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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

タグ:二本松 ( 67 ) タグの人気記事

 先の散策のうち、「二本松少年隊の悲劇」にかかわる大壇口の戦闘を中心にして、供中口の戦闘についてふれた。その先の戊辰の役にかかわる二本松市内の散歩は、二本松観光協会の案内に基づいて歩いたものだ。そのWav版は現在消えているようだが、その底本は、恐らく「二本松少年隊(二本松少年隊顕彰会編)」なのだろうと思う。
 この時点の状況を確かめると、守山、三春の2藩が戦わずして降伏し、西軍はその三春から二手に分かれ二本松に迫る。その一隊が、本宮に進んでこれを破り本道から大壇口に迫ったが、もう一隊が、三春藩が案内して、小浜から二本松の東の入り口供中口に迫る。そういう状況だったようだ。
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 先に「上之内(城之内)古戦場~白沢村糠沢」を整理した戦闘が、二本松に迫る2日前で、大壇口戦闘準備と同じ日だ。どちらの隊との戦闘だったかは分からないが、本宮戦争最大の激戦地であったとのことだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6484707/
 城之内は二本松領であったため、多くの二本松藩士が出陣していた。城之内の名主宅を本陣として樽井隊2個小隊が守っていたという。
 明け方薩摩軍数百名による一斉射撃の奇襲を受けて、二本松兵は即刻応戦したが、寸時に破れてしまったという。二本松兵は、和田・西荒井・平石・大平などを経て城下に逃れたが、130名中、生存者は僅か17名であったとのことだ。
 この中に、武藤定助(15)、田中三治(16)、岩本清次郎(17)、中村久次郎(17)が参戦していたとのことだ。岩本・中村は木村門下生とのこと。
 小心者で、奥までいくと軍卒合葬塔があるとのことだが、農家の脇を左に入るということで、確かめは出来なかったが、東軍の骸は地域住民が葬っているとのことだ。
 こちらは、合併で本宮市に編入されたので、現況がどうなっているかは分からない。

 二手に分かれ二本松に迫った西軍は、三春藩が案内で小浜から供中口に迫った隊が先に到着するようだ。とりあえず今目にしている「明治戊辰七十年を記念して(福島県師範学校)」の「二本松少年隊(長沢きよ)」で大壇口の描写を確認する。
 少年たちが「杉の間に大砲を据え、身を隠すため枠木を打ち込んで横に丸太を渡し、畳2枚ずつ並べて縄で括りつけて準備した」のが27日で、戦闘の2日前とのことで、白沢村糠沢戦闘の日のようだ。
 29日の大壇口の描写には、「29日は邊も見えない程深い霧である。遥か供中口の方に砲弾が聞こえたが間もなく止んだ」とあり、その後に大壇口の戦闘が描写される。

 「二本松少年隊(長沢きよ)」で確認できることがもう一つあった。それが、「二勇士の碑」建立の経緯だ。
 当時の敵将、後の野津大将が、明治31年の演習で御出になった時昔を偲ばれ、大壇口戦争で死んだ青山、山岡の二人の勇士のために「二勇士戦死之処」と題する記念碑を建てられたことから少年隊のこともおいおい知られるようになり、昭和5年10月には大壇口に「少年隊優戦記念碑」が建てられてその名を不朽ならしめるとになったのである。
 散策当時の二本松観光協会の案内板には、ここの記念碑について以下のような説明があった。
 ここには少年隊と二勇士の碑があり、当時西軍の隊長野津道貫の歌碑「うつ人も うたるる人もあわれなり ともにみくにの民とおもえば」と、陸軍大将従二位木越安綱の歌碑「色かへぬ 松間の桜散りぬとも 香りは千代に残りけるかな」がある。
 この「二勇士戦死之処」にかかわる風景は、勝者のゆとりある思い出話がもとになっているということのようだ。
by shingen1948 | 2013-06-21 11:48 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 二本松藩の主力は白河城攻防戦に出動し、敗戦濃くその後退時の明治元年(1868)5月には、板垣退助の率いる支隊が、棚倉・三春を攻略して、奥州街道に入り本宮を占領し、二本松本隊の帰路を遮断している。
 霞ヶ城に残るものは、老幼婦女子と藩主側に侍するわずかの老臣のみの状態で、7月29日には、大壇口で敵の襲来必至の情報に、緊張して警戒にあたる中、未明に本宮を出発した西軍は、奥州街道を北進し、二本松軍の陣地に接触し攻撃を開始した。
 その大壇口での戦いは、「大壇口古戦場を訪ねる」で整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/5755201/
 少年たちは古畳で胸壁を築き、銃や大砲で応戦したが、稚拙な武器では、たとえ大人であっても勝算はなかった。大壇口の激戦は二時間ばかりで破れ、隊長木村銃太郎は戦死、退却した少年たちも多くが傷つき、命を落としている。
 安達が原の「供中口(ぐちゅうぐち)古戦場」の後方である愛宕山に出陣した少年もいたようで、供中口古戦場を「安達が原の『供中口(ぐちゅうぐち)古戦場』」として整理し、その後方の愛宕山に出陣した少年を「小沢幾弥戦死と供中口の戦いの関連」として整理した。
 〇 安達が原の「供中口(ぐちゅうぐち)古戦場」
 http://kazenoshin.exblog.jp/5701399/
 〇 小沢幾弥戦死と供中口の戦いの関連
 http://kazenoshin.exblog.jp/5787720/
 これとかかわって、「大壇口古戦場は、二勇士の奮戦の地でもある」として、命を張って少年達を後退させようとする若者にふれたが、これは、スポットライトを浴びるのは少年達だが、それを支えた若者がいたというただのよそ見好きとしてだったと思う。
 http://kazenoshin.exblog.jp/5759633/
 このあたりを整理している時は、会津に負けない悲劇性に注目するのはどこか違うと思いがあった。しかし、何かが違うと思いつつも、何が違うかが明確でなかった。散策としては、悲劇性に注目した地を歩いている。

