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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:二本松 ( 67 ) タグの人気記事

二本松城址「新城舘」

 二本松城を中世時代の山城のイメージで散策してみたいと思った。
 二本松城のイメージは丹羽時代の城だし、二本松の案内は、ほとんどが戊辰戦争に関わって少年隊を中心にしたものが多い。
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 伊達氏とかかわっていた時代、本城的機能を果たしていた重要な施設であることが判明したとしているのが、「新城館跡」とのことだ。
 観光案内板では、砲術道場で学ぶ少年たちが稽古を行った場所として紹介されている「少年隊の丘」と呼ばれる平坦地だ。

 この広場の西奥に、「二本松城址『新城舘』」の案内板が立っている。そこに、畠山氏と伊達氏の攻防の時代に、ここが本城的機能を果たしていた証拠が見つかったとある。それは、畠山氏が本城を自ら焼いて開城した後、入場した伊達成実がその後始末したとされるのだが、その穴らしき痕跡がここから発見されたとのことだ。


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 そういう見方をすると、その奥には土塁と思われる遺構がある。


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 そして、その奥は切り通しになっていて、新しい時代の搦め手門につがって、現在の本城へと向かうようになっている。この時代には、現在の本城は物見櫓程度であったと推定されているらしい。


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 この二本松城址「新城舘」より一段下がったところも平場になっていて、智恵子抄詩碑がある。ここの案内板では、この二つの露頭石について触れ、畠山満泰が二本松城を築く際に夫婦の牛を生け贄にしたところ、牛の霊は天に昇り、身は石と化して「牛石」になったという伝説を紹介している。
 この石の置かれているあたりが、第2の曲輪と考えるのか、第1の曲輪の延長と考えるかは分からない。
 
  ここから、中世の遺構としてみると、松森館・本宮館へと続く散歩道が考えられそうだと勝手に思う。

 メインの「少年隊の丘」の西端にある案内板では、次のように紹介されている。
二本松城址「新城舘」
 二本松城が会津の支城であった時代、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていた時期がありました。慶長6年(1601)~寛永4年(1627)会津領主蒲生秀行・忠郷のときで、2城代がそれぞれ二本松城内の東城と西城に詰めていたと記録にあり、ここ「新城館」はその西城にあたります。
 平成10.11年度の発掘調査の結果、大規模な掘立柱建物跡や平場を取り囲む掘っ立て柱塀跡も確認され、中世から近世後半期にかけて繰り返し建物等が建て替えられ、利用されていた事が分かりました。また、平場の南端には直径約4㍍、深さ約2㍍の大きな穴が発見され、人為的に大量の焼土と炭化材が捨てられていました。出土遺物から、茅葺き屋根で土壁の木造建築物が火災にあい、この残骸を整理した穴とみられました。古い記録に天正14年(1586)の畠山・伊達両氏の二本松城攻防戦の末、畠山氏が本城(本丸)を自ら焼いて開城した後、入場した伊達成実がその後始末したとあり、この穴がその痕跡である可能性が高いと判断されました。これらのことから、新城館は天正期には本城的機能を果たしていた重要な施設であることが判明し、記録の少ない中世二本松城の姿の一端がが明らかになりました。
 平成19年3月
 二本松教育委員会

by shingen1948 | 2008-08-01 05:09 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
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大玉から原瀬に向かって一山越えたところが原瀬笠張ということは確かだ。ここに、「笠張のつばき」の表示がある。これは、二本松市指定の天然記念物だ。


幻の旧石器時代の遺跡名は原瀬笠張遺跡だ。確かめる手立てはないが、このあたりのどこかに、この遺跡があるはずだ。


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 更にもう一山越えるところに、地蔵塚がある。岳道の地蔵塚もこんな景色だったのではないかと想像が膨らむ景色だ。


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 近づいてみると、屋根にある標示板には「六地蔵」とある。
 六道と六地蔵についての一般的な感覚を確かめておく。

