山」では、歴史的な採掘にもふれることが多いのだが、散歩情報にある鎌倉期の採掘については一切ふれていない。
 また、その品位については「白色粘土に硫化物の黒色斑点を含む場合は金銀に富むが、他は比較的品位低く、その大部分は脈巾も0.5mを超えない」とされる。

 その閉山についての情報も微妙に違う。
 散歩情報では「終戦間近まで大日鉱業が採掘していたがついに掘りつくしてしまい、閉山となってしまった」とある。
 しかし、「福島の鉱山」の「福島鉱山」では、「昭和16年売鉱含金1708gに達したが昭和18年の整備に会う」のが閉山の理由とされる。そして、昭和20年地下工場の予定地として鉱区の西部を掘進中、肉眼鉱に会したとさえ伝えられるがその後発展を見ていない」とされる。
 少なくとも、金龍坑で肉眼鉱に会しているようで、掘りつくしてはいないようなのだ。
 散歩人の勝手な想像だが、昭和18年の整備による閉山は、掘りつくしたというよりは、昭和20年に地下工場として掘進されることになる予定地であったこととのかかわりではないかと勝手に思っているところもある。
by shingen1948 | 2016-06-07 12:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 本当は、山歩きで聖なる山として期待していたのは森のイメージとのかかわりだったような気がしている。それなのに、信夫山の魅力と聖性について自分の感じたことを整理してきたところ、辿り着いたのが岩という鉱物とのかかわりだった。信夫山には、名石四十八石というのがあるそうだが、分かるような気がする。
 「信夫山名石四十八石巡りめぐり」というページには、その名石四十八石が紹介されているのをみつけた。
 http://www7.plala.or.jp/oygd/48isi.html
 名石四十八石そのものに興味が持てるわけではない。これを奇石とした物語とか、風光明美な岩ということでの興味はもてない。ただ、この名石の位置を眺めていたら、不明な三条院口登攀路の想像を補強する情報になっているのかもしれないと思えるところがあった。

 例えば、「神楽岩・ぼたもち石」・「馬石」「蛙石」は、その場所が「信夫山北側、早坂地区真上」とされている。この石のある位置と「信夫山巡り」がいう「早坂屋敷は羽黒山西の真下にあって、(中略)羽黒山へ直進する参道があり、急坂であるので這いながら登るので古くは這い坂という」という道筋とがかかわりあっていないだろうかと思えたのだ。
 http://www7.plala.or.jp/oygd/48isi-umaisi.html#botamoti
 同じ様に、「熊野石むろ」「三日月石」は、その場所が「熊野峠から北側に下りるとすぐ」とか、「熊野峠から白土採掘現場へ下りる途中」にあるという。こちらは「信夫山巡り【梅宮茂】」がいう熊野山から経塚があったらしい古峯石塔のある北斜面が想像される。ならば、「山道は斜行して熊野峠の三熊野山をめぐり、北坂に出て羽黒山の北参道に至る」という道筋とのかかわりが想像できなくもなさそうだが、どんなものだろうか。
 なお、散歩人としては、かなり危険な場所らしいことは頭に入れておこうかなと思うが、今のところ、ここに出かけるつもりはない。
 http://www7.plala.or.jp/oygd/48isi-ebosi.html#mikazuki
by shingen1948 | 2016-06-06 19:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_817131.jpg 本当のところは分からないのだが、大日本工業KKの福島鉱山金山への道筋が三条院口登攀路に近いとの想像をめぐらす情報が多いようだ。その金山事務所跡と思われる付近から道筋を振り返って眺めるとこんな感じだ。
 この写真の右側に、等高線に沿った道筋が写っている。この道筋は、この登攀路と想定される道筋の反対側にもずっと伸びている。
 「福島の鉱山」によれば、鉱脈は「主として羽黒神社から立石に至る山頂の北西斜面に発達し」ているとであり、「主として北側から開発され」たとのこと。ここを散策時に、「福島鉱山金山」散策には、この道筋を信夫山金竜抗の坑道の北口あたりまで山肌を確認しながら辿ればよさそうに思ったのはそのためだ。
 写真の日付を確認すると1010年の12月17日で、それ以降信夫山には近づいていないのは、東京の電力会社が原発事故でばらまいた放射能汚染に近づかないようにしているためだ。
 5年たつが、ここは散策できそうもないので、資料確認と整理だけ。
 三条院口登攀路についてだが、「信夫山巡り【梅宮茂】」では次のような2つの表現をする。
 その一つは、「山道は斜行して熊野峠の三熊野山をめぐり、北坂に出て羽黒山の北参道に至る」。
 もう一つの表現が、「早坂屋敷は羽黒山西の真下にあって、(中略)羽黒山へ直進する参道があり、急坂であるので這いながら登るので古くは這い坂という」

