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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:信夫の里 ( 91 ) タグの人気記事

 今回は「芭蕉の足跡」とのかかわりで「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」の整理がメインで、西行の信夫の里の立ち寄りについて確認はその余談だ。しかも、文学作品の中では確認できなかったということだ。
 地域資料側からは、願望も込めて、西行は信夫荘佐藤氏と親戚関係なのだから立ち寄ったに違いないという。信夫の里を散策している者にとっては、その通りだと思う。
 しかし、ちょっと巨視的に見ればというか、西行側の立場に立ってみればというか、平泉藤原氏とも姻戚関係にあるのだ。
 2度目の奥州の旅の目的達成に、信夫の里の佐藤氏を介す必要などないはずだ。直接頼んだ方が確実に達成できると考えるはずなのだ。信夫荘に立ち寄るとすれば、それは平泉に行く途中の休憩ということでしかないだろうなと思う。

 余談のついでに、もう一つの余談を確認する。
a0087378_13421541.jpg 先に「春日神社②~信夫渡碑」で、春日神社の「信夫渡し碑」について整理したことがあった。そこには、能因・重之・光俊の三人の歌が紹介されているのだが、この碑を「能因法師の歌碑」だと紹介する人が多いとのことだった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9007085/
 というのは、源重之の「袖の渡」と光俊の「いなばの渡」は、宮城県亘理町の阿武隈川だとか、「袖の渡」は石巻市だとかという説もあるようではっきりしないようなのだ。
 その中で、熊因法師の「信夫の渡」は、この信夫の里の渡利の渡しだろうという以外の説はないということのようだ。
 その能因法師についての話だ。

 今回、「街道をゆく(33)」を整理の補助資料として活用させていただいたところだが、その都の奥州ブームにかかわって、この能因法師が紹介されていたのだ。
 「(都の)源融から発した奥州ブームは、実方を経て能因の時代になると、いよいよ盛んだった」という。その能因法師について、次のようなエピソードが紹介されている。
 その一つが、白河の関にかかわる歌のエピソードだ。
 都をば霞とともに立ちしかど、秋風を吹く、白河の関      能因法師
 この歌、机上で詠んだ歌だと思われたくないので、数か月外出せず、色をくろく日にあたりなして後、人前に出てちょっと陸奥へ行きましたといって歌を披露したのだとか。
 こちらは有名な話らしいことは、確認していく中で分かったことだ。

 そして、もう一つが、荘園を持つような身分ではなかった能因の生計は奥州の馬を買っていたという仮説だ。こちらが、春日神社の「信夫渡し碑」=「能因法師の歌碑」とつながる話のようなのだ。
by shingen1948 | 2016-10-10 13:45 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 「継信・忠信」の場面で、信夫荘郎党渡利猪太は、渡利の里で一夜を過ごし、馬を換え信夫山のふもとを駆けて大鳥城へ向かう。その大鳥城を「佐場野の医王寺の隣する一城郭、佐藤継信、忠信の住居」と描写する。
 「奇縁と奇なる日」では、義経と陵助重頼主従と案内役吉次とその同勢一行は、信夫山まで迎えに来た佐藤継信・忠信の兄弟に案内され、その「佐場野の医王寺の隣する一城郭、佐藤継信、忠信の住居」である大鳥城で逗留し、正月の接待を受ける。

 この「佐場野の医王寺の隣する一城郭、佐藤継信、忠信の住居」=「大鳥城」というのは「奥の細道」が設定した風景だ。
 「奥の細道」本文では、芭蕉一行は、文知摺石を見た後、飯塚の里に向かい、佐藤庄司の旧館(大島城)を訪ねる。それから医王寺を訪れたように表現する。
 その医王寺と大鳥城の位置関係が次のように表現される。
 「佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計に有。飯塚の里鯖野と聞て、尋たずね行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す」

 巨視的に見れば確かにその位置関係ではあるが、その描写から浮かぶ距離感と実際の距離が極端に違う。
a0087378_8322925.jpg これは、福島市教育委員会・飯坂町史跡保存会・福島市飯坂学習センターが設置した「飯坂地区史跡・文化財案内板」から関係部分を抜かせていただいたものだ。
 ここからも分かるように、医王寺の丘と丸山の間は離れている。しかも、その間に小川という川が流れているのだ。この川名から想像する川幅よりも広い普通の河川で、摺上川にそそぐ。

