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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 松川・浅川地域散策の整理を通して、確認したい事が明確になってきたので、この辺りで一区切りつけておこうと思った。
 それで、今までパソコン上に散らばしておいた松川・浅川地域散策情報を整理していた。

 今度整理しておきたいなと思ったのは、伊達の熊阪氏にかかわる情報だ。
 先に「熊阪台州氏」として15回に分けて整理していたので、その続きとして「熊阪台州氏(その2)」とした。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23457007/

 先の整理の「熊阪台州氏③」辺りから、その師を入江南溟氏から松崎観海氏に変えざるを得なくなる事情と「西遊紀行」の刊行をからませて整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23478257/
 その「熊阪台州氏⑥」では、松崎観海氏との手紙のやり取りの中の明和3年6月20日付第4書牘に「覇陵熊阪君墓碑」を撰する話とかかわる話が出てくる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23480619/
 今回の整理は、その「覇陵熊阪君墓碑」を確認してきたことについてから始めることにする。

a0087378_10184939.jpg この写真は、2010年春に「熊坂家蛍域」を撮ったものだが、この「覇陵熊阪君墓碑」はこの中に建っている。
 撮影当時は、ここには案内板にある熊阪覇陵・台州・盤谷氏の三代の墓碑があり、保原町指定史跡になっているという事で立ち寄っただけだったので、特に整理もしていなかった。
 ここに建つ墓碑のそれぞれと熊阪覇陵・台州・盤谷氏の墓が一対一の対応で認識しているということでもなかったし、それを確かめようという気もなかった。

 それが、少なくとも「覇陵熊阪君墓碑」は確認したいと思うようになったのは、前回の熊阪台州氏の整理とのかかわりだ。

 なお、2010年に立ち寄った時には保原町指定史跡だったが、現在は伊達市の指定文化財となっているようで、案内板も変えられていた。
 保原町は伊達市に合併された事に伴う処置のようだ。新しい案内板の指定日を確かめると、平成4年となっていて、旧保原町指定をそのまま引き継いでいることが分かる。
by shingen1948 | 2018-01-19 10:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 26日、暖かい日だったのでどこかへ出かけようということになった。
 一人で出かける時には、その場その場の気分で方向を決めるが、家族と出かける時には、とりあえずの目的地を決めることになる。
 その目的地を亀岡邸とした。
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 この亀岡邸については、2010年1月に「福島の建築 ⑫」として整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9816999/

 勝手口の方に回ってみたら、10月1日から11月3日までは、歴史資料館と亀岡家住宅は無料開放になっているという案内が張られていた。
 今回は思いがけず、中を見せていただくと共に、たくさんの資料を見せていただくことができた。
 それで、「福島の建築(12の2)」として整理し直すことにした。

 見せていただいた亀岡家の中の様子とともに、今回新たに知ったことがいくつかある。
 その一つは、亀岡家住人にかかわる事。この邸の旧地を探ることとからめて整理してみたい。
 もう一つが、この邸を建てた方。今回、大工さんの情報と共に、興味ある設計者の情報があったので、こちらも探ってみたい。
by shingen1948 | 2016-10-30 09:01 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 春日神社の信夫渡碑は、「天明7年(1787)9月伊達熊阪定邦撰」で「金竜山人筆」ということになる。
 「ウィキペディア」で確認すると、筆の「金竜山人」は、為永春水【寛政2年(1790)~天保14年(1844)】という江戸時代後期の戯作者のようだ。本名が佐々木貞高、通称が長次郎とのこと。その筆名の一つに、「金竜山人」があるようだ。
 江戸の有名作家や権威者の名を借りることによって、内容の正しさを強調する手法なのだろうと思うが、年代が少し合わない。

 今回、確認しておこうと思ったのは、こちらの方ではなくて、この歌を選定した伊達熊阪定邦の方だ。
a0087378_1024420.jpg 熊阪定邦は、散歩資料の中では号の「台州」ということで知られた上保原村高子の儒学者だ。
 「熊坂墓地」に建つ案内板では、この「台州」の号で、父の号「覇陵」、子の号「盤谷」で、共に江戸中期から後期にかけての儒学者・篤農家として知られているとある。 
 詩人としても高名であったことも付加的に紹介される。

