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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:会津 ( 127 ) タグの人気記事

 県内各報道は、文化審が19日に以下の5か所18件の建造物が新たに登録有形文化財(建造物)に登録するよう文部科学相に答申したと報じていた。(2019/7/20報道)
 〇 会津若松市の福西本店七件、竹藤(たけとう)四件、仙峡閣一件
 〇 伊達市の旧熊倉家住宅二件、
 〇 大熊町の石田家住宅四件

 信夫の里を中心に散策している者としては、この中の近隣の伊達市の旧熊倉家住宅も気になるところだが、仙峡閣も気になった。
 仙峡閣は会津若松市の芦ノ牧温泉にあり、入母屋造りの大屋根に千鳥破風を飾り、正面には社寺建築の細かな意匠が残る建物とのことだ。注目したのは、この建物が福島市の板倉神社にあった演武場「武徳殿」を移築・復元し温泉旅館に転用したということだ。

 福島市にあった武徳殿という事を頭において「武徳殿」を確認すると、明治28年(1895)に設立された大日本武徳会の支部道場ということであったろう事が想像される。また、戦前までは、地方の武徳殿は、現在の武道館に相当する機能を果たしていたとのことだ。
 その変質について整理したことがある。
 信夫山を散策して「信夫山の神々の変質」として整理した時に、「歴史地図(半沢氏)」の「戦争と信夫山」に福島市の板倉神社にあった「武徳殿」について以下のように紹介されている事にふれていた。

 「板倉神社近くの武徳殿は昭和13年に黒沼社の裏手に東郷山乃木庵修養道場として移築さ
れ、軍国主義の一翼を担った。」
 https://kazenoshin.exblog.jp/4749112/

 更に、「信夫三山~松川と競馬場の情報⑤」で、この「東郷山乃木庵修養道場」とかかわると思われる「乃木庵跡」を散策したことについて整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/10657318/

 この時にふれた石碑は、乃木庵維持会が、昭和14年に二本松藩士の方の敷地寄付に対する感謝碑だ。
 乃木神社由緒に、中央乃木会についての以下のような説明がある。

 「時の東京市市長阪谷芳郎男爵は先頭に立って広く同志を集め、中央乃木会を組織し、乃木邸内の小社に御夫婦の御霊をお祀りしました。また、毎年9月13日にはその御前に祭儀を斎行するとともに青少年への研修会を開催するなど、御夫婦の精神を永世に伝えようという活動が活発に続けられていきました」

 半沢氏の歴史地図の「軍国主義の一翼を担った修養道場」との解説と重なると想像したところだった。
 この散策時には、昭和21年のGHQによる強制解散と日本政府による財産没収により消滅と勝手に想像していたのだが、実際には芦ノ牧温泉旅館として移築・復元されていたということなのだろうと思う。
 その価値は、現存する古い道場建築が少なくなっているため、文化財としての価値が高まっているという事なのだろうと思う。
by shingen1948 | 2019-07-22 11:47 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 先に「会津の『わたつみのこえ』を聞く」として、資料をもとに長谷川信氏について確認している。この時に、会津に出かける時には、ぜひ長谷川信碑を訪ねてみたいものだと思っていた。

 今回、家族と一緒に会津若松市に出かけることになったので、向かう途中に立ち寄ろうと思った。家族には、出かける前にその概要を説明し、立ち寄りたい旨を話しておいた。

 碑のある位置は、「街道Web」がいう「二本松裏街道」筋の「戸の口村」を過ぎて十六橋より手前の右手にあたる。要は旧越後街道筋だ。
 その街道に沿っていくのには、天鏡閣、迎賓館を経由して九十九折れの五輪坂峠を経由して戸ノ口村に入るらしい。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ura/07.htm

 今回は街道筋の散策ではないので、国道49号線を進んで日橋川の金の橋手前から右手の道筋に入った。そこには、戸口集落を案内する標識も立っている。

 左手に日橋川の支流を感じながら林の中をしばらく進むと、右手に田園風景が開けてきて、その先に何かの記念碑が見える。
 そのまま進むと「二本松裏街道」にぶつかるが、この街道筋も結構整備されている。恐らく、現在は戸口集落へ向かう主要な道筋はこちらなのだろうと思われる。
 その道筋を右折してやや進むと「長谷川信碑」が左手に見える。
a0087378_6455478.jpg

