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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:会津若松 ( 109 ) タグの人気記事

 まずは、割烹 田季野のホームページを確認する。
 その建物については、「糸沢陣屋を移築復元した建物」としている。

 糸沢陣屋は会津西街道(下野街道)の宿場だ。
 江戸時代初期から延宝8年(1680)の幕府の命による参勤交代での脇街道利用制限で白河街道利用に変わるまで、この街道が参勤交代の経路として利用されていたという。
 会津藩だけでなく、新発田藩(新潟県新発田市)、村上藩(新潟県村上市)、米沢藩(山形県米沢市)の参勤交代に使用されて、経済的にも廻米道として利用されていたとのことだ。


 会津藩の参勤交代の場合、1日平均約10里前後の移動計画とのことだ。
 朝早くに会津若松城を出立すると、約5里半離れた大内宿で昼食を摂り、約12里半離れたこの糸沢宿が宿泊地の候補地になったという事のようだ。
 この背後に難所となる山王峠が控えていた事などもここを宿所にする理由になったと思われるとのことだ。

 その糸沢宿の本陣職を勤めた阿久津家住宅母屋が、平成10(1998)年9月に有形文化財(建造物)として登録されている。
 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/136398
 阿久津家は、宿場の問屋職や名主を歴任した事から問屋本陣とも呼ばれ、豪商、豪農、地主としての一面があり、往時は敷地内に6棟の土蔵が軒を連ねていたということだ。

 その糸沢宿の本陣の一部が会津若松市の料亭の建物として移築利用されているとの情報もみつけた。これが、割烹 田季野が「糸沢陣屋を移築復元した建物」とするホームページでの情報と重なっている。

 恐らく、母屋部分には殿様を接待する玄関、上段の間・風呂・雪隠等の建物部分も重なるのだろうが、その他に宿として必要な機能もあるはずだ。その宿としての機能を有する建物の部分が移築されたという事なのだろうと想像する。

 なお、伝統工芸品として宣伝が行き届いているのは秋田だが、ここでは、500年の伝統を誇る日常使いの桧枝岐村の曲げわっぱにこだわっているようだった。
by shingen1948 | 2019-08-26 12:02 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 勝手にわっばめしの店と称している「割烹 田季野」の店舗を「福島の建築46」として整理しておきたいと思ったのは、家に戻ってからだ。そうするには準備不足だ。店の中で家族写真は撮っていたが、この店の建物としての写真も撮っていない。
 それで、次の機会に整理できるようにその覚書としておくことにした。

 ここには直ぐに辿り着けたのだが、残念ながら駐車場は満杯だった。
 車を寄せて様子を伺っていると、直ぐに店から出てくる客がいた。暫くの立ち話の後、数台の車が一緒に出ていった。
 思ったよりもスムーズに店に入ることができた。

 店に入ると直ぐに、左手の座敷に案内される。そこで感じたのは、立派な古民家の座敷を店舗用に改築したようだということだった。
 この店の建物についても確認してみようと思ったのは、食事が終わって、左手の帳場で会計を済ませている間に辺りを見回した時だった。
 座敷の前は広い土間になっていて、その向かいがお土産の売店風になっている。その入り口側には一部屋分の空間があって、そこに客用のテーブルが置かれていた。売店風の奥がトイレになっているようだった。
 それらの施設は土間だった空間を改良してしつらえられているようだった。

 ここで思い出したのが八丁目宿の「赤浦屋」だ。そのイメージと重なったような気がしたのだ。
 この宿は「旧鈴木家住宅」として川崎市民家園に移築されている。その宿を実際に訪れたという事ではない。
 浅川、松川散策の後、川崎市の「旧鈴木家住宅」資料を元に念頭でいろいろとイメージを膨らませていたのだ。その事にかかわっては「浅川、松川散策の写真メモから⑩~馬宿はどこ?③」に整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/237961248/
 ここでは、鈴木家間取りとも照らし合わせて建物内部をイメージしてる。
 この建物の右手3間が、宿のフロントにあたるミセの部分のようだった。その左手に8畳の「上段の間」があって、その奥が天袋付「床の間」になっているようだった。
 そして、ミセの右手が通り土間になって居て、その奥にニワがあり、ここに大竈と流しがあったようだった。

