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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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タグ:二本松 ( 67 ) タグの人気記事

田地ケ岡舘跡

  ここ田地ケ岡館は、何度か訪ねて整理している。
 歴史的な背景など確認しながら整理したが、散策としては全体を捕らえていなかったような気がする。
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 案内板に、「田地ケ岡遺跡・田地ケ岡舘跡」とあるのは、ここが、中世の館跡としての意義と縄文遺跡としての意義があるためだ。
 まずは、中世の館跡として散策を整理する。

 この一帯は、14世紀中頃(南北朝時代)に、奥州管領畠山高国が下向した際に構えた館跡と伝えられている。正平元年(1346年)に居を構えたとしている。
 畠山氏は、その後、嘉吉年間(1441~1443)に4代満泰が白籏ケ峰(現在の二本松城本丸跡)に居館を移したと伝えられる。
 観応の擾乱以降不穏になっている情勢にあわせ、城の南方1.5キロほどの「白旗が峰」に築城したという。


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 分かりやすい遺構は、南北に走る堀切だ。
 案内板では、この堀切を「小学校と畑の 堀切は深さ2~ 5㍍で南北に100㍍残っていて、城館の中心は小学校敷地と推察されています。」としている。


 このことは、以下の前回の整理でもふれている。
 田地ケ岡館について2007.5.23
 田地が岡舘跡を訪ねる 4.13
 今回は、この堀切を確認した後、周りの様子も確かめてみることにした。
 岡の上の南側の道路を東に進とこの高台を降りて行くことになる。


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 そこから北側に回り、北東の角から見てみる。
 虎口とも思える登り口と、この丘の北側の道が見える。
 この丘の周りを回って、全体的な把握を試みる。


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 北側から眺めると、案内板にある2~4㍍の高さで帯郭があるというあたりが、見える。学校の校舎の裏側にあたる。


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 平場をこの角の上から眺めたものと比べると、やや下った所に道が走り、この平場の広がりが分かる。これが案内板に言う帯郭の部分だろうかと思う。


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 これは、北側の道中央あたりから、東側を眺めているところだが、北側には油井川が流れていて、その南岸に舌状台地が広がっていることが分かる。
 案内板に言う「油井川南岸の舌状台地上のこの一帯」ということを実感する。
 一応平城ということになっているが、高台に据えた館跡ではある。北側や西側の防備は結構堅いのではないかと思える。

 小学校の前の案内板にある「殿地が岡は平城であるが、周囲の平地から20メートルほどの微高地に築かれており、館的な要素が色濃い城である」という説明に納得する。

 案内板では、田地ケ岡舘跡の部分は、以下のように案内する。

 田地ケ岡舘跡

 油井川南岸の舌状台地上のこの一帯は、14世紀中頃(南北朝時代)、奥州管領畠山高国が下向した際に構えた館跡と伝えられています。
 遺構としては、平坦地の北下2~4㍍の高さで帯郭があり、南部には高さ1~2㍍の土塁が残っています。
 また、小学校と畑の 堀切は深さ2~ 5㍍で南北に100㍍残っていて、城館の中心は 小学校敷地と推察されています。西端部は東北自動車道に切断されましたが ここにも深い堀切が 残されています。
 其の後、嘉吉年間(1441~1443)に4代満泰が白籏ケ峰(現在の二本松城本丸跡)に居館を移したと伝えられています。

 平成13年3月
 二本松市教育委員会


 二本松市のホームページの年表から、この館に関わる部分を再度転記する。

 1189(文治 5)  安達盛長が安達保の総地頭職に任ぜられる
 1218(建保 6)  安達保が安達荘となる。(総地頭職は安達景盛)
 1346(貞和 2)  吉良貞家・畠山国氏が奥州管領に補任される。畠山氏は塩沢の田地ケ岡に、 吉良は上長折の塩松に居を構える。
 1351(観応 2)  畠山高国・国氏父子が吉良貞家に攻められ岩切城で自害する。
 1413(応永20)  畠山国詮が奥州探題に補任される。
 1441(嘉吉 1)  この頃、畠山満泰が白旗ヶ峯に城を築き、二本松城と号す。

by shingen1948 | 2009-04-01 07:00 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(2)
 地域の歴史的なことを知るのにオーソドックスな方法は、古文書等にあたるということだろうか。しかし、これは地元とのかかわりが深かったり、地元に根付いたりしているものでなければ、容易ではない。
 散策するだけの立場の者にとっては、地域を知るのに繋ぐという方法がいいと思っている。