 長谷川信 碑 
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事
 だろうだがたった一つ出来る涙を
 流して祈る事だそれが国泰かれか
 親安かれか知らない祈ることなのだ
  大正十一年      会津若松市に生まれ
       四月十二日
  昭和二十年       沖縄南方上空に散る

 先にも記したように、最後の日付の表記は、4月12日が彼の生まれた日であり、そして亡くなった日でもあることを表現している。
 家人は誕生日と亡くなった日が同じことを示す最後の碑文に驚いていた。

 この石碑は、両親の思いから昭和21年5月に建立されたそうだ。
 先の整理では、当初は湖の見えるところにあったのだが、道路拡幅のために100米余奥に移されたのが現在地らしいとしたが、そうではないらしい。当初から湖が見える所には建てることができなかったらしい。ただ、彼の思い出の地近くにこの碑を建てることができたということのようだ。
by shingen1948 | 2017-08-21 06:49 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 前回、亀岡邸見学整理で分かった福島県内での江川三郎八氏の略歴に岡山情報を合わせて整理した。今回は、彼の父が会津藩士江川宗之進であるとのことなので、それを手掛かりにネットで情報を集めてみる。
 まずは、会津藩士江川宗之進広伴の岡山の情報に「職は具取扱い役を勤め、妻は同藩の儒碩山ノ内源太夫の娘。三男一女、不幸短命にして慶応二年病で歿」がみつかる。「長男平六は早死、次男次郎八が継いで武具役人見習の職。三男が万延元年十月十日生の三郎八」も岡山の情報。
 次に確認できたのが、「幕末会津藩殉難者名簿」の白虎寄合一番原隊所属で、9月19日に会津面川で、17歳で戦死した「江上次郎八」項に、「宗之進伜」とある会津の情報。
 白虎寄合一番隊の名簿などを確認すると、「江上次郎八」は、「江川次郎八」の誤りであることがわかる。
 江川三郎八氏は延元年(1860)生まれとのことなので、この明治元年の戊辰戦争時点では8歳だったことが分かる。この時に、兄江川次郎八氏が17歳で亡くなったということになる。
 略歴確認としてはここまでだが、江川次郎八氏の戦死状況確認とともに気になるのが、彼の所属する「白虎寄合一番隊」。わき道にそれる。

 この隊は、奥羽越列藩同盟に背いた新発田藩から攻めて来る新政府軍に対抗するため、慶応4年7月15日に若松を経って越後口の守備についたことが分かる。越後街道を行軍して会津領西端の赤谷に8月2日に到着して守備につくのだが、これ以降2か月以上ずっと転戦するようだ。
 この寄合白虎隊に関しては「寄合白虎隊 ―激闘の七十余日―(堤 章著)」が詳しいとの情報はあるが、とりあえず知りたいのは「江川次郎八」が戦死する事になったこととかかわる戦局概要の部分だ。
 今回は「白虎彷徨」サイトの「白虎寄合一番隊」の項を参考に要約させていただく。
 http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/byakkoy1.htm
 
 9月11日に転戦中の一番隊の主力は、新政府軍と一戦を交え、撃退に成功する。その後、塩川を経て一ノ堰に進み、ここで会津軍は新政府軍に猛攻撃を仕掛ける。 
 この戦いで、敵味方共に多数の犠牲者を出し、白虎寄合一番隊でも中隊長の原早太と隊士5名が戦死。9月17日には新しい中隊長望月辰太郎に率いられ、再び激しい戦闘を繰り返し、3名が戦死するが、そこに江川次郎八の名がみえる。
 結果的には、朱雀寄合二番隊、結義隊なども加わって新政府軍に逆襲し敵を北へ後退させたとする。
a0087378_5155370.jpg 別資料と照らし合わせると、先の中隊長の原早太戦死にかかわる戦闘は9月15日の戦いのようだ。 また、江川次郎八は面川村で戦死、同じ隊のこの日の戦死者木村次郎と関原繁太郎は一ノ堰での戦死とのようだ。
 ここまで確認したところで、手持ち資料「会津白虎隊十九士傳」の中の「会津白虎隊(山川健次郎)」に、寄合隊、足軽隊も含めた白虎隊全体の動向と、隊には属さないが14歳から17歳で戦死した少年も紹介されているのが分かった。灯台下暗しだ。
 この中で、江上次郎八は「完之進倅15日17日いずれかの戦いに参加したるか詳ならず死所は面川村で17日である。年17」と紹介されていた。

