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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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義民太郎右衛門霊堂⑦

 年を越してしまったが、区切れのいいところまで話を進める。
a0087378_472329.jpg 散歩中は勘違いしたままだったが、「地蔵原堰堤」で荒川を渡った後、ここ義民太郎右衛門霊堂まで散策しながら歩いた道筋は、「義民太郎右衛門霊堂の誌」の前段にあった「佐原堰」の風景そのものだった。
a0087378_3544198.jpg この荒川を渡った「地蔵原堰堤」は、他の14基の堰堤とともに暴れ川を制する治山治水の最初に建設された基幹的役割を担う砂防堰堤施設として、平成20年(2008)3月19日国の登録有形文化財(建造物)に登録されたとの案内板が建つ。ここは、荒川の下流に広がる扇状地の扇頂部に位置するとのこと。
 暴れ川を制する治山治水の施設としてのみ案内されるが、佐原堰の取水口でもあるということだ。

 「福島発水のあした 第2部 共生の知恵【6】 荒川【福島民友(2010/4/14)】」では、暴れ川の荒川を制することについての紹介に多くを割いている。
 http://www.minyu-net.com/serial/mizunoasita/20100414/mizunoasita.html 注目は、ごくわずかではあるが以下のような恵みをもたらす側面についても紹介されていることだ。
 水林自然林の上流にある大正から昭和にかけて造られた「地蔵原堰堤」の左岸にある佐原堰。同市佐原の会社社長尾形一郎さん(62)は堰から引いた水を利用し、先祖から受け継いだ水田で「ひとめぼれ」を生産している。「荒川の水はきれいなのでおいしい米ができる。首都圏でも人気がある」と尾形さんは誇る。
 今回の散歩では、荒川の川筋の堰として佐原堰とともに、荒井堰、名倉堰についてふれたが、荒川には現在9つの堰があって、福島市西部の約1780haの農地を潤しているという。その他、住民の生活用水としても利用されているとのことだ。
 勿論、「昔から、大雨で河川が決壊するたびに治水や砂防の改修工事が行われてきた。大正、昭和期は地元の農家の人たちが従事した」と、手ごわい暴れ川との付き合いについてもふれるが、その姿勢は共存だ。
a0087378_44281.jpg 義民太郎右衛門霊堂の丘の南側から見える「荒川発電所」。
 情報がなかなか見つからないが、「3,100kW 東北電力(株) 電気事業用」とのこと。この上流に流れ込む塩ノ川から取水する「土湯発電所」は、「2,380kW東北電力(株) 電気事業用」とのことだ。
 こちらも、荒川が恵みをもたらしている風景に見える。
a0087378_4124840.jpg 「地蔵原堰堤」の施設は、堤長74.4m堤高8.7m、石積粗石コンクリート造の堰堤で、その下流に副堰堤を付けた暴れ川を制する砂防ダムだが、これを目にするときにはその役割を意識しない。水のある豊かな自然に溶け込んだ風景として眺めている。
 これも荒川がもたらす恵みの側面と見えなくもないとも思うが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2016-01-01 08:34 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

義民太郎右衛門霊堂⑥

 一揆のその後を確認すると、二本松藩預かりになるようで、そちらの確認をしたいところだが、それは後にする。ただ、この辺りの地域的な文化圏としては、福島文化圏より二本松文化圏に近いのかもしれないのかなとも思う。

 さて、「義民太郎右衛門霊堂の誌」の以下の部分だが、これはいわゆる「佐原堰」を指しているのだろうと思う。
 (義民太郎右衛門は、)成人して人望益々〇〇く、種々村のために尽力し、特に父祖三代に渉る世に言う太郎右衛門堰と山間三村に及ぶ水路を完成〇〇広い水田を開拓し農家の繁栄に貢献しました。