 二本松城を散策していて感じたのだが、安達太良山麓辺りは、この城とのかかわりを整理することで、今まで散策してきたこととつながるようだ。
 中世の山城ということでは、二本松畠山氏とのかかわりだろうか。

 権威的に見れば、二本松畠山氏が、居城を殿岡から白旗山に移して二本松城と号することは、一地方官としての立場になってしまうことを意味するようだ。しかし、この地区の影響力という観点からは、このころが全盛期ということになるようだ。

 この地区を二本松畠山氏が本格的に支配するのは、国詮の代からだ。
 国詮は四人の息子たちを領内の各地に分立させ、領国支配を確立していくようだ。
 先に散策し、「本宮城①~鹿子田館」で整理した本宮氏もその中の一人だ。
 本宮氏の満詮は、国詮の二男で、鹿子田家を継いだともいう。
 大玉村とかかわるのは、四男の式部少輔氏泰で、大山の椚山に新城を築いて新城殿と呼ばれたらしい。この新城氏は、先に二本松城を散策した時に、畠山氏と伊達氏の攻防の時代に、本城的機能を果たしていた証拠が見つかった新城舘とかかわる。
 家督を継いだのは三男の満泰で、正嫡ということと武勇に優れていたということのようだ。この時代に畠山氏の所領拡大はいっそう進んでいったという。この満泰が、応永21年(1414)に居城を殿岡から白旗山に移し二本松城と号するのだ。
 長男の上野介満国は、川崎村の城を預けられ、伊達氏に対する備えをになったという。

 家督を継いだ満泰には三人の息子がいたが、嫡子の満盛に家督を継がせる。ところが、この満盛は早死し、その子はまだ幼少だったので、2男の持重が家督を継ぐことになる。
 しかし、この満盛の子である徳万丸は成長して政泰を名乗り、家督をめぐって持重と争うことになるのだ。この戦いに敗れた政泰が先に散策した高倉城へ移るのだ。その子孫は二本松畠山氏と敵対関係を続けていくことになる。その高倉城の散策は「高倉城へ」として書き出して、④まで分けて整理した。
 三男の家継は高玉の地を与えられて一家を立てた。高玉の地は葦名氏との境に位置しており、満泰の時代に二本松畠山氏領となったものらしいとのことだ。ここの散策は途中だが、一応「高玉城へ」と整理しておいた。

 この他に、箕輪氏・遊佐氏・氏江氏・川崎氏が二本松支族として整理されるという。 
by shingen1948 | 2008-09-23 05:35 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

二本松城址⑨~水

 山城ということで、水の確保について関心を持つところだが、この城は、豊かな水を感じる。
 この城の古い井戸は、権現丸の「とっくり井戸」だろうか。
 「日影の井戸」も、建設は畠山氏築城の頃で、応永年間(1400年頃)といわれているとのことだ。この位置に、岩盤があって、これを深さ約16m、北に14mえぐって、湧水を溜めているという。
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 この城には、平城の部分ではあるが庭園内に大きな池がある。山城としては不思議な景色だ。 
 これは、平城部が重要度を増す江戸時代の話だが、城内に用水を引き込んでいるとのことだ。


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城内に引き込んだ水を、洗心滝を経由し、布袋滝より流れ落として水を溜めて池にしているとのことだ。


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この二合田用水は、城防備を目的に安達太良山麓から延々18㎞もの距離を引いてきたもので、幕府には内密だったということだ。
 その用水路を岳ダムとかかわって改修工事し、平成2年に完成したことを記念する碑がその脇に建っている。


豊かな水の恵
 二合田用水は、元禄13年本邦屈指の数学者磯村文蔵吉徳が二本松藩の招請に応え作業奉行として陣頭指揮の下に開削、安達太良山腹の大清水より延々蛇行すること18km灌漑用水に、城下の防備に、住民の環境衛生に防火用水に、滾々の流れを齊すること290年
 近年水路の疲弊老化漸く顕われ決壊崩落頻発受益者挙って金剛不壊の改修を希求すること急○に福島県二本松市二本松市土地改良区が相計り関係当局に懇請再々、熱意当局を動かし昭和46年岳ダム建設着工、昭和52年是に呼応して水路の全線改修に着手し、平成2年13年の歳月を要し、改修工事の一切を完了、354haに豊かな水の恵が見事に甦る。北清水の水利権について二本松市安達町受益者間の調整に困難を極め乍らも、関係者の努力が実り昭和35年これが円満解決を見たことを付記し、滋に慶びと感謝の意を表し誌す。
平成3年9月
 二本松市長 大河内 鷹 撰