 今回確認する中で面白い紹介を見つけた。
 「福島県立図書館」の「江戸時代に『桃太郎』を漢文にした『熊坂台州』」という紹介だ。こちらは、付加的に紹介された漢詩人という側面が中心的に紹介されている。
 この紹介文の後半にある「天明3年からの洪水や冷害による大凶作が元で大飢饉が発生した。この時期を境に台州には思想上の変化が見られ、文学運動を停止して救貧事業に力を尽くすことになる」という方が中心的に紹介されているのが一般的な紹介のようなのだ。
 それが、「名は定邦または邦。字は子彦。通称は初め宇右衛門、後に(たまき)、号を台州という。上保原村高子生まれの漢詩人である。元文4年(1719)、豪農の家に生まれた。父の定昭(覇陵)は、江戸後期に保原を中心に漢詩文の文学活動を繰り広げ、自らの屋敷を「白雲館」と号した人である」と紹介される。
 漢詩人の文学活動の視点からの紹介だ。
 その後、台州は22歳の宝暦10年(1761)に江戸に出て入江南溟に師事するのだが、それ以降の経歴や著書が紹介される。
 翌年には、江戸から上方へ約3か月間の旅に出て見聞を広めたともある。

 肝心の桃太郎についての紹介の概要は次のようだ。
 安永年間末、台州40歳の頃に弟子に文章修練として、物語を語らせ漢文訳をさせる。その模範解答として取りまとめたものの一つが「桃奴事」(桃太郎)という事のようだ。
 寛政4年に出版された書物で、台州が主宰する正心塾の入門テキストとしても用いられたとのことだ。その中に納められたが「二翁事」(花咲爺)「蟹猿事」(猿蟹合戦)「桃奴事」(桃太郎)の三話とのことだ。
by shingen1948 | 2016-10-12 10:32 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 本格的な福島城下整備のはじまりは、蒲生氏郷公時代らしい。
 散歩の中で得たその頃の近隣の町村情報を整理するのは、ごく普通の生活者である地区民の視点から、権力者がどう見えているのかということの興味だ。

 霊山町の「宮脇遺跡」発掘調査説明会で、霊山寺の御本尊であった阿弥陀如来が千葉県善雄寺で発見されたということが説明されたことがあった。この事については、「霊山町『宮脇遺跡』発掘調査説明会④~本尊の発見」で整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7642356/
 これが、伊達地域の蒲生氏郷公の評価的な見え方とかかわっている。

 「霊山寺縁起」によると、文禄年中(1592~96)伊達政宗が、仙台に国替えになり、岡野佐内という者に一山の寺領が召し上げられ、堂塔伽藍や寺まで打ち破られ、山の古木は伐採されて、持ち運んだという。
 この「岡野佐内という者」が、蒲生氏郷公の家臣であり、霊山寺の御本尊である阿弥陀如来の頭部が千葉県に運ばれて、胴部が付けられ千葉県善雄寺に安置されたというのは、この頃らしいのだ。
 このことと蒲生氏郷公の若松城下などの整備が結びつき、この地から多くの遺物等が持ち運ばれたのはそのためではないかと推測されているようなのだ。
 会津での蒲生氏郷公の評価が高いのはこの城下町づくりだが、伊達近辺ではこのことにかかわって評判が悪い。
 この霊山寺御本尊「阿弥陀如来像」が、千葉県香取市の善雄寺に安置されているのが発見された事については、その後の伊達市歴史文化講演会で詳しく解説された。この時に本堂に掲げたというその実物大の写真も拝むことができた。
 このことについては、「霊山寺縁起と天海僧正③:伊達市歴史文化講演会②」の整理でふれた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11687636/
 この講演会では、この「霊山寺縁起」の記述の信ぴょう性の考察のお話も伺えた。県立博物館の高橋氏の「霊山寺縁起と天海僧正」という講演だ。
 講演の主旨は、宮脇遺跡調査の進展に伴って、関連する文献資料などの再調査も必要ではないかというようなことだった。それで、霊山の由来を語る貴重な文献資料である「霊山寺縁起」をどう読み解くかということに焦点を当てたお話だったように思う。

 高橋氏は県立博物館員らしいが、その県立博物館は会津に在り、そこで仕事をなさっている方のようだ。普段は当然のように蒲生公の若松城下町づくりについて肯定的に考察されているのだと思う。 それが、この伊達市歴史文化講演会では、伊達の寺の混乱は蒲生氏がかかわるという否定的な見方の後の講話になっていたのも面白い。
 ある地域では、功労者として奉られる賢者が、ある地域ではマイナスのイメージを持つ。光の当て方によって違った見え方があるというのは、散歩の楽しみの一つ。

