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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 自分の興味は、この長岡分岐点の確認までで落ち着く。しかし、ここから保原方面に進んでみて、そこも整理しておきたくなった。それは、長岡分岐点から伊達橋の対岸まで、この電車道が実感できる痕跡が残っていて、少し想像を膨らませると、そこに電車道がイメージできる情景があるのだ。
 飯坂東線を熱く語る人の気持ちが分かるような気がしてきた。
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 長岡分岐点から熱田神社の天王様とその隣の金秀寺までは、普通の細道だが、そこを過ぎると、国道4号バイパスをまたぐ歩道になる。
 これが元電車道そのもののようだ。


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 進んでいくと、下に国道4号線バイパスが見えてくる。


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 この歩道を国道4号バイパスの上まで進むと、その向こうまでこの歩道が続いているのが分かる。
 これも元電車道のままだ。


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 更に進むと、その向こうには、元電車道を歩行者用の橋にした伊達橋が見える。これも先に整理したように元の電車道だ。

 右手にある街灯用の柱は、他の電柱とは違う。これが電車用の電柱の活用ということのようだ。

 恐らく町の予算的な側面から、歩道橋として活用するようになったのだろうが、この電車に愛着を持っている人々にとっては、この道そのものが思い出の景色のまま残っているように感じているに違いない。


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 北東側から眺めてみると、電車道そのものだ。今にも電車が走ってきそうな感じがする。


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 この道が、車道をまたぐ景色も、電車の走っていた当時の景色そのままなのだろう。


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 4号線をまたぐためのこの橋げたも、鉄橋で渡る電車道そのものだ。


  ここには、電車が走っていたころの懐かしい時代にタイムスリップできる景色がある。
 こんな景色を保有していることが、なんだか贅沢なことのように思えてくる。
by shingen1948 | 2009-07-28 05:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

飯坂東線⑥~長岡分岐点

 飯坂東線についての整理に一応のけりをつけた積もりだったが、長岡分岐点について確認していないことは落ち着きが悪い。
 そういうことで、奥州街道沿いの飯坂東線を思い浮かべながら、伊達町にやってきた。
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 落ち着きが悪いのは、この長岡分岐点が飯坂東線の形式的な目的である「飯坂遊覧」と本来の目的である地域間交通をつなぐ要の地点だからだ。この地点は、あちこちに整理された情報があるのだが、自分の体感を通していないということが気になるのだ。
 個人的な持ち合わせを確かめると、チンチン電車に乗った時に「長岡分岐点」という停留所名があったことを覚えていて、その中に憧憬に近いものを感じていたということだ。


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 田町薬師堂のあたりまで来て、奥州街道と電車道の重なり具合が不安になった。
 通りがかりの方に声を掛けて確かめた。
 初めのうちは、怪訝な顔で相手をしてくださっていたのだが、「長岡分岐点」という言葉を出した途端、明快に解説して下さった。
 表情からは、不審者では無く散策者として歓迎されていることが分かる。そんな感じだった。
 別れ際に、「信用金庫があるから見逃さないように」と、何度か念を押された。
 地域の方の心の中には、この長岡分岐点はまだ生きているということが分かった。それだけでも、声をかけてよかった。
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 電車道は、先に散策した奥州街道で、天王通りの繁華街でもあるということだ。


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 その道を進むと、教えていただいた信用金庫前に出た。
 ここから、形式上の目的である伊達車庫前を経由して湯野駅に向かうには、このまま真っ直ぐ進んで、次の信号を左折するという。
 地域間交通機関として保原へ向かうには、ここから右に曲がって進んでいくらしい。


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 反対の北側からこの地を福島方面に眺めてみる。真っ直ぐ進むと福島方面へ向かう。ここを矢印にそって左の方向に進むのが保原方面への道となるようだ。


 ここは天王様が2社あることは先に整理した通りだが、
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ここを西に少し入っていくと、


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 直ぐに八雲神社の天王様だった。
 後で確認して分かったのだが、電車道に沿って保原方面に進むと、熱田神社の天王様が現れる。その隣が金秀寺だ。