 この鈴木家住宅では、上段の間や床の間は、裕福な馬主や騎馬旅行の武士が宿泊する部屋になるそうだ。
 ミセの奥は生活空間のようで、ナンド・チャノマ・カッテが続く。カッテには囲炉裏があるようだった。そして、通り土間には横隊に馬がつなぎ泊められるのだそうだ。その二階に馬方が宿泊するという事だった。

 「割烹 田季野」の店舗は、これと似たような民家を改築したのではないかと想像したのだ。
 それで、家に戻ってから改めて「割烹 田季野」の建物についての情報を確認してみたということだ。
by shingen1948 | 2019-08-24 09:03 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 若松には毎年来ているが、この会津若松市役所本庁舎を訪れる機会はなかった。ここに来たのは何十年ぶりだろうか。
 あらためて建物を眺めてみようとしているが、ここに住んで居た頃にはこの建物のある風景は、日常の風景の一つでしかなかった。
 その日常の風景を思い出している。

 今回は会津若松駅方面から神明通りを通って、この市役所前の通りに入ったのだが、その目印としたのが、左手に見えた蒲生氏郷公の墓碑案内柱だ。
 その次の交差点を左折すると市役所前の通りに入るわけだが、昔はその交差点の中央に信号機が吊り下げられていたことも懐かしく思い出す。多分、この信号機が会津若松市の中でも最も早い時期に設置されたものではなかったろうか。

 ここから、わっぱめしの店を目指す。
 市役所旧庁舎の正門を出て北に進むことになるのだが、その右手に写真屋さんがあった。ふと親父の遺影を頼みに来たことを思い出す。
 この道筋の左手に公会堂があったことも思い出すが、そこは公民館になっていた。
 高校時代、ここで会津バス主催の歌謡ショーを見に来たことがあった。

 目的の店は、この辺りから東の路地にはいるはずと見当をつけて右手の路地に入ると、後ろから「あった」という声が飛ぶ。
 右手の民家風の店構えの建物がそれらしい。
 この路地だけでなく、この辺りのわき道は飲み屋街になっていて、帰省した時にはよく友人と待ち合わせをしたことを思い出す。

 ここに住んで居た事がある者にとっては、ここで過ごした日常との関係性の中でこの建物をみているということだ。
by shingen1948 | 2019-08-22 09:53 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 会津に行く日程を決めた時に、どこで食事をするかのという話になった。
 今までは出かける前に食事場所の話をしたことはなかったが、昨年、昼食でつまずいたことが絡んでいる。
 美由紀食堂という食堂で昼食をとろうとしたら店が閉じていたのだ。その挨拶の張り紙には、店を閉じた理由に、体力の限界と設備の限界、それに跡継ぎの問題が絡んだことが記されていた。
 それなら、三角屋にしようということでそちらに向かったのだが、ここも閉じていたのだ。

 今回は、取りあえず強清水で蕎麦を食べようという事になった。
 しかし、家人が母に御馳走になっておいしかったわっばめしも食べたいと言われた。
 それで、その店を確認したら市役所通り界隈らしいという事が分かった。それなら、市役所に立ち寄ってからその店に行こうという事になった。

 これが、その会津若松市役所本庁舎の正面だ。
a0087378_916444.jpg
 ここに写るのは旧館で、昭和12年建設とのことだ。建設当時には「近世復興式の豪壮な建築様式」といわれたそうで、特に壁面の装飾に趣向が凝らされている。
 竣工の年昭和12年(1937)には支那事変(日華事変)が勃発し、それ以降の建設工事は諸々の統制下に置かれたという。従って、戦前の本格的な洋風建築としては最後の時期の建物ということになるとのことだ。
 今でもここは現役。議場や市長・副市長室、市民課窓口など、市の業務の中心的な役割を担っているとのことだ。この後ろには、昭和33年に新館が増築されている。