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  この用水を使って、昭和9年に城内の自然地形を利用して作った滝がある。公募によって「相生の滝」と名付けたという。


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 滝の水の出口を確かめる。高い位置から勢いよく落下する。


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城内に引き込んだ水を、洗心滝から東流させてきた二合田用水とこの滝の接点を確かめる。改めて、余裕をもって平城部をカバーする高さであることに感心する。
 江戸期の大土木工事の隠れた水系の一つが実感できる。
by shingen1948 | 2008-08-12 05:34 | Comments(0)
二本松城址を歩きながら、確認したいことを検索していて、平成18年に「しあわせ二本松メールマガジン」が、シリーズで二本松城址関係を連載しているのを見つけた。
その中で平成18年11月20日に配信されたこのシリーズの第11回「にほんまつの城あと ~安達地区の城館~」(田子屋館)に気になるところがあった。
歴史的に見ますと、二本松城主畠山義継の家臣であった遊佐丹波守・下総守の居城でした。それが、天正13年(1585)伊達政宗の攻撃に備えて、本宮・渋川・玉井の兵を二本松城に集中した時、空同然になった田子屋館は政宗家臣の伊達成実によって占領されました。
記録によると、同年12月に家臣が鉄砲の火薬箱に火を落としたために全焼し、成実も火傷したとされています。
また、翌年1月畠山家臣の鹿子田左衛門が奪回すべく攻めたものの、追い返されたことも記されています。
成実の後は、その家臣である遊佐藤右衛門の子・新右衛門の居城であったといわれています。さらに、二本松が会津領蒲生氏の支配下の時には、野田正勝の居館であったことが『積達館基考』に記されています。

奪回すべく攻めたとある鹿子田氏は、本宮城とのかかわりで気になるが、もっと気になるのが玉井氏の記載だ。
天正13年(1585)伊達政宗の二本松城攻撃時には、二本松城に詰めていたということだ。

先に、玉井氏の興亡に関して想像したことがあった。それを「玉井氏を滅ぼしたのは田村氏か」としてまとめておいた。
  天文16六年(1546)二月、田村隆顕は畠山義氏・石橋尚義とともに安積郡に侵攻して十ヶ城を落とし、玉井城(安積郡大玉村)を自落させた。同年十二月、岩城勢が田村郡小野地方に侵攻してきた。
天文19年(1550)六月、田村隆顕は安積郡に於いて芦名盛氏と戦い敗れた。このため翌 20年(1551)七月、田村隆顕は畠山尚国・白河晴綱の仲介で芦名盛氏と和睦した。

ここに、天正13年(1585)玉井氏は伊達政宗の二本松城攻撃時に、二本松城を守っていたということを付け加える。すると、天文16年(1546)の自落とは、畠山氏の傘下に入ったということでしかないということが分かる。
玉井氏が落ちるのは、二本松城が落城し畠山氏が会津の芦名氏を頼って会津に逃れることや、その芦名氏も伊達政宗に敗れ、佐竹氏を頼って逃れるという一連の「会津への道(伊達政宗)」にかかわっているということになる。

 玉井地域の歴史に詳しい方が、大山地区に比べて玉井氏と会津とのかかわりを強調されることや、安達での伊達政宗の一連の戦いの中で、玉井氏は滅んだと強調されることに合点がいく。
  なお、人取り橋の戦いの折には、玉井城からは伊達氏側の白石氏が500騎を引き連れて入り、ここから戦場に出かけている。この時に玉井氏は、戦い敗れたのか、会津に逃れたのかは分からない。
 本宮氏や高玉氏の消息は、伊達氏に家臣としてついていったらしいことが分かっている。新城氏は、その後の経緯は分からないが、現在の会津の酒屋さんとつながることから、畠山氏と共に会津の芦名氏を頼ったことが想像できる。
 その点、玉井氏の動向は分からない。しかし、地域の歴史家が、会津とのつながりを強調することなどから、城を明け渡したのではなかろうかと想像する。伊達氏に寝返ったということはなさそうだと思うが、その後は見当たらない。 
by shingen1948 | 2008-08-11 07:04 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

二本松城址⑦~出城

案内地図には、城内の出城が紹介されているが、この城を取り囲む出城もあるようだ。
目にしたのは、猪子舘・箕輪舘・栗ケ柵というポイントだが、それを説明する資料が得られない。

