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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 霊山神社からは、神社前の通りを南下して国道に抜けて家に戻っただけなのだが、途中から見えた霊山が迫って見えたことを記しておきたかった。
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 この道は初めて通る。三差路があって、左方行き止まりの案内があって、右方に進む。この辺り上り道だが、道幅は広い。その少し進んだあたりからの霊山の姿だ。


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 写真の撮り方が悪いので、その思いが表せない。ここに「宮脇遺跡」からの霊山の姿を貼り、それと見比べその違いで、その思いを思いだせるようにしておく。

 国道につながるとされた道を更に進むと、「霊山閣」「湧水の里」方面の案内板に出会う。
 この辺りの道が、先に整理した時にあった「霊山中腹の横断線は、昭和14年12月26日県道に昇格」した道とかかわるのだろうか。
 案内される「霊山閣跡」は、紫明峰などの北霊山登山の根拠地で、昔は国家神道の国策の中で、霊山神社コースの起点として賑わったという。

 ここからは、途中、所々広くなっている所はあるが、道幅は狭くなる。対向車がいない事をいない事を願いながら進む。
 幸い摺れ違ったのは1台だけだった。その車は馴れているらしく、直ぐに摺れ違えるところまで下がってくれた。
 石田村から国道に抜けて、そのまま家に戻る。
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 ※ 道路元標が目に入ると写真は撮るのだが、それをあまり張り付けることがない。とりあえず、住民センター前の「霊山村道路元標」を、今回の忘れものとして、ここに張り付けておく。
by shingen1948 | 2010-12-18 05:38 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 一緒の家人が、霊山神社に行ってみたいとのことで、説明会の後にそちらに向かった。
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 霊山神社については、先に整理している。
 〇 霊山町「宮脇遺跡」発掘調査説明会⑧~帰り道② 
 〇 霊山町「宮脇遺跡」発掘調査説明会⑦~帰り道 
 この中で、明治13年に創建されることになったきっかけやその経緯についてもふれた。
 「史跡名勝『霊山』」のコラムに、その経緯の中の創建の地にまつわるエピソードが紹介されていた。
 石田村の方々は、国司舘を主張し、大石村の方々は、古屋舘を主張して、裁判に持ち込むまでこじれたが、最終的には古屋舘に決したということらしい。それでも、1885年の別格官幣社の社格を得た祭典には、わだかまりを捨て祝ったとのことだ。

 ここに立ち寄った時点で、その意識があったわけではないが、今回は創建の地が「古屋舘」であることを意識して整理してみる。
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 改めて平成20年に頂いた宮脇遺跡周辺の中世遺跡を確認すると、霊山神社を含む一帯が、中世遺跡「古屋舘跡」とされている。遺跡としては、井戸・腰郭・堀切・土塁・堅掘を挙げられていた。更に、「山形・宮城・福島の城郭」を確認すると、詳細は不明とのこと。

 地図と見比べながら確認していくと、神社前の駐車場が、一つの郭であり、そこから神社をとらえると、城郭に見える。
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 神社の後ろ側にも回り込んでみる。本殿の後ろが高台になっていて、


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 本殿の東側に平場が広がっている。その奥に、


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稲荷神社が鎮座する。地図と見比べると、その北東の高台に三角点があるのだろう。


 本当は、城郭として確認したというのではなく、周りの様子が気になり出しただけ。
by shingen1948 | 2010-12-17 05:37 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 石垣がみつかった空間から降りて行くと、その先に日枝神社がある。
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 何時でも遺跡の周りを確認してから説明会に参加するので、この日枝神社の周りは何度も確認している。ただ、まだ意識の広がりとして連続的にこの風景につながっていたわけではなかった。


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 神社の右側には、霊山碑がある。これは、白河藩主松平定信の建立とのことだ。
 「史跡名勝『霊山』」では、次のような南朝評価の一環としての経緯が説明されている。
 定信は、南朝の結城宗広の忠節を伝えようとして、「感忠銘」の題字を揮毫し、儒者広瀬典に撰文させて白河市に大磨崖碑を作らせた。その後、1817年に、同様に北畠氏を称えて、ここに「霊山碑」を建てた。