 ここまでの金山への道筋は、左手に谷地を見ながら、それに沿った道筋になっている。ここから先も直進するとすれば、所々に空洞のある岩場を超えて急坂を這いながら進むようになるようだ。地図上では、一周路のツヅラ折りの道筋を越えて、白土採掘跡に辿り着くはずだ。
a0087378_818316.jpg 「信夫山巡り」にある「斜行して熊野山を目指す道筋」を想像すれば、やや左手の尾根を目指して進むことになるのだろうということで、そちらに回り込んでみた。
 2010年12月末時点では、そちらの方向は、養生中で立ち入り禁止となっていた。そこからの散策も断念したままなので、現在の状況は分からない。
by shingen1948 | 2016-06-05 08:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「信夫山巡り【梅宮茂】」では、「羽黒山北西の字三条院付近に金山があって昭和8年4月から大日本工業KK福島鉱山があった」と解説される。それで、金山跡がプロットされる散歩地図を頼りに散策したのだが、その時点では、ここに金山の跡をイメージすることはできていなかったと思う。
 金山跡とのことなのだが、それは坑道跡ということなのか、精錬所跡ということなのか、運搬にかかわる施設ということなのかという具体的な情報を持ち合わせていなかったのだ。

 少なくともここに事務所があったということがわかるのは「福島の鉱山」の次の紹介を見つけてからだ。
 「(福島鉱山は、)福島市街の北に聳える信夫山の西半部に属し、主として北側から開発され、事務所を羽黒山の北麓、福島より凡そ3㎞の地点に置いた」
 これで、あちこちに見られる建造物の跡自体をこの事務所跡とみてもよさそうだと思えたのだ。
a0087378_7112491.jpg あらためて撮り溜めた写真を確認すると、明らかな建物跡というものの他に、その全体はつかめないものの明らかに人工的な施設跡と思われるものも確認できる。

 この位置を地図で確認すると、昨日整理の白土を採掘した跡あたりの真下であることが分かる。
信夫山の金山探索は、このあたりから西に向かってすすめられたのだろうと推定するのは、「福島の鉱山」の次の一文だ。
 昭和20年地下工場の予定地として鉱区の西部を掘進中、肉眼鉱に会したとさえ伝えられるがその後発展を見ていない。
 ここは、先に「信夫三山⑰ ~ 羽山⑬」で整理した信夫山金竜抗の坑道を活用して作られたという地下工場跡なのだろうと思う。ならば、位置情報としては、こちらが鉱区の西部ということになるということだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/10377554/

 その信夫山の金山探索の経緯を「福島の鉱山」で確認する。
 本金山は明治の初め半田鉱山主、五代友厚氏の探鉱に始まり、同30~40年には飯坂町武田某氏により探鉱されたが成功せず、昭和8年には石川氏、同11年からは大日鉱業によって、上下数段の坑道を穿たれ高品位部は採掘もされ昭和16年売鉱含金1708gに達したが昭和18年の整備に会い、同20年地下工場の予定地として鉱区の西部を掘進中、肉眼鉱に会したとさえ伝えられるがその後発展を見ていない。現在はカオリンの良質部を稼行している。
 先に整理した半田鉱山の五代友厚氏が探鉱したのがその始まりとしているようだ。しかし、その事業化はうまくいかなかったようだ。信夫山が金山として歴史を刻むのは昭和8年の石川氏あたりから、昭和11年から昭和18年までの大日鉱業による採掘という辺りらしいことが分かる。昭和18年の整備に会いというのが、昭和20年からの地下工場計画らしいことが伺える。
by shingen1948 | 2016-05-31 09:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「福島の鉱山」では、信夫山を「福島鉱山」として説明される。その鉱床についての説明を確認すると、以下の三点が要点と読み取れる。
 〇 鉱床は広範囲に亘ってこれを貫く多くの石英及び粘土脈からなる。
 〇 ((鉱床は、)主として羽黒神社から立石に至る山頂の北西斜面に発達し、主としてN40°w及びN60°wの2方向に交わり
 〇 (鉱床は、)いずれも縞状石英を主として一部葉状の仮像に富み、白色粘土に硫化物の黒色斑点を含む場合は金銀に富むが、他は比較的品位低く、その大部分は脈巾も0.5mを超えない。
 そして、「現在はカオリンの良質部を稼行している」とある。
a0087378_4382451.jpg 素人目には、この白土を採掘した跡あたりが、その原点なのではないかと読み取れるような気がしてくる。
 このあたりについては、先に「信夫三山27 ~ 白土山」として整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/10534994/
 【福島民友(明治41/12/27)】の記事をもとに、主として「福島焼き」にかかわって以下の要点を整理した。
 記事によれば、この白土は元々農家の土蔵の白壁として使用していたものとのこと。それを、若松工業の成分分析によって、薄手の皿物に適することが確認されたという。その分析にもとづいて、明治44年には福島製陶所が設立され、この土を使った「福島焼き」が生産されていたとのことだ。
 その白土採掘が進み、野天堀の白土山には、巨大な洞窟ができていたということだった。しかし、この工場は10年ほどで閉鎖したとのことだ。その後も、米つき用、壁土用として細々と採掘されていたが、昭和初年には廃業し、洞窟は、戦後に破壊して埋め立てられたということだった。