 他所から来た者にとっては、今となっては会津を代表する歴史的建造物の一つとしての景観に着目してしまう。しかし、日常的に暮らす方々にとっては、役所の機能としての利便性や建物の安全性が課題になるようだ。
 「<会津若松市長選>あす告示、争点は新庁舎 市民に伝わる論戦期待【河北新報(2019/7/27)】」によると、今回の市長選では、新庁舎建設に絡んでこの建物の保存についても争点になっていたとのことだ。
 https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201907/20190727_61028.html
 その選挙結果は、現職の室井照平氏が当選。
 それで、16年度策定の市総合計画に基づき、新庁舎は2025年度の完成を目標に、文化財の価値がある一部建物(旧館)を残し、本庁舎跡地に整備することになるようだ。
by shingen1948 | 2019-08-17 09:17 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 前回、福島市の武徳殿とのかかわりで「仙峡閣が登録有形文化財(建造物)に登録」の報道について整理したところだ。
 ついでに、「会津日新館天文台跡」が日本天文遺産の第1号に認定されたことについても整理しておこうと思った。
 各報道がこの事を報じたのは半年前の3月だ。ネットでは県内の各報道記事は確認できなくなったが、以下の河北新報の記事が今でも確認できる。
 https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201903/20190314_63005.html

 「<天文遺産>会津日新館天文台跡が第1号に 江戸時代建造、国内で唯一現存【河北新報2019/3/14】」
 
 「日本天文学会は13日、新たに設けた日本天文遺産に会津若松市の会津日新館天文台跡など2件を認定したと発表した。江戸時代に国内で10基ほどあったという天文台のうち唯一の現存で、歴史的価値の大きさが評価された。
 天文台は、1803(享和3)年完成の会津藩校「日新館」の施設としてほぼ同時期に建造されたとみられる。上底約10メートル、下底約22メートル、高さ約6.4メートルの台形の構造物で南側半分だけが現存する。
 当時は観台(かんだい)と呼ばれ、上部に上って星の観測などをしたらしい。文献が少なく不明な点は多いが、日本独自の天文学の発展を示す重要な史跡と認められた」

 他の一件は、公益財団法人冷泉家時雨亭文庫(京都市)所有の藤原定家(1162~1241年)の日記「明月記」(国宝)とのことだ。

 他の報道とも照らし合わせると、江戸時代の天文台は、幕府や水戸藩、薩摩藩などにもあったのだが、構造物が現存するのはここしかないということのようだ。
 江戸時代の天文台は近代の天文台とは異なり、星の観察のほか、暦の基準となる冬至を確定するため、太陽の動きを計測したりしたという。
 その天体の位置を測定し、正確な暦を目指したという当時の日本の天体観測の様子が体感できる貴重な遺跡ということが評価されたということのようだ。

 この「会津日新館天文台跡」は、会津藩校「日新館」に併設された天文台だ。
 先に、大河ドラマ「八重の桜」視聴とかかわって、会津藩校「日新館」を実感する手段として家族を案内して散策した事を整理している。

 〇 八重の桜番外編~天文台跡を訪ねる
 https://kazenoshin.exblog.jp/18360617/
 〇 八重の桜番外編~天文台跡を訪ねる②
 https://kazenoshin.exblog.jp/18371710/
 〇 八重の桜番外編~天文台跡を訪ねる③
 https://kazenoshin.exblog.jp/18375671/

 案内板には「江戸時代の天文台は近代の天文台とは異なり、星の観察のほか、暦の基準となる冬至を確定するため、太陽の動きを計測したりした」ということにかかわる以下の解説があるのだが、見逃している。
 「天文台は、つねに星の観測をするところであったが、特に、毎年、冬至の日には、学校奉行、天文方の師範・暦家が集まり、晴雨・考暦を編したところで、重要な施設の一つであった」

 会津若松市は今回の認定を機に見学しやすい周囲の環境整備に努めるとのことなので、近寄りがたくなって「当時の日本の天体観測の様子が体感できる貴重な遺跡」という側面が薄れる可能性はありそうだなと思うが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2019-07-27 10:27 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 「会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく」で、長谷川信氏の碑を訪ねた事を次のように整理した。
 碑のある位置は、「街道Web」がいう「二本松裏街道」筋の「戸の口村」を過ぎて十六橋より手前の右手にあたる。要は旧越後街道筋だ。
 その街道に沿っていくのには、天鏡閣、迎賓館を経由して九十九折れの五輪坂峠を経由して戸ノ口村に入るらしい。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ura/07.htm