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 神社の左奥には、石塔群があって、この左側の細道が日枝神社から「宮脇遺跡」に続いていたという広がりだ。
 報道によると、この宮脇遺跡周辺には、12坊が存在していたとのことで、その中の一つの坊である学頭坊が、日枝神社の後ろ辺りだとの言い伝えがあるとのことだった。


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 「史跡名勝『霊山』」の12坊の解説を確認すると、学頭坊は日枝神社(二の宮)の前にプロットされる。更に、学頭坊の東側に「撞鐘堂」がプロットされる。
 平成20年に頂いた宮脇遺跡周辺の中世遺跡を記した地図の宮脇遺跡近間の部分に、それをプロットして見ると、こんな感じらしい。

 なお、同誌では、12坊のうち11の坊は特定されているとしている。その坊は、宮脇遺跡の東側の道沿いにプロットされている。地名等も根拠にしたものだと思う。
 
 今年は、遺跡の周りの様子と見比べながら、その広がりの中での宮脇遺跡を捉えられてきたなという思いがある。
by shingen1948 | 2010-12-16 10:06 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
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 発掘された石垣跡に、ざるに入れられた遺物が置かれていた。今回の発掘で出土したものであろうか。この遺跡からは、大量の瓦が出土しているとのことで、地元の方も見慣れているもののようだ。


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 今回の説明会では、改めてこの寺の軒瓦のクリーニングされたものが展示される。
 ここで発見された瓦は、梁川の茶臼山西遺跡(東昌寺)で発見された軒瓦と同じ文様である。その東昌寺は伊達氏が創建した寺院の中でも室町時代筆頭の寺院である。また、それは京都の鹿苑寺の瓦の影響を受けているということの確認の意味だろう。


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 先の説明会で整理した遺物のページとつないでおく。
 ○ 宮脇遺跡現地説明会⑤
 ○ 霊山町「宮脇遺跡」発掘調査説明会③~出土瓦
 ○ 霊山町「宮脇遺跡」発掘調査説明会②~礎石建物跡


 先に整理した事を確かめてみると、そのカテゴリーが、「伊達政宗」と伊達氏への興味でくくられたり、「信仰と仏教」でくくられたりしているのに気がついた。確かに、この辺りを散策し始めた頃は、伊達氏とかかわる興味だった。
 今年は、山岳仏教とか信仰の興味で霊山寺をみているような気がする。同じ風景なのだが、興味の持ち方によって見え方も違ってくる。
 分類としては混乱だが、そのままにしておく。
by shingen1948 | 2010-12-15 05:12 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
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 宮脇遺跡の南部に石垣跡が見つかったとのことだ。
 この石垣から果樹園にかけて平場が広がる。ここは、本堂跡から一段低い平地になっている。


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 報道によると、ここは南北17m、東西30mとのことだ。この平場の土を押さえていたということだろうか。
 その石垣を捉えなおすと、こんな感じだ。


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 その石垣を、西側から見ると、その石垣がづっと続いているというように広がっていて、土抑えの役割をイメージできる。


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 仏堂の平場の方から見ると、こんな空間だ。右側の細道の先に日枝神社がある。この細道が、日枝神社からこの遺跡に登る時の道筋だ。


 報道では、この成果を宮脇遺跡の広がりという観点で解説されていた。この遺構は、学頭坊とのかかわりかもしれないとのことだ。
 説明会の中では、それぞれの遺構が、石垣等で区分けしている可能性があるとの見方につながるものとしていた。
by shingen1948 | 2010-12-14 06:03 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 今年の中心話題は、昨年の池と庭園の話の続きとこの宮脇遺跡の南部に石積みの遺構が発見された事のようだ。
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 池と庭園の話にかかわって説明されたのは、「東の池の広がりにかかわるあたり」と「『2号礎石建物跡』の北東角あたり」と「東の池の端のラインあたり」だ。