 芭蕉一行が、ここを訪ねた順序も逆だろうと考えられている。
 一般的には、瀬上宿から星の宮に出て、そこから摺上川の河岸段丘上を、五郎兵兵衛館跡を経由して、まずは医王寺に来たのではないかとされている。
 「奥の細道」本文では、芭蕉一行は一家の石碑を残す古寺である医王寺に入り茶を所望したことになるが、「曽良日記」との照らし合わせや当時の寺の状況から、ここにもフィクションが入っていると考えられている。
 一行は、そこから飯坂古道とされる道筋に沿って河岸段丘を降りて、小川を渡って対岸の河岸段丘を登り、大鳥城に来たのだろうとされる。
 或は、その脇を通って飯坂温泉に入ったのかもしれないとも、……。

 つまりは、ここに描かれるのはフィクションの世界のようなのだが、「新平家物語(吉川英治)」では、その「大鳥城(丸山)のかたはらの寺」=「佐藤一族の石が残る古寺」=「医王寺」という設定をそのまま採用していることが分かる。
 物語では「大鳥城(丸山)のかたはらの寺」というこの設定を利用して、城で見も知らぬ尼と対面して、その素性を知り、夕燈の頃には佐藤兄弟が託される会話が展開される。
by shingen1948 | 2016-09-29 08:36 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 「奥の細道」の本文では、「キリスト教徒における聖書の地名のように、歌よみにとって必ず心得ているべき固有名詞になっている『信夫や捩摺』」を受けて、「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行」ということで、文知摺観音を尋ねる。
 早苗とる手もとや昔しのぶ摺

 「苗をとっている早乙女たちの手元を見ていると、むかし、しのぶ摺りをした手つきもおなじようだったのかと偲ばれることだ」ぐらいの意だとおもうが、先にこの句については、以下の所で整理している。
 「文知摺観音」での忘れ物②
 http://kazenoshin.exblog.jp/8469769/
 曽良氏書留句の碑
 http://kazenoshin.exblog.jp/8469769/
 「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」は、これをも受けて表現しているように思う。
 「奥の細道」では、「あくれば」ということで、福島宿に宿泊した次の日から「信夫の里」の描写となるのだが、「新平家物語(吉川英治)」では、伏拝から「信夫の里」の描写に入る。
 伏拝の風景を「ふと、駒の背からのぞくと、その辺りを幾すじも落ちてゆく野川の水は、異様なほど、まっ藍(さお)に見える」と表現し、ここを河原と設定する。
 しかし、実際の伏拝にはそういう風景はない。これは、一気に「信夫捩摺の里」の世界に導く細工だ。
 「奥の細道」では、実際に「もぢ摺の石を尋」ね、早苗をとっている早乙女たちの手元から「昔しのぶ摺」のイメージに入った。そこを「新平家物語(吉川英治)」では、この風景から直に「近くの里の家いえで、染藍(そめあい)を流しているせい」だろうということで、「昔しのぶ摺」のイメージにはいっているのだ。
 そこから逆に、早乙女たちの手元が見えるというイメージの重なりをも利用しているように思うのだ。そして、このイメージは、物語の時代背景である平安朝の上方の貴族・歌人・文人の世界では常識であるということを介して、登場人物までもが納得するという設定なのではないのかなと思う。
by shingen1948 | 2016-09-28 08:43 | Comments(0)
 午(ひる)まえに伏拝(福島市)の河原をこえた義経一行は、「信夫の里のもじ摺」にかかわる風景を目にするという描写がある。こういう場合は、読者に一定の教養を保有していることを要求している。
 平安朝の上方の貴族・歌人・文人は、奥州(みちのく)にあこがれにも似た思いを持っていたということは分かっているという前提なので、特に解説されることはない。
 しかし、自分はそれを教養として持ち合わせていないので、いちいち確認するしかないのだ。