 今回ドラマとのかかわりで見直すと、少年たちの応戦が銃や大砲であることに注目すべきかなと思う。実際の兵器は旧式だが、それは大人側がかかわることで、重要なのは、幼さが先進性を素直に受け入れられる要素である事、そして、その先進性をもたらしたのが、大壇口で少年たちの命を守ろうとした若者たちだったという構図だ。
 ※ 記事を見直してみたら、慶応4年と明治元年が混在している。大意はなく、慶応4年9月8日から明治に改元に沿って記述したり、「慶応4年をもって明治元年とする」ということで、旧暦1月1日に遡って明治元年とするということに沿って記述したりしているだけだ。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第24話「二本松少年隊の悲劇」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_24.html
 第24話 「二本松少年隊の悲劇」
八重(綾瀬はるか)がかつて尚之助(長谷川博己)と共に訪ねた二本松領内が、新政府軍によって侵攻された。旅の途中で八重たちと交流した二本松少年隊も出陣したが、多くの少年兵たちが新政府軍の銃弾に撃ち抜かれ敗走する。深手を負った少年兵たちは八重が救護にあたる会津の日新館へと運ばれるが、懸命の手当てもむなしく息を引き取っていく。
 その後も会津は苦戦を強いられていた。白河口の総督として尽力していた頼母(西田敏行)は、容保(綾野剛)に再び恭順を主張するが受け入れられず、白河口総督の任を解かれる。
 会津城下に戦火が迫るなか、京都では覚馬(西島秀俊)が新国家への意見書を書きあげていた。
by shingen1948 | 2013-06-20 07:01 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 子規は、南杉田の遠藤翁を訪ねた後、子規は紹介された宗匠を訪ねていないとした。この時に少し気になっていのが、次の福島で小川太甫を訪ねたとする資料があることだった。そのことについて、「福島市史」資料Ⅶにこの事についてふれている箇所があるのをみつけた。
 「はて知らずの記」に「福島の某屋に投ず。亭主太甫氏俳譜を能くす。」とあるその太甫氏を、地元資料で確認したということらしい。それで、この某屋亭主太甫氏が、旧派俳句をよくした小川太甫氏という方だということ分かったっということらしい。ただ、それ以上を知るすべはもうできないとも。その地元資料についてもふれてはいない。
 少なくとも、この方は紹介されて訪ねた宗匠ではないのではないかと思われる。宿泊した主人が俳譜を能くした方だったという関係性とみてよいのだろうと思う。

 子規は、黒塚を訪ねた後も地元の方との交流は続く。この方々の関係性と同質のものだと思われる。
 子規は、黒塚を訪ねた後、橋本の茶屋で休む。「はて知らずの記」でも、その主人が俳句をたしなむ方であるようには描いているが、「正岡子規の福島俳句紀行」では、より詳しく紹介されていた。 それによると、この方は、二本松町根岸の方で、油屋を営んでいたが、店をたたんで粗末な茶屋を開いた方とのことだ。
 その方との俳句談義の中で、矢張り俳諧に造詣の深い油井根岸の櫛見青山という方が紹介されたとのことだ。子規が満福寺を訪ねたのは、その方の紹介とのことだ。
 満福寺の住職蓮阿という方は、当時67歳で連歌を好み、子規と出会って翌年にはなくなられたとのことだ。子規は、この方と縁台を庭に広げて語り合ったとか。