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 「東の池の広がりにかかわるあたり」は、2で示したところだ。黒っぽいところが、池の広がりらしい。その図の黒い点がプロットされているところが、池の端の確認地点ということらしい。
 この写真の説明者の足元の後ろの石が、その池の端の確認地点ということらしい。


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 その地点から、3の方向を見るとこんな感じの広がりだ。人ごみのあたりが、「2号礎石建物跡」の北東角あたりなので、その左側にその建物は見えたはず。


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 その3で示したのが、「『2号礎石建物跡』の北東角あたり」。白いテープで「2号礎石建物跡」が示される。


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 この3地点の北側の高台は、今はセイタカアワダチソウが生えている。この辺りが「1号礎石建物跡」を埋め戻したところだ。


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 昨年説明されたその「2号礎石建物跡」の庭園と「3号礎石建物跡」があったあたりは埋め戻されている。
 今年、新たな話題が加わった石積みの遺構は、ここから一段下がった左手奥だ。これが、日枝神社からここに来る時の脇道につながる。


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 「東の池の端のラインあたり」で、1で示したところだと思う。ちょっと位置関係を見失っているかもしれない。かなりの水が溜まっている。

 池の存在は分かるとしても、その水の確保が気になるところだが、ここは直ぐに水が溜まるらしい。確かに、ぐるりと見回すと、地形的には谷地であり、湧水が自然に集まるらしいことが納得できる。ただ、穏やかな時にはよさそうだが、自然災害に遭いそうな地形でもある。

 辺りをぐるりと見回すと、所々にシートが見える。これと説明図に記された試し掘りのところと重ねてイメージすることで、その高低と広がりを実感することができる。
by shingen1948 | 2010-12-13 06:08 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 何度か説明会に来たのは、線として興味がつながってきたからだ。
 今年のその線は、昨年の説明会で池と庭園の話が出たことであり、新聞報道では、宮脇遺跡の南部から、新たに石積みの遺構が発見された事を報じていたことだ。
 そこから、一歩引いてみると全体的なイメージが気になる。
 今年の説明会では、調査が行われている全体が分かる図が配られた。その図をもとに、自分なりにイメージできたことを確認する。
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 一番北側の奥の一段高い位置に「1号礎石建物跡」がある。これが、「庫裏(くり)」など生活に関連する施設とのことだった。
 次の大きな広い平場が、「2号礎石建物跡」だ。そこには、池や庭園がある。
 その南の「3号建物跡」は、廻廊とかかわるのかどうか。建物の柱跡があったということだった。
 そして、今年は、その南一段下がった平場に、石積み遺構が見つかったということのようだ。

 これが、全体の概要のようだが、その中心は「2号礎石建物跡」のようだ。
 ここは、平成19年の2次調査で、建物の規模が明らかになっているようだ。
 その規模は、東西4間、南北3間以上のものであった。柱間が、2m10㎝(7尺)で、建物西側に基壇状の石組の施設が見つかっている。出土遺物は、仏具主体であることから仏道にあたると考えられたようだ。
 昨年(平成21年)の第4次調査では、その「2号礎石建物跡」周辺を中心に発掘調査され、この建物には基壇が伴っていて、その基壇の周辺は石組で構成されていることが分かったということだ。
この基壇の南側には洲浜が広がり、東側には池泉が広がる庭園状の遺構が存在するのだろうということだった。それ以前の調査等ともかかわって総瓦葺きだった可能性が高いということ等も確かめられたという。
 これらの事から、「2号礎石建物跡」が宮脇遺跡の中でも非常に格式が高く、重要な建物になる可能性があるとされたという経緯のようだ。
 今年のこの辺りの調査では、「2号礎石建物跡」の北東角あたりと東の池の広がりにかかわるあたりを確認したようだ。