 娑婆の世界には、以下の六道があって、地蔵菩薩は 娑婆世界を守ることが使命なのでこの六道全てを守護すると云われている。
3悪道 ~ 地獄道・餓鬼道・畜生道
3善道 ~ 修羅道・人間道・天道

 人間は人間界にいるが、悪行を繰り返すと畜生や地獄に生まれ変わる。良いことを積み重ねれば天の国に生まれ変わる。六道輪廻という。
経を読誦し香華をあげ、飲食衣服珍しい宝を布施し、供養をして褒め称える仰ぎ見て礼拝をしたら28種の功徳を得られるとのこと。
by shingen1948 | 2008-03-24 04:39 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 福島県立博物館の縄文時代の住居として復元展示室されているのは、安達太良山麓埋蔵文化の二本松市塩沢上原A遺跡とのことだ。
(福島県立博物館常設展示室のページ)
 以下のような案内がある。
縄文時代中期中頃→後半頃(今から約4700→4,200年前)の住居を復元したものです。二本松市塩沢上原(しおざわうわはら)A遺跡の発掘調査のデータを基にして復元しました。住居の中央には「複式炉」(ふくしきろ)と呼ばれる大形の謎の炉が設置されています。

 現地を確かめる。
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 二本松市から県道を塩沢温泉に向かい、高速道路をまたぐあたりがこの遺跡だ。


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 高速道路の脇道を右折すると下り坂になる。下りきったところからは、台地の北のはずれが見える。


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 もう一度戻って道路に出る所で案内板をみつける。


塩沢上原A遺跡
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 標高約273㍍の台地上のこの一帯は、現在でも沢山の土器片や石器が散布してい縄文時代の大規模な遺跡です。
過去に3回の発掘調査が実施された結果、縄文時代中期 (約4000年~5000年前頃)の複式炉を伴う集落跡であることがわかりました。1回目は昭和46年に東北自動車道車道建設の際に台地の西端が調査され、竪穴住居20軒 、袋状土壙6基、円筒
状土壙4基などが検出されました。2回目は昭和59年の県立博物館による学術調査で、台地の南端部において竪穴住居跡19軒、土壙9基などが検出されました。このうち典型的な複式炉の1基を切り取り、同博物館に 時用節展示されています。3回目は、平成7年に県道拡幅工事に伴って台地中央部の調査が行われ、袋状土壙7基、土器棺墓2基などが検出されました。土器棺墓 からはヒスイ製の垂玉が出土し、ほかに人面付き土器、船型土製品の出土が注目されます。
 以上のことから、当遺跡は竪穴住居跡を台地の縁片部に配置し、中央部は、墓城あるいは祭祀域として区画した、環状の集落配置であることが確認できました。さらに、複式路は2個の土器を用いた規模の大きなもので、複式炉が最も発達した時期の形態で在ることが分かりました。
 このように、当遺跡は縄文時代中期の生活の様子を知る上で、たいへん貴重な遺跡として後世に残すべき大切な歴史遺産です。
 平成14年3月
二本松市教育委員会
文化財保護法により、当遺跡内における土木工事等の開発は規制されていますので注意してください。

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台地の南側まで降りて、そちらから台地を眺める。

 関連の展示物の様子については、教育福島07.4のページが詳しい。
by shingen1948 | 2008-03-13 04:19 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
 神の手といわれた藤村氏の旧石器時代の捏造問題、そして、放射年代測定法と、発掘の積み上げてきた考古学の手法との著しいずれが明らかになった問題から、一気に考古学的な興味を失った者が多かった。
 捏造問題は、それ自体が怪しげな事だが、放射年代測定法と考古学の手法のずれについては、互いの正当性を主張するのみで、歩み寄りの姿勢がなかったことが、若者の純粋な探求欲求を失わせたと思う。