 ここで確認したかったのは、紹介された宗匠を訪ね歩くのは、南杉田の遠藤翁までということだ。
 その後訪ねる方も、確かに旧派の俳句などをたしなむという事ではある。しかし、それ以降の方々は、旅での偶然の出会いの中で深められた交流ということだ。
 紹介された宗匠ということとの違いは、宗匠という権威とは遠ざかるということだ。日常の素養として旧派の俳句に親しんでいた方々ということだ。
 福島の某屋の亭主太甫氏との出会いは、この交流の延長線上にある。したがって、この方についての資料が乏しいのは当然の事なのかもしれない。

 子規は、紹介状で出会った地域の有力者、地域の著名人、俳句に長じた方との交流より、普通に生活している名も知らぬ方との出会いが、心に響きはじめているようだ。
 この本宮駅から二本松駅までのフレームで、旅での交流のあり方が見えてきたということのようだ。後で明らかになる旧派宗匠を否定的にみる見方は、この辺りで確立されたように思えてくる。
by shingen1948 | 2010-12-26 05:42 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 鬼伝説の鬼婆を埋めた塚が、「黒塚」と呼ばれている。芭蕉も、それを追う子規も鬼の住家とされる観世寺を訪れる前に黒塚を訪れている。
 杉田から奥州街道を進んだ子規は、「二本松の町を過ぎて、野を行くこと半里、阿武隈川を渡れば、道筋に老杉がある。」ということだ。
 この野は、最近もここを通ったが、阿武隈川改修工事が進行中で、その風景は大きく変わっている。
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 阿武隈川を渡るのは、芭蕉は「供中の渡し」だが、子規は「供中橋」だ。その橋のたもとには茶屋があって、帰りに子規はこの茶屋で休んで、その主人に紹介されて満福寺へ向かうことになる。
 散策で、以前橋が架かっていたところとその橋げた跡を確認している。この時は、芭蕉の「供中の渡し」を想像しているので、そのずれを漠然とみていた。しかし、子規を意識すると、その橋を渡ってくることになるので、その橋も気になる。
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 絵葉書などを見ると、この橋は子規の時代は木製の橋だったようだ。散策で確認した橋げた跡は、その後の堤防工事があって、その後に造られたものではないかと想像する。
 その橋げた跡の脇道あたりをもっと先に進んで、その奥の川岸から阿武隈川を渡ったのではないかと想像する。位置的には、現在の安達橋よりも南側であろうと思う。
 そして、更にその脇辺りに、渡しへの路があったのだろうと想像する。芭蕉の足跡を再掲する。
 二本松の町、奥方ノはづれニ亀ガヒ(亀谷)ト云町有。ソレヨリ右之方ヘ切レ、右ハ田、左ハ山ギワヲ通リテ壱リ程行テ、供中ノ渡ト云テ、アブクマヲ越舟渡し有リ。その向ニ黒塚有。(中略)それヨリ又、右ノ渡ヲ跡ヘ越、舟着ノ岸ヨリ細道ヲつたひ、村之内ヘかゝり、福岡村ト云所ヨリ二本松ノ方ヘ本道ヘ出ル。(随行日記)

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 川を渡った後の風景だが、「その老杉の下に「黒塚」という碑を建てて、兼盛の歌を刻む」ということでは、今も子規が見たそのままの風景だと思う。ただ、ここが、後ろに写る新たな堤防の内側になり、周りが整備されるという事で、その雰囲気は随分違うようだ。


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 子規は、塚の老杉の木末も、枝の先も大方枯れ残っていて、鬼女の爪のようだと描写する。
 「兼盛の歌を刻む」と紹介するのは、その昔、平兼盛が詠んだ「みちのくの安達ケ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」(拾遺和歌集)の句。
by shingen1948 | 2010-12-01 05:23 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 芭蕉翁が切り取った「奥の細道」のフレームがある。子規は、そのフレームをもとに、汽車を使って子規なりのフレームを重ねとっている。
 その福島から桑折までのフレームについて確認してみたところだが、この前のフレームが、本宮から二本松までになる。