 この時代に、福島城下は蒲生氏郷公の客臣木村氏によって整備されている。これが、近隣の人々からはどう見えていたのかなということの興味とつながる。
by shingen1948 | 2016-01-06 08:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

伊達駅舎~福島の建築45

a0087378_4452152.jpg 伊達駅は、明治28年(1895)4月1日 日本鉄道の長岡駅として開業する。当時、福島駅―桑折駅間の駅として、その候補地としては、瀬上付近があがっていたが、瀬上地区が消極的で、長岡村の要望が強かったという状況から、こちらになったという経緯があるらしい。
 長岡駅の名称が、伊達駅に改称するのは、大正3年(1914)とのこと。長岡駅の名称は、長倉村と岡村の合併により、長岡村となった事によるものだが、全国的には、新潟越後の長岡駅との混同を回避するため、主要駅と中間駅の相違から、こちらを伊達駅に改称されたとか。もう一つの説に、駅勢圏が伊達郡に広がったので、郡名をもとにするようにしたというのもある。
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 駅勢圏の広がりに大きく影響したのが、明治38年に、大日本軌道株式会社福島支店が進出して、長岡村を基点として、十綱、梁川に至り、大正4年12月に川俣まで延長されたことのようだ。大正6年9月より信達軌道株式会社を創立経営となり、それが福島電鉄、福島交通株式会社となっていく。
 軌道が開設され軽便鉄道が設置される経緯を確認するのに、いつもは福島市の視点で見ているが、今回 は、伊達駅の視点で見直しているということに。
 明治41年4月福島駅前―長岡間、長岡―飯坂間開通、7月長岡―保原間開通。
 明治43年6月には、保原―梁川間が開通。
 その後、大正9年保原―桑折間が開通、大正15年に全線電化、保原―桑折間は、川俣―掛田間と共に廃止。昭和42年9月聖光学園前―湯野町廃止、昭和46年4月、全路線営業廃止となる。
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 現在の駅舎は、昭和14年(1939)に完成。上屋184㎡・集札上屋226㎡・車寄せ10.8㎡で、改築費用は2万円を上回ったとか。
 駅舎の造りは、霊山神社を型どり、飯坂温泉の浴槽をイメージしたとか。
 それで、駅舎の外側の石積みの石は、摺上川の河原石にこだわったとか。

a0087378_452293.jpg  ここが待合室だが、内側のタイル張りは、温泉をイメージしたものとか。
 創建当時は、待合室の天井板もケヤキのベニヤ板だとか、建て屋が高いので左官屋さんの事故があったりしたとか。


a0087378_4573256.jpg これは、 本当は駅内プラザを撮影したものだが、確かに天井まで写っているのは、これだけだ。意識していなかったが、いわれてみると確かに天井が高い。
 平成14年(2002)木造武家造の駅舎を有することを理由として、東北の駅百選に選定されたとか。


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 伊達駅の電信電話施設や電報にかかわる情報を掲げてみたのは、公衆電話22番の表示を見つけたから。
 ● 大正7年4月1日 電信 福島仙台1番線音響機単信式
         電話 福島白石線 壁掛 電話線第3項の○り変更
 ● 大正8年2月21日電話 公衆電話22番 壁掛
 ● 大正11年9月10日電話福島交換桑折線 壁掛 司令電話線 壁掛け
 以下略すが、その名残が、今も残る。

 この駅舎改築に伴い、先の駅舎は桑折駅に移築されたのは、先に整理した通り。
 伊達駅を中心に見れば、この建物になる前の建築物が桑折駅に残っているとも見ることもできる。
 その視点で整理すれば、明治28年に開業、大正9年10月増築、大正12年4月2.3等待合仕切り撤廃。

