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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:会津坂下 ( 7 ) タグの人気記事

 江川三郎八氏がかかわったと思われる藤橋の架かっていた場所を確かめたくなるが、これが容易ではなさそうだ。
 「橋梁史年表」の6代藤橋、7代藤橋が現:藤大橋の位置にかかる橋なのだと思う。注目は、その5代藤橋の特記事項に「昭和28年(1953)8月7日片門発電所ダムで水没」とあることだ。
 少なくとも5代藤橋は、現在では水没している位置に設置されていたという事になる。
 もう一つ気になるのが、3代藤橋の流失が1913年なのに、4代藤橋はその10年も前の明治36年(1903)に開通していることだ。
 つまり、3代藤橋まで架設されていた橋の位置と、4代藤橋以降架設されていた位置は違うという事であり、更に、ここは現在水没しているという事である。
 現在の藤大橋は、昭和28年(1953)8月7日片門発電所ダム建設に伴う水位上昇にかかわって架設された橋らしいということが分かる。

 このことにかかわって参考になるのが、「山さ行がねが」というサイトの「ミニレポ 国道49号旧道 旧旧藤橋」というページだ。
http://yamaiga.com/index.html
a0087378_556334.png その情報をお借りして、藤橋の変遷を図に表示させていただく。
 大正4年~昭和28年の藤橋がかかる位置については、大正6年の地図を元に、実際に歩いてみたようで、「橋梁史年表」の4代藤橋の橋げた痕跡も見つけられているようだ。
 明治8年~大正2年の藤橋の位置は、「柳津町誌」に明治以来の初~5代目藤橋は、6~7代目藤橋の60間(108m)下流にあったという情報を元にした推定のようだ。

 ここに、「橋梁史年表」の藤橋情報から読み取れることを重ねてみる。
 6代7代藤橋が、昭和28年~現在の位置、4代、5代藤橋が、大正4年~昭和28年の位置、それ以前の藤橋は、明治18年~大正2年の位置ということになろうか。
 ということは、江川三郎八氏がかかわったと思われる橋の架かっていた場所は、明治18年~大正2年の位置という事になる。また、前回の写真の藤橋は、大正4年~昭和28年の位置という事になる。
by shingen1948 | 2016-11-17 08:54 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 「江川三郎八研究会」発信で確認できる福島での江川三郎八の仕事、その四例目が「藤橋」だ。
 江川三郎八技師が自伝「生ひ立ち野記」の一説をつぶやくという「江川三郎八bоt」というツイッターに「日清戦役も幸ひに我軍の大勝利に帰り、人々心から其の凱旋を喜ぶとき、珍しき難工事の藤橋も、同年九月に首尾よく完成を告げたり」のつぶやきがみえる。
 日清戦争の時期は、明治27年(1894)7月から明治28年(1895)3月にかけて行われた戦争だ。その我が国大勝利の凱旋を喜ぶのは明治28年(1895)のはずであり、珍しき難工事の藤橋完成がその年の9月ということだ。

「江川三郎八研究会」で、江川三郎八氏がかかわる藤橋を3代目と推定する根拠は、橋梁史年表で、この藤橋完成年代を照らし合わせで推論したように思われるので確認する。今回も「江川三郎八研究会」が江川氏がかかわった橋ではないが、明治5年末の5代目の橋だとする写真をお借りする。
a0087378_633308.jpg
 「橋梁史年表」では以下の藤橋が確認できる。流失しては再建することを繰り返していることが分かる。「珍しき難工事の藤橋」であったことも想像できる。

 「江川三郎八研究会」がいう3代橋は、ここでいう3代橋ではなさそうだ。
 この表の2代藤橋の特記事項を見ると、この橋が3回架け換えられていることが分かる。江川氏がかかわる藤橋は、その明治22年(1897)旧6月14日流失の後、明治35年(1902)旧8月27日までの間の明治28年(1895)9月に完成したことが想像できる。この表からは、その数え方では4代橋になり、それが明治35年(1902)旧8月流失のように読み取れるが、研究会資料では、3代橋で翌年の明治29年(1900)7月には流失しているということだ。
 写真は5代とあるが、この表で明治末に現存するのは3代と4代だ。この表からは、併存していた時期が読み取れる。併存の姿もないようなので、4代の姿だろうか。
 1代藤橋
 明治18年(1885)10月開通
 橋長(m): 109 幅員(m): 5.4 形式: 下部工
 2代藤橋
 明治20年(1895)10月開通
  橋長(m): 109 幅員(m): 5.5 形式: 木鉄混合トラス橋 下部工: 特記事項: 明治21年(1896)旧6月10日流失、明治22年(1897)旧6月14日流失,明治35年(1902)旧8月27日流失
 3代藤橋
 明治35年(1902)開通
  形式: 吊橋 下部工: 特記事項: 1913年流失
 4代藤橋
 明治36年(1903)11月開通
 橋長(m): 109 幅員(m): 5.4 形式: 木鉄混合トラス橋 下部工: 特記事項: 大正2年(1913)8月25日流失
 5代藤橋
 昭和2年(1927)10月25日開通
幅員(m): 道路 形式: 吊橋 鋼索 (RC橋?) 下部工: 特記事項: 昭和28年(1953)8月7日片門発電所ダムで水没 出典: 東京製綱株式会
 6代藤橋
 昭和28年(1958)8月7日開通
 橋長(m): 210 幅員(m): 5.9 形式: 下路連続ポニートラス橋 l=43+54.8+43 上部工 高田機工 RC連続桁橋 l=20.4+27+20.4 下部工: 下部工 西松建設 特記事項: 昭和60年(1985)11月9日架替え藤大橋 L=219 b=9.5+2.5 下路トラスドランガ-橋 l=1x175 単純プレートガーダーl=41.9 上部工 石川島播磨,高田,日本鋼管,松尾橋梁 ,三井造船
 7代藤橋
 Jan-16開通
  橋長(m): 116 幅員(m): 4.2 形式: 木鉄混合トラス橋 施工 太田幸松 下部工:

by shingen1948 | 2016-11-16 09:28 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 「江川三郎八研究会」発信が確認できる福島での江川三郎八の仕事、その三例目が「坂下警察署」だ。
a0087378_648598.jpg 「沼郡案内」には、「(二例目の)河沼郡役所の東北、市街中央を縦貫する県道に莅(のぞ)み、高厦巍然として一異彩を放つ」とある。
 こちらも、「河沼郡役所」同様、福島県の地元は江川三郎八の仕事として認知していないと思われる。岡山県側での情報源と思われる自伝に、「明治32年に従事、郡役所と同時の建築」とあることが紹介される。(写真は「江川三郎八研究会」のページからお借りした。)

 姿と共に地元資料だけで確認できないのはその位置。
 ただ、こちらは「沼郡案内」に紹介される各公共施設の位置案内を確認していくことで、何となくイメージできた。
 その自分の中での基準点は、坂下町役場だ。
 ここは、先に坂下町の道路元標が、元々の位置に戻されたことを「坂下町道路元標」で整理したが、この位置が役場の位置関係で考察された。
 http://kazenoshin.exblog.jp/16901810/ 「沼郡案内」では、その役場の位置を「坂下税務署の西隣り」と表現する。ということは、「坂下町役場」の東隣に「坂下税務署」があったという事だ。
 更に、その「坂下税務署」は「坂下警察署と相対す、本郡及び大沼の二郡を管轄す」と紹介される。
 つまりは、江川三郎八がかかわった「坂下警察署」は、役場の東隣の税務署の県道を挟んだ向かい側に建っていたということだろうと思う。
 先に散策した「坂下町役場」の道路を挟んだ斜め向かいに「坂下警察署」が、「市街中央を縦貫する県道に莅(のぞ)み、高厦巍然として一異彩を放」っていたというイメージ。
by shingen1948 | 2016-11-15 09:46 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 「江川三郎八研究会」発信が確認できる福島での江川三郎八の仕事、その二例目が「河沼郡役所」だ。
 一例目の「須賀川橋」は発信内容が地元でも確認されていることが分かるが、こちらは、福島県側の地元が認知しているかどうかは分からない。岡山県側では、自伝を元にその確認を通して、その仕事の確からしさを固めていったという情報のようだ。
 その確認資料が「河沼郡案内」なので、国立国会図書館デジタルコレクションでその確認ができる。ここに、「(福島県河沼郡坂下町。現会津坂下町) 中町の南側にあり、明治31年(1898)の建築にして結構郡内第一の官衙なり北に面し東側に群会議事堂あり」とある。