 芭蕉の「奥の細道」では、浅香から黒塚、そして福島宿は、点の描写でとばしている。この描写を忠実に追うということであれば、郡山から二本松までとばせるはずだが、子規は本宮駅から歩き始め、ここを2日かけて歩いている。
 22日に本宮駅に降りた子規は、遠藤菓翁を訪問して一泊する。そして、23日に黒塚を訪ね、阿武隈川河畔の茶屋で休み、満福寺を訪れている。
 このフレームでは、芭蕉翁が訪ねた処という視点と、人との交流という2つの視点があるように感じている。
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 芭蕉が訪れた黒塚ということでは、先に「芭蕉の足跡:黒塚を訪ねる」として整理している。子規もここを訪ねたということでしかないが、この整理時には子規を意識していなかった。


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 子規もまた、黒塚を訪れた後、鬼の住家と聞いて観世寺を訪れている。
 我々と同じように、若干の賽銭を投じて境内を案内されて、縁起の説明などを受けているようだ。
 「奥の細道」では、ここは「黒塚の岩屋一見し」と表現されるだけだが、子規は「安達ケ原 鬼婆」の伝説まで描写している。
 各石に丁寧な案内板が建ち、よく分かるのだが、昔のようにその雰囲気を感じたり、味わったりはできにくくなっている。


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 子規は、その場の雰囲気を味わいながら次の三句を記す。

木下闇あゝら涼しやおそろしや
黒塚や傘にむらがる夏の蜂
涼しさや聞けば昔は鬼の家


 その中の「涼しさや聞けば昔は鬼の家」が、子規の句碑として建立される。


 子規が訪れたことを視点に、整理しなおしてみた。 
by shingen1948 | 2010-11-30 05:35 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)

安江繁家⑭

 人物を追っていると、感情移入して気になることが出てくる。その一つが、石栗氏と安江氏は、同じような経歴なのに、この地域の歴史の話に登場するのは石栗氏の登場が多いことだ。それに伴って、その経歴も検索に少しかかりるのが多い気がする。

 石栗将監氏は、二本松の芦立城の城主というのは明らかなようだが、その二本松の芦立城が手持ちの資料では見つからない。
 それで、いろいろ検索すると「天地人講座」がかかった。   
 小山の家康と会津の景勝、そして、浅香城の直江兼続という構図の中で、兼続が指揮した城名として、次のように登場する。
 「兼続は、中通りにあって若松城・福島城・二本松芦立城・長沼城を指揮する。」
 この書状の高橋氏の具体的な説明を確かめると「兼続は、若松城、福島城、長沼城を指揮し、「二本松芦立城将」を指揮する(資料纂集歴代古案)」とある。
 このことと、大玉村史で二本松の城将を確認するのに使用したと思われる文書とその説明を重ね合わせると、ここで守りたかったのは二本松芦立城ではなく、守りたかった要の城は、二本松城でなかったかと想像できる。
 ここからは素人の想像だが、他の城将達は、作戦上他の地に出ていて、実際に中心となって守っていたのが、二本松芦立城将である石栗将監長広だったという構図ではないかなと思えてくる。
 これも、素人の感覚だが、安達地区の資料の読み違いが無ければ、直江兼続が指揮したという浅香城は、実際の城代と城将が別で、この城将は、二本松城に居城していたのではないかなあと思える。
 これらの事情と、二本松の東城と西城が会津詰めが無かったという説明が、何となく分かったような気がする。

 しかし、散歩人の段階では、検索に石栗氏の経歴はかかるものの、具体的な二本松芦立城はよく分からないという点では、安江氏とさほど変わらないとも思えてくる。
by shingen1948 | 2010-08-05 06:21 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)