 言い方は慎重だが、応永8年(1401)に伊達氏が深くかかわって再建された「霊山寺」であり、それは伊達氏がその威信にかけて、鹿苑寺を中心とした京都の文化を見事にここに実現して見せたとだと言いたいのだろう。
 その根拠の一つが瓦だ。
 ここで発見された瓦は、梁川の茶臼山西遺跡(東昌寺)で発見された軒瓦と同じ文様である。その東昌寺は伊達氏が創建した寺院の中でも室町時代筆頭の寺院である。また、それは京都の鹿苑寺の瓦の影響を受けていると解説されていた。
 更に、東側に池泉が広がる庭園状遺跡の存在が確認されたことで確からしさが増したと云う事なのだろう。
by shingen1948 | 2010-12-12 05:36 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 11月27日には、宮脇遺跡の現地説明会に出かけてみた。
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 昨年もこの宮脇遺跡の現地説明会には参加しているので、その概要を先に確認しておく。

 昨年、「宮脇遺跡の現地説明会」について最初に整理したのは、その前の年に行われた説明会とのかかわりだ。一昨年は、「1号礎石建物跡」が中心話題だった。ここは、遺物等などから「庫裏(くり)」など生活に関連する施設の礎石建物跡だろうということだった。
 この説明会に参加して整理したことを、最初に結んでおいた。

 昨年の「宮脇遺跡」調査現地公開説明会は、「2号礎石建物跡」が中心話題だった。
 ここは、平成19年度にも調査されていた。この「2号礎石建物跡」は、総瓦葺きの仏堂と思われていたわけだが、その規模や性格を確認するということだったようだ。
 その事について、以下に整理した。
 〇 宮脇遺跡現地説明会②
 〇 宮脇遺跡現地説明会③
 昨年の発掘で特に注目されたのが、池らしいものが確認できたという事のようだ。
 それは、権威の象徴として庭園の存在を意味づけるという事の他に、ここの瓦の文様が、京都の鹿苑寺の影響を受けていると考えられているということと関わっているような気がする。その陰には、伊達氏の影響を意識していると思われる。
 その事について、以下に整理した。
 〇 宮脇遺跡現地説明会④
 〇 宮脇遺跡現地説明会⑤
 ここでは、廻廊らしき建物の柱跡等にも触れ、この建物が焼け落ちたものを整理したと思われる層についてもふれた。
 そして、「宮脇遺跡現地説明会⑥」 では、先に整理した「この里の霊山寺御本尊『阿弥陀如来像』」のニュースにふれ、現在の霊山寺に立ち寄ったことについて、「霊山寺~宮脇遺跡現地説明会⑦」で整理した。
 報道等によって、今年の調査は庭園の池あたりの確認と、寺の広がりあたりに焦点を当てるらしいと思っての参加だった。
by shingen1948 | 2010-12-11 05:44 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 「伊達市歴史文化講演会」の時に、ロビーに千葉県香取市の善雄寺に安置されている阿弥陀如来の実物大の写真が展示された。この頭部は、元々は里の霊山寺の御本尊であったと思われる阿弥陀如来の頭部らしいということだ。
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 霊山寺縁起の「文禄年中(1592~96)伊達政宗が、仙台に国替えになり、蒲生氏郷家臣の岡野佐内という者に一山の寺領が召し上げられ、堂塔伽藍や寺まで打ち破られ、山の古木は伐採されて、持ち運んだ」ということとかかわるのだろう。
 この時代に、里の霊山寺の御本尊であったと思われる阿弥陀如来の頭部が、千葉県で発見されたようなのだ。この事については、「霊山町『宮脇遺跡』発掘調査説明会④~本尊の発見」で整理した。
 この頭部に胴部が付けられ、千葉県善雄寺に安置されたということらしい。
 仏像は、高さ176㎝の座像で、胎内墨書銘によると、頭部は「伊達郡霊鷲山」より出現の慈覚大師の御作」とあり、平安時代に霊山山頂に霊山寺を開山した慈覚大師円仁とのかかわりを示しているという。
 胴部は、江戸期の宝永年間(1704~10)に香取郡佐原村の伊能氏が胴体部分を完成させ寄進したことが示されているとのことだ。