 そのあこがれにかかわって、「司馬遼太郎の街道をゆく(33)」では「信夫の里」と「もじ摺」について次のように紹介されている。
 信夫(しのぶ)」といえば、いまでこそ福島県の県庁所在地福島市(かつての信夫郡・信夫荘)にすぎないが、この時代(平安朝)のひとびとがきけば、千々(ちじ)に乱れる恋の心に、イメージを重ねる。単なる地名ではない。
 古代、奥州信夫の地は、乱れ模樣の絹糸を産した。
 その模樣がもじれて(もつれて)乱れたようであるところから「信夫捩摺(もじずり)」(忍摺)と都でよばれた。その染め方は、みだれ模樣のある巨石の上に白絹を置き、草で摺(す)って、模樣をうつし出したといわれる。
 この後、陸奥(みちのく)好きの第1号ととして、河原左大臣源融(みなもとのとおる)(860-920)と、奥州塩竈を模した庭園(枳殻邸=きこくてい)を作って、みちのくの山河こそ風雅の源泉であることを知らしめたことが紹介される。
 その方が詠んだ「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」について、次のように解説する。
 陸奥趣味の源融は当然ながら「信夫捩摺」というものを知っていた。かれはこの商品名を入れて歌をつくることで、信夫や捩摺の名を詩的レベルに高めたといっていい。
 後世、この歌は古典(本歌)となり、信夫や捩摺は、キリスト教徒における聖書の地名のように、歌よみにとって必ず心得ているべき固有名詞になった。
 そして、「みちのくしのぶ」ときけば、ここまでの連想が展開しなければ教養人でないという伝統が千年近く続き、これが少なくとも江戸期までは続いたと言い切られてしまう。

 自分は、とりあえずは読者としては失格なのだろうとは思う。
 しかし、ないものはないと開き直ったその上で、要求されている教養の知識部分を確認して、深読みに役立てることはできるのではないかとも思っている。
by shingen1948 | 2016-09-27 11:10 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 この物語の内容から考えれば「奥州侵略の路」あたりのカテゴリーで整理したいところだが、今回は「芭蕉の足跡」のカテゴリーにしようと思っている。
a0087378_94670.jpg これは「旧道諸説を歩いてみる」として、奥大道とされる道筋を探って整理した時に使用した図だ。
 信夫の里へ続く辺りを示したものだが、水色で示したのが「奥州街道」の道筋で、緑色で示したのが「奥大道」とされる道筋、赤色で示したのが「米沢街道」の道筋だ。
 もしこの物語の時代に「信夫の里」に入るのだとすれば、奥大道だとされる緑の道筋をたどることになるはずだと思う。
 しかし、「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」への道筋は、水色の奥州街道の道筋をたどっているようなのだ。
 更に確認を進めると、意図的に「奥の細道」で描かれた描写と重ね合わせることで、文学的な真実感を醸し出そうとしているようにも感じられた。
 それで、「芭蕉の足跡」のカテゴリーで整理していこうと思ったということだ。

 なお、奥大道とされる道筋の散策は、2012年4月に、信夫の里から奥大道とされる道筋に入り、現金谷川までの行程を「旧道諸説を歩いてみる」として整理している。その金谷川付近を「続・旧道諸説を歩いてみる」で整理している。
 その信夫の里から奥大道とされる道筋に入る辺りを整理したのが「旧道諸説を歩いてみる②」で、そこから「旧道諸説を歩いてみる⑦」までで金谷川に抜ける。
 〇 「旧道諸説を歩いてみる②」
 http://kazenoshin.exblog.jp/14979394/
 現福島大学構内を中心にその続きの道筋を探り「続・旧道所説を歩いてみる」として、「続・旧道所説を歩いてみる⑩」まで整理するが、石名坂の戦いや大河ドラマ「平清盛」視聴とのイメージも重なっている。
 〇 「続・旧道所説を歩いてみる
 http://kazenoshin.exblog.jp/15097011/
by shingen1948 | 2016-09-26 09:07 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 大河ドラマ視聴とのかかわりで、「新平家物語(吉川英治)」の部分読みをしたことがあった。この時に「信夫の里」が描写されているのを見たのだが、そのままになっていた。信夫の里が文学的に描写されることは少ないので、整理しておきたいと思う。