 ここは、場所的には会津坂下宿を散策して「会津坂下宿街並み」として整理した公園の位置だ。
http://kazenoshin.exblog.jp/8813282/
a0087378_6244784.jpg その後、河沼郡にあたる地域を散策して、おおよその範囲を実感できた時に「河沼郡を意識する」で整理した郡役所だ。ただ、ここに江川三郎八の仕事がかかわるということは意識していない。
 http://kazenoshin.exblog.jp/16913823/
 ここでの整理では、この河沼郡役所が坂下町に設置されるのを、福島県での施行による行政区画として河沼郡が発足する明治12年(1879)として、この明治31年(1898)に建築されたという2代目の建物は意識していない。郡会廃止が大正12年(1923)だが郡役所は存続し、大正15年(1926)ということから、ずっと残っていた建物も明治31年(1898)に建築されたものなのだろうと思われる。
by shingen1948 | 2016-11-14 09:22 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 新潟の城の山古墳で発掘された銅鏡が中国製の可能性が高い「盤龍鏡」と確認されたとの、【毎日新聞(1月15日)】報道を目にした。
 銅鏡は直径約10センチで、竜の姿が彫られていて、中国の後漢(1世紀後半~2世紀前半)または魏晋(ぎしん)(3世紀中ごろ)時代の可能性があるとか。
 報道では、被葬者は当時の大和政権から重要視されていた人物だったと思われるとしている。大和政権から配布されたことを前提にしているのが分かる。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130115-00000100-mai-cul
 地元紙【新潟日報】を確認すると、「この地域に中国から直接運ばれたものではなく」と断わりを入れて大和政権との関係性を考る上で重要としている。
 http://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20130115021644.html#
 当方の勝手ながら、高寺伝承から夢を膨らませている方は、この情報をどう聞いたのかなということが気になった。特に、中国の後漢(1世紀後半~2世紀前半)または魏晋(3世紀中ごろ)の時代の中国製「盤龍鏡」ということと、地元紙が、わざわざ「この地域に中国から直接運ばれたものではなく」という断わりを入れている事こととのかかわかな。

 勝手な興味ではあるが、「青巖と高寺伝承」の伝承伝来にかかわる部分を確認しておきたくなった。
 高寺伝承は、中国南朝の梁国の僧青巖一行が、欽明天皇元年(540)に来会、布教に入り以降繁栄し、宝亀6年(775)に兵火により罹り廃絶したと伝える伝承である。
 その仏教伝承者青巖については、次のように紹介される。
 青巖の出身地は中国南朝の梁国であるが、武帝が502年に梁を建国し国王として即位、仏教を振興し儒教を再興しているほか、我が国や朝鮮半島などの漢字圏に多大な影響を与えたといわれる「文選」「千字文」儒教の「考経」「論語」などを編纂し徳性に勤めているが、青巖はこの影響下に育ち、梁国が最も成熟した時期である540年に会津入りを果たしているのである。
 青巖はこれらの書典類を携えてきて宇内・青津古墳群の支配地の領民に仏教を通して訓育を施したものと思われる。また、この先進文化があってこそ豪族の帰依を受けて仏教王国化を果たし、235年間に及ぶ繁栄を見る事が出来たのではないか。
 この伝承が成立するには、二つの前提が必要だと思う。
 その一つが、我が国にも仏教伝承の公伝以前に、渡来人によって氏族仏教が伝来していたのではないかということ。そしてもう一つが、青巖一行は直接新潟付近に上陸したのではないかということ。
 「この地域に中国から直接運ばれたものではなく」との地元紙の確認は、逆に見れば、自然な地元感覚の中には、中国から直接運ばれることも含まれるという事でもあるとの読みは、深読み過ぎなのかな。
by shingen1948 | 2013-01-23 05:58 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
a0087378_5195345.jpg 山門から立木観音堂までの間、いろいろな案内板が建つ。
 「あいづめぐり」の解説から、会津三十三観音巡礼地図、それに会津6詣の旗。
 ここが十一面千手観音で子年生まれの守り神との話とかかわって、三仏堂に阿弥陀如来を中心に薬師如来、六地蔵菩薩が鎮座し、戌・亥年生まれの守護神だとして参拝所が設けられる。小金塔には大日如来が鎮座する。未・申年生まれの守護神は大日如来ということらしい案内があり、この塔の再建の発端についての案内板が建つ。
 会津風土記<寛文6年(1666)>に、その昔恵隆寺立ち木千手観音堂の現境内地に、小さなまばゆいばかりの塔があったと書かれている。
 このことにより、昭和57年の調査で礎石が発見され、方形に塔の四隅の土台石として正方形に発掘された。
 寺に継承されてきた御仏も、昔をしのぶ御姿に大補修され、発掘された4個の大石を四隅に配し再建して今日を迎えた。
 寺に立ち寄った感じとしては、今の自分の感覚では雑然とした印象だが、その中から懐かしさの風景を思い出しているところもある。
 生まれ年による守護神対応は、この地域の日常的な生活の中で心の持ちようとして仏様とのかかわりを表しているようにも思う。会津坂下町のホームページの立木観音(千手観音像)の解説の後半に、「会津三十三観音」「ころり観音」の信仰や「だきつき柱」や「櫛奉納」などの解説を加えるのも、そのことを表現したかったのだろうと思う。

 こういったものの他に、櫛の奉納解説だとか、ここで祈願して旅に出て、旅の途中難に合ったが、無事帰郷できた御礼に奉納した鰐口などというものもある。それだけでなく、歌碑等各種石碑があって、その中には、別れの一本杉の記念歌碑案内などというものまである。
 会津にいた頃、近所には拝み屋さんもいたし、近所のさもない観音堂毎の祭りもあったし、訳もなくここがお前の生まれ年の守り神だと言われたなぁなどという記憶もよみがえる。親父が亡くなった時、おふくろに冬木沢に連れて行けと頼まれたことも思い出す。