 ここは、電車の要であるだけでなく、この街の要の位置でもあることが実感できる。
 もし、先にこの長岡分岐点を意識して散歩すれば、道に迷うこともなく、明確な位置関係で認知できただろうなと思う。長岡分岐点は、今もこの街の要であることを実感する。
by shingen1948 | 2009-07-27 05:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
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 これは、О氏という方の顕彰碑のようだ。
 いろいろな地区の問題の解決に貢献したということで建立されたものらしい。地区民による顕彰は、時には主観的で公共の価値観と遊離することもあるだろうが、個人の隠れた功績を語り継ぐ意義は、日本人の美学の一つかもしれないとも思う。
 この碑に、貢献したことの一つとして、伊達橋事件も入っている。この碑の方が、この箱崎の地域代表として伊達橋騒動や他の地域の問題に真剣にかかわってくれたということということなのだろう。

 この伊達橋騒動の時代は、地域の身近な問題は、地域に生活する人々が決定していたのだ。
 当時のこの辺りの自治は郡会という郡単位の地元密着議決機関であったのだ。桑折の郡役所その実行機関としての郡役所だということだ。


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 この碑は、元箱崎小学校跡地記念碑近くに建っている。

 散歩の中で、こんな背景を感じながら、「ふくしま一世紀」にある「伊達橋騒動」の具体的な内容を読む。

 
 大正3年(1914)2月の郡会で、この橋の位置が決定することになったという。その段階での議員獲得合戦では、長岡・保原側は17人しか確保できなかった。それに対して桑折側は23名を確保して、断然優位に立ったという。
 そこで、長岡保原側は強引な議員奪取作戦を展開する。
 桑折側はそうはさせないと、自派の議員を金茂旅館に集めて、1000人の若者を動員して旅館を守らせたというのだ。
 それに対抗して、長岡保原側は2000人の若者を動員して桑折町内になだれ込んで、旅館を総攻撃に打って出たというのだ。

 どちらも地域の振興がかかっているので必死だ。
 長岡保原側の若者は、酒樽を積んで飲み干しては、その空になった酒樽に旅館に投石するための石を詰めて運んだという。
 桑折側の若者も、投げ込まれた石を投げ返して大混乱になったようだ。
 更には、態度のはっきりしない議員が放火を受け、全焼1半焼1の被害が出したともいう。
 この騒動は、5日間も吹き荒れて、福島と仙台から警官隊約2500人動員されようやく鎮圧されたとのことだ。
 ここで、福島県初の騒乱罪が適用されて、指導者クラス16人に懲役8年から罰金刑までの処分が下ったという。

 騒乱を具体的に整理したのは、騒乱自体は認められるべきものではないが、そこに地域を思う強い心を感じたからだ。
 お洒落な都会では、こんな騒動は起きないだろう。それは、地域の振興にそれ程強い思い込みがないからだ。例えあったとしても、その決定に自らが直接かかわることはない。
 組織が大きくなった都会では、自分たちの問題は他人任せにならざるを得ないところがあると思うのだ。
 この行動の背景にある地域を思う気持ちの強さが、羨ましい。
by shingen1948 | 2009-07-20 05:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

飯坂東線③~伊達橋騒動

 伊達橋と隣の大正橋は、大正3年(1914)年の架橋工事の地元負担金等をめぐって起きた伊達橋事件にかかわる橋との話は聞いていた。
 しかし、騒動といったマイナスのイメージが伴うものは、なかなか情報が拾えない。具体的な騒動の様子がなかなか見えなかった。それが、別のことを確かめるのに開いた「ふくしま一世紀」の中に、偶然その騒動の概要の情報を見つけた。

 その情報によると、この騒動は軽便鉄道の誘致が絡んでいるらしい。
 その発端は、大正2年8月27日に猛烈な雨台風が襲ったことらしい。この台風は、本県での被害が、死者62人家屋全壊544戸、橋の流失947か所という記録的な大被害をもたらしたのだが、この時に、長岡―保原を結ぶ軽便鉄道の伊達橋も流されてしまったという。