 信夫の里が描写される場面は、「みちのくの巻」の「継信・忠信」と「奇縁と奇なる日」の項だ。
「継信・忠信」の場面は、信夫荘郎党渡利猪太が大鳥城へ向かう途中に信夫の里が描写される。
 まずは白河の関付近が描写され、次の安達ケ原の描写があって、その途中の会話から信夫荘郎党渡利猪太が大鳥城へ向かう途中の描写であることが分かるという構成だ。
 その信夫の里付近は次のように描写される。
 松川、清水、鳥谷野の部落と駆けぬけ、彼の眷族(けんぞく)が住む渡利の里へ来たときは夜であった。
 ここでも馬を換えた。
 雑炊腹に温まって、しばし休み、また、信夫山のふもとを駆ける。摺上川の上流へ向かって急ぎに急いで行くのであった。そして、佐場野の医王寺の隣する一城郭、佐藤継信、忠信の住居へは、夜半すぎに着いた。

 「奇縁と奇なる日」では、義経と陵助重頼主従とその平泉への案内役吉次の弟吉六、吉内とその同勢一行が、松川宿から信夫の里に入る場面だ。
 午(ひる)まえに、伏拝(福島市)の河原をこえた。
 ふと、駒の背からのぞくと、その辺りを幾すじも落ちてゆく野川の水は、異様なほど、まっ藍(さお)に見える。
 「なぜか」
と、九郎は、また吉内を、振り向いた。
 「近くの里の家いえで、染藍(そめあい)を流しているせいでしょう」
 「お。信夫の里のもじ摺とは」
 「大昔から、この辺りの産物です。-都へ貢されていく布が、しのぶ文字摺とかいわれて、洒落者には、たいそう歓ばれるそうで」
 「見たことがある。忍ぶ草らしき模様を、藍で揉み染めにした布を」
すると、先に立ってゆく陵助が、急に、馬を止めた。
 「いずこの兵やら四、五十人、かなたに、備えているようだ。だれか、物見をして来い」
 人びとは、遠くへ眼をこらした。
 信夫山のすそを離れて、なるほど、一群の人馬が道を擁して、立ち並んでいる。
 結局は、佐藤継信・忠信兄弟が、ここまで義経を迎えに来たという設定になるのだが、それを次のような自己紹介で表現する。
 「当所、佐場野の藍坂に住む、荘司が後家の子ども、佐藤継信・忠信の兄弟にて候うが、母に代わって、おん迎えに参りました」
by shingen1948 | 2016-09-25 10:52 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)

「東屋沼神社」

 「東屋沼神社」の「東屋沼」は吾妻岳山上にある湖沼である現五色沼を意味していて、これが農耕神として崇拝されたものということが原点のようだ。
 図説「福島市史」では、その「東屋沼」である現五色沼と底が通じている貝沼があるという信達の里の伝承があって、「東屋沼神社」が、この吾妻信仰とかかわっているように解説される。