 桑折駅でも整理した駅舎内にコミュニティスペースが併設されたようだが、現在は、直売所になっているようだ。

 ※ これらの情報は、主として「心のふるさと 伊達駅90年史【渡辺喜作著:1989/3/30】」による。著者は、昭和16年(1941)桑折駅入社、福島駅転入、昭和21年(1946)伊達駅で退職の経歴の方のようで、その経歴から、両方の駅に想いを寄せられる方の不都合はない情報と判断した。
by shingen1948 | 2012-10-16 05:20 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 桑折駅からの帰り道は、旧道諸説の中の桑折付近の東山道の道筋を確認しながら戻る。「大木戸付近通過を想定する東山道の道筋~旧道諸説⑤」の続きだ。
http://kazenoshin.exblog.jp/16480038/
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 ここの、「次の桑折宿付近も同様で、この宿を直線で越えて奥州街道に結べるような道筋を描くことになって、おおよそ奥州街道と重なるような道筋を描くようになる。」という部分が、駅前の案内板をお借りして図示すると、こんな感じかな。

 この線とクロスするのが、桑折寺あたり。そこまでの道筋は桑折駅と奥州街道桑折宿の間を想定するが、道筋が残っている訳ではない。
 要は、駅前の通りを戻るしかないのだが、桑折駅と奥州街道桑折宿に焦点を当てると、意識から遠ざかる隙間ができて、何の特色も無い駅前の通りが、意識の中では、想像の世界が蘇るような新鮮さ。
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 奥州街道が桑折宿を過ぎて直線に戻る付近から、桑折寺を振り返る。この奥に、古道を想像するのだが、 ここから、奥州街道と重なって東山道を描く道筋も、桑折町の一里壇から堀切端付近までだ。

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 ここからみえる風景が、一里壇―堀切端付近なのだが、ここから旧道諸説の多くは、一度東湯野の字山道辺りまで西進するように描く。
 東山道は直進が原則と聞く。それなら、信夫山を回り込むために東側にずれた道筋はそのまま直進すれば奥州街道と重なったままとみてもよさそうに思う。しかし、諸説の多くは、東湯野を経由するように描くのだ。
 信夫山を回り込むために東側にずれた道筋を戻そうとして描いた道筋が、再び国見越えのための道筋に変わる変換地点が東湯野から一里壇―堀切端付近の東西に走る道筋と見ればいいのかな。
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 ここも実際の道筋はなく、しかもその視野の方向には新幹線で視野が遮られている。
 近くの道筋を進んで、その新幹線沿いの道筋を進んで振り返れば、こんな感じ。この奥の一里壇から堀切端付近まで、古道の道筋を想像するのかな。
 左手に、最近野球で頑張ったらしい聖光学園の校舎が見える。
by shingen1948 | 2012-10-15 05:59 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 この事が表面化するきっかけは、福島市大波地区で生産された玄米から暫定規制値を超える放射性セシウムが検出されたことだ。
 11月14日に生産者の依頼により玄米をJA新ふくしまの簡易分析器で分析した結果、暫定規制値を超える値が検出されたという。その日に福島市放射線モニタリングセンターで再分析も同様の結果となり、15日に県が米の放射性物質調査本調査の方法に準じてサンプリングし、県農業総合センターで分析を行った結果も、暫定規制値を超える630ベクレル/kgの放射性セシウムが検出されたという。

 この問題でショックなのは、県の調査で安全宣言された後に、暫定規制値を超える放射性セシウムが検出されたことにかかわることだろうか。
 先に二本松市小浜地区で、暫定基準値なみのセシウムが検出されているはずであり、福島県では、この経験も踏まえたモニタリングをして調査に生かしたはずだと思っていた。 
 あらためて、その調査がどう生かされたのかということを視点にネットで検索してみる。

 検索した範囲では、専門家の方々は、高濃度汚染が起きた主たる原因を、以下のような水田土壌の土性との関連としたように思われる。
 この地区(二本松市小浜地区)の土壌は、福島県の多くの水田で見られる粘土がかった土壌と異なり、「全般的に有機物含量が低く、塩基の溶脱が激しく強酸性を呈する土壌が多く、地力的に劣る」「礫質赤色土」が圧倒的に多いように見える。
 この土壌の違いで、放射性セシウムの吸着力には、最高で10倍の違いがあるとした。
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 この福島市大波地区は、福島市という行政区の中では、渡利地区や山口地区と共に、特定避難勧奨地点指定の検討や除染モデル地区の対象になるなどした比較的放射線量が高い地域に囲まれていることは周知のことだ。
 更に、近くの伊達市南部の特定避難勧奨地点指定の検討された小国地区や飯舘村の隣接地域である月舘地区とも隣り合うという関係だ。 
 それでも、この地区での水田土壌の放射性セシウム濃度の調査が行われなかったのは、この土壌主因特殊説とのかかわりだろうか。それとも、伊達市との連続の中で調査点を決定したというかかわりだろうか。