 その場所についての問い合わせがあったので案内を兼ねて記す。
a0087378_1143087.png 地図で越後街道とあるのは、現国道49号だ。その右が郡山方面、左側が会津若松方面だ。
 郡山方面からは、遊覧船の発着所のある長浜を過ぎて、日橋川の金の橋手前から右手の道筋に入る。そこには、戸口集落を案内する標識も立っている。

 左手に日橋川の支流を感じながら林の中をしばらく進むと、右手に田園風景が開ける。

 そのまま進むと「二本松裏街道」にぶつかるが、この街道筋も結構整備されている。


a0087378_11502417.png これは、その部分を拡大した地図だ。
 その近くで目立つのは地蔵堂だが、長谷川信碑はもっと右手に少し進むと、左手に見える。

 旧二本松街裏街道を中心に来ることも出来るが、戸口集落までの道筋が狭くて曲がりくねっている。また、十六橋には、小さな車しか通れないように、脇にガードがついているので、通りにくい。
案内した道筋が広くて安心に通行できる道筋だと思う。
by shingen1948 | 2017-10-09 11:45 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)
 【会津のわだつみ「長谷川信」氏にかかわる情報を得ているサイト】として、「Web東京荏原都市物語資料館」のページをリンクさせていただく。
 メモ帳のページは、今は簡素化されたようだが、最初の頃はちょっと面倒だった。その頃のやり方を踏まえたままなので、ここに一度下書きして、それをメモ帳のページに張り付ける。
 〇 < Web東京荏原都市物語資料館

 「会津の「わたつみ」にかかわる資料について②」に掲げた信氏の所属する「と号第三十一飛行隊隊」の概要と「Web東京荏原都市物語資料館」のページからの情報を照らし合わせると、次のような状況が分かる。

 この隊の7名が特攻戦死だ。
 長谷部伍長以外の出撃基地は、台湾八塊飛行場とのことだ。長谷部伍長は、誠隊から振武隊に転属して、知覧から特攻出撃しているのだということだ。
 この隊では、長谷川中尉をはじめ4名が戦死扱いになっている。
 長谷川中尉、西尾軍曹、海老根伍長は、台湾へ前進中、与那国島で敵機に撃墜されたためだとのこと。
 飯沼伍長も戦死だが、こちらは少し事情が違うようだ。こちらは、特攻出撃はしたのだが、戦果が確認できなかったために戦死扱いになったとのことだ。

 会津の資料では明らかにならなかったこの隊の飛行コースだが、新京から松本へは、新京一平壌、大邱を経て、大刀洗飛行場→各務原→松本のコース。
 松本から台湾へ向かうのは、松本一各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→ 杭州(筧橋)→台湾八塊のコース。                          

 この隊は、浅間温泉の富貴の湯で東大原国民学校学童疎開児187名と出会う。
 「忘れられた特攻隊: 信州松本から宮崎新田原出撃を追って」は、これを糸口にして集められた情報をもとにして紡まれた物語なのだろうと想像している。
by shingen1948 | 2017-09-20 11:58 | ブロクとわたし | Comments(2)
 「戦争経験を聴く会語る会」に参加された方の講演メモから、信氏の所属する「と号第三十一飛行隊隊」の概要部分をお借りする。

 特攻4隊は昭和20年(1945)2月10日満州新京(現・吉林省長春)で以下の特攻隊四隊が編成される。この中の誠第三十一飛行隊(武揚隊)が、長谷川信氏が所属する隊だ。
 〇 武揚隊=と号第三十一飛行隊山本中尉以下 15名 機種・九九襲
 〇 武剋隊=と号第三十二飛行隊広森中尉以下 15名 機種・九九襲
 〇 蒼龍隊=と号第三十九飛行隊笹川大尉以下 15名 機種・一式戦
 〇 扶揺隊=と号第四十一飛行隊寺山大尉以下 15名 機種・九七戦