 散策は、平野の「東屋沼神社」が中心だったのだが、昨年はその旧地とされる字大笹生の台山とのかかわりについても整理してみた。
 そのことについては、「信夫の里から東屋沼を意識する」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20569146/
 この後、貝沼の伝承とかかわって吾妻信仰と「東屋沼神社」とのかかわりを整理していった。
 「信夫の里から東屋沼を意識する②」では、貝沼伝承はあるようだが、「東屋沼神社」の詳細は不明な「正福寺」について整理してみた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20575488/
 「信夫の里から東屋沼を意識する③」から「信夫の里から東屋沼を意識する⑧」までは、田沢の「東屋沼神社」を中心に、貝沼の伝承とのかかわり、吾妻信仰と「東屋沼神社」とのかかわりなどを確認してみた。
 「信夫の里から東屋沼を意識する③」では、田沢の貝沼伝承について整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20582422/
 「信夫の里から東屋沼を意識する④」では、現地の大宮神社と「東屋沼神社」が吾妻信仰で繋がっているらしいことを確認した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20588985/
 「信夫の里から東屋沼を意識する⑤」では、地元では、大宮神社が「東屋沼神社」や吾妻信仰との繋がりを意識していないらしい事を確認した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20593695/
 「信夫の里から東屋沼を意識する⑥」では、「種まき兎伝説」が、田沢邨の吾妻信仰にかかわる伝承の採取とみるという自分なりの仮説で、田沢の貝沼伝承と大宮神社と東屋沼神社と吾妻信仰を繋いだ見方をしてみた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20602163/
 「信夫の里から東屋沼を意識する⑦」では、「種まき兎伝説」にかかわる田沢の地域を確認してみた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20609350/
 「信夫の里から東屋沼を意識する⑧」では、実際に田沢の地域を歩いてみた雰囲気をもとに、この田沢地域には、図説「福島市史」がいう、「東屋沼」である現五色沼と底が通じている貝沼があるという信達の里の伝承があって、「東屋沼神社」はこの吾妻信仰とかかわっているという全体像が残っているのではないかとの思いを整理してみた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20638410/
a0087378_335357.jpg この時に、「福島の歴史あっちこっち」というページに、字山田の「東屋沼神社」が紹介されているのをみたが、そのままになっていた。
 http://www7.plala.or.jp/oygd/sikinaishiya/sikinaishiya.html
 この神社は「小社」「式外」で「祭神不詳」「由緒不詳」であるようなのだが、気になったのは、「東屋沼神社」は現五色沼と底が通じている貝沼伝説のイメージと繋がった見方ができるのかということだ。
 その「東屋沼神社」を確認できたのは、写真を確かめると今年の2月20日のようだ。
by shingen1948 | 2015-05-04 06:27 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「のりしろ散歩」なのに、またまた「吾妻連峰へのアプローチ口としての庭坂駅」が17回続いて、中心話題になってしまった。
 その庭塚(在庭坂)散歩のよそ見の一つが、寺西顕彰碑。その「寺西大明神」の石塔は「皇大神神社」境内に建つ。
 支配関係の変遷が複雑だというのは分かっていたが、ここが、桑折陣屋とかかわるということは知らなかった。
a0087378_9444337.jpg
 ここが、「寺西大明神」が建つ「皇大神神社」だが、その由緒にかかわる案内板が建つ。

 皇大神神社由緒
 御祭神:大日霊尊(おおひるめのみこと)<天照皇大神の別の名>
 天にまします太陽のように、広大で尊い御神徳をお持ちになられる神を称え奉る神様で「日の神」と仰がれています。
 「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国(日本)は、わが子孫の王(きみ)たるべき国である。そなた皇孫(瓊瓊杵尊)<ににぎぬみこと>よ 行って治めなさい。いってらしゃい。お元気で。皇位の隆盛は…地とともに無窮でありましょう」と八坂瓊ノ曲玉 八咫(やた)の鏡 草薙(くさなぎ)の剣の三種の宝物をお与えになられ この国にお下しになられました。
 わが国の天皇は 代々この神器を皇位のみしるしとして受け継がれ 万世一系の天皇を国の象徴と仰ぐ日本の基をきずかれた「天照皇大神」であります。
 天照皇大神は この尊い神の御分霊を捧持し直接お伊勢まいりをしなくとも 御神徳をいただくことのできる神社で、明治4年8月「指定村格社に列せられています
 奉納 : 氏子総代
 祭礼実行委員会
 平成14年9月吉日
 「寺西大明神」の石塔は、この拝殿の右手に建つ。

 「桑折陣屋」については、先に整理しているが、その中で、「代官の中には、竹内代官や寺西重次郎代官等のように、桑折で死去し、町内に墓所があるものもあります」として、寺西氏にもふれている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7750549/ 
 その寺西氏の墓所である「無能寺」については、「旧奥州街道の桑折宿」でふれていて、「寺西代官墓所」そのものについてもふれている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7752808/ 
by shingen1948 | 2014-08-09 09:49 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 案内に登場する信夫郡長柴山景綱氏は、三島通庸氏の義理の兄であり、その人事や活躍は三島通庸氏がかかわる。この湯町開設も当然その裏に三島通庸氏の影を感じながら、表面的に柴山氏の仕事として解説される。地元の案内が控え目なのは、そのためもあるのだろうと思う。