安江繁家⑪

 安江繁家を頭に置いて、安達地区の旧町村史を確認しても、そのほとんどの基礎資料は上杉文書との照らし合わせらしい。その中で、ご当地ならではの情報の拾い方だと感じたものを整理しておく。
 その一つが、12日ごとに若松への勤番制。具体的に、東塩松が6番で、西塩松7番であることや、二本松城の方は、西城関係も東城関係もその役割が無かったなどという風な拾いをする。読んでいて結構楽しい。こういった情報の収集は、当地域の上杉統治がたった3年間という短期間であり、その時代を明らかにしたいという思いが為せるオリジナルな観点だと思えた。そのための各街道の整備という新たな意識が呼び覚まされた。
 もう一つが、伝馬制の情報だ。景勝は若松に入部すると直ぐに、春日元忠に領内伝馬制を設けるようにさせたという。慶長3年(1598)蒲生重臣の米沢城代を上杉伝馬制で那須に送り届けたということも紹介する。
 今まで、宿場を訪ね歩いても、その時間経緯による変遷を意図していなかった。それが、二本柳宿が、伝統的にあった宿場に新たに加わり、本宮宿が変化するということが、杉田宿、日和田宿開設等々の変化となっているらしい。大部分の変化は、ご当地の蒲生時代になるわけだが、そのスタートは上杉氏とのかかわりだったということだ。
 本宮宿についても、二本柳宿から始まった安達のこの街道の変遷の資料も充実しているようだ。散歩人にとっては、このことが上杉氏の仕事として意識できる情報だったという点で、オリジナルな情報だった。

 信達の松川合戦の時代、安江氏・石栗氏は仙道だが、このことは福島の情報の中で確認したい。
by shingen1948 | 2010-08-02 05:52 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)

安江繁家⑦

 ここで、散歩人として気になるのは、二本松東城と二本松西城、塩ノ松東城・塩ノ松西城ってどこだろうということになるのだが、なかなか教えてくれる資料にぶつからなかった。
 「東和町史」が、これにふれていた。ただ、確実性がありそうなのは、二本松東城と二本松西城の話。肝心な塩ノ松東城・塩ノ松西城の方は、推測話でしかなさそうだった。
 安達地区でとらえるいわゆる蒲生後期の資料に、二本松東城と二本松西城統合の文書があるらしい。それを根拠に、現二本松城の東西を分けた城ということが分かるとする。
 二本松西城は、いわゆる「新城舘」であり、ここは先にその意識も持って散歩し、「二本松城址「新城舘」」として整理している。ただし、その感覚は、安達地区の方々と同じように、上杉時代も含めて一括して蒲生時代ととらえている。案内板も、「二本松城が会津の支城であった時代、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていた時期がありました。慶長6年(1601)~寛永4年(1627)会津領主蒲生秀行・忠郷のとき」と説明している。
 二本松東城は、いわゆる「松森舘」のつもりで散歩して「二本松城址⑥~松森舘へ」として整理しているが、どこか自信が持てないまま整理している。
 
 二本松城址の散歩は、先に整理しているが、中心は伊達氏に対峙する畠山氏とその家臣群をイメージしていた。その中で、慶長期(1596~1614)・蒲生時代という案内がついた石垣、井戸や寺(ここを散歩している時は畠山氏も意識している)、門などに接しているという感じだ。
 多分、二本松少年隊のスポットライトが眩しくて見えにくいだろうが、慶長期・蒲生時代という案内を、「天地人」の頃と読み替えて、このあたりをもう一度散歩し直してみたいとも思う。
by shingen1948 | 2010-07-29 05:03 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)

 この遺跡の遺物がどこにあるのかを、案内板では説明していない。

 考古学的な遺跡は、ただの丘や藪でしかないことが多い。散策する者にとって、そこに立って見ただけでは、実感が湧かない。
 楽しむには、遺跡の場所を訪ねて環境を実感することを積み重ねることも大切だ。似たような近くの遺跡の実感を付け加えることで、実感が深まる。
 遺跡の一つ一つの情報が微妙に違い、それを足してイメージするとこで、徐々に実感に厚みが増すのだ。
 これに、遺物や再現された展示がここに加われば、実感は更に一気に厚みが増す。
 訪ねた遺跡と重ねてイメージすることで、当時の生活が実感できたような錯覚を起こすことができるのだ。
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 昨年秋に県立博物館に行って、塩沢上原A遺跡の遺物を確かめながら見学している時に、田地ケ岡遺跡の遺物も見た。縄文時代の県内の遺物を展示している中の一つとしての展示だ゜った。
 恐らく、昭和46年に東北自動車道建設に伴う発掘調査の際に出土した野外埋設土器7基のうちのどれかだろうと推定する。

 
 それに比べ、塩沢上原A遺跡の遺物は、県立博物館の縄文時代の主要な展示物の一つだ。
 昨年の秋に確かめてきたのだが、そのままになっていた。これを機会に整理しておくことにする。
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 県立博物館の縄文遺跡復元展示住居は、塩沢上原A遺跡の2回目の調査で発見された丘の南側にあった典型的な複式炉の1基を切り取って復元されたものだ。