 今の自分の感覚には、こういった日常生活との連続の中で何かを信じるという感覚が湧きおこらなくなっている。いつ切れてしまったのかなぁと思いだそうとしている。
by shingen1948 | 2012-11-30 05:27 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

会津坂下宿街並み

 最近、「懐かしいと感じる街並み」が気になっている。
 町の活性化のために、それが破壊されていくことを目にしているのだが、自分の中で懐かしいと感じる街並みが漠然としている。それで、充分に散歩の時間がとれない時には、何となく懐かしいと感じる風景を切り取ってみることにしている。
a0087378_4284370.jpg
 会津坂下町には何度か来ているのだが、ほとんど散策したこともない。少しだけ時間的なゆとりがあったので、旧街道あたりの景色を確かめてみることにした。

 ここ坂下(ばんげ)は、会津の主要都市の一つで、会津若松市、喜多方市、会津高田町、柳津町までいずれも12km(3里)であり、俗に『坂下の馬鹿三里』といわれているという。ただ、会津若松市からも各都市は、12km(3里)であったような気もする。それなら『会津の馬鹿三里』でもよさそうに思うが、……。
 また、会津五街道の1つである越後海道の最初の宿でもある。
 越後海道は、現在の会津若松市と新潟県の新発田市を結ぶ越後街道で、江戸時代に発展した交通の要所の一つだ。
 この街道は、会津と日本海側を結ぶ重要な街道で、村上藩と新発田藩の参勤交代や海産物を会津地方に供給するルートだった。街道に平行するように流れる阿賀川は、新潟まで続いているので、舟運の発達によって北前船で大阪や京都と多くの物資や文化がもたらされ、会津坂下町の経済に大きな影響をもたらしたともいう。
 人口は公には2万人とのことだが、店の人に話を聞くと、人口の減少で2万人を切ってしまっているとのことだ。


a0087378_431576.jpg
 創業寛政2年との看板を掲げる醤油味噌醸造蔵元の店を見つけた。
 
 家に戻って確かめると、都会のお酒好きの方々には、この向かいにあった廣木酒造が有名らしい。確かに、ここも趣のある店構えだった。せかされて、写真を撮り逃したのが残念。
 ここも、創業は江戸時代中期の文政年間と聞く。


a0087378_4335718.jpg
 旧街道の坂下宿の外れに諏訪神社がある。ここで旧街道は北に折れて新街道と重なって進むことになる。 恐らくこの宿をみつめてきた神社だろうが、詳しい案内はない。
 家に戻って詳しい案内ができない状況が分かった。会津若松市の由緒ある諏訪神社の社伝とかかわるようだ。
 創建年は不詳だが、嘉禎元年(1235年)に祀るとするものもあるらしい。しかし、この会津若松市の諏訪神社社伝では、会津に正式に諏訪社が勧請されたのは永仁2年(1294年)に、芦名盛宗が信濃国より勧請したとある。したがって、会津地方最初の諏訪神社以前は、土民信仰の対象のものであったと考えられているということらしい。
 新編会津風土記では、この神社は、北側の古町地区→日月神社のあたり→新町の角(領主加藤嘉明の時の寛永8年(1631年頃)と遷ったという。
 それが、例の明治17年の会津三方道路開削の時に現在地におさまったということらしい。この地なのかこの神社なのか不明だが、元禄14年(1702年)という灯籠があって、少なくとも300年以上前からこの街を見つめいていたことは確実なようだ。
 昭和の半ば頃までは、祭日には中央通りから神社境内にまで露店が並び、この広場に見世物小屋が建ったという。サーカスの興行もあったという。


a0087378_4362236.jpg
 建物の前面看板がその建物と一体化していたり、細かい飾り細工がしてあったりする建物は、新しい建築物ではあろうが、古い町並みに溶け合ってよく似合っている。


a0087378_4375342.jpg
 この街は、明治以降も河沼郡役所がおかれ周辺地域の中心的役割を担っていたということだ。その郡役所置かれた場所は現在公園になっている。
 坂下代官所が置かれたのもここらしい。
 会津藩祖保科正之公入部後の天明2年(1782年)坂下村に郷役所が置かれ、天明8年(1788年)に下荒井村に郡役所が置かれてその配下となり、ここに代官所が置かれ、坂下組と牛沢組を統括したという。明治以後は河沼郡役所が置かれて、大正15年まで機能していたらしい。
 昭和40年代までは、ここに県の出先機関が置かれていたが、それらが会津若松に統合されて、跡地を公園整備したという。
 散歩をするのには、諏訪神社にも、この公園にもちょっとした案内がほしい。分かる範囲で、曖昧なことは曖昧のままでいい。
by shingen1948 | 2009-08-16 05:00 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)