 自慢げに紹介する視点を、西軍側のその後の活躍資料に求める。「柴山景綱事歴【山崎忠和 著(明29.7)】」では、以下のような紹介になる。
 庭坂温泉場工事之事
庭坂村地方に温泉あり高湯と称し奇効ある温泉なるも郡の西隅吾妻山と称する峻嶺の上にあるを以て常に浴客往来に苦む加之ならず初冬より積雪道を埋めて通するを得す以て遺憾とす故に山麓3里許即ち庭坂村に之を率槽せるは其便利少なからず因て景綱之を人民に諭すに賛する者多く後ち工事に着手せり
景綱嘗て痔を患ひ百万医治を加ふ然れも効験を見ず適々高湯に浴す5日にして痔益出ず尚浴する45日輙ち癒ゆ蓋し高湯は此の温泉の源湯なり是に於て綱景(景綱?)深く其効験を知るも原湯此を去る○貮里(にり)余或は天の樫むるが如く雲林掩障行路頗る(すこぶ)る艱(なや)む以為らく此湯を庭坂本村に引かば病者も憾みななかる可しと乃ち自から村民を勧(?)め功を明治18年5月27日に起こし同年10月25日に竣ふ資金貮萬有余圓温湯地中より本村に至りて沸々数所の浴槽に湧く人争ふて来り浴す老者為めに健に病者為めに癒へ復た昔日の憾なし民物日に殖す嗚呼此舉人に恵する決して浅々に非らず福島病院長磯弁之を分析せしに左の諸病に最も効験ありと曰ふ
(効能中略)
此湯の泉源は吾妻富士の傍に在り北の沢懸樋及び懸樋長百間なる所を経天戸川の上に渉り諸湯槽に分派す而して当時開設したる旅亭湯室は内湯共同館北川屋米澤屋廣淋樓あり○来漸時繁華に及びたりと云う
路巾5間左右に民屋あり又3尺可りの溝を穿ち双方石を以て○き此を名だ柴山道といふ17年○○○○○○○三島通庸来り○す○屋○て曰く○○ては殆(?)ごと日本第一なりと賞賛せり

 三島通庸が日本第一なりと賞賛したとか、湯町の道路を柴山道といったりするということを地元で聞いたことはない。
 
by shingen1948 | 2014-06-14 05:44 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 【福島の民話(片平幸三)】では、この後、ガサブどおりに近いごんぼうぎつねのほら穴に集まって、ごんぼうや長次郎ぎつねが化け方の自慢話をする。だが、加茂左衛門狐はきつねになったばかりだから、化け方の自慢はできなくて、魚とりの話ばかりするという設定だ。
 しかし、この付近を散策したことのあるものは、この加茂左衛門狐が、実際には相当に霊験あらたかな狐である事を知っている。その加茂左衛門狐が、新参者であるということにすることで、相対的にごんぼうや長次郎の化け方のすごさが強調されるという構成だ。
a0087378_15324185.jpg
 さて、この話が展開される「ガサブどおり」は、その音からは「がさ藪」をイメージするが、当て字は「川寒」だ。「が(川)+さぶ(寒)」という当て方なのだろうと思う。
 この川寒集落付近を、飯坂古道が走っている。「ガサブどおり」とあるのは、この古道の徒歩道と馬道が合わさって、松川を越えたあたり古道を指しているのだろうと思う。
 この辺りの詳細な道筋の散策については、先に「揺すり出された風景⑰~今からおもえば69」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/12804762/ 
 このときに気になって整理したのが、「金福寺跡」だが、今回気になるのが「川寒稲荷」かな。ただ、この稲荷、地図の表記などから集会所辺りかなと想像はしているが、この時の散策では見つけてはいない。
 ただ、今でこそ開発によって想像しにくくなっているが、この辺りは松川の河岸段丘になっていて、信夫狐が集まる「ガサブどおりに近いごんぼうぎつねのほら穴」があってもおかしくはない雰囲気はある。

 【福島の民話(片平幸三)】で先輩狐の権坊狐が、信夫山・一杯森・石ヶ森のでき方を解説するのも、この飯坂古道川寒通り近くの権坊狐穴という設定だ。
by shingen1948 | 2013-03-03 15:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)