 ここまで確認したことを整理する。
 延元年(1860)10月10日会津藩士(武具取扱い役)江川宗之進の三男として生まれる
 慶応2年(1866)父病歿で、兄次郎八が継いで武具取扱見習い役となる。この時、三郎八8歳
 慶応4年=明治元年(1868)戊辰戦争で、兄次男次郎八が面川村で戦死
by shingen1948 | 2016-11-12 09:07 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 今回の亀岡邸見学で頂いた資料の「三人の出会い」という項の中に、「明治31年度(1898)の県会に説明員として江川の名が記されている」という新たな江川三郎八氏情報を見つけた。
 探索者が三人の出会いのきっかけになりそうな事として、県会の資料を丹念に確認していく姿と、見つけた時の一人歓ぶ姿が目に浮かぶ。

 三人とは、亀岡邸の建て主である亀岡正元氏と設計の江川三郎八氏と大工の小笠原國太郎氏のことだ。その建主亀岡正元氏と設計の江川三郎八氏との出会いのきっかけとして推定されるとする情報だ。
 設計者と大工のかかわりについては、「当時の建築物は、設計と大工は阿吽の呼吸で造作が進められています」とし、両者が宮大工修行経験者であることに繋がりの想像の糸を求める。
 江川氏の修業が会津なら二人の技術的につながる可能性が高いとの推定も興味深い。

 江川三郎八氏経歴の出生にかかわる部分を確かめると、「旧会津藩士江川宗之進広伴の三男として、万延元年(1860)10月10日に生まれた。大工修行の後、明治20年(1887)に福島県雇、同24年(1891)には福島福島県技手となり……」とある。
 会津藩士の息子ということなら、会津での修行の可能性は高そうだ。
 必要性があるのかどうかは知らないが、会津藩士江川宗之進の会津情報はもう少し辿ることができる。
by shingen1948 | 2016-11-10 09:25 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 赤十字社の思想を日本に伝えたのは、佐賀藩出身の佐野常民という人物だといわれているのだとか。
 佐野は明治10年(1877年)の西南戦争の際、赤十字をモデルにした博愛社という組織を立ち上げる。その博愛社が10年後の明治20年(1887年)5月に、日本赤十字社と名を改めて、総裁に有栖川宮熾仁親王、社長に佐野が就任したのだとか。
 磐梯山噴火が翌年の明治21年(1888)で、医療救護班を派遣して救護活動を展開される。元々、赤十字社の目的は、戦時における傷病者や捕虜の保護だが、この救護活動が、平時救護活動の世界的先駆けとなるという。
 そして、八重の入社は、その2年後の明治23年(1890)。

 公式的な組織の話はそういう事のようだが、会津で語り継がれるナイチンケールは瓜生岩子さんで、八重さんの影は薄い。
 岩子さんは、戊辰戦争時、戦乱の若松城下に出かけて負傷者の看護をしている。その時に、実際の行動として傷病者を敵見方なく看護しているようだ。
 会津藩側からは「敵軍を看護している」といわれ、新政府軍側からは「誰の許可を得たのだ」と非難を浴びたという。しかし、「けがの手当てをするのに誰の許可もいりませぬ」「けがをした者は皆同じ、国のために戦っているのです」と話したというのだ。
 このことが、土佐藩の参謀板垣退助の耳に伝わり、後には、明治天皇の皇后さまにも岩子さんの行動が伝わって面会することになったのだとか。
 ただ、岩子さんの会津なまりが強く、面会の際には、大山捨松さんの姉である操さんが会津弁の通訳をするほどだったのだとも。(別の見え方をすれば、大山婦人としての捨松さんの力も見えるとも……)