a0087378_7302531.jpg 特に案内はされないが、荒川を渡った「地蔵原堰堤」にあったこの取水口が、この「佐原堰」のものなのだろうと思う。

 先の整理で「『地蔵原堰堤』から『荒川発電所』に出て、その排水路沿いに散策道が整備されている」と表現したが、いくつかの間違いを犯していることに気づいた。
 その一つは、この「荒川発電所」を、初めの頃はここが「土湯発電所」だと勘違いしていたことがあった。
 二つ目は、整備された散策路沿いの水路を、発電所の排水路だとしている。その時点でも、これが「佐原堰」そのものということに気づいていなかったということだ。
a0087378_7325543.jpg 水路の勘違いの言い訳を先に済ます。
 その一つの言い訳が、荒川を渡った「地蔵原堰堤」にある。
 ここに「地蔵原堰堤」の左岸から水が流れ落ちるところが写っているが、いろいろ確認すると、これが佐原堰の取水とかかわっているのだろうと思われる。この直ぐ下の段が佐原堰の取水口と思う構造体になっているという位置関係。
a0087378_7373058.jpg もう一つの言い訳が、この発電所脇の風景だ。ここも発電所の排水路が佐原堰とつながっているように見えたことだ。ただ、ここでシャッターを押したのは、今も曖昧なままだが、水路の左側の風景が、この水路の取水口とかかわりそうな気もしていたからだ。
by shingen1948 | 2015-12-31 08:27 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

義民太郎右衛門霊堂⑤

 追放となった佐原村太郎左衛門氏は、江戸に潜伏するようだが、詳しく紹介するのは、「ふくしま人物誌」の情報だ。江戸で直訴と目安箱への投函という次の行動に出るようだ。
 十数人と江戸に潜行し、下谷宿長者町の白子屋文左衛門宅を本拠に直訴をこころみ、再三目安箱への投函をしたという。この時の「大森附佐原村太郎右衛門江戸代表御箱江致直訴候注進書」が有名で、「佐原太郎右衛門願書」あるいは「大森注進記」と称されているものだとか。(※有名とのことで確認しようとしているが、今のところみつからない)
a0087378_329147.jpg 捕り方からうまく逃れた太郎右衛門氏は、江戸にとどまり訴え続けたが、享保14年12月初旬に捕らえられて死罪獄門を宣告される。
 翌15年正月21日に、領民への見せしめのため故郷である佐原村の入口である荒田口で斬首獄門に処せられたということだ。
 この丘の北側に、その太郎右衛門氏が眠る。
 その後も福島県内では騒動は治まらずに享保年間だけでも14件の一揆が頻発したという。

 地元誌では、当然農民の立場で、凶作時における農民側の要求の視点から事実を見守る。
 ①減収事情を述べての減租出願
 ②飯米・拝借金又は種子籾等の借用出願
 ③定免制の拒否
 ④増祖反対の要求
 それは当然なのだが、凶作時における領主・代官の被害調査の最大の関心事は、貢租の減収をいかに防ぐかということである。従って、領主代官は、農民の請願又は一揆等がなければ自ら減租破免を実施しない。それどころか、逆に強力な収奪の仕方でむしろ増祖政策を採れないかを狙う。
 農民から請願が出てしまった時には、以下の3点について如何に措置するかが腕の見せ所となる。
 ① 実収調査による被害歩引
 ② 定免制の場合といえども定額収奪努力
 ③ 減収にかかわらず増祖等の方策

 なお、農民に重税を課した代官岡田氏は、その後栄転を果たしたという。地元誌の立場では納得いかない事だが、幕府にとっては、それぐらい本気で農民から搾り取れる名代官だったとの評価であることが分かる。
by shingen1948 | 2015-12-30 08:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

義民太郎右衛門霊堂④

 「福島市史」では、越訴された福島藩の対応について、次のように要点をおさえて解説する。
 福島藩では越訴は御法度と説得したが、農民たちは立ち去る気配もなかった。藩はやむなく幕府に注進し、餓死寸前の農民たちに「御手当粥」を施し、寺・町人の有志も握り飯などを出したが、飢えた農民たちは「町の内より五郎内の辺、海道の左右にみちみち、旅人驚き申す程」だったという。
(中略)
 28日に至って、幕命を受けた福島・二本松両藩は一斉に農民の説得に乗り出し、農民たちは幕府に聞こえたからには必ず救いがあるものと期待して、各村々に帰村した。
 「清明学区の歴史」では、もっと具体的な対応者とかその場所といったことまで詳細に解説する。「福島市史」が説明する28日の対応については、若干ニュアンスが違う情報になっている。この対応、「清明学区の歴史」では27日の対応として記される。
 福島・二本松両藩の対応として、農民の説得に乗り出し、農民たちは勘違いして、幕府に聞こえたからには必ず救いがあるものと期待して各村々に帰村した事実としては同じだが、その受けた幕命が違う。江戸御老中酒井讃岐守からの奉書(幕命)は、「農民退去」の命令書だったというのだ。
 農民の帰村後、二本松藩では士卒69名を動員して領堺を警備、相馬藩は二枚橋を、仙台藩は越河を固め、米沢藩は士卒300人で領堺を固めたという。
 そして、9月の裁定で、福島藩に越境し訴えたものの中で処刑された者は36名。
 そのうち死罪獄門は立子山村の小左衛門、忠次郎の2名。次に重い三宅島への遠島が5名という厳しい処断がなされたとのこと。(「福島市史」では遠島9名)
 この9月の裁定では、佐原村太郎左衛門は、弁舌さわやかで追放だけで済んだという。
by shingen1948 | 2015-12-29 08:17 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