 これが「福島の鉱山」の「現在はカオリンの良質部を稼行している」という記載と重なる部分だろうとの推測だ。
 注目は三番目の要点に「この白土粘土の硫化物の黒色斑点を含む場合は金銀に富む」とあることだ。ここは野天であり、この発見が金山を探索する原点でもあったのではないかとの推測が成立するように思うのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2016-05-29 09:34 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 北坂口登攀路が丸子口になる以前の旧北坂口登攀路は、三条院口であったとのことだ。
「信夫山巡り【梅宮茂】」では、次のように解説されることについては、先にも記したが、再掲する。
 先達三条院は早く廃れたので詳しいことは不明である。羽黒山の北西に字三条院があり、遺跡も定かでない。金山があって昭和8年4月から大日本工業KK福島鉱山があった。
 三条院付近には、三日月石、馬石、早坂屋敷近くに二十三夜石などの拝み石があり、48石の一つである。山道は斜行して熊野峠の三熊野山をめぐり、北坂にでて羽黒山の北参道に至る。早坂屋敷は、羽黒山西の真下にあって、早くから山伏村を脱して帰農した人家である。羽黒山祭礼の楽人が多かった。羽黒山に直進する参道があり、急坂であるので這いながら登るので古くは這坂といったという。
 三条院口の登攀路が、昭和8年4月から大日本工業KK福島鉱山があった付近の金山あたりであることが読み取れる。このことについては、先に「信夫三山22 ~ 熊野山⑥」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/10418979/ 
 そして、その金山の坑道の遺跡と信夫山の地下工場の遺跡が重なっているという状況だった。その事については、先に「福島と戦争」⑤で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11203988/
金竜抗の北口を確かめることで、金山の坑道の遺跡の方向性のようなものが見えたような気がして整理したのが、「信夫三山23 ~ 再び羽山」だ。
http://kazenoshin.exblog.jp/10425497/
 地下工場遺跡は、実際に存在するので、散策の中で確認しやすい。この史跡についても曖昧な表現をしたところがあるのは、坑口が完全にふさぎ切っていない所もあることへの配慮だった。
 このブログは影響を及ぼす程のものではないことは分かっているが、万が一のことも考えたということだ。

 散策を中心に整理する者にとって、三条院口の登攀路付近を散策した時点では、金山の遺跡はイメージできていなかった。地下工場遺跡が重なってしまったからだ。しかし、その地下工場遺跡の散策から金山の遺跡との重なりがイメージできた部分もある。更に、新たに信夫山の金山にかかわる情報を見つけたものもある。それらの情報を重ねて、もう一度整理し直してみたいと思う。
by shingen1948 | 2016-05-27 18:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 地質学的な事は知らないが、感覚的に「石に宿る神の力」の感じ方として、石ケ森の岩場が信夫山の立石山の岩場とつながっているというイメージを持つ。