 ただ、散歩人が出会う単なる農民の方々は、その話の端々に地形とのかかわりの方が主因と感じているらしいことが伺えた。
 比較的線量の低い地区では、僅かなセシウム検出は表面的な問題には上がらない。その範囲の中での話だが、その検出される特徴の共通項は山際と感じていらっしゃるようだった。専門家や科学者から見れば理由なき単純な勘でしかないだろうが、散歩人としては、その素朴な勘を専門家よりも信じるところがあって、勝手に地形主因説が優位だと思っていたところがあった。

 今回の確認でも、先の専門家の方の報告に、主たる要因とはしていないが、以下のようなこの素朴な勘の根拠になりそうな部分も見えている。

 褐色森林土で栽培した稲を部位別に放射線量を測ると、穂に近づくほど高かったというものだ。穂は7、8月の暑い時期に成長するとのこと。
 調査者は、「放射性セシウムを含む山林の落ち葉などの有機物が分解され、かん水と共に水田に流入した可能性がある」と指摘したとのことだった。 
 今後、大雨の際、土壌に流れる放射性セシウムの量を調査するとのことだ。

 今から思えばという事でいえば、二本松市小浜地区で土壌の違いの可能性があったという結果の活かし方の問題ではないのかなと感じる。
 素人考えでは、先の考察は、低線量の地区であっても、似たような土壌の所ではその可能性を考慮しなければならないとする資料にすべきだったのではないのかなと思う。それを、特殊な土壌だから他は大丈夫と活用したことに、誤りの原因の一つがあったような気がする。
 その背景には、産業としての農業の最後の砦である米にセシウムが検出されないことを願う意識が考察に強く働いてしまったのだと思う。しかし、そのことが、かえって「福島産」の信用を失墜してしまう結果に導いてしまったように思う。

 専門家が、単なる農民の素朴な勘に勝るためには、表面に出す必要はないが、主たる要因でないと考察された地形とのかかわりの可能性にもきっちりと配慮したサンプリングで、念を押すべきだったということなのだと思う。
 特に、比較的線量の高い地区とその周辺にあっては、そうした科学を農民の素朴な勘で培った常識に近づけるこのような配慮が必要だったのではなかったかと、勝手に思っている。
by shingen1948 | 2011-11-30 05:05 | ☆ 地域・自治話題 | Comments(0)

実りの秋の悲しい風景

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 柿畑の一角に、柿の実が山積みになっている。あんぽ柿が、生産自粛要請で出荷できなくなった事については先に整理したが、これがその風景の一こまだ。

 報道等によると、東京電力福島第1原発事故の損害賠償を求める書類に「被害」の写真として付けるためとのことだ。

  県は、出荷期を前にあんぽ柿を試作して確認していたとのこと。
 その結果、もいだ直後は、国の暫定規制値を超える放射性セシウムが検出された実は無かった。だが、乾燥後の数値は、乾燥前より約2~11倍も値は高まって、21検体中3検体が規制値を超えたという。(毎日新聞)
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 柿畑全体の柿は、実ったままになっているものが多い。
 県や農協は、収穫した柿を敷地内に仮置きするよう指導しているが、収穫を先延ばしする農家が多いという、悲しい実りの秋の風景ということらしい。


a0087378_4295174.jpg 阿津賀志山防塁現地説明会の駐車場近くのこの小屋は、アンポ柿の乾燥小屋だと思うが、当然、これも空だ。
 これも悲しい秋の深まりの光景だ。
by shingen1948 | 2011-11-13 05:25 | ★ 季節便り | Comments(0)
a0087378_5162982.jpg 庭の柿の実がなるという事は、あまりも日常的な事で、「秋の季節便り」として記録した事がなかった。
 それが、今年からはとても憂鬱な風景として意識することを強制される。
 この実をどうやって捨てるかを考えなければならない季節という特異点としての意識だ。
 捨てるという労力をかけること、それ自体も空しい。しかし、それよりも、今まで季節を感じながら食べていたものを捨てるという罪悪感の方が強い。
 こんなことを何故させられるのかという怒りの気持ちが沸く。