 尤も、若者は「300年もずれているんだ」というのだが、散歩人にとっては、たった300年しかずれないのかという思いではある。また、捏造問題それ自体にも興味があり、どこだったのかを確認したいとも思う。ミーハー的な興味に近い。
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 面白いと思うのは、旧石器時代の捏造に、地質学的な手法を取り入れて証明しようとした形跡を感じたことだ。
 化石などの古生物、放射年代測定の手法なのか、堆積の過程を流体力学の手法で確認したかったのか、それらの手法を駆使した地層の重なりの確認なのか。原瀬笠張遺跡報告文には、地質図を使って層との関連を説明している。
 この図、学問的には使えないだろうが、散歩人にとっては関心がある。近隣の地質と伴に火山活動との関連も考慮されていて精密だ。地下の様子を想像するのには素晴らしい資料となる。

 もともと考古学には、純粋な探求欲求を失わせるところがある。学会が古代史を明らかに出来ないという限界を抱えているという。
 前方後円墳の上位20位のうち、4基以外は陵墓と陵墓参考地占めているという現実だ。宮内庁が、聖域として不可侵を主張しているので、この門が開かない限り、日本の歴史の根幹はあきらかにならない。
 「毎日新聞」(2008.3.7)によると、古墳の正確な被葬者が認定されていないものもあるとのこと。陵墓の実際の被葬者と宮内庁が認定する天皇皇族とは食い違うという批判も根強い。象徴的なのが6世紀の継体天皇が、宮内庁は太田茶臼山古墳とするのに対して、学会は、この古墳は5世紀の築造だとして、高槻市今城塚古墳だとする。世界最大級の仁徳天皇陵も在位時期に比べて新しすぎるといわれている。

 そんな中で、2月22日に、奈良市の神功皇后の陵に立ち入って、学会側が主導した初の陵墓調査が行なわれたというニュースを聞く。散歩人にとっては、ねつ造も興味があるが、陵墓の動きについても興味引かれるものがある。
by shingen1948 | 2008-03-11 04:25 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)
二本松周辺の治水工事の考え方について、興味を持ったのが6年前で、輪中の考え方逸れ自体の面白さとともに、具体的な利害関係とどう調整をとるのかが興味があった。それで、「5年前のニ本松近郊治水工事の考え方」として書いておいた。
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 二本松市の大規模な治水工事を見て、そのことを思い出し、確認したらこの考え方が継続している事が分かった。そのことを「5年前のニ本松近郊の治水工事の考え方は継続していました」として書いた。
 そして、実際に体感を通して治水工事を実感したのは、黒塚を訪ねた時だ。この時に、二つの記事にしたことが結びついた形で実感できた。それを「黒塚を訪ねる~堤防」として書いた。
 先日、「ティーコム」(2008.VоL、43)で、二本松安達地区「土地利用一体型水防事業」と題して、黒塚あたりの治水工事について、具体的に紹介されていた。
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 この地区の特徴と整備方式については、輪中堤についての考え方であり、内容的には、先に紹介したようなことが説明されている。
 実際の工夫については、輪中堤の考え方だけでなく、油井地区では、JR線路の盛り土と堤防をつなげて、取得する土地と盛り土の量を減らす工夫があったり、堤防の工夫で鉄塔を動かない工夫なども説明されている。
 また、黒塚を動かしたくないという思いを大切にして、堤防を造った経緯についても紹介されていた。

 行政の方が書かれた紹介なので、経費節減の効果という観点から書かれている。しかし、注目したいのは、「共生関係の具現化」ということではないかと思う。
 輪中という方式を取り入れるために、地域と話し合いを持ち、互いの利害関係を調整して、公共という意識に高まったことが大切なのだと思う。JR線路の盛り土と堤防をつなげたことは、鉄道と堤防の共存計画が、すり合わされたということだ。互いを無視して計画されなかったということが大切なのだと思う。更には、鉄塔という既成の事実とした設備があり、これと共存する堤防を工夫したということであり、黒塚を残したいという地域の思いと共存させたということである。
 結果として、経費削減となったということであるが、賞賛されるべきは、「共生関係の具現化」を目指したということではないかと思う。その切っ掛けが、輪中堤防の導入ということなのだと思う。
by shingen1948 | 2008-03-10 05:23 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