ただ、資料の中の表現をいくつかつないでみると、ぼんやりと想像できるものもある。栗ケ柵については、いろいろな表現がある。栗ケ作というのもある。位置的には法輪寺あたりではないかと想像できる。
「一帯は非常に堅固な地形のため、容易に攻め入ることができなかったといわれている。……。畠山義継の家臣であった遊佐内蔵介は、この地に館を構えて「栗ヶ柵館」と称した。」等の表現をメモしている。ここから漠然と見えるものはある。
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箕輪舘は、土井晩翠碑あたりの吾妻屋あたりから、左側の遊歩道に入った南側の高台のどこかという感じがするが、確かではない。
ここは、フィールドワーク地図をなぞらせていただいている半沢氏が、畠山氏時代の大手ではないかと想像していた所だ。ただ、ここが大手としてイメージしやすいのは、新城舘を中心と考えたときだ。西の舘だった時代のほうが、イメージしやすいとも思う。もっとも、この館は、伊達氏との戦いでも中心であったらしいので、畠山時代の後半にはそうであってもいいとも思う。

猪子舘については、まったく手がかりを持ち合わせていない。

今回の散策で、この城がこの出城と出丸で組織的に防衛する機能が少し見えた。このことで、先の散策でしっくりとこなかった街中の標識でみつけた伊達正宗の本陣の位置に合点がいった。
by shingen1948 | 2008-08-10 06:21 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

二本松城址⑥~松森舘へ

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二本松城址の案内地図にある館で、まだ確認していなかったのは松森舘だ。
蒲生領時代に、城を二分して二人の城代が任命された。この時の城代が置かれたのは、新城舘は確かだったが、東の城代は、乙森か松森舘としたが、鉄砲谷の標識で松森舘であったことが分かった。


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その鉄砲谷だが、東の舘である松森館には追手門がなかったため南側に移築して、鉄砲谷と名付けたとのことだ。出陣時に用いる鉄砲などを、この門に具備したためと思われるとの説明だ。


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この館を地図で位置を確かめると、乙森から遊歩道を降りて、駐車場を越したところから、下に下る道があって、その道を行って行き止まりになったところで間違いないとは思う。


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 ただ、この平場は、資材置き場になっていて、整備が進んでいないので本当にここでいいのかという自信はない。


 ここから本城へは、一つは遊歩道を乙森方面に向かい、駐車スペースになっている曲輪を通って、乙森経由本城というコースが考えられる。


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 もう一つは、その遊歩道を横切り、戊申戦争で家老が自害したという平場に出て、そこからは、現在案内されているコースに従って行くことが考えられる。この平場からは、まっすぐ進んで西の舘である新城舘へも直ぐである。
この平場は、新城舘や松森舘の一段低い位置である。この高さが、戊申戦争時の城を守備する時の指揮官の位置と考えると、感覚的には平城の感覚での戦いだったとも思う。


案内地図にあった出城を散策したが、この他にこの城を中心とした守備に大切な出城としてのポイントに、猪子舘・箕輪舘・栗ケ柵があるらしい。地図にあったのは出城というより出丸の舘という感じだったが、これらは、城を守る出城としての機能を備えているということらしい。
by shingen1948 | 2008-08-09 05:40 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

二本松城址⑤~本宮舘

 中世の二本松城は、本城と馬蹄形の稜線上に防御施設を設けているのが特徴のようである。
 案内板の説明は、丹羽氏時代のものが中心だが、○○舘と記載されているのは、山城時代の出城を表しているらしい。これらの各出城が連携してこの城を防御するシステムだったらしい。
 案内板には、本城・新城館・松森舘・本宮舘が小さく記載されている。乙森にも舘があったということなので、これを合わせると4つの出城が紹介されていることになる。
 このうち、新城舘・乙森については先に整理したが、新城館の最後の館主は当時の二本松城主畠山氏の親族の新城弾正であることを付け加えておく。
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 今回は、駐車場から本宮舘に向かってみることにした。


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 散策道は急な勾配の坂を登るため、茶屋のある平場まではつづら折れになっている。
 茶屋で振り返ってみる。


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館に向かうという観点から、最初の平場は茶屋である。案内板があって説明されているが、今回は山城の平場の位置を確認する目印としておく。


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 次の平場は、不老庵が建っている。この建物の役割は分からないし、この平場が歴史的な平場なのか、この建物を建てるために平場にしたのかはわからない。


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本宮舘へは、その脇にある道を登っていく。


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直ぐに、平場に着く。ここが、本宮舘ということらしい。この館主についての情報は持ち合わせていないし、案内もないが、本宮氏であろうことは想像する。