 夏にも、大量のミョウガを捨てさせられたが、こちらはそれ程の罪悪感はなかった。
 それは、いつも食べきれずに放置することもあったからだ。おかげで、それ程憂鬱な気持ちが湧かないで済んだ。捨てた量が、買い物袋一つぐらいだったということもあるかもしれない。
 罪悪感を和らげるのには、日々に無駄に使うこと、無意識に使うことが大切だったのかもしれない。電気が送られて使用する地域のように。

 これからは、全ての柿の実をとって、大量の家庭ごみとして放出することが求められる。
 誰に自慢したというわけではないが、今まで生ごみはEМ菌と混ぜて庭に埋め、資源ごみは丁寧に分別して家庭ごみを減らしていたというのが小さな誇りだった。これもあざ笑われているように感じる。
 今は庭もいじれないので、人様並に多くのゴミを出せる普通の生活にすることができるようになった。

 それでも、柿が実をつけたのを見て、丁度捨て頃になったという季節の感覚になるのはちょっとさびしい。そんな日常的な感覚になるのかと思うと、ちょっとは憂鬱だ。
 
 夕方、伊達市のアンポガキは、今年は収穫を諦めたというニュースを聞く。素人目には実害だと思うが、我らの首長さん達は、風評被害と呼ぶのだろうか。
 「あんぽ柿」生産自粛 カキのセシウム検出を懸念「福島民友(2011.10.13)」 県の放射性物質検査でカキから放射性セシウムが検出されたことを受け、JA伊達みらいや県北各市町などでつくる協議会は12日、伊達市で非公式の会議を開き、伊達地方の特産品「あんぽ柿」の生産を自粛することを決めた。
 県は、研究機関でセシウムの影響などについて確認中だが、地元の判断を踏まえ、生産の自粛を市町村などに要請する方向で調整する見通し。
 あんぽ柿はカキの実を乾燥させて加工するため水分量が減り、セシウムの濃度が3、4倍程度濃縮される可能性がある。セシウムの国の暫定基準値は1キロ当たり500ベクレルだが、県北地方のカキからは100ベクレルを超えるケースもあり、あんぽ柿から基準値を超えることが懸念されている。

by shingen1948 | 2011-10-14 05:22 | ★ 季節便り | Comments(2)

箱崎大舘

 散歩の整理は、そこで出会った心の糸線に響くものなのだが、常にそういうものあるわけではない。何もないことが淡々と積み重なって、突然心に響くことがみつかるということだ。今回はその淡々と積み重なるできごとの整理だ。

 箱崎大舘について、確かな情報があるわけではない。「伊達町指定文化財」の「伊達の歴史」の項に、鎌倉から室町時代にかけて伊達氏の家臣石田氏とかかわるらしいことを見つけているといった程度だ。この情報も、自分には石田氏は霊山というイメージがあって、どんなかかわりかは今のところ納得しているわけではない。
 応永年間(1394~1427)には、伊達大善大夫政宗(9代の政宗)と長倉入道は、桑折赤舘と長倉舘に拠って,足利満兼の大軍と激戦を交えている。伊達氏の家臣である石田氏の箱崎大舘や、岡舘が築かれたのも、鎌倉から室町時代にかけての時期であり,岡村には天文3年(1534)伊達植宗の子息清三郎の入嗣した修験(山伏)極楽院がある。(伊達の歴史)

 ここに登場する長倉館と岡舘、そして修験(山伏)極楽院は先に訪ねた長岡にある。また、岡舘は、岡陣屋を中心として整理し、古くからここに館の痕跡があったことを整理して、その時代を中世と想定しているらしいことを付け加えていた。
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  箱崎大館を住所で確かめて出かけたら、そこは元箱崎小学校跡地の向いにある桃畑だった。ぐるりと回ってあたりを確かめる。


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 小学校跡地からちょっと中に入ってみると、平坦地ではないらしいことがわかるが、とりたてて何かがあるわけでもない。


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 北側は、平坦な桃畑、


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 西側からも覗けそうだ。高台の端のような気もするがよく分からない。


 家に戻って、この館をマホロンの検索で確認したら、地図に箱崎館とある地域の中心からははずれていて、山沿いの街道あたりにプロットされていた。確認している位置が微妙にずれていることが分かる。
 いつかは確かな情報をつかめるはず。機会をみつけて、プロットされている位置の景色を確かめてみようと思うが、今回はここまでにする。
by shingen1948 | 2009-08-14 05:17 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)