幻の原瀬笠張遺跡

二本松原瀬地区には、安達太良山麓埋蔵文化にかかわって、もう一つの遺跡がある。日本最古の旧石器時代の遺跡である「原瀬笠張遺跡」だ。ただし、この遺跡は幻の遺跡で、一斗内松葉山遺跡とともに、考古学の根底を揺る「旧石器発掘ねつ造」問題が発生した代表遺跡だ。
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 ここからは、40万から60万年前の安山岩の石器(スクレイパー)3点玉髄整等1点が出土したとされて話題になった。平成10年の「企画展 発掘ふくしま2」によると、ここでは、5つの文化層を確認し、そのうちの2つの生活面から出土した石器が、日本最古の段階の可能性があると注目された。

 平成10年7月の「企画展 発掘ふくしま2」時点では、捏造はまだ分かっていない。その資料からこのニュースが、学問の世界でもビッグなニュースとされていたことが分かる。
 資料では、「最古の人類を求めて」として、旧石器時代の代表として紹介された。その紹介の最後は以下のように結ばれている。
 これらのきわめて古期に属する遺跡は通常、土中深くに埋没しているため意識的な踏査を行なわないと発見する事が困難である。福島県の時代観を大幅に拡大させた藤村氏らの踏査活動に学び、今後も粘り強い遺跡の確認が必要である。
   更には、東北大学総合学術博物館 柳田俊雄氏の「福島県二本松市原セ笠張遺跡の発掘調査」の報告書が載っていて、会津若松市の笹山原№10遺跡、郡山の弥明遺跡、福島の学壇遺跡、耶麻郡の林口遺跡が紹介されていた。

 しかし、2000年だったと思うが、藤村氏が平成7年より捏造されていたことだということが分かり、郡女大柳田俊雄教授等が再調査を行なって、偽物と結論されて国の指定は取り消され、話題は沈静化した。

 この事件で、旧石器時代については懐疑的になり、探求熱は冷めてしまったようだ。
 旧石器時代について、現時点ではどう認知すればよいのかを、福島県立博物館のページで確かめておく。
 福島県立博物館常設展のページによると、現在では福島県での最古の遺跡は、伊達郡桑折町の平林遺跡で、私たちの祖先が2万~3万年前の旧石器時代から住んでいたということのようだ。

 福島県立博物館収蔵品の紹介のページによると、耶麻郡高郷村の塩坪遺跡は後期旧石器時代の代表的な遺跡で、黒曜石片が出土しているとのことだ。1万4000年くらい前に、この地方の人々が長野県の和田峠から産出する黒曜石の交易圏に入っていたことを推定できる資料が整っているらしい。
by shingen1948 | 2008-03-09 06:11 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)

原瀬上原遺跡

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 原瀬上原遺跡を訪ねた。先に「安達太良山麓縄文遺跡」についてまとめた時に、まだ訪ねていなかった。いつか行ってみたいと思っていたので、たどり着いた時はうれしかった。

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 ここは、縄文時代中期の集落が発見された所で、その様子がイメージできるように、復元整備されている。中央の広場を囲むように住居が建てられていたという。集落跡全体が、福島県指定史跡になっている。
 ここの案内板では、以下のように説明されている。
原瀬上原遺跡