 最初に「石に宿る神の力」の感じ方の一つに、年代の立った古石が人力の及ばない地中深くまでつきささっているというイメージがあることを知ったのは、「ゆの村(秋山)」の「太子堂応安の碑」紹介だ。この碑は、高さ1.6m、南無阿弥陀仏と刻まれ、その左下に応安2年(1369)とある碑だが、いくら掘っても同じ幅で石が地中深くまで続いているということだった。
a0087378_15384083.jpg 信夫山とかかわりのある石で同じようなイメージで語られるのが、清合内前供養塔。
 「のりしろ散歩~米沢街道附近~「藤権現碑」と「弁慶の御山隠し」②」で整理したこの石も、いくら掘っても同じ幅で石が地中に深く続き、年代を経った古石なのだそうだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/19568482/ 
 「福島市市史資料叢書」では、この石を「立石」と呼称し、別名「お山かくし岩」だとする新聞記事を紹介している。
 「立石のヤクをはらう」野田町下八島田~集落30軒でお祭り【福島民報(昭和31.4.22)夕刊】という記事だ。「立石のうしろに座ると信夫山がかげにかくれるというので一名『お山かくし岩』といわれ、奇妙なことにいくら掘っても同じ幅で石が地中に深く続き、年代を経った古石である」との紹介だ。
 ただ、現実的には、この石は旧米沢街道筋とされる新道の北側の道筋に建っていたのだが、現在は米沢街道の新道沿いに移されている。しかも、コンクリートの上にのっているということではある。

 この石の神秘さはもう一つあって、別名「弁慶の御山隠し」とも呼称されるその由来は、「野田村郷土史」によれば、「弁慶がこの碑の陰に休んで御山を拝もうとしたが見えなかったので、この名が出たと伝えられる」とのことだ。大きな信夫山が、この岩陰に隠れてしまうということを神秘的に感じていることが分かる。理性的な事を先に教わってしまった我々には、この神秘さを感じる力を見失っている。

 これらのイメージにも影響を受けて、石ケ森の岩場の石と信夫山の立石山の岩場は、この人力の及ばない地中深くまでつきささっているのだが、その地中深くでつながっているというようなイメージ感覚を持ったように思う。
by shingen1948 | 2016-05-25 15:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 巨石・巨岩に神の宿る「磐座(いわくら)」と呼ばれる特別な見え方は知らなかったが、立石山の林立する巨岩全体にふれて、畏敬の念を抱いている自分を感じた。その前後で、信夫山の岩場が違って見えていることにも気が付いた。
 現役で社会と交わっていた時代は、感性の上位に理性を置いて考えることが習慣化されていた。それで、自分の感性が衰退していたのだと思う。社会的な制約が薄らぐと、自分の感性に素直に向き合うことができるようになったこともあって、呼び覚まされた感覚という気もする。

 自分の中の信夫山立石に感じる「石に宿る神の力」を確かめると、「巨大な石で作られた建造物に神が下りる」というイメージというよりは、林立する巨岩群は神がつくったというようなイメージに近いように思う。案内板の解説にあった「むかしのこと、信夫山の神がみが、ふしぎなこの立石の形をつくった」ということを実感的に捉えられたのだと思っている。
a0087378_12132182.jpg 「石ケ森」の岩場にも神の仕業と感じたのだが、その感じがなかなか整理できなかった。それで、「信夫の里の狐」を通してその雰囲気を整理したのが、「信夫の里の狐達④~『石ケ森』」
 http://kazenoshin.exblog.jp/17249604/
 ここでは、このことを次のように表現している。
 裏山には岩がゴロゴロしていて、確かに狐が住めそうな雰囲気でもあるが、修験極楽院がかかわってもおかしくはない雰囲気でもある。それどころか、それ以前からの岩石や巨樹に神々が宿ると考える場所だったのではないかなと思えてくる。石ケ森との地名から、これも勝手に岩石系の信仰を想像する。
 地質学的な事は知らないが、感覚的に「石に宿る神の力」の感じ方として、この岩場が信夫山の立石山の岩場とつながっているのではないかというイメージもあることを付け加える。
by shingen1948 | 2016-05-24 12:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「歴史地図」では、「熊野峠」について、「古代峰越えの古道と伝え、鎌田半在家の熊野、石ケ森への直線コースにあたる。これは条里制遺構につながる」と解説する。
 現在、鎌田半在家の熊野西側に整備された道筋が走るが、古くは東側を走っていただろうと推定される痕跡を残す。その道筋と石ケ森への直線コースを信夫山まで延ばすと、その途中丸子の条里制遺構付近を通ることになるのだが、そこには今回整理した大覚院が位置している。
 そこを、そのまま進めば立石に突き当たり、一気に立石に登って鞍部を下れば今回整理した熊野峠の道筋に重なり、熊野山に辿り着くということかなと思う。
 「信夫山巡り【梅宮茂】」では、その熊野山にそう大規模な三熊神社ではなかったが、古くからの三熊神社の基部が無線中継所建設で破壊されたことを記す。
a0087378_910395.jpg また、この参道の熊野峠から羽黒へ行く途中の古峰原の石塔付近には、昔、幾つかの経塚があったことを記す。近年まで、その中の2つの経塚の土盛りが残っていたとのことだが、こちらも、道を開くときに破壊されたとのことだ。この辺りからは、銅製の経筒の小破片が出土しているということだ。
 実証的な裏付けには乏しさはあるが、古くから信仰の場であったと言いたいのだろうと思う。