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 この住居に、縄文時代の生活ぶりの復元を重ねて展示している。
 塩沢上原A遺跡の人々の生活をイメージするとともに、田地ケ岡遺跡の人々の生活も同じようにイメージする。


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 県立博物館では、県内各地の縄文時代の石器や土器が展示されている。


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 その中から、塩沢上原A遺跡から発掘された土器と石器の写真を拾って貼り付けておく。


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 これらは、塩沢上原A遺跡の遺物ではあるが、……、


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 散策人の程度なら、田地ケ岡遺跡もおおよそ似たような遺跡と類推していいと思っている。


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 そう思うと、想像が膨らむ。


 更に、近くの原瀬の縄文遺跡も含めて、安達太良山麓の縄文時代を類推すれば、野外に復元された原瀬の縄文住居もイメージを膨らませる。


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その内部に、博物館の展示の敷物などの想像を膨らませて、……。
by shingen1948 | 2009-04-03 05:50 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)

田地ケ岡遺跡

 先にここを訪ねた時に、縄文遺跡としての視点ではみていなかった。
 改めて案内板で確認をすると、縄文遺跡として以下のように説明している。

 田地ケ岡遺跡
 城館と重複して縄文時代中期後葉(約4000年前頃)の 集落跡が確認されいてます。昭和46年に東北自動車道建設の際に発掘調査が実施され、複式炉を伴う竪穴住居跡23軒小竪穴遺構13基、野外埋設土器7基などが発見されました。調査結果から住居を台地周辺に配し、台地中央部は広場的空間として利用したことが伺われ、当時の集落遺構を知る上で重要な遺構とされています。
このように、当遺構は大変貴重な埋葬文化財であるとともに、特に資料の少ない中世二本松を語る上で欠かすことのできない館跡として、後世に残さねばならない歴史的遺産です。
 平成13年3月
 二本松市教育委員会


 舘跡の説明で、「平坦地の北下2~4㍍の高さで帯郭」とした所が、住居が並んでいたのだろう。
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 これは、学校の裏から西に広がる平場を北西方向に見ているが、「台地中央部は広場的空間として利用したことが伺われ」としている所だ。

 全体構成としては、先に訪ねた塩沢上原A遺跡と同じような集落を想定していると考えられる。
http://kazenoshin.exblog.jp/6893002

 塩沢上原A遺跡は、遺跡の中央部を道路が走るため、この中央部の様子が調査されている。塩沢上原A遺跡の案内板では、そのことを次のように説明している。
 平成7年に県道拡幅工事に伴って台地中央部の調査が行われた。
 袋状土壙7基、土器棺墓2基などが検出されました。土器棺墓 からはヒスイ製の垂玉が出土し、ほかに人面付き土器、船型土製品の出土が注目される。

 この塩沢上原A遺跡は、標高約273㍍の台地上のこの一帯は、現在でも沢山の土器片や石器が散布する縄文時代の大規模な遺跡だが、結論は田地ケ岡遺跡と同じ。
 このことから、この遺跡は竪穴住居跡を台地の縁片部に配置し、中央部は、墓城あるいは祭祀域として区画した、環状の集落配置であることが確認できました。さらに、複式路は2個の土器を用いた規模の大きなもので、複式炉が最も発達した時期の形態で在ることが分かった。


 この塩沢上原A遺跡と田地ケ岡遺跡の違いは、調査の度合いだろうか。
 塩沢上原A遺跡は、昭和46年に東北自動車道車道建設に伴って台地の西端を調査。
 昭和59年には、県立博物館によってる学術調査で台地の南端部を調査。
 そして、平成7年に県道拡幅工事に伴って台地中央部の調査が行われた。

 この田地ケ岡遺跡では、昭和46年の東北自動車道建設に伴う調査のみのようだ。案内板にはないが、校舎建設に伴う調査も多分あったはずだとは思う。
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 逆に考えれば、中央部はほとんど手つかずの状態で縄文遺跡が残っているということだ。
 住居跡があったという台地西端の現況墓地から中央部のベールに包まれた広場を見る。


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 台地西端には、調査で複式炉を伴う竪穴住居跡23軒小竪穴遺構13基、野外埋設土器7基が確認されている。
 塩沢上原A遺跡の同じような状況の場所から発見された竪穴住居20軒 、袋状土壙6基、円筒状土壙4基の成果と比べてそん色のない集落が想像できる。
 台地西端から南側が遠望でき、古代の人々が遠望したであろう景色が想像できるような気分になる。
by shingen1948 | 2009-04-02 05:23 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)