 その千葉県香取市の善雄寺に安置されている阿弥陀如来の実物大の写真を制作して、霊山寺の本堂に掲げたという(「福島民友」2009/8/27)ことだが、その事については、「宮脇遺跡現地説明会⑥」で整理した。これが、今回展示されているということのようだ。

 地元の研究会ではこの事についての考察がなされている。そのことについて「霊山町『宮脇遺跡』発掘調査説明会⑤~『霊山史談』」として整理した。
 千葉県善雄寺で発見された霊山寺の御本尊であった阿弥陀如来の顔の特徴から、10世紀末から11世紀初頭と推定している。口絵部分の説明によると、その特徴を髪際水平、三日月型の目が切れ長で細い、鼻の穴は空けず、耳朶の穴がなく、藤原初頭~中期の特徴があるという。本文も読むと、特に目の特徴を中心に年代を特定したようだ。
 その仏像の頭部内部に、奥州伊達郡霊鷲山より出現したもので、慈覚円仁の作とする墨書銘があるという。

 この研究会誌では「ふくしまの仏像」で「最初の寺院」として整理される「陸奥の三山とする大蔵寺・菩提寺・仁部(仁生)寺」についてもふれているので、そのかかわりについても整理した。
 湯野不動寺の縁起から、霊山寺が円仁の寺と呼ばれていたこととその創建の年代を推定し、この仁部(仁生)寺が霊山寺で、円仁の姓が仁生であることと結びつけることが面白かった。そして、菩提寺を西原廃寺として、その創建を徳一と興福寺で同窓の智興であるとし、廃寺の金堂規模の大きさの考察から、恵日寺と同時期と推定する。
 この菩提寺は、830年に定額寺に昇格することから、西原廃寺はそれ以前の創建とする。

 11月27日には、その里の霊山寺である「宮脇遺跡」の発掘現地説明会があった。
by shingen1948 | 2010-12-10 05:09 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 今年の9月19日に伊達市歴史文化講演会があった。
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 その講演会の中に県立博物館の高橋氏の「霊山寺縁起と天海僧正」という講演があった。
 講演の主旨は、宮脇遺跡調査の進展に伴って、関連する文献資料などの再調査も必要ではないかというようなことだった。それで、霊山の由来を語る貴重な文献資料である「霊山寺縁起」をどう読み解くかということに焦点を当てたお話だったように思う。
 まず、縁起に登場する大僧正様を手掛かりに、その縁起の成立状況と近世の霊山寺について霊山寺縁起の記述の確からしさを考察し、その事とかかわって「霊山寺縁起」全体をどう読み解けばいいかという問題提起だったように思う。
 全体を読み解く時の配慮として、他教団については排除されている可能性を示唆されていた。
 霊山が弘法大使信仰、真言密教の霊場であった可能性のある資料が提示される。また、天海の経歴なども含めて、中世寺院では、僧侶は諸宗兼学・兼修であることが紹介される。そして、寺院は、諸宗兼学・兼修の場であるという近世の宗派寺院との違いを説明された。

 天海僧正については、そんな中で解説されたものだ。
 その事績として、徳川家康の神格化、東照大権現の権威づけで、上方を優越することに焦点を当てて解説される。その関東天台宗の奥州拡大の視点と「霊山寺縁起」の成立が結びつくということだったように思う。
 この話を聞いている中で、天海僧正ゆかりの地を訪ねながら、かかわりのあることを結びつけて頭の中を整理してみたいと思った。
ただ、このことのために出かけるのではなく、会津に出かける機会にという変なこだわりがあった。
 今回は、それが実現したということだ。
by shingen1948 | 2010-12-09 05:17 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)