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この平場は、丹羽神社へと続くが、その左手に祠がある。この館主の屋敷神とのかかわりがあるのだろうか。


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 その南側には、空堀らしきものが走っている。


 ここから右側の低地に降りれば、笠松や吾妻屋のある平場になり、そこから新城舘に続く道となる。ここからは、そのコースをもう一度歩いてみる。
by shingen1948 | 2008-08-08 04:27 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(4)

二本松城址④~権現丸

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本丸の城跡の一部といわれているところから降りていき、二重城壁を見て更に下ったところが、権現丸ということになる。


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 この平場に井戸がある。この井戸が「とっくり井戸」ということで、その案内板がある。この井戸を考慮して、ここに武家屋敷を配置したらしい。この井戸の石垣が、先の二重城壁と同じような積み方であることのようだ。近世の遺構ということになる。


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 この案内板には、もう一つの情報があって、権現広場である可能性について説明されている。仏具と考えられる銅製の碗の出土をその根拠としている。


案内板では以下のように説明している。


二本松城址「とっくり井戸」
この井戸は、昭和15年(1940)頃には「とっくり井戸」として知られていましたが、近年ではその正確な場所はわからなくなっていました。平成12年度の発掘調査によって再発見し、直径約92㎝、深さ約7.95㎝を測る自然石で築いた石組みの井戸であることがわかりました。深さ3.95mのあたりからしだいに広がり、底径1.4mの井戸底に達していて、この形状から「とっくり井戸」と呼ばれていたものと思われます。この井戸は急傾斜地であった平場を盛り土して平坦面を整地した際に、並行して積み上げたものであることがわかり、水の確保も考慮して計画的に城郭構築を行っていたと考えられます。時期は石の積み方が平場東側上段に残っている「本丸直下二段石垣」に類似していることから、慶長期(1596~1614)のものと考えられます。また、発掘調査の結果から平場北側より仏具と考えられる銅製の碗が出土していることから、畠山氏が熊野権現を祀った「権現丸」と呼ばれる場所であった可能性が高まるとともに、この平場は中世時代の畠山氏が権現丸として利用した時期(1441~1586)と、大規模な土木工事により侍屋敷として整備した慶長期との2期の変遷を確認することができました。
平成18年3月
二本松教育委員会 



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この権現丸の平場は、搦め手門の西の平場でもある。


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ここから、西に向かって降りていく道がある。ここまで散策してみると、たどってきた道が、大手からの道と考える見方もできなくはないとも勝手に思ってしまう。

  この城が、少年隊の悲劇を中心とした戊辰戦争を観光資源にしていることが、一つの特色だが、目立たないが、地道に発掘調査の成果をもとにして整備を進めているのももう一つの特色だ。
なお、丹羽氏が入部してからは、本丸は象徴としての存在である。ほとんど機能していなかった訳だが、地形的な弱点である西側には、大隣寺・龍泉寺を配置して、防御力を補う形にしたともいわれている。
by shingen1948 | 2008-08-06 04:18 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

二本松城址③~本城から


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 搦手門から本城へは、裏側からの入城になるが、移し替えられた二本松城址の石碑が迎えてくれる。
 この本城部分は、近世大名になって山城としての機能はなくなっているが、象徴としての本丸として体裁を整える整備がなされている。復元された天主の石垣もその一つである。


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 これは、乙森駐車場から本城を見上げたところだが、乙森というのは、本城が甲の森であるのに対して名づけられたらしい。
 本城は施設としては櫓程度しかなく、戦闘時の指揮をとる場所としての機能であったらしい。居城の機能があったらしいのはこの乙森らしい。
 現在、案内板に従って本城をめざせば、手前の石段を登ってくることになる。二の丸で井戸を見て、蒲生時代の石積みを左手に見ながらここに繋がる。

 この乙森にある案内板には、目立たないが新城・本宮・松森の3つの舘名が記載されている。これは、この城が本城の指揮のもとに、これらの館が出城としての役割を果たすという仕組みを意味するらしい。
 新城舘の案内板の説明の中に、西の舘と東の舘という説明があった。西の舘は新城舘であるが、東の舘がはっきりしなかったが、それはこの乙森か松森らしいと勝手に思う。


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 本城からの降り口は、乙森から車道になっている西へ向かう道と、直ぐに北に折れる道がある。この写真はその北に折れる道から本城を見ているのだが、この道を降りていくと、松森舘に向かう道がある。