 地域限定の評価は、商家の娘という身分的な事と、看護活動自体が重要視されていなかった事があるのだろう。そういう意味では、八重さんが看護活動をする者にスポットライトをあてさせたということは、会津のナイチンケールにとっても意義深い事の一つかな。

 岩子さんは、小田付村(現在の喜多方市字北町)の油商若狭屋当主渡辺利左ェ門氏の娘で、文政12年(1829)2月15日母りえさんの実家である熱塩温泉(現在の山形屋)で生まれているらしい。9歳の時には父が病死し、その直後に家が焼失して、岩子さんらは、りえさんの実家である熱塩温泉で暮らしていたという。
 天保13年(1842)年には、叔母の家である会津藩医の山内春瓏氏宅に医師の見習いとして住み込み、春瓏氏とともに鶴ケ城へ出入りしていたという。
 弘化2年(1845)には、会津高田の佐瀬茂助氏と結婚。呉服商松葉屋を開いて、一男三女をもうけた。しかし、茂助氏は病死し、手代に店の金を持ち逃げされたこともあって店は潰れた。それで、元冶元年(1864)に母の実家の熱塩温泉に戻っているらしい。戊辰戦争が起きたのはそんな時だ。
 ※瓜生岩子さんの経歴部分は、「会津の華は凛として」をもとにしている。
by shingen1948 | 2013-12-23 06:25 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 一行は、日光見学をした後、そこから白河に入るようだ。主たる交通手段は人力車であろうか。
 民友ネット「会津の華は凛として」から会津までの行程に着目して情報を拾うと、白河から白河街道を通って湖南まで進み、ここからから舟で猪苗代湖北西岸に渡ったらしい。これがほぼ国道294号の道筋で、その勢至堂峠からは馬に乗り換えているらしい。その長旅の苦労が、襄氏の徳富猪一郎(蘇峰)宛ての手紙で「ドタパタドタパタ馬ニ引カレテ若松ニ参ル、ソノ堪忍御了察アレ」から想像できるという。
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 湖南から舟で猪苗代湖を渡る選択は、その「ソノ堪忍」の軽減のためということなのだろう。その見え方で地図を眺めれば、次の峠越え手前の現「舟津」辺りからの乗舟だろうと想像する。着岸する猪苗代湖北西岸は「戸ノ口」だろうと思う。そこから今年の夏に整理した「戸ノ口古戦場」の旧道の道筋を若松に向かったのだろう。
 若松での滞在地は、ドラマでもちらりと写ったが、当時若松で最も大きな木造3階建ての七日町清水屋さん(7月27日)。
 襄氏と時雄氏は、8月1日には人力車で若松を出発して米沢に向かうようだが、八重さんと峰さんは、ここに一カ月余の間逗留するらしい(襄氏と時雄氏が若松に戻るのが8月23日、若松を去って東京着が9月2日)。
 この時に、戦死した父権八氏の墓を、戦場近くの一ノ堰に建てるらしい。
 八重の桜が始まった頃、NHK「家族に乾杯」放映で、綾瀬さんが、山本家の墓地のある大龍寺を訪ねた中に、八重さんが整備したらいし話があったようだが、こちらは、八重さんが亡くなる1年前の昭和6年(1931)のことらしい。散在していた山本家の墓を、大龍寺に合葬し、墓標を建立したということらしい。