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昭和46年4月13日指定
所在地二本松市原瀬字日照田165番地他
所有者大内清輝ほか15名
指定区域面積32.619平方メートル
 この遺跡は、原瀬川の東岸、標高270㍍の台地上にある。以前からこの台地一帯には、縄文早期から晩期にわたる土器片が散布し、耕作の時には完型の土器が発掘されていた。昭和35年と43年の調査で17の住居跡が発掘され、縄文中期後半(大木十式)の大集落であることが判明した。集落跡の特色は、竪穴住居の主柱が3本であること、炉は埋設土器を伴う複式炉であることなどである。
 昭和45年、国立文化財研究所長、関野克博士、目黒吉明(県議員)らの指導のもとに原瀬上原遺跡保存会の手で3本柱の住居が復元された。
 福島県教育委員会

by shingen1948 | 2008-03-08 06:19 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)

道の駅の塚

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何度もここに立ち寄っているのだが、この塚には気づかずにいた。案内板には、以下のように説明している。


  堀込遺跡(塚)

 この塚は、4号国道福島二本松間のバイパス建設に伴い、昭和54年に安達町教育委員会が発掘調査を行い、記録保存したものを復元したものである。

 塚は、15世紀以降に築造されたと考えられるもので、4基調査された。従来はもっと数多く分布していたと云われている。調査された塚の配置は、大型の1.2号塚と小形の3.4号塚が組になるものと考えられている。

復元した1号塚は、長径6.7㍍、短径6.5㍍、高さ約1㍍の半球(土饅頭)形のものである。この塚から永楽通宝が20枚出土している。また、2号塚は、長形6.6㍍短形6.4㍍高さ1.2㍍の半球形のもので、永楽通宝が1枚出土している。

 この遺跡は、古墳とされていたが、発掘調査の結果、埋葬施設を持つ古墳ではなく、宗教儀礼や境界・里程を示すためのいわゆる「塚」と考えられる。

安達町教育委員会

永楽通宝を確認する。
この通貨は、室町時代に日本へ大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通し、永楽銭とよばれた。形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「永楽通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。材質は銅製、貨幣価値は1文として通用した。
主に流通していたのは、伊勢・尾張以東の東国で、関東では、永楽通宝が基準通貨と位置づけられていた。
慶長13年(1608年)には通用禁止となり、寛永通宝等の国産の銭に代わった。
by shingen1948 | 2008-02-27 05:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
三春に住んでいるときも、安達郡に関わりをもっても、どこかで聞いたような気もするが、それでも、日常的に戊辰戦争で三春藩が裏切ったという話が出てくることはなかった。 こうして、二本松地域のことについて資料を確認していくと、その記載が目に付くようになる。

 慶応4年7月16日、棚倉が落ち、浅川の町を占領した新政府軍と、古舘山にいた会津・仙台兵が、戦闘状態になった。同盟軍から三春藩に会津・仙台兵への応援が命じられた。ところがその命令に従って城山に到着した三春兵は、新政府軍と会津・仙台兵を挟み撃ちにしたということである。

  福島地方の歴史物語のホームページ(http://www.kiriya.ne.jp/ )によると、三春町史には、以下のように述べられているとのことだ。
 二足の草鞋をはいた三春藩は、棚倉の戦いで同盟諸藩とともに政府軍に抵抗した廉で、在京の秋田広記らは禁足他藩出入差し止めを命ぜられたり、七月十六日浅川の戦いでは反同盟の疑いをかけられ、仙台藩士塩森主税の詰問を受けると、外事係不破幾馬らが弁明して事なきを得た。みずから矛盾を求め、薄氷を踏む演出は御家安泰のためになおも続くのである。(中略)複雑微妙、藩論を内外に明らかにし得ず、ついに政府軍の三春入城の日まで疑心暗鬼が続くのである。「会津猪 仙台むじな 三春狐にだまされた 二本松丸で了簡違い棒(違い棒は二本松藩主・丹羽氏の家紋)」「会津桑名の腰抜侍二羽(丹羽)の兎はぴょんとはねて三春狐にだまされた」。この歌にある「三春狐」をどうみるか。激動する戦乱の中で歴史の大河に竿さし、小舟をあやつる船頭が無理せず、臨機に接岸させた所が安全であれば、それでよい。判官びいきの感傷と義憤は一方の見方で、百年後の町民が判断すればよいことである。