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 もう一つ、南西に降りる道がある。ここから右に折れて降りると、直ぐに北に向かって折れる道になる。そのまま降りると平場に出る。


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 途中に、二重城壁がある。これは、近世になっての修復だ。案内板では以下のように説明する。


天守台下西面二段石垣
 この石垣は、以前から一部が露出していました。平成6年11月、本丸石垣修築復元工事と合わせて発掘調査を実施したところ、全体の姿が確認できました。
 石垣は、斜面上に上・下の二段で構築され、上・下段ともに天端左側の一部分が欠落していました。築石は野面石(自然石)を主体とし、一部荒割石が用いられ、その積み方は古式の「穴太積み」と呼ばれる特徴的な石垣です。大小の石材をレンガをねかせるように横積みし、数石しか横目地の通らないいわゆる「布積み崩し」の積み方です。
 上段石垣:基底部幅約9.6m天端部幅約8.8m高さ約3.5mノリ長約4.3m勾配約7分1里(約55度)
 下段石垣:基底部幅約11.3m天端部幅約9.9m高さ約3.9mノリ長約4.5m勾配約5分8里(約60度)

 上段と下段の間には、幅約1.6mの犬走り状のテラスで構成されています。
 天守台を意識して築かれた、二本松城最古の石垣です。


 その道を降りると、井戸のある平場になる。ここは権現広場である可能性のことである。この平場は、搦め手門の西につながる平場でもある。
 ここから、西に向かって降りていく道があるが、散策してみると、ここが大手からの道と想像できなくもないと勝手に思ってしまう。

 本丸部分は、近世にはほとんど機能していなかった訳だが、象徴とするための修復が行われたり、地形的な弱点である西側に大隣寺・龍泉寺を配置したりして、防御力を補う体裁を整えたりしているようだ。
by shingen1948 | 2008-08-04 05:16 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 二本松城址は、山城部分と平城部分があって全体像がつかみ難い。特に、中世からの歴史を持つ山城部分についての説明が少ない。
 これは、この城が戊辰戦争による悲惨な落城が有名で、その中心は近世になって開発された山麓の平城部分の物語が中心にイメージされていることもあるだろうと思う。
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 散策でこの山城のイメージを確認するのに、南側から本城に向ってみる。山城としてはこちら側が防御的には弱いということになるのだろうが、その分、散策しやすいということでもある。

道路のなかほどに、登り口がある。



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  そこを登っていくと、すぐ搦手門にたどりつく。


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城の正面を大手門というのに対して、裏手の門ということだ。案内板の説明によると、平成13年の調査で、現存する礎石のやや南側に、掘立柱の冠木門が見つかり、これは蒲生時代の門であると推定しているようだ。現存する礎石は、寛永初期に加藤氏が据えた門跡で、当時のままとのことだ。この門は、高麗門であった可能性が高いとしている。この建て替え時に、両側に門台石坦が築かれたという。

二本松城址「搦手門」
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この場所は近世の搦手門があった場所です。城の正面を大手と呼ぶのに対して、裏手を搦手と呼びます。
 平成13年度発掘調査の結果、新旧2時期の門跡が確認されました。
 第一期は掘立柱の冠木門(冠木と呼ぶ横木を2本の門柱の上方につらぬき渡してある門で、屋根はない。)で、現存する礎石のやや南側で発見されました。直径30㎝ほどの柱の根元が現存しており、栗材と鑑定されました。この柱根は、保存処理が施され当市歴史資料館で保存・展示されています。なお、近世以前の様子を描いた絵図「会津郡二本松城之図」では、屋根のある門が描かれています。
 第二期は、現存する礎石の時期で、この礎石は据えられた当時のまま残されいることが確認されました。柱間は3.2mあり、扉のためのホゾといわれる穴があることから、一枚約1.4mの扉の付く高麗門である可能性が高いと考えられます。両側には門台石垣が築かれ、その石積み様式から寛永初期の門跡であることがわかりました。
これらのことから、蒲生氏時代に掘立柱であった門を、加藤氏が石材を用いて整備したことが明らかとなりました。
 平成19年3月
 二本松市教育委員会



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 この搦手門から左に折れて、階段を登れば本城である。
 そのまま進めば、新城館につながる。

この搦手だが、中世ではこちら側に大手があったのではないかと想像する人もいるようだ。それは、新城館と反対側に進み、西に降りていく道を想定しているようだ。確認はしていないが、自然であり、あり得ないことではないとも思う。
by shingen1948 | 2008-08-03 04:11 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)