義民太郎右衛門霊堂③

 「義民太郎右衛門霊堂の誌」では、大挙して代官所請願から福島越訴に及ぶことになった事由を冷害とする。
 「ふくしま人物誌」の情報では、この享保13年(1728)の冷害凶作時に、農民が検見と夫食拝借を願い出た時に、それを認めないだけでなく、川欠荒地にまで年貢を賦課するという過酷な返答だったことを挙げている。
 「清明学区の歴史」の情報では、そもそもこの幕領地では延宝(1673)の頃から厳しい検地で年貢が年々高くなっていたという状況のもとで、二つの要因が重なったというふうに解説する。こちらの情報に説得力を感じる。
 二つの要因のうちの一つに、享保8年から代官に就任した岡田庄大夫氏の年貢算定法が過酷であったことが挙げられている。
 豊年5か年を基礎とした定免である上に、5厘増しを課すというものだったとのことだ。それで、逃散する百姓が続出したのだが、その残された荒れた土地をすべて村方に割りつけたという。それで、残った百姓は益々困窮していたという。
 そういった状況下で、享保13年の冷害によって大凶作に見舞われたというのが二つ目の要因だというのだ。
 ここに「福島市史」の情報を重ねれば、この冷害大凶作時に、これまで通りの定免制による年貢を押し付けたとのことだ。更には、今日の食料に窮し、来年の種籾を心配する農民の生活を無視して、凶荒に備える置籾を各村に命じた上、翌14年2月には、その半分の上納を厳命したとのことだ。
 ここでいう「これまで通りの定免制」は5厘増しも含んでいるのだろうと推定する。

 「清明学区の歴史」や「福島市史」に情報はないが、「ふくしま人物誌」にあるように名主達が農民が検見と夫食拝借を願い出るということがあたかもしれない。
 ここに「清明学区の歴史」の情報を重ねれば、その名主の愁訴も享保14年2月には禁止されるという状況だったとのことだ。

 これらの状況下で、「大森代官支配下35箇村の代表者が協議」して、代官所への請願行動となり、福島越訴にまで及ぶことになったということのようだ。
by shingen1948 | 2015-12-28 08:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

義民太郎右衛門霊堂②

 「義民太郎右衛門霊堂の誌」で読み取れなかった部分を、他の情報から補完してみたい。
 まずは、代官所への請願から福島藩への越訴にかけての以下の部分を確認する。
 たまたま享保の中頃当地方に大凶作が起き餓死人が出ました。当時この地域は幕府領であったので、大森代官支配下35箇村の代表者が協議の結果を義民が大挙して再三減税を請願したが、百姓は〇〇〇〇を混ぜて食え老人子供は死んでもよいと〇〇れと許されませんでした。
 「清明学区の歴史」を中心の情報として確認する。
 「たまたま享保の中頃当地方に大凶作が起き餓死人が出ました」の部分だが、これが、享保13年(1727)で、大森代官は岡田庄大夫氏。「大森代官支配下35箇村の代表者が協議」とのことだが、佐原村民の視点としてはその通りらしいが、この岡田庄大夫氏は川俣代官所支配地も管轄であったようだ。享保14年(1728)の代官所請願は、立子山村の小左衛門氏や忠次郎氏とは極秘で示し合わせているようで、川俣代官支配下33箇村の請願とも連動しているとのことだ。

 「大森代官支配下35箇村の代表者が協議の結果を義民が大挙して再三減税を請願」したことにかかわっては、次のような解説があった。
 3月7日大森代官所で信夫35箇村の農民2千人に待ち受けていた言葉は「餓死するものあらば藁へ粉糠を入れて喰らえば当分死ぬことは無い。老人子供はなんの役にも立たぬから餓死しても苦しゅうない。」という代官手代木南浅野右衛門の威丈高な威圧であった。前に進めば手打ち、下がれば餓死、行く術を失った農民がめざしたのは隣領福島藩であった。