 襄氏は、明治19年(1886)にも会津を訪れるのだが、この時には人力車で郡山まで来て(5/21)、そこから上戸(現猪苗代町)に出て(5/22)、ここから舟で戸ノ口に渡り、そこから人力車で七日町に着いている(5/23)らしい。
 この行程の違いは、鉄道の開通とのかかわりるのではないのかな。
 「日本初の私鉄『日本鉄道』の野望」によると、路線や分岐点にかかわるいろいろな野望が複雑に絡んでいるようだが、簡単に整理すれば、前年の明治18年(1885)7月に大宮駅を分岐点に宇都宮駅までの営業が開始され、上野から宇都宮まで汽車での移動が可能になっている。(ただし、栗橋・中田間の利根川は、鉄道連絡船で乗り換える)。
 この利根川橋梁も開通するのが次の月。この年末には那須まで開業され、翌年明治20年(1887)7月には、郡山まで開通している。その前半の交通事情なのだろうと思う。
 この時の目的に「仙台東華学校」の開講準備もあったようで、ここから仙台に向かうらしい。
 そして、翌年の明治20年(1887)6月17日には、その「仙台東華学校」の開講式に夫婦そろって出席することになるようだ。
by shingen1948 | 2013-10-27 07:42 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(3)
 八重さんが、戊辰戦争後に、初めて会津郷里に戻るのは、明治15(1882)年との事だ。ドラマでは、その時代背景として、明治15年(1882年)4月6日に、自由党総裁の板垣退助が岐阜の中教院岐阜の中教院で暴漢に襲われる事件を描くが、福島の地では、県令三島 通庸氏の動向の方が納得しやすいかな。
 国会図書館「近代日本人の肖像」のページでは、氏のその時代の動向を以下のように記す。
 明治4年(1871)東京府に出仕、酒田・鶴岡県令を経て9年から15年まで山形県令。15年1月から福島県令を兼任(同年7月より福島県令専任)。翌年10月より栃木県令を兼ねた。17年内務省土木局長に転じ、翌年警視総監に就任。積極的に地域開発を進める「土木県令」として知られる一方、強権的な手法で自由民権運動と対立、福島事件や加波山事件を誘発した。
 氏は、1月に山形県令と福島県令の兼務となり、その7月に福島県令専任になった頃、この辺りと八重さん達の動向が重なるのだろう。

 ドラマでは、新島襄氏の台詞で、会津に中学校ができる頃らしきことをにおわせる。ここは母校でもあるので、これを機会に確認すれば、「明治15年、旧会津藩士らは資金を出し合い、藩校日新館の流れを汲む私立日新館を設立」とある。
 ここで、ちょっと気になったのが、自由民権運動と近代化にかかわる動きだ。
 というのは、この前に福島・若松・三春・平に中学校を開設しているらしいが、これが県議会の反対で、11ヶ月で廃校になってしまっているという経緯があるようなのだ。
 福島の地では、県令三島 通庸氏が建設や道路開設等の近代化事業を、強引な道路用地収用、重税や労役の義務付けるという手法で推進した事への反発が強い。それで、この時代は自由民権運動家側の視点で語られることが多い。それで、これに対峙する動きや都合の悪い動きは封じ込められている可能性もあると思うのだ。
 これもその一例で、「議会の反対」=「自由民権家の反対」と読み替えてもいいのかな。