 武揚隊=と号第三十一飛行隊には、以下の15名が所属する。

 山本  薫  中尉 23歳 陸士五六期 特攻戦死 昭和20年5月13日 徳島
 五十嵐 栄  少尉 24歳 特操一期  特攻戦死 昭和20年5月13日 山形
 柄澤甲子夫  伍長 21歳 航養十四期 特攻戦死 昭和20年5月13日 長野
 高畑 保雄  少尉 22歳 幹候九期  特攻戦死 昭和20年5月17日 大阪
 五来 末義  軍曹 19歳 航養十四期 特攻戦死 昭和20年5月17日 茨城
 長谷部良平  伍長 18歳 少飛十五期 特攻戦死 昭和20年5月22日 岐阜
 藤井 清美  少尉 24歳 幹候九期  特攻戦死 昭和20年7月19日 京都
 長谷川 信  少尉 22歳 特操二期  戦死   昭和20年4月12日 福島
 西尾 勇助  軍曹 20歳 航養十四期 戦死   昭和20年4月12日 千葉
 海老根重信  伍長 19歳 航養十四期 戦死   昭和20年4月12日 茨城
 飯沼 芳雄  伍長 19歳 少飛十四期 戦死   昭和20年7月19日 長野
 中村 欽男  少尉     幹候    生還
 力石 文夫  少尉     特操二期  生還
 吉原  香  軍曹     航養十四期 生還
 春田 政昭  兵長     少飛十五期 不明

「会津の「わたつみのこえ」を聞く32」でふれたように、ここで力石文夫氏とされる生還者は、「明治学院百年史」がいう「信と同じ第一次「学徒出陣」組で特捜2期生だった力石丈夫(神奈川県在住)」氏とされる方と同じ方だろうと思われる。
 また、ここで中村欽男氏とされる生還者は、「明治学院百年史」の中村メモ者である「中村敏男(大分県在住)」氏だと思われる。この方は、信氏の上官で、台湾に向かう時の交戦で、右肩撃ち抜かれ左腕に盲貫、顔面に破片による裂創を負い戦闘不能となり、低空飛行で与那国島に向かい不時着された方だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23904097/

 「会津の「わたつみのこえ」を聞く36」で最終的に確認したように、長谷川信氏の菩提寺に奥さんと尋ねて来た方は、生還者の吉原香軍曹(茨城県出身)だと思われる。
 この方は、済州島へ飛来した時点で機が不調を起こして不時着したとのことだ。この時に怪我を負ったようだ。
 この方は、古河地方航空機乗員養成所で同期だった扶揺隊の生き残り久貫兼資氏が、茨城県古河市まで会いに来たことがあるらしいという情報とつながる。
 また、八紘荘の海老根軍曹の言からは、三十一飛行隊の海老根氏、柄沢氏、五来氏、吉原氏は、同期生であり、他に4名が朝鮮、上海経由で台湾に行く事になったとあるその「他に4名」の中に、長谷川信氏も含まれていると思われるということだった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23913509/
by shingen1948 | 2017-09-19 10:15 | ブロクとわたし | Comments(0)
 「会津へ『わたつみのこえ』を聞きにいく⑯:戸ノ口の風景とその変遷⑥」で記したように、自分を「きけわだつみのこえ」に紹介される長谷川信氏の世界に導いて下さったのは木村健氏だ。
 その木村氏が、東京の学童疎開児童との交流とかかわり情報やNHKラジオ深夜便出演を機に得た人脈を通して信氏の所属部隊の様子や信氏の最後の状況に至る経緯にかかわる径なども明らかになってきたようだ。その冊子が近々出版されるとのことだった。

 それが、「Web東京荏原都市物語資料館」のページを確認したら、「忘れられた特攻隊: 信州松本から宮崎新田原出撃を追って」と題して出版されたようだった。

a0087378_100252.jpg 帯に紹介される「知覧だけでない新たな特攻出撃の史実を掘り起こす」というのに、信氏の所属した「武揚隊」も含まれているように思われる。
 「愛機に「必沈」と書き入れる武揚隊の山本薫隊長。松本-新田原を経て、兄弟隊の武剋隊に約1 か月半遅れて、1945 年5 月13 日台湾八塊より発進。沖縄西方海上の敵艦に突入、散華。彼の長文の遺書も発見された」と紹介されるのが、信氏の所属した隊の隊長さんだ。