 ということで、よく読み取れなかった「百姓は〇〇〇〇を混ぜて食え老人子供は死んでもよいと〇〇れと許されませんでした」の部分は、「百姓は藁へ粉糠を混ぜて食え老人子供は死んでもよいといわれて許されませんでした」ということのようだ。

 案内碑では「万策尽きて福島藩に越訴したので代表者は厳罰に処せられました」とある次の手段である福島越訴については、情報によって微妙な違いがある。
 「ふくしま人物誌」の情報では、「万策尽きて福島藩に越訴した」のは翌年の享保14年(1729)3月で、福島藩と二本松藩に岡田代官の苛政と年貢減免と夫食拝借の要求を越訴したとする。その二本松藩への越訴状起草が太郎右衛門氏だったといわれているとも。自分でも、勝手に一呼吸あるように感じていたところもある。
 しかし、「清明学区の歴史」によれば、代官所請願自体が享保14年(1729)3月7日で、それでらちが明かないと見た農民2千人は、翌3月8日にはそのまま北に進んで須川を超えて町に入り、福島城裏門に詰めかけ、遂に御法度の越訴・集団強訴を敢行したしたとのことだ。
 時間的に空くのは、「万策尽きて福島藩に越訴した」ことと「代表者は厳罰に処せられました」との間のようだ。
 「清明学区の歴史」には、越訴された福島藩の対応についても詳しく解説されている。
by shingen1948 | 2015-12-27 08:29 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

義民太郎右衛門霊堂

 水林公園から「地蔵原堰堤」へ向かって旧道沿いを散歩した後、定番通り「地蔵原堰堤」で荒川を渡った。こちら側は佐原村で荒井村の散歩から外れるが、こちらも整理しておきたい。

 「地蔵原堰堤」から「荒川発電所」に出ると、その排水路沿いに散策道が整備されている。その道筋を歩いていて、思い出したのが義民太郎右衛門氏については整理したが、義民太郎右衛門霊堂にはまだ立ち寄っていないこと。
 これを機会に立ち寄ってみることにした。
a0087378_621221.jpg 荒川左岸のこんもりとした丘の上に、義民太郎右衛門氏ご夫婦の墓と、義民霊堂がある。こちらは、その義民霊堂だ。この東側が荒川沿いの崖になっているのだが、そこに義民太郎右衛門250年祭供養塔の標柱が建ち、その脇に「義民太郎右衛門霊堂の誌」の案内碑が建つ。
 
義民太郎右衛門霊堂の誌
 太郎右衛門は、天和2年佐原村の内で名主の〇〇に生まれました。生まれつき大局聡明で、学問を好み、〇〇感の強い熱情の人でありました。成人して人望益々〇〇く、種々村のために尽力し、特に父祖三代に渉る世に言う太郎右衛門堰と山間三村に及ぶ水路を完成〇〇広い水田を開拓し農家の繁栄に貢献しました。
 たまたま享保の中頃当地方に大凶作が起き餓死人が出ました。当時この地域は幕府領であったので、大森代官支配下35箇村の代表者が協議の結果を義民が大挙して再三減税を請願したが、百姓は〇〇〇〇を混ぜて食え老人子供は死んでもよいと〇〇れと許されませんでした。
 万策尽きて福島藩に越訴したので代表者は厳罰に処せられました。〇情やる方なき太郎右衛門〇〇推挙されてひそかに江戸に上り目安箱に〇〇設し更に死を決して直訴しようと機会を〇〇〇たが、遂に捕らえられて送還され打首の刑になりました。そこに、義民終焉の地の碑が建てられ〇〇、明治になってから顕彰碑が建てられ義民〇〇も〇ましたが、昭和3年太郎右衛門に深く傾倒した〇〇当地の〇封家尾形千代作氏が、その墓のあるこの〇〇を寄付せられたので、太郎右衛門を深く敬慕する地域民が永遠にその徳を仰ぎ霊を慰めるため浄財〇〇〇と勤労の奉仕によりこの霊堂を創建しました。この度私達が客殿を寄進するに際し太郎右衛門の功績と霊堂の由来を刻したこの碑を建立し併せて寄進を太郎右衛門の霊に捧げるものであります

 昭和50年4月31日
 福島市佐原尾形工業〇〇〇〇〇〇〇
      尾形建設〇〇〇〇〇〇〇
 諸説ある場合に結構案内板の解説が最も確かさのある情報であることが多かったという散歩経験から、読み取れなかった部分を他の情報から補完してみたいと思う。
 地域の散歩クイズ的な楽しさかな。
by shingen1948 | 2015-12-26 08:52 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)