 問題は、この伊達橋を掛け替える位置から起こったという。
 「長岡―保原の方々」は、勿論現在位置がいいと主張したのに対して、「桑折の方々」がここより2㎞下流に架ける運動を始めたという。
 その背景には、同誌によると、桑折が伊達の郡役所所在地であり、中心的な存在だったことや、保原が軽便鉄道が通じた影響で発展をみせ、桑折を追い抜きそうな勢いだったことがあるらしい。散歩の中で得たことを思い出すと、郡役所の位置についても、その候補は保原と桑折だったらしい。それが、桑折の積極的な誘致活動が功を奏した結果という話も聞いていた。
 桑折の方々は、自分の町の近くに伊達橋を架け直してもらい、軽便鉄道の便利を利用して町を発展させようと考えたという。
 これを知った長岡と保原側は防御作戦に乗り出し、桑折側と深い溝ができ、遂に大正3年(1914)に伊達橋事件という騒動に発展してしまったらしい。
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 これは大正橋だが、「ふくしま一世紀」によると、その騒動の結果として保原―長岡の軽便鉄道はそのまま伊達橋を通過し、新たに大正橋を設置して、保原―桑折間の軽便鉄道が開通したということだ。

 別の言い方もみたことがある。
 この騒動で、桑折の方々が主張する伊達郡役所と保原を結ぶ有利なルートが認められて、この大正橋を架けることになったとも聞く。


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 そのため、長岡村は村営で伊達橋を架設することになったという。伊達橋は、自動車、歩行者、家畜の併用橋としての橋梁を架設することになるのだが、資金難を乗り切るため、トラスの部分は英国からの払い下げ品が使われているとも聞く。
 桁は明治中期のイギリス製ポニーワーントラスを鉄道省から払い下げてもらって単線軌道併用の道路橋に改造転用し、路面は板張りだったという。
 その橋が、飯坂東線廃線に伴い、昭和54年(1979)軌道が撤去され、路面をコンクリートにして、歩道橋に改築されたということのようだ。
by shingen1948 | 2009-07-19 05:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)
 飯坂東線のスタートは、軽便鉄道だ。軽便鉄道は、軽便鉄道法で許可された狭軌鉄道のこととのことで、「ふくしま一世紀」では、その敷設時の事情について紹介している。
 明治末期には、幹線鉄道は、産業と軍事目的のために国有化された。その例外として、産業と軍事目的にしない私鉄の軽便鉄道が認められるという状況だったらしい。
 福島の軽便鉄道は、本当は信達地域の生糸輸送線として考えたいのだが、産業目的は認められないので、その目的を遊覧目的として認可を得たということらしい。
 そこで考えついたのが飯坂温泉で、「飯坂温泉と結ぶ遊覧」用というのを表向きの目的としてスタートしているという。そのため、まずは基本路線として福島―長岡―飯坂を開通させたということのようだ。
 その後、本来の目的である長岡から保原、梁川、掛田、川俣方面に路線を延長したという経緯をたどるということのようなのだ。
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 これは、伊達橋の歩道だ。
 伊達橋と別に掛かっているのだが、元々の橋を転用して歩道にしているらしいことは感じていた。それにしても何とも不思議な形とも思っていた。

 最近、これが長岡分岐点から保原に向かう伊達橋の鉄橋を利用しているということを知った。そうだと分かると成程と合点がいくだけでなく、これからも残ってほしいと願う気持ちになる。


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 改めて横から眺めてみると、鉄橋独特の橋げたであることが分かる。
 福島―長岡―保原を結ぶという本来の目的に関わる名残である。廃線後に歩道用に転用したということがよく分かる。
 この名残の橋は、各地域の中心市街となっている拠点同士を結ぶ「都市間交通」の象徴の名残という意味を持つ。

 全国でも有数の「路面電車で都市間交通網が張り巡らされていた」ということの証だと勝手に思う。
by shingen1948 | 2009-07-18 05:54 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)