 中学校のその後だが、明治17年に再び福島・若松・平に県立中学校が再び開校されるが、今度は明治19年の中学校令の発布で、1県1中学校の方針に伴い、福島中学校(安積高)以外廃校となるようだ。
 それで、再び私立校設立を目指して、明治21年に現会津高校につながる私立会津中学が開設されるという経緯らしい。
 八重さんたちが戊辰戦争後に初めて会津郷里に戻った時期は、三島通庸氏でさえ、会津藩士の困窮を訴えているような時代で、会津の荒れのどん底の時代だったのだろうと想像する。これに追い打ちをかける会津磐梯山の噴火は、明治21年。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、弟42話「襄と行く会津」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/nextsynopsis.html
 「襄と行く会津」
 新婚のみね(三根梓)と伊勢(黄川田将也)を連れ立って、襄(オダギリジョー)は八重(綾瀬はるか)とともに、会津への伝道旅行に出かけることにした。みねを連れて行くことにしたのは、八重の中に、生き別れたうら(長谷川京子)に再会出来るかもしれないという淡い期待があったからだ。そして、ついに踏みしめる15年ぶりの故郷の土。山本家が建っていた場所は長屋に変わっていたが、かすかに角場の遺構を見つけて思い出に浸る八重とみね。するとそこへ、下女だったお吉(山野海)が現れ、うらの消息について重い口を開く。
 ドラマでは、八重さんとみねさんは、その情報を頼りにうらさんのもとを訪れ、再会を果たすように描く。
by shingen1948 | 2013-10-25 06:53 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 立ち寄った戸の口原古戦場と白虎士中二番隊とのかかわりを確認する。
 石田氏の情報によれば、十六橋を突破した西軍が陣を敷くのが会津レクリェーション公園内の小高い丘。
 白虎士中二番隊は、ここからの砲撃の音を船石茶屋あたりで聞いたということなのだろう。その茶屋で、銃に弾丸を込め、携帯品を預け身軽になって戦闘態勢を整え、滝沢峠を越えて、強清水へ向かう。そこから、約一丁半進んで戸ノ口原手前の小高い丘に胸壁を築き、敵を迎撃したのだとか。
a0087378_661714.jpg
 「会津戊辰戦争」の図で、敢死隊の陣の位置をプロットするのは、黄色い○辺りかな。ここは、地形的にも戸ノ口原の低地を見渡せるこの菰槌山(こもつちやま)の地名の小高い丘付近に塹壕を掘って対峙していたらしい。
 白虎士中二番隊が胸壁を築いたのはその右手で、藪に覆われ自然に還りつつあるが、戊辰の役の際に築いた3重の塹壕がこの近くにあるという情報。
 今回の立ち寄りとこれらの情報、それに石田氏明夫氏の「会津の歴史」ページの戸ノ口原白虎隊野営地、白虎隊最前線の位置情報を加えるとこんな感じの配置かな。
 http://www17.ocn.ne.jp/~aizua/tonokuchiikouzu102.pdf
 次の立ち寄りの候補としては、強清水と今回立ち寄った古戦場跡の間辺り。目印としては、「会津藩士二十二人の墓」周辺と小高い丘かな。
 この辺りは、鷹狩りの場でもあり、藩士の軍事訓練の場でもあったのだとか。
 ここが、小さい案内板の「因みに白虎隊士中2番隊士は、此処より2㎞も西の赤井谷地周辺で戦っている。」位置であり、先に整理した会津藩軍が西軍に押されて後退して、結果的に白虎隊が置いてけぼりをくらい、  「腹背皆敵なるを見て大いに驚き、且つ戦い、且つ退き赤井新田に至」るという状況になる辺りらしい。
 そして、ここでの戦いの戦死者の遺体を、近くの集落の人達が集め、手厚く葬り、戦死六人墓、戦死十六人墓を建て供養したのが、「会津藩士二十二人の墓」という関係性かな。

 白虎士中二番隊の退路だが、敵の目から逃れるため旧二本松街道を通らず、この赤井谷地を抜けて鶴ヶ城に向かうという情報は、「且つ退き赤井新田に至」るという情報と重なるが、目指すとすれば、穴切あたりなのかな。
by shingen1948 | 2013-09-13 06:11 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 国道49号寄りに、「戊辰戦争戦死者の墓群」の一角がある。
 「戊辰戦死者之墓」として、戸ノ口原で戦死された会津藩士を弔う墓標と、笹山や戸ノ口原で戦死されたそれぞれの方々の墓で構成される。
 戸ノ口原に点在していた墓を、この一画に移したものと思われる。
 戊辰戦争戦死者の墓群a0087378_554439.jpg
 戊辰戦争は慶応4年 (1868)1月の鳥羽・伏見の戦いに端を発し 会津藩は薩長を中心とする西軍と同年8月以降 激戦を展開した。
 この地は、その際8月22日から23日早朝にかけて、白虎二番士中隊が西軍を迎え撃った場所で 多くの戦死者が出たとされている。
 白虎隊は、この地を抵抗を重ねながら敗走し、飯盛山の悲劇へと進んでいった。
 会津藩は 1ヶ月後の9月22日に若松城を開き降伏したが、この一帯には戊辰戦争にかかわる墓碑や悲話が今も残されている。
 平成3年12月   会津若松市教育委員会
 「会津戊辰戦争」によると、戸ノ口原の戦いでは、その要所を遊撃隊70~80名で守り、敢死隊と奇勝隊各70~80名で戸ノ口原を保ち、他に、第2奇勝隊約120~130人と砲兵を加えて西軍に備えていた。郡奉行古川幸之進は、日橋川の橋梁を焼いて、桑藩の兵と大寺方面を固守していた。
 しかし、戸ノ口原を目ざす「西軍益々増加し、その戦線北は日橋川の左岸より南は赤井村方面に亘(わた)り」、東軍益々苦境に陥って、「白虎半隊頭佐藤駒之進、敢死隊総務辰野勇奮戦して之に死す」。
 「笹山方面では、遊撃隊長小池繁次郎、同組頭安藤物集馬(もづめ)、鈴木文次郎始めとして続々これに斃(たお)る」
 「戸ノ口原に於いては、長坂悌五郎、敢死隊組頭小原信之助、同大沼市太夫、及び、猪苗代隊村松常盤之に死し、死傷刻々相次ぐ」。
 その笹山、戸ノ口原で斃れた方々を弔う墓群なのだろうと思う。