 東軍は、戦況が日々に悪化していたが、三春藩の反盟が決定的にした。仙・米・会の連合軍が敗れて、孤立した守山藩は降伏、続いて相馬藩も孤立し、同盟を脱して官軍に降伏していくことになる。
 この三春藩の反盟には、自由民権運動の運動家、河野広中もかかわっているらしい。彼は、16才で水戸天狗党への参加をはかり、18才の時、棚倉城を落として陣営を構えている参謀板垣退助に合い、三春藩の無血帰順を交渉する一行に加わっていたということだ。

  さて、三春藩の判断だが、単純な考察では批判できないようだ。

 もともと、戊辰戦争のスタートが、信義の全うからはほど遠いものだ。将軍の御身安泰の無血開城から始まっているのだから。ボタンの掛け違いもあるし、目前の状況が転々と変わるということもある。
  仙台藩から二本松藩を通して伝わる伝達内容も、会津を討つ内容が流れたり、討つという形をとりながら討つなという伝達が流れたり、奥羽越列藩同盟で結束しようという伝達が流れたりしている。そういった混乱の中での判断だったということだ。

 今までの方針や指示を忠実に実施していると、それはこれからは間違っていたということになる。これからの指示が正しいのだが、今はどういう指示にするかは、具体的には決めていないという情報の混乱は、今の時代と同じような命令の伝達の中と同じような状況といったら分かりやすいかもしれない。
by shingen1948 | 2007-07-05 19:13 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(2)
二本松青年会議所の紙芝居では、二本松少年隊が戦場に行くようになった事情を以下のように説明している。
 西軍は、いよいよ二本松のお城へ攻めて来ます。
 けれども、大人の兵隊が白河という所へ行って戦争をしていたため、二本松には女の人や、子供、おばあさんしか残っていませんでした。そこで、残っていた子供達も「二本松少年隊」として戦争に行くことになったのです。家では戦いの私宅で大忙しです。子供が着る戦争の着物などありませんから、お父さんの着物を短く切ったりして、お母さんが一生懸命作りました。

「この大人の兵隊が白河という所へ行って戦争をしている」ことにかかわる事情について、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」で確認する。街道をゆく33「白河・会津のみち」の「白河の関」の項で、関としての役割の変化を解説している。戊辰戦争時代の白河の関の役割を確認する。
江戸初期に仙台の政宗が死に、白河から丹羽家が他へ転じたあとは、白河は要所でなくなった。幕府にとって奥州はただの山河になった。

江戸に近距離なため、参勤交代の費用が安くなる。丹羽家の後は、没理想的な藩主達が続いた。藩主が転々とかわり、幕末の慶応二年(戊辰戦争2年前)に最期の藩主阿部氏が棚倉に転封になる。そして、程なく幕府が瓦解し、空き城となり白河城は隣の二本松藩あずかりとなる。

  だから、二本松の主力部隊は、白河にいたのだと合点がいく。

白河口の戦いについては、「東西戦争」の項で、以下のように捉えている。

それまでの日本戦史の上から見ても、屈指の激戦だったといえる。
会津兵はもっともよく戦い、指揮官の若年寄横山主悦は、銃弾によって戦死した。
更には、仙台のカラス組といわれた遊撃隊もよく戦った。仙台藩士細谷十太夫がひきいた庶民部隊で、全員が黒装束をし、銃を用いず、白兵による夜襲を得意とした。兵の多くは博徒だった。棚倉藩の十六人組というのも、異様だった。十六人が決死の血盟をし、戦国時代そのままの甲冑に身を固め、槍と弓矢で戦った。
これに対し、薩長は、圧倒的な火力で対向し、結局は勝った。

by shingen1948 | 2007-07-04 21:21 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)