 読んでみたかったが、価格が自分の懐具合に比して高かった。
 「ライフログ」は、本当は読んだ本を掲げる趣旨であるらしいが、今回は紹介の意味で掲げさせていただいた。先にも記した通り、自分を長谷川信氏の世界に導いて下さったことに対する感謝の気持ち。
 ただ、現在のところ紹介のページまでリンクできていないので、とりあえずここから「Web東京荏原都市物語資料館」がリンクさせているページにつないでおく。
by shingen1948 | 2017-09-18 10:00 | ブロクとわたし | Comments(0)
 信氏が通った戸ノ口の風景にかかわる変遷を確認していくと、水の利権にかかわる情報と結びついてしまう。猪苗代湖の自然を楽むという感覚とは真逆の見え方だ。
 しかも、その利権にかかわるのは、今回のいまわしい原発事故を起こし、多大な被害をもたらした東京の電力会社だ。
 その東京の電力会社が、猪苗代湖や裏磐梯三湖の水位調整及び放流について水利使用権を持っていることは知っていた。今回は、その経緯を確認したということだ。

 「会津における水力発電の歴史と活用(清水実咲季)」によると、そのスタートは、猪苗代水力電気株式会社が猪苗代第一・第二発電所の電力を需要地東京に売電したことなのだそうだ。そして、その電力会社が、この時に供給していた東京電灯と合併したという経緯とのことだ。
 ついでに、その事も整理しておく。
a0087378_8154215.jpg これは、昨年家族を案内した時に撮った猪苗代第二発電所の写真だ。
 この発電所は、猪苗代第一発電所建設のわずか2年半後の大正7年に建設されたとのことだ。どちらの発電所も、東京駅を設計した建築家辰野金吾氏の設計により建てられたとのことだが、第一発電所は建て替えがあったが、こちらの第二発電所は立て替えられていないという。
 開発したのは、どちらの発電所も猪苗代水力電気株式会社とのこと。出力は第一発電所 62,400kWで、第二発電所37,500kW。

 この猪苗代第一発電所から需要地である東京・田端変電所に送電することになるのだが、この200km以上の長距離110kV送電は、日本で初めてだったとのことだ。
 ちなみに、世界初の100kVの特別高圧送電に成功したのは米国で明治40 年だったという。

 当初、猪苗代水力電気株式会社は、東京へ供給する権利は得て送電していたものの、東京の全需要は40,000kWに満たなかったという。その上、東京では東京電灯・東京市電気局・日本電灯の三社が需要家獲得競争を繰り広げるという状況だったとのことだ。
 今では考えられないが、過剰供給気味だったとのことだ。
 それで、当初は「王子電気軌道」などの需要家にわずかな量を供給することで営業を開始していたとのことだ。

 採算に合う電力供給ができるようになるのは、東京電灯に猪苗代第一・第二発電所の発電電力の大部分を東京電灯への供給できるようになってからだとのことだ。
 その東京電灯への卸売が事業の柱となるという経緯があって、猪苗代水力電気と東京電灯とが合併するようになったということのようなのだ。
 大正12年9月に発生した関東大震災の復興のための電力供給として、23,200kWの猪苗代第三発電所、37,100kWの第四発電所が建設されるという経緯もあるようだ。

 今回の整理で、水利権について見え方が変わったことがもう一つある。
 先に、「東京の電力会社が猪苗代湖や裏磐梯三湖の水位調整及び放流について水利使用権を持っていることは知っていた」とした。
 今回、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の終焉にかかわる発電用の水を小石浜取水門からの取水に切り替えたことについて整理した。
 そこで分かったのは、会津側に流れる水を分岐する地点は小石浜取水門から取水した後の地点で、そこまでの実質的な水利権は東京の電力会社のようだということだ。

 現在、会津若松市の浄水・下水・消雪水はもちろん、鶴ヶ城の堀や御薬園の水のほとんどの水環境を戸ノ口堰に委ねているらしいのだ。
 その戸ノ口堰は、その取水の段階で東京の電力会社の水門を経由しているということのようなのだ。
 つまりは、東京の電力会社の水利権がかかわるのは猪苗代湖や裏磐梯三湖にとどまらないということだ。会津若松市の水環境すべてとも深くかかわっているという事らしいということだ。
by shingen1948 | 2017-09-17 08:22 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)