 「白虎隊は、この地を抵抗を重ねながら敗走」するのは確かだが、この文脈で、白虎隊に焦点を当てられると、状況が分かりにくい。ここでは、白虎隊は守備隊の一隊として加わっているだけだ。東軍全体に視点を当てた見え方が分かりやすいのだと思う。
 「会津戊辰戦争」で白虎隊の状況を確認すると、この戸ノ口原を守備する隊が、益々増加した西軍に後方に押されていて、孤立していた状況になっているのに気づかずにいたらしい。それで、「腹背皆敵なるを見て大いに驚き、且つ戦い、且つ退き赤井新田に至」るという状況になるらしい。
 それが、先の小さな案内板の「因みに白虎隊士中2番隊士は、此処より2㎞も西の赤井谷地周辺で戦っている。」という位置なのではないかと想像する。
by shingen1948 | 2013-09-12 05:58 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
  「会津戊辰戦争」によると、西軍が戸ノ口原に達した時のここを守る東軍の概要は、次のような状況だったとか。
 小池繁次郎率ゆる遊撃隊70~80名を以て戸ノ口を扼し、
 辰野勇の敢死隊及び坂内八三郎の奇勝隊各70~80名を以て戸ノ口原を保つ。
 其の他、上田新八郎の第2奇勝隊約120~130人、之に砲兵を加え、極力西軍に当たる
 ※ 扼す=要所を占める
 そして、「郡奉行古川幸之進は、日橋川の橋梁を焼き、桑藩の兵と険に據って大寺方面を固守する」
 ※ 険に據る=危険・困難が多いことから
 この状態から、十六橋を突破した「西軍の一隊、笹山に進出して東軍の右側を衝きしを以て、東軍益々苦境に陥りたるも」、それでも日暮れまで防戦する。a0087378_6553737.jpg この時点で、白虎二番中隊が赴援することになる。
 その位置を「会津戊辰戦争」は、「敢死隊の右に連なりて西軍に対す」と表現する。
 案内板の「因みに白虎隊士中2番隊士は、此処より2㎞も西の赤井谷地周辺で戦っている。」という表現と重なるのが、その位置かなと思う。
 要は、この「戸ノ口原は方一里余に亘る曠原(こうげん)にして、丘陵諸処に起伏しあるも地形の利用困難の地にして寡兵(かへい)を以て大軍を扼止(やくし)し得べき地形にあらず」ということで、地形的に次の丘陵地形地に陣を張っているという状況を解説されたものなのだろうか。
 ただ、「会津戊辰戦争」の移動図では、その最前線はそこから東進しているようにも読み取れる。

 その結果、「之に反し、西軍益々増加し、その戦線北は日橋川の左岸より南は赤井村方面に亘(わた)りて、延長しなければ、東軍益々苦境に陥り、白虎半隊頭佐藤駒之進、敢死隊総務辰野勇奮戦して之に死す」
by shingen1948 | 2013-09-11 06:58 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)