 先に整理した「台畑(南矢野目)周辺を歩く」では、その23で条里制遺構とのかかわりで古代道筋を推定いる時にこの熊野古道の道筋の推定にも触れてはいるが、メインは古代道であり、この熊野古道については副次的な整理の仕方であった。
 それで、今回「信夫山の魅力と聖性の維持」という観点から整理し直したところだが、この観点からは、石ケ森と立石の感性的なかかわりにもふれておきたくなる。
by shingen1948 | 2016-05-23 09:17 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 北坂口登攀路(丸子口)から登攀は、古峰神社を経由して立石山に直進した後、立石山の山頂から熊野山に向かう熊野峠道を経由して、北参道あるいは裏参道と呼称される道筋を経由して、羽黒山へ向かったのだろうと思われる。
a0087378_5553198.jpg いくつかの資料を重ね合わせると、その立石山の山頂から熊野山に向かう山道が、熊野峠道と呼称される道筋だと思われる。ここから羽黒山への道筋が、北参道あるいは裏参道と呼称される道筋らしい。
 この立石山→熊野峠→羽黒神社の道筋もまた、古くからの参道らしいことについては、先に「信夫三山⑲ ~ 熊野山②」で整理している
 http://kazenoshin.exblog.jp/10390825/ 
 「信夫山の魅力と聖性の維持」の観点からは、半沢氏がこの道筋が鎌田の熊野→石ケ森→と続くことに着目して「古代峯越の熊野の古道」と紹介していることと重ねたい。

 以前の旧北坂口登攀路は三条院口であったとのことだが、その登攀路は「信夫山巡り【梅宮茂】」では次のように解説される。熊野山へ直進する登攀路だったように思われる。
 先達三条院は早く廃れたので詳しいことは不明である。羽黒山の北西に字三条院があり、遺跡も定かでない。金山があって昭和8年4月から大日本工業KK福島鉱山があった。
 三条院付近には、三日月石、馬石、早坂屋敷近くに二十三夜石などの拝み石があり、48石の一つである。山道は斜行して熊野峠の三熊野山をめぐり、北坂にでて羽黒山の北参道に至る。早坂屋敷は、羽黒山西の真下にあって、早くから山伏村を脱して帰農した人家である。羽黒山祭礼の楽人が多かった。羽黒山に直進する参道があり、急坂であるので這いながら登るので古くは這坂といったという。
 三条院口は詳しくは不明だとするが、字三条院は先達三条院とのかかわりが推定され、昭和8年4月から大日本工業KK福島鉱山があった付近の金山あたりであることが読み取れる。また、羽黒山西の真下にあった早坂屋敷から羽黒山に直進する這坂という急坂の参道があったことも読み取れる。

 熊野山頂の様子については「信夫三山⑱ ~ 熊野山」で整理したが、その案内板にある解説のうち、「鎌田の方から登る熊野道の峠で熊野峠といい遥かに金華山を遥拝したことから金華山ともよばれている。」という部分が、半沢氏の「古代峯越の熊野の古道」との紹介と今回整理の北坂口登攀路(丸子口)からの登攀と重なり、「昔、御山や丸子部落の人たちは、つつじ咲く頃に馳走を持参して春日を楽しむ行事をもったという」部分が、北坂口登攀路(丸子口)からの登攀以前の旧北坂口登攀路が三条院口であった時代も含まれているということが分かる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/10384174/
by shingen1948 | 2016-05-22 09:54 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)